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2025.11.30
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その19

 つぎに
  箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん、非思量、此れ乃ち坐禅の要術な
  り
 と。坐禅というものは口ではいえないものである、という人がある。わたしなども子供の時に、この「不思量底を思量せよ云々」の文句を質問したことがある。いくら講義を聞いてもなかなかわからなかった。わからないはずで不思量底を思量せよというのは、坊主の髪の毛、寝て走れ、茶碗で鼻かめ、ということである。だからわからない和尚さんに聞いても文字だけ教えてくれるが本当のところは口で言えない、という。それでわたしは興奮して、口ではいえぬ、わからぬなど、そんなバカな話はないと、まるまる一週間、考えどうしに考えた。考えたのではんく、考えられされたのである。それで理屈だけは分かったけれども、結局、自分の力にはなんにもなっていなかった。
 わたしの知人に工学士で酒屋の主人で、非常な読書家で仏書もずいぶん読む男がいるが、その男がある時「沢木さん禅というものはどんなものです」と聞くので、ついうっかり「禅というものは口ではいえぬけれどもー」と言ってしまった。そうすると、その男はすごいやつで「沢木さん、口でいえんことは禅ばかりじゃないぞ。酒の場合だって、ある程度までは口でいえるが、それから先は実際につくってみる、そうして失敗しながらだんだん研究して上手になるのだ」と言った。なるほどその通りである。坐禅したことのない者に、坐禅の気持ちを言え、といったってそれはダメである。
 学者というものは、富士山は海抜何千何百何十メートルで、面積がどれだけで、地質がどうの、何がどうのとみな知っておるが、登ったことはない。それはソロバンはじいて、ただ数字で研究して、それを暗記しているだけであって、富士山に登ったことのない人には、その気持ちはわからない。海抜とか地質とかそんなことは知らないでも六根清浄、六根清浄と、実際に登った者にはわかる。これから先が胸突き八丁、うんとこ、さっとこで数なんか覚えておく必要はない。登った者と、登ったことのない者とはそれだけ違う。登った者にはお鉢まわりがどう、吉田口がどう、須走口がどう、大宮口がどうと、登る気持ちも感慨もすべて知っているのである。だから、それがいいあらわせないということはない。気持ちはいいあらわせないということはない。気持ちはいいあらわせるのである。また奈良の大仏にしても子供は「おじさん大仏様を見たことはないか」なんていう。わたしは7,8年奈良で勉強しておったから、奈良は詳しいが、大仏様の寸法はどれだけあるか、と聞かれれば、仕方がないから知らないという。子供は鼻の長さは、口の広さは、眉の寸法は、目の太さはとみな暗記しておって、人を試験している。それで、おれは知らぬ、というと、それでは見たことはないかといえば、見たことはある。実は見過ぎているのだ。だから子供のような数字的な説明の仕方は知らなくても、奈良の大仏さんというのはこんなもので、こうだということは、なんとかいいあらわせるのである。
 坐禅にしてもそうで、箇の思量でなしに、不思量底を思量せよということは、実物をつかまねばならないということである。実物をつかんだら人間は満足するのである。「聞思は猶門外に処するが如し」というが、耳で聞き頭で思うということは、門の外に追って想像するようなものである。例えば四十七士が吉良の屋敷に討ち入りする時、いろいろ苦労する。出入りの米屋に入って見取り図を取ったり、子守にアメ玉をやって旦那の部屋は何畳か聞いて見たり、出入り商人になって侍達の長屋がどこにあって、どこにだれがおってと、どうにも吉良の白髪頭のあり場所がわからぬ。それが聞思である。





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最終更新日  2025.11.30 05:00:08
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