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2025.11.30
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カテゴリ: 坐禅
「臨済録に学ぶ」横田南嶺師

臨済録に学ぶ / 横田 南嶺【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

p.301-306
この講座の終わりに『臨済録』を人生において実践された方々の逸話を紹介してみたいと思います。
一つ目はちょっと古い話ですが、私が非常に好きな話で、『臨済録』の「無位の真人」真の自己に目覚めるという教えが実際に救いになったという具体例です。これは白隠禅師の「年譜六十七歳」というところに出てくる「大橋女を度す」という話です。宝暦年間といいますから十八世紀中頃の話です。
大崎というのは女性の名前です。この方は江戸の武士のお嬢さんでした。父親は家禄千石をいただいているというそこそこの武士だったようですが、事情があって浪人になってしまい、江戸にいられなくなって京都に移りました。娘と弟は両親はどうにか暮していましたが、やがて生活に困窮します。そこでお譲さんは両親に言いました。「こうなったからには私の身を売ってください」と。京都には島原という遊郭がありました。そこに身売りをするというのです。
 しかし両親は元武家ですし、我が娘をそんな苦海に沈めることは死んでもできないと反対しました。しかし、お譲さんは「このままいけば親子四人飢え死にしてしまう。私一人がつらい思いを一時してお金を得れば、お父さんお母さんと弟はどうにか暮していける。やがて私を身請けして救ってくださればいいんです」と説得しました。結局、両親も娘の意見にしたがって、泣く泣く娘の身売りをします。そして娘は大橋という名で、島原の遊郭で暮らすのです。
大橋は親のため、家庭のためと思って決意をして苦海に身を置いたのですが、武家の娘として生まれた自分がどうしてこんな苦海に身を沈めなければならないのかと、自らの運命を恨まないわけにはいきませんでした。毎日毎日「なぜこんなことにならなければいけないのか」と思っていると、その思いが体に悪影響を及ぼしたようでとうとう病気になってしまいました。お医者さんからも見離されてしまうほどの重い病気です。
そのとき、一人の男性が現れました。どうもこの人は禅をやっていたようなのですが、大橋にこんなことを言いました。「あなたの病気は非常に重い。どんなにお金を費やしても治らないかもしれない。しかし、あなたが救われる道が一つあるかもしれない。信じないかもしれないけれども、ほかに手立てはばいからやってみる気はないか」と。大橋は藁をもつかむ気持ちを「その道を教えてください」と男性に頼みました。すると、男性は大橋に次のような禅の問題を与えたのです。
 行住坐臥に見る者何者ぞ、聴く者何者ぞと切々に返観して怠らざるときは仏性忽然として現前せん。

 今、話を聴いている者は何者か。話を聴けば外の情報に振り回される。では、それを聴いている者は何者か。『臨済録』では、耳が聴いているわけではないと言っています。聴いている者が何者なのかは言葉では表現できないけれども、命といえば命というものがあって聴いているのだ、と。強いていえば、本来の自己、本当の自分、命そのものが聴いているのです。
 苦境の身にあると、自分の外の世界、自分の環境、自分の運命しか見えなくなってしまいます。でも、「歩いているとき、止まっているとき、坐っているとき、寝ているとき、日常のすべてにおいて、それを見ている者は何者か、それを聴いている者は何者は何者かと、ひたすら疑って見つめていけ」というのです。そうすれば仏が現前して、あなたは救われるだろうと。
 そう言われた大橋は、道を歩いていたら、「今、歩いている者は何者か」、お手洗いに行ったならば、「今、用を足している者は何者か」というように、ひたすら疑って見つめる工夫をしていきました。すると、だんだん精神がその問題に集中されていきました。
 ある日、夕立があって雷が鳴りました。雷が嫌いな大橋は「ああ、恐ろしい」とぶるぶる震えていましたが、とうとう雷が近くの庭にガラガラドーンと音を立てて落ちました。そのときに大橋はハッと気づきました。「聴いている者は何者かというのはこれだったのか。雷がガラガラガラッと鳴るのを全身全霊で聴いている者がここにいた」と。現実の自分は確かに武家の身でありながら落ちぶれて苦海に身を沈めて毎日こんな暮らしをしなければならない。しかし本来の自己はその中にあって何ら穢れてはいなかったのだと気がついたのでした。
 本来の自己、本来の心、本来の私の命は、傷一つついていないのです。何の穢れもない命そのものが厳然としてここにあったのです。
 映画を見ていると、いろいろな場面が出てきます。それを見て、我々は一喜一憂します。しかしながら、スクリーンそのものには何の傷も埃もついていません。それと同じように、本来の「私」にはなんの穢れもないのです。
 そのことに気がつくと、大橋には恨みの気持ちがなくなりました。想像するに、表情も変わって明るくなっていったのだろうと思います。
 そうすると、人間には良いことが転がり込んできます。ある日、お金を払って大橋を身請けしようという人が現れました。身請けをされて、大橋はその旦那と一緒に幸せに暮らしたというのです。
 大橋は後に白隠禅師に出会います。そのとき、自分の身の上に起こった話をしました。白隠禅師は話を聴いて、「それはまさに禅の目覚めだ。おなたが教わったものはまさしく禅の教えだ」と言いました。大橋という女性は坐禅を習ったわけではありませんし、仏教を習ったわけでもありません。しかし、見たり聴いたりしている者は何者であるかという、この一つのことを疑っているうちに、本来の自己は何一つ穢れもなかったことに気がついて苦海を脱したのです。
 夫婦となった大橋は幸せに暮らしましたが、残念ながらご亭主よりも先に亡くなりました。後に残ったご亭主は、奥さんのために法事を務めました。そのとき白隠禅師はすでにお亡くなりになっていて、一番弟子の東嶺和尚がお参りに行きました。
 お参りに行くと、普通はお位牌を用意しています。今ですと遺影ですが、この時代には写真がありませんからお位牌を用意して、そこでお経を読みます。ところが、その家にはお位牌がなくて、観音様だけが待つ祭ってありました。東嶺和尚は旦那さんに聞きました。

 これが白隠禅師六十七歳のときに出会った遊女大橋の話です。





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最終更新日  2025.11.30 09:06:37


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