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2025.12.03
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その23

 むかし、手車翁という奇人があった。この人は始終コマをまわして子供相手に世を送った人である。コマを回しはじめると、しばらくはそこらじゅうを走り回っているが、やがて一か所にじっととどまって、まわっているか、まわっていないかわからないように澄んでくるが、やがて頭をふりだして、しまいにはがくっと倒れる。手車翁はこのコマをまわしながら人生を見つめていたらしい。人生といっても自分以外の人生をいうのでなく、社会の縮図と言うべき自己内面を見澄まし、一生このコマによってその三昧境を工夫しておたのではなかろうか。つまり自己というものを見つめておったのではなかろうか。そんなことは書いてないが、わずか二、三行の手車翁の伝によっても、そういうことが考えられる。手車翁は、自分の臨終には卒塔婆一本たてて、その下で坐禅を組んで死んでおった。卒塔婆には
  小車のめぐりめぐりて今ここに立てたる卒塔婆これは俺がのじゃ
 と書いてあった。人間の一生はたいしたものではない。しかし、我々はこの人生に生きておる。そうして、人生はコマのように回っておる、それなら、この人生をどう生きたらよいか。それには、いつも現在を取り外してはならぬ、ということである。どんな場合でも、それは射撃の的のように取り外してはならぬのである。そうして建てた卒塔婆はどこであろうとも、永遠の記念塔でなければならぬ。それが手車翁の「俺がのじゃ」である。この卒塔婆の意味は、自分がいまここで本当に腹ごたえのある、ゆきつくところまでゆきついた生活をした、ということである。真剣の工夫というものは、高い悟りを求めることでなく、いまここに本当の自己を見つめ、本当の道を知り、一分も乱れない一歩一歩をふみしめて歩くことである。その姿こそ、佐賀の葉隠武士の山本常朝が歌ったように
  浮世から何里あらうか山桜
 である。浮世からはるかに遠ざかった厳粛さを持って、浮世の中を縦横無尽に働くということが、我々の一番大事なことで、一知半解の悟りではなく、自分たちの足取りで確かめてゆく。こういうことがわたしの説きたい坐禅である。そうして、修すべし求むべからず、このようにして一歩一歩ひきしめてゆくことである。(この項終了)(『禅談』p.339-340)





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最終更新日  2025.12.03 00:00:14


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