全24件 (24件中 1-24件目)
1
トランプ氏が台湾保証実施法案に署名、台湾が謝意 中国反発トランプ米大統領は2日、米国と台湾の公的な交流に関する指針を定期的に見直し、更新することを義務付ける「台湾保証実施法案」に署名した。法案成立を受け、台湾は謝意を表明。中国は不快感を示した。法案は米国務省に対し、台湾との交流に関する指針を少なくとも5年に1度は見直すよう定めている。台湾総統府の報道官は声明で「(この法律は)米国と台湾との交流の価値を再確認し、より緊密な米台関係を支持するものであり、民主主義、自由、人権尊重という共通の価値観を堅持する揺るぎないシンボルだ」と述べた。台湾の林佳龍外交部長(外相)は記者団に、指針の見直しが頻繁になれば、台湾当局者が米連邦機関を訪問して会議を行うことなどが可能になるとの見方を示した。ただ、同法ではその点に明確な言及はない。一方、中国外務省の報道官は、米国と「中国の台湾地域」の間のいかなる公的な接触にも断固として反対すると表明。「台湾問題は中国の核心的利益の中核であり、米中関係で越えてはならない第1のレッドラインだ」と述べた。
2025.12.03

ヘブン「「ワタシ…マルティニーク*ノ…ハマニイル…」」*ラフカディオ・ハーンは1890年に日本へ来る以前、約2年間(1887年〜1889年)、フランス領マルティニーク島に住んでいた。カリブ海に浮かぶ南国の島気温は年間を通して25〜30度青い海、白い砂浜、椰子の木が並ぶリゾート地ハーンはこの島を深く愛し、後年まで「人生で最も楽園だった場所」と語るほどだった。このすばらしいマルティニークは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が住む島でもある。ほとんどあらゆる農園にその農園固有の霊が住んでおり、お化けが住んでいる。そのある者は、最初誰かの空想でそのお化けが生れたその土地以外では全然知られていないが、別のある者は、民謡や民話の種となって、住民たち全員の想像世界のものとなっている。どの岬や頂にも、海岸ぞいのどの村や谷間にも、その土地特有の民間伝承があり、口碑(こうひ)がある。(「亡霊」平川祐弘訳『クレオール物語』平川祐弘編、講談社学術文庫、1991年)ハーンとマルティニーク濱田 明1658 年にフランス人植民の虐殺により島民が絶滅したマルティニークにはサトウキビのプランテーションの労働力としてアフリカから奴隷が送り込まれる。1848年に奴隷制度は廃止されるが、1887年からマルティニークで2年近く過ごしたハーンが著した『仏領西インドの二年間』には、植民者の白人が去った後は黒人が優位となり混血人種は消え去る運命であるとするなど、人種をめぐる考察が散見される。「マルティニーク・スケッチ」は、英語圏の読者向けの文章でありながら、各エピソードのタイトルはフランス語やクレオール語であり、住民への取材を重ねた作品である。荷物運びの女たちをはじめとする独特な風習に富む当時のマルティニークを描く一方、採集した昔話や民話によってノスタルジックなマルティニークも伝える。『ユーマ』の主人公ユーマは、奴隷制社会においても人種の違いを超えて慕われていた乳母(ダー)であった。ユーマは奴隷解放前の混乱の中、暴徒と化した黒人たちが放った火の中、主人の娘の遺児とともに死を選ぶ。 これらの作品は、当時のマルティニークを伝える貴重な記録、文学作品である。また、スケッチと再話などの方法は来日後のハーンは実践しており、マルティニークにおけるハーンの作品は日本の読者にとっても興味深く読めるのではないか〇ハーンが見た、美しいマルティニーク島の風景は、現在は存在しない。彼が島を去ってから13年後の1902年に、同島のプレー火山が大噴火を起こし、火砕流で住民3万人が死亡、街は完全に壊滅してしまった。💛 ハーンの怪談好きは、マルティニークの霊にも触発されているのかも?
2025.12.03

日本、中央アジア5カ国と初の首脳会合へ 資源豊富、中露に近く重視政府は20日にも、カザフスタンなど中央アジア5カ国との首脳会合を東京都内で初開催する調整に入った。5カ国は原油や鉱物資源が豊富で、中露両国に近く地政学上の重要性が高い。個別の首脳会談なども実施する。 ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンと合わせた5カ国はいずれも旧ソ連構成国。米中も中央アジアと接近している。もともとは岸田内閣だった昨年8月にカザフスタンで実施する予定だったが、南海トラフ地震臨時情報の発表を受け、延期していた。
2025.12.03

小谷「ですが、ヘブン先生の授業の方がずっとずっと面白く。なので、1日でも早く戻ってきてほしいと皆」 ヘブン「ニシコオリサン、イマス」 錦織「悪いな、つまらん授業で」 小谷「いつから」 錦織「ずっといたよ」 トキ「小谷さんがいらした時はお手洗いに」 小谷「でも、あの…悪くなかったですよ、久々の錦織先生の授業」 錦織「悪くなかった」ヘブンは襖の向こうから「If I die, don’t be sad. I was just a foreigner passing through」「たとえ死んでも、悲しまないでください。私はただの、通りすがりのただの異人です」(小谷が通訳)トキ「通りすがりの?」
2025.12.03
中国、ウクライナの停戦案を注視…台湾版28項目計画を出す可能性も今後数カ月が台湾安全保障の分岐点ドナルド・トランプ米政権とロシアによるウクライナ停戦案が、中国の台湾統一計画にも影響を及ぼす可能性が指摘されている。米ブルームバーグ通信のカリシュマ・バスワニ・アジア政治コラムニストは1日(現地時間)、米国とロシアがウクライナの停戦を進める中、習近平中国国家主席が台湾統一という長年の目標を具体化しつつあるとの見方を示した。バスワニ氏は「中国は、ウクライナに対するトランプ政権とロシアの未完成の和平案から教訓を得ている」とし「米国が合意のためにどこまで踏み込むのか、ロシアにどれほど譲歩するのかを注視している」と指摘した。さらに「米国の姿勢が曖昧になり、習主席の意図が露骨になるほど、台湾の状況は危険度を増す」と述べ「今後数カ月が台湾の安全保障にとって決定的になり得る」と強調した。米国とロシアは、28項目からなるウクライナ停戦案を押し進めている。内容は、ウクライナが安全保障の提供を受ける代わりに、東部ドンバス地域の完全放棄と北大西洋条約機構(NATO)加盟の断念を受け入れるというものが柱とされる。中国は「一つの中国」原則に基づき、台湾を不可分の領土の一部と位置付けている。習主席は人民解放軍創建100周年となる2027年までに、必要な場合には台湾を武力で占領できる体制を整えるよう指示している。オーストラリア陸軍の退役将官であるミック・ライアン氏(ローウィー研究所 国際安全保障プログラム上級研究員)は、中国が米国とロシアのウクライナ停戦案にならい、台湾に対する独自の計画を準備する可能性があるとの見方を示した。ライアン氏は「習主席は軍事力を行使せずに台湾を掌握することを望んでいる」とし「中国共産党がトランプ政権に対し、台湾に関する28項目の計画を秘密裏に、または公に提示する可能性もある」と述べた。トランプ大統領は10月末、習主席との首脳会談で米中貿易戦争に終止符を打ち、対中関係の改善を加速させる構えを見せている。これと同時に、習主席は台湾統一に関する発言を以前よりもはるかに大胆に展開している。中国は高市早苗総理による「台湾有事への関与」発言を受け、日本への制裁を強化し始めた。日本はアジア地域における米国最大の同盟国であり、中国がトランプ政権の地域関与の意思を試そうとしているとの分析が出ている。
2025.12.03
日本は中国人観光客への依存から脱しつつある―仏メディア仏国際放送局ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語版は11月30日、日本や台湾の報道を基に、「中国人観光客が激減しているが、日本の観光業全体への影響は限定的」と報じた。高市早苗首相の台湾有事をめぐる発言に反発する中国は、自国民らに対して日本への渡航や留学を控えるよう呼び掛けている。記事は、この措置の影響が顕著なのは関西だとし、現地の約20軒のホテルで、今年12月末までで中国人旅行者の予約のキャンセルが50~70%に達していると説明。業界関係者からは「短期的な影響は避けられない」との予測が出ていると伝えた。また、中国人観光客の減少に伴い、東京、大阪、京都などの大都市のホテルの宿泊料金は下落し始めているとした上で、専門家の「大都市ではオーバーツーリズムが緩和される可能性があり、それにより国内の旅行者の需要が高まると予想されるが、春節(旧正月)の中国人観光客の訪日の穴を埋めるまでにはならない」との見方を紹介した。一方で、記事は「日本は中国人観光客への依存から徐々に脱しつつある」とも言及した。日本政府観光局の統計では、今年1~10月の訪日外国人客数は3554万人に達し、そのうち中国人は23%と依然として最大ではあるものの、その割合は徐々に低下していると指摘。逆に韓国人、台湾人、米国人など13の国と地域からの訪日客数はいずれも過去最多を更新し、中東からの訪日客は前年同月比33.8%増、ドイツ人は29.2%増と大きく伸びていることを伝えた。また、東京・浅草は依然として多くの観光客でにぎわっており、飲食店や人力車などでは中国人観光客の減少を実感しているものの、「売り上げ自体は大きく下がっていないない」と紹介。ホテルなど宿泊施設も「中国人客のキャンセルはあるが、すぐに米国やオーストラリアのお客さんから予約が入る」としており、危機的な状況ではないとしたほか、東京の他の地域ではさらに影響が少なく、日本の観光業全体で見た時に影響は限定的と報じている
2025.12.03
是枝裕和監督がアニメ映画版興収20億超「ルックバック」映画化、藤本タツキ氏作品実写化は初12/3(水) 是枝裕和監督(63)が、24年にアニメ映画化され興行収入(興収)20億4000万円を記録した、藤本タツキ氏(33)の漫画「ルックバック」を脚本・編集も担当し実写映画化することが2日、分かった。興収92億8000万円を突破した「レゼ篇」原作の「チェンソーマン」含め、同氏の作品の実写化は初めて。秋田県にかほ市を中心に四季を通じて行った撮影を終え、編集作業に入っており26年に公開。韓国・台湾での公開も決定し、全世界公開に向けて準備を進めている。 「ルックバック」は、藤本氏が21年に「少年ジャンプ+」(集英社)で発表した読み切り漫画。学年新聞で4コマ漫画を連載し、クラスメートから絶賛を受ける小学4年生の藤野が、先生から突然、不登校の同級生・京本の4コマ漫画を掲載したいと告げられ、その存在を知り画力の高さに驚く。その後、ともに漫画を描き始め、ひたむきな思いを貫く2人の成長を追いながら、ある日に起きた全てを打ち砕く衝撃的な出来事を描く。胸を突き刺す青春物語が多くの感動を呼んだ。 是枝監督が「ルックバック」と出会ったのは偶然だった。「京都からの新幹線の帰り、品川駅の本屋に平積みされていた表紙の『背中』に引かれて、思わず手に取ったのが、『ルックバック』との出会いでした。その晩、一気に読みました」と当時を振り返った。「漫画と映画でジャンルは違いますが、同じ作り手として、覚悟が切実に伝わってくる作品で、きっと藤本タツキさんはこの作品を描かないと先に進めなかったのだろうなと、そんな気持ちが痛いほど伝わってきました」と深く共感したという。「自分にとっては、『誰も知らない』がそんな作品でした」と、柳楽優弥がカンヌ映画祭(フランス)で日本人初の男優賞を受賞した、自身の04年の代表作の1つと重ねた。 是枝監督を藤本氏とつなげたのは「学生の頃に受けていた授業の先生として出会い、教室の席からその背中をみつめていました」と口にする、企画の小出大樹プロデューサーだった。原作を「ジャンプ+で公開された日に何度も読み返しました。衝撃でした。すごいものを読んでしまったと思いました」と愛し、同氏にあいさつした。その際に「藤本さんに読んだ直後の感想を伝えたいと思っていたのですが、ぼくは、間際になって、この漫画を、是枝監督による実写映画にさせていただけないかと伝えたいと思っていることに気がつきました」と同監督による映画化を考えたという。 小出プロデューサーは「『誰も知らない』で、1年をかけて四季をめぐりながら子どもたちの成長を撮影したこと、『海街diary』(15年)や『奇跡』(11年)で、子役の方に台本を渡さずにセリフを口伝えで演出されたことなど、これまで見聞きした話が思い出されました」と、是枝監督の映画作りを脳内で顧みたと振り返った。そして「なによりも、『誰も知らない』を観た際に抱いた強い感情が呼び起こされ、考えれば考えるほど、この実写映画化に際しては、是枝監督しかいないのではないかと思い、お声がけしました」と語った。 是枝監督は「小出プロデューサーから『ルックバック』を実写映画に、という誘いを受け、藤本さんにお会いする機会をいただきました」と、藤本氏と対面したと明かした。「まずは、このような作品を世に産み落としていただいたこと、その作品に同時代に出会うことができたことへの感謝をお伝えできればと思っていたのですが、その帰り道、『やらないわけにはいかない』と覚悟を決めたことを覚えています」と、対面したその日に実写化映画を決意したと明かした。 藤本氏は「是枝監督作品で初めて見たのは『海街diary』です。主人公が新しく住む事になる家の中や、町の食堂の中の家具などがとても生活感があって物語に説得力を持たせるものになっていました」と、是枝監督が吉田秋生氏の漫画を実写化した「海街diary」を見た印象を語った。そして「物語に関わらない細かい演技なども、キャラクターが日々、僕達の見えない所で生きていると思わせるもので感動しました。是枝監督がルックバックを撮ってくれるなら僕はもう何も言う事はないです。楽しみにしています!」と期待を寄せた。 アニメ映画版は、原作の再現度の高さと、ディティールを高め、映像として動きのあるアニメで表現の幅を広げたところで圧倒的な支持と評価を得た。一方で、原作が読み切りの短編のため、全体の尺が58分しかない短編となった。キャスト、詳細は今回、明らかになっていないが、実写映画として、どのようなものになるか注目だ。是枝監督は「撮影は終了し、現在、編集中ではありますが、とても豊かなものが映し出される作品になるのではないかと思います」と手応えを口にした。
2025.12.03
32「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著256~257ページ 藤三郎が、明治37年(1904年)春から小名木川の屋敷内に試験工場を設けて行っていた実験は、3年の月日と14万円の費用と、直接醤油醸造についての発明だけでも22件の特許を得て、翌々明治39年(1906年)8月に前記のような好結果を得て完成した。それは、何か特別な薬品を用いて、化学的に合成醤油を速製するのではなくて、新しいくふうによって醤油菌の発酵を促進して、物理的に醤油の醸造を促成する方法であったから、従来の醤油と品質も栄養価も、そう違うはずはない。しかも、その製品は、前にも述べたように、東京市内の有名料理店で試用の結果も、在来の一流品と比べて、決して劣らないという折紙をつけられた。たハワイのような熱帯地方でもカビないので、外国へ輸出の見込も十分についた。そこで、いよいよ本式に事業化することに決心した。当時、藤三郎は、日本精製糖会社を辞すと同時に、自分の持株を全部処分したので、かなり莫大な現金を持っていた。 ※日光市今市の報徳二宮神社に鈴木藤三郎が奉納した2,500冊に及ぶ報徳全書は、20人の書生を雇い、3年近くの年月を書けて9千巻余りの二宮尊徳の日記、書簡、仕法書類を謄写させた大事業であった。鈴木藤三郎が一人でその莫大な費用をまかなった。その費用の出所は実にこの日本精製糖会社の持株を全部処分したものであったように思われる。「報徳道研修 いまいち一円会 通信第152号」には、安西悠子さんの「金次郎の妻『岡田なみ』について」が連載中であり、そこに「静岡の報徳社員、鈴木藤三郎は、金次郎の遺徳を追慕し、明治39年(1906年)1月から同41年(1906年)1月から同41年(1908年)11月までかかって、相馬中村にて筆写事業を行った。金次郎の遺著を永久に保存し、教義の研究に資せんとした。それは、約9,014巻で、2,500冊に収め、236冊に合綴した。筆写完了後、今市報徳ニ宮神社境内に報徳文庫を建造し、これを納めた。明治42年(1909年)5月30日であった。すべて鈴木藤三郎の私費であり、木村浩会員によると『現在の貨幣に概算すると、約2億円以上になるかもしれない』とことで、巨額の推譲であった。」 そこで最初は個人的に、1か年6万石位を醸造する工場を建てて、事業を開始するつもりであった。しかるに、藤三郎の醤油新製法の発明は、すでに世間の評判になっていたので、この事を聞いた人々は、誰でも「こうした国益になる仕事は、個人経営などといわずにできるだけ大規模にやって、国民全般にその利益を被らすべきである」と説いてやまなかった。藤三郎の心も動かないわけにはいかなかった。彼の心が動いたとなれば、計画は非常に大きなものにならざるをえなかった。ことに彼の事業的手腕は、内地や台湾の製糖業の完成、自家経営の鉄工業の大成で高く認められ、一方近年続出する、各種の発明で発明王とまでたたえられ、全く超人的な頭脳の所有者として世間から絶対的信頼を受けていた。そこへ国運をかけた日露戦争が、未曾有の勝利で終局を迎えた余勢で、我が国の資本主義は飛躍的に進展したので、国内には起業熱が洪水のように興っていた。 ※ 鈴木藤三郎が自分の信ずる事業に思い切った投資をし、事業を拡張する大胆さについて質問した人に対してこう答えている。(「黎明日本の一開拓者」359-361頁)「私が事業を創始し又は拡張するについては報徳の教えを遵奉しているので拠る所がある。法とし道とするものがある。私は、それによって進んでいる。私は、それによって進んでいる。投資でも拡張でも心事においては綽々として余裕がある。殊更に人のように勇気を揮わそうと思ったことがない。ただ私は普通のこととして行っていることが、外から見ると非常に大胆に勇気があるように見えるのであろうが、自分には毫も勇気を出そうなどいう考えはない。今日でも私を知らぬ者は、ただ事業が好きばかりで糞大胆なことをする、狂人みたいな男と思い、あんな人に金を持たせるのは危険であると信じているものすらある。然し私とても無法に大胆なことはない。無欲でもない。また、ただ事業を道楽にしているものでもない。ただ二宮先生の教えに従い、事業は事業の力をもって興り拡張されるものであるということをかたく信じているから、事業から得たもの分度以外はいくらでも事業にかけてしまう。鈴木鉄工所のごときは最初3千円の資本を投じてから、利益があれば分外を事業に投じて事業の拡張に供した。創立以来殆んど20年近くなるが、私は未だ1文でも同部から利益配当を受けたことがない。今日同部の資産が3,40万円の値打ちを有し、市内有数の工場といわれているのも、つまりこれが為である。利倍しても、あれだけには増殖することが出来ない。私は最初砂糖事業を経営し、今は醤油と製塩をやっている。種類は異なっているが、事業という点から見れば同じことである。私は事業家である。他人のように書画骨董をいじったり、家屋を広壮にして楽しもうということはない。事業を営むのが私の本分である。事業に資本を投じて損失したとしても、事業で得たものであれば少しも惜しいとは思わぬ。私の仕事はたとい不成功に終ったとするも、その研究は後の人が承継してやってくれる。私一代にできなくとも、次の代、またはその次の代には何とかなる。結局は社会の利益となる。目的理論はいつしか徹底する機会がある。この機会がありさえすれば、事業から得た資本を投じて全く損失したとて、私の目的は事業のためには達せられたもので、少しも惜しいとは思わない。こういう覚悟で資本を投ずるのである。外からはいかにも大胆に見えよう、勇気あるように思われるであろう。しかしそれは他から見るとので、私は必ずしも勇気を揮おうの、大胆なことをしようのというつもりは少しもない。ただ平気で事業家としてするだけのことをしているのである。例えば大工が仕事をするようなもので、墨がなければいかに注意してやっても真直ぐには出来ない。しかし墨を打ってやれば、鼻歌を歌いながらでも立派に出来る。世人は規矩(きく)縄墨なしに仕事をしようとするから非常に勇気がいる。私は一定の拠る所があり、墨を打ってあるから別段に勇気を出そうとしないでも仕事が出来る。出来たあとを見た人は、非常な勇気を揮ったように見るのである。しかしこれは誰にでもできる。賢愚を問わずやりさえすれば必ずできる。私がこの大道に従い事業をすることができたのは自分に工夫したのではなく、一に先師二宮先生の賜である。」(実業之日本明治41年10月10日号)
2025.12.03
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その23 むかし、手車翁という奇人があった。この人は始終コマをまわして子供相手に世を送った人である。コマを回しはじめると、しばらくはそこらじゅうを走り回っているが、やがて一か所にじっととどまって、まわっているか、まわっていないかわからないように澄んでくるが、やがて頭をふりだして、しまいにはがくっと倒れる。手車翁はこのコマをまわしながら人生を見つめていたらしい。人生といっても自分以外の人生をいうのでなく、社会の縮図と言うべき自己内面を見澄まし、一生このコマによってその三昧境を工夫しておたのではなかろうか。つまり自己というものを見つめておったのではなかろうか。そんなことは書いてないが、わずか二、三行の手車翁の伝によっても、そういうことが考えられる。手車翁は、自分の臨終には卒塔婆一本たてて、その下で坐禅を組んで死んでおった。卒塔婆には 小車のめぐりめぐりて今ここに立てたる卒塔婆これは俺がのじゃ と書いてあった。人間の一生はたいしたものではない。しかし、我々はこの人生に生きておる。そうして、人生はコマのように回っておる、それなら、この人生をどう生きたらよいか。それには、いつも現在を取り外してはならぬ、ということである。どんな場合でも、それは射撃の的のように取り外してはならぬのである。そうして建てた卒塔婆はどこであろうとも、永遠の記念塔でなければならぬ。それが手車翁の「俺がのじゃ」である。この卒塔婆の意味は、自分がいまここで本当に腹ごたえのある、ゆきつくところまでゆきついた生活をした、ということである。真剣の工夫というものは、高い悟りを求めることでなく、いまここに本当の自己を見つめ、本当の道を知り、一分も乱れない一歩一歩をふみしめて歩くことである。その姿こそ、佐賀の葉隠武士の山本常朝が歌ったように 浮世から何里あらうか山桜 である。浮世からはるかに遠ざかった厳粛さを持って、浮世の中を縦横無尽に働くということが、我々の一番大事なことで、一知半解の悟りではなく、自分たちの足取りで確かめてゆく。こういうことがわたしの説きたい坐禅である。そうして、修すべし求むべからず、このようにして一歩一歩ひきしめてゆくことである。(この項終了)(『禅談』p.339-340)
2025.12.03
193二宮翁夜話巻の4【3】尊徳先生はまたおっしゃった。田畑が荒れている罪を惰農のせいにし、人口が減ずるのは、産まれた子を育ない悪弊に帰するのが、普通の論であるが、どうして愚かな民なればとて、ことさらに田や畑を荒して、自ら困窮を招く者があろうか、人はけだものではない。どうして親子の情がないであろうか。しかるに産まれ子を育てないのは、食が乏しくて、生育が遂げ難いからである。よくその実情を察するならば、あわれなことはこれより甚しいことはない。その元は、税金が重いのに耐え切れないから、田や畑を捨てて作らなくなること、民政が届かないで堤防や溝や道や橋が壊れて、耕作ができがたいこと、バクチが盛んに行れて、風俗が頽廃して、人心が失せはてて、耕作をしないことの三つである。耕作しないために、食物が減ずる、食物が減ずるために、人口が減ずる、食があれば民が集まり、食が無ければ民は散ずる、古語に、重ずるところは民の食・葬・祭とある。もっとも重んずべきは民の米櫃である。たとえばこの坐に蠅を集めようとすれば、どれほど捕えて来て放っても追い集めても、決して集めることはできない。しかるに食物を置く時は、心を用いないですぐに集まる、これを追い払っても決して逃げ去る事がないのは眼前の事実である。そうであればこそ、聖語に、食を足らすとあるのだ。重んずべきは人民の米櫃である。汝等はまた自分の米櫃が大切である事を忘れてはならない。二宮翁夜話巻の4【3】翁又曰く、凡そ田畑の荒るゝ其の罪を惰農に帰し、人口の減ずるは、産子(うまれご)を育てざるの悪弊に帰するは、普通の論なれ共、如何に愚民なればとて、殊更田畑を荒して、自ら困窮を招く者あらんや、人禽獣にあらず、豈(あに)親子の情なからんや、然るに産子を育てざるは、食乏しくして、生育の遂げ難きを以てなり、能く其の情実を察すれば、憫然是より甚しきはあらず、其の元は、賦税重きに堪えざるが故に、田畑を捨てて作らざると、民政(みんせい)届かずして堤防・溝洫(こうきよく)道橋(だうけう)破壊(はくわい)して、耕作出来難きと、博奕盛んに行はれ、風俗頽廃し、人心失せ果て、耕作せざるとの三なり、夫れ耕作せざるが故に、食物減ず、食物減ずるが故に、人口減ずるなり、食あれば民集り、食無ければ民散ず、古語に、重んずる処は民(みん)食葬祭とあり、尤も重んずべきは民の米櫃なり、譬へば此の坐に蠅を集めんとするに、何程捕へ来りて放つ共追集むるとも、決して集まるべからず、然るに食物を置く時は、心を用ひずして忽に集まるなり、之を追ひ払ふ共決して逃げ去らざる事眼前なり、されば聖語に、食を足(たら)すとあり、重んずべきは人民の米櫃なり、汝等又己が米櫃の大切なる事を忘るゝ事勿れ。
2025.12.03
中国、再び国連総長に書簡 高市首相の台湾有事発言12/2(火)中国の傅聡国連大使は1日、台湾有事を巡る高市早苗首相の国会答弁について、グテレス国連事務総長に再び書簡を送ったと明らかにした。 X(旧ツイッター)で全文を公開した。 高市氏の答弁に関し、傅氏は11月21日にも書簡を送付している。日本の山崎和之国連大使が同24日にグテレス氏へ送った反論の書簡については「論点をずらし、中国に責任を転嫁している」と反発。「高市氏の誤った言動が両国の相互信頼を著しく損なった」との見解を示し、改めて「直ちに撤回するべきだ」と主張した。💛日本も国連や国際社会に対して、英語・中国語でどんどん主張しなくちゃ。裏切り気味のトランプに気遣い?
2025.12.02
トランプの仰天発言「同盟国の多くも友達じゃない」…台湾有事発言で高市首相を諌めた電話協議、自分の都合で動く米国とどう向き合うべきか?12/2(火) 日本政府は対応に追われたが、発言を撤回するわけにもいかず難しい状況にあった。そのような中、米側からの要請で、25日に高市・トランプの電話首脳会談が行われた。この時、米国の支援により日中関係の事態打開が可能なのではと日本政府の中では期待する向きもあったはずである。 何しろ、日本政府は巨額の対米投資を約束し、直近の大統領訪日時には礼を尽くしてもてなしたのだから、高市首相とトランプ大統領の間に良好な関係が形成されたはずであった。同盟国米国の助けが必要な今こそと考えたとしても罰はあたらないだろう。 ところが、今回の日米首脳電話会談の中身は、そのような日本側の期待を真っ向から裏切るものであった。ウオールストリートジャーナル紙によれば、この電話会談において、トランプ大統領は高市首相に、台湾問題で中国を刺激しないよう諫めたというのである。 実は、この日米電話首脳会談の数時間前、トランプ大統領は習近平国家主席と米中電話首脳会談を行っている。習主席は具体的に台湾問題に関して日本に圧力をかけるよう要請するようなことはなかったものの、台湾に対する中国の立場を改めて明確化すると共に、米中が第二次世界大戦において共に日本と戦ったことを想起させたという。 この報道が事実だとすれば、日本政府にとっては由々しき事態といえる。この日中対立時に、同盟国日本の肩を持ってくれると期待していた米国政府が、あろうことか中国の意図を汲んで、日本を牽制したということになる。トランプは一連の関税問題を通して中国の強さと米国経済における重要性を理解した。そしていまや米中貿易交渉は山場を迎えている。改善しつつある米中関係を台湾問題で邪魔されたくないはずである。 このような状況に、日本政府が知らないところで米中が接近するという半世紀以上前の「朝海の悪夢」がよぎった関係者もいた。当時、米国は中華人民共和国と対立関係にあり、米国は日本が巨大な共産主義の隣国へ接近するのを嫌っていた。そのため米国政府に忖度する日本政府は、北京政府と距離を置いてきていた。 ところが日本政府の知らぬ間に米中の和解は進行し、1971年にニクソン大統領が突如として近々北京訪問予定と発表した。これを日本政府が知らされたのは、発表の直前であった。 駐米大使を務めたこともある大物外交官の朝海浩一郎氏が、当時起こりうる日本外交における最大の悪夢として挙げていたのが、米中が日本政府のあずかり知らぬところで手を結ぶことであったが、その悪夢がまさにニクソンショックという形で現実となったのである。米国と中国という巨大大陸国家の狭間に存在する日本にとっては、知らぬ間に日本の頭越しに二大国が手を結ぶというのは何としても避けたい事態であるのは今も変わらない。 今回の一件もその予兆はあった。11月10日放送のFox Newsのローラ・イングラムによる大統領インタビューの番組内のことである。 保守の論客でありトランプ支持で知られるイングラムは、インタビューの中で高市発言に触れて、「あなたが良くご存じの日本の新首相高市氏が、台湾情勢を極めて深刻と表現し、中国の台湾へのいかなる動きも日本の国家存亡の危機と見なすかもしれないと述べました。さらにひどいことに、本日、中国の外交官が日本の首相である彼女の首をはねるべきとSNS上で述べたのです」と前置きしたうえで、「中国の人々は我々の友人とは言えませんよね」と質問した。米国の同盟国の首相を斬首すると外交官が発言するような国とは友人関係ではいられないことを確認する質問であった。これは日本などの同盟国と組んで対中強硬で行こうというMAGA(Make America Great Again:米国を再び偉大にする運動に賛同する人々)派の主張にトランプの考えが沿ったものであることを確認しようとした質問だといえよう。 ところが、トランプは予想に反して「同盟国の多くも友達じゃないんだよ、ローラ。同盟国は中国以上に貿易で我々を利用してきた」と、暗に同盟国である日本を非難し、中国の肩をもったのである。そして「見てくれ、私は習主席とも中国とも大変良好な関係を築いている」と念押しした。これを視聴していた駐米日本大使館関係者や日本政府関係者がいたとすれば、日本に対する梯子が外されつつあるのを目にして暗澹たる気持ちになったはずである。 イングラムはその後、話題を変えて、MAGA派に沿っているはずのトランプの考えをさらに確認していった。例えば、米国に大量の中国人留学生がいるという考えにMAGA派の人々はあまり乗り気ではないのに、最近、大統領は留学生の国外退去を撤回し、より多くの留学生が中国からくる可能性に言及していることについて質した。するとトランプは「米国には巨大な大学システムがあり、留学生を止めるとその半分が破産する」と述べた。 米国内経済について、多くの人々が物価高による生活費不安を抱えている点を問われると、それは「民主党による詐欺」であり、「世論調査は偽物」と言い放った。移民についても、イングラムに「何万人、何十万人もの外国人労働者を国内に流入させるわけにはいかないでしょう」と問われると、「そうだが、才能ある人材をまねきいれなければならない」と反論した。 そして、「国内には十分な才能ある人材がいます」との反論には、「いや、いない。失業者の列にならんでいる人を連れて来て、ミサイルをつくれ」というわけにはいかないと述べた。これはトランプの大量の移民が米国人の職を奪っているから移民を大幅に削減しなければならないというMAGA派に沿ったこれまでの主張とは大いに異なっていた。 Fox Newsのトランプに対するインタビューは、多くの場合、トランプ寄りで、トランプが嫌がるような質問はしないため、自分のホームグラウンドでのインタビューと思っていたであろうトランプは、イングラムの質問に戸惑ったはずである。 イングラムがなぜこのような質問をしたのか本当のところはわからない。彼女は、これまでそうしてきたように、MAGAという岩板支持層からずれていくトランプにそのような支持者たちが何を望んでいるかを伝え、トランプを支持層につなぎとめることでトランプの人気を保とうとしたのかもしれない。もしくは、今回はそうではなく、MAGAから離れていくトランプに対して、自分とトランプとの間に距離が生じようとも、自分はMAGAの民衆に寄り添うという姿勢を打ち出したのかもしれない。熱烈なトランプ支持者でありながら、最近袂を分かったマージョリー・テイラー・グリーン下院議員のように。 このインタビューの中でトランプは、「忘れるな、MAGAは俺のアイデアだ。MAGAは他の誰のアイデアでもない。MAGAが何を望んでいるか、俺ほどよく知っている者はいない」と述べた。ただ、このインタビューからも明らかなように、トランプが自分を大統領に押し上げたMAGAの人々から離れつつあることだけは確かなようだ。 自分の都合で揺れ動くトランプの率いる米国と、巨大な隣国中国の間に立って日本は難しい舵取りを迫られている。二つの超大国に挟まれ、資源や食料に乏しい島国日本は、常に微調整しつつ合わせていくしかないのである。
2025.12.02
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その21 所謂坐禅は習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり みんなの坐禅と沢木の坐禅とどちらが良いか、というと、それは沢木さんの坐禅は上等で、なかなかあんなふうにはゆかないと、買いかぶる。それは大きな間違いである。石川五右衛門が盗みをすると、わたしが盗みをするのとどちらが上等かというのと同じである。わたしが石川五右衛門のように千鳥の香炉を取ったら、わたしも石川五右衛門と同じになる。坐禅もそれと同じである。わたしの坐禅がお釈迦様の坐禅であり、達磨さんの坐禅であり、道元禅師の坐禅であり、みんなの坐禅である。何もよけいやったからというて積み上げてゆけるようなものではない。わたしの知っている人に、おれは若い時にはよく坐禅をしたという人がある。「いまはどうですか」というと「いまは一服しているがね」という。それでは「わたしは、六十年正直者できたが、いまは一服している」というのと同じである。人の金時計を盗んだら一遍に泥棒になる。その反対にいままで泥棒であっても、それを一遍にやめたら正直者になる。もちろんこれは宗教的な見方で社会的な見方ではない。宗教では一遍にくるっと変わることができる。そこが「坐禅は習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり」で、安楽の法門とはゆきつくところまでいっておる。中途半端ではないということで、喜びあり、楽しみあり、落着あって坐禅が坐禅となりきることである。坐禅は法門であって、物と比較する形ではないのである。(『禅談』p.334-336)
2025.12.02
32「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著249~250ページ この明治41年(1908年)は、藤三郎の幸運の絶頂であった。発明家として、信念を持った事業家として、一代の成功者として、また、この先どれだけ伸びるか、予測もできないほどに多幸な前途をもった実業家として、53歳の藤三郎は、世間から驚異の眼で仰がれていた。実業雑誌は争って、彼の談話筆記や逸話をのせた。当時、実業之日本社は『余の最も好む実業家』という題目のもと、一般から投稿を募集したところ、応募原稿が1,329篇で、この実業家の数が116人のうち、森村市左衛門の175篇、渋沢栄一の137篇に次いで、藤三郎は第3位の113篇を得ている。これに続いての編数は、荘田平五郎72,武藤山治58,服部金太郎45,岩崎久弥39、小林富次郎37、金原明善28、中野武営26、益田孝21という順位であったと、同誌7月15日号で発表している。これで、日露戦役の直後に活躍もし、また世人からも実業家として信頼されていた人々が、誰々であったかを知ることができるのは、興味あることである。藤三郎に対して多大の好感を持ったのは、一般世人ばかりではなく、当時の東京商業会議所会頭中野武宮もまた、その一人であった。彼は、「余の観(み)たる実業界に傑出せる二人物」(『実業之日本』明治41年7月1日号)と題して、「森村市左衛門と鈴木藤三郎の二人は、人格の上から見てもわが国の実業の発達―前者は海外貿易に、後者は機械の発明と糖業に対する功績から見ても、当然授爵の恩命に浴する資格がある」とまで激賞した。藤三郎は、明治35年(1902年)に静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いたころから、東京の屋敷内にも馬場を設けて、常に3,4頭の馬を飼って、朝の運動にはもちろんだが、市内へ出かけるにもたいていは乗馬だった。まだ自動車は、ごく少数の個人が所有しているだけで、乗物としては、馬車か人力車が一般に用いられていた時代であったから、これは実用的にも好都合であった。血色のよい肥満した体で、馬上ゆたかに小名木川岸を疾駆して行く藤三郎の姿は、まことに颯爽としたものであった。※「熱と誠」-茶の精神を貫いて- 畠山一清著日本橋の中洲に見越しの松の門構え、堂々たる別邸に、おしげさんが住むようになった。以来、鈴木社長は、毎朝7時の出勤まえに、その別邸をたずねることに相成る。肥馬にムチ打って、未明の5時に出かけ、お茶の1ぱいものんで、定刻の7時5分くらい前には必ず会社の門にはいる。 私が小名木川の土手を歩いていると、よく朝がけの鈴木社長に出会ったものである。(略)足かけ5年のサラリーマン生活だった。顧みれば、喜びも苦しみもかずかずあった。ただはっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践し、がんばってきたということだった。
2025.12.02
193二宮翁夜話巻の4【2】尊徳先生はおっしゃった。惰風が極まって、汚俗が深く染まった村里を新たにする方法は、大変困難な事業である。なぜかといえば、法も戒めることはできない。命令も行うこともできない。教え施すことができない。これを精励におもむかせ、これを義に向わしめるのは大変困難なことではないか。私が昔桜町陣屋に来て、配下の村々も遊惰や汚俗でどうにもいたしかたがない。そこで、私は深夜あるいは未明に、村里を巡り歩いた。惰を戒めるわけではない、朝寝を戒めるわけでもない、可否を問わず、勤惰を言わず、ただ自らの勤めとして、寒暑風雨であっても怠ることがなかった。1月2月たって、初めて足音を聞いて驚く者があった。また足跡を見てあやしむ者があった。また現に出逢う者があった。これより共に戒める心を生じ、畏れる心を抱き、数月で、夜遊び博奕や闘争等のごときはもちろん、夫妻の間、奴僕の交り、叱咤の声が無くなった。諺に、権平種を蒔けば烏これを掘る、三度に一度は追わずばなるまい、という。これ田舎のことわざ、戯言といっても、有職の人は知らなければならない。烏が田畑を荒すのは、烏の罪ではない、田畑を守る者が追わない過ちである。政道を犯す者が有るのも、官がこれを追わない過ちのためである、これを追う道も、また権兵衛が追うのをもって勤めとして、捕えるのをもって本意としないように、ありたいものだ。これは戯言とはいっても政事の本意にかなっている。田舎のことわざといっても、心得ておかなくてはならない。二宮翁夜話巻の4【2】翁曰く、惰風極り、汚俗(をぞく)深染(しんせん)の村里を新(あらた)にするは、いとも難き業なり、如何(いかに)となれば、法戒む可からず、令行はる可からず、教施す可からず、之をして精励に趣かしめ、之をして義に向はしむる、豈難からずや、予昔桜町陣屋に来る、配下の村々至惰至汚、如何共(いかにとも)すべき様なし、之に依て、予深夜或は未明、村里を巡行す、惰を戒むるにあらず、朝寝を戒むるにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず、只自(みずから)の勤めとして、寒暑風雨といへども怠らず、一二月にして、初めて足音を聞きて驚く者あり、又足跡を見て怪む者あり、又現に逢ふ者あり、是より相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊博奕(ばくえき)闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕(ぬぼく)の交(まじはり)、叱咤の声無きに至れり、諺に、権平種を蒔けば烏之を掘る、三度に一度は追はずばなるまい、と云へり、是れ鄙俚(ひり)戯言といへ共、有職(いうしよく)の人知らずば有る可からず、夫れ烏の田圃(たんぼ)を荒すは、烏の罪にあらず、田圃を守る者追はざるの過なり、政道を犯す者の有るも、官之を追はざるの過なり、之を追ふの道も、又権兵衛が追ふを以て勤めとして、捕ふるを以て本意とせざるが如く、あり度(た)き物なり、此の戯言政事の本意に適へり、鄙俚(ひり)の言といへども、心得ずば有るべからず。
2025.12.02
ビットコイン急落、8万6000ドル割れ-下落に歯止めかからず暗号資産(仮想通貨)ビットコインは1日に急落している。最近までの下落の動きはいったん落ち着いたと見受けられたものの、新たな売り圧力にさらされている。 ブルームバーグ集計のデータによれば、ビットコインはアジア時間の取引で一時6%下げて8万6000ドルを割り込んだ。イーサは7%強下落し約2800ドルとなった。他の大半のトークンも同様のパターンをたどり、ソラナの下げ幅は7.8%となった。 ビットコインは12万6251ドルの最高値を付けた後、数週間にわたり下落傾向が続き、先週になってようやく売り圧力が和らいで9万ドル台を回復していた。 だが地合いは不安定で、1日にあらためて売りが広がったことを受け、トレーダーはさらなる下落の可能性に備えている。 ファルコンXのアジア太平洋デリバティブ責任者ショーン・マクナルティ氏は「12月はリスクオフの幕開けだ」と指摘。「最大の懸念は、ビットコイン上場投資信託(ETF)への資金流入に乏しく、押し目買いが不在なことだ。今月も構造的な逆風が続くとみている。ビットコインの次の重要な支持線として8万ドルを注視している」と話した。投資家は1日、ストラテジーのフォン・リー最高経営責任者(CEO)の発言を消化。リー氏は11月28日に出演したポッドキャストで、同社の企業価値とビットコイン保有の比率であるmNAVがマイナスに転じた場合、ビットコインを売却する可能性があると述べた。 リー氏は「mNAVが1倍を下回り、配当支払いのために必要となれば、ビットコインを売却でき、売却するだろう」としつつも、最後の手段になると指摘。ストラテジーのウェブサイトによると、560億ドル(約8兆7000億円)相当のビットコインを保有する同社のmNAVは1.19まで低下している。 一方、S&Pグローバル・レーティングは先週、世界最大のステーブルコインである「テザー(USDT)」のドルペッグ維持能力について、最も低い評価に引き下げた。ビットコイン価格が下落すれば、テザーの裏付け資産が不足する恐れがあると警告した。
2025.12.01

べらぼう:なぜ写楽“複数人説”を 脚本・森下佳子「わりと初めから決めていた」 「果たしてこれを一人で」“偉業”への疑問も写楽は、蔦重のプロデュースによって、前代未聞の28作同時出版という、センセーショナルなデビューを果たすも、わずか10カ月の活動で忽然(こつぜん)と姿を消した“謎の絵師”。その正体については、徳島藩主お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だったのではないか、というのが有力な説となっていて、「べらぼう」での“複数人説”にはさまざまな反響があった。森下さんは「写楽の“複数人説”を採ろうというのは、わりと初めから決めていた」と明かす。 「もちろん、美術史の世界では、いまは一応、(斎藤十郎兵衛が正体で)決着しているということは存じ上げてはいたのですが。それでも写楽の絵をざーっと並べて見たときに、複数人説の方がしっくりくるなと思ったんで。すごい短い期間にものすごい数の作品を出していて、しかもあれを一気に出したとしたら、ものすごい短時間で準備しなくてはいけない。果たしてこれを一人でやったのかというのが結構、疑問だったと。2期の写楽の絵って全身像になるのですが、1期で描いた顔をコピペしたみたいで。そういったところからも『これ何人かで手分けしたんじゃないか』って気がして。複数人説を採ろうというのは初めから決まっていました」 写楽“複数人説”の中心に歌磨を置くというのも、森下さんいわく「そもそもから考えていたこと」。いまはあまり言われなくなったが、写楽=歌麿説が昔からあったため。そして森下さんは、「べらぼう」における写楽とは、蔦重や歌磨、または山東京伝らが「やってきたことの行き着いた先」だとも話す。 「元々、鈴木春信から始まった錦絵ですが、最初はお人形みたいで、男か女かも分からないような絵ってところから、どんどんいろいろな絵師が出てきて画風というものが変わっていったんですね。その文脈の中で、歌磨がした写生っていうのは結構画期的なことではあって。歌磨の美人絵も、一つの形を持ちながら、かなり細かく描き分けはされていて、リアルにどんどんと寄っていった。一方で京伝が、吉原の内幕を描いた『傾城買四十八手』の文章も、いままでの黄表紙や洒落本とは違って、登場人物の描写や会話がリアリズム寄りになっている。その流れていった先に写楽があるんじゃないかと思って。蔦重たちがやる最後に打ち上げる“祭りの象徴”が写楽なんだろうな、というふうに解釈して書かせていただきました」
2025.12.01
次期ウクライナ大統領候補のザルジニー氏、終戦後の「政治改革」を強調ウクライナ軍総司令官を務めた有力な次期大統領候補、ヴァレリー・ザルジニー駐英大使が、終戦後の「政治的変化」に言及した。ザルジニー大使は30日(現地時間)、英紙『デイリー・テレグラフ』への寄稿で、「私たちは完全な勝利を望んでいるが、戦争を長期的に終結させる方法を排除すべきではない」と述べた。さらに大使は、「平和(終戦)を通じて政治的変革、大規模な改革、完全な復興、経済成長を実現できる」と指摘し、汚職との戦いと公正な司法制度の構築の必要性も訴えた。これは、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領が不出馬を宣言し、側近の汚職疑惑で政権基盤が弱体化するなかで、「政治的変化」や「汚職との戦い」に踏み込んだ発言である。『デイリー・テレグラフ』は、「次期大統領候補として名前が挙がる彼は、ウクライナが繁栄するためには汚職を根絶し、大規模な改革を進める必要があると語った」と報じた上で、「海外ではゼレンスキー大統領がウクライナ英雄像の象徴だが、国内ではザルジニー元総司令官の象徴性がより大きい」と指摘した。また同紙は、寄稿文が掲載された時期が、ゼレンスキー大統領の最側近アンドリー・イェルマーク前大統領府長官の辞任からわずか2日後であった点も強調した。一方、ザルジニー大使は、ウクライナがドナルド・トランプ米政権と協議中の和平案について、十分な安全保障措置が盛り込まれるべきだとの立場を示した。大使は、「(平和を通じて達成できる)あらゆることは、効果的な安全保障なしには不可能だ」と述べ、、「北大西洋条約機構(NATO)加盟、核兵器の国内配備、ロシアに対抗できる大規模兵力の配置」などを例として挙げた。ロシアがウクライナを独立国家として認めていない以上、有事の際に米国やNATOの直接関与が保証されなければ、ロシアが再侵攻するのは必然だという見方だ。2021年から昨年初めまでウクライナ軍総司令官を務めたザルジニー大使は、終戦後に行われる大統領選で当選が有力視される次期大統領候補とされている。ロシアの侵攻後、ゼレンスキー大統領は国際外交に専念し、戦争指揮を当時のザルジニー総司令官に一任したことで、同氏は国民的英雄として台頭した。しかし、戦争が長期化するにつれ両者の溝が深まり、ゼレンスキー大統領は昨年2月、総司令官を電撃的に交代させ、ザルジニー氏を駐英大使に送り出した。
2025.12.01

『ばけばけ』借金取り・森山銭太郎(前原瑞樹)の好感度が急上昇した”ある行動”にSNS「朝から大笑い」「ほれたぜ」松江に寒い冬がやってきた。朝食中の松野家には、借金取りの銭太郎が来ていた。フミ(池脇千鶴)が笑顔で「今月分です」と金を差し出すと、銭太郎は「数えさせてもらぁで」と乱暴に受け取る。 銭太郎が「ひぃ、ふぅ、みぃ…」と数えていると、牛乳配達の仕事を終えて戻ってきた司之介(岡部たかし)が「いま何時でぇ?」とふざけて話しかける。銭太郎は「だらくそがー!」「拍子抜けするだが。貧乏人のくせに金持ちみたいに毎月よーけ返しくさりやがって」と怒り始める。銭太郎は、借金取りという職業について「貧乏人をいびって女子どもを泣かせてなんぼな商い」だとし、「こげによーけ返されたら商売上がったりだ」と嘆いた。 そして突然、「冬だが。寒いがね。だけん、今月はかぜひかんように、体によーけよーけ気を付けて、休み休みいたわっていたわって暮らせ。そんで、来月、少のう返せ」と松野家をいたわるような言葉をかけたのだった。久々登場の銭太郎が見せた突然の優しさに、Xが反応。「ツンデレ銭太郎に朝から大笑い」「ほれたぜ」「銭太郎のストレートじゃない優しさが絶妙で月曜の朝からなんか元気出た」「銭太郎の根の優しさが隠しきれなくなって来てる」「好きすぎる」「やっぱりウサギ好きの優しすぎる男だ」「銭太郎やっぱりいいヤツ」「もう朝飯一緒に食っていけやw」「絶対、借金取り向いてない」といったコメントが並んだ。
2025.12.01
ダンシング上海で日本人歌唱「強制終了」の衝撃 早くもミーム化、まさかの「ダンシング習近平」登場11/30(日) 中国・上海で2025年11月28日に開催された「バンダイナムコフェスティバル2025」で、アニメ『ONE PIECE』の主題歌などで知られる歌手・大槻マキさんのパフォーマンスが中断された。日本人アーティストによる中国公演の中止が続く中、SNSでは中国出身のオーストラリア人インフルエンサー・悉尼奶爸(Sydney Daddy)さんによるAI加工動画が注目を集めている。大槻さんは29日、公式サイトで「28日のステージにつきましては、パフォーマンス中ではございましたが、やむを得ない諸事情により急遽中断せざるを得ない状況となってしまいました」と説明。29日の出演についても同様の事情で中止となったと明かした。 中国のSNSでは、大槻さんの歌唱中に突然背景が暗くなって演奏が止まり、スタッフ2人に誘導されてステージから退出する動画が拡散され、衝撃が広がっている。 同イベントには、アイドルグループ「ももいろクローバーZ」4人組ロックバンド「ASH DA HERO」なども出演中止を発表しており、「やむを得ない諸事情」や「不可抗力」を理由とした報告が相次いでいる。エンターテインメント業界を巻き込んでの混乱が続く中、SNSでは、悉尼奶爸さんが29日に公開した短い動画が反響を呼んでいる。投稿には「抗日艺术新高潮,继续憋死小日本(抗日芸術の新たな頂点だ。引き続き小日本を締め上げてやろう)」とのコメントが添えられており、「小日本」は、日本を侮蔑するスラングとして使われる。 動画では、驚く大槻さんがスタッフに連れられてステージを降りるかたわら、新たにステージに現れたのは中国の習近平国家主席だ。華やかな赤い花柄のチャイナスーツに身を包んだ習氏は、ポケットから赤いスカーフを取り出すと、軽快な音楽に合わせてスカーフを振り回し、ダンスを始めた。会場の観客も、楽しそうに拳を振り上げている。悉尼奶爸さんは、大槻さんの歌唱中断に関する報道に対し、「素晴らしい! 反日運動で一万人規模のコンサートが中止に、現場で歌を止めるために電源を落とす事態だ 田舎者に牛耳られた中国が、再び世界を震撼させた 日本と中国の争いは、もはや文明と野蛮の対決へと成り下がった」と皮肉をつづっていた。 なお、悉尼奶爸さんは18日頃にも、外務省の金井正彰アジア大洋州局長と、中国外務省の劉勁松アジア局長の協議後に撮影された動画をパロディー化した「ダンシング局長」動画を公開。派手な赤い花柄のチャイナスーツを着た劉氏が、頭を下げるような素振りを見せた金井氏の前でノリノリのステップを刻む動画が話題を集めていた。 今回の「ダンシング習近平」動画にも、「素晴らしい動画wwwww」「もうミーム化したか」「You are using AI the most skillfully and appropriately in the world.(あなたは世界で最も巧みかつ適切にAIを活用しています)」など、面白がる声が上がっている。
2025.12.01
日大・鮫島、史上3人目「1年生アマ横綱」 "別格の大会"で快挙全日本相撲選手権(30日、東京・両国国技館)決勝(日大) ○鮫島輝 寄り倒し 大森康弘(金沢学院大)● 日大の鮫島輝(ひかる)選手が、史上3人目の「1年生アマ横綱」に輝いた。1984年の日大の久嶋啓太(元幕内・久島海)、2020年の日体大の花田秀虎に続く快挙。「信じられないけれど、すごくうれしい」と目頭を押さえ、喜びをかみしめた。 決勝の相手は体重120キロと軽量ながら、昨年の国民スポーツ大会の相撲成年の部で優勝した大森康弘選手。鮫島選手は「格上の相手だったので思い切りいった」と立ち合いで二本を差すと、160キロの恵まれた体格を生かし、迷わず前に出て勝負を決めた。 11月2日の全国学生選手権の団体戦では勝負強さを買われ、1年生ながら大将を任された。そして、日大の3年ぶりの団体制覇に一役買った。 一方、個人では際立ったタイトルがなかった。埼玉栄高3年だった昨夏の全国高校総体も準優勝で高校横綱には届かず。しかし、小学2年から相撲を始め、「ずっと見てきた。別格の大会」という今年のアマ相撲日本一を決める舞台で、個人初のビッグタイトルを手にした。 それでも鮫島選手は「相撲生活はこれで終わりではない。明日から切り替え、一から稽古(けいこ)したい」。アマ横綱の称号に恥じない、さらなる精進を誓った。
2025.12.01
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻) 普勧坐禅儀抄話その20 禅には、仏教の三量といって、現量、比量、非比量というものがある。非比量というのは、冬瓜(とうがん)のぶらさがっているのを入道と間違えたというようなものである。臆病者が恐ろしさのあまり、冷たいものがぶらさがっていたというて逃げて来た。大勢でいってみたら冬瓜だった。ふんどしが干してあるのを幽霊と思って気絶した。夜があけたらふんどしだった。非思量というのは、こういう錯覚や間違いのことで、宗教的にいえば迷信である。比量とは、垣を隔てて角を見て牛なることを知る。あるいは山を隔てて火を見て火事なりと思う、ということである。ところが火ではなくて雲のことがあったり、垣を隔てて角を見ても牛でなく山羊であることもある。コケコッコーというても、鶏と思うたらあにはからんや物まねの上手な者がやったということもある。こういう間違いもある。ところが現量というのは、その実物にぶつかったということである。ボタ餅とはどんなものであるか、アイスクリームというのはどんなものか、デパートで売っているがどんなもんだろうと思って食ってみると、ああ、こんなものかということがちゃんとわかる。坐禅はこの現量にぶっつかることである。それを「不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん、非思量という、つまり、坐禅は意識の問題でなしに、坐禅そのものが現実の問題、現量の問題になってくる。そこで前にもいったように、慈雲尊者の修すべし、求むべからずでただやってみることである。 むかし五百匹の猿が五百人の辟支仏(びゃくしぶつ)―これは本当の仏ではない、縁覚のことである―に仕えておった。ところが辟支仏が涅槃に入った。涅槃ということは、滅ということであるが、滅ということでもそこには理想がある。我々も、どうせきたなくなって、死臭をはなって死ぬのであるが、何とかいい死に方がありそうなおのだと考える。ところが、この辟支仏は灰身滅智(けじんめっち)といって、一遍にパラパラと灰と気体になってしまう。人のお世話にならないところでぱらっとなくなってしまう。実に立派な死に方である。こうして五百人の辟支仏が、ぱらっといってしまった。ところが、辟支仏に仕えておった猿は、おん大将たちがあまりあっけなくいったものだから、自分たちだけ食うのでは力があまる。そこで、五百匹の猿どもは辟支仏のまねをして、みな坐禅をしてしまった。木の上とか巌窟とか洞穴とか崖下とか、それぞれ仕えておった辟支仏の通りに五百匹の猿が坐った。実に壮観だったに違いない。そこへ五百人の仙人たちが、道を求めてやってきた。どこへいっても求める道にゆきあたらないので、山へきたところが、五百匹の猿が坐禅しておる。その姿を見ただけで仙人たちは感激してしまった。そこでみんな猿のまねをして坐禅を組んだ。すると五百人の仙人たちは、みな悟りを開いたという。悟りを開いたということは、仏さんとぴたっと波長があったということである。そこで坐禅は、この身をもって仏法をやることである。身をもってやってみれば仏法の極意に達することができるのである。(『禅談』p.334-335)
2025.12.01
32補注「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 248ページ 鈴木鉄工部は鈴木氏が氷砂糖や精製糖を製造する機械を他に依頼して造らせたのでは、思うようなものができないので試作するつもりで明治24年1月始めた工場であった。日本精製糖に隣接した東京府南葛飾郡砂村字治兵衛新田479にあった。黒板氏の鈴木鉄工部での仕事は主として設計技術者として設計の責任者の地位にあった。当然鈴木氏の発明特許には深く関係し、知識と努力を傾けたことは想像できる。入社後一余年後には、鈴木鉄工部の技師長となり、年俸で壱千円余を給せられていたという。鈴木鉄工部を退社したのは、明治38年3月31日で、翌月4月11日には、日本精製糖会社嘱託もやめた。鈴木鉄工部からは「在職中勤勉ノ功ニ依リ」八百円、日本精製糖から「慰労金」として三百円を送られたというから、その功績の次第がしのばれる。明治36年から37年にかけては、陸軍糧秣廠の醤油エキス製造装置、日本精製糖会社の拡張工事に腕を振るったという。明治37年12月鈴木氏発明の鈴木式ボイラーを日本精製糖で採用しようという議が持ち上がり、黒板氏は精製糖会社の重役会の席に呼ばれ、意見を求められた。黒板氏は、技術者としての良心と信念から、鈴木社長(明治36年就任)の前で、自家製ボイラーの採用に反対した。この事件等以後、鈴木、黒板両氏の間がシックリいかなくなった。黒板氏は独立自営の決意をし、翌38年1月には鈴木鉄工所及び日本精製糖会社へ辞意を漏らしたが、鈴木氏は増俸したりして慰留し、辞職を承認しなかった。そこで黒板氏は大学院に通学して更に研究するという名目で、明治38年9月14日付で大学院に入学した。指導教官は井口教授となっている。この間の事情について、真野文二博士はこう語られている。(昭和18年11月26日)「黒板君を自分が実業家鈴木藤三郎氏のところに世話したことは確かである。鈴木氏のところに行った初め、どういうことをしていたかは知らない。それで黒板君も恩人だということで随分懸命に働いてつくしたのだ。 ところが段々働いているうちに、鈴木氏のする仕事が気にいらない。どうも黒板君の主義と違う。まあいわば鈴木のやり方にわるい意味の商売人じみた処があった。そこで黒板君は随分尽していたが、やりきれなくなって、鈴木に別れて独立したいと申し出た。自分の処にも諒解を得にやってきた。 鈴木は資本もないことだしと随分とめた。しかし黒板君は、もう少し真面目にやりたいということで、どうしても独立するといって自分の処にもことわりにきた。それで自分もやるがよかろう、といってやった。とにかく感心な人ですよ。何もないところから、あれまでにやりあげたんだから。」また、昭和8年9月14日付長崎日日新聞の「黒板伝作君」ではこう述べている。「鈴木鉄工部社長鈴木藤三郎氏は、一時発明家として評判された人で、その考案に成る鈴木式ボイラーを全国工場に使用すれば、燃料の節約その他で一億円の節約ができると称し、国益一億円を看板に広く宣伝した。このボイラーの製作には勿論伝作君が手伝ったのであるが、君は効能書きどおりの節約をなしうるかどうかに疑問を持っていた。すると明治37年12月製糖会社が右ボイラーを買うこととなり、重役会に提案された。君は会社の機械部嘱託として重役会に呼ばれて、意見を問われ、売る会社の技師長であり、同時に買う会社の技術主任という二重人格を有する君が、断固反対したので、鈴木氏は真っ赤になり、座は白け渡った。右の機械に関して自信を有せぬ君は、他の会社へなら売るとも自分の会社に買って期待を裏切る事はしたくなかった。それは技術者としての独立した使命で、正しい判断であった。すると翌年の実業之日本正月号に鈴木式ボイラーの事が大々的に掲載されたので、意見の相違は君をして鈴木氏から離反せしめ、切に慰留されるのを振り切って退社したのは、29歳(数え年)の春であった。」また、黒板伝作氏の兄黒板勝美博士の親友で飯笹鋼業所主の飯笹小四郎氏が語ったところも当時の鈴木鉄工部の状況と学究肌の黒板氏がやめるに至った事情が窺われる。「とにかく当時の鉄工業界は幼稚極まるもので、また随分乱暴なものだった。鈴木鉄工部でも依頼によって機械を製作したが、技術者としては到底自信のないものでもどんどん納入するのでハラハラして見ていた。技術には全然素人の小野徳太郎という支配人がいたが、その人などが納入に行って難なく納めてしまった。それで別に後から文句も持ち込まれなかったのだから、不思議といえば不思議だが、当時はそれで事が済んだのだった。 ボイラーの時でも、鈴木さんはこうなるはずだという。しかし実際に使ってみるとそうはいかない。材料学の進んでいない時だから、今から考えるとムチャなことをやっていたわけだ。鈴木さんのいうとおりにならないというと、そんなはずはないと鈴木さんは怒号して叱りつける。仕方がないから、取換えの部分品をたくさん用意しておいてダメになると、ひそかに早速取り換える。鈴木さんにはそんなことは言えないから、鈴木さんはただ機械の運転するところだけを見て、うまくいっていると思い込んでいる。そんな調子だった。黒板さんはずっと設計にいて設計の責任者であったが、自分は現場にいて製作方面を受け持っていた。」(同書150頁)黒板氏は明治38年4月に深川区猿江町(現江東区)に日本精製糖会社の機械修繕部職工長の山谷和吉氏(工手学校出で後年山谷機械株式会社社長)と共同で東京鉄工所機械部を設立した。同年8月には京橋区月島東仲通5丁目(現中央区)に東京月島機械製作所を創立した。同年6月には宮崎好文氏が帝大卒業と同時に技師長として入り、明治40年頃から顧問を委嘱し、最高学府出の新鋭の技術者を選び、根岸政一氏、内村最一郎氏、竹村勘?氏に委嘱されているが、これらは鈴木藤三郎氏の鈴木鉄工部が東京帝大出の学士を技師長に採用したやり方などをとりいれたものとも思われる。明治40年、大日本製糖株式会社(明治39年11月、日本精製糖会社と大阪の日本精糖会社と合併、鈴木藤三郎氏は退陣されていた)から小名木川第一、第二両工場の拡張工事があって、東京月島機械製作所が受注し、これが当社の発展の基礎となった。同書26頁では「翻って考えてみるに、もしこの時に鈴木氏が依然として大日本製糖を主宰しておられたならば、あるいはこの拡張工事そのものがなかったかも知れないし、またたとえあったにしても、仕事は当然鈴木鉄工部(同部は明治41年頃、敷地3,500坪、従業員400人を擁して、東京屈指の鉄工所であった)に回って、東京月島機械製作所には注文されなかったであろうと思われる」と感慨を述べている。台湾製糖の橋仔頭工場の建設には鈴木鉄工所が関与し、当時同部に勤務していた黒板氏は、明治36年11月18日神戸出航で初渡台し、同工場を視察した記録「新領土初旅日記」(昭和15年4月発行)があるという。東京月島機械は、堀宗一氏の依頼により塩水港製糖の据付工事を引き受け、ドイツ、イギリスから技師が来た大日本製糖、東洋製糖より期間も早く、成績もよかったという。こうした製糖機械に関する技術の高さから、明治42年に打狗製糖所南投製糖所に赤糖の機械を納め、43年松岡製糖所に諸機械を納入するなどしている。東京月島機械製作所は、製糖機械の国産化に勤め、大正4年第一次世界大戦で、外国品の輸入難などが幸して、製糖機械の注文で活況を呈した。台湾製糖の神戸工場建設には、黒板氏が特に選ばれて、工場監督、設計をまかされ、月島機械からも諸機械を納入した。黒板氏はまた徒弟教育に力を尽くし、多くの技術者の養成をされた。「先生は常に言う。自分は若い時に非常に苦学した。しかし多くの知人から援助を得て学業を終え社会に出た。自分はその恩に報ゆる積りで多くの後輩を援助し養成し、一人でも多く有用な人物を社会に送り出したいのが念願である。また徒弟養成所にしても、機械製作の仕事を勉強してもらってたくさんの良い製品を作り出してもらいたいためである。仕事に精進して一人前の工員となってから月島の工場に勤務してもらいたいのであるが、必ずしも無理に工場に引き留めるわけではない。一人でも多く良い技術者を社会に送り出し国家のために大いに活動してもらいたいのである。徒弟の養成については専門の技術も大切であるが、精神方面の徳育も大切であるとして、訓育につとめたのであります。」(同書70ページ、宮崎好文氏「追想録」より)ここにおいて、鈴木藤三郎氏の報徳の思想は、荏原製作所の畠山一清氏と同様、また黒板氏においても「一人でも多く有用な人物を社会に送り出し、国家のために大いに活動してもらいたい」という念願となって精神面でも受け継がれたかのようである。黒板伝作氏は、昭和8年12月27日逝去された。「一生を通じて、非常な努力家であったこと、よく若い者の面倒を見たこと、利財の蓄積よりも世のため人のために力を尽したことは、多くの人の話や、諸事の記録を見ても判ることで、先生の人柄はここに、滲み出ていると思う。」(同著155ページ)月島機械創業時の職員の山県孝亮氏は昭和18年11月21日当時をこう語った。「黒板さんは学者だったから、人のやれぬこと、新しいこと、研究的なことをやりたがった。わるくいえば経営心理にうとかった。いつも仕事の六割は世の中にないもの、世の中より一歩先に出たもの、研究的なことをやりたがり、したがって利殖は第二になって、いる人の勉強にはなるが、月給をたくさん出すというわけにはいかなかった。いわば学校みたいなところがあった。研究的なことで金をかけて失敗した例といえば、明治43年の精米機械や、大正5年の自転車のソケットなどはいい例だ。外にも熱処理だとか、変圧器など、例が多数ある。そのようなわけで、稽古には雅量があった。本などいくらでも買ってくれた。一時会社の中に特許部を設けていたことがある。」(156頁)☆ 荏原製作所の創業者畠山一清氏はその自伝で、鈴木藤三郎の報徳の考え方に影響を受け、経営の基盤にした。しかし、また藤三郎の失敗が社内の和の欠如にあると見て、茶の精神を自らの修養に取り入れた。 一方、黒板氏をめぐる評論では鈴木藤三郎を積極的に評価する声は少ないようである。どちらかといえば、その商売人的なところに技術者の誠実さから黒板氏が反発して独立したというような評論が多い。しかし、創造的な仕事を通して国に報いよう、世に役立つ人物を育てようと実践してきたところは、月島機械の業務の内容や最高学府の卒業者を招致し発明を重視したこととも思い合されて、鈴木藤三郎が築いたものを土台にしている。黒坂伝平氏についても鈴木鉄工部での体験が事業活動のベースになっている。
2025.12.01
193二宮翁夜話巻の4【1】尊徳先生はおっしゃった。論語に曰く、信なればすなわち民任ずと、子どもが母を信ずることは、自分がどれほど大切と思っている物でも、疑いなく預けるものである。これは母の信が、子どもに通じているからである。私が先君に対するのもまた同じだった、私に桜町仕法を委任するにあたって、先君は心組みの次第を一々申し立てるに及ばない、年々の収入支出の計算をするに及ばない、10ヶ年の間お前に任せおくということであった。これが私が一身をゆだねて、桜町に来た理由である。さてこの地に来て、いかにしようかと熟考するに、皇国を開闢された昔、外国から資本を借りて、開いたわけではない。皇国は、皇国の徳沢にて開いたに相違ない事を明かにしたため、本藩から助成金を謝絶し、近郷の富豪に借用を頼むことなく、この4000石の地の外を、海外とみなして、われ神代の古えに、豊葦原へ天降ったと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそが、天照大御神の足跡であると思い定めて、一途に開闢元始の大道によって、勤め励んだのである。開闢の昔、芦原に一人天降ったと覚悟する時には、流水にみそぎをしたように、潔い事は限りない。何事をなすにもこの覚悟を極めるならば、依頼心もなく、卑怯卑劣の心もなく、何を見ても、うらやましい事もなく、心中清浄であるために、願いとして成就しないという事はないという場に至るのである。この覚悟は、事を成すの大本であり、私の悟道の極意である。この覚悟が定まれば、衰えた村を起すのも、廃家を興すのも大変やさしい。ただ、この覚悟一つである。二宮翁夜話巻の4【1】翁曰く、論語に曰く、信なれば則ち民任ずと、児の母に於ける、己れ何程に大切と思ふ物にても、疑はずして母には預くる物なり、是れ母の信、児に通ずればなり。予が先君に於ける又同じ。予が桜町仕法の委任は、心組の次第一々申し立つるに及ばず、年々の出納計算するに及ばず、十ヶ年の間任せ置く者也とあり、是れ予が身を委ねて、桜町に来りし所以なり、扨て此の地に来り、如何(いか)にせんと熟考するに、皇国開闢の昔、外国より資本を借りて、開きしにあらず、皇国は、皇国の徳沢にて、開けたるに相違なき事を、発明したれば、本藩の下附金を謝絶し、近郷富家に借用を頼まず、此の四千石の地の外をば、海外と見做し、吾れ神代(しんだい)の古(いにしへ)に、豊葦原へ天降りしと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそ、天照大御神の足跡なれと思ひ定めて、一途に開闢元始の大道に拠りて、勉強せしなり、夫れ開闢の昔、芦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身(みそぎ)せし如く、潔き事限りなし、何事をなすにも此の覚悟を極むれば、依頼心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見ても、浦山敷(うらやまし)き事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云ふ事なきの場に至るなり、この覚悟、事を成すの大本なり、我が悟道の極意なり、此の覚悟定まれば、衰村を起すも、廃家を興すもいと易し、只此の覚悟一つのみ。
2025.12.01
全24件 (24件中 1-24件目)
1


