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熱田神宮の広い境内、『大幸田神社』の後方から東西に塀が続いています。『信長塀』と呼ばれこの塀は、その名の通り信長が寄進したもの。当時は全長400㍍の長さがあったそうですが、現存するのは120㍍ほど。1560年(永禄3)、桶狭間出陣の際、手勢の少ない圧倒的に不利な戦へ出陣するにあたり、信長は熱田神宮で戦勝を祈願したといいます。ご存知の様に天候を味方とした信長の奇襲により、今川義元は討ち取られます。どう考えても不利な戦いに勝利できたのは熱田の神が味方をしたのかもしれません。内心では信長自身死を覚悟の出陣だったと思いますが、その戦に勝てたお礼として熱田神宮に奉納したのがこの塀と伝わります。「日本三大土塀」というものがあるようで、兵庫県の西宮神社大練塀、京都の三十三間堂太閤塀と名古屋の信長塀を指すようです。土と石灰を油で練り固め、瓦をサンドイッチし厚く積み重ねて作られた築地塀(ついじべい)、塀の上には瓦屋根が付きます。今時のブロックとセメントの塀はその気になれば容易に破る事が出来ますが、この塀はそう簡単には倒せまい。それ故にこの塀は大切なものを守る防御の目的が感じられます。この塀が守るのは、信長を勝利に導いてくれた熱田大神そのものだろう。先人の知恵で作られた信長塀は震災、戦禍に遭いながらも今も姿を留めています。重厚で趣のある塀ですが、この解説がなければただの「へぇー」かもしれない。熱田神宮境内 『信長塀』建立 / 1560年(永禄3)住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 熱田神宮末社 『大幸田神社』
2020.11.30
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さて二日目の工程は少しタイト最初の目的地は宿から25分程走ったJR日本最南端の駅「西大山駅」。単独峰の開聞岳を望む長閑な田園地帯、そこに伸びる指宿枕崎線の線路と無人駅で知られる。ここはおやじが以前から行きたかった場所です。幸せの黄色いポストは現役のようで、ここから投函すると願いが叶うと云う、近くには縁結び、子宝、家族の健康など多くの願いが込められた絵馬がかけられています。「ワクチンを作り皆を健康にするぞ!」と書かれた絵馬に目が止まる、がんばれ!日本最南端の駅案内碑 住所 / 鹿児島県指宿市山川大山 「西大山駅」から車で10分程走り、開聞岳北側山麗の枚聞神社を目指す。開聞岳の北北東に鎮座する枚聞神社、社殿後方には開聞岳が優美な姿で聳えています。薩摩国一之宮は、昨日次に参拝する新田神社と、ここ枚聞神社の二社があります。新田神社は格式で言うところの式内社ではなく、ここ枚聞神社は式内社として格付けされています。祭神は、天照大御神を祀り、配神に五男三女神を配祀します。「地方開拓の祖神として厄除け、海運、交通安全、航海安全、漁業守護神として、琉球国を初め地方民から厚く信仰され、古来薩摩国一之宮、南薩地方の総氏神として朝廷や薩摩島津家から代々に渡り厚く崇敬されてきた。」創建は定かではなく神代の時と云われますが、社記によれば708年(和銅元年)の創建とあるようです。開聞岳を御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には末社の御嶽神社が鎮座するという、御神体が開聞岳がありながら御嶽神社?-・・・・良く分からない。朱塗りの社殿は正面に勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。勅使殿天井に描かれた絵が視線を引き付けます。薩摩國 一之宮 枚聞神社祭神 / 天照大御神配神 / 五男三女神創建 / 不明、社記708年(和銅元年) 住所 / 鹿児島県指宿市開聞十町1366さて次の目的地もう一つの薩摩國 一之宮 新田神社までは小一時間程のドライブ。もう一つの薩摩國一ノ宮である新田神社は神亀山という亀の形をした小高い山の上に鎮座します。新田神社の一ノ鳥居からニノ鳥居までの参道は真っすぐ伸び、参道両脇には桜並木が続き、桜の時期にはさぞかし見ごたえがあるだろう。それにしても参道は長い、一ノ鳥居が霞んでしまうほど。ナビに任せてニノ鳥居に案内してくれたのはいいけれど、ここから歩いて一ノ鳥居までは少し遠い、諦めだ。かつて八幡五所別宮のひとつとして八幡神を祀っていたので、「新田八幡宮」、「八幡新田宮」などと呼ばれていたそうです。神社の「新田」という名称は、天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコネホノニニギノミコト)が川内の地の川内川から水を引いて新しく田圃を作ったとされ、そうした意味が込めら付けられたとされる。 祭神は天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤビ・アメノオシホミミノミコト)を祀り、創建は725年(神亀2)とされるようです。勅使殿の唐破風向拝に施された飾りと拝殿天井に施された草花の天井絵は見応えがあるものです。勅使殿前の狛犬「子だき狛犬」は、安産を祈願し撫でることで願いが叶うとされます。社殿は元は現在の位置から一段下がった場所に鎮座していたようですが、火災(1173年)により焼失、僅か3年後に現在の山頂に再建されたようです。社殿の背後の可愛山陵は天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる。 薩摩國 一之宮 新田神社 創建 / 不明(創建は725年(神亀2)とされる)祭神 / 天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊住所 / 鹿児島県薩摩川内市宮内町19352そろそろ遅い昼食をとるため新田神社から30分程南下した串木野市にある海の駅食堂へ島平漁協直営の食堂という事で、鮮度のいい刺身が食べられる。地元にとどまらず観光客からも支持され、タイミングが悪いと待ちがでるお店。待ちがあっても大丈夫、目の前の照島には神社もあり参拝もできる。たまたまだろう、順番待ちもなく即入店、数々あるメニューの中から一番人気の「海鮮丼しおさい」を揃ってオーダー。これで1200円なら妥当な価格か、複数の魚種の切り身がてんこ盛り、そこにワサビを醤油に溶かして丼全体に垂らして頂くものらしい。臭みもなくこれは旨かった、が唯一白い切り身だけが食べ慣れていないせいか少し癖があった。照島海の駅食堂 営業時間 11:00~14:30定休日 火曜日、年始鹿児島県いちき串木野市西島平町409さて食事も済ませ目の前の照島に鎮座する照島神社に参拝します。「照島」という小さな島ですが、朱色の反り橋を渡ると波打ち際の石鳥居から神社のある島の頂に向かって石段が続きます。昔から海の守り神として崇拝されている、祭神は大己貴命、少彦名命、大山津見命を祀ります。創建年代は不明ですが、古来言い伝えには常陸国鎮座の大洗磯神社(御祭神・大己貴命・少彦名命)と、伊予国鎮座の大山津見神社(御祭神・大山津見命)を勧請し創建したとされています。反り橋を渡った左に「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」があり、ここに上陸した陶工たちがこの地で焼き物を作り始めた事から発祥の地でもあるようだ。小さな島全体が神域のようで、多くの伝説も伝わる不思議の島。照島神社 創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命、大山津見命住所 / 鹿児島県いちき串木野市西島平町410次の目的地仙厳園へは車で1時間20分程東へ向かいます。ここでの目的は桜島を築山に見立て、錦江湾を池に見立てた雄大な光景が見られる島津家の庭園と反射炉跡を一目見たかった。仙厳園正門前では体調や検温、アルコール滅菌等感染予防の対策は十分とられていた。園内中ほどの錫門、朱塗りの江戸時代の正門。屋根は薩摩の特産品の錫で葺かれています。世界遺産の構成資産ひとつ反射炉跡は、正門を入って左手に城壁の様に建っています。28代島津斉彬が鉄製大砲の鋳造のため築いたもので、煙突が聳え立つ韮山の反射炉とは違い、炉の基礎となる炉体の跡が今も保存されています。桜島の噴火活動は訪れる前日までは活発だったようですが、滞在期間中は穏やかな表情を見せていました。錦江湾に浮かぶ桜島、今も噴煙を上げる桜島はこの地のシンボルでもあり、火山と共に生活がある。余談ですが、その日は気付かなかったけれど、翌日の朝、車の窓ガラスに薄く白い砂が積もっていたのには驚きました。これが桜島なんだと実感。尚古集成館 仙厳園の左に隣接し、幕末の薩摩藩主島津斉彬が西欧諸国のアジア進出に危機感を持ち、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践、それら事業の中核を担ったのが集成館一帯。ここから大砲などの西洋技術が各地に広がっていったといっても過言ではない。1865年(慶応元)に竣工した機械工場は重要文化財で現在は島津家の歴史、文化と集成館事業を展示する博物館になっています。仙厳園・尚古集成館住所 / 鹿児島県鹿児島市吉野町9698-1滞在二日目最後の目的地照国神社に向かいます。その前に今夜の宿、城山ホテル鹿児島にチェックインし荷物を置くことに、部屋の窓からは夕陽に染まりつつある桜島が一望できる。照国神社の授与所は夕方5時まで、あと30分、悠長に景色を見入っている場合ではないか。ホテルから近道の狭い階段を下り神社を目指す。かみさんは島津家の家紋が入った御朱印帖を手に入れたかったようで絶対外せない場所、ギリギリ間に合い念願の御朱印帖を手に入れ大満足。照國神社島津齊彬は1851年(嘉永4)、43歳で薩摩藩・藩主を襲封し、1858年(安政5)に亡くなるまでの僅か7年間の治世ですが、その間の事績は藩内にのみならず日本にとっても数々のものを残し、生前の遺徳を慕い崇敬の念から1863年(文久3)照國大明神の神号を授けられ照國神社が創建された。祭神は照國大明神、島津家28代当主11代藩主 島津齊彬 照國神社 住所 / 鹿児島県鹿児島市照国町19-35参拝を終え、城山を背に建つ西郷さんにもご挨拶したし、市内を走る路面電車を見がてら晩御飯へ。ホテルは夕食の予約が埋まる程の宿泊客、GoTo効果は大きいようだ。市内で一杯ひっかけながら晩御飯を済ませ、ホテルに戻りやっと一息。展望露天風呂で疲れを癒し、夜景を見ながら再び飲む。イルミネーションが施されクリスマスが近いことを告げているが、今年は家族揃って乾杯は見送りだろうね。鹿児島滞在も明日が最終日、いよいよ桜島に渡ります。そしてお決まりの早起き、窓から朝陽に輝く錦江湾と桜島の綺麗な事。城山ホテル鹿児島 住所 / 鹿児島県鹿児島市新照院町41-1二日目工程 関連記事 / 2泊3日で鹿児島県一之宮巡りday1 、韮山反射炉と大黒天 、2泊3日で鹿児島県一之宮巡り day3
2020.11.29
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お国の勧めるGo Toなんちゃら決めきれないお国の方針、やばい県民でありながら噛み合わない県と市の方針。体調は完璧、感染防止対策も出来る限りの準備をした、11/24~26鹿児島の大隅國、薩摩國一ノ宮に行ってきました。セントレアからプロペラ機で鹿児島空港へ、搭乗前も検温、手滅菌の徹底、機内でもマスク着用のマナーを皆さん守られている。この上で何を求める。お国の示すGoTo、かみさんは普段届かない遠方の一之宮を選んだようです、車中泊で巡る予定でいた地域、お国が勧めるのであれば当然の選択。最初にこれだけは書いておこうと思います。迎え入れてくれる施設では最善の知恵を絞り、この状況下を乗り越えようとしています。出かける個人の振舞いがこれらを全て台無しにしてまう、違うだろ?と思う光景を何度も感じた二泊三日でもありました。鹿児島空港からほど近くの大隅國一之宮 鹿児島神宮日豊本線の隼人駅から北に約1㌔に鎮座し、社頭の大鳥居からは長い参道が境内まで続き、二の鳥居をくぐり石段の参道を三つ登り切ると社殿が広がります。海幸山幸の神話によるところの社で、祭神は彦火火出見尊(別名山幸彦)、筑紫の国開拓の祖神で高千穂宮を営み給い、580歳の長寿に亘り農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくったとされます。幣殿天井一面に野菜や花の天井絵と二本の柱に巻き付く龍が彫られた巻龍柱が見所。大隅國一之宮 鹿児島神宮 創建 / 不明祭神 / 彦火火出見尊、豊玉比売命相殿神 / 仲哀天皇、仲哀天皇、応神天皇、応神天皇皇后住所 / 鹿児島県霧島市隼人町見次内 24961今回は飛行機とレンタカーによる移動、名古屋発が昼となり初日の参拝はここのみ、ここから一気に90㌖南下し、かみさん念願の砂蒸し風呂で知られる指宿温泉に向かいます。今夜の宿に到着したのは18時前、チェックインを済ませ宿から数分の「砂蒸し会館 砂楽」へ。とっぷり日が暮れ周囲の景色は眺められなかったけれど、念願だった「砂に埋もれる」を体感し大満足の様子、じっくり一時間くらいはと思っていたけれど、こちらが推奨する10分が程よく体の芯まで温まるところかも知れない。それ以上は罰ゲームの世界かも。宿に戻り晩御飯、滞在期間は専用個室で食事、仲居さんも専属で対応してくれ、他の客との交差汚染、感染経路の特定に対し配慮されているようです。目の前で上げてくれるさつま揚げや地の魚等盛りだくさん。おやじには結構お腹一杯、いも焼酎の心地よい酔いが今日の疲れを癒してくれる、夫婦で訪れるには落ち着いた絶好の宿です。鹿児島湾を眺めながらの展望露天風呂もなかなかいいものです…この後バタンキュー。お約束の早起き、日の出の美しい光景は最高の御褒美。朝食もボリュームたっぷり、ご飯がすすむ、朝から食べ過ぎだ。スタッフはこの状況下で精いっぱいの配慮を見せてくれる、にも関わらず館内のマスク着用、エレベーターでは相乗りを控えて、とありながら守られないのは悲しいものがある。温泉同様とても温かみのあるいい宿でした。指宿温泉、嘗ての賑わいとかけ離れ、随分寂れた印象でした。夫婦露天風呂の宿 吟松 鹿児島県指宿市湯の浜5-26-291日目工程関連記事 / 2泊3日で鹿児島県一之宮巡り day2
2020.11.27
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岐阜県下呂市萩原町上呂飛騨川沿いに続く国道41号線を「飛騨萩原」から飛騨川左岸を10分程高山方向に向かう。国道と並行して伸びるJR高山本線の脇に鎮座するのが飛騨國二之宮『久津八幡宮』国道から高山本線を踏切を越えると右手に参拝者駐車場、その先に境内が広がります。駐車場から続くこの参道、拝殿の向きからすると脇参道なのかもしれない。左が社務所のようです。鳥居をくぐり拝殿と右に手水舎。境内の手水舎、手水鉢境内伽藍上 拝殿下 中央から幣殿と本殿、左の鳥居は美魂神社で鳥居の左右に杉の巨木が聳えていますこちらが正参道ですね、鳥居前に社号標と狛犬、正面に拝殿。社頭を高山線の線路が横切っています。あらら遮断機が下りてしまった。社頭を守護する狛犬吽形は子持ち、阿形は玉を持っています。境内右隅に社号標が二つ、左が県社の社号標、右が郷社の社号標。拝殿(重要文化財)入母屋杮葺きの屋根は軒先に向かって美しい曲線を描き、縦横の比は安定感のある優雅な佇まい。1581年(天正9)とされ、益田の国領主、三木自綱の命で普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥次右衛門、内記喜助を任命し、桜洞住民で飛騨の匠の流れを汲む桂川孫兵衛を棟梁として建立されたもの。この拝殿正面の軒下には「水呼ぶ鯉」と呼ばれる鯉の二つの作り物が左右に施され、火難除けの守護を務めています。その左右には矢も描かれています。現在の鯉は1854年(嘉永7)の大修理の際に取り付けられたもの。鯉と↑が書かれた看板がなければ気付くことはないでしょう。上水を呼ぶ鯉の昔話の解説、どうやら鯉は必要以上に仕事し過ぎたようです。下鯉の左右に付けられた矢はそれを鎮めるために後から付けられたようです。幣殿1827年(文政10)に再建され、その後、明治、大正、昭和と大改修を受けたもの。幣殿前の狛犬、こちらも子持ち玉もち。上久津八幡宮由緒祭神は應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。仁徳天皇六五年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし、平治の乱(1159)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。その役応永一九年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建、天正九年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により修理造営が行われてきている。古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され、飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。天然記念物夫婦杉雄杉と雌杉、周囲12.5㍍樹齢1500年配祀祭神倉稲魂神、火産霊神、大山祇神、須佐之男命、事代主神、磐長姫神、久久能智神、菅原道真下 久津八幡宮所蔵の宝物幣殿右に本殿への参拝順路の案内板。幣殿から本殿方向へは右に参道が整備されています。本殿1412年(応永12)、飛騨の国領主、白井太郎俊国が祈請により、家臣の山下作右衛門友貞を普請奉行にして、美濃の武沢茂右衛門利久を棟梁として再建された、杮葺き屋根の流造。南側の蟇股には「鳴いた鶯」の伝説が伝わる彫が施されています。鳴鶯の蟇股むかし、むかし一人の男が夏の暑いなか歩いて久津八幡様で休憩をしている内にうとうとと眠りについてしまった。しばらくすると小鳥のさえずりが聞こえてきました、せっかく寝付いたのにやかましいと云いつつ森に向かって小石を投げるとぴたり鳥のさえずりが静まったが、ホーホケキョ〃〃と鳴くウグイスの声だけはいっそうはっきりと聞こえてきました。男は鳴き声の方へ歩いて行くと不思議な事に本殿の軒下の木彫りのウグイスから聞こえていました。男は小石をその木彫りのウグイスに投げつけるとパッタリとやみ、ただ木の葉を渡る風の音だけがサラサラ聞こえていたと。男は慌てふためいて境内を飛び出し村人にこの出来事を話したと、このときからや、軒下の二羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ぶようになった。この彫物が鶯なのかはともかく、人が思いを込め作ったものには何か不思議なものが宿るのかもしれない。本殿から拝殿の眺め。上美魂神社境内に左右に聳え立つ夫婦杉の偉容。老木で割れもありながら今も青々としている。下美魂神社この一帯の戦没者をお祀りする。夫婦杉から見た本殿。流麗な流造の姿が良く見る事が出来ます。上境内に一際目を引く巨大な夫婦杉、それ自体がこの神社の歴史で、不思議な鯉や鶯の昔話もそれを物語っている様です。下社頭の高山線と国道、そのすぐ右には飛騨川が迫っています。近年の異常な降雨による河川氾濫は、今年は飛騨川水系にも大きな被害を与えました。恐ろしい側面を持つ川は反面で実りをもたらしてくれます、生活と川は密接な関係です、それがこの距離感なのかも知れませんが、ここはあの2本の矢が水を鎮めてくれている。202/9/28飛騨國二之宮 『久津八幡宮』創建 / 377年(仁徳天皇65)祭神 / 應神天皇、天照皇大神、春日大神配祀祭神 / 倉稲魂神、火産霊神、大山祇神、須佐之男命、事代主神、磐長姫神、久久能智神、菅原道真住所 / 岐阜県下呂市萩原町上呂2345-1公共交通機関アクセス / JR高山線「飛騨萩原」から高山方向へ徒歩25分程
2020.11.26
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前回掲載した報恩寺から東に向かいます知多半島の中央を南北に伸びる「ふるさとロード」、そこから少し東に進むと道は二手に別れます。恋之水神社はこのY字路の手前左側に鎮座します、道路左の水色の鳥居が目印。鳥居の前に駐車場があり、そこからだと鳥居は目の前。社頭には「健康長寿、縁結び、交通安全」とこちらの御神徳が大きく掲げられています。恋之水神社鳥居額ここは縁結びにご利益がある事で知られ、若いカップルや良い縁を授かりに訪れる参拝者が多いと聞く。鳥居をくぐると恋之水神社の社標、杜の中に境内へ続く参道が下に伸びています。参道を降り始めてすぐ右側に石標が二つ、詳細は分かりません。鳥居から参道を下ると右手におみくじ掛け、無数のおみくじが結ばれています。境内全景。左が社務所で右手前に小さな社がある、その先には拝所と社殿があるようです。更に正面奥には白い紙コップが山積みにされています。境内右の社は大己貴命と少名彦名命を祀るようです。良く調べきれなかった石碑が二つ、句が彫られているような。社殿は二つの覆屋の中に祀られています。神前には願いが書かれた紙コップで一杯、しかも上手に何段にも積まれています。恋之水神社由来神代の頃、大己貴命と少名彦名命の国造りの時、少名彦名命が病気になり大己貴命が一刻も早く全快するように祈願した、電光とともに美都波能女命が現れ、この地の水を与えれば病も治癒すると告げ、以降万病の特効薬と称される。允恭天皇の病や聖武天皇の妻、光明皇后もこの水により治ったと伝えられている。恋之水神社には美都波能女命が祀ってある。桜姫伝説一説には桜町中納言の藤原成範の娘の桜姫が家臣青町と恋中になり、反対を押し切り山城国愛宕北山村(現在の京都)に隠れ住んだが、靑町は病にかかり1191年(建久2年)桜姫はお告げを受け、この地の水を汲みに訪れた。その所在を土地の者に尋ねたところ戯れから「今まで来たくらい東の方」と答えたと云われ、落胆の余り桜姫はこの地で倒れなくなったとされる。これより恋之水神社とも云われ、その水は恋の病や万病、健康長寿に御利益があるとされる。祭神は水の神、井戸の神と云われる美都波能女命を祀る。恋の水社務所で紙コップを買い求め、ここで願いを書き恋の水を注ぎ神前にお供えし祈願する。奇跡の湧き水は絶えることなく注がれ続けている。左側の社殿祭神等の詳細は分かりません、ここも願のかけられたコップが山の様に供えられています。三段に積まれたコップ、恋の病に悩む方は多いもの、そんな時期は誰しもあるものです。時に神に頼むのも必要です、待っていて何も変わらない、積極的に自らの扉を開ければ道は開かれるはずです。思う方とここを訪れ、敢えてその場で相手の名前を書いて見せる、ここではそれも許されるはずです。出逢いがないと思ってここを訪れる、その時あなたの名前が書かれたコップがあるやも知れない。恋之水神社の社殿の全景桜姫の碑社殿の左にあります。恋の病にも効く評判から、授与所で販売する紙コップに思い思いの願いが書かれたものが無数に奉納されています。一つ〃のコップには其々の思いが込められています。神社全景右は山間地の田んぼ、左は丘陵地の斜面、恋の水はこの斜面から湧き出しているようです。縁結びのお守り所謂相合傘が描かれている、よく見れば笠は左が一部線が切れ、やや左に傾いている。右に相手の名前を書き、左に自分の名前を書き入れ、相手の気持ちが自分に傾くようにとの願掛け。切れた線はその願が叶ったときに線を結ぶものだそうです。少名彦名命の病を癒し、桜姫伝説が伝わる恋之水神社、今もその不思議な力を求めて訪れる参拝者は多い。2020/10/26恋之水神社創建 / 不明祭神 / 美都波能女命住所 / 愛知県知多郡美浜町奥田中白沢92公共機関アクセス / 名古屋鉄道知多新線知多奥田駅より約2km車アクセス / 知多奥田駅から報徳寺経由10分程関連記事 / 報恩寺
2020.11.25
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熱田神宮末社 『大幸田神社』熱田神宮境内の東側(上の赤丸部分)に位置し、前回掲載した内天神社の参道を挟んですぐ北隣に鎮座します。南を向いて鎮座する大幸田神社、こちらの神社も戦災により被災し1955年(昭和30)に再建されたもの。外観は熱田神宮境内末社に共通の銅葺屋根の神明造りで、内削ぎの千木と4本の鰹木、周囲を高い玉垣が囲うものです。後方に見える土壁は信長塀。大幸田神社(おおさきだじんじゃ)祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祀ります。宇迦は五穀の神、食物を掌る農耕神、そのことは「大」きな「幸」を「田」にもたらす、社名にもあらわれています。農耕を生業とする農民にとっては身近な神さまとして崇められています。長い歴史を持つ熱田神宮、古来より神事が受け継がれてきます、その中で大幸田神社に執り行われる神事が幾つかあります。大幸田神社 1月7日の世様神事(よだめししんじ)大幸田神社の神前に据え、神職により斎甕(いみがめ)の封を解き、神水の減水量を計り、その年の雨量の多小、干ばつの有無を占う農業神事で、これによりその年の農作物の豊凶を占うもの。1月11日の踏歌神事(とうかしんじ)舞と歌曲により大地の精霊を鎮め、除厄と招福を祈る神事。1月12日の封水世様神事(ふうすいよだめししんじ)世様神事で神水の減水量を計った斎甕を神楽殿(かぐらでん)に据え、毎年同量の清水を計り入れ甕の封を閉じ、翌年の世様神事まで東宝殿床下に納められるそうです。(上3枚の画像は熱田神宮HPから引用加工)豊かな自然と共にあり、人知を超えた自然を神さまと崇め、ある時は怒りを鎮め、ある時は感謝であったりする。近頃の季節感のなさ、流行病も自然への畏敬の念を忘れかけてきた警鐘?とも思えたりもします。これが警鐘から怒りにならないように、参拝のたびにお願いする無信心な自分がいる。熱田神宮末社 『大幸田神社』創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂神住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 内天神社
2020.11.23
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10月中旬から始めたリニューアルさぼってばかりで遅々として進んでいなかった部屋に置き去りになったままの残ったデコウッドやwebで頼んだ排水パッキンを見るにつけ、これはさすがにやらないといけないそんなことで昨日から再び再開しましたまずは、便器の水面が僅かに揺れ、微妙に水が漏れている、排水弁パッキンを交換。最初にトイレの傍らにある給水バルブは忘れずに閉めておきます。これを止めるには給水タンクの底にある二つのパッキンを交換します。下は給水タンクの構造図、問題のパッキンが付く個所は図の赤い枠で囲った「排水弁」と呼ばれる部分で左はそれを拡大したものです。この部分の一式を部品交換する場合は上の赤枠で囲った品番と金額。これだけ見ると一式交換の様に見えてきます。しかし、漏れは一式交換の必要はありません。下がその部分の写真で、給水タンク中ほどに鎖に繋がれた先にこんなのがいるはずです。この「排水弁」は二つの可動式の弁が付いていて、二つの赤丸は上が「小」のレバーを押すとこれが開閉、下は「大」を押すと小の弁を乗せたままここの弁が上に持ち上がり排水する仕組み。排水量の違いは二つの弁の高さの違いから起きている事が分かります。それらは樹脂製の支点に挟み込んで付いているだけなのでマイナスドライバー一本あれば取り外せます。但し、強引に隙間に突っ込んだり、過度に広げると「割れてしまうかも」と認識してやさしくやれば大丈夫。下がこの「排水弁」の構造図。一式変えなくても其々販売されてますね。で、二枚のパッキンは赤枠の物です、金額もこんなもので手に入ります。普通郵便で送付してもらい交換用パッキンを手に入れるパッキンは2枚入っていて、上の写真(取り外したもの)でいえば、真ん中の穴が小さい物が「小用」で大きい穴のものが「大用」です。間違えても付かないので心配無用です。【全品送料無料!】□[HH11027]《4》TOTO トイレ部品・補修品 ロータンク内部 排水弁パッキン部 大洗浄・小洗浄用2枚セット後は小用の弁の支点をドライバーで優しく広げて取り外し。裏の突起にハマったパッキンを取り外し、新しいパッキンを再び突起につけるだけ、工具も不要でした大の弁体は老眼で支点が良く見えなかったのでドライバーで広げるのを避け、弁を上に持ち上げた状態で指先の感覚を頼りにパッキンを取り外し、再び取り付け。 衰えはこんなとこにも表れる、悲しい現実だね。上が大用のパッキン、ボロボロに劣化が進んでいます、これが原因です。小は全く表面劣化もなかったけれど、新しいものに交換。この劣化の差は使用頻度そのもの、いろいろ聞いて見ると使うのは「大用」のボタンばかりだったこともあるようです。これを見て使い分けが必要なのがよく分かりました。過度に水を浪費して、苛酷に扱われた「大用パッキン」お疲れさん。作業時間 老眼のおやじの初体験構造把握に20分、広げる工具のチョイスに5分、取り外し交換20分程で終了です。さて、次に残っていたデコウッドをありったけ貼ってしまう事に。当初は木目を横にして全面均等に下から貼っていく予定でいたけれど、かみさんのリクエストで木目は縦にして高さ指定となった。幅15㌢、長さ1㍍で22枚梱包されていましたが足りない、追加で発注しないといけない。取り敢えずご指定の高さで両側を貼り切る事ができました。これで残っていたデコウッドを見る度「やらんとなぁ」とプレッシャーをかけてきた目障りな奴を使い切った。まだ奥が出来ていませんが、かみさんの評価は上々でお気に召して頂けたようです。この勢いで手洗いも貼る事になった。でもしばらくは大丈夫だ貼るものが無い。追加分が届けば再び外出自粛だな。赤提灯が恋しい、銭湯の電気風呂にも入りたいよぉはっきり決めれない親方様、どうなっていくのかな全備 接着剤付ウッド調タイル「デコウッド」 チーク 22枚セット【北海道・沖縄・離島配送不可】 AW5651価格:7,980円(2020/10/17 11:53時点 )感想:0件
2020.11.22
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国際宇宙ステーション(ISS)が夜空を音もなく通過していきました。かみさんとふたり夜空を見つめていました。今のISSはクルードラゴンをくっつけ、野口さんの活動している。今回は良く見えました、欲を出しカメラを向けたものの…目視が一番かも知れないね地上はCOVID19が何度目かのピーク?を迎えつつありますいくらなんでもあそこでマスクは不要なはずだ、気になるところ次は23日にもよく見えそうですよあんな事が出来るんだから、COVID19もなんとかできる力を持っているはずそれまでは気を緩めずにやれることはしようクルードラゴン無事に戻ってくることを願うのみだね名古屋市科学館
2020.11.21
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名古屋市千種区にある曹洞宗の泉龍山桃厳寺地下鉄名城線「本山」駅から山手グリーンロードの地味な上り坂を南に5分程歩きます。坂の途中の東側に写真の様な門前。「山々が紅葉深まる」とTV等で話題になると、身近に季節の変わり目が感じられないというのか、気が早いと云うのか、ここを訪れそれを感じようとするのが恒例。おやじの春と秋の散歩コースに入ってくるお寺です。今年も一足早い11/14に訪れてきました。新緑や紅葉の時期は門前と山門、大佛さま辺りの光景は趣があります。まだまだ早かったね、それでも緑の中に落葉樹が黄や赤に色色付いてきている。この参道は紅葉も終盤になると落ち葉で赤く染まります。秋の桃厳寺の見所だと勝手に思っています。清浄門どことなく大陸の香りが漂う門、右手にもみじがあり、これらも赤く色付くのでその頃がこの場所の見所。水盤に移り込む周囲の色も緑が多い、水面に浮かぶ落ち葉、赤い紅葉の葉が浮かぶにはあと一週間くらいか。浮かべてしまうか?不老門二層の赤い鐘楼門で趣は龍宮城の龍宮門を思わせる。門の赤は印象的です、ここにももみじがあり盛期を迎えると紅葉が主役。桃厳寺略記1549年(天文18)末森城主織田信秀の菩提を弔うため織田信行が柴田勝家に命じて建立。色々話題のある桃厳寺ですが、不老門をくぐった左に信長の父、信秀の廟所があります。織田信秀廟所以前は城山八幡宮西南の当時桃巖寺領だった揚輝荘の一角に、信秀の墓石と三基の五輪塔があった。信秀250回忌の1801年(寛政13)に再建され、信秀と信行に加え柴田勝家の名も記された。信秀没後400年の1951年(昭和26)に桃巌寺境内に移された。麒麟が来るでは信秀役を高橋克典さんが熱演していました。名古屋大佛1987年(昭和62)に建てられ、台座を含めると15㍍の高さがある。個性的な色ですが、建立当時からではなく平成に入ってからこの色に変りました。紅葉も終盤を迎えると大佛さまの緑と赤く染まったもみじのコントラストが綺麗な場所。静かな境内に設けられたベンチに座り、ゆっくりとした時間を過ごすのもいいものです。2020/11/14泉龍山 桃厳寺創建 / 1549年(天文18)宗派 / 曹洞宗本尊 / 聖観世音菩薩住所 / 名古屋市千種区四谷通2-16公共機関アクセス / 市営地下鉄東山線「本山」下車、南へ徒歩で5分程関連記事 / 城山八幡宮 桃厳寺
2020.11.20
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岐阜県郡上市和良町宮地国道41号線を下呂から飛騨川沿いに下り、保井田交差点で右折し長いトンネル(ささゆりトンネル)の国道256線を和良川沿いに郡上方向に向かいます。やがて和良の集落に入ると国道沿いに「戸隠神社」の看板が目に止まり立ち寄ってみました。41号線からここまで20分もかかっていなかったと思います。釣り好きな方はご存知の和良川が町の中心を流れ、豊な森は川を育み渓流魚のみならずサンショウウオやムササビ、ヘビやクマも当然いる。自然豊かな地域。道はこの先で二手に別れ、直進すれば郡上、右に行けば名宝へと続きます。今はトンネルも出来、道路事情が格段に良くなったけれど、周囲を山に囲まれた山間地、どこに行くにも山越えで厳冬期は大変だったことだろう、まさに山郷。社頭全景山間地の山里に真っすぐ伸びる参道、長閑な田舎の神社そのもの。国道沿いの社号標と解説板、参道の左にそそり立つ大きな杉が目印か。参道の遥か先に赤い鳥居も見えています。社頭の解説と後方の大木は戸隠神社の一本杉・1874年(明治7)に戸隠神社に改称された、以前は九頭宮と呼ばれた。・938年(平安後期)の美濃国神名帳に郡上郡七社のうちの1社「正六位上 国津明神」と記録が残る。・郡上藩主の橘頼綱が国土安泰と戦勝祈願のために1272年(文永8)~1275年(建治元年)に亘り、大般若経600巻を写経奉納された。・大般若経の奥書の「九頭大明神御宝前」の記述が当時から既に九頭宮が存在していた事を示す。・1569年(永禄12)、三木自綱が郡上へ侵入、戦利品として河尻新之亟利廣が飛騨に持ち去り千光寺(大野郡丹生川村)に寄進した、現在戸隠神社には残簡一部が存在する。・1594年(文禄3)落雷により本殿、その他を焼失するが、1607年(慶長12)郡上藩主の遠藤慶隆によって社殿等再建。・郷中盛衰記の1840年(天保11)に和良街道道筋の大社として記されている。・1960年(昭和35)銀幣社に指定。祭神・手力雄命・境内別社に御鍬社があり、1682年(天和2)の御鍬神廻国以来の歴史があり、祭神は豊受大神を祀る。例祭・10月前日土曜日、第二日曜日天然記念物・重ね岩、社叢、一本杉主な文化財・棟札等20枚、大般若経残簡、棟飾り一式、軍配一式・ 振板獅子頭二体、山犬狛一対、金泥馬酌一対、本殿金銅製御幣、九頭大明神篇額、十二支浮彫、鰐口・御神輿一式、舞台二棟創建時期は不明ですが938年(平安後期)以前には既に何らかなの形で鎮座していたようです。更に1873年(明治6)それまでの「九頭宮」から「上沢神社」へ社名を改め、翌年に現在の「戸隠神社」にに改称されたようです。道すがらに出会い参拝によったけれど想像を超える古社の様です。上参道を入ったすぐ左に建つ建物が社務所でその脇に手水舎があります。下その後方に道路から見えていた大きな杉が聳えています。戸隠神社の一本杉と云われ岐阜県天然記念物に指定されています。・938年(平安後期)に鎮座した頃は両脇に一対植えられたが東側が枯れ一本になった。・樹齢千年以上で風雪や落雷などの自然災害から耐え、今も尚樹勢が衰える事はない、神社のご神木として住民から崇められ、守り続けられてきた。・樹高約33㍍、幹回り約6.5㍍、樹齢約1000年と推測される。ポツンと聳える一本杉、ここ宮地のランドマークといってもいいかもしれません。上一本杉から更に参道を進むと右手に大きな参拝者駐車場が確保されています。下参拝者駐車場から神社全景境内は真下から見上げると首を痛めるような見事な杉の巨木が大きな杜を形作っています。控え柱の付けられた両部鳥居、飾り金具が施され、笠木の反りが美しい。大きな鳥居なんですが、両脇のご神木はそれを感じさせない程の大木、自然の息吹の凄まじいこと。斜めからの鳥居全景周囲の環境と赤い鳥居の佇まいはお気に入りの鳥居の一つに加わりそうです。橘頼綱顕彰碑・元寇の役にあたって国難退散を願い大般若経を書き写し、1275年(建冶元年)九頭大明神に奉納。・大半の大般若経は高山市千光寺に所蔵されているが残巻の一部が宝物として残されている。・この史実から地域のみならず国の「国家安泰」「天下泰平」の鎮守の社として厚く崇敬されてきた。上境内右には舞台と小さなお堂下鳥居をくぐった左の夫婦杉、二本の幹の間をくぐると子宝に恵まれるとされる。後方は神楽殿と思われます。上拝殿正面全景拝殿は平入の切妻下夫婦杉から見た境内全景拝殿右手から後方にかけては山の傾斜が迫っています。右手には多くの解説板があるようです。拝殿右の解説上社頭と内容は同じの様です下こちらは文化財一覧、こちらも社頭と内容は同じの様です上一本杉で見かけた和良パワースポットマップこれを見る限り所謂パワースポットは全て戸隠神社にあるようです。そこの中で本殿後方に磐座があるようです。下磐座の中で特にパワースポットとされるのが重ね岩とされているようです。天の岩戸神話によれば、天照大神は弟の素佐之男命が高天原で乱暴を働いた事を憂い、天の岩屋に籠ってしまう。日の神を失くし、世界は暗闇に閉ざされ悪しき神々が横行、高天原神々が集まり知恵を出し合った。その結果岩屋の前で踊り騒ぎ、天照が興味を示し顔を出したところを手力雄命が引きずり出す作戦を立てた。作戦は成功し天照は岩屋から出され再び世は光に満ち溢れた。その岩屋から引きずり出す際、手力雄命は岩屋の扉(岩)を放り投げたという、その扉は信濃の戸隠山(戸隠神社)まで飛んで行ったという。天の岩屋から飛んでいく途中、その欠片が落ちて重ね岩の上に乗ったとされる。下の岩に乘った欠片の重さは42トン、奇跡のバランスで片手で回す事ができた(現在は立ち入り不可)そうです。そのことから天下の奇岩、祈願の岩として崇められている。確かに戸隠神社までの直線上に戸隠神社(…ややこしや)が位置しているようだ。手水舎と拝殿前の石灯篭・江戸時代後期宮地村の百姓六衛門が立身出世し近藤勘十郎と名乗り生糸生を開業し富をなした。九頭大明神の厚い崇敬者だった勘十郎は神社へ多大な寄進を行った。・彼が寄進したもので現存するのがこの石灯篭とからくり山車二台である。・石材は八幡町の小樽石を使用したと云われ、石材の搬送は堀越峠の難所と云われた地獄谷を氏子達に担がれ運ばれてきた。・勘十郎はその他にも宮地村島田に水田など故郷に多くの寄贈を行った。大成した者は、ひたすら富を蓄え続けるだけではなく、自分を育んだ故郷に貢献するという事です。拝殿前の狛犬は黒ずんでいて、風格を備えた姿です。本殿域全景正面に本殿、祭神は手力雄命を祀る、扉を放り投げた神様です。左に別社豊受大神を祀る。拝殿右の九頭の磐座方面から捉えた拝殿。なかなか拝殿と本殿を一枚に纏める事はできない。本殿と別社どちらも素木の流造、派手な彩色はないけれど彫飾りには手がかけてあるようです、これ以上は寄れません。岩座へは拝殿右から本殿脇の斜面に道が付けられ、斜面に大きな岩が並んでいます。男岩、女岩、結岩、欠片が乗った重ね岩などがあります。上重ね岩手力雄命が高千穂から飛ばした天の岩屋の欠片が乗る重ね岩。本殿右脇の巨石の上に注連縄が巻かれ岩が欠片です、少ない接地面で見事に安定を保っています。どうしてこうなったかやぼな考察は置いといて、ともかく不思議な現実には驚く。絶妙なバランスの欠片は地震でも落ちる事はなく、落ちないという事から合格祈願に訪れる方は多いと云います。下横岩上結岩下滝口岩、その右奥に女岩こうした斜面に曲岩、男岩等が点在し九頭の宮の磐座として崇められています。杉の大木が作り出す静まり返った杜の空間には凛とした空気が漂い、何かの存在を感じる。存在…神?熊?猪?、何がいても不思議ではない。鳥居から現実の世界に戻ると長閑な山間地の風景が広がります。一本杉の下には彼岸花が盛りを迎える頃。2020/9/28 戸隠神社創建 / 不明祭神 / 手力雄命住所 / 岐阜県郡上市和良町宮地1-1
2020.11.19
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ここ数日は温かい日が続き、散歩に出かけても気持ちがいい公園の樹々の紅葉も赤や黄に染まりカラフルになってきましたもみじとかえでの違い、今もってよく分からない多分これらはカエデなんだろう自分の中では、蛙の手の形に似た葉はカエデという事で勝手に決めている切れ込みの数だとか諸説あるようです取り敢えず、鮮やか、それでいいか11/17 茶屋ヶ坂公園にて
2020.11.17
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熱田神宮末社『内天神社』熱田神宮の広い境内の東側に位置し、前回掲載した六末社(下の赤丸部分)の北隣に鎮座します。六末社が神明造りの建売分譲住宅と形容するなら、内天神社はお隣の敷地に建つ個性的な注文住宅のような神社かもしれない。玉垣で四方を囲われ、立派な門が西側に設けられています。こちらの内天神社は以前掲載した楠御前社同様、社殿というものはありません。門には「内天神社」と社名札は掲げられているものの、神域の中に社殿は建っていません。余りに急速な宅地化で、取り敢えず自分の土地だけは囲っておいて後で考えればいいか・・・・・的な。冗談はさておき、内天神社と云われるからには外もあるのか? となります。これは以前『菅原社』で記したように、外天神は学問の神さま菅原道真をお祀りする『菅原社』が外にあたります。ここ内天神の御祭神は、大国主命の国造りのパートナー少彦名命とされ、医療の神、醸造の神、温泉の神等として知られる頭のいい神さま。大きな大国主命に対し、少彦名命は小さな神様で一寸法師の原形とも云われます。医療の神、少彦名命を天神さまとしてお祀りしているけれど、絵馬などはなく、神域には神木があるのみ、なぜだか賽銭箱もありません。社殿を持たない理由も分かりませんが、小さな神様だけに人の目では捉えられない社殿があるやもしれない。分からないと云えば、公式HPでこの「内天神社」について解説は記されていません。外天神が1529年頃に描かれた享禄の古図に記されていた事から、内天神社も当然ながら鎮座していたことになります。少彦名の様に頭脳明晰ではない者には「内天神社」分からないことだらけです。熱田神宮末社 内天神社祭神 / 少彦名命住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 六末社、菅原社、楠御前社
2020.11.15
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秋にしては温かい一日随分と身近にも秋を感じるようになってきました少し頑張って本山から少し南の桃巌寺に紅葉の進み具合を見に行ってきました。山門の辺りの紅葉はまだまだ、少し気が早かったようです毎年紅葉も終わりに近づくと、この参道は落ち葉で赤く染まり、好きな紅葉スポットまだまた早い緑の大佛さん相変わらず強烈な個性を放っていますこの辺りの楓は山の影になることもあり、紅葉には程遠い日暮れが早くなり、とても損した感じだ温かい日差しが陰ってくると気温も一気に下がる温かみのある黄色の絨毯は今が盛りこれを過ぎ北風が吹きだすと玄関先は枯れ葉の山となる今年は生活様式が一変したけれど季節は確実に巡っています
2020.11.14
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知多新四国八十八箇所霊場 五十七番札所 曹洞宗 乳竇山 報恩寺名鉄知多新線「知多奥田」駅の南に鎮座する曹洞宗のお寺「報恩寺」。駅の線路の先に見えているので一見近そうに見えますが、線路沿いに道はなく道のりは遠い。「報恩寺」は知多新線の高架をくぐった左側の小高い丘に鎮座します。内海方向に向け赤い電車が走り去っていく。寺の前は刈り入れも終わった田んぼが一面に広がる。このご時世、息苦しさを感じる街の空間から少し離れると、解放感のある長閑な光景がある。ここならマスクを外しても奴はいないんじゃないかな。田んぼ沿いの狭い道路の北側に報恩寺の門前があります。参拝者駐車場も確保されています。かみさんが参加を続けている名鉄主催の「歩いて巡拝(まいる)知多四国」。たまに現地まで送迎するのですが、COVID19以前は日付指定の一斉開催で巡礼者の多さから一緒に参拝とまではいかなかった。コロナ禍で分散化を図るために期間を定めたものに変更され、このイベントで巡礼される方の姿は確実に密から分散傾向にあるようです、これなら車を停め一緒に参拝できる。とはいえ、ここから先は頑張って歩いてもらおう。報恩寺は田園地帯の高台で長い石垣に囲まれ鎮座しています、その光景は城を思わせる。石段の先の境内には本堂が見えている。伽藍は正面が本堂、右に寺務所、左に手水舎と大師堂、更に大師堂から少し西に秋葉堂。報恩寺 沿革「乳寶山報恩寺は、御本尊を西方如来(阿弥陀如来)。源頼朝公の乳母で、鎌田兵衛政清(頼朝の重臣で、頼朝を謀殺した長田忠致の娘婿)の母が文治元年(1185年)菩提を弔うため建立した。当時は天台宗で大己貴神社の北にあった。後の室町後期(永生年間)に緒川(東浦町)城主水野貞守の嫡男、賢昌公が現在地に再建し、曹洞宗に改宗し現在に至る」見た目以上に歴史のある古刹のようです。沿革にある大己貴神社はここから西へ徒歩で10分程の丘の上に鎮座します、その北と云うと現在は小学校があるあたりだろうか?緒川城は東浦町緒川字古城に平山城で、現在は城址碑と住宅地の中に僅かに土塁が残っているようです。本堂全景入母屋瓦葺のどっしりとした外観本堂に掲げられた山号額。僅かに開かれた扉から堂内を窺うが…本堂左の大師堂。瓦葺方型で唐破風の向拝が施されています、堂内には弘法大師像と梅花観世音菩薩が安置されているようです。噛みまくっていたかみさんの読経も随分早くなってきたようです、納経所で納経印を頂いたかみさんとはここで別行動です。頑張って歩けぇ大師堂左に穏やかな表情の修行大師像が安置されている。像の視線は上陸したと伝わる聖崎を向いているのか?大師像の前を左に進み秋葉堂へ向かいます。秋葉堂は境内の西外れに位置し、周囲を杜に包まれた一画に鎮座しています。入母屋瓦葺で妻入りの小さな堂です。参道から見上げる秋葉堂。杜に囲まれ静かに佇む堂ですが、すぐ左に知多新線の線路があり、時折通り過ぎる電車の音が漏れてきます。堂に掲げられた額。秋葉堂の由緒については調べきれませんでした。祭神は秋葉三尺坊権現。堂内の厨子には不動明王の姿も窺えます。参拝を済ませ更に西へ行くと視界が広がり、目の前に線路があります。この小路が右方向に続いていれば知多奥田駅も近いのですが、行き止まりです。ここから左に進み駐車場に向かいます。道すがらで見かけた赤い花、名は知らないけれど秋を感じさせる色合いです。左の線路を赤い電車が走る姿を入れたかったが、そう自分の都合のいいようにはいかないものです。駐車場に戻る途中に赤い電車は通り過ぎて行った、残念。知多新四国八十八箇所霊場 五十七番札所曹洞宗 乳竇山 報恩寺宗派 / 曹洞宗創建 / 1185年(文治元年)本尊 / 西方如来秋葉堂創建 / 不明祭神 / 秋葉三尺坊権現住所 / 愛知県知多郡美浜町奥田会下前39公共交通機関アクセス / 名鉄知多新線「知多奥田」駅下車徒歩10分程
2020.11.13
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飛驒一宮『水無神社』スキーをされる方は位山と聞くと「位山スキー場」を御存知かと思います。おやじにとって人生初のスキーを経験したのが当時の「位山スキー場」、いい思い出はない。ここでいきなりリフトに乗せられ「降りてこい」と云われ、死ぬ思いで斜面を転がり落ちていったのがトラウマとなりしばらくは行く気にならなかった、最初の印象は後々に影響するものです。スキーは大好きです、その境地に至るまでには随分時間と人との出会いが必要でした。面倒見のある人と出逢えるか否か、これが好きになれるか嫌いになるのかの別れ道だと痛感します。『水無神社』はその位山を神体山とし、古来より霊山として名高く、宮川の源流でもある。位山には水無神社の奥宮もあるそうだ。高山の町から国道41号線を30分程下呂方向に向かう、国道から左折するとそこは社頭。常夜灯とその先の鳥居がすぐ目に付く。鳥居前には位山から湧き出た水は渓流となり宮川として日本海へ流れます。神橋の袂の梅花藻の散歩道の案内板。この案内板によればこの川は常泉寺川と呼ばれ、この下流で宮川に合流します。澄んだ流れは梅花藻を見る事が出来るようです。しかし川岸に彼岸花の咲く時期では生憎とその姿は見られませんでした。梅花藻と聞くと柿田川や醒ヶ井などの緩やかな流れの中で揺らめくイメージですが、ここは流れが結構早い。釣りであっちこっち行ったけれど、この水系は縁がなくここで梅花藻が見られたとは初めて知らされました、地元の方により手厚く保護されているのでしょう。緩やかな水面に揺らめく梅花藻の姿は美しいものがあります。この綺麗な水と水無神社は無関係ではありません。諸説ありますが社名の水無は「水主(川の水源を司る神)」の意味であり、『みなし』(水成)や『みずなし』とも読み、『すいむ』と音読されることもあるそうです。社前を流れる宮川には川床があり、流れが伏流して水無川となることから、水無(みなし)川、水無瀬(みなせ)川原、鬼川原(覆ヶ川原)など地名となったそうです。神橋を渡った鳥居の左と社務所の北側に参拝者駐車場があり、そこに駐車します。鳥居から拝殿方向の眺め。真っ先に視線が行くのは狛犬かも知れません。これは犬なんだろうか、外見の割に色白ですがあまり馴染みのない不思議な容姿をしています。鳥居の左に入母屋造のどっしり感が漂う外観の絵馬殿。もとは拝殿だった。絵馬殿とは思えぬ大きさ故に境内へ進むのを躊躇い寄り道したくなります。かみさんの姿はとうにありません。水無神社の拝殿として建てられ、棟札には1607年(慶長12)高山城主の金森長近により造営とある。1778年(安永7)の百姓一揆「大原騒動」の際に、神主の山下和泉、森伊勢の両名が農民に加担したとして処刑され神主が不在となり、信州より神主の梶原伊豆守家熊が招かれたが、梶原伊豆守家熊は従来の両部神道を改め唯一神道とし、仏像や仏具、社殿を破却、移転、改築を進めたが、拝殿だけは取り壊しを免れたと云う。やがて明治時代を迎えて、当時の高山県知事が飛騨国中より醵金(きょきん)を募り社殿の造営をおこないましたが、従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際に不釣合いとなったので取り壊されます。これを惜しんだ氏子達は建材を保管、1878年(明治12)に拝殿再興を願い出て浄財を募り、元の位置に復元されました。その後、1954年(昭和29)に境内拡張のため、かつての社家跡(山本家屋敷)に移築され現在に至っています。場所は変れど、氏子達に守られ再び嘗ての姿を取り戻した旧拝殿。中には1819年(文政2)の絵馬も掲げられています。鳥居の右の「ねじの木」、聞きなれないけれどこれは「桧」。もとは絵馬殿の傍らにあったもので、名の由来のように樹皮がねじ曲がっている。このねじの木には二つの伝説があるようです、何れも「ねじれ」につながるもので、解説にはそれが記されている。正月参拝者のお土産に出される飛騨の伝統的な菓子「こくせん」があるそうですが、それはこのねじの木を模したものらしい。二段の境内、妙に大きな傘を持つ石灯籠、それ故四方はしっかりと支えが入れられています。竿には天保6年(1835年)と刻まれています。長年このバランスで現在まで残ってきたようです。見た目とは違い、以外に安定しているのかな。境内を一段上がり、ねじの木の左に小さな堂。解説には神馬二体とあります。中には白と黒の神馬が二体安置されています。それによれば白馬は1780年(安永9)に飛騨の工匠の武田万匠の手によるものという、もともとは黒馬だったものが白に塗り替わっていったようです。もう一方の黒馬は左甚五郎作ともいわれるようです。稲喰神馬(黒駒)古来より「左甚五郎」作と言い伝えられていますが詳細は不明の様です。その昔、黒駒は毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫を迎えた稲穂を食い荒らしたそうで、見かねた村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地が荒らされる事はなかった伝えられます。素朴な外観の神馬ですが、解体するのは難しいほどの組み方だそうです。「いななき神馬」 深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子を窺うに行くと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々あったそうです。 これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。素朴な姿の神馬ながら得体のしれぬ秘めたる力を持っているようです。島崎正樹句碑島崎正樹は明治の文豪藤村の父、水無神社の宮司として赴任し、教導職として多くの若者を指導したとされます。碑には宮村の晩秋を詠んだ「きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里」と刻まれています。境内を見渡すと左に社務所と手水舎。中央が拝殿、本殿、右に境内社の白山神社。白川神社霊峰白山の飛騨側山麓の集落、大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録され御存知の方は多いと思います。その白川村大字長瀬(通称秋町)と福島の両集落は1957年(昭和32)、御母衣ダムの開発に伴い、ダムの湖底に沈むことになります。氏子も離散、各集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の水無神社に遷座、合祀し白川神社として創建されたもの。白川神社を守護する小さな狛犬。小粒な容姿ですが、凛々しい顔つきをしています。「白川神社」解説。白川神社本殿。社務所右手の手水舎、手水鉢。清水を注ぐ小柄で細身の龍ですがいい仕事をしている。正面の神門から拝殿が垣間見える。神門から拝殿の眺め。拝殿は左右から廻廊で繋がり、左右の廻廊には飛騨や周辺の神々、産土神など八十八社が纏められています。ここに書き連ねると結構な数となるので割愛します。写真は2枚を貼り付けたもの。拝殿狛犬くらいは捉えられないかと思いましたがここまでです。本殿までは窺えませんが漂う風格は飛騨一ノ宮に相応しいものがあります。神門脇の略記主祭神は水無神、御歳大神。相殿神は大己貴命、神武天皇、応神天皇など11柱。末社は延喜式内18社及び国内二十四郷の産土神、一宮稲荷、白川社など由緒神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、又は水分の神と崇められ、農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く、延喜式飛騨八社の首座。朝廷からの崇敬厚く、即位、改元などにはその都度位山の一位材を献上した。飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社・縁社を二十余社有する。創建年代は神代の時代にありとされるが、古伝、旧記が散逸し詳細は定かではない。記録に現れるのは881年(元慶5)だと云う。文明年間(1469年~1486年)には水無神社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村、3700余石に達した、後に各ヶが武士化して一宮党として隆盛を誇ったという。それも1585年(天正13)金森長近に滅ぼされ水無神社は衰退しますが、高山藩主となった長近は水無神社の神威を崇敬し1607年(慶長12)には社殿の造営を行うなど再興に努め、江戸時代には領主、代官の崇敬と庶民の篤い信仰に支えられたと云う。1868年(明治元年)明治政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離が進み社内の仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去、1871年(明治4)国幣小社に列格。1872年(明治5)太政官布告をもって世襲神主であった社家を廃し、山崎弓雄を権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹は1874年(明治7)から1877年の3年程を宮司として務めた。1937年(昭和12)国営工事として社殿の造営が行われ、一期工事は完成したが、その後1945年(昭和20)の敗戦により造営途中で国家管理から離れ、完成の道のりは険しくなるも1949年(昭和24)にほぼ現在の姿となる。稲荷社境内右の杉並木、そこに朱塗りの稲荷鳥居が奥へと続きます。稲荷社本殿緑に包まれて佇む稲荷社、朱が一際鮮やかに見える。祭神は宇迦之御魂神「飛州三沢記」に「一宮水明神往古より七宮なり」と記され、その一宮に稲荷社が描かれていると云う。以前は本社に合祀されていたが、1949年(昭和24)境内稲荷坂に社殿を造営し遷宮された、その後1994年(平成6)に改築の手が入れられた。稲荷社から神門方向の眺め。手水舎から左手に小道があり玉垣沿いに社殿の北側に回り込めます。桧の杜の奥に小さな社が祀られています、その後方には大きな広葉樹が聳えています。社の詳細は分かりませんが、後方の大きな広葉樹は桂の木。我家のシンボルツリーでもあるけれど、その成長の速さには驚きます、ここまで成長するかと思うと立派〃とは言ってられない、考えなければ。「チバカの桂」と呼ばれるそうだ。樹齢は450年を超え、直径は7.2㍍の巨木、嘗て神社の標木だった・・・・・かもしれないといわれ、その昔に宝をうめた印とか、恋の標結とも伝わるそうです。現在のチバカの桂は二代目だそうです、針葉樹の濃い緑の中で空を覆うように枝を広げた鮮やかな緑は印象に残ります。桂の木、こんなになっちゃうのか・・・・・チバカの桂辺りに来ると漸く本殿の姿を見ることが出来る。見えるとはいえ、年輪を重ねた杜に遮られ全貌は見られません。巨木の杜に包まれ、梅花藻揺らめく清流を前に鎮座する水無神社。飛騨の一之宮の威厳を漂わせている。2020/9/27飛驒一宮水無神社住所 / 岐阜県高山市一之宮町5323
2020.11.11
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温泉寺から少し南に下ると温泉街の趣が漂い始めます。飛騨街道、中山道にアクセスする下呂宿として古くより賑わってきた。この通りもコロナ禍でなければ日暮れを迎えて、そぞろ歩きの温泉客で賑わうのかもしれない。人混みはどちらかと云うと苦手な自分としては有難いけれど、この絵面はあまりに元気がないような気もする。白鷺が留まった温泉寺のある「中根山」中腹、そこから更に下に位置し、温泉街の入り口から少し坂道を上がったところの冠木門が目印。役行者堂はその右斜面に高く積まれた石垣の上にあります。堂は見上げないと分からないかも知れませんが、常夜灯と白い幟はきっと視界に入るはずです。冠木門から斜面の上へと続く細い参道を進みます。石垣の側面に掲げられた「下呂行者講」の解説。その左に役行者の解説。参道を少し登ると傾斜地に作られた境内が左に続き、その先の瓦葺の小さな堂が『役行者堂』。堂のある位置は、下では見上げる大きさだった冠木門の高さを優に超えています。『役行者堂』全景。左手に手水鉢があり、その奥に素朴なお堂が建つ、堂内には三体の石像が見えます。中央に不動明王と役行者(神変大菩薩)が安置されています。扉がないので像の姿を直接拝めます、後方は前鬼と後鬼だろうか。行者堂の創建は1772年~1780年の安永年間に奈良県の金峯山寺から勧請し建立されたのが始まりと伝えられ、1848年~1854年の嘉永年間に再建されたと云われます。後の2001年(平成13)に現在地に遷座、再建されたのだという。役行者は当初は小角と称し奈良県の金峰山で修行を重ね、金剛蔵王権現の存在を感じ取った行者とされ、修行により様々な術を習得し、それ故朝廷から危惧され伊豆大島に流されたと云います。流された伊豆大島でも習得した奥義を使い、毎夜遠く離れた冨士山で修業を続けたとも云われます。役行者は後に許され行者の尊称が与えられ、没後1100年の1799年(寛政11)に光格天皇(1771年~1840年)から「神変大菩薩」の尊号を賜わったとされます、この尊号を賜ったのは役行者唯一とされます。 白鷺伝説が伝わる天下の名湯下呂の湯と役行者の神秘の力、二重の力はコロナ禍で疲れた心身を蘇らせてくれる?下呂温泉『役行者堂』住所 / 岐阜県下呂市湯之島関連記事 / 岐阜県下呂市 温泉寺
2020.11.09
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熱田神宮 『六末社』清雪門から本宮方向へ北に進む、広大な熱田の杜正面に見える建物は熱田神宮文化殿、横切る参道は右の東鳥居からニノ鳥居に向かうもの。正参道方向の眺め、右に行けばニノ鳥居を経て本宮へ、左は一ノ鳥居へと続きます。右手は東鳥居、普段は通勤の道すがら参拝される方の姿を見かける。ニノ鳥居。左手には手水舎があり、通勤の方々はここで頭を垂れ境内を横切っていく。『六末社』はニノ鳥居をくぐっても行けますが、清雪門から熱田神宮文化殿方向へ直進しどんどん北に進む。熱田神宮文化殿の北隣が『六社神社』その名の通り六つの社が西を向き、正参道を行き交う参拝者を見守っているようです。正参道から一本東に鎮座するせいだろうか、ここを訪れ参拝される方の姿は意外に少ない。六末社全景。熱田神宮自体が空襲の被害を受け、その後の1955年(昭和30)に再建されていることもあり、社殿の形も鎮座位置もそれ以前とは違い、趣は今一つかもしれません。それでも神明造の六つの社が西向きに横一列で鎮座する姿は壮観と云うのか、気持ちがいいとでも云えばいいのか。社はどれも外観は似通っていて、社名札はあるものの何が何だか分からないのが難点ではある。酔っぱらって我が家に戻ったつもりが別の御宅だった、そんな雰囲気だ。とは云え参拝者からみると纏まっているのは有難い。千木や鰹木の数でなんとやらは果たして当たっているのだろうか。それでは熱田神宮文化殿方向の南からまずは日長神社(ひながじんじゃ)、祭神は日長命。その左が素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)、祭神は素盞嗚尊。水向神社(みかじんじゃ)、祭神は日本武尊の妻、弟橘媛命。今彦神社(いまひこじんじゃ)祭神は建稲種命。姉子神社(あねごじんしゃ)祭神は建稲種命の妹、宮ツ媛命。乙子社(おとごしゃ)、祭神は尾張氏15代目弟彦連。何れも日本武尊、尾張国造と深く関わりのある神々が祀られています。北側から見る六末社。同じような社が整然と並んだこの光景、我が家を取り巻く環境とも似ているような。熱田神宮 『六末社』乙子社 / 祭神・弟彦連、素盞嗚神社 / 祭神・素盞嗚尊、今彦神社 / 祭神・建稲種命、水向神社 / 祭神・弟橘媛命、姉子神社 / 祭神・宮ツ媛命、日長神社 / 祭神・日長命住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1関連記事 / 熱田神宮 「清雪門」
2020.11.08
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名古屋市守山区上志段味中屋敷、庄内川左岸の東谷山の西に鎮座するのが「勝手神社」志段味と云えば大小様々な古墳が点在する「志段味古墳群」で知られています。この辺りの神社を巡ると好む好まざるにかかわらず古墳を知る事になります。『勝手神社』は県道15号線(名古屋多治見線)上志段味交差点から少し南に入った、勝手塚児童遊園所地の一画に鎮座しています。参道はその南で、社号標からは木々が生い茂る小高い杜へと続きます。参道を進むと境内が広がり、左手に手水舎と右に勝手神社の由緒が記された石碑があります。勝手社由緒御祭神 天忍穂耳尊、天照大神、日本武尊、大山祇命例祭日 10月15日寛文覚書(1671年)「社三か所。勝手明神、山之神、大明神」の記録有り、既に寛文年代、村内に三社の祭祀せられし事確実なり。内二社の社伝明らかならざるも張州府史(1752年)に「南朝移民乱を避けこの村に移り住んだ際芳野神社に請けひて之を建つ」と勝手神社の由来記述される。また「南北朝(1334~1339年)の頃、水野又太郎良春、吉野山の勝手明神を勧請した」との言い伝え有り。明治四十二年六月一五日、勝手明神の鎮座ましますこの地に川原一三五番地より八剱大明神の御祭神 天照大神、日本武尊。上島七六一番地より山の神神社の御祭神大山祇命を移し合祀した。」水野良春は南北朝時代に奈良県吉野の金峰山寺の僧兵で、南朝方として戦っていましたが、父祖の地である志段味に戻り志段味城を築城し新居村の開拓や勝手神社の勧請、無二琉の棒の手を広めたとされる。尾張旭市新居町寺田の退養寺には、良春や一族の墓と伝えられる宝篋印塔と五輪塔があるといいます。また行くべきところが増えたようです。拝殿に続く石段、結構な斜度のあるこの丘はそれ自体が古墳、社殿は墳丘の上に建てられています。その石段の前に一対の狛犬と手前左に石標「志段味古墳群 勝手塚古墳」が建てられています。境内から神社全景の眺め。玉垣の曲線は古墳の形を表しています、この古墳は丸と台形が繋がった帆立貝の形をしていることから帆立型古墳と呼ばれるそうです。手前の一際こんもりした部分が社殿のある帆立の身が入っている部分、奥の低いこんもりが後円部分。墳丘全体に樹々が生い茂り、遠目から古墳だとは思えないかもしれませんが、郊外の区画整理がされた地域に残るこんもりは何かがあるものです。石段の前で神社を守護する狛犬は色白で薄化粧が施されています。墳丘に付けられた石段は短いながら傾斜は結構あり、その先に切妻瓦葺の拝殿も見えています。拝殿には額はなく素朴な鈴が付けられ、音色も重厚でも、軽やかでもない素朴な音色。墳丘の上は広くはない、拝殿と本殿の全景を一枚に収めるには無理があるようです。拝殿右から本殿の眺め。本殿の右に小さな社は社名札はなく詳細は分かりません、右には廿二夜と刻まれた石標、月待塔があります、社の左にも小さな石の祠もあるようです。本殿全景。拝殿左から本殿域の眺め。こちらにも社があります。こちらも社名札はなく詳細が分かりません。取り敢えずお参りはしたものの・・・・・どなたにお参りしたのだろう。狛犬の所に戻る、墳丘沿いにこうした円筒埴輪が置かれています。神社の建つ墳丘はぐるっとひと回りする事ができます。墳丘北側から周提と周濠の眺め、古墳の面影は強く残っています。北側から社殿の眺め、結構な盛り上がりを見せています。後円部分の高さは6㍍を越えると云われますが、こうして見上げると数値以上の高さを感じます。前方側から社殿全景。勝手塚古墳解説。「志段味古墳群は濃尾平野の東端に位置し、4世紀前半から7世紀末に総数70基の古墳から構成されています。勝手塚古墳は6世紀初めごろに築かれた長さ約53㍍の帆立貝式古墳。墳丘とその周りをめぐる濠と堤が良好な状態で残されています。県内でも堤を持つ古墳は少なく、堤の高まりを現在も見ることが出来る点で貴重である。後円部の平坦面には埴輪列の一部を復元しています、この古墳は庄内川流域の有力勢力を率いた首長の墓と考えられる」前方側のこんもりにも石段が付けられテラスに続きます、その上にも社があります。帆立貝の下の部分の眺め。高さは2㍍程で北側の片隅に二社が祀られています。社のある北側の全景。こちらも社名札はなく詳細不明。台座は近年建て替えられたようで石の白さが際立っています。社の間に御嶽神社。石が組まれたその上に覚明霊神碑が1基建てられています。左の社も詳細は分からない。由緒がしっかり記されているだけに、社名札がないのは少しもったいない。それでもどなたか分からないけれどお参りさせてもらおう。以前のこの辺りから比べると劇的に住環境が良くなり、今後も更に変わっていくのでしょう。新しいものと古いものが共生する町であり続けて欲しいものです。2020/10/18『勝手神社』創建 / 不明祭神 / 天忍穂耳尊、天照大神、日本武尊、大山祇命『勝手塚古墳』古墳形式 / 帆立貝式古墳墳長 / 約55㍍築造 / 6世紀頃住所 / 名古屋市守山区上志段味中屋敷1463番地公共交通機関アクセス / ゆとりーとライン大曾根⇒上志段味降車、南へ徒歩5分程
2020.11.07
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下呂に向かう道すがら、助手席のかみさんの目に留まり立ち寄ってみました。高山市街の西に位置し、国道158号線沿いの南側に杉の巨木に包まれた高台に新宮神社は鎮座しています。社頭全景。自然石に社名が彫られた大きな社号標が印象に残る、その右脇にも石標があるようです。通りすがりに参拝に立ち寄って見ましたが、なかなか風格のある神社のようです。社頭右脇に旧郡上街道を示す石標。鳥居正面から境内、常夜灯と明神鳥居、左に石標が見えます、由緒か?石碑は土地改良事業碑でした。新宮神社石鳥居に掲げられた扁額。鳥居をくぐり参道から境内の眺め。新宮神社狛犬。鳥居の先の石段の脇に高尾山神宮寺址の石碑。境内から鳥居方向の眺め。大正時代の狛犬。太いフォルムで多少胴長、苔の緑に包まれ石の地色は消えそうですが、寡黙に仕事を務めている。小高い境内の北の片隅に「郷社新宮神社」社号標、明治4年に郷社に列せられたようです。境内北側の眺め。杉の木立から眼下に郡上街道の安川通り(国道472号)と新宮町を見下ろす小高い丘に鎮座します。道はこの左からせせらぎ街道と白川街道に分かれます。新宮神社社殿全景。広い境内、参拝駐車の乗り入れは制限されていないようでした。境内左に稲荷社の鳥居と右側に大きな岩の手水鉢を収めた手水舎。自然石を削り出した立派なもの。この原石は神岡町で採取されたものらしく、約4億年前に形成された縞状花崗岩で飛騨片麻岩と呼ばれるようです。云わば列島の礎石といってもいいのかもしれません。新宮稲荷神社山肌に付けられた急登の石段、両脇に赤い奉納幟が続き、見上げる先に社。境内末社 新宮稲荷神社山城國深草村官幣大社稲荷神社中之社(伏見稲荷)から勧請、年代は不明。祭神 / 豊受比賣神落ち着いた佇まいの唐門。三方を杉の巨木に囲まれた空間に自然に溶け込んでいます。由緒創立起源は定かではないけれど、里人の傳ぶる所に依れば十三代成務天皇の御代も終わりにを迎えようとする三世紀の頃、大八椅命を飛騨国に國造りに定め賜う。松倉連山を青山なし給ふ為に須佐之男尊を奉安、その位置は当社と隔てる南西一里の高丘山宮ヶ洞(国造の森)平安時代末期飛騨守だった平判官景家は元来藤原氏より出ているが、平相國清盛につかえ治永元年(1177年)飛騨守として飛騨に赴任し熊野三社を紀州より勧請した。熊野三社は熊野三社権限又は熊野三山と云われる。当社本宮(古宮)跡は現在の新宮神社より南西4㌔の源氏岳の東山麗にあたる山中(国造の森)にあり、古宮跡は三段の平地となっていて礎石が残っている。天正年間、松倉城主三木家の祈願所として松倉城より参詣道が作られた。棟札によれば万治二年金森頼直による社殿修復の記録が残る。文化十二年社殿修復の為、高山町及び崇敬者の寄付を得て、文政十年に国造の森からこの地に遷宮された。昭和十二年上棟執行し現在に至る。境内末社の稲荷神社は山城国深草村官幣大社稲荷神社中之社(伏見稲荷)より勧請、年代未詳。祭神は家津美御子大神、速玉之男神、事解之男神、伊弉冉尊。扉に彫られた大きな五七の桐紋。本殿は権現造。拝殿と相の間、その先の本殿、繋がりが分かる斜景が見たいけれどそれは無理なようです。社殿を取巻くのは杉の巨木、空は狭い。境内東側に絵馬殿や社務所。高山の西外れ、杉の杜に包まれた小高い丘に鎮座する新宮神社、氏子からも崇敬される歴史を秘めた神社です。この丘から氏子の町を見守っています2020/9/27新宮神社創建 / 不明祭神 / 家津美御子大神、速玉之男神、事解之男神、伊弉冉尊境内社 / 新宮稲荷神社創建 / 不明祭神 / 豊受比賣神住所 / 岐阜県高山市新宮町1641-1関連記事 / 青春18切符で京都まで VOL1『伏見稲荷大社登頂』、GoToトラベルで下呂
2020.11.06
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吉田川に架かる八幡大橋。そこは国道472号線、通称せせらぎ街道です。橋を越えすぐ左に曲がり吉田川右岸沿いに進むと八幡神社・天満宮が鎮座します。清流吉田川では終盤を迎え鮎釣りに興じる釣り人も見られる。清流の町を象徴するマンホールの蓋、これはアマゴをデザインしているのだろう。アマゴやアユにとどまらず、イワナやオオサンショウウオなど、多くの生き物を育む豊かな渓流です。郡上八幡の町名の由来となった神社がこの八幡神社。訪れたのは9月も終わりの時期、買い物帰りの昼頃ですが参拝者は見受けられませんでした。吉田川を望む道路際に境内があります。この後方は小高い山となり、その頂には郡上八幡城が聳えています。八幡社鳥居から境内全景。左に手水舎と小野天満宮の社標、右に八幡神社社号標があります。小野天満宮縁起神体は約1mの白石に黒い油石があり、その油石は菅原道真の姿をしているという。郡上藩領であった越前国小山荘の真名川(九頭竜川水系)で今から250年ほど前に発見され、時の八幡城主の金森頼錦により祀られたという。当然ながら学問の神、当地のみならず、近県からも祈願に訪れるという。鳥居から拝殿の眺め。切妻平入の拝殿は左が菅原道真公を祭神とする小野天満宮、右が誉田別命を祭神とする八幡神社。左の小野天満宮には臥せ牛と左が古筆塚。右の八幡神社には狛犬が守護しています。手水舎と左の小野天満宮の社標には梅の紋が彫られ由緒が刻まれています。右手には古い手水鉢が置かれています。八幡神社・天満宮由緒『八幡神社は現在の「八幡」という地名の起源となった神社。鎌倉時代初期、順徳天皇の第二皇子御誕生の正月3日初夢に「これより東北に鷲の籠りあり、人畜に危害を及ぼす霊夢である」というので鷲を退治するようにとの勅命が武蔵権守藤原頼保へ発せられた。一行が美濃国厚見群の長柄川(現在の長良川)にさしかかったとき、上流から流れ着いたとと思われる鷲の石打羽を川岸で発見した。拾い上げて見ると羽の模様が「八幡」という文字に見えた。権守はこれを携え更に東北へ進み、当小野村の民家に止宿した。去る時にその羽を付近の岩間にさし、村人たちに神霊として祀るよう伝えたのが始まりという。以後八幡宮として一祠を建てその羽を御神体とした。しかし当時の八幡宮は現在の八幡城天守付近にあり、今でも跡地は「八幡屋敷」と呼ばれ大切にされ、標識も建てられている。永禄二年(1559)ときの城主遠藤盛数公が築城に際し社殿を現在の山麗に移したとされている。当神社は歴代城主の祈願所として崇敬され、明治初期まで社殿の建築や修繕、祭祀の費用は城主が負担していた。更に学問の神様として崇められる天満宮が合祀されている。』長良川の上流にスキーで知られる鷲ヶ岳があります、「危害を及ぼす鷲」はここが住処でその羽が流されてきたということでしょう。八幡神社1220年(承久2)に八幡大神を勧請し創建されたとも伝えられます。耳馴染みのある「郡上のなー 八幡出ていくときは 雨も降らぬに袖絞る」の川崎の歌詞は違っていた訳です。苔むした古い手水鉢には享保(1716~1736)の元号が見られる。天満宮といえば撫で牛。自分の体の患っている部分と同じ個所を撫でると徳を授かる、子供が撫でれば知恵を授かるとされる。なのでどこに行っても彼らは全身ピカピカ。八幡神社狛犬。艶々、ピカピカの牛と比較し、狛犬は黒ずんでザラザラ、狛犬はこれで良いんです(偏見ダナ)。八幡大神扁額本殿域は足場が組まれ補修の手が入り、本殿域の全容は捉えきれませんでした。流造?の本殿が覆屋の下に祀られています。吉田川が望めるこの境内、8月25日には境内の右手の広いスペースが郡上おどりの場ともなるようです。このスペースは参拝者駐車場ではありません、車で訪れると最寄りの駐車場を利用する事になります。社頭から見る吉田川下流方向の眺め。冒頭の青く広い川面はこの辺りから細くまとまり白く波立ち長良川へと続きます。独身時代、愛犬と足しげく山に籠っていた頃の静かな町の印象とは少し変わって来たけれど、いい山といい川がある落ち着いた町だ。2020/09/28八幡神社・天満宮創建 / 不明祭神 / 八幡神社・誉田別命、小野天満宮・菅原道真住所 / 岐阜県郡上市八幡町小野1公共交通機関アクセス / 長良川鉄道郡上八幡駅より約2km関連記事 / GoToトラベルで「下呂」
2020.11.03
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2020/10/30、熱田神宮に参拝前回チャリで訪れた際には補修中だった「清雪門」の工事が終わり全貌を見せている。そんな話を聞き補修後の姿を見る目的で参拝に訪れた。今日はお仕事前に少し早起きして車で訪れた。いつもの様に正門(南門)一の鳥居の右にある脇参道から「清雪門」へ向かいます。その昔熱田神宮には「清雪門」の様な門が4つあったと云われ「神宮四門」と呼ばれていました、清雪門はそのうちの一つ。「清雪門」以外の三つの門は海上門(正門)、春敲門(東門)、鎮皇門(西門)と呼ばれ、何れも国宝に指定を受けますが、先の大戦による空襲で完膚なきまで叩かれ、社殿を含め三門(上図赤丸)は焼失。失った三門は後に鳥居へ姿を変えますが、瓦礫と化した境内に唯一被害を免れたのが北門の「清雪門」。この門は何か持っているのかもしれない。赤い流造の南新宮社から参道を北に進む。前回訪れた際はシートに覆われていたけれど、修復の手が加えられシートが取り除かれた「清雪門」が姿を現す。門の左手に椛があるけれど、門に彩りを添えるには程遠い。「清雪門」は本宮の北門ともいわれ、不開門(開かずのもん)とも云われています。その経緯については草薙剣盗難事件が発端とされます。天智天皇7年(668年)神剣を盗み新羅(大陸系)に持ち出そうとした僧が、この門から逃げ去ったといわれる、しかし新羅への逃走途中で風雨に遭い道行は舞い戻ってきたという。以来、神剣が再び遷ることのないように、この門は不吉の門として門を閉ざしたといわれます。「清雪門」解説「本宮の北門と伝えられ、俗に不開門(あかずのもん)といって堅く閉ざされている。天智天皇7年(668年)故あって皇居に留まられた神剣が朱鳥元年(686年)再び当神宮に納められた折、二度と御動座なきよう門を閉ざしたという故事による。」毎年5月に執り行われる神事「酔笑人神事」の舞台ともなり、御神体の草薙神剣が熱田神宮に還った故事を今に伝える神事です。朱鳥元年(686年)に再び神剣が熱田神宮に還座した際、皆がこぞって喜んだ様を今に伝えるもので、灯の消された境内の影向間社、神楽殿前、別宮前、清雪門前の四ヶ所で、悦びを込めて高笑いをする珍しい神事だという。喜び笑う様から「オホホ祭り」とも呼ばれるそうです。塀は瓦を挟み油を含ませた土により作られた信長塀と酷似、というか時間軸ではこちらが先。信長塀が「清雪門」の塀に似ているというべき。素朴で趣のある門の佇まいに貢献している。門が閉ざされ、神職すら入る事を禁じられた「清雪門」、この先も二度と開け放たれる事はないだろう。2020/10/30熱田神宮清雪門住所 / 名古屋市熱田区神宮2関連記事 / 『熱田神宮境内摂社 南新宮社』・『熱田神宮末社 八子社、曽志茂利社』
2020.11.02
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