全21件 (21件中 1-21件目)
1
名古屋市守山区村合町山下公園の西には「すいどうみち緑道」が南北に伸び、桜の時期には桜並木が綺麗な通りです犬山で取水された木曽川の水は庄内川の底を横切り、守山区を経て矢田川を潜った先の鍋屋上野浄水場まで、総延長距離23kmに渡る埋設送水管その上を緑道化したもので守山区内の約2.5kmを「すいどうみち緑道」と呼ばれます守山区村合町『神明社』は「すいどうみち緑道」に沿って作られた山下公園の東に鎮座します公園に面した西向きに社号標と参道があります正面の赤い社が目に付きますが、鳥居や社殿などは視界に入りません、参道はこの左で折れます南に隣接するスーパーの駐車場から見た新明社全景左に折れると住宅地にありながら意外に広々とした境内、正面に木製鳥居と社殿全景が広がります参道左に手水鉢参道から見えていた南を向いて建てられた赤い覆屋その下に祀られた社、中のお札から津島神社の様です木造瓦葺の吹き抜け拝殿からは奥の本殿域を良く見通すことが出来ます左右に大きな御神木のある本殿全景本殿域は庄内川の氾濫もあるからでしょう、ひと際高く積まれた石垣の上に覆屋が建てられています本殿左に新明社由緒の石碑明治26年頃の当地田畑が広がり、その中に小島のように集落が点在、庄内川と矢田川に挟まれた輪中で古くから河川氾濫の歴史を綴る地域ですそうした土地柄から自衛策として水屋造りも生まれ、この近くでは間黒神社や東春酒造周辺で現在も見る事が出来ます本殿の左右に2社祀られています由緒書きから抜粋すると今から300年前頃より鎮座、神明社の主祭神は天照大御神で当地の産土神として氏子より崇められる霊元天皇(1654~1732)の御代寛文年間の覚書、宝暦2年(1752)の張州府志等に山田庄大森垣外村に新明社・八龍社・天神社が祀られていると記録が残る創建は延享元年(1744)、明治11年(1878)字欠口より、秋葉社を津島社を字村合より境内に遷座、大正2年(1913)字宮東から八龍社と字欠口より天神社、字川田から厳島神社、字山屋敷から山神社を合祀となります川と鬩ぎ合ってきた輪中の町の産土神「新明社」創建 / 1744年(延享元年)主祭神 / 天照皇大神八龍社 / 高龗神 天神社 / 菅原道真 厳島神社 / 市杵島姫命 山神社 / 大山祇神津島神社 / 須佐之男命秋葉社 / 迦具土命住所 / 名古屋市守山区村合町193アクセス / ゆとりーとライン「川宮」下車、東に徒歩5分程
2019.01.31
コメント(0)
名鉄豊田本町駅から東に歩いた豊1丁目西に名鉄常滑線、東に東海道本線に挟まれるように『古傳馬神社』は鎮座します東西に走る道路に面した住宅街の一画に小さな杜が現れます『古傳馬神社』正面全景石鳥居を構え、左に社務所、右が手水舎、正面に拝殿と御神木が聳えています鳥居前に掲げられた祭神、例祭の案内板境内右側には社格昇格記念碑、整地記念碑、御大典記念、御遷座記念等の石碑が並ぶ石碑の前に瓦葺の手水舎と途切れる事なく静水が満たされた手水鉢拝殿正面全景屋根は緩やかな曲線を描いて左右に広がっていきます木造吹き抜け拝殿から本殿全景石垣が積まれ一段高い位置に本殿域、本殿前には一対の狛犬が隠れています本殿前の狛犬達と見慣れぬ形の石灯籠鳥居横の案内板には境内社に秋葉大神、津島天王神社とあります、本殿に三社が祀られているようです創建については詳細が分かりませんこの地が1686年(貞享3)伝馬新田として開拓されたのが始まりで、後の1696年(元禄9)に新たに伝馬新田が開拓され新伝馬新田と名付けられますなので、もとの伝馬新田が古伝馬新田と呼ばれるようになったと思われ、創建はその頃ではないかと思われます現在も熱田区に伝馬町の名が残りますが、町名の由来は伝馬から来ています伝馬とは、街道の宿場ごとに定められた場所に馬を置き、駅伝の様に馬を乗継いで人や物資、幕府の公用や情報伝達の迅速化を図った伝馬制度を指し、この地では熱田宿と今道が伝馬役を担っていました『古傳馬神社』本殿創建 / 不明祭神 / 日本武尊、天照大神、建稲種命境内社秋葉大神 / 軻遇突智神津島天王神社 / 建速須佐之男命拝殿に対し、本殿はシャープな屋根拝殿から本殿全景御神木の「幸運握り楠」とよばれる根元が5本に分かれ、大きく枝分かれした楠木が拝殿を覆う様に聳えています拝殿から鳥居方向の全景右の建物が社務所となります、石鳥居には1933年(昭和8)と刻まれていました住宅に取り囲まれたひと区画に鎮座する『古傳馬神社』新田開発から現在まで、この地の移り変わりを見続け、今もこの地の氏神として崇められています住所 / 名古屋市南区豊1丁目35アクセス / 名鉄常滑線「豊田本町」駅から徒歩約6分
2019.01.28
コメント(0)
名古屋市千種区自由ヶ丘 地下鉄名城線自由ヶ丘」で下車、自由ヶ丘3の交差点を左に折れ西に徒歩10分程歩きます東部丘陵地の尾根をトレースする様に西に覚王山、東は平和公園までほぼ平坦な道が続きます御嶽神社付近まで来ると左手に日泰寺の霊園が広がり、正面に東山給水塔の特徴のあるシルエットが視界に入ってきます近隣には宗徳寺のほか複数の寺がありますが、「御嶽神社」はここ覚王山霊園の一画に鎮座します地形をトレースするように墓石群が広がり、その周囲は整地された住宅が取り巻く霊園入口に御嶽神社社号標と1924年(大正13)建之の大きな碑が目に付く碑には山○三の紋が入り御嶽講の聖地である事を示しています社号標から少し先に進むと御嶽神社の石鳥居があり、境内に二の鳥居と多くの霊神碑や不動明王などの石像が所狭しと立ち並んでいます一の鳥居の扁額鳥居をくぐった右手に手水鉢と百度石清水は枯れ、参拝者は少ない様です左手に二の鳥居、山のように積まれた石と頂の社、ここ自体が霊峰御嶽を現しているようです社までの石段は御嶽登山そのものなのでしょう鳥居の先で社を守護する狛犬御嶽社の社は写真の様に随分と朽ちかけている様です御嶽神社は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神として、智恵や才能を授け、長寿を護り、病難を癒し、禁厭を司る神として崇められます御嶽神社で見かける霊神碑はお墓ではなく、あくまでも墓碑であり講の教え「人の魂は山より生まれ、死後は童子となり御嶽に還る」とされます御嶽登山道で霊神碑の立ち並ぶあの光景、ここ自由ヶ丘御嶽神社は霊峰御嶽そのものなのかも知れません昨年訪れた長久手市の岩作御嶽山は山全体が神域でちょっとした登山気分が味わえます上段左、一の鳥居の左に祀られている子安弘法大師像と不動明王下段左、三笠山大神、祀り神/天神三代・豊斟淳尊境内右手の稲荷社両脇に小さな社が祀られ、其々に狛狐中央の社前の狛狐、台座に聞き慣れない壽神社と記されています稲荷社の右に秋葉山のお札が収められた石の社境内の右の奥は南向きにやや大きめの社と薬龍王、白龍王、赤龍王、八大龍王などの龍王碑が建つ社は稲荷社でしょうか、小さな狐が置かれていますが、先程の壽神社といい稲荷山を全て回りきらないといけないようです道路際に三十六童子と右に馬頭観音が祀られています御嶽神社全景 此方の神社の創建は不明ですが入口の碑が1924年(大正13)建之とある下は1924年頃の地図、随分と変わったものですが、神社マークは見当たりません余談になりますが近隣の覚王山日泰寺周辺には新四国八十八か所巡りの札所が点在しています上は神社から5分ほど西にある札所群、手前から第六十三番札所「吉祥寺」神社を訪れた際に立ち寄ってみては如何でしょうかそこには御嶽神社同様の空間があります御嶽神社住所 / 名古屋市千種区自由ヶ丘1丁目2アクセス / 地下鉄名城線「自由ヶ丘」駅下車、西へ徒歩約10分
2019.01.25
コメント(0)
名古屋市守山区森孝3丁目名古屋と瀬戸を結ぶ出来町通り、国道302号線を越え三軒屋バス停から北へ徒歩5分程歩きます出来町通りから北に一本入った道筋沿いに守孝八劔神社が鎮座しますこの通りの両脇には桜が植えられ見事な桜並木となり、シーズンには桜のトンネルとなるその光景はなかなかのものです1987年(昭和62)以前はこの辺りも守孝新田と呼ばれていて、新田と付けば自ずとご理解頂けると思います、矢田川堤と香流川の堤に挟まれ、集落の周囲は田畑が取り囲む田園地帯八劔神社の鳥居は通りの北側に面し、通りからは一の鳥居と玉垣が目印となります鳥居は三ノ鳥居まであるようです一ノ鳥居の先に平成14年献納の一対の狛犬が陣取る二ノ鳥居の先に石段が続き、三ノ鳥居の先が拝殿域手水舎は三ノ鳥居の右にあり、清水は絶え間なく注がれています切妻瓦葺の拝殿は新しく、2010年(平成22)に木造拝殿から現在のコンクリート造りへ再建されたもの拝殿内、築後年月を経ていない事もあり全てが新しい、神紋は五三桐の様です堂内には稚護鎧が飾られています本殿前の狛犬、昭和3年に献納されたもの、ほぼ一世紀を経て風貌にも貫禄も漂う本殿域は石垣が高く積まれ、玉垣が周囲を囲み本殿と玉垣に隠れていますが左右に小さな社があります本殿、倭建命、須佐之男命の二神を祀る左は火之迦具土大神を祀る秋葉社右に御嶽社、国常立尊、大己貴命、少彦名命が祭神此方の八劔神社は以前取り上げた大森『八劔神社』から1826年(文政9)から勧請して創建守孝八劔神社の氏子の方々は、元は矢田川の対岸にある大森八劔神社の氏子であったという大森八劔神社から勧請し当地に社殿を構えた事から始まると言われます大森八劔神社は熱田神宮の別宮八剣宮から勧請されたと云われ元をたどると熱田さんに行く事になります本殿右に摂社の津島社 祭神須佐之男命、大己貴命津島社の東には南北に伸びる参道があり、右に社務所、奥に弘法堂堂内の弘法大師像小さな杜に囲まれた守孝八劔神社全景拝殿から参道の全景、やがて視界の先は桜の花でピンクに染まります守孝八劔(やつるぎ)神社住所 / 名古屋市守山区森孝3丁目203番地アクセス / 市バス基幹2栄~四軒家、三軒家下車、北へ徒歩5分程
2019.01.23
コメント(0)
本来はこれ如きの寒さではないはずだが・・・・・温度差からやたら寒さがこたえます固まった筋肉をほぐすため、近くの野池まで歩いて来ましたこの時期に毎年決まって訪れる水鳥達今年も大挙して訪れ水面は賑やかです「寒い、冷た~い」という言葉は彼らには無いようです立ち止まり眺めている間にも体は芯から冷えてくる、歩かねば「寒~い」
2019.01.22
コメント(0)
岩倉市鈴井町蔵前五条川の堤に咲く桜並木で良く耳にします、宅地化が進み田畑は住宅に姿を変えてきましたがとはいえ、住宅地から少し歩けば長閑な田園風景は残ります名鉄犬山線のすぐ東に名古屋城下を起点に岩倉を経由し南北に伸びる岩倉街道があります園通寺は以前書いた八幡社の道すがらにあります本堂に掲げられた扁額外観は新しく、山門と本堂だけの小さな伽藍のお寺宗派は曹洞宗、曹洞宗円通寺と聞くと身近に熱田区の円通寺を思い浮かびますこちらがその末寺なのか、創建や此方からか移転されたものか由緒は良くわかりません明治の地図には、ここに寺を示す表記は見当たりませんでした園通寺西側の八幡社に続く道路脇に地蔵堂西陽が差し込む堂内、そこには4体の石仏が祀られています歩道を行き交う人々を見守るように佇み、何れも帽子や前掛けがかけられ、其々に飴玉が供えされています、身近な存在として拝まれているようです地蔵堂からほんの少し北の鈴井町防災倉庫前の電柱脇に水神碑を見かけました碑と防災倉庫が関係するのか定かではないけれど神社の境内で見かけても、街角で見かける事は少なくなったような印象を受けます近くを流れる五条川の治水を祈願したものなのか、田畑を潤す水に感謝する目的なのか?人の記憶は薄れていくけれど、こうした碑は後世に伝える記録、残せるものであれば残していきたいものです歩道や街並みが綺麗に整備されて行くなかで、傍らの古びた地蔵や碑も上手く共存できるといいのでしょうが園通寺住所 / 岩倉市鈴井町蔵前66アクセス / 名鉄犬山線「石仏」駅下車、南方向へ鈴井八幡社経由徒歩20分程
2019.01.21
コメント(0)
今日は大寒の日寒さは更に厳しくなり、1年で最も寒い時季と云われます雨がふる肌寒い朝散歩・・・・・と思うが気分は乗らない何気に庭を眺めれば、いつ植えたのか?チューリップの芽が出てきていました寒いながらも、雨を感じ、陽の温もりを受け確実に芽吹いてくる目に見えないところでも動きを止める事無く成長を続け、彩が少しずつ増えて行きます寒暖差から関節は若干油切れ、今日は動きを止め銭湯に行こう
2019.01.20
コメント(0)
名古屋市瑞穂区御劔町2丁目瑞穂台地の西外れにあたり、見通しの効く高台は昔は海岸線も望む事が出来たであろうここから西の堀川に向け緩やかに高度を下げ行きます古い区割りの入り組んだ細い道や一方通行が多く、公道からいきなり私道という所もあります車で入り込むと苦労する場所かもしれません傾斜地に高く積まれた石垣上に御劔町『八釼神社』が鎮座します南向きに石鳥居があり、鳥居からいきなりの石段が上に伸びます鳥居左に八釼社の由緒が刻まれた碑と右に社号標、社格が生々しく埋められています一直線に境内かと思いきや、二の鳥居の先から石段は途切れています二の鳥居をくぐるとそこにも石垣が積まれ、さらに一段高くなっています左に行けば拝殿前へ、右に行けば境内東に通じる様です参道脇に所々ベンチが置かれ、杜に包まれた静かで落ち着いた環境を提供してくれます陽気が良ければ本を開け、眠気に誘われればそのまま昼寝したくなる落ち着く空間です参道左から拝殿前に向かいます石段の先に三ノ鳥居、正面に拝殿が見えます提灯掛は提灯が吊るされていると形になりますよね鳥居の先の拝殿前を担当する面々奉納年は見ていませんが、いい感じで年月を刻んでいます境内右側に手水舎、手水鉢龍はお出かけの様ですが綺麗な清水を提供してくれますコストが付いてくる現在、当たり前ではなくなっています、嬉しいですね拝殿前に戻り正面全景です五七の桐紋が入った神社幕、提灯でドレスアップした拝殿、玉砂利を踏みしめて参拝上段 瓦葺の拝殿と社務所に続く渡廊下段 拝殿左に渡廊から続く社務所拝殿前掲げられた扁額、拝殿内から本殿方向の眺め由緒によると、創建は熱田神宮の下の宮八剱宮から1056年(天喜4)に勧請、境外新八剱宮として鎮座とあり、長い歴史のある神社祭神は建速須佐之男命、日本武尊、大伴武日命この地の地名はここ八剱社に因んで付けられたと言われています拝殿、幣殿、本殿の全景社殿の再建の歴史は分かりませんが、近年に建て替えられているようです上段 拝殿右に本殿域にある白山社、社宮司社、源太夫社の拝所下段 本殿域で小さな狛犬が守る先に社境内の東側にある脇参道、その右に秋葉社堂内右全景、お気に入りの不動明王の姿も本殿と秋葉社の間に北側から境内につながる脇参道、こちらからなら石段はなかったか・・・・・三ノ鳥居の左で京都の町屋の屋根で見かける魔除けの鍾馗さん似の像が目に止まる折れた左腕の断面は粘土瓦で出来ているようにも見える台座には1856年(安政3)と刻まれているようですが、元からこの像の台座だったのか良くわからない三ノ鳥居から南方向の眺め狛犬達が見据える先には見下ろすように街並みが広がっています2019/1/12御劔町『八釼神社』創建 / 1056年(天喜4)祭神 / 建速須佐之男命、日本武尊、大伴武日命住所 / 名古屋市瑞穂区御劔町2丁目18アクセス / 市営地下鉄桜通線「瑞穂運動場西」下車西へ徒歩20分程
2019.01.19
コメント(0)
名古屋市昭和区円上町10環状線桜山3交差点を西にひたすら歩く事15分程やがて真っ直ぐだった道は見通しが効かなくなります、やがて右側にお堂が二つ視界に入ってきますここから5分も歩けば空港線に出てしまいます二つのお堂の正面全景開け放たれた右のお堂、堂内の様子が窺えます左の堂には大きな観音様が祀られています右の堂内には横一列に石仏が並び、提灯が連なっています右から重軽地蔵尊、延命地蔵大菩薩、聖観世音菩薩、不動明王尊、弘法大師何れも間近に見る事ができます左の石地蔵は出世地蔵と呼ばれる様で、見上げる様な立派な大きさをしています燈籠の右に百度参りの石標があり、出世を願いお参りするのでしょうか出世地蔵の左に目をやると、小さく寿栄寺と記された寺標があり、左に参道が続きます民家だと勘違いしていましたが、お堂はこちら寿栄寺が管理されているようです入口の細い参道を登ったその先に本堂本堂の前以外は傾斜地のため、本堂を間近で見ると下から見上げる形となり全体が捉えにくいですが瓦葺きの方型屋根の様です本堂外周を廻って見ましたが、本堂北側は道路を隔て西福寺の山門が目の前です参道脇の庭園に葺き替えた際の瓦が複数飾られています本堂前光沢のある小さな陶器の狛犬が本堂を守護していますこちらの寿栄寺は曹洞宗のお寺、山号は松籟山、その扁額が本堂に掲げられています堂内の本尊、脇仏ともに姿を窺う事は出来ません宗派は曹洞宗のお寺、なので本尊は釈迦牟尼如来本尊を少し調べてみましたが確たるものは見つかりませんでしたある記事で「明治期に設立した尼寺」とありました、今昔mapで寿栄寺の記しが確認できたのが1976年(昭和51)、それほど古いお寺ではなさそうです近くを通り架かった際には門前の出世地蔵と、多くの石仏に遭いに来られるのもいいかと思います2019/1/12寿栄寺住所 / 名古屋市昭和区円上町10建立 / 不明本尊 / 釈迦牟尼如来アクセス / 市営地下鉄鶴舞線 荒畑下車 南に徒歩15min程
2019.01.18
コメント(0)
名古屋市瑞穂区東栄町川澄地蔵から塩付街道を5分程南に歩きます今歩いて来た川澄地蔵方向を眺めます環状線に近いながら、車り往来は少なく静かな街並みです享栄高校の南角、接骨院のある交差点に馬頭観音が祀られるお堂がありますそれはブロックで作られた四角い箱の様なお堂で、正面に赤い鉄の柵扉が付けられています一見ごみ収集場所のにも見え、見過ごしてしまうような外観お堂の前の電柱と閉じられた柵扉が相まって、近くの川澄地蔵やみやみち地蔵に比較すると身近にありながら、どことなく閉ざされた印象を受けますそれほど外光が入らない薄暗い堂内、両脇に馬頭観音と書かれた提灯が飾られ中央に一体の馬頭観音が祀られていますこれまで見て来たお地蔵様は、どれも綺麗な帽子や服を着せてもらい誇らしげでしたがこちらの観音様は扉があるからでしょうか何も纏っていない素の姿は、何かしら寂しげにも見えます周りを壁で覆われ薄暗い事もあり、通りすがりの方も足を止めることなく立ち去っていかれますお地蔵様を取り巻く環境は変わっていき、それらの面倒を見る習慣も薄れていくなかで今だに引き継がれ、残っているだけでも素晴らしい事だと思いますこの地を見守り続けた馬頭観音、地域の文化財としてこれからもそこにいて欲しいものです住所 / 名古屋市瑞穂区東栄町1丁目アクセス / 市営地下鉄桜通線桜山下車、東へ徒歩10分程
2019.01.16
コメント(0)
名古屋市名東区猪高町高針『高帝龍王龍神』高牟神社の南に位置し、道路の向いにある小さな神社、古谷公園の隣に当たります高牟神社の鳥居のある緩やかな坂道を少し登ると歩道際に「高帝龍王神」と書かれた白い幟が靡いています高牟神社と謂れのあるものなのかと参拝に立ち寄ってみた所、写真の裏参道の入口には郵便ポストがあり、個人のお名前が記されていました『高帝龍王龍神』の外周を一回りすると東に古谷公園に道路を隔て隣接しています公園の南道路側には鳥居と幟が建ち、よく手入れされた庭の奥へと参道が続きますこちらは個人的に祭祀された神社の様ですが、どなたでも参拝可能な様に開放されています庭の奥に社が祀られていますが、あくまでも個人の敷地にお邪魔し参拝させて頂いている事を忘れてはいけませんね参道の先は左に手水舎、正面が拝所になります狛犬意外の伽藍は整っており、個人的に祭祀された神社とは思えないものです杉の木立から入る木洩れ陽で明るく、風の通る境内境内に建つ奉祭詩碑には以下のように記されています「当高帝龍王神様は、現在の御社の裏に樹齢三百余年、樹廻り5mの黒松の大木が生えていて、其の木が枯れて朽ち穴が出来て、其の中に龍王神様を始め子孫の蛇が住みつかれ、祭年の春には幹や枝に沢山の蛇が出て居られたので、在近郷から見物客で大賑わいになったのでございましたそこで祭主が皆様方の御賛同御協力を賜り、昭和15年4月御奉祭しました其の後は不思議な事に、龍王神様始め子孫の蛇の御姿は見え無く成りました以後、無病息災、商売繁昌、一切の厄除け心願成就の守護神として、皆様方が御参拝に御見えに成られる様に成って現在に至っております。 祭主」幹回り5mとは、随分と立派な松だったようですが現在は既にありません拝所からの全景手水鉢の清水で清め、参拝させて頂きますやはり長い物が・・・・・ケースに納められた金と銀の蛇の置物、彼らが祀られているのも蛇に纏わる事象からなのでしょうお供え物で溢れる祭壇の奥には、小さな狛犬が一対あたたかみがある素焼きの様にも見えます「高帝龍王龍神」と書かれたお札、幟や社号標には確か高帝龍王神と書かれていたが・・・・・???色々調べて見ると、名東史跡案内のブログの中で、こちらの御宅の方とお話しをされた記事が掲載されており、そこには「幟を作った際に龍が抜けていた」と書かれた記事に辿り着きましたどうやら、『高帝龍王龍神』が正しい社名で間違いない様です境内右は社名不明ですが多くの方が参拝に訪れているようです会社の神棚すら真面に管理できず、いつしか失ってしまったことを思うと個人でここまで管理され、近隣の方々からも受け入れられている事に驚きます小さいけれど何か暖かいものを感じる神社です『高帝龍王龍神』創建 / 1940年祭神 / 高帝龍王龍神住所 / 名古屋市名東区高針2丁目1305アクセス / 市営地下鉄東山線一社から南東へ30分程高牟神社鳥居からは東へ徒歩2分程
2019.01.15
コメント(0)
みやみち地蔵から塩付街道を南に150m程歩いた民家の駐車場脇に小さなお堂がありますフェンスの陰になり直前まで来ないと分かり難いかもしれません見落としたら、みや道地蔵方向に振り返って眺めて下さい右側に真新しい四角い白い箱の様なお堂が見えるはずです一見するとお堂には見えません、両サイドか半透明で外光が入り込み明るくモダンなお堂です外光が入り込み、中に祀られた三体の地蔵が良く見えます左から、馬頭観音、川澄地蔵、子安地蔵とならびます川澄地蔵は尾張藩士の川澄平吉が先祖供養のために祀ったのが始まりと云われます長い歴史の尾張藩、いつ頃祀られたものなのかは不明ですこれらの地蔵は、以前は各々別の場所に祀られていた物のようです区画整理などで行き場を失ったものが、住人の厚意により引き取られ、敷地にお堂を建て祀られたものと聞きますみやみち地蔵同様に黄色の前掛けと赤い帽子を着せてもらい綺麗に手入れされています街道は塩を乗せて行き交う馬や旅人で賑わった当時から、車や自転車、ここに住まう住人に様変わりしたけれど、この街道の移り変わりを見守り続け、今では本来の役割を終えたけれども安住の地を得てここで今も見守ってくれています名古屋市立大学病院の東側の塀には、この道を通る人々に謂れを伝える案内板が掲げられています一見すると市教育委員会の案内板の様に見えますが、塩付街道保存会の方々により作成されたもの後世に語り継ぐ良い取り組みだと思います我々には神社仏閣以上に身近な存在がお地蔵様です通りすがりに御見掛けした際には、是非とも立ち止まり拝んでくださいこれからも歩道の傍らでずっと見守ってくれるはずです川澄地蔵住所 / 名古屋市昭和区塩付通7丁目アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」下車、東へ10分程
2019.01.14
コメント(0)
名古屋市名東区猪高町高針植田川から国道302号線を渡り、東の丘陵地に向かって歩く事10分程上段緩やかに登る坂の途中に『高牟神社』は鎮座しますここ高針の氏神様として人々から親しまれている神社です下段歩道左側に石鳥居を構え、鳥居をくぐると参道は右に続く上段一の鳥居から木洩れ陽のさす緩やかに登る参道を進む下段参道は左に折れ、その先に二の鳥居と正面に『高牟神社』拝殿が見えてくる境内は新年を迎え氏神様に詣でる参拝客で賑わっています高台の頂に広がる境内二の鳥居をくぐり、左に手水舎、手水鉢には絶え間なく静水が注がれています高牟神社の面々上段は二の鳥居のある境内に奉納された新人の狛犬下段は石段を登った拝殿前で守りを固める先輩の狛犬、風貌にはキャリアが漂います高牟神社拝殿上段唐破風が施された拝殿高牟神社は1994年旧社殿を焼失、現在の社殿は1996年再建されたものというが、新しいとはいえ優美な姿をしています中段 拝殿扁額と下段 拝殿内高牟神社以下は名古屋市名東区高針・牧野池コース(詳細)より「創始は明らかではありません、延喜式内の神社として伝えられています。昭和25年までは八幡社と呼ばれていました。現在の社殿は平成8年12月26日に再建されました。春岱師作の狛犬一対が社宝として残っています。」・・・・・とあるここ高牟神社が果たして延喜式神名帳が指すものなのかどうかは良くわかりませんそれを否定する知見もなく、それなりの由縁もあっての事だと思います上段橘の神社幕の掛けられた拝殿下段拝殿から本殿、流造の優美な屋根左は名古屋市内で見る杉、拝殿前の夫婦杉右は拝殿から二の鳥居のある境内の眺め拝殿左境内社は、左から神明社、白山社、山神社が祀られる境内の西側に高針護国社1971年、それまでの敬徳殿に変わって新たに建てられたもの護国社の守護担当護国社拝所と拝殿内の扁額日露戦争から太平洋戦争までの英霊と牧野池の掘削者、尾張藩の奉行「勝野太郎左衛門」を祀る上段境内西側の脇参道と鳥居、その先は高針小学校になります下段脇参道脇にある保存庫棒の手の武具、鳥毛、馬具などが保存されているそうです良く耳にする棒の手ですが、由来は諸説ありますが農民の自衛手段として成熟した武術で10月の例祭(体育の日)で奉納されるそうです上段境内右から社殿と護国社の全景下段市内では珍しい杉と桧、これは神域が一時荒廃し空地となったものを、本来の神域を取り戻すために1977年に氏子の方々により植林されたもの社殿を取り囲む神域として、現在では見事に育っていますこれを後世に語り継ぐ碑も境内に建てられています氏神は氏子を見守り、氏子は氏神を崇める、高牟神社は現在もそれが引き継がれています植林された杉や桧がこれからも成長し続けるように2019/01/02高牟神社創建 / 不明、1702年(元禄15)地覚え書きに八幡宮1社東西134間、南北84間の記載 1950年高牟神社へ改称、以前は八幡社と呼ばれる祭神 / 応神天皇 境内末社 / 神明社、白山神社、山神社 住所 / 名古屋市名東区高針2丁目2アクセス / 市営地下鉄一社下車南東方向へ徒歩30分
2019.01.13
コメント(0)
連日「毎月勤労統計の調査」捏造に関する記事が紙面に踊る消えた年金もそうであったように、原発再稼働もそうであるように我々国民にとって船長である国の舵取りは既に信用に値しないのは充分認識済みのはずだけれど船底に穴が開き、浸水していながら、士官報告に「本艦に異常なし!」よし「このまま前進!」では・・・・・浸水を食い止める最前線、艦の傾きを感じる乗組員はいつ舵を切るのかと思うだろう?現役引退したといえ、今回の件は関係する事だけにのんびり構えているわけにもいかない浸水報告をするか・・・・・組織の中でも怪しい数値や報告はあるものの、国が怪しくては話しにならない平均寿命データが正しいのかどうか知らないが、下船するまでの残りの人生乗ってしまったこの船はどこを目指しているのか海で四方を囲まれた温厚な農耕民族とはいえ、一揆の歴史が語るようにおとなしい国民とはいえ、船長の信頼がなくなればいつかは多くの声が進路を変えることになる正直でありたいものです
2019.01.12
コメント(0)
岩倉市岩倉街道が南北に伸び、それを中心に栄え、信長や一豊とも所縁のある地域北に名神高速、東に名鉄犬山線と岩倉街道、その先には日本のさくら名所100選の一つ五条川が流れ宅地化が進んだとはいえ、長閑な田園風景が広がります畑の中にこんもりと茂る森、それが「鈴井八幡社」が鎮座する鎮守の杜岩倉街道は名古屋城下を起点に岩倉を経由し中山道を結ぶ街道として、年貢を搬送するルートとして整備されました周辺には多くの社もあり、地元の方に親しまれています、ここ「鈴井八幡社」もそのひとつ左は1891年頃、右が現在集落を取り囲む様に荒地が広がり、外れに八幡社が記されています上段道路西側に隣接、南北に長い境内敷地で、周囲を玉垣で囲われている訳でもなく身近な存在感があります参道は道路から入り直ぐに右に折れ鳥居をくぐる事になります下段道路からは杜を背に吹き抜けの神楽殿と蕃塀が間近に見える鳥居をくぐった左に社務所も兼ねているのか、「鈴井町獅子館」が建つ岩倉市の指定有形文化財で江戸時代後期に作られた獅子頭を保存し、秋祭りの際には豊年を祈願し獅子舞が奉納されます上段「鈴井町獅子館」解説板下段獅子館の右に手水舎手水舎右の碑、八幡社との所縁は調べてみるも分かりませんでした自然石を積み上げ、その上に建てられた吹き抜けの木造神楽殿神楽殿の左重厚な木造瓦葺の拝殿には五七の桐の神社幕がかけられています神楽殿同様に石垣が高く積まれ、境内からは見上げる高さに建ち、視線の先に本殿が良く見えます拝殿前の狛犬胸を突きだし凛々しい姿拝殿両脇の末社左は洲原社、右に津島社流造の本殿本殿域には両脇に摂社が祀られているようです周囲の農道をひとまわりするも本殿域全体は窺えませんでしたのどかな田畑風景に囲まれ、そこに佇む神社のある光景は昔の原風景を感じさせてくれるものです鈴井 八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇住所 / 岩倉市鈴井町立切-65アクセス / 名鉄犬山線石仏駅下車、南に徒歩約15分
2019.01.11
コメント(0)
名古屋市昭和区塩付通市営地下鉄桜通線「桜山」で降車し東へその通りは塩道街道に近い事もあり、古い趣のある建物や寺社、馬頭観音等が点在しています今回訪れる「みやみち地蔵」もその中の一つです南北を貫く環状線の名古屋市立大学病院の北東角の交差点に小さなお堂が佇んでいます人通りの多い表通りの印象から、細い通りが続く趣のある静かな街並みに変わります静かな通りの小さな交差点、その角に「みやみち地蔵」が祀られていますお堂には三体の地蔵が祀られており中央の「右みやみち、左なるみみち」と記されたお地蔵様が目を引きます方向的には正しい方向を指しています、なので何処からかこちらに移されてきたものではなさそうです塩付街道から熱田さんに詣でる「みやみち」の案内役を担っていたのでしょうその表情は永年の風雪により良く見てとれませんお堂左の石標、私には文字が読み取れませんでした日々お参りに訪れ、面倒を見てもらえる方がいるのでしょう、正月を前に手向けられたお花やお供えが添えられていますお堂の右側に馬頭観音?でしょうか、見た事のない容姿の石仏です前掛けをめくる訳にもいかず、この石仏の素性も良く分かりません更に右には「みや道」の解説を記した石碑これがこの「みやみち地蔵」を後世に伝える由緒書きでもあります昔の人々は熱田詣でこの地に辿り着き、傍らのみやみち地蔵が指し示す方向に従って熱田神宮へ導かれていったのでしょう今はその役割を終え、このお堂の中に祀られ地元の方に守られているようです2019/1/6みやみち地蔵住所 / 名古屋市昭和区塩付通7丁目1アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」下車、東方向へ徒歩5分程(名古屋市立大学病院の北東角)
2019.01.08
コメント(0)
名古屋市名東区名東本通3丁目東山通りの星丘交差点を県道217号線方向へ右に、一旦登り、その先植田川に向かう緩やかな下りが続く(写真は星ヶ丘方向の眺め)県道沿いの左に風に靡く紅白の幟と木造の鳥居が目に入ります車だとこの幟しか視界に入らず、駐車場もないので気にはなってもなかなか縁がなかった三徳龍神社です2018/12/31大晦日、星ヶ丘から歩いて訪れました新年を迎え神社幟も建ちドレスアップした三徳龍神社通りからは幟と大きく伸びた境内の御神木は見えますが境内の様子を見通す事は出来ません通りの歩道沿いに建つ社号標から見下ろす位置に三徳龍神社境内があります鳥居をくぐり石段を下ると境内です、高低差は後方の基礎の高さから想像できると思います上段 境内に降りた左側に手水鉢があり、手水は絶え間なく注がれていました下段 拝殿左の社務所拝殿全景を収めるには石段から見下ろす形でしかフレームに入らない、とても狭い境内です上段 拝殿前に掲げられた三徳龍神社の起源その下にあるポストの左に赤い座布団の上に黒光りした石が祀られていました龍神社故に長い物(へび)かと思いましたがその系ではなさそうです謂れを記す物もないので良く分かりません下段 向拝からガラス越しの拝殿内と本殿の眺め拝殿左から本殿、両脇には一回り小さな末社が祀られていますが社名が記されておらず、どなたが祀られているのか残念ながら不明です本殿の後方に見える楠の木の御神木この木に触れ、自分の悪いところをさする事で治癒するパワーがあるそうです一昔前は見渡す限りの田畑で、山野の広がる地域、龍がいたとしてもおかしくはない場所です起源が記すように荒野を開拓し、水を司る龍を祀る神社として、建立されても何ら違和感はないと思いますむしろ境内から鳥居を見上げた時に感じる結構な高低差、こちらの方が違和感を感じます境内が掘り下げられたものではなく、当時の地表はこの境内の位置なのでしょうこの高低差こそ御告げにある、「将来この地域一体を繁栄させる」龍神の約束が果たされた証なのかもしれませんね三つの徳天の徳、地の徳、人の徳、有難いネーミングだと思います2018/12/31三徳龍神社創建 / 不明祭神 / 三徳龍神住所 / 名古屋市名東区名東本通3丁目アクセス / 地下鉄東山線「星ヶ丘駅」から徒歩約20分
2019.01.06
コメント(0)
名古屋市名東区本郷東名と東名阪、名古屋高速がリンクしジャンクションの高架が聳え立つ物流の大動脈である市内を東西に走る名古屋初の地下鉄東山線、ここでは地上に現れ終点藤が丘までは高架を走ります子供の頃にこの地に縁があり、当時は東名高速建設が急ピッチで進み、造成進む光景が広がる記憶が残ります、今では交通の要でもあり周囲はベットタウンへ変貌を遂げました市営地下鉄本郷駅から北へ10分程にある小高い丘陵地を目指します本郷公園の北側が50年ぶりに訪れる「藤森神明社」訪れたのは2019/1/2、道路左側には神社幟が建ち一目瞭然です公園の北側の道路に住宅と住宅の僅かな空間に石鳥居を構えた新明社参道があります参道は小高い頂きに続く石段をあがって行くことになります苦手な石段の先に二の鳥居の姿が見えます石段を登りきると道路の先に境内が広がります新明社二の鳥居前から正面全景番塀を持ち、境内左に手水舎、その先に神明造りの拝殿が覗えます拝殿前の狛犬拝殿全景小高い丘の頂に広がる境内はそれ程広くはないけれど、ゴチャゴチャ感を感じる事はありません子供の頃は頂きに続く小路を登り、拝殿の西側から境内に入った記憶が残ります神明造りの屋根には8本の鰹木が施されスクエアな印象をうけます当時の社殿の印象が思い浮かびませんが近年建て替えられているのでしょう拝殿、本殿共に新しいもの拝殿に掲げられる扁額と拝殿内手水舎から見た拝殿から本殿全景拝殿左の英霊社と狛犬、此方の狛犬は拝殿前に比較して重鎮の風貌を漂わせています上段英霊社前の手水鉢下段手水舎の後方にある石碑群右から御嶽山大権現、和尓良以神舊墟、郷土碑碑でしょうか?読み取れません、明治維新100年記念事業碑和尓良以神舊墟・・・・・和爾良神社は1185年(文治・建久の頃)荒廃し、所在不明の神社ですが、所在地は今も特定できていません新明社のこの碑も現在地に程近い、旧地から移転したとも云われています和爾良神社の伝承地の候補は複数あり過去に掲載した、名東区猪高町の和爾良神社や春日井市宮町の両社宮神社などもそれらの一つと云われます青空に向かって伸びる新明社本殿(上段)と拝殿(下段)の千木、印象的だったので一枚境内の碑上は明治維新100年記念事業碑「明治維新百年祈念事業として氏子崇敬者相計り、新規に社殿敷地を定め神明社造営計画を進め社殿様式は総て御祭神に依り神明風として社殿、社務所、水屋、参道林苑計画を施行し建物はすべて耐久性の構造を主体に一部木造を配し新時代の神社建築の粋を集め計画施行し尚社号標 灯籠等は特(篤)志家の寄贈による」下は二の鳥居左に置かれる由緒眼下の本郷公園にはこんもりと盛られた一画が残り、この地に伝わる藤森城址ではないかとも言われています高台から見下ろす風景は昔とは程遠く変貌したけれど当時、高台を登った頂きにあった神社のイメージは今も残る神明社です御祭神 / 天照皇大御神、豊受大御神その他に迦具土之命、国常立尊、菊理姫之命、木花開耶姫命、小碓之命、大山祇之命の六神が祀られる創建 / 棟札に、1347年(貞和三)天照坐大御神社一宇再建とある境内社 / 英霊社住所 / 名古屋市名東区本郷1-22アクセス / 市営地下鉄東山線「本郷」下車、北に徒歩10分程
2019.01.05
コメント(0)
名古屋市昭和区石仏町白山社の西隣に隣接する曹洞宗「善昌寺」は神仏習合の名残りを留める南に山門と観音堂を構えた、重厚で趣のある外観、堀もなく開放的なお寺です山門右の観音堂とその右にある地蔵尊が真っ先に目に入る御器所神社HPで石仏について以下のように記されていますこの地に一大石仏があった為、村名がついたと伝えられています現在、この石仏を見る事は出来ませんがそれに縁のある昔語りが現在も伝えられています、とある昔話とは「名古屋城築城時に石を運ぶ際、そのままではあまりに大きすぎたので石工に命じ割る事となったそうでが、割ろうとした石工はにわかに目が見えなくなってしまったそうです祟りを恐れた人々はその石で地蔵尊をつくりお祀りしたという、そのとたん石工の目は見えるようになったと伝えられ、地蔵尊はそれ以来、善昌寺で大切に安置されているとの事です」観音堂向拝を支える向拝柱には「円空仏薬師如来」の表札が掲げられているこちらの観音堂には千手観音と円空作と云われる薬師如来像が祀られています山門左の瓦葺の切妻屋根の三十三観音堂、開け放たれた堂内には弥勒菩薩、千手観音、馬頭観音などの石仏が祀られています、どれも親近感を感じる素朴な表情のものです瓦葺の小さいながら落ち着いた重厚な趣の善昌寺山門山門から境内の眺め木目の美しい山号表札ですが、達筆すぎて山号が読めません・・・・・慈雲山?境内山門脇の小さなお堂更に先の堂の前にも文久、享保など古い元号の刻まれた古い石仏が並びます、周辺からこちらに纏められたものでしょうか町名の由来となった地蔵尊は拝観する事は出来ないようですが、境内で見かける多くの石仏が地名の由来を語っているようです善昌寺本堂境内右側に寺務所、庫裏などにつながります本堂正面、寄棟の屋根は緩やかな傾斜が印象的でどっしりと落ち着いた外観善昌寺は御器所にある龍興寺の末寺で、江戸時代の初め、1608年(慶長13)に御器所を支配した服部善昌の子が出家して建立したと云われ、善昌寺という寺号はこれにちなむようです本堂前から境内全景、観音堂の後ろが白山社地名の由来となる石仏の祀られる善昌寺、多くの石仏と出逢える寺でした2018/12/06善昌寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 薬師如来創建 / 1608年(慶長13)住所 / 名古屋市昭和区石仏町1丁目80-2アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「御器所」下車、南へ徒歩10分程
2019.01.03
コメント(0)
名古屋市名東区平和が丘おやじの年代は猪子石の方が馴染みがある盛んに宅地化が加速する頃にこの辺りを冒険の場として訪れていた、自然豊かな土地柄でした現在の平和が丘は1956年(昭和51)に成立した新しい町ここは東部丘陵地帯にある平和公園のほぼ南に位置し、丘陵地の地形が残る閑静な住宅街上 左は1891年(明治24)頃のこの辺り、右が現在左に神社の記号が出てくるのは1956年頃の地図からで、それ以前には確認できません山は削られ、多くの溜池は姿を消し宅地化されていきますその丘陵地の高みの公園の北側に平和ヶ丘神社は鎮座します公園から見る神社全景鳥居、拝殿等全てが新しくとても綺麗な神社、鳥居は平成12年の奉納と刻まれています周辺の住宅に違和感なく佇むその姿はある種モダンな趣すら感じます昭和48年奉納の狛犬鳥居左の神社略記昭和35年、平和が丘の山地に住まう部落の人々により氏神を建立し、お伊勢さんの分霊を祀った事から始まる平成12年境内外周の土留老朽化改修に合わせ、境内、社殿が新築された様です新しいだけにとても綺麗な境内です境内左、手水舎と、戦後第三代市長杉戸清の名の刻まれた「開発」の碑拝殿左の黒龍石水を司り、あらゆる願いを叶えてくれる黒龍大神を祀るという事なのだろうか身近なパワースポットですね神紋は五七の桐の神社幕で飾られた拝殿と拝殿内の全景拝殿の左の住宅が社務所の様です田畑の広がる農村時代に氏神として祀られ、今では新しい住宅が立ち並ぶベッドタウンに変貌するも当地の氏神として今も崇められています平和ヶ丘神社創建 / 1960年(昭和35)祭神 / 天照皇御神住所 / 名古屋市名東区平和が丘3丁目アクセス / 市営地下鉄東山線「一社」下車、北西に徒歩15分程
2019.01.02
コメント(0)
2019年新年あけましておめでとうございます新年をお迎えになりいかがお過ごしでしょう我家の元旦、例年は除夜の鐘と共に初詣、その後はおやじの作った雑煮で新年を迎えるのが掟今年は皆で飲み過ぎました今年は大晦日は飲み過ぎた様です、意識が戻ったら、アッサ~!お雑煮を作り、皆を起こし初詣へう~ん、夜中より空いてるワイ、これもありなのか? それでも道真様を崇め多くの参拝客で賑わいますパンパン、・・・・・・名古屋市・・・です、今年一年が家族皆が健康で平穏な一年でありますように毎年の恒例のお願いごとです毎年恒例の破魔矢を買い求め、天神みくじ今年は次男が大吉のラッキーナンバーを引き当て、干支のキーホルダーを手にしたくじ運の悪いおやじ、参戦する前にシナリヲは出来ていた心の準備とは裏腹に既に願いが叶ったか?なんと「大吉」を引き当てる、これは新年早々縁起よ~し気分よくかみさんの実家に新年のご挨拶へ時間を見て、実家の近くにある神社幕で飾られた八幡神社へ参拝この辺りは町内で神社当番の習慣が伝承されていて、実家もかみさんも何度か経験している神社の存在自体が地域のコミュニケーションの中心となっているおやじの街から消え去ったこうした伝承を見るにつけ何とも言えぬ羨ましさの様なものを感じますパンパン「名古屋市・・・・の・・・・と申します、今年一年災いのない平穏な一年でありますように」ここでも毎年恒例の御願い事から2019年スタートです写真上野天満宮 / 名古屋市千種区赤坂町4-89鈴井八幡社 / 岩倉市鈴井町立切-65
2019.01.01
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1