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島根県大田市大森町、といってもピンとこないかも知れませんが、世界遺産石見銀山と聞くと聞き覚えはあるかと思います。石見銀山は、江戸時代に最盛期を迎えた銀山で、その重要性から天領として直接幕府の支配下に置かれました。その結果、大森町には代官所が設置され、陣屋町として、鉱山町としての活気を呈していました。現在でも、その当時の趣を残す家並みが残され、多くの観光客が訪れています。山間を流れる銀山川沿いの石見銀山街道を約40分歩くと、石見銀山見学の中心地である「龍源寺間歩」に到着します。今回は龍源寺間歩に続く石見銀山街道で見かけた「豊栄神社」「佐毘賣山神社」など掲載します。大田市のほゞ中央の山々に包まれた大森町、トレッキングコースや散策路も整備されています。上は大森町の観光マップ。世界遺産モニュメントのある駐車場から龍源寺間歩まで観光スポットが示されており、これら見ていくとほゞ一日がかりになるかもしれません。下河原吹屋跡。地域全体に採掘された銀鉱石を精錬するための施設が点在していたが、下河原吹屋は、仙ノ山の山上にある鉱山集落よりも先進的な施設とされ、鉛を利用した「灰吹法」と呼ばれる精錬法で銀を取り出していた。石見銀山の中枢で、監督していた代官所により直接経営されていたという。解説による灰吹法とは、「銀の精錬に際して、単に掘り出し選別した鉱石を熱して、銀を溶かし出すのではなく、銀と合金に成り易い、鉛やマンガンなどを混ぜて火に掛け加熱し、銀と鉛の合金(貴鉛)が他の金属や不純物から分離して溶け出す。この貴鉛を灰の上で加熱すると、融点の低い鉛が先に酸化して溶け、灰に沈み、灰の上に銀が残り、この作業を繰り返す清吹を経ながら銀の純度を上げる」とあります。こうした技術は海を渡って伝承され、古来から伝わるとかで纏められますが、そもそも何がきっかけで岩から目的の金属だけ分離する智恵が生まれたのか。食べるものも同じ、あのグロテスクなナマコを食べようと思ったか、始まりはいつも不思議だ。下河原吹屋の解説は以下。「鉱山からここに持ち込まれた鉱石は、まず粉砕され、その石をふるいにかけて銀を含む小片を分離する選鉱が行われます。その後、灰吹法で処理されます。この技法は、1533年に朝鮮半島より石見銀山に導入され、上質な銀を大量に生産するための鍵となるものでした。灰吹法とは非常に単純に言えば、鉛を使って製錬する方法です。砕いた銀鉱石と鉛を一緒に熱すると、銀は鉛に結合して合金を形成します。次に、この合金を灰の上に敷き、850°Cの高温に加熱して溶かし、ふいごを使って合金の酸化を促し続けます。合金の鉛分が酸化して灰に吸収され、純銀だけが残ります。下河原ではこの工程が昼夜を分かたず行われ、建造物の壁は耐火性の高い土でできていたようです。また、建造物は屋根が高く、窓が複数あり、煙と硫黄分を含むガスを逃がすために全ての部屋に煙突が付いていた」特に遺構はなく、言われなければ一面緑が広がる更地に見えます。下河原吹屋所在地 / 島根県大田市大森町ニ45-2下河原吹屋から2・3分先に鎮座する豊栄神社。街道沿いに社殿に続く社頭があり、左手に「史跡 豊栄神社境内」の石標と右手に解説があります。参道の先に随神門があり、随神門に繋がる塀は近年補修されたようで白さが浮き立っていた。社頭の解説。「大田市指定文化財 豊栄神社境内。毛利元就が祭神の毛利家ゆかりの社。元就は生前、自分自身の木製の像を山吹城に安置。元亀2年(1571)、孫の毛利輝元が洞春山 長安寺を建立し木像を移した。輝元役後、家康により石見銀山が支配される中、長安寺荒廃のため元禄4年(1691)毛利家は木像を萩に引き上げた。地元の木像在置の希望から、毛利家は代わりとして新しい木像を造らせ安置した。慶応2年(1866)、薩摩の部隊とともに、毛利氏の末裔が追放されていた長州⁽山口県北部)の部隊がこの地に進軍し、寺院の中に伝説の君主の像を発見。長州軍は浄財を募り本殿・境内地を整備し、明治3年、新政府の政策に従って寺院を廃し長安寺は豊栄神社となる。献納物には祖式信頼ら172名の隊士名が刻まれている。昭和18年(1943)、このあたり一帯は、水害で発生した土砂に巻き込まれたが、華麗な門と独特な拝殿、本殿は今も残る。当初の元就像は残念存在しないが、瓦には毛利家の家紋が配されています。」荒廃した時期はあるものの、焼失、再建した記録は見られないので、建立当時のまま受け継がれているようです。社頭の燈籠の竿には「第三大隊」と記され、長州軍の痕跡が見られます。燈籠から随神門に向け歩き始めたところ、前方で長いものが横切って行った。参道は手入れされていますが、一度見てしまうとそれ以上進む度胸もなく断念する。街道沿いから眺める社殿全景。随神門の左右の間を拡大すると随神が安置されているようです。拝殿は入母屋妻入り瓦葺で唐破風向拝が付き、後方の本殿は方形瓦葺屋根。豊栄神社創建 / 元亀2年(1571)祭神 / 毛利元就境内社 / 不明所在地 / 島根県大田市大森町佐毘賣山神社。龍源寺間歩の出口から石見銀座街道に戻る途中の山道の右に鎮座します。ユネスコ世界遺産石見銀山の構成施設の一つで石見銀山の守護神。佐毘賣山神社。文政の再建以来の大規模修繕を平成27年~令和6年にかけて修復中でその浄財を募る案内。今年五月に本遷宮の予定で、総工費は1億6千万だという。訪れた時は本遷宮も終えたと思われますが、神社周辺は今も整備が進んでいるようです。ここから見る社殿は、高く積まれた石垣の上に、拝殿は瓦葺の裳階の付いた入母屋妻入の拝殿と、造までは分からないが、三本の鰹木と外削ぎの置き千木が付く本殿の姿が見えます。山道を少し下った社頭に向かう。社頭から拝殿の眺め。高さの違う角の取れた石段が鳥居まで続いています。かみさんは「行きたければどうぞ」と言い上がる気はなさそうだ。取り敢えず石段の下まで行ってみました。社頭の佐毘賣山神社由緒。「祭神は鉱山の守り神である金山彦神で、別名「山神社」鉱夫や村人から「山神さん」として親しまれていました。永享6年(1434)室町幕府の命により周防國(山口県)守護大内氏が島根県益田市から分霊を移し祀ったと伝わる。戦国時代、銀山を領有した大内氏、尼子氏、毛利氏などに崇敬され、江戸時代は幕府初代石見銀山奉行の大久保石見守長安などに手厚く保護され、毎年正月10日には銀山の繁栄を祈願した。社殿は文政元年(1818)の大火で焼失。翌年、代官所の援助を得て再建され、拝殿の重層屋根は天領特有のものとされる」遠目に裳階と見えたが内部は重層になっているようです。ならば行くしかないだろう。急な石段の前から見上げる場所に建つ木造の明神鳥居を眺める。まん中に手摺はありますが、長時間の運転、ここまで歩いた足の疲れもあり、踏み外さずに戻る自信もなくここで手を合わせ社殿までは見送る事にした。石段の中ほどの左に、頭が赤く塗られた標柱があります、ここにも間歩があり掘削されたようです。社殿は鉱脈の上に鎮座しているようです。一帯の山肌には、こうした標柱が無数にあり、奥に続くもの、少し削った程度の間歩が残されています。はじまりはいつも不思議と書きましたが、先が見えない岩盤のこの先に鉱脈がないと見極めた指標も不思議なものです。素直ではないおやじはどこか未発見の鉱脈があるのでは疑ってみたくなるが、後に夢よ再びとばかり掘削が行われたが採算に乗らず頓挫したようです。金山彦神の鎮まる社地の下に、含有量の多い鉱脈が今も眠っている気がしてならない。望遠で捉えた鳥居と拝殿、境内社もあるようです。一帯には他にも見所や城址もあり、移動初日の夕方に訪れる場所ではなさそうです。佐毘賣山神社創建 / 永享6年(1434)祭神 / 金山彦神境内社 / 不明所在地 / 島根県大田市大森町銀山ホ393参拝日 / 2024/05/23関連記事 / ・二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1・物部神社境外摂社 漢女(からめ)神社・石見国一宮 物部神社
2024.06.13
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前回掲載した知立神社から北へ、国道1号線を越えた中川区中野新町に鎮座する神明社に向かいます。徒歩での移動時間は約5分程で社頭に着くことができると思います。上は今回掲載する中野新町「神明社」の位置を示してあります。所在地は江戸時に作られた中野外新田に鎮座し、明治22年(1889)に合併に伴い八幡村大字中野外新田、大正10年(1921)の名古屋市編入に伴い中野新町に改称されたようです。上の地図は大正時代の地図に鎮座地を赤枠部分で落としたもの、当時の地図には神社の印はなく、少し東の中野外新田集落、現在の福舟町に明治の頃からひとつだけ鳥居の印がみられます。福舟町を歩いていないので定かではないですが、地図上ではこの地に神社はないようです。現在地に鳥居が現れるのは昭和初期になってからでした。尾張志に目を通すと「神明ノ社 八劔ノ社 中野外新田にあり」とだけ記されていた。ここで云う八劔ノ社は中川運河を越え、中川区八剱町の八剱公園に現在も鎮座しています。創建時期は定かではないが、中野外新田開拓(1634)に伴い現在の福舟町に祀られ、その後運河沿いの区画整備に伴い現在地に遷座したものと思われます。愛知県神社庁から調べて見た、登録されていたが祭神、氏子域、祭礼日のみの掲載だった。上は知立神社の西側の通りを北に進んだ、国道1号線昭和橋2交差点方向の眺め。国道の先の住宅街の先に大きな樹が見えます、目指す神明社はあの場所に鎮座しています。社地南西角から境内の眺め。樹高が何㍍あるが定かではないが、住宅街にあってこの樹は存在感がある。南向きに社頭を構え、訪れた時は神明社の神社幟がはためいていました。神明社社頭から境内の眺め。左に大正11年(1922)「村社 神明社」の社号標が立ち、石造の神明鳥居を構えています。参道脇の手水鉢、寄進年は見ていません。境内東側から社殿全景。拝殿と幣殿、本殿が主なもので、本殿左側に境内社一社が祀られています。鳥居横と本殿横に高く聳えた松の木が印象に残ります、どこに出向いても楠が多い中、この威容は珍しい存在かも知れない。参道から拝殿方向の眺め、拝殿手前に常夜灯、狛犬が安置されています。拝殿と狛犬。梁間・桁行共に三間の四方吹き抜けのもので、破風飾りに桐紋が入れられています。狛犬は子持ち・毬持ちのもので昭和3年(1928)に寄進されたもの。昭和初期に遷座した際に寄進されたものと思われます。拝殿から本殿方向の眺め。神社に由緒を記したものは見当たりませんが、神明社なので祭神は天照皇大御神。こちらで参拝。燈籠の鉄の囲いはともかく、鍵が掛けられた鉄の扉に違和感を感じます。過去にそうさせる出来事でもあったのだろうか。神社仏閣の銅板すら盗難に遭う時代、やがて神社は玉垣ではなく、背の高い鉄柵で囲われる時代が訪れるのだろうか。貧しい国になったものだ。本殿左の境内社。社名札はなく、詳細は不明。神明社本殿、6本の鰹木と内削ぎの千木の神明造。拝殿から社頭方向の眺め。中野新町のほゞ中央に鎮座するこの地の氏神様です。神明社創建 / 不明祭神 / 天照皇大御神境内社 / 不明社一社祭礼日 / 10月9日所在地 / 名古屋市中川区中野新町5-77参拝日 /2024/05/09徒歩ルート / 知立神社から北へ、国道1号線を越えて神明社まで徒歩5分程度関連記事・知立神社・金山神社・素盞鳴神社・龍神社(港区本宮町)・豊福稲荷大明神・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.06.12
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石見国一宮 物部神社。島根県大田市の中心街から、国道375号線を10分程南下し、川合町の川合信号を左折して150㍍ほど先の左に社頭を構えています。静間川右岸の八百山南麗に位置し、社殿は八百山を背にして鎮座します。社頭は三瓶山に続く道路沿いにあり、正面に広い駐車場と石見交通「物部神社前」バス停もあり公共交通機関でのアクセスも良いようです。社頭右に「石見一宮 物部神社」の社号標。木造の明神鳥居。視界の広い風景が広がり、大きさは伝わらないかもしれませんが、島根県内の木造鳥居では最大の大きさを誇るもの。正面に御神体の八百山を背にして社殿が鎮座します。鳥居脇の物部神社解説。「石見國一の宮である物部神社、御祭神は宇摩志麻遅命で、古代豪族物部氏の祖神である。初代天皇神武天皇の東遷で功績を残し、その後各地を平定、最後に神社近くの鶴府(つるぶ)山に鶴に乗って降臨され、国見をされた時に神社裏山の「八百山」が天香具山に似ている事から、宮居を築き鎮座された。継体天皇八年(513)、天皇勅命により社殿を創建。安政三年(1856)宝暦時の規模で改修された。島根県内では出雲大社に次ぐ大きさで、春日造では全国一の規模を誇る。平成二十五年(2013)には社殿創建より1500年となる。古くより朝野の信仰は厚く、戦国武将大内義隆が寄進した「太刀銘了戒」等、多数の社宝を蔵する」とある。社殿創建以前は神体山である八百山を崇敬対象として崇められ、社殿創建後は石見銀山争奪の兵火などで三度消失するも、宝暦三年(1753)に再建、文政元年(1818)の修理を経て、安政の改修を受け現在に至っています。上は栞の物部神社マップ。白鶴に乗り降臨し、国見をしたという鶴府(つるぶ)山の北西に位置し、八百山の御神墓を背にして社殿・境内社が祀られています。稲荷社の左から山道を上ると御神墓に通じています。神紋は宇摩志麻遅命が乗ってきた鶴にちなみ、真っ赤な太陽を背に飛翔する鶴をデザインした「ひおい鶴」と呼ばれるもので、境内には紋以外に鶴の姿を見ることができます。鳥居をくぐった境内の全景、正面の社殿と左が神札所で鳥居の右手に社務所が主な伽藍。参道中ほどに鎮座する狛犬。個人的には腰を上げた構え形の姿が印象になりますが、姿勢も行儀よくお座りをしています。明治32年(1899)に寄進された狛犬の台座には鶴と蓑亀が彫られていました。鶴は物部神社の神紋、亀は「水を呼ぶ」ということから、火災予防の意味と縁起を担いで彫られたものだろうか。因みに本殿の破風飾りにも大きな亀の彫刻が彫られています。手水舎の手前の一対の狛鶴。阿形・吽形では分けられないが、写真は左側のもの。上手水舎。手前にパートナーの鶴が立てられてます。下勾玉が彫られた手水鉢全景。手水鉢の石造の龍は見慣れない姿をしています。この手水鉢の石材は特別な石のようで冨金石と呼ばれ解説が掲げられていました。俗に含金石と呼び、砂金が含まれ珍しい石。なんでも、鉢に彫られた四つの勾玉に触れると勝運や財運に恵まれるという。ここに注がれる手水は、境内右の御神井から湧き出た御神水をここに導いているそうだ。拝殿正面から社殿の眺め。写真ではさほど大きなものには見えませんが、入母屋銅葺の大きな拝殿です。拝殿右の由緒。「主祭神 御祭神 宇摩志麻遅命 配祀神 天照大御神、饒速日命、鎮魂八柱神、天御中主大神、韴霊社 後神社 師長姫命 漢女神社 栲幡千々姫命 伊夜彦神社 天香具山命 神代七大社 国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、大戸道辺尊、面徨根尊、伊弉尊 皇祖四代社 天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊 荒経霊社 須佐之男尊 須賀見神社 六見宿禰命 乙見神社 三見宿禰命 中原若宮神社(元摂社) 彦湯支命 新屋若宮神社 武諸隅命 川合神社 竹子(古)命 石上布留神社 十種神宝 熊野神社 高倉下命、少彦名命 一瓶社 佐比売山三瓶大明神 稲荷神社 稲倉魂命、大穴牟避命、大年神、大地主神 淡島神社 少彦名命 柿本神社 柿本人磨朝臣 菅原神社 菅原道真公 八重山神社 伊邪那美命、大山祇神他例祭 10月9日 特殊神事 鎮魂祭、奉射祭、御田植祭、鎮火祭、田面祭、庭火祭、忌籠神事他十二社殿 創建は継体天皇八年、現本殿は安政三年の造営 春日造変態、島根県指定文化財社宝 重文太刀了戒をはじめ刀剣・武具・書画・工芸品・古文書等450余点」錚々たる神々が祀られています。入母屋造の拝殿は、昭和11~12年(1936~1937)に改築されたもので、使用された檜は台湾から輸入されたものを使用している。 拝殿に掲げられた額には「物部神社」と彫られており、昭和45年に寄進されたもの。拝殿から本殿方向の眺め。社殿は入母屋造、銅板葺の屋根手。現在の拝殿は昭和11~12年(1936~1937)にかけて改築され、台湾から輸入した檜を用材として建てられたもの。 拝殿内左右には、二枚の物部神社の額と大きな天狗面や奉納絵画などの奉納品が掛けられています。当然、神紋の「ひおい鶴」が飛び交っています。拝殿左の願叶 勝石。「宇摩志麻遅命が腰掛けられ、「運気」の籠ったこの勝石を撫で、全ての願いに通じる「勝運」をお受け下さい。」謂れには「白い鶴に乗った宇摩志麻遅命は、川合に天降られました。その場所を折居田といいます。鶴降山から国見をしたところ、八百山が大和國の天の香具山に似ており、八百山の麓にお住まいになりました。この時、鶴降山から白い鶴に乗って降りたところを折居田といいます。折居田には御祭神が腰を掛けた大きな岩があり、昔から大きくもならず、枯れもしないと言い伝えのある一本の桜の樹がありました。ここから東へ600㍍のところにあり、石碑が建てられています。近くには泉もあり、十種神宝を祀る石上布瑠神社があります。昭和56年、道路拡張工事のため、御腰掛岩と桜の樹を境内に移し、伝説と共に保存したもの」勝石の左に境内社三社が祀られています。右手の社は菅原道真を祀る菅原神社。創建については触れられていなかった。柿本人麿朝臣を祀る柿本神社です、以下は神社HPより。柿本人麿は宮廷に奉仕した第一の歌人であり物部氏の流れとの説もあります。 石見と深い関わりがあり「君がため浮沼の池の菱摘むと わが染めし袖濡れにけるかも」という歌があります。(石見国で没する) 御神徳は学業成就・学問向上・安産・防火等。淡島神社。少彦名命を祀る末社です。医薬の神・足傷神・女性の守り神。⁽腰から下の病に霊験あらたかと言われています)八重山神社。伊邪那美命、大山祇神、若布都主神を祀る末社です。 御神徳は牛馬守護・交通安全等。ここから少し離れて恵比須神社がありますが、その前にこれらの奥にある末社を参拝。勝石の左から奥に繋がる参道。本殿左にあたるこの場所には末社 西五社と稲荷神社が祀られています。五社相殿の社には荒経霊社の素戔嗚尊、皇祖四代社の天忍穂耳尊・瓊瓊杵命、彦火々出見尊・鵜草葺不合命が祀られています。本殿左の境内社の眺め、右が西五社で左が稲荷神社。稲荷神社。祭神は稲倉魂命ほか大穴牟遅神、大年神、大地主神を祀ります。御神徳は五穀豊穣・諸業繁栄等。左手の石標が立っている道を上に進むと御神墓に至りますが、長時間運転してのゴールが見えない山道は諦めました。マップでは本殿のすぐ後方にあるようなんですが。稲荷神社左の石碑。なんとかの跡と彫られているのだが碑文が読めない。西側から見上げる物部神社本殿。島根県では出雲大社に次ぐ大きさを誇り、春日造りとしては日本一の規模を誇ると云われるだけに、間近でみるとその大きさを実感できます。本殿右側から西五社と本殿の眺め、手前は東五社。屋根から庇にかけての姿は見慣れた春日造りと少し違う印象を持つかもしれません、神社由緒にあった「変態」とはこの辺りをさしているのだろうか。鰹木は3本、千木は外削ぎの置き千木が乗る。東五社(左)。「日本書記」において天地開闢のあとに現れた13柱(神世七代)を祀る末社です。祭神は国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、砂土煮尊、角杙尊、活杙尊、大戸道尊、大戸辺尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊。須賀見神社・乙見神社(右)。御祭神はそれぞれ宇摩志麻遅命の子孫にあたる六見宿禰命と三見宿禰命で、第6代孝安天皇の御代に活躍さした神様です。須賀見神社・乙見神社の右に鎮座する境内社。境内摂社 後神社。境内社の中にあって唯一拝殿を持つ神社。瓦葺で三方に格子戸を持つもので、正面は入母屋で奥は切妻の建物。妻壁には「後神社」と書かれた素木の額が掛けられています。拝殿内から本殿の眺め。御祭神は宇摩志麻遅命の妃神である師長姫命を祀り、拝殿前の2本の杉の木に守られるように静かに鎮座しています。後神社の左に二社の境内末社。上は土社。波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神で土の神、陶器の神。火社と同じく鎮火祭にて祭事が行われ、赤土を供え防火の神とも云われる下は火社。祭神は火之加具土神。火を司る神、毎年7月19日本社にて行われる鎮火祭にて、水神・土神・瓢・川菜を供え災厄を御鎮めしている。そこから左に回り込み後神社の後ろの眺め。銅葺屋根の平入で、拝殿側の屋根が長く滑らかな反りを持つ本殿。後神社の右の一瓶社。佐比売山三瓶大明神を祀る末社で、石見国を制した宇摩志麻遅命は3つの聖なる瓶を各所に納め、平和を祈りました。その1つが一瓶社で、2つめは浮布池の邇幣姫神社に、3つ目は三瓶山の麓の三瓶大明神に奉納されました。 これが三瓶山の名の由来になったと言われています。また一瓶社には室町時代頃の古備前の大甕が現存しているとされ、代々この大甕を使って神饌用の御神酒を造っており、12月には一瓶社内で正月節分に白酒を造る酒造神事が執り行われると言います。上は末社の妙見神社。祭神は妙見大神、合祀地主神。妙見大神は新道では天御中主神と同一神とされ、造化三神の一神であり宇宙根源神ともされます。仏教では妙見菩薩として北極星の神として天上を護る神様、合祀の地主神は大地主神とも云われ、地を護る神様です。両神合祀であるため天地を護る神様。下は末社の眞名井神社(水神社)。祭神は罔象女神、御井神。往古より祭典時の御供の水として使われている井戸の神様。正月等の御神酒の水や手水に流される御神水もこの水が使われている。禊石。後神社の石段前に、一対の鶴が守護する大きな岩と社があります。神職が神事の時に身の穢れを祓い清める祓所だとの事。この後方にはかつての神宮寺跡がありますが遺構は残っていなかった。本殿の破風飾りには亀の彫刻が彫られています、あれで子どもの背丈ほどもあるという。拝殿右から眺める拝殿と本殿。春日造りとしては日本一の規模を誇り、石見銀山争奪の戦火で三度消失したと伝わります。手前の拝殿は昭和12年(1937)に改築されたもの。境内西側の眺め。こちら側には神馬像と納札所があり、更に奥に進むと恵比須神社などが鎮座します。この神馬像「パーソロン号」は七冠馬シンボリルドルフの父馬で、その血統で一時代を築いたサラブレッドです。競馬ファンが訪れることから御神馬像の前には野菜や果物などが供えられていることもあるそうだ。 もともとは大正9年(1920)奉納の神馬像があったそうですが、太平洋戦争の際に供出され、平成2年(1990)までは神馬はいなかった。境内末社 恵比寿神社。祭神は事代主命、大国主命。もとは境内西の道路沿いの氏子地域に鎮座していたが、交通量の増加により祭典が困難となり平成27年にこの地に遷座した。恵比寿神社の後ろに大きな椨の樹が聳える。古来より子育ての御神木として崇められ、夜泣をする子供を幹の空洞に一晩寝かせておくと夜泣は治ったとされ、子供の病気や怪我を治す神様。世が世なら手が後ろに回りそうな、玄関締め出しは経験があるがさすがに一晩はないな。中には聖天さんと呼ばれる石像が安置されています。双神像で男天と女天が抱き合う姿だそうで、富貴を与え、病を除く夫婦和合の神様で、縁結び、子宝を授けて頂けるそうです。椨の巨木の後ろには、更に大きな椋木が聳えています。この樹の葉は紙やすりの代用になるらしい、樹齢は定かではありませんが、根の張りは相当なもので、自然の力強さに溢れています。上石見尊徳岩谷九十老翁頌徳碑江戸後期から明治中期にかけての地元の豪農・岩谷九十老翁(米安大明神)を顕彰する石碑です。飢饉の時には私財をなげうって町民に食べ物を分け与えるなど地域に多大な貢献をされた方で、地元川合小学校の校歌にも物部神社の名と共に残っているそうです。正面の書は徳川宗家の第16代当主徳川家達のものだそうです。下立神巌弔魂碑。大正2年、川合村尋常小学校と高等小学校の生徒たちが水難事故に遭い、多くの被害者を出したようで、事故の起きた6月7日になると川合小学校の6年生徒によりこの碑を清め、花を手向け手を合わせるそうです。上立神巌弔魂碑付近から社殿と八百山の眺め。下社務所と大鳥居の方向の眺め。石見國一の宮という事で多くの参拝客を想定していましたが、大陸からの参拝客もなく、多くの神話が伝わる物部神社は静寂に包まれていました。石見國一宮 物部神社創建 / 継体天皇八年(513)祭神 / 宇摩志麻遅命境内社 / 後神社、神代七代社(東五社)、皇祖四代社(西五社)、一瓶社など所在地 / 島根県大田市川合町川合1545参拝日 / 2024/05/23関連記事 / ・二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1・物部神社境外摂社 漢女(からめ)神社
2024.06.11
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全国の一宮を廻り始めて何年目だろうか、随分と日本地図を塗り潰してきましたが、プランを練るかみさんも徐々に苦労しているようだ。一宮とは旧国名のなかで最も格式の高い神社のことを指し、その下に二宮、三宮とあります。そうした神社が鎮座する地域には、地名として残る事もあります。今回訪れた島根県の一ノ宮は壱岐の二社を除き、出雲大社と熊野神社、そしてここ大田市川合町の物部神社の三社があります。今回、島根県を二泊三日で訪れましたが、この日程では壱岐の二社まで廻り切れないので、出雲國一宮と、石見國一宮に的を絞っています。あれ、もう一國は? 理由はシンプル、出雲国の一之宮が二社あるから。御朱印を収集するかみさんが「一國一社でいいんじゃない」とこぼすパターンで、この指標は理解しにくい。鎮座地は、島根県西部の東西に長い石見國にあたり、 大田市を中心に東部を「石東」、浜田市を中心に中部を「石央」、益田市を中心として西部を「石西」と呼ばれ三分され、その石見國にあって最も格式が高い神社が物部神社。今回はその物部神社の境外摂社「漢女(からめじんじゃ)神社」を掲載します。島根県大田市川合町の物部神社社頭に続く道路。前方に見える三瓶山を背にして神社が鎮座します。写真の交差点は、大田市中心部から国道375号線を10分前後南下した、川合地内の交差点。左右を横切るのが国道で、大田市からだと右から来てこの交差点を左折します。国道から左の見通しが利かず、道巾も狭いので小回りの利かない四駆やバスだと回れない、こんなに離れていても停止線は遥か手前に引かれています。名古屋で普通に見られる横断歩道の上で信号待ちする車もなく、ルールが順守されているから、安心して左折できる。他府県を訪れると地元名古屋の運転モラルの低さが恥ずかしく感じられる。漢女神社の社頭は、そんな交差点を左折したすぐ右側に鳥居を構えています。物部神社境外摂社 漢女神社社頭全景。栞によれば、物部神社の境外摂社は当社と衣夜彦神社の二社があるようです。そちらは、ここから約10分程細い道を入った山間に鎮座するようで、帰りに車で向かいましたが良く分からず諦めました。社地の間口は狭く、石の明神鳥居(寄進年未確認)を建てるだけで精一杯の間口。鳥居の先から石段を上がると広がりのある境内になります。鳥居扁額は漢女神社。境内には由緒等はなく、栞によれば祭神は栲幡千々姫命、市杵島姫命、抓津姫命が祀られています。栲幡千々姫命は物部神社の主祭神 宇摩志麻遅の祖母にあたり、織物の神様とされる。御祭神は物部神社の御祭神宇摩志麻遅命の祖母にあたる栲幡千々姫命で機織りの神様です物部神社の年中行事に7月7日に執り行われる特殊神事「七夕祭」があります。七夕はもともと「棚機」といって、乙女が織った反物を神様にそなえ、諸願上達と人々のけがれをはらう神事でした。物部神社の七夕祭は、期間中に短冊に願い事を書き笹に結び、漢女神社へ参詣し諸願上達を祈るのだという、笹は7月7日夜に物部神社境内で焚き上げされるようです。本殿には3本の鰹木と内削ぎの置き千木が付き、切妻造の銅葺屋根で春日造りにも似ています。辿り着けなかった衣夜彦神社は、静間川対岸のあの山の中に鎮座しているはずです。物部神社境外摂社 漢女神社創建 / 不明祭神 / 栲幡千々姫命、市杵島姫命、抓津姫命所在地 / 島根県大田市川合町川合1560参拝日 / 2024/5/23関連記事 / 二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1
2024.06.10
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中川区松年町 知立神社。金山神社から北西に徒歩5・6分の松年公園の西に隣接する神社です。写真は松年公園南側の通りから公園と社頭の眺め。知立神社は住宅街の区画の中に、大きく伸びた楠の杜の中に鎮座します。上は大正期(左)とほゞ現在の地図の比較です。鎮座地は赤枠部分で、緑の線の百曲街道沿いの集落の南にあたり、大正時代の地図では鎮座地に鳥居の姿はなく、すぐ南西にある昭明公園の神明社は明治の地図にも記されていました。鎮座地に明確に鳥居が現れるのは昭和に入ってからの事でした。社頭には一対の常夜灯(昭和5年寄進)と参道右に村社 知立神社の社号標(昭和5年寄進)が建てられています。右の公園と社地を遮るものはなく、公園からそのまま拝殿に進む事も出来ます。鳥居は参道を進んだ先に石造神明鳥居を構えています。鳥居手前に自然石の姿を生かした一対の野面燈籠が印象に残ります。参道左のもと手水石。事情があってか、上面はセメントで埋め固められ、今は使われる事はない。前面に清水の文字がなければ周辺の石と見分けがつかない。知立神社の石造神明鳥居。こちらは大正2年に寄進されたもので、境内の寄進物の中では一番古いものでした。二対の狛犬が守護する拝殿は瓦葺の切妻妻入りのもので、梁間・桁行ともに三間の四方吹き抜けのもの。拝殿前の二対の狛犬。手前はスタンダードなもので、後方は子連れ・毬持ちのもの。後方の狛犬の寄進年は昭和4年に寄進されたものでした。拝殿妻壁の扁額には知立神社とある。知立神社と聞くと三河国二宮の池鯉鮒大明神が思い当たります。当神社はそちらから勧請されたものと思われ、祭神も鸕鶿草葺不合尊かと思われます。尾張志に目を通すと池鯉鮒社として記載されていません。「熱田新田 八劔ノ社 末社に戸部天王ノ社 池鯉鮒ノ社あり 十一番割の氏神也」と記されているのに目が止まるも、中川区十一番町の八剱神社を指しているのでどうも違う。残念ながら創建時期は定かではないです。いずれにしても新田開発以前は、遠浅の海岸線が広がっていたはずなので、それ以前とは思えないでしょう。拝殿内側の左右に二枚の社名札が掛けられています。左側は天王社の社名・祭神・神徳、右の木札は脱色し、知立神社から左が読み取れなかったが、ここに由緒が書かれていたのかもしれない。拝殿側面。知立神社本殿。本殿は銅葺屋根の一間社流造で脇障子も付くようです。本殿の周囲は透塀で囲い、左の幣殿後方に繋がります。本殿域はよく見ていませんが、天王社があるものと思われます。秋葉神社。拝殿右に鳥居(昭和49年寄進)と社標を構え、その先に本殿が祀られています。秋葉神社本殿。千木は内削ぎ、鰹木は3本の板宮造り。創建は定かではなく、祭神は迦具土神かと思われます。右から拝殿、渡廊・幣殿の眺め。拝殿屋根で飾り瓦に躍動感のある獅子が躍る。拝殿右側から幣殿と本殿。大きな楠の幹に根を張るノキシノブ。地表にあまり生えず、こうした古木の幹に生える苔の上に根付くシダ性植物。古木に自生する苔も綺麗ですが、個人的に古木を包む様に自生する軒忍は好きなシダのひとつです。社地西側の参道鳥居。今回の神社巡りは知立神社を西端と線を引いたので、すぐ西の昭明公園の神明社は次回として、西鳥居から北に向け歩いていきました。知立神社創建 / 不明祭神 / 鸕鶿草葺不合尊、須佐之男命境内社 / 天王社・秋葉神社祭礼日 / 不明所在地 / 名古屋市中川区松年町1-50参拝日 /2024/05/09徒歩ルート / 金山神社から北西の松年公園まで徒歩6分程関連記事・金山神社・素盞鳴神社・龍神社(港区本宮町)・豊福稲荷大明神・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.06.07
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素盞鳴神社から次の目的地「金山神社」へは中川運河沿いに北へ徒歩15分程の移動時間になります。歩き出して5分くらいで小碓橋に至ります。写真は小碓橋から西方向の小碓運河と南郊公園西園の眺め。左手の高架は旧国鉄が建設し未完のままで終わった南方貨物線の高架橋で、右手の小碓運河は東の南郊運河と共に中川運河の横堀として水運の目的で作られました。時代とともに水運は衰退し、鉄道や自動車へ変わり、横堀の役割を終え、一部の堀の埋め立てがはじまり埋立地の一部は南郊公園西園、東園として緑地に生まれ変わり、現在は小碓橋の西100㍍と中川運河対岸の玉川橋から東の約200㍍が横堀の名残を留めています。小碓橋の西を眺めると、時代の流れとともに姿を変えた二つのモニュメントが並んで残っています。上の地図は左が大正、右はほゞ現在の地図。今回取り上げる金山神社は赤枠の部分に鎮座しています。金山神社と聞くと熱田区金山町の金山神社が思い浮かびますが、こちらの神社は中川区玉船町に鎮座します。大正当時の地図では周囲に住居はなく、鳥居も記されていません。中川運河の起工は大正15年なので地図にはその姿はなく、笈瀬川と下流の中川しかありません。金山神社は中川運河右岸沿いに町工場が連なる中川区玉船町の工場群の中に鎮座しています。写真は小碓橋から北へ約200㍍程先の玉船町交差点。Gマップのマーカーではこの道沿いにあるように見えますが、通りの一本西に社頭があります。神社へはこの交差点を左に進み、一つ目の交差点を右折直進すると右側に見えてきます。私はマーカーを信じてここを直進し、社頭が見当たらず、この先で左折し神社に向かいました。社頭のある通りから南眺め。鳥居を探すも見当たりません、左側の植え込みをよく見れば、下に玉垣があるのを見付け向かってみました。社地側面の全景。左に社が祀られ、電柱の奥に鳥居の姿があります、ここが金山神社のようです。社標や参道は・・・・どうやって入るのか?、ひょっとして企業社なのか?電柱右にひと一人がやつと通れる隙間があり、意を決して入らせて頂きました。すぐに突き当たるので、そこで左向けー左。どうやらここが正参道。鳥居に向かって右に金山神社の社標と小さな社務所がありました。目の前に石の神明鳥居とその先の境内に社殿が見えます。本殿の右には境内社の姿もあります。鳥居の左に手水鉢、かつては井戸から手水を張っていたようです。社殿方向の眺め。南・北・東を工場に挟まれ、左の車道に沿う様に南北に細長い社地です。手入れの行き届いた松をくぐると、木造神明鳥居があり、その先に本殿と境内社が鎮座します。境内に由緒書きは見当たらず創建や由緒の詳細は全く不明です。愛知県神社庁を当たってみましたが、中川区75社の中には含まれていなかった。社名からすると金山毘古神が祀られていると思われ、右の社は社名札もなく金山姫命を祀っているのかもしれません。手前の常夜灯は木造で、石造と比較すると手間がかかりますが、傷みもなく綺麗に維持されています。本殿右の境内社。鰹木は6本で内削ぎの千木が施された社殿、俗説から見れば女神が祀られている事になるが、本殿の鰹木、千木も同じ仕様なので、これはなんとも言えない。この一帯は金属、機械部品工場が多いので、鉱山や鍛冶の神、金山毘古神が祀られていても不思議ではない、これは個人の妄想であり何の根拠もありませんが。境内から社頭の眺め。参拝を済ませ、境内寄進物の寄進年を見て回りましたが、これも見当たらず、創建時期は明治や江戸時代まで遡ることはないかもしれません。社名以外なにも分からないままとなりました。金山神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明祭礼日 / 不明所在地 / 名古屋市中川区玉船町2参拝日 /2024/05/09徒歩ルート / 素盞鳴神社から中川運河沿いに北へ徒歩15分程関連記事・素盞鳴神社・龍神社(港区本宮町)・豊福稲荷大明神・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.06.06
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以前掲載した浄専寺、その西に土古(どんご)公園があります。今回掲載する龍神社は土古公園の南側に鎮座します。土古公園。土古と書いて「どんご」とはなかなか読めないもので、ポンコツPCでは変換候補に挙がりもしない。名古屋市港区町名由来では「元文4年(1739)、海東郡蟹江村(現・蟹江町)の鈴木新助が開発したところで、「同伍(どうご)」といって、「同じ組」が起源ではないかといわれるが、「土古山新田」というところから、荒子川に沿って砂洲により小高い丘状になっていたものと思われる。」とあり、地盤としては弱い所なのかもしれない。公園にはグランドや冨士山滑り台などがある比較的大きな公園です。上は大正時代(左)とほゞ現在の鎮座地で、大正時代には既に鳥居の印も描かれ、明治24年の地図にも描かれていました。神社は公園の南に鎮座していますが、こちらからでは境内に入れず、一本南側の通りに回り込むと社頭に至ります。公園南側から社殿後方の眺め。後方は全面玉垣に囲まれ、境内の大きな石碑と神明造の本殿、拝殿が見渡せる。南の通りに回り込み社頭方向を眺める。手前の瓦葺の山門は曹洞宗の寺院 如意寺で、熱田前新田完成後の辻の観音として、本尊に聖観音を奉安した事から始まる。龍神社は如意寺の東に隣接して鎮座します。社頭東から境内の眺め。熱田前新田は中川の東を東ノ割、中川と荒子川の間を中ノ割、荒子川から西を西ノ割と分けられ、鎮座地は中ノ割にあたり、中ノ割の氏神様として創建されたのが龍神社です。そのことは天保15年(1844)に編纂された尾張志にも「稲荷ノ社二所 神明社 龍神ノ社 熱田前新田にあり」と記されています。上は社頭右の掲示板に貼られていた「龍神社 本殿遷宮に至った経過報告」案内。これによると令和2年、本殿内部に蜜蜂が営巣、それに伴い駆除、巣の撤去、本殿清掃、隙間等の補修期間中は御神体は遷され、翌年9月に遷座されたことを伝えるもの。しかし長年の自然劣化ならともかく、蜜蜂により補修が必要になるとは想定外のことだろう。これは他人ごとではなく、丁度良い隙間があれば同じことになる、一度家の外観を見回ってみる必要がありそうだ。社頭正面から境内の眺め。石造の神明鳥居(1912年寄進)と左に「村社 龍神社」の社号標、手水舎は左にあります。鳥居前を守護する狛犬の阿形は毬を持ち、吽形は・・・怪我でもしたのか?鳥居の先から拝殿の眺め。拝殿前に常夜灯と一対の狛犬が守護し、その先に二つの石標が建てられています。手水舎は手水石の上に蓋がされていました。手水舎から社殿の眺め。手前の常夜灯、竿の部分に目を向けて欲しい。大きな龍が竿に巻き付き、いかにも龍神社に相応しいひと手間かけた意匠が施されています。拝殿前の狛犬と拝殿全景。昭和12年寄進の子連れ、毬持の狛犬。拝殿は銅葺屋根の入母屋で桁行三間・梁間二間の四方吹き抜けで床のない土間造り。左の石標は平成11年寄進の「創始 弐百周年」記念碑。手前の献灯台の笠の部分に視線を向けると・・・そこに一対の小さな狛犬が安置されています。体は小さいながら形が整った凛々しい姿をしています。拝殿右から社殿の眺め。右の石標は昭和24年に寄進された「創始百五十周年」記念碑。寛政12年(1800)に熱田前新田の工事開始にあたり綿津見命を勧請し、同13年(1801)工事完成に伴い新田の本宮として龍神社の名で祀った」と刻まれています。後方の本殿域は透塀が本殿を取り囲み中門に結ばれています。拝殿額。港区の解説は以下のようなもの。「祭神は綿津見命。享和元年(1801)、熱田前新田が完成したおりに、海神の心を慰めるために建立された最初の神社で、「元の宮」といわれた。拝殿から渡廊、中門方向の眺め。本殿左の二つの石碑。左は忠魂碑、右は神国之碑が立てられています。左から眺める本殿。本殿は神明造で8本の鰹木が載せられ、千木は内削ぎのもの。本殿域全体は見渡せませんが、本殿の左には4本の鰹木4と内削ぎの社が見えます。これが津島神社なのだろう。透塀から本殿の全景、右側にも社があるのか、この写真からは分からなかった。創始弐百周年記念碑の裏に龍神社の由緒が刻まれていました、全文は以下。「龍神社 由緒創建 寛政11年 西暦1799年明治5年7月村社に列格する明治12年10月拝殿を新築明治19年10月本殿を修復明治35年4月社殿を修復明治45年4月社殿を修復 鳥居を改修 本殿裏回り石組を新設大正15年4月供進指定社昭和13年4月地名変更の際 元宮町と申請したが本宮町となった昭和34年9月伊勢湾台風で被災したが氏子の熱意により復興平成11年11月21日 創建弐百周年記念式祭」と記されています。この碑文で神社の歴史が一目で分かる、氏子の支えがしっかりしているようです。蜜蜂事件もどこかに記されるのかな。本殿右側の眺め。その右側にひとつの石碑が立っています。「熱田前新田開発 百六十五年記念碑」神社の創建時期については、碑文や港区の解説で整合しない部分も見られますが、新田の開発とともに龍神社がある事に違いはなく、騒ぐようなことでもない。龍神社創建 / 寛政11年(1799)祭神 / 綿津見神境内社 / 津島神社祭礼日 / 不明所在地 / 名古屋市港区本宮町3-2参拝日 /2024/05/09公共交通機関アクセス / 地下鉄名港線「東海通駅」1番口から西へ徒歩30分関連記事・豊福稲荷大明神・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.06.04
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奈良時代に開湯とされる古湯玉造温泉で迎えた最終日、今日も暑くなりそうな予感。食事前に宿の前から玉湯川下流を眺める。随分と高い橋脚は山陰自動車道の玉造温泉橋になります。島根最終日は意宇六社を回り切り、関西の渋滞に巻き込まれる前に帰途に着きたい。その前に朝御飯を食べておかないとね。宿から玉湯川上流の眺め、この道を先に進み、信号の角に玉作湯神社があるという。社頭には駐車場もあるという事なので、車で神社に向かう。最終日一社目はここからスタートしよう。9:00玉井別館から車でものの2~3分で玉作湯神社駐車場着。大型車なら10台ほど駐車できる無料駐車場で、この時間だと余裕で駐車できました。鳥居をくぐった左側に社務所があり、大きな願いがある方は、こちらで「叶い石」とお守り袋、願い札のセットを購入し参拝に向かいます。もっとも、黙っていても「叶い石如何ですかぁ」と積極的に声がかかるはずです。当社は奈良時代の「出雲風土記」天平5年(733)に記される古社で、玉作の神 櫛明玉命と国造りと温泉療法の神 大名持命と温泉守護の少彦名命の三柱を祀り、配神に五十猛神が祀られる国指定史跡出雲玉作跡(宮ノ上地区)の一画にあり、花仙山一帯では最古の玉作り遺跡。弥生時代から玉作が行われ、江戸時代には「湯姫大明神」、「湯舩大明神」等と呼ばれ、藩主の崇敬も厚かった。明治以降、天皇即位の式典には、ここで作られた瑪瑙・碧玉製品が献上されていた。祭神の櫛明玉命は、三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉をこの地で造られたと伝わり、神社には多数の勾玉や管玉が社宝として保管されている。ニノ鳥居から境内方向を見上げる。古い形の狛犬や燈籠を過ぎ、石段中ほどの右側に出雲玉作跡出土品収蔵庫がありますが、公開されていません。境内の全景。正面が社殿で右方向に境内社や湯山遥拝殿があります。拝殿額は「縣社玉作湯神社」本殿はこの辺りでは定番の大社造りで、現在の本殿は安政4年(1857)の再建という。境内右の境内社と右手の湯山遥拝殿。湯山遥拝殿の解説から抜粋。御祭神は湯山主命(大己貴神)湯山主命は温泉守護、温泉療法・諸病平などの守護神。往時より近里・遠群はじめ地域住民から篤く信仰され古歌にも詠われた。神社宮山に続く玉作要害山は、往古「湯山」と称され、その谷を湯谷と呼ばれていたことが古書に記されている。その湯山の主が湯山主命であり、今も広く景仰されている。この遥拝所は古事記編纂1300年、出雲国風土記編纂1280年を記念し遥拝所を整備したもの。遥拝所左手の湯山神蹟。本殿右手の山肌にある願い石。真玉の泉で清めた「叶い石」を左の「湯山主之大神」の前にある丸い球にそっと当て、願い事を三度唱え、願い石を家に持ち帰れば願いが叶うという。当然ながら願いが叶えばお礼参りが必要になります。玉作湯神社祭神 / 櫛明玉命、大名持命、少彦名命、五十猛神所在地 / 島根県松江市玉湯町玉造508次は意宇六社の一つ眞名井神社に向かうため、県道263号線と国道9号線で東に向かって車を走らせます。9:45 眞名井神社到着。松江市山代町までは約15㌔、20分程で写真のような、水田が一面に広がる開放的な光景に変わります。道路も400㍍の直線道路でしかも一方通行、車道というより農道なんだろうか。中央には松が植えられ、なんだが参道の様にも見えます。まさしくここが眞名井神社の参道で、以前は水田の中に立派な松並木が神社に続く光景が広がっていた、それも松枯れで荒廃し、道路を含め復元されたものと言う。この道の先は意宇川の堤防道路に続き、往古はこの川で禊をして神社に参詣していたのかもしれません。神社には駐車場はありません、車は道路左側の空き地に止めさせてもらいました。眞名井神社社頭は茶臼山の南麗にあり、社頭の前を県道247号線が横切っています。松江平野を見渡せる背後の茶臼山(標高171㍍)には、地の利を生かして山城も作られたようです。社頭を守護する狛犬(年代は不明)。鳥居左手の手水「真名井の手水」今の眞名井神社、出雲風土記では、神祇官社に眞名井社、不在神祇官社に末那為社が載っており、神祇官社が本社にあてられ、不在神祇官社は境内社があてられ、眞名井社は、元は近くの眞名井の滝にあったとされます。その眞名井の滝は社頭前の県道を右手に進み、茶臼山へ少し分け入った辺りにあるらしいが入口が良く分からなかった。この手水はその眞名井の滝から引かれているものだろうか。眞名井神社鳥居から石段と拝殿の眺め。上り口に青竹の杖が置かれていますが、そこまで急なものではないので大丈夫かな。ただ不規則な石積みの石段は、角が取れて滑りやすいので足元だけはよく見ていく必要がある。石段を上ると一対の狛犬と目の前に拝殿が建てられています。拝殿から本殿域の眺め。四方吹き抜けで梁間・桁行三間のシンプルなもので、礎石の上に柱を建てただけで床はなく、昭和9年(1934)に建てられたもの。本殿域の中門の神紋は二重亀甲に有の文字が入る。本殿域右側から見る大社造りの本殿。現在の本殿は寛文2年(1662)に建てられもので、本殿内面に極彩色の壁画が描かれているという。江戸時代には「伊弉諾社」と呼ばれ、明治初年に現在の眞名井神社に改称した。社務所右の真名井神社解説。「県指定建造物 真名井神社本殿昭和49年12月27日指定社殿は本殿、中門、拝殿、神楽殿、境内社から成る。本殿は大社造り檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。祭神は伊弉諾尊、天津彦根命(山代直の祖) 当社は出雲国風土記にいう「真名井社」、延喜式に記す「真名井神社」で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。背後の山は神名樋山で出雲国内四神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。 中世・近世は「伊弉諾社」として知られていたが明治以後は旧号に復し村社に列さられていた。現本殿は、寛文2年(1662)の軸立で、内殿は正面に向っている。殿内には彩色絵がある。拝殿は昭和9年に新築された土間床の造り。境内社には末那為神社(向って右)、児守神社(向って左)、宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。 なお、神紋は二重の亀甲に「有」の字。祭日は10月17日である。」神名樋、出雲国風土記の神名樋の山は4ヶ所が記されています。・意宇郡の神名樋野 松江市の茶臼山 眞名井社。・秋鹿郡の神名火山 松江市の朝日山 佐太大神社。・楯縫郡の神名樋山 出雲市の大船山 多久ノ社。・出雲郡の神名火山 出雲市の仏経山 曽支能夜社。これらの神名樋の山を地図に落として見ると、宍道湖と出雲平野を見守るように神の宿る山が聳えているのが分かります。意宇六社 眞名井神社祭神 / 伊弉諾尊、天津彦根命、所在地 / 島根県松江市山代町84帰りの時間も気になりだしますが、次は参道を南下して、意宇川右岸を上流に向かった先に鎮座する六所神社に向かいます、移動時間は2・3分程度です。10:10 六所神社参道入口到着。参道の南を流れる意宇川の眺め、先に見える橋を渡った左に大草古墳群もあります。意宇川の堤防から参道、六所神社の社叢の眺め。川へ降りる石段が整備されており、ここも禊場のような雰囲気が漂う。堤防道路沿いに狛犬が安置されており、堤防道路から下に降り神社に向かいます。車は堤防下の写真右側の広場に停めさせてもらいました。意宇六社 六所神社社頭全景。鳥居はなく、左手に「出雲国総社 六所神社社標」と今にも飛びかからんばかりの狛犬が守護する。この地方の神社で見かける形のもので、こうした姿のものを出雲型と呼ぶようです。いずれも柔らかい素材の来待(きまち)石が使われ、宍道湖周辺が産地とされます。宍道湖の南の宍道町東来待には、採掘場を公開した「モニュメントミュージアム来待ストーン」があり、来待石が古代から現在までどのように利用され、出雲から各地に広がったのか知ることができます。六所神社随神門から拝殿の眺め。拝殿に架けられている注連縄も見事な大きさのもの。こちらの神紋も二重亀甲に有の文字が入る。本殿は大社造り、地元ではなかなかお目にかからない造りですが、出雲に来れば普通に見られます。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月夜見命、素盞鳴命、大己貴命を祀る。島根県神社庁の解説は以下。「『延喜式』、『出雲国風土記』に記載されている古社。奈良時代以降は「出雲国総社」として社格を有し、国内の神社に奉る幣帛を班つ班弊式や諸祈願は、出雲国内の神主を当社に集め、国司が斎行した。王朝時代以来続く古伝「御田饌神事」は、観応元年(1350)までは勅使の御参向があり、その行列と儀式を描いた壁画は県の文化財に指定されている。出雲国造家と関わりの深い「意宇六社」の一つで、御本殿は大社造、神紋は二重亀甲に「有」である。この神紋は、出雲大社の古来の神紋であり、神魂神社と眞名井神社も同紋である。」なにかと亀甲紋を目にするので気になっていたが、そういうことですか。神社の創建は不詳ですが、出雲国風土記(733)、延喜式神名帳(927)に記される古社。出雲国総社六所神社、ここに参拝すれば出雲国内の神社に参拝するに等しいことになる。その理由の一旦を知る場所が社地後方に広がっています。六所神社の後方一帯は奈良、平安時代に出雲国庁のあった場所で、現在は発掘調査に基づき、広大な一帯に掘立て柱が建てられ当時の姿を想像することができます。古代出雲の中心となったこの場所にあって、六所神社は最も近くに鎮座する事から総社とするのが都合が良かったのだろう。車を停めた広場の前に解説板があり、その傍に資料が入ったステンレスの箱があるので、訪れた際には銀ピカの箱を開けて見てください。社頭から少し東に歩いてみました。途中で見かけたマンホール、松江城付近の武家屋敷の長屋門と石畳をモチーフにしている。右手が社地西端で、北側には平坦な土地が広がり、左手に先程訪れた眞名井神社が鎮座する茶臼山を見渡すことができます。国府の規模はここから眞名井神社参道付近におよんでいたという。意宇六社 六所神社祭神 / 伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月夜見命、素盞鳴命、大己貴命所在地 / 島根県松江市大草町496ゆっくり歩きたい場所ですが、この先もあるので最後の目的地「意宇六社 揖夜神社」に向かいます。鎮座地の東出雲町揖屋まで東に約7㌔、長閑な郊外から市街地に入るので交通量も増え時間も読めません。11:30 揖夜神社社頭に到着。東出雲IC付近から出雲郷東の信号にかけて、ICから降りた車と一般道を走る車が合流して渋滞し、信号の右折も滞り、捨て左折したらえらく遠回りになり時間を無駄にした。この日が土曜日なのを忘れていました。県道191号線の南に接する社頭は、石の明神鳥居、左に手水舎があり、社殿は左のしており、さあ最後の参拝。県道沿いに司馬遼太郎が揖夜神社を訪れ、街道をゆくの中で記載した内容が掲げられています。境内入口の由緒。「特別神社 揖夜神社祭神 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)境内社 韓国伊太氏神社、三穂津姫神社御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、 日本書紀齋明天皇五年の条に「言屋社」、出雲国風土記 に「伊布夜社」、延喜式神名帳に「損夜神社」の記述があり、平安朝以前から知られる古社。古より朝廷の崇敬が篤く、「三代実録」には清和天皇の貞観13年に「 正五位下」の御神階が授けられた記録がある。武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。」随神門は工事中。社殿は標高100㍍程の山の西嶺に鎮座し、祭神は伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命をお祀りします。訪れた時は平成7年の遷宮に向け、至る所で工事が行われており、境内を見て回る事が出来なかった。現在、祭神はこの仮殿に祀られているので、参拝はこちらとなります。揖夜神社由緒はHPによれば以下となっています。「鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻かみよまきには「伊賊夜坂」についての記述があり、『日本書紀』齊明天皇五年(659年)の条に「言屋社」、『出雲国風土記』に「伊布夜社」、『延喜式神明帳』に「揖夜神社」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜大社』「揖屋大社」と称されていた様です。出雲国造との関係当社は出雲国造との関係が深い「意字六社」(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。江戸時代の書物『出雲神社巡拝記』には、揖屋大明神の項に「意字六社とて有其ーツ也、六社とは当社及、熊野大社、大庭かもしの社、山代いざなぎの社、佐草ノ八重垣、大草の六所神社是也、巡拝の人 格別の社なれば一々心をとめて拝礼すべし」と書かれています。古事記の伊賊夜坂は、死者の国との境となる「黄泉比良坂」を「いふ」と呼ぶようで、社殿後方の東出雲町揖屋には、黄泉の国とこの世の境の黄泉比良坂があり、伊邪那岐命が変わり果てた姿の伊邪那美命に追われ「黄泉比良坂」まで逃げ、巨岩で黄泉の国の入口を塞いだ岩や亡くなった方に思いを届けるポストがあるという。仮殿から社務所と境内社の眺め、この他に仮殿の右に稲荷社、火守神社などが鎮座する。意宇六社 揖夜神社祭神 / 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命所在地 / 島根県松江市東出雲町揖屋2229これでもって二泊三日の出雲巡りも揖夜神社で終わりを迎えます。もう一社くらい回れるだろうが、まだここから450㌔運転しないといけない。最寄りのアパルテ東出雲店で地酒と地元の食材を買い求め、ここでガソリンを満タンにして東出雲ICから名古屋を目指す。DAY3 走行ルート / 走行距離約440㌔、燃料補給量28liter、現地ガソリンレギュラー1liter168円3日間通算 / 総走行距離 1100㌔、使用燃料 131liter(20liter残) 燃費liter9.9㌔20年越えのV6 3000ccとしては良い成績。かみさんは「HVに買い換え」というのだが、強面顔で使い勝手の悪い車ばかりでその気にならない。どうせ乗らないから、軽を処分しこの車だけでいいか…関連記事 / ・二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day2 ・二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1
2024.06.01
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道の駅 キララ多伎で迎えた島根二日目。普段なら朝陽が昇る時には目も覚めているのですが、運転疲れもあるのか目が覚めた時には日ノ出のドラマは終わっていました。今日はここから正面の出雲大社方向に向け移動していきます。この道の駅では早い時間に食事が摂れず、コンビニもないので、海岸線沿いに稲佐の浜方向に走り出します。道の駅 キララ多伎から、くにびき海岸道路を時間にして20分程東の稲佐の浜を目指す。途中「道の駅 大社ご縁広場」の前にあるコンビニで朝御飯を調達。この時間を利用し、コンビニから徒歩1.2分の出雲大社 宇迦橋大鳥居の写真を撮りに行く。6:25 出雲大社 宇迦橋大鳥居。ここから伸びる参道が遥か先の出雲大社に続きます。鳥居の先に見える山並みは、左から鶴山、八雲山、亀山と連なり、それらを背にして出雲大社が鎮座します。手前を流れる堀川やその先の白い大鳥居一帯は現在架橋工事が行われていました。朝食を買い揃え、いざ出雲大社に参拝と行きたいところですが、その前に出雲大社の西にある稲佐の浜に立ち寄る。6:35 稲佐の浜到着。こちらの駐車場で朝食を摂りながら、旧暦10月10日に、全国の八百万の神々はここから出雲の國に訪れる。正面の岩山は弁天島と呼ばれ、岩山の上の社には、神仏分離以前は「弁財天」が祀られていましたが、明治に入り豊玉毘古命が祀られています。この弁天島、その名の通り砂浜の先の海面にあったそうです、しかし砂浜の成長もあり現在は御覧の通りです。島の直下に賽銭箱があり、そちらで参拝を済ませて砂の採取に取りかかる。稲佐の浜所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北2711波打ち際の砂を袋に採取し、これを出雲大社に持って行き、本殿後方に鎮座する素鵞社の廻り縁の下にある砂と詰め替えて自宅に持ち帰り、その砂を敷地の四方に盛ると魔除けになる。出雲大社を訪れる前に立ち寄る理由はここにある。7:05 下宮。駐車場から東の細い路地を1分程進んだ三叉路の角に、樹が生い茂る大岩がありその前に鎮座します。出雲大社の末社の一つで祭神は天照大御神をお祀りします。「天照大御神は皇室の御祖先神で、優れた御霊徳で、その御神徳は広大無辺とされる。祭日 1月13日・9月13日」下宮所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北ここから路地を1分程進んで上宮(仮宮₎に向かいます。7:07 上宮(仮宮₎。出雲大社摂社上宮祭神 素戔嗚尊・八百萬神由緒 一般に旧暦10月神無月と云われ、全国の八百萬神の神々が大国主大神の許に集まる事からそのように呼ばれます。出雲では「神在月」と呼ばれています。上宮は生きとし、生けるものの幸福と社会の繁栄の縁を結ぶ神議が行われます。祭日 1月3日・5月14日・旧暦10月11日から17日上宮所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北仮之宮2962-1上宮の路地を1分程上がった右側にも末社の大歳社が鎮座しています。大歳神路地を抜けた国道431号線沿いに鎮座する神社で、祭神は田畑の守護神で素戔嗚尊の御子神大歳神が祀られています。大歳神所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北さて稲佐の浜に戻り出雲大社へ車で向かう。7:24 出雲大社参拝者駐車場稲佐の浜から車で2~3分程の無料駐車場で出雲大社へは一番近い駐車場。そこから少し国道沿いに勢溜の大鳥居へ。松の参道を進み、銅鳥居をくぐると出雲大社社殿。広大な境内に鎮座する社殿は、写真では伝わらない大きなもの。昭和38年(1963)に作られた拝殿は、棟の上端まで約13㍍あるとされ、大きな注連縄も実に小さく見える。参拝作法は「二礼四拍手一礼」です。出雲大社本殿から八足門方向の眺め。左から天前社、御向社で右が出雲国一宮出雲大社の本殿。現在の本殿は延享元年(1744)に造営された大社造りで、高さが24㍍と巨大なもので、ここに大国主大神が鎮座します。内部は二間に分かれ、内殿の前室には客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の5柱と、中心の心柱の付近に大国主大神の御子神、和加布都努志命が祀られています。今でも大きく高い本殿ですが、往古の本殿は48㍍の高さがあったとされ、それを示す古代本柱も見つかっています。警備の方から教えて頂いた話ですが、素鵞川の対岸に聳える国旗掲揚塔の高さがその高さで、そこから往古の本殿の姿をイメージするといいかもしれない。本殿後方の摂社素鵞社(そがのやしろ)稲佐の浜から持ってきた砂は、こちらの社殿の廻り縁の下にあるこの箱に納めます。そしてこの箱の中から砂を袋に詰めて自宅に持ち帰ります。現地にはそうした案内がないので、書いておきます。祭神は素戔嗚尊。由緒素戔嗚尊は三貴子(天照大御神、月読尊、素戔嗚尊)の一柱で、天照大御神の弟神。出雲国に天降りされ、肥河上に於て八岐大蛇を退治され人々を助けた。奇稲田姫を御妻として大国主大神を誕生させる。祭日 1月28日・10月6日境内左の庁舎から国旗掲揚塔の眺め。往古の本殿はあの高さにあった。大国主大神と兎の関係は古事記にも記され因幡の素兎として知られていますが、出雲大社境内には写真のようなウサギの石像が置かれていて、その数は60を超えるとも云います。パワースポットとしてその道では知られるそうです。神楽殿。素鵞川右岸にある建物で、千家國造家(出雲大社宮司家₎の大広間として使用されいた。明治に入り、出雲大社教の設立に伴い、出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。現在の建物は昭和60年(1985)に建てられたもので、正面の注連縄は拝殿の注連縄以上の大きさがある。出雲大社は規模も大きく、境内・境外社含めすべてを巡拝するだけでも、かなりの時間を要します。出雲大社所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東19511:15 荒木屋で昼食。出雲大社から御宮通りを10分程南下した場所にある天明年間創業の老舗蕎麦屋。こちらの開店を待ち一番乗りで入店。出雲に来たら出雲蕎麦は食べておきたい、神社近くに多くの蕎麦屋があるものの、観光客相手の店ばかりの様に思え、どこの蕎麦が定番なのか分からず、道端の天明年間創業の看板につられて訪れました。割子そば手前と「なめこおろし」・「有機卵」・「とろろ」の乗った割子三代そばを注文。やくみを器に散らし、その上にだし汁をかけ、一段食べ終わるごとに汁は下の段に移し、最後の段は蕎麦湯に入れて飲み干す食べ方。蕎麦にだし汁を直接かけるのは、ほぐれやすくするためかなぁ。印象は悪くはない、とろろにだし汁たっぷりの蕎麦が美味しかった。薬味に山葵は付かないので、少しもの足りなさを感じた。荒木屋出雲大社駐車場から徒歩約10分所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東409-2さて次は出雲市から松江市に鎮座する熊野大社を目指します。移動距離は約53㌔、移動時間は約70分程になります。13:17 松江市八雲町熊野に鎮座する出雲国一ノ宮 熊野大社到着。出雲大社と並ぶ出雲国の大社として知られる、由緒ある神社です。主祭神は、神祖熊野大神櫛御気野命で、素戔嗚尊の別名とされています。素戔嗚尊が婚約に際し、田姫へ櫛を贈られたという故事に基づき、4月13日には摂社稲田神社に櫛を献納する御櫛祭が行われます。熊野大社は、日本の火の発祥の地と伝わり、出雲大社との関係が深いされます。10月15日には鑽火祭という独特な神事が行われ、出雲大社の「古伝新嘗祭」で用いる火をおこすための「ひきりうす」と「ひきりぎね」を、出雲大社国造自ら受け取りに来る。その際に持参する大きな餅をめぐって、押し問答が交わされる亀太夫神事は全国的にあまり例がないものという。以下は境内解説から由緒のみ抜粋。「延喜式名神大社 熊野大社御祭神 神祖熊野大神櫛御気野命由緒御神名は素支鳴尊の御尊称で、神祖とは出雲大社の大国主神を始め神々の親なる神。御気野とは御食を主として人びとの衣食住に広く、尊い御神威をみちびかれて日ごとに蘇生の縁を結ばれるムスビノ大神との意です。日本書紀(720)は659年に出雲国造が斉明天皇の勅で厳神の宮を造営したと記す。出雲国風土記(733)は国内の186社で大社の称号を有する神社として熊野大社と杵築大社(出雲大社)を掲げ「出雲國一之宮」の崇敬を表しています。特に、ご祭神が初めて僕火されたので日本火出初社とも称します。古来、出雲国造(出雲大社宮司)の襲職は、神聖白してみな鎖火器拝戴の儀式を参向して仕える伝統があり、今も変ることなく行われています。一説には、此の地から紀伊国に移り住んだ者が勧請したのが熊野本宮大社の元ともされるようです。本殿は大社造りで、昭和53年(1978)に檜皮葺きの屋根から銅板葺きに改められ、その際に幣殿と拝殿を増築して現在の姿になっています。神紋は一重亀甲に大の文字が入る。原始は現在の「天狗山」の山頂付近に巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀されており、その地は「元宮ヶ成(げんぐがなり)と呼ばれていた。本殿域には伊邪那美神社、稲田神社、社殿左の境内には稲荷神社、荒神社が祀られています。意宇(おうろく)の六社とは出雲大社に所縁のある以下の六社をさします。揖夜神社、六所神社、眞名井神社、八重垣神社、神魂神社、熊野大社、これらは意宇(おうろく)の六社と呼ばれ、ここ熊野大社もその一つになっています。松江市でも観光地として推しているようですが、こちらのように神職がみえるところもあれば、無人の神社もあり、巡拝をアピールするには、なにか足りない。専用の御朱印帳があり、神職常駐の処で御朱印を書いていただけるとか一工夫が欲しい。其々の神社は長い歴史と大社造りの社殿など見所もありながら、参拝者の姿は少ないように感じられます。出雲大社の後だから尚更そう感じるのだろう。熊野大社 (意宇六社)祭神 / 神祖熊野大神櫛御気野命所在地 / 松江市八雲町熊野2451次はここから10分程東の八雲町西岩坂に鎮座する志多備神社と日本一のスダジイの巨木を見に行きます。14:15 神社近くの桑並ポケットパークに到着。明事山の西麗に位置し、東西を山に挟まれ、桑並川沿いの谷間に農地と民家が点在する昔ながらの光景が広がる地域。訪れた時は田植えも終え、水が張られた田んぼには、オタマジャクシや水路にはドジョウの姿が見られ生きもので溢れています、ひょっとするとホタルも見られるかもしれない。こんもりとした杜の入口に、ポッカリ空いたように石の明神鳥居と参道が杜に続いています。志多備神社社頭全景。鳥居の手前に大きな狛犬が守護し、石段の先に随神門の姿が見えます。この杜全体にシダジイが自生し、その中の二本が特に立派な樹形をしています。その内の一本は鳥居右手の奥で覆い被さるように聳えています。その大きさに圧倒され、上を見上げるかみさん姿が見えます。鳥居の扁額とその後方に聳えるシダジイ。随神門をくぐると明るく広い境内となり、そこに大社造りの社殿が現れます。こちらの神社の創建は定かではありません、しかし古い地史に記録が残る古社であることに間違いないでしょう。享保2年(1717)に編纂された雲陽誌には「王子権現といわれしが尼子の兵火にかかり古文書宝物等残る物なし」とも記録が残り。境内には、桑並地区の総荒神の依代として祀られる、スダジイの巨木が聳えています。拝殿右から聖神社と本殿の眺め、この他にも境内社がありますが、社名札がないものがあり詳細は不明。 随神門の右手奥に聳えるスダジイ。傍らの解説によれば樹高周囲が11.4㍍、樹高薬20㍍、樹幹地上約3㍍辺りから9本に分かれ、そこから四方に枝葉を広げ、枝張りは東西に約20㍍、南北は約33㍍もあるという。樹齢は検証されていないが、日本一の巨木という事で、幹の根元には朽ちた大繩が蛇のように巻かれています。この大縄は大蛇を模し、10月9日に神が宿るシダジイに奉納されるという。参拝を終え、写真左手の祭礼用の脇参道から神社を後にする際、一面に落ちたスダジイの実を踏みしめるとカリッ〃と乾いた音がする、今時は人も獣も食べる事はないのだろう。二日間で訪れた神社の中では日本らしい光景が残る居心地のいいところでした。志多備神社主祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊配祀神 / 天照大御神、月読尊、保食命、天能利刀神所在地 / 島根県松江市八雲町西岩坂1589車を駐車した桑並ポケットパークに戻り、そこから国道432号線で松江方向に約15分程北上し、意宇六社の一社である神魂(かもす)神社に向かう。その前に車中の冷たいコーヒーと甘い菓子パンでおやつタイム。15:10神魂(かもす)神社駐車場到着。鎮座地は室山の北嶺に位置し、ここから北は松江平野が広がっています。この辺り一帯は出雲国造館跡推定地とされ、古くから開けた地域で古墳群や古代寺院の遺跡など見所が多い。駐車場から少し下り、里にある一ノ鳥居へ向かい、そこから社殿に向かいます。鳥居は木造の両部鳥居で、ここから桜並木の参道の先に木造の二ノ鳥居を構えています。ニノ鳥居と社標。右手の駐車場からだと、ここから境内に向かってしまいがちです。境内へはここから少し進み、右手に境内に続く石段があります。角が取れた石段から神魂(かもす)神社拝殿の眺め。境内に建てられている解説。「小泉八雲ゆかりの地-14 神魂神社出雲国造の祖、天穂日命が降臨し創建したと伝えられる神社である。現在の本殿は正平元年(1346)の再建とされ、柱からは墨書もみつかっている。現存する最古の大社造で、国宝に指定されている。小泉八雲は明治24年4月5日に西田千太郎とともにここを訪れている。杵築の国造へ 火鑽を授ける習慣や天穂日命が降臨時に使用したという鉄の大釜、伊弉諾・伊弉冊の神鳥とされるセキレイの伝承について記している。『知られぬ日本の面影』 第14章「八重垣神社」より 」祭神は伊弉冊大神、伊弉諾大神をお祀りし、境内には多くの境内社が祀られています。社殿全景。右から社務所、拝殿、本殿、左手は境内社の貴布祢社と稲荷社の相殿。解説にもあるように大社造りとしては出雲大社を凌ぐ最古のものだという。本殿は太い柱で床下を高くして作られ、棟を支える棟持柱が外側に飛び出したもので、角度のある向拝が本殿へ繋がっています。玉垣沿いに全周を見られるのでひと回りすると楽しめると思います。出雲大社の様に巨大ではないが、個人的に大社造りとして一番美しい形をしていると思える。かみさんによれば、こちらの神社も神職不在のようで御朱印を手にすることは出来なかったようです。訪れる参拝者は少なく、大陸から記念撮影を撮るために訪れる観光客は皆無。鳥のさえずりが良く聞こえる静かで落ち着いた国宝の神社です。神魂(かもす)神社 (意宇六社)祭神 / 伊弉冊大神、伊弉諾大神所在地 / 島根県松江市大庭町563さて次は、ここから5分程西の松江市佐草町に鎮座する八重垣神社で、二日目の最後の神社となります。神社は県道246号線沿いの松江市佐草町に鎮座しています。写真の夫婦椿が神社の目印になるかもしれない。神社は県道を挟んだ道路沿いに鳥居を構えています。無料駐車場が左方向の県道沿いに複数あるので、社頭横の身障者用駐車場に駐車する必要は全くないと思います。15:40 社頭全景。木造明神鳥居と左に手水舎、随神門の先に社殿が広がる。八重垣神社境内マップ。こちらも意宇六社の一つ、というより良縁を求め水占いに訪れる縁結びの神社として認知度が高いかも知れない。こちらの神社はそうした事から、参拝者が多く、神職も常駐し御朱印も手にすることができる。境内は社殿左右に境内社が祀られており、祭神の素戔嗚尊と稲田姫命を祀る本殿は、こちらも大社造り。本殿内部に描かれていた重要文化財の神像の壁画は、現在宝物殿に収蔵され拝観もできる。右手の拝殿は1964年に再建されたもので、本殿は江戸中期のものという。神社のはじまりは古く、社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建されのがはじまりと云う。後に青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座。明治5年(1872)、八重垣神社は境内佐久佐神社を合祀し、佐久佐神社と称したが、明治11年(1878)に八重垣神社に改称した。境内左から佐久佐女の森へ続く参道があり、森の中の「鏡の池」では土器・土馬などが発見されており、6世紀後半から聖地として意識され、現在も縁結びの神社として親しまれている。境内左から佐久佐女の森の鏡池へ向かいます。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治にする際、森の大杉の周囲に八つの垣根(大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣)「八重垣」を造り、稲田姫命を守ったとされ、今も一部地名などに残っています。身隠神事が執り行なわれる「夫婦杉」、縁結び占いの「鏡の池」も、この森の中にあります。社務所で占い用紙を買い求め、この泉に浮かせ、紙の中央に10円又は100円硬貨を乗せ、沈むまでの時間と沈んだ場所により縁を占うもの。15分以内に沈めば縁が早く、それ以上だと縁は遅くなり、近くで沈めば身近な人、遠くで沈むと遠方の人と縁が結ばれるという。WEB情報だとそれ以外にも、用紙の上をヤモリが乗って沈むと更に縁が早くなるともいう、モリアオガエルが沈めるとどうなるのかなぁ。占っている若い衆は、一心に時計と水面の占い用紙が沈むのを見守っている。因みに10円硬貨の重量は4.5g、100円硬貨は4.8gのようで、10円は縁起が悪いから5円にすると3.75gなんだとか。既婚のおじさん・おばさんは、池の奥の稲田姫命を祀る天鏡神社にお参り。八重垣神社祭神 / 素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命、青幡佐久佐日古命所在地 / 島根県松江市佐草町227今日の予定はここまで、八重垣神社から県道263号線で西に向かい、本日の宿、玉造温泉の玉井別館を目指します。移動時間は約15分程。16:20 玉湯川左岸の玉井別館到着。玉湯川沿いに続く道は、時間によって温泉街に入るだけの一方通行になります。ホテルへ横付けして荷物を下ろすと、駐車場に戻るには温泉街を通り抜け、県道25号線で町を一周しなければならないので気を付けた方がいい。(写真は翌日の朝に撮影)本日の走行距離は約100㌔、累計660㌔。まずは、玉造の湯に浸かり、ビールをひっかけよう。ここの湯は無色透明・硫黄臭もなく個性がないが、風呂上がりの肌はすべすべになる印象。宿には内風呂二つ、露天風呂が一つとサウナがあり、施設は古いかもしれないが悪い印象はなかった。スタッフは外国人が多く、サービスに問題はないが、温泉街の見所や交通規制などの情報は乏しい様です。この日のお品書きと料理の一部。ここで円安の影響を感じる一幕があった、お品書きではサーモンとあるが、事情でマグロに変更になりましたとあった。コストコでもサーモンは安易に手が出せなくなってきた、食材を輸入に依存しているだけに、この円安の影響を首相や日銀総裁はどう考えているのだろうか。食事は個室、そして飲み放題を付けて約13,000円程。どこもインバウンドで価格が跳ね上がるなか、妥当な価格だと感じる。上は飲み放題で提供されていた銘柄。飲みやすかったのは出雲富士と月山の銘柄で、帰りにこの銘柄の酒を買い求め土産としました。玉造温泉 玉井別館所在地 / 島根県松江市玉湯町玉造1247DAY2 / 走行距離約100㌔、累計660㌔ 燃料補給48liter、ガソリン単価177円(出雲市)訪問日 / 2024/5/24関連記事 / 二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1
2024.05.31
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5月23.24.25日と出雲の國を巡って来ました。今回は初日のTOPIXを掲載する事にします。Day1 前日に車検とタイヤ交換を終え、万全の態勢で往復1200㌔の遠征に出る。名古屋を5:30に高速に乗り遠い出雲の国に向け走り出す。今回の目的は、出雲の國の一ノ宮と意宇群に鎮座する六つの神社「意宇六社めぐり」を訪れる。高速で移動するのでいつもの様に法定速度プラス10kmhで巡行。車検直後という事もあり、V6エンジンは不整脈もなくスムーズに回ってくれています。8:30 宝塚北SA着。大阪の混雑に巻き込まれる事無く、一度もブレーキを踏む場面もなくスムーズに辿り着く。ここで朝食を摂って一休みして再出発。10:45 蒜山高原SA着。岡山県真庭市蒜山西茅部の米子自動車道下りのSAで再び休憩。SAから大山が一望できる絶好のロケーションにあり、快晴であればクリアに見通せるはず。この日はなんだかスッキリしない天気。蒜山SAの蒜山高原生クリームパンとジャージーソフトクリーム。どちらもSAの推しらしく、まんまと引っかかるが、普通のクリームパンとソフトクリームの印象。米子ICから西に向きを変え島根県松江市玉湯町のしんじ湖SA 12:30到着。ここで昼食。SAは宍道湖が見渡せる高い場所にあり、ここも天気が良ければ綺麗に見えるのだろう。こちらのSA、定番の出雲そば以外にもTKGとシジミ汁のセットがあり、こちらを頂く。みそ汁は普段の濃い味噌汁になれていると実に優しい甘みを感じるもので、TKGに付く醤油は辛いだけのものでなく旨味を感じるものだった。しんじ湖SAから大田三瓶山ICで有料道を降り、国道375線に乗り換え、川合信号を左折してすぐ左に鎮座する石見国一宮の物部神社には14:32到着。観光バスが連なるかと思いきや、意外に参拝客は少なくゆっくり参拝することが出来ました。祭神は物部氏の祖神宇摩志麻遅命をお祀りする神社。最初は神体山である八百山を崇めていましたが、天皇の勅命により継体天皇八年(513)社殿を創建し、その後、石見銀山争奪の兵火などで三度消失しました。宝暦三年(1753)に再建され、文政元年(1818₎の修理を経て、安政三年(1856)宝暦時の規模で改修され現在に至っています。県指定文化財で春日造の本殿は全国一の規模を誇るもの。三瓶山から流れ出る静間川が平野に至る場所に鎮座し、11月に行われる鎮魂祭など独特の祭事が伝わる。境内社の一瓶社は三瓶大明神を祀り、御田植祭では三瓶山から田の神を迎える神事が執り行われ、三瓶山信仰の面影を留める神社。境内参道脇に狛犬の他に、拝殿前に「狛鶴」が安置されています。宇摩志麻遅命は石東の地を平和で豊かな地域とするため、鶴に乗って降臨されたそうです。その山は鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝わる遺跡が保存されています。この国見をされたおり、平和で穏やかな里「安濃郡( 旧 大田地方)」と名づけられた。物部神社の神紋は「ひおい鶴」と呼ばれる鶴の紋。八百山の南西に鎮座する社殿全景。大きさを比較する対象がなく、写真を見ても大きさは伝わらないと思いますが、本殿を間近に見ると確かに大きなものです。拝殿右から眺める拝殿と本殿。本殿は春日造りとありますが、屋根から軒にかけての姿は見慣れた春日造りと少し違う印象を持つかもしれません。県内では出雲大社に次ぐ大きさを誇り、春日造りとしては日本一の規模を誇ると云われ、石見銀山争奪の戦火で三度消失したと伝わります。手前の拝殿は昭和12年(1937)に改築されたもの。「亀は水を呼ぶ」ということから、火災予防の意味を込めて本殿の破風飾りには亀の彫刻が彫られています、あれで子どもの背丈ほどもあるという。石見国一宮 物部神社創建 / 継体天皇八年(513)祭神 / 宇摩志麻遅命境内社 / 後神社、神代七代社(東五社)、皇祖四代社(西五社)、一瓶社など所在地 / 島根県大田市川合町川合1545まずは石見国一宮参拝終了。予定では物部神社参拝だけで初日を終える予定でしたが、ここまで工事渋滞もなく順調に辿り着けたので、時間に余裕があり石見銀山に向かいました。物部神社から西に向かい、県道46号線で石見銀山公園駐車場まで約20分程移動します。15:40石見銀山公園駐車場着。世界文化遺産「石見銀山遺跡とその文化的遺産」のプレートと駐車場の光景。ここから電動カートで観光施設「龍源寺間歩」を結んでいますが、便数が少なく銀山川沿いを30分程歩いて上流に向かいました。歩き始めて10分程の大森小学校あたりの眺め。観光客の車は通行は禁止で、地元の方と電動カート専用の生活道。ここから先は民家もまばらとなり深い森に包まれた心細い道が続きます。何が出たって不思議ではない、熊鈴を鳴らしながら下校する子供の姿が印象的だった。丁度この時、地元名古屋でも猿が散歩に訪れたようだ。16:10龍源寺間歩入口に到着。戦国時代後期から江戸時代にかけて世界にも知られた銀山の入口とは思えぬ佇まいです。石見銀山遺跡観光案内板。銀を求める西洋と西洋の技術を欲した日本の橋渡しとなった場所は、標高僅か537㍍の仙ノ山を中心とした一画にある。初めは鎌倉時代とも云われ、当時は銀が露出していたようだ。それも掘り尽くされ、ついには鉱脈を求めて掘り進めるようになり、山中には至る所に間歩と呼ばれる採掘穴があり、その数だけでも600はあるという。山肌には通し番号の入った小さな標柱が至る所で見られます。その大きさは這いつくばって漸く入れるくらいのものばかり。銀を求める執念のすさまじさが伝わってくる。鉱石の採取に留まらず、灰吹法による精錬も行われ、精錬所跡や明治期の造られた精錬所跡も残る。龍源寺間歩入口。入場料を支払い左の坑道を散策します。30分程歩いて火照った体が坑内の冷気で一気に冷やされる。最初は四角く立ったままでも入れますが、少し進むと素掘りの坑道となり、屈まないと頭部を強打する高さになります。坑道には鉱脈を追いかけて掘り進んだ間歩が縦横無尽に存在しています。少し先で採掘を終えたところもあれば、延々と続く坑道も存在しています。全ては蝋燭の明りを頼りに手掘りの世界、労働環境は劣悪で環境改善のための鞴やマスクなど健康面にも配慮される様になったという。坑内には当時の絵図が置かれ、過酷さの一端が伝わってくる、鉱山の出入りも当然厳しくチェックされていた。石見銀山の銀鉱脈はほゞ掘り尽くされたとされ、明治期に近代工法で再採掘されたが再三に乗らずシルバーラッシュは訪れなかった。一時は世界流通の1/3が石見とされるだけに、人の限りない欲と探求心はそんな夢の再来すら描けないものなんだろう。下の息子に谷川で金色に輝く黄鉄鉱を指し、「あれは砂金だ」と教えたら目を輝かせ拾い集めていたのを思い出す、そして正体を知り、価値がないと知るやさっさとやめた事が思い浮かぶ。しかし、まだこの山並みのどこかに未採掘の鉱脈が眠っている、そんな夢は持ちたいものだ。石見銀山間歩(公園駐車場)所在地 / 島根県大田市大森町ハ199営業時間 / 9:00~16:00私達が最後の客とだったのか、出口から駐車場に戻ると、既に土産物屋や駐車場に我家の車以外駐車する車はなかった。陽は傾き山間の夕暮れは早い、初日もこれで終わりかな、そんな気分になる。今夜は道の駅キララで車中泊、町の地元スーパーで地のものや地酒を買い求め道の駅に向かう。18:35道の駅キララ多伎到着。既に店はクローズ。近くに食事処などないので、こちらで車中泊する場合は予め晩御飯の買い出ししてから訪れる事をお勧めします。この施設で見かけたマンホール。丁度夕陽が沈むところ、期待はしていなかったがこんなに綺麗に見れるとはラッキー。かみさんも表情を変える海の姿に見惚れていました。そろそろ、車に戻り宴会モードに切り替えて美味しいお酒を飲むことにしよう。島根県中部邑南町の山里にある創業120年の酒蔵「池月酒造」のお酒。「誉池月 White 純米活性にごり」 爽やかな飲み心地のもので、美味しくて帰りに探したものの手に入らなかった。訪問日 / 2024/05/23DAY1 ルート / 走行距離約560㌔、燃料消費量55liter、現地ガソリンレギュラー1liter170円訪問日 / 2024/5/23
2024.05.30
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前回掲載した九番町の素盞鳴神社から、北に2本目の通りの角に豊福稲荷大明神が鎮座します。今回はそちらを掲載します。東海通沿いを西に向かいたいのですが、素盞鳴神社の西は、JR貨物名古屋港線の線路が行く手を遮り、やむを得ず素盞鳴神社の北にある三番通り踏切から再び西に向かうことにして北に向かいました。豊福稲荷大明神はそちらに向かう途中で見かけた神社です。写真は素盞鳴神社の西側から三番通り踏切のある北側の眺め。上は前回使用した大正期とほぼ現在の鎮座地周辺。豊福稲荷大明神の鎮座地は赤枠部分になり、過去・現在ともにこの地図では鳥居の印はありません。大正期の周辺から見て、ここに神社が祀られたのは昭和に入ってからのことかもしれない。豊福稲荷大明神全景。小学校の南にある鉄工所の敷地南角に鳥居を構えており、道路沿いに東を向いて祀られています。これは此の鉄工所の商売繁盛を願い祀られた企業神社だと思われます。大きな鳥居は道路際に建てられており、周辺住民の参拝も受け入れているように思えます。正面全景。工場関係の方に声掛けしたかったが、生憎人影はなく、神社に参拝させてもらいました。こちらに参拝の際は、人影があれば声掛けするのがいいでしょう。境内全景。参道入口の鳥居には「豊福稲荷大明神」の額が掛けられ、その先に「正一位豊福稲荷大明神」の赤い幟がはためいています。参道の両脇の庭木も綺麗に剪定され、手入れは行届いています。社員の皆さんが勢揃いで参拝されるのかな。私が卒業した会社にも創業以来企業神社は祀られ、毎週全員で参拝したものです。退職間際に外国資本が入り、外人社長に代わると、無駄としてお祓いもせず撤去され、それ以外の日本的な習わしも姿を消しました。役職・部署に拘わらず情報共有・交流の場でもあったコミュニケーションの場がなくなり、共有不足による負の部分や専業化による縦割りのため、総合的なスキルの低下は間違いなくあった。それと共に業績や株価は右肩下がりで今も上がる要因は見られず、売るにも売れない。相変わらず、観光目的で来日したような外国人社長が采配を振るっているようだ。この神社が企業神社である確証はないけれど、社地の状況から見るとこの企業が祀ったものと思われます。それがいつ頃か遡るのは容易かもしれない。企業の繁栄を祈願して祀った神社、それが受け継がれている姿は企業の健全性を示しているようでもある。彼らから見ると、直接的な利益を生み出さない無駄なものに見えるかもしれませんが、対面でのコミュニティー形成という観点から、それは決して無駄なモノではないと思っています。その反面彼らは「京都・奈良に連れていけ」という、観光より株価を上げぃ。株を手放し卒業させてくれぃ。豊福稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭礼日 / ・・・所在地 / 名古屋市港区九番町3-11参拝日 /2024/05/09公共交通機関アクセス / 地下鉄名港線「東海通駅」1番口から徒歩10分関連記事・素盞鳴神社(港区九番町)・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」
2024.05.29
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2024年5月9日、所要で名古屋市港区を訪れました。港区へは2月17日にも神社巡りで訪れましたが、時間の都合で参拝できなかった神社を訪れることにしました。今回訪れた神社は、地下鉄名港線「東海通駅」から北西に約10分程の住宅地の中にある公民館の上に鎮座しています。前回掲載した本宮町の淨專寺は、この際に経由した寺院ですが、東海通を西に進むうえで熱田前新田と津金文左衛門胤臣について最初に取り上げるべきだと思ったので、最初に掲載しました。神社が鎮座する九番町の町名は、新田の東方の堀川右岸から一番割として始まり、西に向けて三十三に割り振られ、一番割から十一番割までを東組、十二番割から三十三番割までが西組とされました。両区の番割で一から六番、八番が熱田区、港区の七・九・十・十一番が今も町名として残っています。上は大正時代と現在の東海通界隈の地図の比較。現在の東海通は、明治から昭和初期にかけて国道東海道として物流を担っていました。今は民家が犇めく一帯ですが、1920年頃は東海道沿いに集落が連なる程度で、集落を外れると広大な農地が広がっています。素盞鳴神社鎮座地も田んぼの中で地図上には鳥居の印もありません。住宅街に佇む素盞鳴神社。いかにも街中の神社らしく、二階建ての九番町(くばんちょう)公民館の二階屋上に社を祀り、屋上全体が大きな屋根で覆われています。公民館の入口は玉垣で囲われ、境内右に社標と常夜灯が建てられ、その先に石の明神鳥居を構えています。素盞鳴神社社頭正面全景。社標は昭和47年(1972)、石灯籠は昭和32年(1957)、鳥居は昭和32年(1957)に寄進されたもの。一階は九番町公民館で地元住民のコミュニティーの場で、なにかと住民の方々が出入りする。社殿はその建物の屋上に鎮座し、左の階段から屋上に上がるように作られているので参拝もしやすいだろう。境内の左の手水鉢、普段は蓋がされているようです。鉢の後ろを見たかったが、御覧の様に回り込めず寄進年の確認は出来なかった。主要な寄進物は昭和に入ってからのもので、それ以前の元号は見られなかった。愛知県神社庁から港区9番町素盞鳴神社として調べて見るが登録されておらず創建時期など詳細は不明。九番町公民館と狛犬の全景。この写真だけ見ていると何だかしっくりしませんね。公民館前に安置されている狛犬。寄進年は未確認ですが他の寄進物と同時期のものと思われます。公民館の入口の素盞鳴神社年間祭儀。4月四方拝神事。7月夏祭神事。10月秋大祭神事・子供神輿12月秋葉火祭神事。祭神は……素盞嗚命一柱ではないのかなぁ、なにぶんにも神社由緒等が見当たらず、創建時期含め想像すらできません。まずはこの階段を上り2階に上がってみます。二階から眺める社殿。最上階の屋上に常夜灯と社殿があり、そこに続く階段が作られています。大きな覆屋に覆われているので屋上感は感じられず、公民館を含め全体がひとつの社殿として纏まっています。階段を上り社殿を眺める。8本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造で、正面に戸が三つあります。個人的な印象ですが、素盞嗚神社の他に秋葉神社、それともう一社合祀されているように思え、趣きは屋根神さまの雰囲気すら漂います。祭神は素戔嗚尊であることに間違いないと思われますが、両脇の戸の中に納まる神札が気になります。社殿前から鳥居の眺め。街中の限られたスペースの中で公民館と神社を一つに融合させる、一つの良いモデルケースかも知れません。つい最近、江戸時代から受け継がれ、中区大須に鎮座していた町持ちの神社「石神社八幡社」がなくなりました。背景には都市化や世代交代により土地を離れ、僅かに残る氏子の高齢化にともない維持が困難になった事によると聞きます。こうした街角に鎮座する町持ち神社はどこも同じ状況を抱えています。そうした中でも祠や堂が建替られる神社もあります、そこに住む住民の繋がりができている現れで、町が健全とでもいうのかな。公民館の上に鎮座する素盞鳴神社、町と人が変らない限りこの先も護ってもらえそうです。素盞鳴神社創建 / 不明祭神 / 素戔嗚尊境内社 / ・・・祭礼日 / 4月四方拝神事、7月夏祭神事、10月秋大祭神事、子供神輿、12月秋葉火祭神事所在地 / 名古屋市港区九番町4-4-3参拝日 /2024/05/09公共交通機関アクセス / 地下鉄名港線「東海通駅」1番口から徒歩10分関連記事・名古屋市港区本宮町「淨專寺」・「髭題目」過去記事 / 地下鉄上前津界隈 #3 『石神社・八幡社合殿』
2024.05.26
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淨專寺縁あって名古屋市港区本宮町を訪れました今回はその際に立ち寄った松林山 淨專寺と近くで見かけた髭題目を取り上げます地下鉄東海通りから中川運河に架かる東海橋を渡り西に向かいます。写真は東海橋から下流の名古屋港シートレインランドの観覧車、手前にいろは橋の眺め。写真は市バス東海通りバス停付近の史跡散策路「港区 区中央部の寺社巡り」の案内板。東海通り沿線には知られた社寺が多く鎮座しているようです。淨專寺と髭題目へはこの案内板の先の左にある細い路地を南に進みます東海通りから南に入った路地の眺め。対面通行の幅員の狭いこの道に大きな車で立ち入ると取り回しに苦労すると思います。写真左の建物が淨專寺の本堂、路駐の出来る場所ではないので、手前のお寺の駐車場に駐車するといいのでは。淨專寺本堂全景。公式ウェブサイトによると、この寺院は京都にある真宗本廟(東本願寺)を本山とする真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来とありました。その歴史は、「寛政12年(1800)に津金文左衛門が熱田奉行となり、広大な新田を開拓、甚目寺村新居屋の西光寺より一子を招請して、岩倉村の大地より淨專寺を寺地移転し当地域の村立の寺院として創建された」とあります。寺号標は「真宗大谷派 松林山 淨專寺」側面に文字が刻まれているようです。寺号標に刻まれている内容は以下の通りです。 「この地はもと領主徳川公の命により、1800年に津金文左衛門氏奉行となり開拓せられ、甚目寺村新居屋の西光寺より一子を招請し、当地域村立の寺院として創建せられたり、人皆本願念仏の信心に培れ念仏の声今に絶ゆることなき有縁の地なり」と記されています。この寺には、開拓の功労者である津金文左衛門氏の肖像画と分骨が納められています。津金文左衛門は別名で、本名は津金文左衛門胤臣。生没年は享保12年(1727)~享和元年(1802)とされています。尾張藩士・津金胤忠の子として生まれた彼は、津金氏が甲斐武田の家臣であったことから、武田家滅亡後は尾張へ移住し、尾張藩に仕えました。胤臣は津金氏の7代目でした。彼は文武に優れており、18世紀後半に幕藩体制が揺らぎ、各藩が財政面で苦境に立たされる中、尾張藩も度重なる風水害や飢饉によって財政赤字が累積していました。津金文左衛門は、藩財政の建て直しを図るために新田開発を進め、寛政9年(1797)に飛島新田(飛島村)の干拓、享和元年(1801)に熱田前新田の開発を完成させました。津金文左衛門胤臣は熱田前新田の開拓の功労者として知られ、彼は瀬戸陶磁器の発展にも貢献した功労者としても知られています。津金文左衛門の死は記録では病死とされています、しかし昭和27年(1952)、戦災都市復興計画に基づき平和公園に墓地移転の際、大光寺(中区門前町)で彼の棺が発掘され、遺体の状況から割腹死とする説もあったようです。遺体は、同年に飛島村で火葬され、村内の長昌院で改葬法要を行い荼毘に付され、平和公園内の平和堂の西にある大光院墓地に墓碑が建てられました。津金文左衛門胤臣がこの地に残した業績を称えるため、所縁の地である港北公園内や飛島村には、彼を称える碑や銅像が建てられています。境内の鐘楼伽藍全体が比較的新しく、修復を受け間もないのかもしれません。淨專寺創建 / 寛政12年(1800)宗派 / 真宗大谷派寺号 / 松林山 淨專寺本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 名古屋市港区本宮町1-22公共交通機関アクセス / ・市バス「東海橋」停から南に徒歩5分・地下鉄名港線「東海通」から西に徒歩20分淨專寺前の通りから南の眺め。すぐ先の右手にあるブロック塀の中に髭題目が建てられています。正面全景。三方をブロック塀で囲まれ、その中に写真の髭題目が立っています。正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれ、「法」の字以外の文字の筆端は髭のように延びる独特のもので、その形態から髭題目とも呼ばれるそうです。光明点書法と呼ばれ、筆端が髭のように延びるのは、日蓮上人の筆跡をまねたものとされ、仏の慈悲が人々に分け隔てなく、平等に届く様を表しているという。左側面に「南無日蓮大菩薩」と刻まれています。右側面に「此中巳有如来全身」と経分が刻まれています。肝心の後方に回り込めず確認していませんが、恐らくこの塔が立てられた年代が刻まれているものと思います。題目塔は中村区ではよく見かけますが、港区で見かけた記憶はありません。もっとも港区自体あまり歩いたことがないのですが。こうした塔は古い街並みや街道を歩いていると目にします、建てられた年代も様々です。この塔があることから、この狭い道筋は新田開発時の古い道筋なんでしょう。本宮町の髭題目所在地 / 名古屋市港区本宮町1参拝日 / 2024/05/09関連記事 / 豊幡町 髭題目塔
2024.05.25
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真島稲荷神社根津神社から東へ10分程歩いた三浦坂と赤字坂の中間にある路地の突き当りに鎮座します鎮座地は、現在細かく区画され、住宅が密集する地域です鎮座地の谷中2丁目一帯は以前、旧谷中真島町の一部でした周辺は上野台地の裾にあたり、根津神社方向にかけて坂が多いところで、真島稲荷の南の筋には三浦坂、北の筋には赤字坂など、坂に名前がつけられています。三浦坂は江戸期の三浦志摩守の下屋敷に通じる坂で、赤字坂は、明治期の資産家で後に破綻した渡辺氏の別宅へ通じ、大きな区画が多かったこの神社はそうした屋敷内に祀られていたのでは、そんな想像すら抱かせます上は明治期とほぼ現在の地図で赤枠が真島稲荷神社と三浦坂、赤字坂を示したもの神社の印はなく、鎮座地は現在ほど細かく区切られていません三浦坂と赤字坂の中間にある路地は、大名時計博物館の西斜面で突き当りになりますそこに神社が鎮座しています笹が生い茂る斜面中程に覆屋があり、路地から社殿まで写真のように石段が作られています鳥居は石段の幅に合わせてあるため縦長の印象を受けます鳥居の額束には真島稲荷と記されています神社全景切妻屋根に向拝が付けられ、神社幕、鈴、燈籠も備えられていますもちろん覆屋の前では狐が守護しています真島稲荷神社の一帯は、江戸時代に神が宿る森と、そこに鎮座する神社を江戸七森と呼ばれたようで、当時の神社周辺の環境が想像できるものかも知れません他に江戸廿一森、江戸三森など色々あるようです江戸七森は以下の七社を指すようです・椙(すぎ)森 椙森神社 中央区日本橋堀留町・初音森 初音森神社 中央区東日本橋・柳森 柳森神社 千代田区神田須田町・吾嬬森 吾嬬神社 墨田区立花・竹森 竹森神社 中央区日本橋小伝馬町・烏森 烏森神社 港区新橋・笹森 真島稲荷神社 台東区谷中この中で自身が訪れた神社は、江戸名所図会に挿絵が残る烏森神社当時は松や杉などが生い茂る杜に神社が鎮座していた様子が描かれているここ真島稲荷神社周辺が笹森と名が残る事から、当時は笹が生い茂る一帯だったのでしょう覆屋の前を守護する狛狐玉と巻物を咥え、真新しい前掛けがかけられた狐寄進年は見ていませんが、それほど古いものではないようです本殿は銅葺屋根の一間社流造で千鳥破風が付くもので、小型ですが破風や虹梁、木鼻など意匠が施されています戸の前に鏡と陶製の一対の狐の姿がありますこちらに祀られている祭神は・・・現地に由緒などがないため、推測になりますが、宇迦之御魂神または倉稲魂命であると思われます社殿左の擁壁に埋め込まれているプレート、そこには「奉納敷地 昭和63年2月吉日」とあり、他にも「真島稲荷改築奉納 昭和63年2月吉日」の碑がありましたこれらから、昭和63年以前より鎮座していると思われますが、今昔マップの明治頃の鎮座地を見ても、鳥居らしき姿はありません江戸七森のひとつとあるので、創建が昭和とも思えません江戸名所図会を確認しましたが、眞島稲荷の挿絵や記述は見つからなかった鎮座地は細かく区画され、住宅が密集しています旧谷中真島町のこの辺りは、上野台地の裾にあたり、西にかけて坂の多いところで、一番低い場所を藍染川が流れ(暗渠となり現存)不忍池の西側に注いでいました江戸時代は武家屋敷、明治の頃には資産家の別宅や寺院が残る大きな区画だった事から、そうした屋敷内に祀られていたものが、ここに社地を与えられ祀られた、そんな想像すら湧いてくる詳細は分からなかったが、地元で今も崇敬されているのが伝わってくる稲荷さんです本殿前から下町情緒の漂う谷中の路地を見下ろす路地を戻り、その先を左に進み三浦坂に向かいます三浦坂狭い道幅の緩やかな坂が大名時計博物館方向に続きます下町の狭い通りですが、お洒落なお店がひっそり点在するあったりは東京らしい根津神社付近のお店の混雑が嘘のようでした坂の上り口にある三浦坂解説三浦坂 台東区谷中一丁目四番「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれた安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があった別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという平成四年十一月 台東区教育委員会」東京というと、灰色のビルに囲まれた風景や、忙しく歩き回る人々によって生じる閉塞感が強く印象づけられますしかし、そんな中でも静寂が漂い、下町の風情が残る場所が存在することに、安堵の気持ちを覚えます真島稲荷神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 東京都台東区谷中2-1-5根津神社から徒歩 / 東へ徒歩約10分公共交通機関アクセス / 地下鉄千代田線「根津」駅より徒歩約6分関連記事 /・根津神社 (文京区根津)・湯島天満宮 (文京区湯島)・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ過去記事 / 烏森神社
2024.05.24
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湯島天満宮から不忍池の西側を北上した文京区根津に鎮座する根津神社湯島天満宮から徒歩で約2㌔、時間にして約30分程で社頭に辿り着けます千代田線利用なら湯島駅から乗車し、根津駅で降車すれば20分程だろう根津神社社頭3月30日から4月30日の間、境内ではつつじ祭りが開催され、国内外の参拝客で賑わっていました通常は落ち着いた雰囲気の神社も、この期間中は混雑しており、自由に歩くのが難しい状況でした左に社号標は「准勅祭社 根津神社」とあります准勅祭社とは、全国に鎮座する16社の勅祭社に準ずる社格として、明治元年に東京近郊の12社が指定されました明治3年にその制度は廃止され、これらの神社は府県社や郷社となりました直前に参拝した神田神社もそのひとつになります朱色の明神鳥居の額は根津神社鳥居をくぐり、境内のつつじと楼門の眺め有料でつつじ苑に入れますが、入るにも列ができており諦めました鑑賞するには離れて見ていた方がいいのかもしれないこのつつじ苑、戦災で被災した社殿の修復後、荒れていたこの丘に、花期や種類の違う3000株のつつじが植えられたことにはじまるそうです色とりどりに咲き移る3000株のつつじ、これだけ纏まると圧巻の美しさがある神橋と楼門神橋から楼門・拝殿方向の眺め根津神社の由緒は古く日本武尊の東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したことにはじまると伝わりますその後も文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています楼門瓦葺の入母屋造で、全体は朱で塗られ、組物など色鮮やかに彩色された三間一戸の楼門で左右の間に随神が安置されています文化庁DBによれば江戸時代の宝永3年(1706)当時のもので、戦災や震災から免れ、江戸内の神社の楼門では唯一残っているものという楼門の額左右の間に安置されている随神制作時期など詳細は分かりませんが、右側の像は徳川光圀(水戸黄門)の姿と言われています上は根津神社社殿全景由緒は古く、日本武尊が東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したと伝わり、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています神仏習合時は根津権現社と呼ばれ、神素盞烏尊(十一面観音菩薩)、相殿に山王大権現(薬師如来)、八幡大菩薩(阿弥陀如来)を祀る根津三社大権現と呼ばれていたようです現在地は江戸時代、徳川綱重の山手屋敷であり、のちに六代将軍綱豊(家宣)の生誕の地で、五代将軍徳川綱吉が兄綱重の子綱豊(家宣)を養嗣子に定めると、家宣の産土神である根津権現社に屋敷地を献納、楼門をはじめとした現在の社殿を整備し、宝永3年(1706)に千駄木の旧社地より遷宮したのが現在の根津神社の姿です境内右の神楽殿神社HPによれば「文京区の無形文化財の社伝神楽「三座ノ舞」などが奉納さる」とありましたが、建立時期など紹介されておらず、文化庁DBにも載っていなかった唐門・透塀宝永3年(1706)建立当初からの建物唐門は銅瓦葺の一間一戸で妻側に唐破風がある平唐門以前は天井に墨絵の龍が描かれてあったらしい両側の銅瓦葺の透塀社殿全周約200mを取り囲むもので、300年を経た今も傾きや歪のない塀ですHPによれば基礎工事は地中8mの深さまで施されているというこれら社殿の造営には全国の諸大名が関り、各藩の技術が注がれ、天下普請と言われただけのことはある参拝にはこの列に加わる、左手に手水舎がありますが撮るのを忘れていました拝殿前の凛々しい狛犬拝殿全景社殿は拝殿と後方の幣殿・本殿が一体となった権現造りで建立当初からのもの千鳥破風・唐破風向拝の連なりの眺め徳川の権威を示す様に豪華な装飾が施されています破風飾りなどに見られる卍の紋が神仏習合当時の名残を感じさせます江戸時代は天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺を務めていたとされます拝殿額根津神社の揮毫は有栖川宮幟仁親王(1812~86)によるもの権現造りの社殿側面の眺めここから左手の透塀にある西門くぐると境内社の乙女稲荷神社、駒込稲荷に続きます乙女稲荷神社社頭鳥居の右側の参道には出店が並び、後方の池を見下ろすように舞台造りの乙女稲荷神社が鎮座します小池から眺める乙女稲荷神社社殿に至る参道は奉納鳥居が連なり、信仰の篤さを物語っています拝所の額は「乙女稲荷社」とあります乙女稲荷神社祭神は倉稲魂命由緒は根津神社の遷座時、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞が祀られたことにはじまり、当時は穴稲荷と呼ばれていたそうです社殿の前は参拝する方、ポーズを決めて写真を撮る方でごった返し、参拝のみで写真には収めていません社殿から北に進むと駒込稲荷に至りますこの辺りにくると写真のような石仏が安置されていますこれは庚申塔と呼ばれ、暦の庚申の日の夜に集まり、般若心経を唱え、語らいながら夜を明かす、江戸時代に流行した民間信仰の名残で庚申塔自体、多様な形態があります庚申塔は道の辻などに塔が建てられ、明治以降は都市化に伴い、根津神社へ遷されてきたものです解説から一部抜粋①青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(1668)駒込村・施主15名②観音像・庚申供養・施主12名③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主26名④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主1名⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都鳥?(くにがまえに庚)馬米村・施主7名 区内に現存するものでは最古、都内最古は足立区花畑にある元和9年(1623)のもの⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主10名、宝永六己丑(1709)時代の流れから居場所のなくなったものが、背中合わせに纏められ安置されています庚申塔から先に鎮座する駒込稲荷神社その前に安置されている狛狐長いはずの頭や尻尾は欠け落ちてしまい、狐というより猫のフォルムに近いもの駒込稲荷神社根津神社が千駄木村より遷座する以前、この地が旧甲府藩邸時代の守り神として祀られたもので、本殿の遷座に伴って末社となった祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、倉稲魂命、級長津彦命、級長戸辺命をお祀りする乙女稲荷社は混み合っていましたが、駒込稲荷神社を訪れる参拝者は少ないようです北参道全景駒込稲荷神社から根津神社本殿後方沿いの参道を東に進んだ先にあり、表参道程の混雑もなく本来の神社らしい落ち着いた佇まいを感じさせるつつじ祭り期間の混雑を避けるなら、朝一番か夕方に訪れるのがいいかもしれない静かでしっとりと咲くつつじの姿を見ることができるだろう祭り期間中の昼間の境内が混むのは当然としても、周辺の飲食店までアトラクション待ちのような長い列ができるのには少々困惑しました根津神社創建 / 不詳、現在地遷座は宝永3年(1706)祭神 / 須佐之男命、大山咋神、誉田別命、大国主命、菅原道真公境内社 / 乙女稲荷社、駒込稲荷神社例祭 / 9月21日所在地 / 東京都文京区根津1-28-9参拝日 / 2024/04/25関連記事 /・湯島天満宮 (文京区湯島)・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ
2024.05.23
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東京都文京区湯島に鎮座する湯島天満宮湯島天神として知られる神社で、先に参拝した神田神社から徒歩で北に10分程の所に鎮座します社名が示す様に、境内には梅や撫で牛が安置され、祭神は菅原道真が祀られています神社の創建は古く、雄略天皇2年(485)の創建と伝わります当初は戸隠神社(長野県戸隠)から分祀した天之手力雄命を祀った神社として始まり、後に天神信仰の広まりにより菅原道真を合祀し、今では湯島天満宮と親しまれ、学問の神様として知られています府社 湯島天神表参道神田神社から清水坂を上り、丘陵地の尾根沿いの突き当りに社頭が現れます遠目に見える境内には修学旅行生の制服姿が目立ちますここから右手の隅田川方向にかけては、どこを行こうが坂しかない街中にあって田舎感漂う我家の立地環境によく似ているが、そうした立地に多様な店舗や背の高いビルが密集するあたりは東京らしい湯島神社表鳥居全景鋳造製の明神鳥居は笠木までの高さが約7㍍程あるだろうか都内に現存する鋳造製の鳥居では最古(1667年)とされ、東京都指定有形文化財になっています右手の社号標は「府社 湯島神社」とある表鳥居の大石の上に乗る柱の下部は、柱円周の4カ所に狛犬が施されていますこの狛犬の頭が丁度撫でやすい高さにあり、多くの人が撫でたのか、頭部は光り輝いていました狛犬の頭を撫でれば、すぐ近くの大学にも合格できる・・・?表鳥居から左の先にも大鳥居が建てられています天満宮笠木や額には梅紋があしらわれています湯島神社由緒「祭神 菅原道真公、天之手力雄命例祭 5月25日湯島天満宮(湯島天神)は、雄略天皇2年(458)に創建され、天之手力雄命を奉斎したのが始まり正平10年(1355)に郷民が菅原道真公の偉徳を慕い、本社に勧請文明10年(1478)太田道灌により再建天正18年(1590)には徳川家康公が江戸城に入り、当社を崇敬天正19年(1591)家康公は豊島郡湯島郷に朱印地を寄進その後も学者や文人の参拝は続き、徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移したことで、この地は文教の中心となり、湯島天満宮の崇敬がさらに高まりました元禄16年(1703)火災で全焼、宝永元年に綱吉公より金五百両を受ける明治5年(1873)郷社明治18年(1885)社殿改築、府社に昇格平成7年(1995)総檜造りで社殿を再建平成12年(2000)湯島神社から湯島天満宮へ改称」神社のはじまりとなった天之手力雄命は御存知のように力持ちの神様で岩戸隠れの際に岩戸の陰から、顔をのぞかせた天照を引きずり出し、この世に明るさを取り戻した立役者この際に吹き飛ばされた岩戸は信州にまで飛ばされ、戸隠山にぶつかり今の山容になったとされますそこに鎮座するのが戸隠神社で、はじまりは雄略天皇2年(458)にここから分祀され当地に祀られたことにはじまる後に菅原道真公が藤原時平の讒言から大宰府に左遷され恨みながら亡くなると、京では天変地異や疫病が頻発し、人々は不安を募らせ、道真の左遷に関わったとされる藤原菅根の落雷による死去、延長8年(930)の宮中で雨乞いの協議中に落雷で藤原清貫が死去するなど、道真公の怨霊の仕業との噂が広まりましたこのような背景から、菅原道真公は「火雷天神」と称され、「天満大自在天神」の神号を賜ったことから彼の神霊への信仰が「天神信仰」として世間に広まり、やがて正平10年(1355)に菅原道真公が祀られるようになり、現在は学問の神の印象が強く、天之手力雄命の影は薄いような気がします天三 火伏三社稲荷社鳥居をくぐった包丁塚の右手に鎮座する神社詳細は定かではないが、旧町名の湯島天神町3の商店主らによる天三火伏三社稲荷社奉賛会があるようで、現在の表鳥居前の通りに該当するようで、その町内にあった神社をこちらに祀ったものと思われます創建や祭神は不明手水舎境内には多くの梅の樹が植えられており、撫で牛や瓦に入れられた梅紋など、道真公の天満宮色が濃い拝殿正面の眺めこの辺りが修学旅行の集合写真撮影場所になっているようで、表鳥居から風の如くやってきては、写真を撮り、社殿後方の切り通し坂で待つバスに忙しなく乗り込んでいくしばし待ってようやく視界は開けました、左右に個性的な狛犬がいましたがアップを撮り忘れました学業の神様だけに修学旅行の定番コースになっているのかもしれない・・・後方から次の波がやってきたようだ、この場所は譲ることにしよう現社殿は平成7年(1995)に総檜造りで再建された権現造唐破風向拝や木鼻飾りなどは、コンクリート造りには見られない、木造ならではの職人技の見所がある拝殿左から社殿後方に廻り込む入母屋銅葺屋根の拝殿と本殿は石の間で繋がれ一つの建物として形作られ、右手の参集殿と拝殿は渡廊で結ばれています本殿後方に鎮座する境内社ここに二社が祀られています左が笹塚稲荷神社で右が戸隠神社戸隠神社湯島神社のはじまりとされる戸隠神社は境内北側の切り通し坂を背にしてひっそりと鎮座する個性的な顔の狛犬が守護する春日造りの社に天手力雄命が祀られています笹塚稲荷神社一間社流造で創建や祭神の詳細は定かではないですが、恐らく宇賀之御魂神を祀るものと思われます戸隠神社の右から切り通し坂に続く石段が伸び、途中に平成の改築時に新たに作られた登龍門があります切り通し坂から湯島天満宮を訪れる時、この門と「湯島天満宮」の新しい社標が目印になる当日だけの光景かもしれませんが、ここ切り通し坂に観光バスが連なり、駈け下りてくる生徒をピックアップして次の目的地に向け走り去っていく、修学旅行とはこんなに忙しなかったかなぁ湯島天満宮創建 / 雄略天皇2年(458)祭神 / 天手力雄命、菅原道真公境内社 / 天三火伏三社稲荷社、戸隠神社、笹塚稲荷神社所在地 / 東京都文京区湯島3-30-1参拝日 / 2024/04/25神田神社から徒歩アクセス / 北方向へ約10分(700㍍)関連記事 /・江戸総鎮守 神田神社・GW前にディズニーリゾートへ過去記事・キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」
2024.05.20
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神田神社神田明神として知られ、東京の中心、神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です写真は神田神社鳥居から随神門の眺め鳥居扁額は「神田神社」随神門昭和51年に建造された総檜造りで鮮やかな漆塗りの門で、左右の間に随神が安置されています随神門左の由緒と手水舎随神門左の由緒祭神一の宮 大己貴命、二の宮 少彦名命、二の宮 平将門命正式名称は神田神社で東京都心108町会の総氏神で、神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内、東京の食を支える市場発祥の地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々から崇敬されている御神徳は縁結び、家内安全、商売繁盛、社運隆昌、除災厄除、病気平癒当社は天平2年(730)、出雲氏族の真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された、江戸東京の中で最も歴史のある神社の一つ慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康が合戦に臨む際、当社で戦勝のご祈祷を行ない、9月15日、神田祭の日に勝利し天下統一を果たしたこれ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました家康が江戸に幕府を開き、江戸城(皇居)の拡張に伴い、慶長8年(1603)に神田台へ、さらに元和2年(1616)に城の表鬼門にあたるこの地に遷座以来「江戸総鎮守」として幕府・庶民から崇敬された明治に入り「准勅祭社」「東京府社」に定められ皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しく参拝された社殿は昭和9年(1934)に日本最初の鉄筋コンクリート・総漆塗りの権現造として建立されたもの祭礼の神田祭りは、二年に一度執り行われ、江戸時代には江戸城内で将軍が上覧したことから、御用祭り・天下祭りとも呼ばれ、江戸三大祭の一つに数えられている現在は神田・日本橋・秋葉原・大手町丸の内の108町会を巡行する「新幸祭」と氏子の町神輿約100基が神社に宮入りする「神宮宮入」を中心に賑やかに行われています2030年に創建1300年を迎える古社である手水鉢の寄進年は確認していませんが、関東大震災、東京大空襲の影響を受けているので、古来からの建物や寄進物は少ないかもしれません左右の間の随神像境内から眺める随神門境内左のだいこく様御朱印は、後方の神田明神文化交流センターで書置きを頂きました随神門から社殿の眺め左手に授与所、正面の社殿左側と後方に境内社が祀られています拝殿前の狛犬昔飼っていた大型犬が、ボール遊びをしてほしい時にこうした仕草をとっていたのを思い出します境内右から拝殿の眺め大きな狛犬の阿形の右に岩で組まれた山が築かれていますここにもう一組の狛犬の姿があります石獅子江戸時代の享保年間(1716~1785)に栃木県の名工・石切藤兵衛により造られ文久2年(1862)に両替商達から神田神社に奉納されたもの岩が組まれた獅子山の頂に獅子の夫婦、下に谷底へ落とされた子獅子の様子を表現している関東大震災で被災し、親獅子2頭以外は全て平成に再建されたもの親獅子2頭は千代田区指定文化財子獅子が谷底へ落とされ、親獅子が見守る光景は、昨今の過保護な子育ての在り方にあって、過度な厳しさと見なされてしまうかもしれません個人的には、手を差し伸べずに試練を乗り越える様を見守るのも必要だと感じます拝殿左から拝殿全景の眺め現在の社殿は震災後の昭和9年(1934)に建立された当時のもので、東京大空襲では、境内に焼夷弾が落とされたが、コンクリート造りの社殿は幸いにも焼失から免れたもの拝殿左に神馬舎がありますが、当日の暑さから「あかりちゃん」も日陰でくつろいでいた神馬舎左から右手、社殿後方にかけて境内社が鎮座します左側から魚河岸水神社「祭神 弥都波能売命祭礼 5月5日当神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願して、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(現在の千代田区大手町)に鎮座された元和年間に神田神社と共にこの地に遷り、大市場交易神と称されたその後、水神社と改称明治24年(1891)魚河岸水神社と改称、日本橋魚市場の守護神として崇敬されている日本橋より築地に移った築地中央卸売市場内には当社の遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の信仰により支えられている魚河岸会の所有した神輿は江戸の代表的山車だったが関東大震災で烏有に帰した昭和30年、当時の山車を再現し、隔年に行われる神田祭で拝観する事ができる」拝殿額には「水神」とある三天王 三の宮 小舟町八雲神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 6月6日当神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座された小舟町は貞享年間(1688)までは小伝馬町と呼ばれ、御仮屋があり神輿が渡御されたことから小舟町の天王社と称されていた明治以前は江戸町域の廟疫退散のため、江戸城内・北奉行所・日本橋々上に御輿を奉安祈願が行われた「東都歳時記」によれば当時の天王祭は1丁目に御仮屋が出来、大提灯・大注連縄が張られ2丁目には、七、八間の絹張の神文が造られその左右に随神が置かれ長さ5丈の杉の木を植え込み、鰹節の樽積が高々と重ねられた3丁目には、須佐之男命、稲田姫の造り物、八岐大蛇の行灯、天王祭大幟をたて神輿の神幸を待った御輿は6月10日に明神境内から発興し、氏子180ヶ町を巡り、還興するのは13日か14日、その間の里程は13里(一里は約3.9 km)に及んだとされ、そのことから13里天王ともいわれた近年は八雲祭と改められ、小舟町街中に御仮屋がたてられ、大御輿の神幸が不定期に斎行される」拝殿左右に鉄製の天水桶が置かれている三天王 二の宮 大伝馬町八雲神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 6月5日当神社は江戸時代以前より祀られていたと伝わる三天王の二の宮天王祭は6月5日明神境内から発興し、氏子中を神幸し大伝馬町の御仮屋へ渡御し、8日還興していたこの事から大伝馬町天王と称されたこの祭りは元和元年(1615)より行われ、江戸時代には他の天王祭と共に賑わいの一つとされた今日でも大伝馬町1丁目・本町3丁目東町会の諫鼓会の人々から篤く信仰されているまた、「べったら市」も神田神社兼務社の日本橋宝田恵比須神社で諫鼓会の人々により継承されている」三天王 一の宮 江戸神社「祭神 建速須佐之男命祭礼 5月14日大宝2年(702)、武蔵国豊嶋郡江戸の地(現在の皇居内)に創建された大江戸最古の地主神古くは江戸大明神、江戸の天王と称されていた鎌倉時代、江戸氏の氏神として崇敬、その後も太田道灌築城より、上杉氏、北条氏など引き継き城内に祀られたが、慶長8年(1603)江戸城拡張に神田神社と共に神田台に遷る元和2年、(1616)現在地に遷座宿時代中期以降は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称更に明治18年(1885)に江戸神社と改称この神社は、江戸開府の頃幕府の食を賄う菜市が開かれ、貞享年間に神田多町一帯に青物商が集まり市場の形態が整い、市場の守護神として崇敬されてきた現社殿は平成元年神田市場が大田区東海に移転するにあたり、大御輿を御神座として再建鎮座された三天王祭・一の宮江戸神社の祭り起源は慶長18年(1613)と伝わり、神輿の神幸は6月7日の朝、明神の境内から発興し、南伝馬町の御仮屋に入り氏子の町々を渡御して14日還興され、神幸の様子は実に勇壮厳粛な行列だったと伝わる現存する大御輿は通称「千貫神輿」として親しまれ、神田祭りに担がれる凡そ200基の神輿の象徴である」江戸神社から更に右手を進み社殿後方に向かうと最初に祀られているのが浦安稲荷神社HPによると、「元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもので、天保14年に遷座された祭礼日 - 3月午の日」とあった由緒碑がありましたが、乱反射して内容は分からなかった三宿稲荷神社祭神 宇迦之御魂神祭礼 10月初旬創建の年代は不詳江戸時代より神田三河町二丁目、(他に皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併され、昭和10年司町一丁目に改称更に昭和41年内神田一、二丁目に編入され内神田司一会となる)の守護神として奉斎されていたその後、当社神主邸内で祀られていた内山稲荷を合祀し神田神社末社として奉斎されていた現社殿は昭和41年10月に再建され、金刀比羅大神と共に鎮座する金刀比羅神社祭神 大物主命、金山彦命、天御中主命祭礼 10月10日天明3年(1783)、武蔵国豊島郡薬研掘(現在の東日本橋2丁目旧両国町会)に創建江戸時代、神祇伯白川家の配下となり、祭祀が奉行されていた明治6年(1873)村社に列格往古は隅田川往来の船人の守護神として崇敬され、後に町の発展とともに商家・飲食業・遊芸を生業とする人々から崇敬されている昭和41年、宗教法人を解散しこの地に社殿を建立、三宿稲荷大神と共に鎮座した境内の水盤側面に文化2年(1805)と刻まれています水盤解説「千代田区指定文化財 平成9年(1997)指定この水盤は文化2年(1805)2月伊勢屋治兵衛が奉納安政3年(1856)6月、神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈の人々により再建された炭薪問屋・人宿・六組飛脚問屋などの町人が関わっている神田神社や末社の金刀比羅神社・三宿稲荷神社と、町人たちの関りを知ることができる」末廣稲荷神社当日は鳥居の前の藤の花が見頃を迎え、鮮やかな朱塗りの社殿を一層引き立てていました末広稲荷神社由緒「祭神 宇迦之御魂神祭礼 3月午の日創建の年代は不詳ですが、元和2年(1616)頃とされる古社往古より庶民信仰が篤く、霊験あらたかな出世稲荷として崇敬されている現社殿は昭和41年2月28日に東京鰹節類卸商組合により再建」末廣稲荷の前を彩る藤の幹回り小さな石の祠と多くの狐が祀られていました合祀殿(左)と祖霊社合祀殿は平成24年に旧・籠祖神社社地に建立されたもの猿田彦神、塩土老翁神を祀る籠祖神社をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)、富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)の七社を合祀している。右の祖霊社は神田明神を崇敬した氏子・崇敬者の先祖をお祀りする社上は境内の籠祖神社由緒「古くは寛政7年(1795)、現在の小伝馬町の籠職人、葛籠職人らの祖神として神田明神に鎮座されたもので現在も食神として崇敬されている境内には寛永から昭和にかけて奉納された石造寄進物が残されている」籠祖神社の頃から寄進された石造物群震災や戦災から免れ、先人達思いが今も境内に保存されています境内から随神門、社頭の眺めTVやドラマに登場する事もある神田明神聖地巡礼で訪れる人、海外から訪れる観光客が多いものと覚悟していた実際に訪れて見るとそこまでのことはなかった神田神社創建 / 天平2年(730)祭神 / 大己貴命、少彦名命、平将門命境内社 / 魚河岸水神社、小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社、江戸神社、浦安稲荷、三宿稲荷神社、金刀比羅神社、末廣稲荷神社、合祀殿、祖霊社所在地 / 東京都千代田区外神田2-16-2参拝日 / 2024/04/25関連記事 / GW前にディズニーリゾートへ
2024.05.19
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今回は前回掲載した辨財尊天から水堀沿いを4・5分南下した右側の屋根神を取り上げます堀の口5の不明社でも少し触れましたが、水堀の水源は御用水で確保されましたが、堀の水位調整のため辰之口水道大樋を造り、過剰な水は堀川へ逃がし水位の安定化を図りました上は尾張名所図会に描かれた名古屋城と水堀絵図の実線の赤丸が今回掲載する屋根神さまが祀られているあたりで、丁度辰之口水道大樋の横あたりに鎮座しています破線の赤丸は堀の口5の不明社と辨財尊天になります西区樋の口町1の屋根神さま全景過去にも訪れていますが、今も当時の印象のまま祀られています傾いた覆屋も当時のまま、幾分傾斜がましたように思えます力技でよいしょっとばかり垂直にして、梁を入れればまだまだいけそうな気がするのですが、手が回らないのでしょう覆屋の下には屋根違いの三社造りの社が祀られています覆屋の外観は寂しい限りですが、社は綺麗に手入れされ、日々御世話される方が見えるようですこの社について由緒や祀られた時期は良く分かっていません1945年(昭和20)の名古屋大空襲から復興を遂げ、樋の口町あたりの住居は比較的新しい建物が多いことから、被災前から祀られていた屋根神さまが、戦後この形で祀られたと思われます三つの扉には秋葉社、熱田社、津島社の札が納められているはずです供えられた榊も新しく、樋の口町1の守り神は今も健在なようです西区堀の口1 屋根神さま創建 / 不明祭神 / 不明辨財尊天から徒歩アクセス / 徒歩4分、約300㍍南下した右側地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩16分参拝日 / 2024/03/10所在地 / 名古屋市西区樋の口町1-15関連記事 / ・辨財天・瀧王不動明王・御深地蔵大菩薩・西区堀の口5 不明社過去記事 / ・樋の口町の屋根神様
2024.05.18
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前回に続き、今回も名古屋城西側の水掘の西側にある樋の口町からです樋の口町5の不明社から現在建設中のウェスティンナゴヤキャッスル方向に水堀沿いを進んだ右側に今回掲載する辨財天、瀧王不動明王、御深地蔵大菩薩が鎮座しています辨財天堂・瀧王不動明王全景堂は西北隅櫓方向を向いて建ち、右手に赤い覆屋が南向きに建てられています堂の妻壁に架けられている「辨財天」の額堂の扉は少し開けられており、堂内の様子を窺うことが出来ました神仏習合色が色濃く残り、左側に弘法大師像とその右に鏡が祀られ中央に龍の彫が施された大きな鏡台に置かれた大型の鏡、更に右にも二枚の鏡が祀られています龍の鏡台が置かれた社を瀧王不動明王と考察すると辨財天はどれなんだろう何れも詳細が分からず、ここに書き添えることはできません右手の覆屋全景覆屋に祀られた社とその左にも一社祀られていますが、詳細は不明弁財天の幟が立っていますが、この二社と無関係と思われます覆屋内の社外観から判断するのは難しいかぁただ虹梁の彫飾りをよく見ると狐の姿が彫られ、瀧王不動明王とは思えない雰囲気です「稲荷社ですかぁ」と思いたくなりますが、他に狐の姿も見られないので怪しところです分かりません左の社も…分かりません取り敢えず拍手して拝むことにする御深地蔵大菩薩(左)と辨財天堂の全景ホテル建設工事中の防護壁の北東角の一画に御深地蔵大菩薩と不明社、お地蔵さまが祀られています辨財天堂と関係しているのか?これも分かりません御深地蔵大菩薩全景中央の大きな像が御深地蔵大菩薩右の社は不明社、左の覆屋には左に重軽石とその後ろに石像、右側にも石像が安置されていますweb情報ですが、中央の御深地蔵大菩薩は昭和32年(1957)に新たに寄進された二代目とのこともともとの地蔵尊は、名古屋城築城時の慶長15年(1610)に創られたもので、築城工事に伴い犠牲となった人々の霊を鎮めるために建てられたと伝わります初代の御深地蔵大菩薩は、名古屋城の絵図を見ていけば記されている可能性もあるかもしれないですねしかし初代の像はその後の空襲で被災し、それに代わるものが現在の像となっています何れも水堀に向かって祀られているのはそうしたこともあるようです辨財尊天創建 / 不明祭神 / 不明瀧王不動明王創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区樋の口町4-14御深地蔵大菩薩所在地 / 名古屋市西区樋の口町3地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩16分参拝日 / 2024/03/10関連記事 / ・西区堀の口5 不明社
2024.05.17
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不明社何かの用事で名古屋城西の丸外濠あたりを通りかかった際、西区樋の口町5の一画で小さな社を見付けました情報としてはなにも得られませんが、ここに「小さな社がありましたよ」程度に掲載する事にしますこの西の丸外濠沿いを歩いていると、現在建設中のウェスティンナゴヤキャッスル付近にかけて、小さな社が点在していますまず、樋の口町の名の由来は名古屋城築城に伴い付けられたと言っても過言ではないようです慶長15年(1610)、名古屋城の普請が始まり、堀・石垣が工事が進み、御深井丸西・北の水堀も完成したととされます清州越により多くの商人・職人が移住し城下町の発展とともに、湧水量が追い付かず、水堀や御蓮池の水が不足するようになったそうです水事情を改善するため、延宝4年(1676)、庄内川の水を矢田川の下をくぐらせ(伏越)て御用水が造られましたしかし一方で大雨により水位が高くなり過ぎるため、この堀から堀川に逃がす水位調整施設が必要になり、その施設がこの辺りにあったことからこの名が来ているようです当所は堀の北岸のうち、東側は護岸がされず、御蓮池とつながっていたといいます現在東側に護岸がありますが、それが作られたのは意外に新しく、明治25年(1892)頃に現在の名城公園に練兵場が造られた際に護岸が出来たと言われます写真は西北隅櫓古名は戌亥櫓、清州櫓とも呼ばれ、清州城天守を移築したものされています昭和39年の解体修理の際、清州城天守の古い部材を転用し元和5年(1619)頃に造営されたことが明らかになったという国の重要文化財で三重櫓としては熊本城の宇土櫓に次ぐ規模のものという事です西区堀の口5の不明社はこの櫓の西向いに祀られています鎮座地全景民家の敷地の一角、歩道側に扉が設けられ社地があり、右側に地域広報板が立てられている個人祭祀の神さまなのか地域の神さまなのか外見から判断できませんなので扉を開けて参拝するのは避けました東西に細長い社地の奥に覆屋があり、高い基段の上に社は祀られています板宮造りの社には戸が三つあることから、屋根神さまのように秋葉神社、熱田神宮、津島神社の三社をお祀りしているのかも知れませんしかし、これを屋根神さまとするには情報がありません綺麗に手入れされ、大切にされているようです機会があれば地元の方に伺いたいと思います不明社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区樋の口町5地下鉄アクセス / 地下鉄名城線「名城公園」2番出口から徒歩15分参拝日 / 2024/03/10
2024.05.14
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三筒町の八柱神社から県道353号線(大平折平線)を西に向かい峠を越えます白川町の信号のある交差点を左折、石畳ふれあい広場で右折し、高根山東麗に鎮座する石畳 八柱神社に向かいます神社までの移動距離は3.2㌔、約10分程でした上の写真は石畳ふれあい広場西側から直進した石畳町中道地区の写真神社へは普通車では近寄れないので歩いて行く方が賢明です①が麓から上ってくると最初に目にする光景です②は神社方向に通じる細い車道③は神社に向かう道④が社頭に向かう道まず現地についてこの入口が分からず、②の先に車一台止められる余地があり、そこに駐車して入口を探す事から始まりました社頭に向かう④の道を進んだ先の光景道は二手に分かれ、竹藪沿いを奥に進みました結果として、右手からも境内の舞殿横に繋がっていました竹藪を抜けると鳥居と社号標の真横に至ります鳥居の正面はフェンスで仕切られており、ここが社頭と言っていいでしょう八柱神社社標と歩いてきた参道?寄進年は昭和18年(1943)のものでした精一杯フェンスに寄って撮影した石造明神鳥居と舞殿に続く参道の眺め鳥居の寄進年も昭和18年(1943)で額は「八柱神社」舞殿と拝殿の眺め境内右手に境内社と見慣れた解説板が立てられています舞殿全景木造の方形造?で下部に腰板が張られた四方吹き抜けのもの舞殿左に藁馬が奉納されています藁馬祭礼用なのか、奉納されたものか定かではありませんが、こうした藁馬に神さまが乗ると信じられ、祭礼が終われば厄除けに燃やされるものと思っていましたが稲を収穫した後の藁は、昔から生活必需品で、身の回りの履物から縄、畑の飼料や建物の素材として利用されてきました米を得た後の廃棄物ではなく、日常生活と藁は密接に関わってきたのです舞殿から祭文殿の眺め大正11年に寄進された一対の常夜灯がありますが、狛犬の姿はありません祭文殿入母屋瓦葺の妻入り祭文殿で後方の鞘堂に繋がっています社殿全景鞘堂全景鞘堂内の本殿は春日造りの一間社本殿前には手で綯わられた注連縄と藁が供えられていました境内の解説板「15等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市石畳町上曽根39番地2祭神 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、市杵島姫命、瑞津姫命、田心姫命由緒社伝に寛文八戌申年(1668)11月21日勧請とある往古より石畳の氏神として崇敬明治6年(1873)村社に列格大正元年(1912)12月27日御殿建立昭和28年(1953)10月11日祭文殿新築例祭日 10月第二日曜日特殊神事 神輿」wiki情報によれば、藁縄の売却代を元手に高根山の荒れ地に植林が行われ、昭和28年(1953)にはその売却益で本殿が建立されたとある西加茂郡誌に記された八柱神社の記述は以下でした「村社天忍穂耳尊他七柱創建 未詳氏子 大字上渡合石畳祭礼余興 献馬・棒の手」境内には以下の境内社がありますが、そこについての言及はなく、詳細は良く分からなかった境内右の境内社社名札がなく詳細は不明ですが、覆屋の中に「天王社・金比羅社社堂が再建」の木札が掛けられていました左に二つの石の社があり、〇〇稲荷大明神と〇〇大権現と彫られていましたが、肝心の〇〇は写真から読み取れなかった右の板宮造りの二社が天王社・金比羅社と思われます多くの寄進者により、昭和に入り再建されたようです社地右から境内の眺め参道から社頭の眺め今はフェンスでここから先は進めませんが、その先は樹々が伐採され長い参道が続いていたように見えます今回の中馬街道沿いの神社巡りも石畳町の八柱神社でひと区切りとなりますこの後は、麓にある石畳ふれあい広場の足湯で足の疲れを癒し帰路に着きました猿投神社を訪れる前に、周辺の神社を巡ろうと始めましたが、参拝を見送った神社もあります爽やかな風が吹く新緑が綺麗な時期に、猿投神社と猿投山の三角点まで行きたいと思います石畳町 八柱神社創建 / 天正3年(1575)祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命境内社 / 不明社4社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 所在地 / 豊田市石畳町キビ夫西市野々町 八柱神社から車アクセス / 神社から県道353号線(上渡合土岐線)を西に向かい、引地交差点の信号を左折、石畳ふれあい広場で右折・直進、距離3.2㌔、約10分程 参拝日 / 2024/04/18今回の走行ルート / 起点名古屋市役所から往復約80km周辺の神社関連記事 / ・三箇町「八柱神社・農村舞台」 ・八劔神社 (豊田市西市野々町)・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.13
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前回掲載した八剱社から、車で東へ10分程の豊田市三箇町森前に向かい、八柱神社を訪れました写真は県道13号線三箇町地内の交差点を撮影したものこの道を直進すると木瀬町の国道419号線に至ります神社はここで右折した右側にありますここで右折すると、右手には土地改良碑が見え、その後方には三箇町公民館があります神社はその後方の山の頂に鎮座します社頭全景右手に石碑と薬師庵があり、細い道が社頭に続いています車は公民館裏手に停めさせてもらいました社頭は左手に大正7年(1918)に寄進された「村社 八柱神社」の社号標、正面の鳥居の脇に常夜灯、手水鉢、由緒書きがあります石造明神鳥居は大正6年(1917)に寄進されたもので、額は「八柱社」と刻まれていますそこから石段の先を見上げると、農村舞台が覆い被さるように建っていますお馴染みの解説「十二等級 八柱神社 旧指定村社鎮座地 豊田市三筒町森前14番地祭神 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命由緒 社伝に天正3年(1575)霜月16日創建とされています 慶長5年(1600)9月、尾州犬山藩主 成瀬彦太夫この地に来て当社を深く崇敬 称宜の位を京都にて受け、姓に鳥居を給い、帰国の途中、伊勢皇太神宮より神鏡を受け社殿に納め奉仕 した 領主久永岩見守年々米一俵を奉納する 明治5年10月、村社に列し、大正7年10月1日指定社となる例祭日 10月12日」とある参考までに、西加茂郡誌には創建未詳と記されていました、内容は以下「村社 八柱神社創建 未詳祭礼 10月12日所在地 藤岡村大字三筒例祭恒例余興 献馬、巫子舞」とありました石段右の手水鉢は大正7年(1918)に寄進されたもの石段中ほどに境内社の姿があり、石段の降り口のすぐ目の前に農村舞台が迫る石段中ほどに祀られている境内社参拝はしたものの、社名札がなく詳細は不明石段から農村舞台の梁が一望できる農村舞台から境内の眺め舞台に壁はなく、四方吹き抜けで隅柱には支えが付けられ、入母屋瓦葺の屋根を支えています豊田市農村舞台のリストに載っており、それによれば、安政3年(1856)の建立ということです当初は茅葺だったと思われます石段側の長い梁には3本の側柱が入っています舞台全景祭りともなれば、この広い境内に住民が集い、余興を楽しむのだろう舞台が今も現役なのかは分からなかったそれにしても周囲の杉の見事な事、舞台も小さく見える舞台の正面が八柱神社社殿城壁を思わせる石垣の上に入母屋瓦葺の拝殿と後方の覆屋が建てられています拝殿正面全景手前に狛犬の姿年齢不詳の狛犬は子連れ毬持ちのもの拝殿から本殿方向の眺め本殿の左右にも社の姿が見えます社殿側面拝殿と本殿は渡廊で結ばれています石垣が積まれた上に本殿が建てられており、拝殿からこの渡廊で本殿に行き来できるようになっています本殿域全景檜皮葺の一間社流造で、左右に板宮造りの社が祀られています本殿の脇にある社は、どれも社名札がなく、詳細は不明です拝殿から見下ろす農村舞台山里の小さな集落に鎮座する神社ですが、手入れの行き届いた広々とした境内は、参拝に訪れても居心地がいいものです降り口から社頭の眺め社頭前を横切る道路は県道353号線、次はこの県道を右に向かい峠を越えて白川町方向に向かいます社頭右の薬師庵左に殉国戦士之碑などが立てられており、薬師庵の右に二つの祠が祀られています薬師庵手前に手水鉢と弘法大師像、弥勒菩薩など石像が安置されています薬師庵の額内部を見る事は出来なかった右手の二つの祠左の祠の中の社は不明ですが、右の社には白い狐の姿がありました公民館から東の三箇町集落の眺め周辺の山々は新緑の淡い緑が綺麗な時期を迎えていました三箇町 八柱神社・農村舞台創建 / 天正3年(1575)祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命境内社 / 不明社2社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 三箇町所在地 / 豊田市三箇町森前10西市野々町 八劔神社から車アクセス / 神社から県道352号線(上渡合土岐線)を南下、白川町信号左折県道13号線で右折、直進し三箇町公民館まで、距離4㌔、約10分程 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・八劔神社 (豊田市西市野々町)・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.12
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岐阜県と愛知県の県境に鎮座する金刀比羅神社を後にして、次の目的地 八劔神社へは、県道352号線(上渡合土岐線)を南下し豊田市西市野々町集落に向かいます県道右側の里を見下ろす小山の前に社頭を構えます写真は金刀比羅神社方向の県道352号線参拝者駐車場は道沿いには見当たらず道路脇の路肩に駐車させてもらいました社頭はここから左方向の歩道を進んで行きます県道南側から八劔神社の社地全景を眺める社頭正面の眺め小高い山の斜面を開いて境内が作られ、周囲を杉の杜が囲んでいます歩道から写真のように石段が築かれ、その上の鳥居に続きます石段の中程に踊り場があり、そこに八劔神社の社標が立てられ、左手に由緒が掲げられています「十二等級 八劔神社 旧指定村社鎮座地 豊田市西市野々町森下250番地祭神 日本武尊、大碓命由緒 社伝に承久3年(1220)山中氏の祖が勧請鎮祭したとされている 後の永徳2年(1382)、文明5年(11473)、寛永15年(1638)に社殿の造営が行われた 元禄13年(1700)社殿を改め猿投神社より大碓皇子を分祀、堂殿に迎え祀った 遠近の人々子安神として尊崇し、明治5年()10月指定村社となる 美濃・尾張・三河特殊仰として、俗に彦屋の神と称し、多くの安産の祈願者が訪れる」見慣れた由緒書きは豊田市に戻って来た証だろう参考までに、西加茂郡誌では創建時期に少し違いが見られました「村社 八劔神社創建 大同元年(806)祭礼 10月21日所在地 西市野々町例祭恒例余興 献馬、巫子舞」とありました由緒にある承久3年(1220)に対し、大正15年(1926)西加茂郡教育委員会から出版された西加茂郡誌では大同元年(806)と記されています因みに猿投神社の創建が第14代仲哀天皇元年(192)とされるので、どちらをとったとしてもこの地域にあって堂々たる古社である事が分かります右手の社標(大正5年寄進)の前に手水鉢があり、そこから奥に向かって参道があります先には左手の慰霊碑があり、更に奥に小堂が建てられていました境内右隅に建つ小堂軒下に「四国八十八ケ所霊場」の木札があり、堂内を眺めて見ると弘法大師の姿も見える事から、この建物は弘法堂のようです再び鳥居前に戻り、境内を眺める石の明神鳥居は大正6年健之のもので、額は八劔神社とある境内左手の眺め手前に入母屋瓦葺の四方吹き抜けの建物と後方に社務所らしき建物があります右手の眺め二段に積まれた石垣の上に社殿が建てられています社殿正面の眺め一段目に常夜灯、狛犬があり、上段に社殿、左に宝物庫と思われる建物と境内社が纏められています拝殿右の大きく枝を張った巨木が印象に残ります石段下から拝殿の眺め拝殿は入母屋瓦葺の平入で一間の向拝が付くもので、後方で本殿を収める覆屋と繋がっています一段目の狛犬と二対の常夜灯狛犬の台座には昭和3年11月と刻まれている拝殿中央は前後吹き抜けで、両脇が翼殿になっており、祭文殿としての色合いが強く、全体的に拘った彫飾りのないシンプルな外観です拝殿から格子戸の先の本殿の眺めここから本殿の姿は良く見えず、参拝してから後ろに回り込んで見ます拝殿右の壁に無数の底の無い柄杓や、穴があけられた柄杓が奉納されていますこれは、出産を控え、底抜け柄杓を奉納し安産を祈願する風習で、こうした風習は古くから伝わっていますこうして祈願する事でかつては産婆さんがいらないほど安産に恵まれたと言われています拝殿右の巨木「西市野々のアカガシ市指定文化財 昭和49年(1974)2月10日樹高 21.6㍍胸高囲 4㍍根回り 15.1㍍枝張り 8㍍枝は地上3㍍から張り出し、最大8㍍に及び、幹の内部は中空ですが、樹勢は良好で葉数が多いのが特徴です平成24年3月豊田市教育委員会」2012年当時に記されたもので、実際に見上げると、ここに書かれている以上に見事な樹で、名の通り大きくなるにつれて樹皮は赤みを帯びてきます秋になるとドングリ状の実をつけ、イノシシや熊等の野生動物の食料にもなるつまり、彼らの餌場ということか…拝殿右側から覆屋下の本殿檜皮葺の一間社流造で虹梁や海老虹梁等には拝殿では見られなかった彫が施されています拝殿から境内を見下ろす左は神楽殿なのか農村舞台なのか定かではありませんここで本来は拝殿左の境内社を参拝するつもりでいましたが、アカガシと本殿を眺めて満足したのか、境内社に向かうのをすっかり忘れていました板宮造りの社と石の社が纏められていますが、また近くを訪れるので写真に収め掲載しておきます現在豊田市には82棟程の農村舞台があると云う事で、豊田市の農村舞台DBに森下の八劔神社はリストアップされていないようですが、長い虹梁で一間として作られたこの建物は、神楽殿と云うよりも、周辺で見られる農村舞台の趣が漂います立派な材木が使われた梁間3間、桁行6間の舞台いつ頃建てられたものか棟札を探すも見当たらず、定かではありません八剱神社創建 / 不明祭神 / 日本武尊、大碓命境内社 / 例祭 / 10月第2土曜日氏子域 / 西市野々町所在地 / 豊田市西市野々町森下250金刀比羅神社から車アクセス / 神社から県道352号線(上渡合土岐線)を南下、西市野々町平成地内の社頭まで1.4㌔、約3分程 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・金刀比羅神社・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.11
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前回掲載した稲荷神社から国道363号線を戻り、行先表示板の豊田方向に進み、上渡合土岐線を2.3㌔先進んだ右側に今回掲載する金刀比羅神社の社頭があります社頭の上渡合土岐線から鶴里方向の眺め緩い下りの右カーブに写真の津島宮の赤い鳥居見えますそこが金刀比羅神社の社頭になり、この鳥居のすぐ左側に駐車スペースがあります県道から見る社頭の眺望社頭は杉や檜の山林で、県道から舗装された参道が境内に続いています石の明神鳥居が立っていますが、車窓からでは分かり難いかもしれません参道右に昭和2年に建てられた「岐阜県名所 三国山 金刀比羅宮」の石標と石碑があります「岐阜県名所」とはなんだろう、検索するもその内容はわからなかった明治32年(1899)に寄進された鳥居について、詳細を確認するために額部分のクローズアップを撮影しましたが、逆光のため文字の読み取りが困難でした鳥居から参道を進むと社殿が見えてきます境内の全景右に社務所と正面の左右に翼殿が付く拝殿、本殿は拝殿平側に接続する鞘殿に祀られています社殿全景由緒らしきものが見当たらず、岐阜県神社庁から調べて見た結果は以下「金刀比羅神社所在地 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地通称 金刀比羅さま主祭神 大物主命由緒由来 そうし、縁由不明祭礼 3月第1日曜日」とあり、鞘殿に祀られている流造の本殿が掲載されていました鶴里は鶴里村誌として纏められているようですが、web公開されていないため、詳細を知るには図書館に行くしかなさそうです石段左に真赤に燃え盛る火焔光背を持った不動明王と右に水神が祀られています年代は分かりませんが、中央の像は苔に包まれようとしています深い杜に包まれ鎮座する拝殿全景拝殿額はないけれど、鬼をはじめ瓦には金の文字が入る拝殿に接続する鞘殿静けさだけが漂う境内これを書いている頃、尾張旭市東部で猪が人を襲い、北海道ではヒグマが車に突進してきた報道が流れていた人里から離れ、樹々に包まれた神社に独り身を置くと良からぬ妄想を描く以前はそんな事気にもせず、藪漕ぎをしたこともありますが歳と共に臆病になったものです怪しい姿に出逢うことなく社頭に戻る金刀比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主命境内社 / 津島宮、水神例祭 / 3月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地稲荷神社 (鶴里町柿野)から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り、豊田、瀬戸・多治見の表示板で豊田方向に左折、県道13号線の2.3㌔先右側、約3分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.08
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前回掲載した銀幣社 白鳥神社から車で僅か1分程の距離にある妻木川の対岸に鎮座する稲荷神社に立ち寄りました白鳥神社から国道を西に向かい、一本目の道を左に入ると森の中に赤い奉納鳥居が連なる社頭が見えます参拝者用の駐車場はないため、通行の妨げにならない路肩に駐車することをお勧めします国道から左折すると写真の社頭が目に付くはずです社頭全景神明鳥居の右手に「稲荷神社」の社標(昭和30年10月寄進)と手水鉢があります鳥居をくぐると、稲荷の使い狐が鎮座していますその先には、奉納鳥居の連なる石段が山の奥へと伸びています柿野の里山にありながら、多くの鳥居が奉納されています最初の石段を上りきると写真のように平坦な境内が現れます手前の石標には「施主 上郷中」とあります・・・?鎮座地は現在鶴里町となっていますが、ここから少し北に妻木町上郷地区があり、以前はその一部に属していたことを示しているのかもしれません上郷地区の城山には土岐頼重が築城した妻木城址がありますが、その4代目頼照は妻木氏と称し代々居城したと云われ、万治元年(1658)に城は廃城となったようです常夜灯の先に覆屋が見えてきます左手の石標は明治44年(1911)に寄進されたもの当、稲荷神社について調べて見ましたが由緒等を知る手掛かりは得られませんでしたまた岐阜県神社庁の一覧に当神社は掲載されていなかった社頭の鳥居の寄進年が新しいので、創建時期は新しいものと思いましたが、「施主 上郷中」の石標やこの石標などから、創建は明治以前に遡るのかもしれません覆屋全景中には流造の本殿が祀られ、左に廿二夜塔が立てられています鶴里の田畑を見下ろす様に祀られる本殿祭神は定かではありませんが、恐らく倉稲魂命であろうと推測します廿二夜塔建立は明治34年(1901)と刻まれています稲荷神社社殿全景集落から離れていますが、綺麗に手入れされ、今も崇敬されているようです稲荷神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / ・・・例祭 / 不明所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野銀幣社 白鳥神社から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り一本目で左折、約1分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.06
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前回掲載した白鳥神社(柿野3660)から国道363号線を東進する事約5分程鶴里町交番の前に今回紹介する銀幣社 白鳥神社が鎮座します写真は鶴里町交番(右)と国道を挟んで白鳥神社社頭の眺めこの辺りは中馬街道の宿場として白鳥神社から東方にかけて集落が作られていたこの国道を直進すると明智方向へ伸びています国道から白鳥神社社地の眺めこの時期は源平咲きの梅が見頃を迎えていました社頭全景鳥居の先に二本の杉が聳え立っており、社殿は更に奥の山の裾野に鎮座します右の社号標は「郷社 白鳥神社」とあり、大正元年(1912)に寄進されたもの正面の石の明神鳥居も大正元年(1912)に寄進されたものでした鳥居の左に手水舎があり、右には百度石をはじめとする石碑が立てられています手水舎と手水鉢鉢の寄進年は読み取れなかったが、そこには金色の眼をした龍の姿があります右の石標左が百度石で他に記念碑が立てられています石段上り口の由緒「銀幣社白鳥神社鎮座地 土岐市端里町柿野字陣屋2262番地主祭神 日本武尊(小唯命)由緒創祀不詳、社伝によれば猿投神社の創建時に、 主祭神大唯命の弟君の日本武尊(小確命)を柿野に祀ったと伝えられているが、確証がないのて創建伝説とされている平安時代に制定された美濃国神明帳(977年頃) 「正五位下垣野明神」と記載され此の地の守護神として垣野明神が祀られていたこれが「柿野」の 地名の出自となっている依って10世紀前半の創建と推定されている柿野の産土神で明治6年(1875)に郷社と なり昭和28年に銀幣社に指定された末社熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例大祭建国記念祭 2月11日に近い日曜日初午・祈年祭 3月随時例大祭 10月第1日曜日新穀感謝祭 11月随時七五三詣り 11月随時」銀幣社があることから、瀬戸市から僅かばかり東に来ただけで、すでにここが岐阜県であることを実感します明治初期には、神社は県社、郷社、村社という格付けがされていました戦後には、全国の神社が一律に、平等に扱われることとなり、この制度は廃止されましたしかし、岐阜県では、社格が一律であることはおかしいと考え、金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類する、岐阜県固有の社格制度を導入しました境内全景右に社務所、その奥が農村舞台で正面の社殿と右側に境内社と射場があります今は使われていない農村舞台この舞台の建立時期などの詳細は分からなかった境内右の境内社と射場杉に包まれた斜面に社地を造り、三社が祀られていました右から白山神社、若宮神社、尺地神社この日は紅白の幕が張られていましたその向かいが垣野弓道場「柿」ではなく「垣」で表記されていました射場後方の斜面に蜜蜂の巣箱が設置されていましたこの辺りの神社の境内にはこうした巣箱が置かれているのをよく見かけます射場から左の社殿の眺め手前に樹齢を重ねた御神木と拝殿・幣殿・覆屋の社殿が見えます大きな瘤のある太い幹の少し上から、太い側枝に分かれ、上に伸びていますいかにも御神木らしい風格が漂います石段から拝殿の眺め拝殿前の狛犬(寄進年不明)はシンプルな造形の垂れ耳のものシンプルな意匠の社殿です岐阜県神社庁による当社の解説は以下の通りです「創祀未詳本國帳所載土岐郡七座の内垣野明神と称す里伝に曰く即ち本村当國土岐郡南方の山間に在りて三河國加茂郡と接す同郡猿枝山に鎮座の神は大碓命なり之れ当社に祭る神小碓命の御兄に坐せり故に当社は猿枝山同時に鎮座ありと云へり又、嘉吉2年(1442)11月葺き替えの棟札に武藤右衛門と記せり、其の頃の領主と見えたり何の所に居住人なるや知りがたし当社従来本村の産土神なり」創建について猿投神社と同時期に鎮座とあるが実際どうなんだろう嘉吉2年(1442)葺き替えの棟札までは間違いがないだろう、社頭の由緒にあるように伝説と捉えるべきだろう文中の「猿枝山」は恐らく猿投山の誤記と思われますここでも「垣野」の表記が現れた、現在の柿野になったのがいつ頃なのか気になってくる拝殿右側から覆屋方向の眺め覆屋右の境内社右から神明神社、杵築神社、熊野神社が祀られています覆屋左の境内社右から八幡神社、津島神社、猿投神社が祀られています覆屋の中の本殿は恐らく檜皮葺の一間社流造のように見えます拝殿の三面に廻り縁が付けられており、軒から一間向拝が迫り出しています拝殿から眺める手入れの行き届いた広い境内国道から車で直接境内に乗り入る事が出来そうです境内から鳥居の眺めです石段の前で鳥居の様に剪定された松が印象に残る常夜灯(1912)の前はかつて馬が行き交った中馬街道、旅の疲れは柿野温泉が癒してくれる銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例祭 / 10月10日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2240白鳥神社 (鶴里町柿野3660)から車アクセス / 白鳥神社から国道363号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.05
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鶴里 白鳥神社白岩 八王子神社から国道363号線を東進し、峠道の岐阜県境を越えると、視界が広がり、柿野町鶴里地内に到着します今回ご紹介する鶴里 白鳥神社は、国道沿いの左側に鎮座しています参拝者用の駐車スペースはありませんが、国道沿いには退避スペースがあり、そこに駐車することができます国道から眺める鶴里 白鳥神社の社頭です三国山の北嶺に位置し、三国の名が示すように、古くは尾張、三河、美濃の三国にまたがっていました中馬街道沿いの山間に僅かに開けた里に農地が広がり、田畑を取り巻くように民家が点在する長閑な場所に神社が鎮座しています社頭前の国道は、この先、三国茶屋を経て柿野温泉方向に続いています国道と並行するように社頭があり、右手に白鳥神社の社標(1981年寄進)と石の明神鳥居を構えていますまた、国道沿いに石仏群や小さな祠が祀られています社頭から見上げる境内は、山の斜面を何段かに整地し、鳥居から始まる長い参道が社殿に続きます鳥居の扁額は「白鳥神社」日本武尊(倭建命)が東国平定の帰途、伊吹山で大蛇の毒で息絶えた際、白鳥となって飛び去ったとされる白鳥信仰から始まったとされ、日本武尊を祀る神社です鳥居をくぐると目の前に石段常夜灯の先からまた一段上がると狛犬の姿があるその上に杉の木や広葉樹の杜に包まれた社殿がある上の境内から参拝に訪れる参拝者を見下ろすように狛犬が安置されています昭和14年(1939)に寄進された狛犬狛犬から左の石垣の前に、湧き水が注がれる手水鉢が置かれています鉢の寄進年は明確に読めませんが文政3年(1820)と刻まれ、多くの寄進者の名が刻まれています最後の石段を上がると、目の前に拝殿が迫ってきます岐阜県になると、由緒や創建を調べる資料も変わってきます取り敢えず、岐阜県神社庁から得られた結果として、鶴里町柿野には白鳥神社が二社鎮座していることが分かりました鶴里町柿野3660に鎮座する当社についての記述は、祭神と祭礼日のみでしたこれは、地史を見る必要がありますが、そこから得られた情報は後日、ここに書き加えることとして、先に進めます拝殿内から本殿方向の眺め本殿の造りは全く見る事が出来ません祀られているのが倭建命一柱だけとは思えない大きな扉です社殿全景入母屋平入の拝殿に切妻の幣殿と覆屋がひとつに繋がっています覆屋の左の境内社「氏神 ?山宮」と彫られていますが、?の部分が読めなかった覆屋の右の境内社三社を収めており、社の右に社名の書かれた木札がありましたが不鮮明で読めなかった当社の西側に雨沢公民館がありますが、そちらで何か情報が得られるかもしれません右にあるのは養蜂箱なので、迂闊に近づいたり触らないのが賢明以上が鶴里 白鳥神社となります狛犬が見守る広い境内と社頭の眺め参拝を終え国道から社頭と道路脇の石仏群を眺める聖観音像とと祠の中に祀られる馬頭観音像祠から右手の石仏群国道沿いや中馬街道沿いではこうした馬頭観音の姿をよく見かけます一番右外れの祠の左に石碑は「村中安全 薬師如来」、右手の社は不明ですが、左側に「庚」と彫られた鬼瓦が置かれており、現在の祠の形になる前は瓦葺の庚申堂だったようです国道南側から田植えを前にした田園と、この地を見守る白鳥神社の社叢の眺め正面の二本の大きな杉が社殿の場所を示しています、ここで久し振りにカエルの鳴き声を聞きました社頭の前が「予約相乗りタクシーのってこ」柿野線の「雨沢公民館」停留所になっていました路線図利用方法はこちら鶴里 白鳥神社創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 不明社4社例祭 / 11月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3660白岩 八王子神社から車アクセス / 八王子神社から国道353号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.02
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4月18日、瀬戸方面の岩巣山の北嶺の神社を回ってきましたこの時期は街から離れた清々しい光景が広がる郊外の神社巡りが気分がいいこの日天気は悪くなかったが、黄砂の影響から曇天のような空模様でした若葉が芽吹きだした山々の緑も精彩に欠けていました名古屋から約一時間程瀬戸市東部の白岩町に到着写真は山間を縫うように明智方向へ続く国道363号線の白岩地内の光景今回の目的地白岩町の八王子神社は、瀬戸市コミュニティバス片草線の白岩町バス停の北側に社頭を構えていますバス停から八王子神社社頭の眺め白岩町は古くはしら岩郷と呼ばれ、江戸時代は尾張国春日井郡の尾張藩領の白岩村で、後に東春日井郡白岩村となり、上品野村、品野村と編入・合併を経て現在は瀬戸市白岩町であるこの国道沿いには中馬街道の解説を多く見かけます古くは中山道・下街道の脇往還道として東濃と瀬戸を経て名古屋を結ぶ信州飯田街道と呼ばれ、馬で塩や物資が運ばれ、中馬街道とも呼ばれています麓の品野は馬継地として栄え、馬継地から白岩町北側の山間に続く道は、坂瀬坂と呼ばれ九十九折れの厳しい道が続き雨沢峠に伸びており文化庁歴史の道100選のひとつになっています現在は山間を縫うように国道363号線が明智方向へ続いています社頭右側の表忠碑国道沿いの斜面から境内に続く石段が上に伸びており、石段の先には社殿が覗いている白岩町 八王子神社について明治24年(1891)の地図には既に鳥居の印が記載されており、神社について調べて見ると創建は正保元年(1644)以前とされ、祭神は須佐之男命と天照大神との誓約で誕生した五男三女神を祀つる、瀬戸市白岩集落の氏神様である神社庁の解説によれば例祭は10月第4日曜日とあった神仏習合色の残る神社というのが訪れた感想です石段中ほどで階段は途切れ踊り場となっており、左側に行者堂と石仏群が安置されています三方は石が積まれ、大きな一枚岩を上に乗せて作られた石祠祠内には明和7年(1770)の銘が刻まれた役行者の石像が安置されています石段脇に5体の石仏があります銘文は確認していませんが、その佇まいから古い年代を感じますここから再び石段がはじまります石段を上りきると目の前に拝殿が見えますその先の山の斜面には石垣が組まれ社地が造られており、そこに社殿が建てられています石段左の手水鉢すぐ下の国道を時折通り過ぎるトラックやバイクの音が漏れてくるが、杉の杜に包まれた境内は静寂に包まれている境内左から社地全景右の舞殿と石段上の拝殿、本殿が主な建物で、本殿左に境内社が祀られています舞殿から本殿方向の眺め舞殿は入母屋妻入りで桁行2間、梁間一間の瓦葺屋根のもの石段入口から拝殿の眺め高く積まれた石垣は左右で積み方や使われる石が違う様に見える拝殿前に一対の常夜灯がありますが狛犬の姿はないようです拝殿と本殿側面全景拝殿から本殿の眺め本殿の前に二対の小さな狛犬の姿があった流造の本殿の左側には社名が不明な境内社があり、本殿の右側にも境内社が存在します境内左の斜面に赤い社が祀られています社名札はありませんが白い狐の姿があるので稲荷社のようです拝殿から下の境内の眺めこうして見下ろすと石垣の高さも伝わるだろうか手前の常夜灯は大正2年(1913)に寄進されたものでした舞殿から石段方向眺め6本の柱で瓦屋根を支えています境内から社頭を見下ろす油断すると痛い目に合いそうな石段です、手摺がありがたい石段途中から南の岩巣山方向の眺め3月28日にこの道を走りましたが、その時と比べて山々の樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました八王子神社創建 / 不明祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 白岩町所在地 / 瀬戸市白岩町385深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 名古屋市役所から車で約1時間 公共交通機関 / 瀬戸市コミュニティバス しなのバスセンターから瀬戸市コミュニティバス片草線で白岩町バス停降車参拝日 / 2024/04/18関連記事 / 今回移動ルート
2024.05.01
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深見郷 富士浅間神社から国道419号線を藤岡小原方面に進み、飯野地内の信号で右折、100㍍程直進した左側に飯野 秋葉神社の社頭に着きます深見郷 富士浅間神社からだと、車の場合は移動時間5分程、距離にして1.5㎞ほどの飯野町坂口に鎮座します飯野 秋葉神社社頭鳥居の先には農村舞台があり、舞台の先に社殿が見えます鳥居から舞台と秋葉神社社殿の眺め石段右に大正7年(1918)に寄進された秋葉神社社標が立てられています秋葉神社解説「十二等級 秋葉神社 旧指定村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字飯野字坂口887番地祭神 迦具土命、大名持命、少彦名命由緒 社伝に、享保6年(1721)遠州秋葉山より勧請し、火防の神として氏子の崇敬あつく、また豪者 義民飯野八兵衛深く信仰するとあります明治6年(1873)、無挌社として据置公許となる同44年(1911)、字仲ノ下、無挌社御嶽神社を本社に合祀した大正10年(1921)、村社に列挌同11年10月24日供進指定社となった 藤岡町観光協会」この由緒に追記できそうな情報は以下愛知県神社庁 「氏子域藤岡飯野町、例祭日10月第3日曜日3」西加茂郡誌に飯野 秋葉神社は記載されていたが創建は未詳とされていました舞台斜景深見 農村舞台同様の造りで、入母屋平入で、屋根は瓦葺で入母屋屋根に裳階が付く舞台鳥居側から見る間口は四間、これまで見てきた舞台の中では広い間口で社殿も一望できる舞台斜景舞台は明治28年(1895)に建立され、現在までに幾度か補修されていますが、全体としてはしっかりとした構造を保っています一本の長い梁が瓦葺の屋根を支えています舞台屋根裏の眺め、もとは茅葺だったと思われます境内から社頭の眺め例祭時には飯野棒の手保存会による見当流棒の手、献馬、神輿、祇園山車、餅投げなどの奉納が行われ、この広い境内も人で溢れるのだろう境内全景左に手水舎、社務所があり、中央に祭文殿、本殿域で、右側に境内社が纏められています祭文殿と本殿域祭文殿正面からの眺め祭文殿前を守護する狛犬梁間一間、桁行二間の切妻造で四方吹き抜けのもの本殿域全景正面の神門は透塀と一体となり、側面と後方は築地塀が本殿域を囲んでいます現在の社殿の状態について、具体的な修復時期は不明ですが、全体としては傷みも少なく、美しい印象を与えるものとなっています神門の羽団扇格子扉から見る本殿その構造は詳しくは分からないが、本殿前の陶製と思われる小さな狛犬がこちらを見つめている透塀から本殿の眺め棟持柱も良く見える神明造りで一間向拝が付く大きな本殿で、6本の鰹木と外削ぎの千木が付く豪者 飯野八兵衛が崇敬したとされる迦具土命、大名持命(大国主)、少彦名命の三柱を祀る本殿右の境内社左の二社は左から蚕霊社と御嶽社その右に石の社が祀られていますが社名は分からなかった右手の覆屋の下に左から砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社の四社が祀られています社務所左の手水舎境内西側から舞台の眺めここから左の社地西外れに飯野八兵衛碑が立てられています飯野八兵衛碑右手の解説の内容は以下「義人追慕飯野八兵衛は、享保11年(1728)三州飯野村で生まれた母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わったその頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だったけれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1.241人の中より305人を引き連れ、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった江戸に於ける彼の活動は凄まじかった恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げ、その上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れたかくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についたこの時27才、まさに巨星落ちるの感があった犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである」当時は地方の実情を伝えるためには、死を覚悟しなければならない時代でしたそう思うと、今は容易にSNSなどで声を伝えることができる時代は変わり、地方の声を伝えに向かわせた代表は、志を忘れ私利私欲に走る愚策や愚行に対して庶民が声を上げ続ける事は必要な事だ飯野 秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社所在地 / 豊田市藤岡飯野町坂口887深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 国道419号線を、移動時間約4分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂・深見郷 富士浅間神社
2024.04.30
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深見 磯崎神社から国道419号線深見細田交差点に戻り、信号を左折して200㍍程先の左側に深見郷 富士浅間神社の社頭があります深見町広表地内の西外れに位置し、国道西側の山の尾根に社殿を構えています国道から見る社頭歩道から尾根に続く参道があり、入口右側に平成20年に寄進された「深見郷 富士浅間神社」の社標があります歩道から鳥居の姿が見えており、その奥に社殿が建てられています参道から見る社地石段脇は草木が迫り鬱蒼とした社地を想像するかもしれないしかし上まで登ると意外に開けた明るい社地が広がっています木造明神鳥居小高い山の尾根を整地し、綺麗に手入れされた明るい境内に木造明神鳥居と覆屋が建てられています鳥居から覆屋の間に二対の常夜灯があり手前の常夜灯は昭和17年(1942)寄進、奥のものは平成17年(2005)に寄進されたもの参道右側の手水鉢覆屋全景切妻妻入りの奥に長い覆屋で、入側に「深見郷 富士浅間神社」の白い幟が立てられています覆屋の下の本殿と左脇の境内社の眺め本殿両脇にも一対の常夜灯があり、合計で三対の常夜灯がある覆い屋の左には境内社を祀った覆屋があります社名から推測すると富士山本宮浅間大社から勧請され、祭神は木花之佐久夜毘売命ではないかと思われます本殿はコンクリート製の流造創建時期を推測できるものとして、社標をはじめとした寄進物の寄進年度に昭和以前のものが見られなかったこと、覆屋の棟札に「平成15年10月吉日拝殿建設」とありました神社に由緒がなく、大正時代に出版された三河郡誌の「郡内神社一覧」や愛知県神社庁にも目を通すが社名や創建・由緒等の詳細は分からなかった左の覆屋に天神様と不明社、その左に石の社が祀られています広表の西外れの高台から、東方の広表集落を見守るように富士浅間神社が鎮座しています深見郷 富士浅間神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 天神様、不明社2社所在地 / 豊田市深見町広表深見 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を左折、深見細田交差点を過ぎた200㍍左側、移動時間約4分程 (社頭左に駐車余地がありました)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂
2024.04.26
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迫町にある磯崎神社から猿投山東麗の国道419号線を南下し、深見町大屋に鎮座する深見磯崎神社へ向かいます迫磯崎神社から国道419号線を南下します。深見細田交差点に到着したら右折し、そこから約1キロメートル直進します。その後、右手に神社の社頭が見えてきます。移動距離は約3キロメートルで、車を利用すれば10分程度で到着できるでしょう社頭の眺めほぼ南を向いて社頭を構え、右に大正12年寄進の「磯崎神社」社標が立てられています境内は南側は大きな杉が聳えたっており、鳥居から先の社殿は見えずらいかも知れません駐車場はこの社頭の左側に小道が伸びており、その先に駐車余地があります写真は駐車場から社頭方向の眺め中央の建物が迫 磯崎神社で教えて頂いた深見 農村舞台になりますここから境内に向かえますが、まずは鳥居に向かいます社頭全景右に社標と一対の常夜灯、明神鳥居からはじまる杉並木の先に社殿が見えます鳥居扁額は「磯崎神社」迫地区からほんの少し離れた深見地区にも同名の神社が鎮座するので困惑するかもしれません参道を進んだ左の手水舎右手に見えている建物は深見農村舞台となります参拝当日は手水鉢に清水は張られておらず、龍も手持無沙汰な様子でした舞台から社殿の眺め舞台と社殿の間には広々とした境内があります舞台側面に令和5年度の深見農村舞台のプログラムが貼られていました昨年は10月7日に開催され、鑑賞には入場チケットが必要なようです舞台斜景入母屋平入で舞台正面には一本の柱もない深見農村舞台の建立は棟札から明治34年(1901)とされます岩倉神社の舞台同様、床面に直径約5.5㍍の回り舞台を備えたもので、昭和62年(1987)に屋根を主とした修復工事が行われたものが現在の姿舞台は茅葺屋根で庇が瓦葺のもので、その屋根を太い梁が支えている今も現役の回り舞台舞台正面の眺め10月にはこの広い境内に観客が集い、神さまと共に農村歌舞伎を楽しむ自分自身農村歌舞伎を見た事がないので一度は訪れて鑑賞したいものです農村舞台から境内全景を眺める広い境内奥の高みの特等席に社殿が築かれ、中央に磯崎神社社殿、右側に薬師堂が建てられており、先に訪れた迫の磯崎神社と深見磯崎神社は配置は異なりますが共通するものがあるまず、深見磯崎神社参拝の前に、原点とも言える社殿の右側にある薬師堂から始めます元亀元年(1570年)に建立されたとされる棟札が残っており、慈覚大師作の薬師瑠璃光如来像が祀られていますこの像は東方薬師如来と呼ばれ、猿投神社東ノ宮の薬師領に安置されていたものが移祠されました磯崎神社が建立されるまでは、産土神や医薬延命の守護として崇められ、昭和初期までは住職も在住していました現在は地区が清掃と月祀りを受け継ぎ、旧暦の10月8日には薬師祭が営まれています堂の扉は普段は閉じられていますが、堂内の須弥壇には本尊、脇侍の日光・月光菩薩、十二神将像、西側の祭壇には本尊の阿弥陀如来像、脇侍の善導大師、法前上人が祀られているそうですやはりこの辺りにあって、御神体の猿投山と猿投神社には所縁があり、深見 磯崎神社が猿投神社東峯の東ノ宮の薬師如来を祀る東方薬師と云う事だと、西峯の西ノ宮の観世音菩薩を遷した社寺もあると云う事だろうかこれまで低山トレッキングの通過点として猿投神社や猿投山を訪れてきましたが、最終的には参拝目的で御神体の猿投山と猿投神社を訪れることになりますそれは猿投山をぐるっと一周廻り終えてからのことになるだろう拝殿正面全景石段手前には一対の狛犬と解説が立てられています「十四等級 磯崎神社 旧村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字深見字大屋38番地祭神 大己貴命、少彦名命由緒 この地深見郷は武田王の後裔武田氏の居住した所 社家武田氏社僧、神宮寺あり 元亀元年(1570)名僧慈覚大師作の薬師如来の像を祀る 江戸時代には里山産土神と崇め奉る医薬延命守護として信仰を集めた 明治の制度改めにより薬師如来を廃し、明治6年祭神を改め、同8年11月社殿建立し磯崎神社となる 同年村社に列格例祭日 10月第1日曜日社殿 本殿13坪、拝殿21.33坪、小宮2.08坪、舞台30坪境内坪数 1090坪 藤岡町観光協会」解説の他に西加茂郡誌、愛知県神社庁から得られたものを下に追記します 大正15年出版の西加茂郡誌 「氏子数56戸、例祭 献馬・棒の手」愛知県神社庁では「例祭 10月第2日曜日、氏子地域 深見町」の記載があった深見自治区地域誌の深見磯崎神社紹介から抜粋した内容は以下「明治6年(1873)の改号に際し茨城県大洗磯前神社より勧請 境内社 洲原社、伊勢社、岩津社、山之神社、市杵島社、鎮守社、琴平社む、蚕霊社、秋葉社、 天王社、常夜灯社」が祀られている祭神大己貴命 (大国主命) 国土開発、殖産、医療などの知識・文化を授け、縁結び、子授け、夫婦和合、五穀豊穣、養蚕守護 医療、病気平癒、産業開発 交通・航海守護、商売繁盛など御利益がある少彦名命(本医薬の祖神) 医療の知識や農耕の技術を広め、温泉を発見し、酒の作り方を伝え、国家安泰、病気平癒、健康祈願 農業技術、商売繁盛、旅行・交通安全など御利益がある境内社洲原社 豊作、厄除け、夫婦和合、子授け伊勢社 神宮より天照大御神を勧請岩津社 学問、病気平癒、厄除け、縁結び、安産山之神社 入退山時の無事、山の恵み市杵島社(通称弁財天)金財運、知恵、長寿、芸能鎮守社 氏神琴平社 金運、縁結び、商売繁盛、健康蚕霊社 養蚕守護天王社 除疫常夜燈社 村中の安全・秋葉社の付属的なもの秋葉社 防火社殿は明治8年(1875)建立、平成6年(1994)現在の社殿を造営」と記載されていました拝殿前の石段入口を守護する狛犬石段から拝殿の眺め拝殿額は「磯崎神社」、神門は左三つ巴だろうか拝殿左の境内社正面の覆屋には6社、覆屋左に1社祀られています左から常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社 天王社拝殿右の二社左が山之神社、岩津社これで境内社全て参拝したはずですが、地域誌にある境内社の洲原社、伊勢社が見当たらないどこかで見落としているのかもしれません境内左の社務所側から社殿全景切妻妻入りの拝殿と切妻平入の鞘殿が一体となったもの訪れた時はピンクの八重桜が見頃を迎えていました深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社、天王社、山之神社、岩津社所在地 / 豊田市深見町大屋38津島神社・二十三夜塔から車アクセス / 国道419号線を南下深見細田交差点右折、直進1km先の右側、移動時間約5分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)
2024.04.25
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迫 磯崎神社から引き返し迫八反田交差点を右折、国道を150㍍程進んだ緩い上り坂の右側に雑木林の中に今回の目的地「津島神社・二十三夜塔」が鎮座します所在地では豊田市迫町石田となります写真は国道から迫八反田交差点方向の眺め、目的地は左側の斜面を登り切った先になります国道沿いには駐車余地がありません私は迫 磯崎神社に車を置き、田んぼの中を10分程歩いて訪れました歩道から見る津島神社に続く小路鳥居や社標がないのでこの小路を目印にするしかない歩道から少し上れば樹々が伐採された小高い丘になり、左奥に神社が鎮座します津島神社・二十三夜塔鎮座地全景左が津島神社の覆屋で少し離れた右側に二十三夜塔が立てられています迫町石田の津島神社には創建や由緒を記した掲示物はありません愛知県神社庁にもその詳細は存在せず、過去の地図にもここに鳥居の印を見付けることはできませんしたがって、具体的な事柄は何一つ分からない状況ですただし、過去に遡ることができる唯一の手がかりは、覆屋の前に立てられている平成15年(2003)に奉納された幟立てぐらいで、これが創建時期とは言えないだろう次を担う土地の子が好奇心から訪れる事もあるだろうそうした世代が見て、神社が祀られた経緯や歴史が分かるようになっていると、肝試し的な対象ではなく、身近な存在として感じられるのだろう社殿全景、今も人が訪れているようです祭神は素戔嗚尊だと思われます覆屋の軒下に「津島神社」と記された素木の額が掛けられている左が二十三夜塔月待ち講は特定の月齢の日に信者が集まり、飲食や会話を交えながらお経を唱え、悪疫退散を願う自然崇拝の一種で、旧暦の二十三夜塔以外にも十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などあり、講を通じてお互いのコミュニケーションを深める役割も果たしている昭和の時代でも地域住民のコミュニケーションを図る助け合い「隣組」などあり、冠婚葬祭時には地域で支え合う習慣が存在していましたしかし、それらも近隣との付き合いが希薄となった都市部では、ほぼ姿を消してしまったのではないだろうかこうしたコミュニティは地方や田舎では今も存在している場所もあります右の石碑は文字が刻まれているが読み取れなかった小高い丘にひっそり佇む津島神社・二十三夜塔を眺める神社に続くなだらかな尾根適度に雑木が伐採されているので、社地には陽光も差し込み歩きやすい歩道から上り切った先から国道419号線方向の眺め樹々が芽吹いたとしても歩道からこの参道は分かりやすいかもしれない津島神社・二十三夜塔創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 豊田市迫町石田692迫 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を右折し150㍍ほど先の右側、移動時間約2分程 (駐車余地なし)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社
2024.04.24
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迫町 磯崎神社猿投山東麗の豊田市迫町下切に位置し、古くは高橋荘深見郷(西中山、上渡合、深見、田茂平、迫、飯野、北一色、石飛、折平、北曽木、西市野々)に属していた古くからの集落、迫(さこ)に鎮座する神社金剛寺からだと、県道350号線を南下し飯野町の交差点で右折、迫八反田交差点を右折、道なりに直進した右側に社頭が現れます写真は車道から見た社頭車は鳥居の先を右に入った境内に駐車できます磯崎神社社頭全景一対の常夜灯と鳥居、右側の赤い屋根の建物が迫の農村舞台車道から境内の眺め石段右に社標と農村舞台、正面の石段を上った先が社殿石段右の解説「十四等級 磯崎神社 旧村社 鎮座地 豊田市迫町下切237番地 祭神 大己貴命、少彦名命 由緒 社伝に、元亀元年(1570)、猿投大明神 東宮の本地仏薬師如来を祀るとあります 年の変遷により産土神と崇め奉られました 明治の制度改めにより廃却となり、社殿を造営し常陸国大洗磯前 酒列磯前神社にならい、磯崎神社と改号 明治8年(1875)11月、村社に列格 例祭日 10月第2日曜日 社殿 本殿 折屋根造 0.22坪、覆殿 2.25坪、拝殿 4坪、舞殿 17.5坪 特殊神事 (神賑行事)飾献馬、棒の手、火縄銃、御輿、餅投、お囃 境内坪数 233坪 藤岡観光協会」因みに大正15年発行の西加茂郡誌に迫磯崎神社として記述が残っていたが解説程の内容ではなかった併せて愛知県神社庁を見てみたが祭神・例祭しか記されていなかった鳥居から社叢の眺め鳥居扁額は「磯崎神社」酒列磯前神社は茨城県ひたちなか市に鎮座する古社ですそこから遠く離れた猿投山の麓の迫地区とすぐ隣の深見地区に同じ磯崎神社が祀られたのか興味深い豊作祈願や神事の余興として農村歌舞伎などが演じられ、楽しみの少ない村々の住民とって、唯一の娯楽の場として造られた現在藤岡地内に残る農村舞台は9棟ほどに減少し、農村歌舞伎の後継者難などから農村舞台は姿を消しつつあるこの迫地区の農村舞台も農村歌舞伎の継承が途切れてしまい、現在は舞台だけが残る藤岡地区の案内によれば、この舞台は明治24年(1891)に建築されたもののようです外観は入母屋造で平側6間、妻側4間の茅葺屋根を鋼板で覆ったもの正面から見る舞台は、隅柱に1本の長い梁を渡し、間に柱を入れる事無く屋根を支え、広い間口が造られています一本ものの無垢の太い梁が大きな屋根を支えている隅柱から舞台の眺め久しく使われていないのを裏付けるように床板は光沢を失っています小屋組縦横に組まれた竹と露わになった萱は、造形美の美しさすら感じられますしかし、現代では萱の調達や葺き替えも難しくなり、こうした光景も見る機会がなくなってきました境内左に棒の手顕彰碑地元の方から声掛けを頂き、少しお話を聞いたなかで、現在は「歌舞伎は行われておらず、祭礼の日に棒の手と火縄銃の空打ちの披露」が行われていると云う事「ここから少し南の深見地区に鎮座する磯崎神社の農村舞台は、回り舞台もあり今も現役」と教えて頂いたかつては住民が集い農村歌舞伎を楽しんだこの境内、今では広々とした空間として感じられます深見地区の農村舞台は田畑の先に見える森の南側、車で5分程の深見 磯崎神社境内にあります石段の前から社殿全景の眺め、石段左の石碑は殉国戦士之碑石段で守護する一対の狛犬と拝殿迫 磯崎神社の狛犬(寄進年未確認)拝殿と本殿覆屋の眺め、覆屋後方に見える建物は薬師堂瓦葺の四方吹き抜けの妻入り拝殿で、拝殿内に「大洗磯前神社」の額が掛けられています拝殿から本殿の眺めよく見れば拝殿奥の隅柱に祭神名が記されていました左が「迫大磯神社相殿 秋葉大神」、右の隅柱には「「迫大磯神社相殿 津島大神」とある覆屋の柱にも由緒が書かれた板が張られていましたが、最初の書き出しから先は板の表面が剥落して内容が分からなくなっていました本殿は折屋根造解説から祭神は大己貴命、少彦名命拝殿左の境内社6社を収める覆屋右から神明社 祭神 天照大御神 日本の守護神御鍬社 祭神 豊宇気毘売神 衣食住の守護神稲荷神 祭神 宇賀之御魂神 稲作物、食料、商売の守護神右から天神社 祭神 管原道真公 学問の神金毘羅社 祭神 大物主命 福徳円満、航海安全洲原社 祭神 白山姫命 暮らし、各種円満迫 磯崎神社社殿全景大棟には鯱、軒先の飾り瓦に獅子と牡丹?が飾られていますなんだか神仏習合の名残が漂う光景です後方の薬師堂と迫 磯崎神社社殿全景無理に神仏分離した様にも見えず、薬師堂と神社が自然に鎮座しています薬師堂と書いていますが、現地にそれを示す掲示物はありません詳細は不明、鬼瓦に薬師の文字が入っているため薬師堂としています入母屋瓦葺の妻入りの堂は向拝や手挟に細かな彫が施されています薬師堂のシックな妻壁と向拝の装飾向拝の装飾宝珠を掴んだ龍の姿と鰐口の前の梁には錫杖のような彫が施されています額には「醫王閣」とある、醫王は薬師如来の異称、薬師如来を祀る建物ということだろう手挟の彫飾りと木鼻の獏と獅子機械加工が発達した現在、手挟に施されたような彫や更に緻密に彫られた透彫りなど、今も職人の手仕事しか作れないもの…と思いたい3Dスキャンでボタン一押しで出来てしまうなら、技術の継承ではなく操作の習得でしかないそうしてできたものは妙に味気なく思えてならない、そんな日もやがて訪れるのだろう拝殿から舞台の残る境内の眺めさて、転がり落ちないように降りるとするか境内から深見 磯崎神社方向の眺め本来はここから右を進んだ先の神社にも行きたかったが、ここから先は幅員も狭くなり小回りの利かない車では厄介なので、日を改めて軽で訪れる事にして、もう一つの磯崎神社に向かいます磯崎神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 神明社、稲荷社、御鍬社、天神社、金毘羅社、洲原社薬師堂創建 / 元亀元年(1570)本尊 / 薬師如来所在地 / 豊田市迫町下切237氏子地域 / 迫町例祭日 / 10月14日金剛寺から迫磯崎神社まで車アクセス / 県道350号線を南下、飯野町の交差点を右折、迫八反田交差点を右折し道なりに直進、移動時間5分程参拝日 / 2024/04/06関連記事・金剛寺枝垂れ桜 出遅れてしまった
2024.04.23
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前回掲載した折平町八柱神社を後にして、今回は北曽木町に鎮座する八柱神社を掲載します折平町から県道353号線を北上し、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停を過ぎた左側の高みに北曽木町の八柱神社は鎮座します折平町の北に隣接する北曽木地区のほぼ中央の折平山東麗に位置し、農地を取り囲む様に集落が点在しています集落と農地を見守るような高台に北曽木 八柱神社は社頭を構えています南東向きに社頭は、左の社務所脇から石段が上に続き、右手に常夜灯が立てられています社頭前の道路は幅員の狭い生活道路なので路上駐車は出来ません社頭前に火の見櫓が立っており、その脇に小型車2台ほどの駐車余地がありそちらに駐車させてもらいました石段右に社標と由緒が立てられており、由緒の内容は以下「十五等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市北曽木町片平232番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命由緒 創建は明らかではない社蔵の棟札に奉修理 八王子遷宮 武田金右エ門経定享保18年丑年(1733)11月吉日とある北曽木の氏神として村民の崇敬あつい明治5年(1872)10月村社に列格境内社の創建津島社は安政4年(1857)太神宮は慶応4年(1868)9月山神社は文政2年(1819)2月例祭日 10月第一土曜日社殿 本殿 流造、0.25坪 覆殿 2.25坪 幣殿 2.25坪 拝殿 12.5坪 社務所 12坪 参集所 8.75坪境内坪数 174坪 藤岡観光協会 」と記されている以前も書きましたが、この辺りの神社は概ねこうした由緒が整備され初めて訪れた者にはとてもありがたい西加茂郡誌に目を通しましたが、上の内容以上の記述は見られなかった社頭左の社務所・参集所をはじめとし、近年再建され綺麗な社殿に生まれ変わっています鳥居全景昭和2年(1927)寄進の明神鳥居昭和2年寄進の明神鳥居ここから緩やかな石段が境内に続いています鳥居扁額は「八柱神社」この辺りは各地区ごとに八柱神社が祀られているのか実に多い、これを全て廻るのも面白い石段の左の石の社文字が刻まれていましたが読み取れなかった社頭を振り返る正面に見えている道路が県道なので火の見櫓と鳥居が目印になるかな境内の全景折平町の八柱神社を思わせるような高い石垣と白壁が眩しい社殿社殿両脇には境内社が祀られているこの光景も折平町の八柱神社を思わせる拝所全景再建が何年前か定かではないが、今でも木の香りが漂ってくるようだ掲げられている額も新調されたものだろう斜めから見る社殿全景長い庇の下が拝所で社殿そのものが鞘殿・幣殿を兼ねたモダンな外観内部には流造の本殿が祀られており、脇障子の前にはここまで見かけなかった狛犬の姿がある小型の陶製狛犬で頭には角も生えているようだ鞘殿左の境内社左が秋葉神社、右が安政4年(1857)創建の津島社鞘殿右の境内社左の覆屋には左が文政2年(1819)創建の山神社、右が天照皇大神宮とあるが慶応4年(1868)創建の太神宮と思われます右は稲荷社こちらは近隣から遷座されたものか、創建などは不明拝所から眺めた境内境内は社殿を除いても広い面積があり、特に右手方向が広く、農村舞台でも建っていたのではと勘繰りたくなる脱線しますが先日、迫町下切町の立派な農村舞台が残る磯崎神社を訪れ、地元の方から農村舞台についてお話を伺う機会があったその中で「農村歌舞伎を継ぐ後継者がなく、立派な舞台が建つ広い敷地では10月に棒の手と火縄銃の空打ちが行われ、歌舞伎は途絶えてしまった」と伺った今でもしっかりした木材で造られた舞台も維持に手が回らず、役割を終えやがて朽ち果て姿を消す事になる八柱神社の境内の広さはそうした名残なのかと思いたくなる受け継がれてきたものが途絶えると云うのは寂しい限り、しかしそれも時代の流れなんだろうねぇ境内東側からモダンな社殿の眺め境内右から樹々に包まれた白いモダンな社殿の眺め、別荘的な雰囲気が漂う社殿の外観ですこの道は社頭まで続いていますが、恐らく祭礼時の資材搬入用で農道のフェラーリ専用道参拝目的で乗り入れるのはやめた方が無難だろうこのまま社頭まで下りていく社頭から北曽木町の眺め常夜灯は明治22年(1889)の先人達が寄進したもの今回、猿投神社が鎮座する猿投山の東麗を走り飯盛山のカタクリを目指しました道すがらの集落には古くから護られてきた農村舞台や社寺などあり、興味深い土地柄でした北曽木 八柱神社創建 / 享保18年(1733)八王子遷宮の棟札祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 秋葉神社、津島神社、天照皇大神宮、山神社、稲荷社所在地 / 豊田市北曽木町片平232氏子地域 / 北曽木町例祭日 / 10月第1土曜日八柱神社(折平町)から八柱神社(北曽木町)まで車アクセス / 県道353号線北上直進、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停の先を左折 車移動時間約5分・1.5㌔参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社(折平町)・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.19
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前回掲載した上渡合町に鎮座する八柱神社から、車で県道33号線を北上、折平町地内で県道353号線へ右手の田んぼの中のこんもりとした杜が今回の目的地折平町の八柱神社になります移動時間は5分もかからないでしょう県道33号線から県道353号線に入りそこから東方向の上渡合の八柱神社方向を眺める飯野川沿いに開けた傾斜地に田んぼが広がり、ここから西側は折平山が迫っている八柱神社(折平町)の社地全景を東から眺める農地の中心に神社が鎮座し、古くからの集落は山側に集まっている社頭は南東向きに鳥居を構え、社殿はお椀を伏せた様な杜に包まれています杜は数本の杉の巨木と広葉樹で形作られ、桜の樹も見られます社地の盛り上がり具合は古墳をイメージさせるものがあります社頭の眺め一対の常夜灯と右にある村社八柱神社の社号標は大正9年(1920)寄進されたものでした石の明神鳥居から境内に入ると左に舞台らしき建物があり、社殿は城壁を思わせる高い石垣の上に建てられています社頭右にこの辺りではお馴染みの由緒書きが立てられています「十ニ等級 八柱神社 旧指定村社鎮座地 豊田市折平町姓敷329番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 元亀年中(1570-1573)の勧請には安政5午年(1858)、棟札に創建は貞享3丙寅年(1886)と記されている 古来は若宮八王子社と称した 明治5年(1872)9月村社に列する 昭和15年(1940)7月7日、社殿改修、社務所新築 同16年10月6日指定社となる 境内社の山神社は天福元巳年(1233)2月7日、琴平社は天保10巳亥年(1839)3月10日と棟札に記されている」西加茂郡誌に目を通す、折平八柱神社の記載はあったが祭神以外は記されていなかった鳥居の寄進年も大正9年(1920)寄進されたもの鳥居額は八柱神社社殿正面全景見上げるばかりの石垣と社殿に続く石段、上り口に一対の狛犬と手水鉢が置かれています手水鉢には配管から手水が注がれるようですが生憎と注がれていなかった石段前の狛犬は標準的なもの(年代未確認)入口から見上げる神門と拝殿神門と拝殿に架けられている額はどちらも八柱神社とあり、劣化もないことから近年改修を受けたのかもしれない社殿全景切妻妻入りで向拝を持つ拝殿と切妻平入の鞘殿がひとつに繋がったもので、鞘殿には千木と鰹木が付く拝殿の鬼には八柱の社名が入る大きな拝殿額拝殿や鞘殿は虚飾を廃したシンブルな外観ですガラス越しに見た本殿、造までは分からなかった祭神は天照大神と須佐之男命の誓約により生まれた五男三女神です鞘殿左の境内社由緒にあった琴平社や山神社はここに祀られている左から津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社の七社相殿琴平社はともかく、山神社が二社祀られてる、どちらが由緒にあるものだろうか相殿の左に一社だけ離れて祀られている石の社文字が刻まれているのだが全く読めない、これが由緒にある天福元巳年(1233)の山神社だろうかもともとこれらは神社合祀令にともない、集落に点在していたものが八柱神社に纏められたものと思われます神門から見下ろす境内右手の建物の用途が良く分からなかった農村舞台が多いこの辺り、これも農村舞台?と思いたくなるまるで城壁ここから西側の県道を越えた、折平山の東麓から続く尾根の高みには戦国時代に築かれた折平城址があるというその一帯の地名が折平町中屋敷、地名から嘗てこの辺りを収めていた豪族の居館があったことが偲ばれる三河志の折平城の項目には城主不明の記述だけで、築城年・築城主は不明社地西側に集会所のある広場と隣接しており、社地の斜面に殉国の碑が立てられています殉国の碑の先でどっしり聳える樹齢200年を越えるツブラジイの巨木太い幹は途中から二つに分かれ、そこから更に大きく枝を広げている樹高は目測15㍍以上あり、幹回りは約3.6㍍と見事な樹で、豊田市の名木に指定されている八柱神社創建 / 貞享3年(1886) 棟札の記録祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社、不明社所在地 / 豊田市折平町姓敷329氏子地域 / 豊田市折平町例祭日 / 10月第4日曜日上渡合八柱神社から折平八柱神社まで車アクセス / 県道33号線北上し県道353号線に入り右側5分以内参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.18
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前回掲載した金剛寺や藤岡神社の鎮座する北一色地区から、車で北東に5分程の上渡合地区に鎮座する八柱神社を取り上げます鎮座地は県道33号線と県道352号線の分岐となる上渡合町大畑交差点から50㍍程南下した、飯野川左岸の標高232㍍程の山の中腹に鎮座していますこの地域は江戸時代には「加茂郡渡り合村」、天保期には「加茂郡渡合村」と呼ばれていた地域後に加茂郡は西加茂郡と東加茂郡に分けられた際、上渡合村は加茂郡から西加茂郡に編入され、豊田市編入により現在の豊田市上渡合町に至るようです上は県道33号線沿いから東方向の飯野川左岸の鎮座地で、社殿はこの山の高みに鎮座します飯野川右岸に社頭を構え、赤い橋を渡るとその先から急な石段が続きます社頭には一対の常夜灯とその先の右に社号標はありますが鳥居はありません常夜灯は大正13年(1924)7月寄進のもの常夜灯の少し先の左側に石柱が1本立っています上を見れば楔が打ち込まれ、貫の木鼻だけが残る明神鳥居の柱のようです右側の社号標は社名は八柱神社、大正9年に建てられたものその先に途中からポッキリ折れた柱と周辺には折れてしまった島木や笠木、貫が纏められていました何が起因してこうなったのか分かりませんが、柱の断面が綺麗な状態なので最近の出来事のようです橋を渡ると目の前に乱積された岩で作られた急な石段が上に向かって続き、その険しさに石段の前で立ち止まる手摺はないのでポケットに手なんか入れて登ろうものならただでは済まない石段の前の一対の狛犬は「ご安全に!」と呼び掛けているようだ右手に解説板と左手に石碑が建てられています石段付近の全景こうしてみれば石段の傾斜も分かりやすいのでは石段の上り口を守護する狛犬阿形は毬、吽形は…子持ちだろうか寄進年は未確認の狛犬の台座には井筒紋、下は橘の紋が刻まれている左側には辨財天が祀られていました由緒書きの内容は以下「十四等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市上渡合町井ノ脇105番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 創建は明らかではありませんが、社蔵の棟札に奉建立 若宮一宇 貞享三丙寅年(1686)3月15日とあり、再建とも考えられている往古は若宮八王子社と称し産土神として崇敬されている明治6年村社に列し、同12年八柱神社に改称例祭日 10月社殿 本殿折屋造り 0.3坪 幣殿 3.4坪 拝殿 4.5坪 社務所 5坪境内坪数 675坪」とありました余談になりますがこの辺りの比較的狭い範囲の集落には八柱神社が点在しています山間で古くから人が住む小さな集落が点在しているのは分かりますが、理由は分からないが八王子を祀る神社が多いことに気付くはずです、藤岡神社も大正以前は八柱神社でした講釈ばかりで、これ登らなきゃ話は進まない足元を確かめながら一段〃行ってみようか角が取れた石が多いので踏み外しに要注意この社叢には桧が多いようですね夜間も参道脇の街路灯が足元を照らしてくれて…というか夜ここを登るのは勇気がいるだろう拝殿が見えてきた長い距離の石段ではないものの、傾斜があって手摺がない不規則な石段は気が抜けない無事に到着目の前の建物は拝殿でいいと思います拝殿から本殿の覆殿の眺め切妻瓦葺の四方吹き抜けの平入の建物で、覆殿と祭文殿も兼ね備えた建物になっています本殿域の玉垣は昭和3年手前の常夜灯の竿には明治の元号と、更に社名も刻まれていますが、八柱でも八王子とも読み取れない社名が刻まれているようです覆殿前から社殿の眺め正面が八柱を祀る本殿と左右の覆屋の中に其々2社が祀られていますが、社名札は掛けられていない様でした本殿は板宮造りの一間の向拝と階段が付くもので解説には折屋造りとある右の二社、社名は不明左の二社、こちらも社名札がパッと目見当たらなかったこうして写真を纏めている際中に覆屋の棟の先に社名の書かれた木札がある事に気付くその目線で他の写真を見返して見るが木札はこの一枚だけのようです拡大しても何が書かれているのか読み取れなかった恐らく全ての社はこうした位置に社名札が掛けられていたのかもしれませんこれを書いている段階で由緒書きの内容に満足してしまったため、地史まで調べなかったが、ひょとすると境内社が記されているかもしれません今の時点では不明社として、何か分かれば追記する事にします参拝を終え覆殿右手から全体を眺める境内はここから右に下りの参道があるようです 下から見た際にこの参道口は見当たらなかったが、あの石段を上らずに境内に通じているようです参道左側の斜面に手水鉢が置かれ、清水は絶え間なく注がれているようです鉢には寄進年が見当たらなかったが、注がれる水は配管で上の方から引かれているようです鉢の脇から上に続く道があり配管を追いかけて見ました少し先の山肌に小さな湧き水が溜まる場所があり、配管の先はここに繋がっていました周辺はシダが生い茂っており、木漏れ日に透かされて鮮やかな緑を魅せていますさて、ここからどの参道から下に降りるか下りの石段は怖いけれど、ここは確実に戻れるこの道を戻る事にしよう真っすぐ下向きに降りるのは避けたい、上り以上に要注意だ飯野川の流れも春めいて見える八柱神社創建 / 貞享3年(1686)再建祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 辨財天、他不明社4社所在地 / 豊田市上渡合町井ノ脇105氏子地域 / 豊田市上渡合町例祭日 / 10月第2日曜日藤岡神社から八柱神社まで車アクセス / 県道350号線を南下北一色町内で左折し県道33号線を北上5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.17
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前回は北一色町川原地内に鎮座する金剛寺を紹介しました今回は同じく北一色町山洞地区に鎮座する藤岡神社を掲載します鎮座地までは車で移動する必要もなく金剛寺の前を横切る県道350号線を東に越えて、田んぼの中の農道を歩いて行けば社頭に至ります県道から東を見ると鳥居の姿も見えるはずですあの鳥居まで徒歩5分もあれば辿り着ける距離にあります社殿は鳥居の先に見えている緑豊かな杜の中腹に鎮座します杜の手前に靖国鳥居が建てられ、鳥居をくぐり飯野川に架かる神橋を進むと藤岡神社の社地になります社頭から境内の眺め鳥居右には「村社藤岡神社」社号標が立てられています現在の藤岡神社は、かつて別の名前で呼ばれていた可能性があります寄進年を確認するために社号標の表と裏を見る上の写真は大正時代に寄進された社号標の「藤岡神社」と刻まれた表側下の写真は社号標の裏側で社名は「八柱神社」と刻まれ社名が異なっています新橋を渡ると杜の中に石段が現れ、その先に拝殿らしき姿が見えてきます石段の左手に解説板らしき姿が見えます解説板の内容は以下「九等級 藤岡神社 旧指定村社鎮座地 藤岡町大字北一色字山洞40番地祭神 天照大神と素戔嗚尊が天の誓約を為した時に生じた八柱の神 即ち、日本書紀に拠れば、正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、 天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命(以上天照大神の御子) 田心姫、湍津姫命、市杵島姫命(以上素戔嗚尊の御子)の八柱を祀る由緒 明徳4年(1393)、猿投「東の宮」の摂社「御子の宮」をこの地に遷す 「東の宮」の神主 武田恒家供奉して「八王子の宮」と称し、猿投山東方の総鎮守「小猿投」とも呼ばれた 明治五年八柱神社と改め村社となる 明治45年(1907)指定社となる 大正12年(1923)藤岡神社と改称 昭和63年(1988)に神撰所、平成12年(2000)に社務所新築社殿 藤岡地区最古の神社本殿は二間社・流造・檜皮葺で希少性を誇っている社殿等面積 64.77坪、境内坪数 1306坪例大祭 毎年10月神賑行事 飾献馬、棒の手演武、火縄銃奉納射撃、巫女舞氏子数 208戸」とあるなるほど、社号標の社名の違いが腑に落ちたそれにしてもこの辺りの神社にはこうして詳細に書かれた由緒が多く、モヤモヤを晴らすのに調べる必要がなく個人的にありがたいスッキリした所でこの石段を上る事にします石段脇の常夜灯の寄進年は大正10年(1921)石段を上り詰めると蕃塀のように拝殿が迫り、その先に社殿が見えています拝殿右から境内に回り込むと棒の手顕彰碑が建てられています碑文から一部抜粋した内容・一色の棒の手は織田家臣の本田游無が創始した流派「見当流」・天文年間中根城築城時に地元民に祝意を表すために棒術を披露し、地元に広めた・「見当流」は名古屋市内を中心に広まり、熱田神宮へも奉納、品野をはじめ尾張三河にも広まっていった・豊田市八草・猿投町・足助町・藤岡町一帯で「見当流」が栄えている・北一色の棒の手は明治4年生田芳蔵他3名にはじまり、氏神様の藤岡神社の大祭では献馬と共に奉納されている顕彰碑から社殿の眺め拝殿正面から見通した境内は広さを感じなかったが、こうして見るとかなり広い境内を持つ神社です社殿は左に社務所、正面の一段高く積まれた本殿域に神門・四方殿・祭文殿・本殿と連なり、社殿右の斜面には境内社が祀られています境内左の手水鉢、本殿後方の裏山から湧き出る御神水が注がれている境内左から拝殿から顕彰碑方向の眺め拝殿と書いてはみたものの、この佇まいから岩倉神社の農村舞台にも似ている拝殿内にも由緒が掛けられていますが、内容は石段脇のものと同じ内容のものでした拝殿の築年代は分かりませんが、小屋組みは一本物の無垢材がふんだんに使われています境内から神門・四方殿の眺め神門前の狛犬(寄進年未確認)格子戸が閉ざされた神門の前で参拝となります神門の前に建てられた四方殿の全体は見通せませんが、神楽殿や拝殿のような建物に見えます境内右の境内社手前の六社は左から金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社が祀られていますその後方の斜面には朱の社と石の社、石標が幾つか立てられています上は殉国之碑、下は覚明霊神更に斜面を登ると上の写真の大己貴大神、少彦名大神と、石の祠がある下は社名札がなく分からないが、この辺りは御嶽講の神域なんだろうここまで登ると本殿域を望めます左が神門の先に建っているのが四方殿で、その先が祭文殿・本殿何れも新しいもので近年補修されているようです四方殿は入母屋瓦葺の四方吹き抜けで、床板や縁板、屋根を支える柱と梁にも真新しい肘木が付けられています藤岡神社の四方殿・祭文殿・本殿は令和4年(2022)に大改修が行われたようですその際に棟札が見つかり、寛文11年(1671)頃の熱田の大工で猿投神社の社殿も手掛けた藤原朝臣中尾勘右衛門が、当神社の四方殿・本殿を建てたと記されていますまた、祭文殿(赤い屋根)から明治43年(1910)の棟札など見つかったようです豊田市内に鎮座する神社本殿としては、室町時代中期の足助八幡宮本殿を除くと、寛文6年(1666)の熊野神社本殿(月原町)、元禄15年(1702)の川原宮謁磐神社本殿(御蔵町)に次ぐ古いものとなるようです本殿は中央に柱のある二間社流造で、令和4年の修復時に檜皮葺から銅葺屋根に変えられたようです詳細は見えませんが脇障子が付くようで、その前に白い狐の姿が見られます山間の神社にありながら、八王子を祀るに相応しい立派な本殿です接続する祭文殿は四方吹き抜けで入口側に格子戸が付いているようですここから拝殿と境内の眺め鬱蒼とした杜に包まれていながら、陽射しが降り注ぐ明るい境内ですそれにしても拝殿の趣は農村舞台のように見えてなりません調べて見ると豊田市には約31カ所の農村舞台が現存するようですしかしその中に当神社の名は見られない事から、やはり農村舞台ではないようです参拝を済ませ石段の降り口から鳥居方向を見下ろす鳥居の先には田んぼが広がり、前方に金剛寺も良く見える藤岡神社創建 / 明徳4年(1393)祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社等所在地 / 豊田市北一色町山洞40金剛寺から徒歩アクセス / 県道350号線を越え田圃の農道を北上徒歩5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.14
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豊田市北一色町向谷下の春埜山神社から、県道350号線を2分程北上した北一色町川原地区山間に田圃が広がる長閑な田舎の風景が広がります今回は町内を南北に続く県道脇の高台に鎮座する菩提山金剛寺を掲載します写真は県道東側の田圃から金剛寺と後方の猿投山を望む小高い丘に鎮座する金剛寺、こうしてみると戦国時代の平山城か館の様な趣です斜面には多くの樹々が植えられ、その多くが桜のようです3月7日に訪れた時点では彩りはありませんでしたが、今頃はピンク一色に染まっているのではないでしょうか県道から金剛寺門前を眺めるウグイスのさえずりを聞きながら参道に向かう菩提山金剛寺寺号標石段の先にはフラットな参道が本堂へと続きます境内の桜は枝垂れ桜が多いようです左手の森の斜面に祠を見付けたのでそちらに向かて見ます杜の斜面に作られた石祠祠の両脇と天井は一枚岩、後方は小振りの石が積まれた壁になっていてまるで横穴式の古墳のようにもみえてくる祠の中には一体の石像が安置されていました岩座に座り左手に巻物を持つこの姿は役行者なんだろうか金剛寺伽藍石垣が積まれその上に築地塀が築かれ境内を囲む境内左に金剛寺を象徴する見事な枝振りの枝垂れ桜が聳えていますこの桜が満開を迎えた時、金剛寺はさぞかし艶やかな姿になるのだろう菩薩山金剛寺について大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌を調べたところ以下内容でした「菩薩山 金剛寺 創建大永元年(1521) 境内反別四反三畝二七歩」曹洞宗の寺院で本尊は分かりませんが釈迦牟尼仏だと思われますまたWIKIには天保期(1831-1845)から明治初期まで、金剛寺において寺子屋が開かれていたとも伝わるようで、享保19年(1734)に雲興寺の霊源陽沢和尚により開山とも云われ、雲興寺の末寺でもあるようです境内のシダレザクラ霊源陽沢和尚手植えによるものとされる樹齢300年の枝垂れ桜です太い幹の大きなコブから伸びる枝は支柱なしでは姿を保てないほど四方に広がっています満開の桜、一度見たいものです例年は3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えるそうです、まだ間に合うかなぁ豊田市指定文化財(天然記念物)昭和49年2月に指定された樹高は10㍍のエドヒガン桜の一種という本堂伽藍は寄棟瓦葺の平入で右手の庫裏と繋がり、左に毘沙門天、本堂左の薬師堂が主な伽藍本堂の金剛寺の額地蔵堂と毘沙門天堂、奥に見えているのが薬師堂になります左から聖観世音菩薩、如意輪観音、庚申塔、当山鎮守毘沙門天薬師堂西加茂新四国八十八ケ所霊場の七十番札所になるようです本堂の鬼には丸に立葵の紋が入っています参道左側の車道から眺める金剛寺この道の先は参拝者駐車場に至ります満開のソメイヨシノが連なる光景は綺麗ですこうした山間の一本の桜が魅せる美しさも引けをとらないものがあるカタクリの開花に合わせて訪れたので桜はまだまだでしたが、来年はこの桜の開花に合わせて訪れてみよう金剛寺宗派 / 曹洞宗山号 / 菩提山開山 / 大永元年(1521)本尊 / 不明参拝日 / 2024/03/07所在地 / 豊田市北一色町川原278-3春埜山神社から金剛寺、車アクセス / 県道350号線を北上約2分関連記事 / ・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.13
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春埜山(はるのさん)神社鎮座地は、猿投山の東麗の矢作川支流飯野川の右岸の山間に伸びる県道350号線沿いに位置します江戸時代には三河吉田藩の藩領で加茂郡一色村と呼ばれ、明治には北一色村に改称その後、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割された際、当地は西加茂郡に編入されますその後も西加茂郡藤河村、藤岡村を経て現在の豊田市北一色町向谷下(むこうやげ)となります個人的に豊田市へ編入以降、矢作川周辺の住所だけ聞いても場所のイメージがつかなくなってしまったしかし住所は変われど長閑な環境やランドマークは今も変わらない神社は県道から西側に少し奥に入った先に社頭を構えています車で走っていると気付かずに通り過ぎるかもしれない社頭への幅員は狭く、社標右手の駐車場に入るには普通車だと厄介かもしれませんエンジンを切ると、春めき始めた木立からウグイスの声が聞こえてきます今年初めて聞いたウグイスのさえずりはここ春埜山(はるのさん)神社だった社頭全景右手に社標、神明鳥居の先に拝殿とこぢんまりとした神社です春埜山(はるのさん)神社社標は昭和60年(1985)健之のもの右奥に見えているのが参拝者駐車場春埜山(はるのさん)神社境内に由緒は見られず、情報として書くべきものが見当たりませんなので写真をもとに境内の紹介だけになります境内から鳥居の眺め鳥居の寄進年不明、拝殿右に一つの石仏が安置されていました青面金剛だろうか製作年代は未確認ですが、昨日今日寄進されたものではないようです切妻造の木造平入拝殿左側の社務所兼住居と思われる建物と廊下で繋がっているようです拝殿額「春埜山神社」春埜山と聞くと静岡県の秋葉神社下社から東に小一時間ほど走り、天竜川左岸の山深い場所に鎮座する神仏習合の名残をとどめた大光寺を思い出しますその昔、山道を求め四駆で訪れたことがあり、興味深い寺だった事を記憶しています行基が開いた古刹で、春埜山は秋葉山、光明山と並び、遠州三山と称され、大光寺のある春埜山と秋葉神社本宮のある秋葉山は対をなすものと云う今ほど気軽に写真に残せる環境でもなかったので、改めて訪れて見たい所です果してこの神社が春埜山大光寺と関りがあるのか根拠はなく、まったくの個人の妄想でしかない拝殿から本殿域の眺め祭神は分かりませんがこちらで参拝させて頂きます拝殿右側から本殿域を眺める本殿は5本の鰹木、内削ぎの千木がつく神明造で、本殿の両脇に摂社が祀られています本殿域右手に小さな池があり、本殿域周辺は石が組まれ、庭園の様に手入れされていました神社についてなにも分かりませんが、昭和中期から後期の航空写真を見る限り、神社の姿は見られません現在の社殿が建てられたのは、社標に刻まれていた昭和60年(1985)くらいのことかもしれません春埜山(はるのさん)神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市北一色町向谷下851-3参拝日 / 2024/03/07香嵐渓臨時駐車場から春埜山神社まで車アクセス / 香嵐渓臨時駐車場から西へ力石交差点で右折、県道350号線を北上約25分関連記事・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.12
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神宮山十王寺から国道420号線の足助八幡宮前信号を足助大橋方向へ橋の手前に巴川左岸沿いに続く道があるので足助警察署方向に進みます名古屋方向からだと足助大橋を渡ってすぐ右折です今回掲載する「石清水八幡神社」は国道240号線南側の足助町宮平地区に鎮座します因みにグーグルマップの石清水八幡神社の位置・所在地情報は間違っています石清水八幡神社社頭全景参拝者駐車場はなく、警察署も近いので路駐は避けるが得策社地右側に宮町駐車場の立駐があるのでここに駐車して歩くのが賢明でしょう神社は三叉路交差点付近に西向きに社頭を構えています社地は杉の杜に包まれているのでこの時期は厄介か脱線します還暦を過ぎて人並みに花粉症になったみたい相手の正体は分からないがどうかするとおかしくなる長く続いたマスク生活で柄にもなくデリートな体質になったんだろうか宮町駐車場と側道の間の三角形の社地に玉垣で囲った境内を持つ石清水八幡神社鳥居や狛犬といったものはなく、一基の石灯籠と本殿、左側に石の祠が祀られ、社標は少し離れた西側に建てられています苔生した境内全景本殿は一間社流造で社名札もしっかりと架けられています神社の創建・由緒・祭神について神社庁、地史どちらも情報は得られなかった足助八幡宮も近い事もあり、境外社なんだろうかと妄想を膨らせたくなる八幡神社と付くのだから祭神は恐らく……応神天皇石清水八幡神社となると県内に石清水八幡神社は少なく、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡神社宮から勧請されたものなんだろう境内右の石灯籠玉垣、燈籠・社標などの寄進物は昭和のもので創建時期は意外と新しいのかも本殿左奥の杉の根元に祀られている石の祠文字が刻まれていますが読み取れず巴川側道の社標の背面には昭和10年(1935)と刻まれている足助トンネルができる以前、渋滞する国道を避けるため巴川沿いのこの道を利用したものですかつてはこの側道沿いに大きな入浴施設(足助温泉だったナ)があり、スキーやキャンプの帰りに時間調整も出来ました今はそんな時一休みしていく施設がないのが少し残念です石清水八幡神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市足助町宮平56-1参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.11
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4/7週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、予報は外れ暑いくらいの好天となったならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔日本らしい春の光景が広がっていましたここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れますこの北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年に茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭鳥居から本殿の眺め財力を示すかのような個人所有の神社鞘殿全景豊彦稲荷社由緒「祭神 宇迦御魂神御神体 白狐祭日 初午祭(4月上旬)由緒京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されましたそれを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています御神徳五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所)信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうかまた、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め豊彦稲荷社創建 / 寛延2年(1749)祭神 / 白狐白雲橋と三賞亭(有形文化財)稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません天井に描かれている女性の横顔携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます白雲橋と豊彦稲荷社庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません揚輝荘北園訪問日 / 2024/04/07所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から北へ10分以内それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか関連記事 ・泉龍山桃厳寺・城山八幡宮
2024.04.08
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紅葉の時期に足助町を通りかかると道路は渋滞グリーロード入口の力石ICまでの道程の長いことついつい足助町内を避けてしまいがちです、宿場町城下町でもある足助には、宿場の名残を留めた町並みや古くからの寺社など見所は多いまた紅葉やカタクリ、清流巴川が町内を流れ自然豊かな町でもあり、そうした中を歩く東海自然歩道も整備されています今回掲載する十王寺は、先に掲載した足助八幡宮の両部鳥居の向かいに鎮座しています神宮山十王寺は愛知県豊田市足助町に鎮座する真宗大谷派の寺院寺標の側面に「寛永8年石平道人正三和尚開基」とある本堂は木造切妻瓦葺の平入で一間の向拝を持ったこぢんまりとした佇まい国道沿いに境内入口はありますが、周囲が有料駐車場ばかりのなか、参拝駐車して良いものか定かではありません因みに自分はずっと下流の無料駐車場から散策がてら歩いて訪れました境内左の十王寺解説は以下のようなものでした十王寺は寛永年間(1624~1645)、鈴木正三和尚により創建された正三和尚は、天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として大坂夏の陣に戦功をあげた武将42歳の時、家督を弟に譲り自らは出家風飡無宿の禅僧となり宗教自由人として庶民に仏教の裾野を広げるため、仮名草子本(二人比丘尼、因菓物語)を書き、近世文学の基となったことでも評価の高い人物である本堂に安置される木造阿弥陀如来立像(室町時代前半から中頃の制作)は別名「またたき如来」と呼ばれ、土地には伝説も伝わるまた、足助八幡宮境内にあった神宮寺の本尊、木造薬師如来座像は高さ90㌢と小さいが鎌倉期の優れた作品とされ、他に江戸時代初期のものとされる木造十王像を所蔵し何れも文化財の指定を受けている因みに「またたき如来」の伝説とは以下のようなものらしい「その昔、不届き者により如来像が盗難にあったある晩信者の夢枕に如来像が現れ、「京都にいるから迎えに来てくれ、来てくれたらまたたいて合図する」とのお告げがあったそうです信者が京都に迎えに行ったところ、如来像がまたたいて合図され無事に足助にもどった」と云うもの当日は本堂の扉が閉じられ、人の気配もなく「またたき如来」の姿は見られなかった運が良ければ拝むことができるのかも境内左には解説板、右には古い石塔や石仏が並び小さな社が祀られています遠目から霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社かなと思っていました、しかし山丸三の紋も見当たらずどうやら御嶽神社ではなさそうですどの石塔も年月が経っているようで、確認できたもので「三界万霊」と刻まれた塔に寛文2年(1662)の元号が見られました先の解説から創建が寛永年間(1624~1645)とあるので、創建後ほどなく造られた「三界万霊塔」です煩悩にまみれ、戦に明け暮れた戦国の武将から、風飡無宿の僧となった鈴木正三和尚彼は欲界・色界・無色界の有情無情の精霊を供養するために、三界万霊塔を建てたものかもしれません神宮山 十王寺宗派 / 真宗大谷派本尊 / 木造阿弥陀如来立像創建 / 寛永8年開基 / 石平道人正三和尚所在地 / 豊田市足助町宮平41参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.07
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前回掲載した足助神社に続く今回は、西隣に鎮座する「足助八幡宮」を取り上げます写真は国道420号線から東方向の足助八幡宮と足助神社の杜の眺め足助八幡宮社頭全景国道沿いに社頭を構え、木造両部鳥居のすぐ先に蕃塀と社殿がある社頭右に「足助八幡宮」の社標と鳥居の前に個性的なフォルムの狛犬が見えますその狛犬台座に梅丸講と刻まれた狛犬寄進年代は見ていませんが、素朴で愛嬌のある顔つきで、頭の上には丸みのある宝珠に近い角を持っています鳥居の額は「八幡宮」三つ巴が社紋と見えます鳥居をくぐった左のこの建物は神仏習合時の名残「八幡宮の鐘楼」解説は以下「この足助八幡宮は、明治初年まで境内に神宮寺があったこの鐘楼は神宮寺のあった名残りである明治維新の神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている豊田市教育委員会」とある神仏分離により多くの社寺がこうした道を辿りましたしかし、今も鳥居のある寺や多宝塔のある神社など、神仏習合の形態を残すものが存在しますその分かれ道が何だったのか、時々考えることがあります足助八幡宮社殿全景手前が拝殿、奥が社務所、社務所で隠れていますがその奥には境内社があります境内社はこの他に拝殿右側にも祀られています控柱を備えた石の番塀平成14年(2002)愛子様誕生記念として寄進されたもの番塀横の境内社4本の鰹木と外削ぎの置き千木がのる一間社流造の社社名札がなく社名は不明左手の杉の巨木足助八幡宮のスギ樹齢500年とも云われ、樹高45.5㍍の巨木で市指定文化財(天然記念物)に指定されている境内にはこの他にもイチョウの巨木などが聳え、神社の歴史の長さを物語っている境内に入った左に手水舎と神馬像、境内社が祀られている御足宮「当宮に伝わる縁起には足腰の病や様々な霊験が記されている足助は信州への中継地として栄えた宿場町行き来する人々は、この先の険しい街道を前に旅の安全を祈願、また安全にここまでこれたことにたことに感謝を捧げた足・交通・健康など御神徳顕著な神社として崇敬されている」草鞋の上に足神の石標が立てられている手水鉢の龍と蛙足助八幡宮概説「天武天皇の白鳳2年(673)創建と伝える古い神社神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している<八幡神社本殿>文正元年(1466)十一月の再建で、桧皮葺三間社流造である妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいで珍しいとされるこの地方では規模も大きく、稀に見る神社である<扁額 鉄砲的打図板額>慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか現存しないものである」…ここでは祭神や境内社についての具体的な解説は省略されています拝殿正面全景切妻平入で平側の三間の向拝に唐破風が付く、拝殿と左の社務所、右の建物は渡廊で繋がっています唐破風の下に梵天と竹竿の先端に藁で作られた斧のようなものが飾られている呼称は分からないがこれも梵天なんだろうか拝殿脇に祭神、創建の概要が記された案内板がありその内容は以下「足助八幡宮御創建 天武天皇白鳳2年(673)御祭神 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱本殿 文正元年(1466)再建・重文」 とあった上拝殿前の石灯籠から社務所方向の眺め、燈籠の寄進年は読み取れなかった下拝殿軒下に金的を射抜いた多数の猛者の名が記された額が掛けられている拝殿右の境内社手間から津島社、御鍬社、稲荷社津島社から足助神社拝殿左方向を進むと足助八幡宮本殿側面を良く見渡せる場所がありますそこに下の解説が立てられています足助八幡宮本殿「足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳2年(673)と伝わる現在の本殿は文正元年(1466)11月に再建されたもの屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びる神社の建築様式)の本殿で、室町時代の特色をよく示している愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなもの」とある檜皮葺や茅葺の苔むした屋根は趣があって個人的に好きですが、こうして見るとそろそろ葺き替えの時期が迫っているような手水舎の脇にあった概説の「妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示し、向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異」と記されていたが、ここからその特徴を見る事は出来ません上拝殿全景下社務所から右の境内社全景左の入母屋妻入りで一間向拝が付くこの鞘殿は金毘羅社中の社は見通せなかったその右に祀られる三社左から流造の塩窯社、中央の6本の鰹木、内削ぎの千木が付く神明造の社が秋葉社その右の流造の社は天満宮、いずれも創建時期は不明境内南側に県指定文化財「足助の棒の手」の記念碑足助の棒の手は近岡町、富岡町の二つの地区が江戸時代、明治時代に継承された五反田地区の三つがあるようで、流派は其々違うようですが、いずれも10月の足助祭りで足助八幡宮に奉納されるようですこの祭りでは山車や火縄銃の空砲撃ちなど見られるようです足助八幡宮創建 / 白鳳2年(673)祭神 / 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱境内社 / 不明社、御足宮、津島社、御鍬社、稲荷社、金毘羅社、塩窯社、秋葉社、天満宮例祭 / 10月第2日曜氏子地域 / 足助町所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.05
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足助神社は香嵐渓で知られる足助町の巴川左岸沿いに鎮座しますこの区間は以前国道153号線と国道420号線の重複区間で、足助バイパス完成後は香嵐渓の入口とも云える足助大橋を渡ると国道420号線となります以前は混雑する区間でしたが、バイパスの完成によりスムーズに町内を通り抜けられるようになった写真は巴橋から西方向の眺めで、国道右に続く玉垣と社叢は足助神社、足助八幡宮の鎮座地になります一つの社地に足助神社、足助八幡宮が横並びに鎮座し、国道沿いにそれぞれの社頭を構えていますが、境内に入れば二社を隔てるものはありません右手は豊田市役所足助支所の有料車駐車場駐車場前の足助周辺観光マップ周辺には紅葉以外にも香積寺や足助宿の趣が残る町並みはじめ、飯盛城や足助城など複数の城跡が残る歴史の町紅葉やカタクリの群生が見られる飯盛山には、鎌倉末期の武将足助次郎重範の本城もあった(写真は2024/3/7のもので見頃となったのは3/24でした)国道から足助神社社頭の眺め右に足助神社社標があり正面の神明鳥居の先が足助神社社殿境内に入ってすぐ右側に雁塚と呼ばれる一つの石と石塚の由来が解説されています「牛吉さんが、置き忘れた弓で矢を放ったところ、的を外れて田圃にいた雁の雄を殺してしまったその翌日から田圃には雌の雁が訪れ、雄がいない悲しさから鳴き続けたという夜には殺された雁が枕元に現れるようになり、雁の呪いから逃れるため僧となり、庵を結んで雁の菩提を弔う日々を送った雁を射殺してから23年を経た9月23日、辞世の句「先だちし雁や浄土の道しるべ」残し急死したという奇しくもその日は牛吉さんが雁を射殺した日だったという」雁は一度つがいになると一生添い遂げ、一方が死んでも新たに相手を迎える事はないという足助神社境内全景石造神明鳥居と一対の狛犬、常夜灯があり、右側に手水舎があります足助神社の創建は新しく明治35年(1902)で祭神は足助次郎重範を祀る神社カタクリの群落や紅葉で知られる飯盛山には、足助七城のひとつ飯盛山城があった鎌倉時代、足助重秀が築城した城で尾張・三河・信濃を結ぶ交通の要衝に建てられた足助氏の本城で、七代足助重範の死後は足助氏の勢力は衰退し全国に散っていったという後に尾張・三河を目指した甲斐の信玄もこの道筋も選択肢に入っていただろう事実、この道を進んだ根羽村の少し先には信玄坂や信玄塚などが残る足助神社建立の発端は明治24年(1891)に明治天皇から正四位を贈られたことにあるようです明治26年(1893)に熱田神宮が神明造に建て替えられた際に摂社の一つを譲り受けた明治35年(1902)に東加茂郡の郡社として神社が創建された昭和8年(1933)に従三位を追贈され、顕彰運動も活発化し、縣社、別格官幣社に昇格させる計画もあったという昭和18年(1943)には新たな社殿の造営も行なわれたが、敗戦に伴い造営は中断し運動も立ち消え、元の場所に遷座したという鳥居の手前左で足助八幡宮と繋がっています拝殿を守護する狛犬猫足の台座には昭和9年(1934)の寄進年が刻まれていました境内は年輪を重ねた大杉や大楠が聳え、背後には巴川が流れています手水舎と懸命に働く龍の姿足助神社「元弘の変(元弘元年-1331)に後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将となった足助次郎重範公を祀っている重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀られるようになった 豊田市教育委員会」社殿全景切妻妻入り拝殿に翼殿が付いたもので翼殿から透塀が本殿を囲むもの棟の鬼の紋は遠目に桐や葵の様に見えるが三河蔦と思われます意匠を控え、白壁と木の色合いだけの落ち着きのあるシックな佇まい足助神社拝殿額拝殿から本殿域の眺め拝殿の先は屋根の付きの土間が本殿に続く、土間と云うより幣殿と呼んでもいいだろう本殿は神明造とされるが、棟持ち柱が見られないので後に建て替えられていそうです拝殿左側から忠臣足助氏の碑と本殿の眺め本殿は一間社流造のようで、外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載せられています大棟には三河蔦の紋が入れられています足助重範が鎮まる本殿全景拝殿同様装飾を控えた落ち着いた外観の本殿拝殿から社頭の眺め鳥居は大正4年(1915)寄進のもの足助神社創建 / 明治35年(1902)祭神 / 足助重範境内社 / 例祭 / 4月第2日曜氏子地域 / 所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.04
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3月7日香嵐渓にカタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載しますまず上の地図をご覧いただきます左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道の脇街道として尾張や三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されていますそれらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれていますこの路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない その終着駅がここ西中金駅香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです国道から見た駅舎全景現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました登録有形文化財名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップかつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありましたプラットホーム線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはないここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけますプラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め線路の上を西に進み参道に向かいます国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう境内全景右から手水舎、社殿、忠魂碑木造四つ脚切妻屋根の手水舎手水鉢の龍三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている拝殿正面全景一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの拝殿左から社殿全景拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある拝殿前の狛犬(近年未確認)拝殿妻壁の額は「岩倉神社」人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません拝殿から中門の眺め中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め祭文殿から本殿の眺め本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社、豊川稲荷一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます最上段の岩倉神社本殿一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです本殿左の忠魂碑社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われていますこの舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかりこの長い桁を1本の無垢材が支えているその中央に「農村舞台」の額この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです舞台内部長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスターこのあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです境内から社頭の国道の眺め結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れますまもなく終点西中金駅になります名鉄三河線旧西中金駅駅舎所在地 / 豊田市中金町前田岩倉神社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷、秋葉社、蚕霊社例祭 / 10月第2日曜日氏子地域 / 豊田市中金町所在地 / 豊田市中金町平古782岩倉神社農村舞台建立 / 文化5年(1808)所在地 / 岩倉神社境内参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事 / ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.01
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熱田区千年2丁目の八幡社から東海通に出て、西の東海通交差点方向に1.2㌔約20分港区辰巳町の稲荷神社へ今日の神社巡りも、昼に大宝二丁目でかみさんと合流予定なので、これが最後の訪問地になりそうです稲荷神社は東海通の南側の辰巳町30に位置し、小学校や大きなスーパーなどがある住宅地に社頭があります稲荷神社社頭から境内の眺め社頭右に「稲荷神社」社標があり、左右に案内板が立てられています社頭左の祭儀予定、読めそうで読めない右側の稲荷社解説 祭神は、倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命享和元年(1801)、津金文左衛門胤臣が熱田前新田を干拓し、各地から農民を募り耕作に従事させた 新田を荒子川以西を西ノ割、中川以東を東ノ割、二つの川の間を中ノ割に区分、各割毎に氏神を祀った東ノ割の氏神が当社 秋の例祭(10月第三日曜日)には、現在も辰巳・中ノ組・西ノ組の三台の神楽が町を練り歩くもともとは現在の東海通り交差点南東角付近に鎮座していました 平成17年に道路拡張に伴いこの地に移転新築したようです因みに西ノ割の氏神は善進神明社(港区善進町4)、中ノ割の氏神は龍神社(港区本宮町3-2) 地図を見るとなるほどと頷ける津金文左衛門は、享保12年(1727)に現在の名古屋市東区平田町に生まれ、寛政3年(1791)熱田奉行兼船奉行となり、新たな土地を開拓することで、当時の藩の財源と農民の生活の糧を得ることができる新田開発に乗り出し、広大な熱田前新田を開拓しました上は弘化4年(1847)に描かれた熱田前新田の絵図右側の中川通御留川から右が東ノ割、北側に神明は描かれていますが稲荷としては記されていませんさてさて、新田に割り振られたイからタまでのどこに稲荷神社が位置するものか鳥居から拝殿の眺め入母屋妻入りの木造で木の色合いが綺麗な拝殿手前に常夜灯と陰に隠れていますが一対の狛犬がいます左の建物は社務所になります境内右隅に周囲の寄進物と比べ年代が古そうな御宮培?の石標今こうして改めて見ると、左側面に寄進年が刻まれていたようですこちらに遷座する以前のものをこちらに持ってきたのかも境内右の手水舎二つの手水鉢が置かれ、澄んだ清水を湛えていた右の手水鉢は盃状穴が見られ、こちらも遷座以前から使われていたものを持ってきたと思われます盃状穴信仰の起源は古く縄文時代からとも云われ、再生や魔除けを祈願し寄進物に何度も〃石を叩きつけ結果こうした凹みが出来上がります時代を越えた多くの人々の願いというか、思いが凹みに込められていますこうした信仰は江戸時代から昭和に入ってからも続いたようです今のご時世これをやっていると器物損壊になるんだろうなぁ社殿全景拝殿後方の渡殿の先は、ひと際高く石垣が積まれた本殿域があり、そこには常夜灯と狛犬の姿がありますこちらは拝殿前の狛犬やや頭でっかちで肉付きの良い姿、寄進年は見ていません本殿域渡殿の両脇に三対の常夜灯と本殿を守護する狛犬が安置されています随分色白の狛犬、少し陽に当たった方が健康的かもこちらも寄進年は見ていません本殿域は狛狐と本殿両脇に二社祀られているここまで稲荷感がなかったが、漸く稲荷の実感が湧いてくる流造の稲荷神社本殿と両脇の社、残念ながら社名札はなかった祭神は稲荷三座倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命流造の本殿脇障子などには細かな彫が施されています波限神社の参拝が10:00、4社目の稲荷社参拝を終えた時間が11:40大宝二丁目で12:00にかみさんと待ち合わせたが残り20分、東海通の西側にも廻りたかったがまたの機会にしよう東海通りから地下鉄に乗り急ぎ向かう、中華ランチに間に合うか稲荷神社創建 / 享和元年(1801)祭神 / 倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命境内社 / 不明社2社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市港区辰巳町30-11関連記事 /・千年2 八幡神社・八幡社 (千年1丁目)・波限神社千年2八幡社から稲荷社 / 東海通りを東海通交差点方向に1.2㌔約20分中国四川料理 錦城本店 日比野お昼のランチメニュー「ハーフミニセット」真っ黒な肉味噌と真っ赤なラー油がマッチする担々麺に麻婆豆腐、エビチリとサラダこれとは別におひつで提供される御飯に杏仁豆腐のデザートが付いて1300円とリーズナブル全体的に濃い目の味付けなので、御飯やビールがすすむことミニセットとは言え、歳を考えると食べ過ぎ、満足のランチでした所在地 / 名古屋市熱田区一番1-5-12 嶋田ビル1Fさてとお腹も満たされたのでボランティア説明会に行くとするか
2024.03.31
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千年1丁目の八幡神社から旧東海道を南に進み新幹線の高架を過ぎ暫くすると千年2丁目の八幡神社の社頭に至ります所要時間は徒歩10分程千年2丁目に鎮座する八幡神社の社地全景道路沿いにほゞ東向きに社頭を構えます社頭全景正面に石造明神鳥居と右側に象形文字で書いたかのように八幡神社の社標がある社標の文字は鳩をモチーフにして書かれ、少し離れて見ると違和感なく読めてしまう鳥居の左に八幡神社祭礼の案内板社頭左の開拓記念碑碑文は確認しなかったが、この辺りは潮の満ち引きで干潟が現れ、その間に堤を築きながら人と自然が陣取り合戦の様に農地を広げてきた場所ですそれに伴い堤は沖に伸び、河口も遠のいていった鳥居から境内の眺め、正面に石造番塀を構えています鳥居の額は八幡神社で八は鳩を意識した書体境内右の全景正面に忠魂碑があり、常夜灯、本殿末社造営碑、八幡神社由緒が纏められています千年八幡神社由緒御祭神 誉田天皇(応神天皇)境内神社 多度社 御祭神 天津日子根比命、天目一筒命秋葉社 御祭神 迦具土命由緒当神社は もと尾張徳川公の下屋敷の南庭に鎮座 歴代藩主の崇敬が厚かったが天保8年8月11日熱田築地前新開の総鎮守 また熱田全新田の丑寅(北東)の鎮とし 現在地より南方約20間(約36㍍)の処に社殿を建立し 徳川家よりの多くの宝物と共に遷される安政元年11月 安政大地震起こり社殿等倒壊するが有志により復興安政2年8月 暴風雨の為全面入潮被害多し万延元年4月 社殿改築遷座を行う同 5月 烈風暴雨襲い南堤の崩壊により一面に海水氾濫し宝物什器類赴く流失明治5年7月 村社に列せらる明治6年9月 再度大暴風雨に襲われた為遂に現在地に遷座明治18年5月 本殿末社の御造営を行い遷座の式を行う明治24年10月 濃尾地震により多大の被害あり明治29年 本殿改築明治34年 拝殿修復大正12年 本殿御造営し遷宮式を行う昭和10年9月 神饌幣帛料供進神社に指定される同 10月 本殿・渡殿其の他附属建物に至るまで面目を一新し正遷座の厳儀を執行昭和20年6月 戦災により壊滅昭和34年9月 伊勢湾台風により損壊昭和35年10月 本殿御造営昭和54年5月 本殿末社殿御造替祝詞殿拝殿を再建し正遷座の式を挙行名古屋市史の八幡神社の記述は当社由緒と同じ内容でした、また愛知県神社庁からも見ましたが内容は神社由緒の足元にも及びもしないいつもの内容上は八幡社(千年1丁目)で使用した舩方新田と熱田築地前新開絵図右上に山崎川が描かれており、現在の地図と照らし合わせると、位置的には中央の氏神は千年2の八幡社を示しているのかもしれません因みに熱田築地前新開の絵図には社は描かれていなかった現在の道路と照らして合わないのも明治6年に遷っているからだろうここから先は由緒を尊重して先に進めようさて、由緒にある下屋敷とは、現在の名古屋市東区葵1丁目に残る下屋敷跡を指しており延宝7年(1679)尾張藩2代藩主徳川光友が築いた屋敷とされ、6万4千坪の広大な敷地に回遊式庭園を持つていたとされます簡単に6万4千坪と云われても庶民には全く現実味の無い広さ昔の車のカタログには性能をアピールするため0から400㍍の走行時間を測定したゼロヨンなる表示がされていた取り締まりの心配のなく、自分の庭でゼロヨンを試すことができた広さだろうその私邸にあった神社を新田の鎮守として現在の鎮座地から少し南の鬼門に遷座させたという現在の千年水処理センターあたりと思われます境内右の百度石境内左に手水舎手水鉢には天保の元号が刻まれています、その下は…12年(1842)と読めるような境内左に作良(さくら)堤の石標と境内社先の絵図にある熱田築地前新開、文久元年(1861)に作良新田に改称され、新田を護っていた堤がこのあたりにあったと云う事でしょう作良新田は後に舩方新田と合併し千年となりますが、名の由来が当時は一帯に鶴が生息していたそうで、鶴は千年、亀は万年から引用し千年になったそうですこの板宮造りの社、社名札がなく詳細は分かりません奥の石灯籠を見ていないので、竿に答えが刻まれているかも知れません八幡神社社殿全景コンクリート造の入母屋妻入り拝殿で奥に渡殿と繋がっています大棟の鬼や軒丸瓦、破風飾りには橘の紋が入ります拝殿前を守護する狛犬、親の背にやんちゃな子供の姿があります寄進年は見忘れました拝殿額には「千年八幡神社」で熱田神宮宮司による揮毫根拠はないけれど千年と付くだけに、先に掲載した千年1の八幡神社はこちらから分祀されたものかもしれませんここにも橘紋樽酒かぁ、説明会終えたらかみさん誘って一杯ひっかけて帰るかぁ拝殿から本殿域の眺め柱の陰に隠れていますが、本殿域手前に一対の狛犬と本殿両脇に社が祀られています隠れていた狛犬は年代不明ですが、体の黒ずみや意匠などから、拝殿正面の面々よりキャリアがありそうです本殿と境内社大きな社が八幡神社で、左右の社が多度社、秋葉社と思われます何れも一間社流造で、八幡神社本殿は脇障子をはじめ桁隠し、木鼻などら彫が施され、大棟には金色の橘の紋が施されています幾度も越水や災害を受けながら、氏子達に支えられ今も鬼門を護る千年2丁目の八幡社スッキリして明るい神社でした八幡神社創建 / 天保8年(1837)祭神 / 誉田天皇(応神天皇)境内社 / 多度社、秋葉社、不明社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市熱田区千年2-31-9千年1八幡神社から千年2八幡社徒歩ルート / 旧東海道を南下徒歩約10分関連記事・八幡社 (千年1丁目)・波限神社
2024.03.30
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波限神社から東の国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱 熱田区千年1丁目に鎮座する八幡神社の社頭が左に見えてくる左に鳥居の姿がある、道は緩やかに上り、その先で堀川堤で突き当りとなり、堤の上に立ち並ぶ住宅の先は堀川が流れている 白鳥橋から下流の堀川右岸は1676年に作られた南北に長い船方新田が広がっていました名が示す様に、海運業を営む船頭や船の補修を生業とするものが多く居住したと云われます 1876年船方新田は作倉新田と合併し千年村字船方になり、その後も合併を繰り返し現在の千年1丁目や千年2丁目に編入されていったようです波限神社から八幡神社へ来る途中で船方の名が付く交差点や公園を見かけますが、船方新田の元々の位置は堀川右岸沿いの三角屋根が連なる工場の辺りに相当するようです最初に書きますが、幾つかの地史に目を通しましたが、神社の記述は見付けられず、境内にも由緒に繋がる碑はなく、由来や創建など分からないので地図から見ていくことにしました 上は明治24年頃の千年1の八幡神社鎮座地とほゞ現在の地図を見ています当時は現在の大瀬子橋はなく、大瀬子渡しで対岸に渡っていました、ここに橋が架けられるのは明治42年(1909)のことです 左の地図で、大瀬子渡しに続く赤い道筋は旧東海道で、そこから少し東に入った辺りが神社の鎮座です明治24年の地図には八幡神社の鎮座地に鳥居の印は見られず、昭和43年(1968)に忽然と鳥居が現れます これを持って昭和の創建とはなりませんその理由の一つに、境内寄進物の幾つかに大正の元号が見られることから、規模はともかく大正時代、又はそれ以前から鎮座している事になります 創建は地史の編纂が進む江戸後期以降、或いは明治に入ってからなのかもしれません上は年代は不明ですが、船方新田之図になります 堀川と精進川(新堀川)が交わり熱田湊や船方新田が描かれています新田北側に「御除地十一丁歩氏神」と中央に「御除地五畝卜氏神」の文字が見えます この二社がどこを指すものか、想像を膨らませてみる北側の氏神は堀川に面しており、先に掲載した波限神社の遷座前の鎮座地、中央が当神社ではないだろうか ただ、写真では切れていますがすぐ下に山崎川が描かれており千年2丁目の八幡神社の可能性もありますそれでは境内へ社頭西側から見る境内 南南西を向いて社頭を構え、石の明神鳥居とすぐ先に拝殿が建てられています社頭正面の眺め 社頭に社標は見られず、壁際に二対の石燈籠がある鳥居の額は八幡神社、拝殿の鬼には八幡社の名が入っています境内右側に置かれた手水鉢(寄進年未確認)境内から社殿全景の眺め 入母屋妻入りの二段垂木で梁間・桁行三間の四方吹き抜け拝殿で破風飾りに橘の紋が入る拝殿と本殿の間に一対の狛犬の姿がある拝殿前から本殿の眺め、左の建物は八幡神社社務所拝殿から眺める本殿 石垣で高く積まれた本殿域に本殿の他に両脇に二社祀られているようです本殿域と狛犬 この辺りは古くから⽊曽の山奥で切り出された木曽材を⽊曽川を使い、桑名を経て堀川上流に廻漕し名古屋城築城部材として供給した事から、築城後もこの地方で産出された木材の一大集散地となり堀川沿いにはそうした企業が多かった狛犬の寄進者もそうした団体名のものが見られます地図上では昭和に入って忽然と記されていた八幡社ですが、この狛犬は大正13年に寄進されたもの本殿域全景 中央の一間社流造の八幡社、祭神は恐らく応神天皇、左右の社は社名札がなく詳細は不明境内寄進物の元号は燈籠の竿には大正12年(1923)、狛犬の台座が大正13年(1924)この神社の創建には堀川周辺で海運業や渡しなど営む方々が大きく寄与しているようです拝殿から社頭の眺め 正面の鳥居は大正12年(1923)に寄進されたものなにも分からない千年1丁目の八幡社でしたが、10分程南に鎮座する千年2丁目の八幡社でなにか分かるかもしれません八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 不明社2社例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区千年1-9-37参拝日 / 2024/02/17徒歩アクセス ・波限神社から八幡神社 / 国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱関連記事 ・波限神社
2024.03.29
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2/17、この日は名古屋ウィメンズマラソンのボランティア説明会に朝から参加するかみさんと共に名古屋学院大学 名古屋キャンパスを訪れました自分は午後の説明会だけなので午前中はフリータイムと云う事で白鳥公園の南を横切る国道1号線から南の熱田区南部の神社を巡って来ました普段名城線を主に利用するので、名港線乗り換えもあり、あまり縁のない空白地帯名古屋キャンパスでかみさんを見送り、そこから南下する事約20分熱田区45に鎮座する波限(なぎり)神社の社頭に到着南向きに社頭を構え、鳥居の左に社標(1975)が立てられています鎮座地は正保3年(1646)から慶安2年(1649)にかけて、尾張藩により堀川から庄内川にかけて広範囲の新田開発が行われた地域で、それにより得られた耕地を東から西にかけて33に番割された地域ここはその一番割にあたり、現在でも番割当時の名残が町名として一部に残っています現在は農地は姿を消し住宅や工場、ショッピングセンターが多い環境なので、波限(なぎり)神社の社叢は存在感があります社頭から境内の眺め左から波限神社社標、熱田史跡「まむし神様」の碑、石造神明鳥居、波限神社由緒碑があります鳥居はこの社頭の他に境内西側にも石造神明鳥居が建てられていますかつて、まむしが多くいたことに由来する波限神社由緒略記「祭神:彦波限建鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎ たけうかやふきあへずのみこと) (神武天皇の父様)例祭 10月18日 由緒 この神社は慶長15年(1610)に加藤清正公が名古屋城を築く際、運搬船が度々遭難することを憂いて、堀川河口にあった小島に一宇を建て、日向国鵜戸神宮の御霊代を祀りました社名は彦波限にちなんで波限神社と名付けられ、海運の守護を祈願し、深く信仰されました 村民からの敬愛は深く、全村が神社の祐福を願い、平和で幸せな生活を営めるのは、まさに神社の守護の賜ものである海上安全、交通安全、安産、縁結びの神として、遠方からの参拝者も多い 小島は現在の千年船方にあり、神社は白鳥橋の旧渡船場から南方300メートルの堀川河畔にありました昭和14年10月に愛知時計の発展拡張に伴い、現在の地に移転しかし、昭和20年(1945)3月19日の空襲により、本殿や拝殿などの建造物はすべて焼失 その後、時間を経て昭和49年(1974)12月にようやく復旧再建され、御本宮の鵜戸神宮(宮崎県日南市)に参宮し、御分霊を受け、昭和50年2月1日に遷座祭が行われた」・名古屋市史の社寺編 「波限神社は南区千年字船方にあり、境内126坪あり、明治初年の勧請なり、明治35年頃改造遷宮す、今村社に列す 祭神は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊なり、神殿、槍鳥居 大正元年建設などあり境内神社は秋葉社 祭神は軻具土神の一所在り 例祭は8月15日也」と記されていました・熱田区史跡散策コース概説 「名古屋城を築城の際、加藤清正が資材海運の安全を祈って建立した本殿は戦災で焼失 し、昭和49年に再建された」とあります 他に愛知県神社庁に目を通すが得るものはなかった名古屋市史と神社由緒では創建や遷座の時期が食い違っており頭の整理がつかない 神社由緒と史跡散策コース概説では清正の下りなど符合しますが、由緒から引用しているのかもしれません本記事では神社由緒概説を尊重し記述します 今時、機械を多用した歩道の整備ですら、なんやかんや長い期間やっています堀川の掘削は1610年から始まり翌年には完成したとされます なにもない所から短期間で掘削したものとは思えず、掘削にあたり従来の護岸の整備に石は必要だったと思われます境内には石垣に加工しようとして楔を打ち込むため開けた屋穴の痕跡が残る岩が複数置かれています過去の地図から鳥居の姿は確認できず、終戦(1945)直後から5年間に当地を写した航空写真から鎮座地を見て見ました 当時は既に現在地に移転を終え、熱田空襲で被災し焼け野原になっていた頃社叢の樹々はなく、現在の社叢はその後植えられたものと思われます 多くの犠牲者を出した愛知時計のあった辺りでは目立つ建物は見られず、由緒による旧鎮座地は堀川右岸、愛知時計の東端になり、現在の千年プロムナード(黄色の辺り)と思われます昭和49年12月復旧再建された社殿の多くはコンクリート造りのものが多く、写真の手水舎もそのひとつ そこに置かれる手水の寄進年は見忘れましたが、再建以前のものではないだろうか後方の鳥居が社地西側の鳥居(1975)のもの拝殿全景 外観はシャープな印象で、梁間2間、桁行3間の四方吹き抜けのコンクリート製社殿の左に境内社の豊受稲荷大明神、右に熱田社と秋葉社の相殿が祀られています 波限神社では神社につきものの狛犬の姿は見られなかった境内は枯れ葉が散乱することもなく清掃が行き届いていました拝殿内から本殿方向の眺め ひょっとして柱はもとは赤だったのかなぁ、壁面の色合いとは少し違うように感じます祭神の彦波限建鸕鷀草葺不合尊の御神徳は海上安全、交通安全、安産、縁結びとのこと まずはこの先の安全を祈願させて頂きます・・・2月も半ば過ぎてましたが小さな鏡餅が供えられていました本殿右の境内社は熱田社と秋葉社相殿板宮造りの社には二枚の社名札が掛けられていますが、文字は脱色し読み取り難かった 名古屋市史(大正4~5)では「軻具土神の一所」とありますが二社に相違ありません創建時期由緒概要に記されておらず、市史が編纂された当時が一社だけだったとすると、熱田社や豊受稲荷はその後に遷座したものとなります波限神社本殿は木造の棟持柱が現れた神明造、棟には外削ぎの千木と4本の鰹木が付くもの拝殿右から境内社と社殿の眺め複数の赤い幟がはためく先に豊受稲荷豊受稲荷全景 稲荷と云えば狐ですがその姿はなく、社の前に小さな陶製の置物が置かれていました豊受稲荷の社は一間社流造で軒唐破風が付くもので棟には外削ぎの置き千木と3本の鰹木が施され、小さな社ながら木鼻や虹梁、蟇股など細かな彫飾りが施されていますシャープな神明造と曲線の流造、どちらも固有の美しさがあります拝殿から社頭の眺めそう云えば社頭の「まむし神様」由来は調べていなかったけれど、湿地が多かっただろう土地柄なのでマムシに纏わる言い伝えがあるのだのう、しかし蛇は大嫌いなので、考え出すと境内の大きな楠の枝から落ちてくるんじゃなかろうかなんで妄想が始まるこれ以上深入りしないようにしよう波限神社創建 / 慶長15年(1610)祭神 / 彦波限建鸕鷀草葺不合尊境内社 / 秋葉神社、熱田社、豊受稲荷大明神例祭日 / 10月18日所在地 / 名古屋市熱田区2-45-8参拝日 / 2024/02/17公共交通機関アクセス ・地下鉄名城線熱田神宮伝馬町駅から西に1.6㌔・25分前後 ・地下鉄名港線 六番町駅から東南に1.2㌔・20分前後
2024.03.26
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先回掲載した前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かうその途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)境内社 秋葉神社鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地神明社土之宮合殿御祭神 天照皇大神 概要 皇室の祖神、伊勢神宮の主祭神で日本の神様の代表 御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興 埴安比咩神 (埴安姫神) 概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様 御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄秋葉神社御祭神 迦具土神 (軻遇突地尊) 概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様 御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 由来創立年代 正確には不明 尾張志の神社の項に「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する 古書の助光城の項に「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り 尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される いずれにせよ、今から500年以上前の創立である祭典・行事 春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」地史をもとに分かりやすく記載されています 上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれていますこれを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない参道から境内の眺め左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり左奥に境内社の秋葉社の姿がある拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの社殿全景拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています境内左の秋葉神社左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです板宮造りの秋葉社本殿手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた創建時期等の詳細は不明拝殿から社頭の眺め正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社ですさて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ神明社土之宮合殿・助光城跡創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神境内社 / 秋葉社参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区助光1-160薬師堂から土之宮神明社 / 西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程関連記事・前田西 薬師堂・秋葉神社・前田 速念寺・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.25
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