~怒濤と撃沈の日々?!~ルール無用のアホ一家~
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12月1日から今日まで私1人で大阪に行ってました。我が家の事をちょっとかじっている人なら“離婚か!?”と思われたかも知れませんが(笑)残念ながら(?)そうではありません。母が子宮頚癌との診断がくだり入院・手術の為、一人娘である私が看病の為に大阪に帰っていました。これから、ぼちぼちとこの期間の事を日記に書いていきたいと思います。゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜ここ2年ほど前から「腰が痛い・肩が凝る・足が痛い」と頻繁に言っていた母。数年前から時々 不正出血 を訴えていた母ですが、すぐに止まるらしく少しは気になりながらも病院に足を運ぶ事はありませんでした。去年の夏は特に「しんどい・しんどい」の連発で、大好きなゴルフに行くのもちょっとつらそうでした。そして9月、ゴルフから帰ってきた後に多量の不正出血があったそうです。1回目は安静にしていれば出血は止まったそうですが、2回目の多量の不正出血はなかなか止まらず、そこで、やっと病院に行く気になりました。10月の初め、淀キリ病院へ。検査結果は癌でした。検査を数回した後、淀キリから大阪成人病病院を紹介されました。検査が痛いから嫌だ。とそればかり言い続ける母。電話の向こうでは「大丈夫や」と言い続ける母ですが、11月あたりから検査結果を聞くたびに少しづつ話が違っている事が多くなってきました。静かにパニックしていたんでしょうね。一つ一つの検査結果に対してゆっくり(数日かけて)話を聞いてあげるように心がけました。あと、私がパニックにならないようにする事を心がけました。我が家では夫婦会議と家族会議を何度も開きました。会議では子どもにも母の病気が何であるか、包み隠さずに言いました。まず、考えた事は子どもをどうするか?少しの期間でも3人を大阪に連れて行き地元の学校に転入さす。こう考えましたが、入院中は私は病院に通わなくてはならず、大阪の家で子ども3人を夕方から夜まで置いておく事は怖くてできない。じゃぁ、入院中の間は3人を島に置いておき、母が家に帰ってきたら3人を呼んで大阪の学校に転入さすのはどうだろう?これなら母の看病も子どもも安心・・。そう思い家族会議で提案したところ、以外な事に1・2号が「大阪の学校には行きたくない。島の学校の行事やバスケをやりたい」っと拒否。3号も「島がいい」と言いました。何度も「お母さんはいないんだよ?」と言いましたが、「3人で頑張る」と・・・。この台詞を聞いたときに「子どもは置いていこう。」と決心しました。そして、「義母さんにも叔母さんにも同級生のお母さん方にも学校の先生にも・・みんなに、島のみんなに甘えよう。面倒を見て貰おう」と思いました。「子どもの面倒は見れないぞ!」っと最初は私1人で行くことに抵抗があった旦那ですが、最後には納得をしてくれました。11月後半・・母の精神状態もあまり良くない感じが電話でも強く伝わってきました。そして、だいたいの入院・手術の日取りが決まってきたので12月1日に帰る事に決めました。帰る日が決まってからは子どもの部活を毎日見に行きました。夕飯の準備が遅れても少しでも子どもの側にいてやる事。そして家では3人で助け合って家事をすること、自分のことは自分ですること・・何度も言い聞かせました。後、1人でも多くの人に事情をきっちりと説明し「みんなで我が子の母になってやってください」とお願いをしてまわりました。帰る当日。壁に3人への注意書きや一人一人への手紙を壁にペタペタ沢山はりつけて島を出ました。書いても書いても書き足りない私の気持ちでした(笑)母は笑顔でしたが、顔色は悪くかなり痩せていました。「ちゃんと食べなアカンで」っと言っても「食べてるやん」と返事するばかりで信じられないぐらい食欲も減退していました。癌と診断されたとたん、いっきに病魔に犯された・・いや、精神的に負けている母を見て、悲しみや腹立たしさがこみ上げてきました。癌に対する腹立ちではなく、弱気な母に対しての腹立ち。「私のお母さんは こんなに弱くない!!」っと思う気持ちと現実のギャップ。受け止めなければならないのに、どうしても素直に受け入れられない。認められない。自分の弱さを痛感しました。 ~つづく~
2007年01月19日
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