仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.08.08
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カテゴリ: 宮城
多賀城の基礎知識(前編) (06年8月7日)から続く)

6 多賀城の建設
 造営には公民や兵士、また過重な負担のため本籍を離れた浮浪人などが多数動員されたようだ。発掘では瓦が出土しているが、第1期の創建には、木戸窯跡群(大崎市田尻)、日の出山窯跡群(色麻町)などで瓦が生産された。第2期以降は、仙台市の台原や小田原丘陵の窯跡群に集中しているが、陸奥国分寺にも瓦を供給している。窯構造も第1期の地下式ではなく半地下式。第4期の春日大沢窯跡群(利府町)も半地下式。

7 役人と兵士
 陸奥国は大国のため、国司は、守(長官)、介(次官)をはじめ多数の職があった。また陸奥国には鎮守府も置かれた。上級官職は中央貴族。国司は任地との不正な結託を防ぐため約2年半で交替させられたという。中央の官職と兼務とされたため実際には多賀城に赴任しない者も多かった。職務内容は、管内の実情や役人勤務評定に関する文書の作成や整理が中心。硯や木簡が出土している。
 兵士は一般公民から義務として徴発される。期間中の食料や武器は自弁だから、相当な負担であった。九州の防人と同様に、蝦夷対策の多賀城行きは相当な苦難であった。

8 呰麻呂(あざまろ)の乱と蝦夷対策
 律令政府は多賀城を根拠地として、桃生城と出羽国雄勝城(759年)、伊治城(767年)を造成して北方対策を進めた。これら城柵造成に貢献した牡鹿郡出身の豪族、道嶋宿祢嶋足が、陸奥国大国造として勢力を持つ。他方で蝦夷との武力衝突が生じるようになり、政府側で覚べつ城(ベツは敝の下に魚)の造営の指揮を執っていた按察使紀広純と道嶋大楯が、780年に伊治城で蝦夷出身の大領伊治呰麻呂に殺害される。さらに、呰麻呂は多賀城を攻略し炎上させた。

 この乱の衝撃から、律令政府は多賀城を単なる行政府だけでなく、兵士を駐屯させることとした。蝦夷の抵抗はなおも続き、東北や物資兵力の供給地だった坂東(関東)諸国も疲弊させたが、801年に坂上田村麻呂が胆沢地方を完全制圧、811年の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の征討で岩手県地方までが陸奥国に取り込まれる。

9 古代の城柵
 六国史には越後国を含む東北の古代城柵として19カ所が記載されている。多賀柵(国府)のほか、玉造柵、新田柵、牡鹿柵、色麻柵が737年の文献に記載。なお、出羽国では城輪柵(きのわのさく、酒田市)が平安時代の国府で、やがて秋田(後の秋田城の地)に出羽柵が移された。
 奈良時代後半には、桃生城、出羽に雄勝城を造成。次いで、767年伊治城、その後覚ベツ城造成に着手。呰麻呂の乱を経た征討で、胆沢城(802年)、志波城(803年)、徳丹城(813年頃)

10 奥州藤原氏
 奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗抜、志波、岩手)はなお中央政府に完全に服属せず、俘囚長を中心とした独自の統治が行われていた。11世紀には俘囚長から出た安倍氏が奥六郡を支配し、国司に反抗。政府は源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命、頼義は子の義家とともに、出羽の俘囚長清原氏の援助を得て安倍頼時を討つ(前九年の役、1062年)。
 この戦功で勢力を広げた清原一族の内紛に、陸奥守源義家が介入、清原清衡を応援して反乱を平定(後三年の役、1087年)。
 この過程で東北の現地族長権力は清衡を初代とする奥州藤原氏に一元化。3代秀衡は鎮守府将軍、やがて陸奥守に任ぜられ(1181年)、平泉が多賀国府に代わり本庁の性格を持つようになる。
 その後、源頼朝が多賀国府に立ち寄りながら平泉に進み、4代泰衡を討ち東北を支配下に入れた(1189年)。直後の藤原旧臣大河兼任の乱に、多賀国府留守職が加担したことから、頼朝はこれを平定後直ちに解任、伊沢家景を陸奥国留守職に任命。これにより多賀国府は完全に頼朝の支配下となる。
(この項目については近時の平泉の調査で研究が進んでいるだろう。後日整理。例えば、岩手日報の工藤先生の 連載 。)


 鎌倉幕府の奥州支配は、葛西、伊沢両氏の奥州総奉行を通じて行われた。北条氏一門が陸奥守に任命されることが多い。
 多賀国府はあまりわかっていないが、建武親政(1333年)に際して北畠顕家が陸奥守となり下向し、多賀国府が再び政治の拠点となった。
 南北朝の動乱に際し、顕家は後醍醐天皇の命で京都に進撃するが、そのため奥州も足利の勢力が強まり、帰国した顕家は多賀国府を放棄し、霊山(福島県)に移る。
 足利尊氏は1346年新たに奥州管領として、吉良貞家、畠山国氏の二人を多賀国府に下向させる。しかし足利氏の内紛でこれら両名も対立、岩切城の合戦が行われる(1351年)。この間隙に南朝方が多賀城を奪回するが、吉良貞家の攻撃で多賀国府は南朝の抵抗から足利の支配が確立。
 それでも奥州には、斯波、吉良、畠山、石塔(いしどう)の4氏が管領を名乗って勢力争いを続け、やがて勝ち残った斯波氏が大崎地方を根拠地としたため、多賀国府は使命を終えることとなる。


 多賀城跡の南部にあたる部分に多賀城碑がある。近世のはじめから陸奥の歌枕である「つぼのいしふみ」と結びつけられ、松尾芭蕉も訪れるところとなる(1689年)。
 仙台藩も顕彰し、現在に残る覆堂が作られた。
 しかし、土中から発見されたというこの碑、本当に762年に建立されたかどうか、真贋論争があった。しかし多賀城の発掘調査と、碑の周囲の発掘調査で、碑文の内容が正しいことと碑が当初からここに建立されていたことが明らかになった。これで、724年の多賀城創建も確定したわけである。
 10年くらい前のこと、私が文化財関係の先生から話を聞いた際には、中の碑よりも覆屋の方が文化財的価値がある、と聞いた。覆堂の修復の話だったのと、碑の真偽問題があったことで、ユーモアで語ったのだと思う。あるいは、国の重要文化財指定(平成10年)のちょっと前の頃だから、まだ真贋論争が残っていたのか。いずれにしても当時の私はまったく不勉強だったので、しばらくそれを信じていた。

■関連する日記
  ○ 多賀城の基礎知識(前編) (06年8月7日)
  ○ 岩切の寺社をめぐる (06年1月3日)
  ○ 平泉への道 (06年1月11日)
  ○ 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城 (06年1月25日)
  ○ 古代東北の理解 (06年5月31日)





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最終更新日  2006.08.08 05:56:15コメント(0) | コメントを書く
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