仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.02.10
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カテゴリ: 仙台
公娼制度は昭和21年にGHQにより廃止され、売春防止法(昭和31年)で根絶された。我が国文献で初めて登場するのは万葉集(うかれめ、遊行女)だそうで、やがて漂流民の自由業から公娼制度に移行し、秀吉の時代は遊郭での営業になる。

仙台は舟丁あたりに小保(おぼ)町という遊客街があり、石名坂には遊女石名之墓も残る。しかし寛文事件以来仙台藩は遊女屋を禁じたので、塩竈や石巻で業がなされた。

明治になり遊女屋の御法度も打ち破られて、国分町を中心に妓楼28軒ほど立つ。川内中ノ瀬の八百屋針生正之助が旅人宿を改造した中正楼がその開祖である。これにより東一番丁や虎屋横町も繁栄した。このころ官軍を客にする「草餅」と呼ばれる散娼もみられた。娼妓の禁止を求める世論を受け明治6年全国に禁令が出るが、業界の請願もあって2ヶ月の閉店の後再開。しかし結局市街地の中心にあるのは好ましくないとして、明治12年に、片平丁支倉寄りで、北一番丁と定禅寺通櫓丁の間に位置する広瀬河畔に遊郭を作って、十年続いた国分町の妓楼を移転集中させることとし、常盤町と称した。現在の市民会館付近だろうか。

しかし川向かいの川内兵営の士気に影響するとの軍の威圧を受けて、明治27年に小田原(蜂屋敷跡で八重垣と称した場所)に移り、常盤丁と称する(広瀬河畔の従来の遊郭は元常盤町と改称)。維新後さびれていた宮町はにわかに活気づき、日清日露の戦後好況に際には弦歌の賑わいだったという(戦後に旅籠町と改称)。新常盤町遊郭には、業者三十数軒、娼妓三百人程度があった。

旅籠町町内会があるし、また旅籠町公園などの名にも残っているようだ。

■参考 田村昭『仙台花街繁昌記』宝文堂、1974年

なおこの本は家庭の貧困から前借金で過酷な労働環境に身を置いた女性の観点など、仙台の庶民生活史として、資料を収集して後世に伝え残そうとした、田村氏の労作だ。背景にある貧困や賤業の差別観もそうだが、仙台の繁華街の賑わいや七夕祭りなども花街の繁昌と関わりが深い。時代の事実を知ることが基本だ。私は主に仙台の街づくりの観点から「常盤町」の位置に関心を持って本を手にしたのだが、仙台のつい最近の歴史に思いを馳せずにはいられない。





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最終更新日  2007.02.10 11:19:39
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