仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.09.04
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カテゴリ: 仙台


それはともかく、この道を降りていくと、岩切城跡入口という看板がある。岩切城、そして周辺の仙台北東部に多く存する古城跡について以下の通り整理して記す。

〔岩切城(高森城)〕
文治5年(1189年)頼朝が平泉を滅ぼした後、建久6年(1195年)3月重臣伊沢左近将監家景を奥州留守職に任じ、高森城に居城させた。伊沢氏は後に留守氏を称し、岩切六郷の地頭となる。南北朝の戦乱では幾度か争奪の的となり、室町期には再び伊沢氏が領有し歴代の居城とした。のち、伊達氏の支配に属し、元亀元年(1570年)に利府城に移され岩切城は廃された。
東西5百メートル、南北400メートル。本丸(現在の高森山公園か)、二の丸、三の丸に別れ、大手は東の神谷沢と推定されている。

〔化粧坂城〕
岩切の若宮から一部神谷沢にまたがる。東西110メートル、南北200名採るの低地の城で、晴宗三男で留守氏に入嗣した伊達上野介政景取立の要害とされる。

〔稲荷館〕
稲荷西の阿部氏屋敷の裏に見える稲荷神社付近の水田に残る平城の跡。


東光寺背後の高さ40メートルほどの雑木林の頂上部に東西80メートルの細い平場がある(現在墓地と駐車場となっているところか)。ここが防塁の中心と思われ、土濠跡もみられる。「仙台領古城書士」には城主は余目某、家景の家臣とある。古記に曰く、国分盛重に三男三女あり、その三女余目氏に嫁ぐこれ也とある。
観応2年(1351年)岩切城に籠もった足利四探題の一人畠山氏が、これを攻撃する同じく四探題の一人吉良氏との間に熾烈な合戦(岩切城の決戦)を展開、吉良方の大勝に終わる。この時畠山方に味方した地方豪族が伊沢氏や余目氏。余目氏は留守氏の麾下に属した留守一族。余目氏はその時「余目城」に籠もったと記すものがあり、余目城は東光寺城を指すのではないかとされる。

〔笹森城〕
城主鶴谷治部とされる。鶴谷氏は国分氏の重臣で永禄年間に国分14代宗政の妹が鶴谷盛勝の妻になっている。鶴谷治部は天正年間の城主。のち政宗に召し出され、跡を継いだ子の佐伝次は病死。佐伝次の子彦太夫が二歳で跡を継ぎ、後に竹谷村(高城)に移る。
留守氏の高森城(岩切城)と対峙する国境に位置した関係で小競り合いを繰り返したと思われる。
「奥羽永慶軍記」によれば、国分氏は本城を松森城とし城主伊達三河守盛重は輝宗の弟(政宗の叔父)。盛重には恩賞がないことから政宗を恨んだともされ、逆心から夜討ちをかけるとの陰謀があると聞いた政宗は討伐軍を送る。急襲を受けた松森城は大騒ぎとなり、郎党の朴沢、古内、鶴谷などが防戦したが敗れ、盛重は常陸の佐竹氏に亡命し、国分氏は滅亡した。

〔小鶴城〕
現在の新田三丁目、国分氏家臣の逸見氏の居城とされる。

■参考 新しい杜の都づくり宮城野区協議会・宮城野区役所 企画編集『岩切』新しい杜の都づくり宮城野区協議会、1996年
宮城野区サイト にも出ている)


 ○ 岩切の寺社をめぐる (06年1月3日)
 ○ 松森城(鶴ヶ城)について (07年6月10日)





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最終更新日  2007.09.04 06:09:13 コメントを書く


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