仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.11.04
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カテゴリ: 東北
旧会津藩の藩士と家族1800人が、新潟港から大湊に上陸したのは、明治3年6月10日。会津藩は賊軍として領地を没収され、明治2年11月に、旧盛岡藩のうち下北地方、三戸郡と二戸郡の各一部を与えられて家名再興を許された。総勢で17300人が移住したという。

親藩は斗南藩。北斗以南皆帝州の詩文からとった。一説には南斗六星(射手座)が語源で、薩長を討たんとする会津藩士を意味するとも。

斗南藩は公称3万石だが、現実は7千石ほどで、挙藩流罪の旧藩士家族の生活は苦しかった。

むつ市斗南丘(となみがおか)には藩士の墓などが残る。また、小川原湖の東に斗南藩記念観光村がある(三沢市)。現在は 道の駅みさわ となっているようだ。

廃藩置県後の斗南県の広沢安任が日本初の西洋式牧場開牧社を設立した場所。広沢は斗南県の弘前県との統合を強く要望し、この結果現在の青森県の原型ができた。

弘前藩は激論の末、藩主津軽承昭(つぐあきら)の決断で、列藩同盟を脱退して征討軍についた。八戸藩2万石は盛岡と同族の南部氏だが、藩主信順(のぶゆき)が島津からの養子で列藩同盟に加入したが戦争には消極的で戦後も懲罰はなかった。

■参考 加藤貞仁『戊辰戦争とうほく紀行』無明舎出版、1999年





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最終更新日  2007.11.04 07:23:48
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