仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.04.22
XML
カテゴリ: 教育
教育を考えるには、目先の事柄に惑わされるだけでなく、時代の流れ、特に我々がたどった道を意識しなければならないと思う。不登校、学力低下などがまさに今日的課題であろうが、制度かくあるべしなどの喧しい論議に明け暮れるだけでなく、明治以来の私たち日本人がたどった、等身大の教育事情に思いを致すことが必要ではないか。

横須賀先生の文章で、あれこれ考えさせられている。以下に、要約させて頂く。
----------
昭和22年のキャスリーン・アイオン両台風の被害を報じた新聞の写真に、ランドセルを背負ったまま流れ着いた少年の遺体があった。当時の私(横須賀先生)の意識もそうだが、避難に際してはランドセルを背負ったほど、学校や教科書は大切なものであり、親もそう教えた。

昭和末期から登校拒否が問題となりやがて不登校と呼ばれ、今も10万人を越えると報じられるが、かつては毎晩就寝前にランドセルに教科書を詰めて枕元に置いたもので、学校や勉強とは、好き嫌いの問題以前に大切なものとして意識されていた。

もちろん、不登校を積極的な個性の表現と理解する論や、不登校の子が生き生きと過ごす施設なども一概に否定はしない。しかし、現在の学校そのものを否定したり、就学義務を教育義務と置き換えるような論調に際しては、近代社会の黎明からこれを支えてきた教育や学校に思いを致すと、複雑な思いになる。

更に、平成の教育の重要問題である学力低下問題も不登校問題と表裏をなす。西村和雄の指摘(分数ができない大学生)を契機に、平成12年頃からマスコミでさかんに取り上げられ、ゆとり教育批判を軸に学力論争が展開される。平成16年に公表されたPISA調査結果で、学力低下とゆとり教育批判が決定的となった。文部科学省は受け身に立たされ、ゆとり教育見直しと全国一斉学力テスト復活、そして授業時数増加(平成20年学習指導要領改訂)に至り、マスコミ上は学力低下批判は影を潜めた。

百人に百通りの学力の定義があると言われ、そもそも学力低下なる指摘の適否も難しい。学力とは計測可能なもの以外が重要と反論もされる。平成の学力低下論争も同様の展開となり、しかしまた、教育行政の動向を左右したのも過去と軌を一にしている。敗戦直後の民主教育を満喫した後に、まもなく学力低下批判で受験競争が復活したのだから、歴史は繰り返すと言える。

学力水準として示されるのは平均点だけだが、平成の学力問題では学力の二極分解が顕著で、下層における学習そのものへの拒否や放棄の実態がある。それは、日常の生活態度と連想しており、不登校予備軍と呼べる。



しかし、その地点から見れば平成の教育は間違いなく変調をきたした。立ち直ることはできないのか、いやこれも歴史の一コマか、わからない。しかし、130年余の教育と学校の歩みを振り返ることが将来展望に大切なことであろう。
----------
横須賀薫監修『図説 教育の歴史』河出書房新社、2008年
要約したのは、同書の「おわりに」の部分である。

この本は、明治以来の我が国教育のありのままを、資料と主要な言説を紹介しながら丹念に示すものである。

地方教育行政や学習指導要領などを含む広い意味での制度論、また、予算、学校施設、教員の資質など教育資源のあり方など、様々な議論が進められるべきである。しかし、制度や資源の観点がまさに教育論の本質なのだと、ついつい思いこんでしまうことはないだろうか。

それらは、所詮は二の次なのかも知れない。教育は、育つ若者と導く教師とによる等身大の実践にこそ実在しており、それこそ明治の学制以来、そのことは変わっていないだろう。

政策論として制度面や予算などが論じられるのは、仕方のない面もある。現場の個々の教育実践そのものは、現実には論評し尽くすことができないし、政策として作用できにくいから、どうしても制度の変更や予算増強などが議論されてしまう。

しかし、制度や予算は教育実践に仕えるためのもので、それ以上のものではない。生身の人間それぞれが、どう考え、どう導かれていくのか。教育とは、やっぱり子どもが中心にあるのだろう。そして、個々の生身の子を教えるのは教師であり、これはいかにIT社会が進み家族制度がバーチャル化したとしても、おそらく変わらない営為だ。

横須賀先生は教育学、特に日本教育実践史がご専門とのことだ。上記の文章は、おそらくは敢えてご自分の見解や主張を控えて、教育実践の原点に立ち返って考えることの重要さを我々に示そうとされるのだ、と私は思った。

私は、教育実践論など物言える立場でもないのだけれども、数値化された「学力」や「不登校」など、何か「一定の」子ども像や教員増をイメージしながら制度かくあるべし式の議論が、それは大切だけれども、それが教育論のAtoZのような誤った意識に陥らないよう戒めたい。事実、ほかならぬ昔の私を含めて、無数の個性と可能性を備えた子どもが、それぞれに育ってきたのだから。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009.04.22 04:53:49
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

コメント新着

ななし@ Re:北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(09/10) 『1917年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩…
おだずまジャーナル @ Re[3]:水の森公園の叢塚と供養塔(08/03) 風小僧さんへ 規模の大きい囲いがあった…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: