仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.03.16
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カテゴリ: 宮城
1 大崎平野の郡設置

陸奥国では、和銅6年(713年)12月に、新たに丹取(にとり)郡が大崎平野に置かれる。郡家は名生館官衙遺跡(大崎市)と推定される。多賀城創建(724年)より前のこの時期に、すでに大崎平野には、丹取郡、志太郡など数郡が存在していたと考えられる。権現山・三輪田、南小林、赤井など、多賀城創建以前の官衙遺跡が相次いで発見されている。

霊亀元年(715年)5月には、相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野の6国から富民千戸が陸奥国に移配される。丹取郡など大崎平野に対する移民と考えられ、50戸1里(郷)の原則からすると20郷分となり、大規模な移民である。大崎平野は、後に黒川以北十郡と呼ばれる微細な郡の集合体に再編されるが、十郡の郷数は32なので、この地域の郷は、すでに3分の2が霊亀元年の移民で編成されたことになる。

そして、郷名も、黒川郡新田郷(上野国新田郡)、玉造郡信太郷(常陸国信太郡)など、上記の6国の郡名に基づくものが多い。

2 郡の意義

郡の設置は、辺境における律令支配の面的拡大であり、律令国家の東北政策の成果を最も端的に示すものだった。陸奥国では、柵戸の出身地は坂東諸国が多く、出羽国では、東海・東山道や越前、能登、越後など北陸道諸国が加わる。

柵戸は公民として戸籍に登録され、郡や郷に編成されることで、城柵に人役と物(租、調、庸など)を提供し、その存立の基盤となった。柵戸は、他地域から移住させられた移民である。

一方で蝦夷系住民は、基本的に郡・郷に編成されず、村に居住し、城柵に対して朝貢、力役など一定の責務を負う一方で、城柵から禄や食料を支給され、またその兵力で未服属の蝦夷から保護された。国司(城司)が蝦夷に対して饗宴を行い禄を支給すること(饗給)は、蝦夷の懐柔策として重要な意味を持った。また、蝦夷が朝貢する馬、鷹、毛皮、昆布などの特産物は都の帰属層に珍重された。服属した蝦夷の軍は俘軍と呼ばれ、征夷や城柵造営で国家側の武力として活動した。

3 大崎平野の郡設置以前の概要



越後国には大化3年(647年)に渟足(ぬたり)柵が、同4年に磐舟(いわふね)柵が置かれ、それぞれ新潟市と村上市が比定されている。その後、大宝2年(702年)には、沼垂(ぬたり)郡、石船(いわふね)郡の2郡しかなかった越後国に、越中国の4郡(頸城、古志、魚沼、蒲原)が移管され、6郡とした。これは、北方支配のために、人的物的基盤となる越後国の国力を充実させたものと考えられる。そして、その成果の一つが出羽郡の成立である。

出羽建郡の半年後、蝦夷の抵抗に対し、政府は征夷を決定し、東海道、東山道、北陸道の10か国から徴兵する。越後側には征越後蝦夷将軍(佐伯石湯)が、陸奥側(おそらく仙台市郡山遺跡2期官衙)には陸奥鎮東将軍(巨勢麻呂)が派遣された。出羽方面で本格的な蝦夷征討は、この和銅2年が最初で最後である。

この和銅2年の戦闘により、和銅5年9月、出羽国を置くことが可能となった。間もなく、陸奥国から最上郡と置賜郡が移管された。出羽は、古代は「いでは」と読まれ、「出端」の意味であったと考えられる。越後国からみて、まさに出っ張った端にあるという意味である。

こうして出羽国が成立した頃、陸奥国でも新たに郡を置く動きが生じるのである(上記1の丹取郡設置など)。そして、陸奥国北部の充実を踏まえ、養老2年(718年)には、石城(いわき)、石背(いわせ)両国を陸奥国から分置するのである。


■鈴木拓也『蝦夷と東北戦争 戦争の日本史3』吉川弘文館、2008年 から





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最終更新日  2010.03.17 00:22:32
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