仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2014.09.06
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カテゴリ: 宮城
長谷川成一「日本三景の成立と名所観の展開」(島尾、長谷川編『日本三景への誘い』清文堂出版、2007年)による。

日本三景の成立(その1) (2014年8月24日)に続く



古川古松軒(こうしょうけん、1726-1807)は幕府巡見使とともに全国各地を旅行し、独特の名所論を展開した。「東遊雑記」で、次のように主張する。

天橋立、厳島、松島をもって日本三景とする昔からの考えは、愚眼の持ち主のいうこと。実際に見聞して言うならば、富士山、田子の浦、清美ヶ関などが第一位である。それに続くのは、4、5目下がって松島。さらに9目下がって薩摩の坊津の海岸、天橋立。以下、箱崎、須磨・明石、出羽象潟、厳島、和歌の浦、薩摩桜島、伊勢二見ヶ浦、琵琶湖の浦々、陸奥岩木山の雪景、難波津の景色など。これらはいずれも世間の人々の好みによるもので優劣つけがたいが、何と言っても山は富士山、景色において松島に並ぶものはない。

この中で古松軒は、景色においては松島に並ぶものはないと絶賛しながらも、従来の三景観はナンセンスとする。三景に選定されたのは理由があって、たとえば薩摩の坊津や桜島には、西行や能因、芭蕉が行脚した形跡がなく、和歌や俳句に詠まれて広く知られることがないからであるという。いかに秀逸な景色でも、古人の和歌や俳句に詠み込まれた歌枕でなければ名所と認められない不合理性を指摘している。

厳島については、古松軒は「西遊雑記」の中で、景観の素晴らしさは認めながらも、島嶼としての美景には懐疑的であって、神社の荘厳や建造物の壮麗さにあり、それは歴史の所産であるとする。名所の地は、純粋に自然景観を要素として評価すべきというのである。実地踏査に基づいた古松軒の合理的な名所論は江戸時代には得意なものであった。

江戸時代後期に全国を行脚した修験者野田成亮(せいりょう)は、旅行記「日本九峰修行日記」で、文化11年(1814)天橋立に至ってさすが日本三景の一つと記している。野田でも三景論にとらわれていた。



昭和2年に東京日日新聞と大阪毎日新聞の合同紙面企画で鉄道省後援により選定された「日本新八景」は、候補地選びに際して国内に熱狂を呼び起こした。日本三景とは異なる豪壮な風景で、和歌や俳句に詠まれていない新鮮な天然風景の発見という期待に基づいて、得票数と理科系研究者の選考によって決定されたという。

もっとも、熱狂した選定過程の割には、発表後直ちに熱は沈静化し、今では知る人は稀だろう。
(八景は、狩勝峠、十和田湖、上高地渓谷、室戸岬、木曽川、別府温泉、華厳滝、長崎県温泉岳)
忘れ去られた原因は、豪壮な風景は一時的に人気を博しても日本人の感性に訴えかける景観ではなかったことを示しているのではないか。我が国の名所景観は歴史的背景と重層的に蓄積された文化の表象なのだから。

日本三景が現在まで景観の魅力を失わず我々を魅了するのは、三景が名所を構成する要素の大部分を備え、名所景観の基準ともなるほどに、景観の根幹を構成している点と、我が国の文化のアイデンティティを基底部分で支えているとの認識が作用しているからではないか。

従って、日本三景が、新八景と同様の運命をたどることはないだろう。





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最終更新日  2014.09.06 17:39:01
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