仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2015.02.23
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カテゴリ: 仙台
力試し石と伝えられるものが各地にあるが、利府町の神谷沢にも有名な力試し石がある。

664年前(原文ママ。おだずま注)の板碑で、2基がある。1つは高さ5尺幅3尺余りの安山岩で梵字は「ア」、紀年は延慶3年2月27日とあるが、これではない。もう1つが、高さ6尺幅2尺余りの砂岩で種子(しゅじ)は「アン」、紀年延慶3年8月26日、銘文が摩滅しているが、これが力試し石である。

舟山万年「塩松勝譜」(文政6)にも、高六尺許、横之ニ半ス、記文剥落ス、延慶三年僅ニ読ムベシ、之ヲ土人試力石ト云フ、とあって持ち上げたのは平田五郎と書いてある。

平田五郎は、会津四宿老の平田土佐守実範の次子周防の子で、政宗公に仕え、利府本郷で2百石を領した。身長7尺、豪勇で知られ、一回に2、3升の飯を食いだめして何日も食わない腹芸があった。

ある夕方に神谷沢の浜街道にかかる神谷川の土橋を通ると、干上がった川に狐の群れが海老ざっこをむさぼり食って五郎に気づかない。五郎がおもしろ半分に大喝すると狐は逃散したが、見事に光る玉を落としていったので五郎は持ち帰ったところ、夜更けに玄関をたたく者がある。見ると若い女がしょんぼり立って、あの時の狐で逃げるときに大切な玉を置いてきた、あの玉がないと仲間入りできない、何とぞ返し願いたい、ご恩に怪力を身につけて進ぜる、と涙を流して歎願するので、もぞこくなり玉を返してやった。

翌日、神谷沢に行って試しに延慶の碑を持ち上げると、軽いこと藁束のようで、狐の約束どおり。

時は文禄4年7月14日、伏見城大広間。関白秀次が高野山で切腹に処せられた直後で、政宗公は秀次に党与した容疑で至急太閤から上洛を命ぜられた。世上の取沙汰は政宗公の切腹で持ち切りの土壇場。この日、片倉景綱が政宗公の刀を捧げ平田五郎は草履取りとして従った。太閤が政宗詮議の最中に地震のような屋鳴り振動を感じ、数人の侍臣が遠侍の玄関に出ると、柱と土間の間に草履が挟んである。そこへ雲突く巨漢の五郎があらわれ、閑所(トイレ)に行く間はさみ申した、どうれ、と片手で柱を持ち上げ片手で草履を取り出したから、一同舌を巻いた。太閤の耳にも入って、政宗佳士を得たり、と賞め公の疑いも晴れた。

五郎から4代目の長右衛門茂直は2代藩主忠宗の恩遇厚く、万治元年忠宗他界の時殉死。子孫代々虎乃間番士。370石。神谷沢の東浜街道には、今も平田橋がある。

原町二丁目、原ノ町小学校となりの平田神社は五郎が慶長8年に勧請した稲荷の社である。



■利府町観光協会のサイトに延慶の碑と平田五郎が 解説 されています。





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最終更新日  2015.02.23 22:20:55
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