仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.06.19
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カテゴリ: 宮城
鈴木重雄(1911-1979)は唐桑町鮪立に生まれ、ハンセン病回復者の社会復帰に尽力した。回復者の社会復帰にさまざまの問題を抱えていた中で、患者であった鈴木は地元に戻り受け入れられ、高度成長期の漁業の町を、地域振興や障害者政策などで大きく変える力となった。

■松岡弘之「ハンセン病回復者の社会復帰と宮城県本吉郡唐桑町」
 荒武賢一朗編『東北からみえる近世・近現代-さまざまな視点から豊かな歴史像へ-』(岩田書院、2016年)所収

(本文中は敬称を略しております。)

鈴木重雄は東京商科大学在学中にハンセン病を発し、1936年、岡山県の国立療養所長島愛生園に入る。田中文雄の名で入所者の処遇改善のため自治会活動を支えた。隔離政策への反対運動にもかかわらず、隔離を継続し退所規定ももたない「らい予防法」が制定され、鈴木自身も自殺を図り一命を取り留めるが、その後は個人の立場からハンセン病に関する啓発や社会復帰に関心を寄せるようになる。

戦後日本のハンセン病問題は、プロミンの登場などで転換を迎え、1953年の経口薬DDSの開発で外来治療の途が開かれる。昭和24年から50年にかけて3357人が療養所を後にした。また、療養所にいながら園外の高度成長期の建設労働に従事した人も多かった。しかし、住まいや仕事の確保、再発リスクや社会の視線などの複雑な問題について、社会復帰策は不十分であった。

鈴木は、全国ハンセン氏病患者協議会(全患協)や藤楓協会(旧らい予防協会)、社会復帰研究会などの活動に関わっていく。藤楓協会の浜野規矩雄は、昭和15年に浜野が軍事保護院課長として愛生園を訪問した際に鈴木と面会しているが、その後、厚生省予防局長を退職して藤楓協会理事長となって、再び鈴木と浜野の関係が続いていく。退所者の増加は、それまで入園者の作業に依存した療養所の存立基盤にも影響したことから、療養所のあり方も検討された。昭和38年の東京YMCA会館でのハンセン病回復者宿泊拒否事件、昭和39年の簡易宿泊施設「交流(むすび)の家」建設建設反対問題などに際して、学生達とも交流を深めている。

故郷との再会は思いがけない形で訪れた。

気仙沼湾は昭和23年に県立自然公園に指定されており、市や唐桑町はこれを陸中海岸国立公園に編入させる陳情を行っていたのだが、厚生省の国立公園審議会で追加指定は見送られていた。地元の市町の陳情先のひとつが、国立公園審議会委員でもある浜野規矩雄だった。浜野を訪ねた鈴木が市長や町長の名刺を目に留めたことで、鈴木ははじめて唐桑出身であることを浜野に明かし、編入問題を知ることになった。巻き返し方法を尋ねる鈴木に、浜野は知恵を出し、鈴木は景観調査のために、自身は二度と訪れることはないと考えていた故郷を27年ぶりに訪れるのである。



昭和39年8月4日、気仙沼市で開催された国立公園編入記念の祝賀会に、鈴木は鈴木重雄として招待され、翌5日には唐桑町で浜野とともにハンセン病に関する講演会を開催した。会場の公民館には100名以上がつめかけ、浜野や鈴木は懸命に取り組んできた社会復帰運動の結実を実感した。
(同じ鮪立地区に生まれた村上正純(後出)は、かつて地区に患者がいたことを知っていたこと、過去の病気や後遺症よりもスケールの大きな鈴木の言葉に惹かれたこと、発汗障害のため手ぬぐいで汗をぬぐう鈴木のさま、などを2013年に証言している。)

昭和40年に東京で開催された汎太平洋リハビリテーション国際会議で鈴木はハンセン病回復者として初めて日本代表に推され報告を行い、かつて大学ボート部員として接した東京都の東知事とも再会。

ところで、国立公園とさらた観光資源を唐桑町の産業として活かしていくために、鈴木は個人の立場で宿泊施設の整備を町に持ちかける。しかし、町は過大な財政負担を理由に慎重な姿勢でいた。一方で、丘陵地で水源に恵まれない地域からは上水道整備の要望も出されており、各家庭で水瓶に水をためるのは女性や子どもの仕事だった。そこで、鈴木は、国民宿舎をあえて半島突端に設置し、施設営業に不可欠なインフラとして上水道を敷設する構想を練り上げる。

浜野(昭和41年死去)の後任の藤楓協会理事長となった元厚生省環境衛生局長の聖成稔であった。聖成は鈴木の活動を後押しし、昭和43年2月、国民宿舎からくわ荘が1億8千万円を投じて建設され、同年10月竣工。また、総延長30kmで町内12地区1万人を対象とする上水道は昭和44年度から3か年継続事業として昭和45年10月に竣工。総工費は3億5千万円に達した。いずれも国の長期低利融資を獲得して実現された。

昭和44年には藤楓名誉総裁の高松宮が、からくわ荘を訪問。回復者が後続を案内して会食するということは地域におけるハンセン病問題の啓発と、鈴木の力量を印象づけるできごととなった。

その後も、昭和46年の船員保険保養所「南三陸荘」の定員拡充(80名で日本最大規模。船員が次の出港まで家族と宿泊する施設)、気仙沼し尿処理場、昭和47年には気仙沼港の検疫出張所設置の決定(出漁時の予防接種や帰港時の検疫など、これまで大船渡や塩竈の検疫官の出張を待つ必要があり不便だった)、など鈴木の貢献は続いた。検疫出張所の件は、昭和45年にはじめて宮城県に陳情を行ったが、県は当時仙台新港への検疫所新設を計画したためか厚生省への取り次ぎを保留していたため、直接厚生省に働きかけ、検疫課長が後にらい予防法廃止を打ち出す大谷藤郎であったことなど、鈴木の厚生省に対する交渉力が武器となったものである。

また、鈴木の力に目をつけたダイキン工業に招かれ、昭和46年4月鈴木は同社の顧問に就職する。唐桑町の船主たちはダイキンの冷凍機を次々発注し、子会社のナミレイはアフターサービスのため気仙沼に出張所を開設した。

この頃の鈴木は、愛生園、ダイキン大阪本社・東京支社、唐桑町に、それぞれ1週間づつ滞在する生活。地域の有力者や企業だけではなく、旧軍人軍属、船員の遺族年金などの個人からの相談を受けると、厚生省や社会保険庁に照会し、必要な書類を整えさせるなど、感謝する者は後を絶たなかった。
(おだずま注:原典では「からくわ民友新聞」の記事が出典とされている。)

やがて、鈴木の識見と実行力に期待を寄せる人々が、昭和48年の唐桑町長選挙への出馬を促す。船主の小野寺淳一など。要請を固持していた鈴木が翻意した契機は、陸前高田市が昭和45年に策定した新総合計画で広田湾を埋め立て大規模臨海工業地帯を造成する構想を盛り込んだことである。同市内では漁業組合から市民全体に反対運動が広がろうとしており、唐桑町でも昭和47年10月に町、議会、漁協等の4者が反対協議会を設立して町ぐるみの反対運動を開始した。12月には小型漁船250隻余りが海上デモを行うなどした。岡山に長く暮らした鈴木は、水島コンビナートの事例を見聞きしており、埋め立ての断固反対のために出馬を決意する。


(おだずま注:原典では「三陸新報」記事が出典とされている。)

4月14日の選挙は投票率80.11%(女性は98.58)に達し、重美2957票、重雄2774票で決した。

昭和49年4月、選挙を支援した船主らは鈴木のため町内に住宅を建て、鈴木は妻佳子とともに、38年余りを過ごした長島愛生園を退園した。故郷に戻った鈴木は再び選挙に出ることもなく(町長選挙は無投票が続いた)、地域住民の相談に応じていた。

鈴木が最後に手がけたのが、知的障害者のための施設建設であった。町長選の際も実現を訴えたことだが、父親が漁で家を空けるなかで母親がひとり障害を抱えた子を育てていくことへの支援はほとんどなかった。また、当時、知的障害者の施設は県北に存在せず、県南の施設に預けても交通費の負担が大きかった。だが、選挙戦に敗れて施設誘致の芽はなくなり、結果として鈴木は独力で社会福祉法人を設立して施設を建設する道を選び、それを遠洋漁業の船主たちが後押しした。

昭和51年1月、唐桑愛の手をつなぐ親の会ら7名によって、社会福祉法人設立準備委員会が発足し、事務所は唐桑遠洋漁業協同組合に置かれる。準備委員長には鈴木が就き、役員予定者には、小野寺淳一、三浦政勝、三浦勉、亀谷寿一、畠山禎治郎、村上正純、昆野庄一、神白叔夫、馬場充朗、畠山啓一など、漁業関係者が名を連ねた。4月10日、馬場地区7100m2に100名の知的障害者を収容する、社会福祉法人愛生会(仮称)精神薄弱者更生施設椿園(仮称)設立趣意書が発表された。事業資金2億円、自己資金5千万円の他は、日本船舶振興会、社会事業振興会からの助成を得るとした。その後、用地は馬場地区が不調で、支援者の畠山啓一が所有する浦地区(宿、宿浦とも)の山林2500坪を賃貸することで決着。資金の面では笹川良一の日本船舶振興会に働きかけるため高松宮にまで紹介を依頼し、土地造成費用がその対象にならないと判明すると、船主たちが不足分を負担するとして支えた。資金計画は、船舶振興会からの助成金2億1200万円、社会福祉事業振興会長期低利融資5140万円、自己資金2千万円、特殊寄付金6百万円と変更された。法人名称は山田無文が洗心会と命名し、施設名は高松宮の許可で高松園とした。



町議会でも高松園建設の賛否が問題となり、昭和51年8月に親の会から嘆願書が、また9月には浦地区の建設反対期成同盟会からは反対の陳情が提出される。議会では全議員の特別委員会に付託し、昭和52年2月には10対7で反対陳情を不採択、推進の嘆願を採択とした。その後も反対論はくすぶり、6月には反対派が県議畠山孝(元町長で昭和46年以降県議)に対して説得工作が行われた。また、再び町議会に対して浦地区建設の反対陳情が提出され、7月に教育民生常任委員会で3対2で不採択されるが、議論は収まらなかった。11月の臨時会では、選挙で争った鈴木重雄の功績になることに消極的だと目されていた町長が見解を問われて、決して消極的ではないと反論する場面もあった。

反対の声が静まらない中で、着工を前提とする助成申請は見送られ、計画は遅滞した。昭和52年4月には洗心会理事会で定員を100から50名に半減を決定。これは全国での施設建設が進む中、船舶振興会の助成申請を確実にするためであり、予算は1億496万円(うち振興会助成67百万円)に減額した。洗心会の職員たちは町内各地域で上映会を開催して施設への理解を広げていた。宿浦地区の養殖業者の家に生まれた熊谷眞佐亀は、父が町長選で鈴木重雄を支持したことで加工場を別にされるなど地域で孤立した経験があり、高専卒業を控えて実際に鈴木に会ってみたところ感銘を受け、父や鈴木の反対はあったものの高松園職員となった(2013年の証言)。

昭和53年に洗心会は社会福祉法人の設立を認可された。この設立認可の「ごあいさつ」では、設立趣意書の際とは力点が異なっており、知的障害者の隔離のためではなく、地域の理解を得ながら社会復帰の拠点とすることを前面に押し出している。昭和53年3月に入札が行われナミレイ仙台市店が受注、しかし反対派は実力での工事阻止を示唆し、緊迫していた。地元の「三陸新報」は、反対の理由である汚水による漁業の影響については、し尿は水洗でなく気仙沼し尿処理場に運ぶこと、生活汚水も浄化設備を設けて放流することなど、計画には修正が加えられたことを述べて、反対同盟の執拗な反対を批判し、「その執拗な反対の底には何か強い理由がなければならず、もしそれがあるならば、堂々と表明、社会の批判にかけるべきである」と断じて、知的障害者への偏見を非難した。

昭和54年4月1日ついに高松園は開園したが、鈴木の姿はなかった。職員の採用手続を終えた同年1月末に、鈴木は突如自ら命を絶った。長く秘書を務めた者さえ予兆を感じなかったという。法人は三浦政勝が理事長を引き継ぎ、4月には高松宮が園の視察に訪問した。妻の佳子は理事に迎えられ、愛生園にもどることなく唐桑で亡くなったが、佳子にとっての社会復帰でもあった。

地域への貢献を讃えて、平成2年には、国民宿舎を見守るように鈴木重雄の胸像が建てられている。




以上は、松岡氏の著作をもとに記載したものである。

さて、唐桑の地域はどう受け止めていたのか。公式な町史にはどう出ているのだろうか、と思い、確認してみた。

■唐桑町史編纂委員会『唐桑町史』唐桑町発行、昭和43年(1968)12月

「観光」の章に、昭和37年国立公園に編入されてからは一躍天下にその名が知られ、来町する観光団が激増している、と記述されている。

さらに、観光に関する近年のできごとが年表的に綴られており、昭和38年5月28日に自然公園審議会委員団が来町、御崎・巨釜半造を撮影、とある。同年8月6日には県観光課長が来町し、やはり御崎・巨釜半造を撮影。39年6月1日には国立公園の編入指定。この前後には、施設の整備やテレビ局の放送などが随分と記されている。39年8月の国立公園編入祝賀会も項目だけはあるが、出席者などはなく、鈴木重雄氏の名もみえない。

最後の方で、昭和42年12月22日に国民宿舎からくわ荘建設の町議会議決。昭和43年2月27日着工、同年9月30日竣工。事業費9千2百万円余、とある。

当時はさながら観光開発ラッシュだったのだろう。町史の記述も具体的で、当時の地域の期待を担った「動き」を感じさせる。

町史自体が昭和43年末の発行だから、記述もこの辺が最新だったのだろう。ちなみに、町長は畠山孝が「現任」である。鈴木重雄氏については、観光の章以外でも、触れられていない。





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最終更新日  2016.06.21 20:31:09
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Re:鈴木重雄と唐桑町(06/19)  
さいとう さん
ふと手にした本で、鈴木重雄さんの存在を知りました。
ハンセン病を発症し、家族には思想上の理由で海外に亡命すると手紙を書き残し療養生活に入り、後年は高松園の建設に尽力されたとのこと。
こちらの記事を拝見して当時は地元でも必ずしも毀誉褒貶あったのかもしれませんが、大変立派な郷土の偉人であると感じました。
勉強になりました、ありがとうございます。 (2023.09.02 20:04:19)

Re[1]:鈴木重雄と唐桑町(06/19)  
さいとうさんへ
地元出身の人に地域の見方を聞いたことがあります。紛れもない現代の生きた事実と思います。
読んでいただき、またコメントも寄せていただきまして、感謝です。ありがとうございました。
(2023.09.03 06:35:22)

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