おしゃれ手紙

2017.08.24
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テーマ: ■雑学王■(721)
カテゴリ: トリビア

「河内大塚山古墳」被葬者不明陵墓の“孤絶”

(略)
松原市と羽曳野市の、ちょうど市境にある河内大塚山古墳は、不思議なミササギである。
深々とした木々におおわれた丘陵は、周辺一帯にある天皇陵とほとんど変わらない。

変わらないというよりも、これまで見てきたミササギのなかでも、住宅などに囲まれた周囲の景観を無視し、「孤絶」しているような面持ちがただよってくる。

(古墳へと続く)石垣の道は、羽曳野側と松原側の、前方後円墳の前方部に2カ所ある。
こんな道がついたミササギは初めて見た。

よく眺めると、道のさきの森のなかには、黒々とした道がつづいていた。

現在は、宮内庁によって陵墓参考地として「立ち入り禁止」となっている。
だが明治以降も、 人々がこの石垣の道を通ってミササギのなかに住んでいた。

案内板には、大正14年9月に陵墓参考地となり、昭和3年までに、数十戸の民家が濠外に「去った」と書かれていた。
数十戸と言えば、100人ほどの、おそらく農民とその家族が住んでいた。

「昭和3年」という時期を考えると、「去った」のではなく、「退去させられた」のであろう。

古市や百舌鳥の両古墳群一帯にある天皇陵は、その大半が江戸末期から明治期の尊皇思想の高まりによって、たとえば蒲生君平らといった尊皇家の「ボランティア調査」などにもとづき指定された。

蒲生の調査は、ハンパではなかった。
大和や河内、京だけでなく、はるばる佐渡島の順徳天皇陵まで足をのばし、『山陵志』を書いた。
現在も使われている「前方後円墳」の命名者でもある。

だがこの古墳は、どうにも分からなかったらしい。
明治以降も、被葬者不明とされた。
もれたのに大正期になってナゼ、突然、陵墓参考地になったのか。

   *  *  *

理由は容易に推定できる。
全長335メートル、墳丘の高さ20メートルという規模は、両古墳群のなかでも4番目、全国でも5番目の大きさである。
これだけリッパなミササギに葬られているのは、きっとリッパな大王だったはずである。

だれか分からないが、とりあえず陵墓参考地にしておこうと、当時の陵墓担当の官僚が考えたのであろう。
参考地であったため、3年ほどまえには、学者らによる立ち入り調査も行われた。

もちろん発掘などできなかったが、石室の天井石などが確認され、6世紀後半の古墳である可能性が強いとされた。
規模から、築造されたのは5世紀代で、未完成だったという見方も示された。

5世紀代ならば、中国の史書にある「倭王武」に比定される雄略天皇の可能性もある。
雄略陵は1キロほど東にある「高鷲」の項でも紹介したが、大塚山古墳のほうが雄略陵だとする説もある。

こだわりたいのは、未完成の理由である。
完成したが、のちに壊されたとも考えられる。

   *  *  *

雄略はすさまじい権力闘争のすえ、天皇位についた。
兄や従兄弟など皇位継承権のある親族を次々と、焼き殺すなど残忍な方法で抹殺した。

そのなかに、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)もふくまれていた。
近江に狩りに誘いだされ、雄略に弓矢で射殺された。
その身は切りきざまれ、馬のかいば桶に入れて埋められた。
すさまじい殺され方である。

この皇子の2人の息子が、のちの顕宗(けんぞう)、仁賢(にんけん)両天皇である。
当然、雄略に対するウラミもハンパではない。
『古事記』によると、最初に天皇位についた弟の顕宗は、雄略の「御陵を毀(やぶ)らむと欲(おも)ほし」た。
のちに仁賢となる兄がかわりに壊しに行ったが、すぐに帰ってきて、「その陵の土を少し掘りつ」と答えた。

徹底破壊をのぞんだ顕宗がただすと、いくら父のカタキとはいえ、兄は後の世のこともあると応じ、納得させた。
破壊の規模は分からないが、「未完成」と思わせるていどには壊してしまったのではないだろうか。

この古墳をさらに難解にさせているのは、戦国期に地元の豪族の城まで築かれ、そうとうな規模で墳丘部が壊され、改変されたからである。

蒲生もミササギの中に入りこみ、農家からあがるカマドの煙や、歓声をあげて遊びまわる子供たちの姿を眺めたはずである。
「う~む」と悩んだすえ、「分からん」とサジを投げたのであろう。

--ぐるりと一周まわったが、もうネコはいなかった。
おりからの寒さで凍りついた濠には、カモが泳いでいた。
ときたま氷の上にあがり、悠然と歩いていた。
もちろん、ギョッとはならなかった。(福嶋敏雄)
2013.1.14 15:00更新


私の家から遠くない所にある■ 「河内大塚山古墳」 ■は、昭和のはじめまで、集落があった。

「○○さんのお母さんは、古墳の中の家で生まれた」などという話を地元の人から聞いたことがある。

古墳が造られたのは■ 古市大溝 ■と同じくらいの時代なのだろうか。
■古市大溝は■
全長4kmにもおよぶ古代の運河だった。
しかし、その用途は灌漑説、船運説などがあり、意見の一致をみていない。
掘削時期については、古市古墳群の南群の築造と古市大溝は密接に関わっていたとして、古墳時代中期の5世紀ごろに築かれたとする意見が一般的である。


*以前から気になっていたこの古墳の記事をアップしておく。
この古墳は「大阪みどりの100選」にも選ばれている所で、写真を撮っていたらサギ?がいた。

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Last updated  2017.08.24 10:33:43
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