September 11, 2018
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カテゴリ: 気になるTV番組
2018年NHK大河ドラマ 『西郷どん』
第34回の部分的な感想です。

1853年のペリー艦隊の来航以降は日本が大きく変わって
いき、日本史の中でも幕末史は出来事や登場人物が多い上
それぞれの関係も複雑で、理解するのも覚えるのも大変な
部分だと思います。

今回のテーマとなった「討幕の密勅・大政奉還」、そして
「王政復古の大号令」のあたりは、私は教科書を何回か


私はこれまでTVの時代劇や歴史系のバラエティー番組で
日本史を理解した部分がいろいろありました。
この『西郷どん』でも同様です。
今回も放送後に高校の教科書等を読み返したら、けっこう
細かく書いてある教科書の内容が改めて理解できました。

『西郷どん』では時には歴史の描写が物足りないとも感じ
ますが、逆に描写が細か過ぎてわけがわからん、という
こともないかと思います。
私はこのドラマに出演されている俳優さんたちに好感を
持っているので、ドラマ全体を楽しく見ています。


慶応2年(1866)6月、第二次長州征伐が始まりましたが、薩長同盟によって
最新の武器を持った長州は、幕府の大軍を相手に優位に戦を進めていました。
そんなさなか、徳川第14代将軍・家茂が死去。
窮地に立たされた幕府は朝廷を通じて休戦に持ちこまざるを得ませんでした。



勝海舟(遠藤憲一さん)は一橋慶喜から頼まれ、幕府側の使者として休戦の
交渉のために命がけで一人で長州に乗り込んでいました。
徳川は中断した戦を再び始める力はないという勝の言葉を受け入れた桂小五郎
(玉山鉄二さん)は、その後は日本国の将来について互いに語り合いました。



病で弱った孝明天皇からの強い頼みもあり、慶応2年(1866)12月、
一橋慶喜(松田翔太さん)は徳川第15代将軍の座に就きました。



将軍・慶喜の背後にはフランスの公使・ロッシュ(ジル・ボーフェスさん)が
いて、慶喜もまたフランスの力を大いに頼りにしていました。



慶喜が将軍となって間もなくの慶応2年12月25日の京の薩摩藩邸にて。
西郷吉之助(鈴木亮平さん)と大久保一蔵(瑛太さん)が幕府とフランスの
急接近を案じていたとき、小松帯刀(町田啓太さん)から孝明天皇崩御という
驚くべき知らせがもたらされました。



吉之助と一蔵は岩倉具視に対し、この機会に年若い帝を幕府から引き離すために
朝廷内に働きかけてもらうよう依頼しました。
そして吉之助と一蔵は雄藩諸侯を味方につけるために行動を開始し、吉之助は
まず国父の島津久光(青木崇高さん)の元へ行き、久光の上洛を進言しました。



久光を説得した吉之助は久光から土佐と宇和島に行くよう命じられ、土佐の
散田屋敷(高知市)に入りました。
吉之助は前土佐藩主の山内容堂(大鷹明良さん)に、幕府の横暴な振る舞いを
戒めるために力を貸してほしいと依頼し、容堂も快諾しました。



そして一蔵は越前の松平春嶽(津田寛治さん)の元へ行き、慶喜が先に決めて
しまった兵庫港開港について諸侯との話し合いが必要と訴えました。
一蔵の話に納得した春嶽は、急ぎ京に上ることを快諾しました。



薩摩、土佐、越前、宇和島の四侯は吉之助と一蔵の呼びかけに応じてくれて
一同は京に集まり、そこへ将軍・慶喜も現れました。
しかし四候には先に慶喜の手がのびていて、何ら話し合いもないままでした。
さらに慶喜は久光に対し、将軍である自分に逆らうのかと念押しも。
久光、吉之助、一蔵は悔しさを抱えたまま引き下がるしかありませんでした。



さらに慶喜は、大坂城に各国の公使らを招いておもてなしでした。
そこには世界に対し、日本の最高権力者は自分であるという宣言もありました。



特に慶喜の後盾となっているフランスのロッシュは、慶喜に薩摩と長州を
潰すよう働きかけ、そのためにはどんな支援も惜しまないと言います。
しかしその見返りに、薩摩をフランスに割譲せよという要求もありました。



将軍・慶喜とフランスの動きを警戒する吉之助は、大坂の薩摩藩邸でイギリスの
通士のアーネスト・サトウ(スティーブ・ワイリーさん)と対面しました。
サトウは薩摩の割譲を狙うフランスの話をし、もし薩摩が望むならイギリスは
武器や資金の支援を惜しまないと言います。
しかし吉之助は、日本のことは日本人で解決するとサトウに伝えました。



吉之助がサトウに言った言葉には、日本を切り売りしようとしている幕府は
もう自分たちが武力で討幕するしかないという強い思いがありました。



一蔵は吉之助に、決めたらもう後には引けないと念押ししました。
吉之助の揺るぎない決意を確認した一蔵も共に覚悟を決めました。
ならばすぐに自分が長州に行って挙兵の要請を。
吉之助のために動くときの一蔵どん、いい表情しますね。(やっぱ正妻)



討幕を決めた吉之助はすぐに岩倉具視(笑福亭鶴瓶さん)のところに行き、
徳川慶喜を討つための討幕の勅命を帝から出してもらうよう頼みました。
急がないと慶喜がこの国を異国に売ってしまう、一蔵は討幕のためにすでに
長州と芸州に行って挙兵の要請に動いている、だから岩倉様も腹をくくって
ほしい、そう岩倉に強く言いました。



長州の山口城に入った一蔵は藩主の毛利敬親に、直ちに精兵を率いて京に
上るよう頼み、毛利敬親はそれを引き受けました。(慶応3年(1867)9月)
それから一蔵は芸州を訪れ、兵上洛の盟約を次々と取りつけていきました。



そのころ京の薩摩藩邸には、薩摩から大砲や銃など戦のための物資が続々と
送られてきていて、藩士たちの士気も上がっていました。



慶応3年(1867)の秋から冬にかけて、不平不満のたまった民衆が仮装して
「ええじゃないか」と囃しながら乱舞した騒動が日本中に広まりました。



岩倉具視は帝の勅命でないニセの討幕の勅書を作りました。
西郷と大久保に「お前らが見事に幕府を滅ぼしたらこれが本物になる」と言って。
この書は 討幕の密勅 を元に書かれたもののようですね。



しかしその翌日、京にいる10万石以上の重臣が突然、二条城に召集され、
将軍・慶喜から思いもよらない話を受けました。
徳川幕府の政権を天子様にお返しするというもので(大政奉還)、これにより
吉之助たちの討幕の動きを封じる狙いがありました。
そしてこれの裏には土佐の坂本龍馬の動きがありました。






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Last updated  September 11, 2018 02:08:49 PM


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