全695件 (695件中 1-50件目)
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回では、藤原道長(柄本佑さん)が政務を疎かにする帝への、己の進退をかけた進言が見どころで、その内容に見入っていました。しかしインパクトでは、まひろ(吉高由里子さん)に求婚して、まひろをどうしても手に入れたい藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の行動が強烈でした。まひろもなんとなくその気になっていたでしょうが、宣孝の道長への牽制やまひろへの矢継ぎ早のアピールを見ていると、まひろの全てを受け入れると言う割には余裕がないように感じました。直秀と周明は、まひろを本当に思うからこそ、まひろの先々を考えて彼女を解き放ちました。道長は高い地位を得て、まひろに関わることを陰で支え、まひろが願うより良い政のために働いています。そう思うと宣孝は、確かにまひろが好きなのだろうけど、手にいれることに躍起になっているだけに見えます。まひろを妻にしたら、全てを受け入れるなんてはじめに言ってたけどそれとは反対の、まひろの心の中にどんな形であれ道長がいることを許さない人になるのでは、と想像しました。さて追加画像で、福井県越前市にある「紫式部公園」に隣接する「紫ゆかりの館」をご紹介します。 ⇒ ⇒ こちら ドラマの中でも時折りまひろが和歌をつづっていましたね。心が何かに動いた時、絵の好きな人は絵で、言葉の好きな人は言葉でその時の思いを残していくことでしょう。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳3年(997)冬、越前に国司として赴任した藤原為時(岸谷五朗さん)は大掾の大野国勝(徳井優さん)を伴って越前各地の視察に出ていました。(歴史ドラマを通じて日本の伝統産業が紹介されるのがいいですね。)後日、都に税として納められる越前和紙が国府に届いたとき、為時は和紙が300枚余分に届けられていることに気づきました。まひろ(吉高由里子さん)は和紙が余っているのなら自分たちが自由にできると期待しましたが、それは父・為時にたしなめられました。そして為時は寒さの厳しい冬場に冷たい水で作業をする民を哀れに思い、余った紙を民に返そうと思って呼び出しました。しかし民は、自分たちは役人に頼らなければ生活できない、為時は自分たちを守ってくれると言うが4年の任期でまた国司が変わる、余分な紙は役人へのお礼だと言って返却を固辞しました。さて、この頃の藤原道長(柄本佑さん)と嫡妻・源倫子(黒木華さん)の間には、大君・彰子、太郎君・頼道、中の君・妍子、次郎君・教通と子宝に恵まれ、内裏での仕事も家庭も、また妾の明子(別家庭)との間にも男子が3人いて、充実した日々を送っていました。(道長と共に栄華を誇る田鶴(藤原頼通)、一条天皇の中宮となる彰子、三条天皇の中宮となる妍子、次に生まれる威子は後一条天皇の中宮と、すごい一家ですね。)藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の妻になることにまだどこかで迷いを感じながらもまひろは乙丸(矢部太郎さん)と、越前で海女だったきぬ(蔵下穂波さん)と共に都に帰ってきました。弟・藤原惟規(高杉真宙さん)の乳母だったいとには福丸(勢登健雄さん)という“いい人”ができていました。乙丸ときぬ、いとと福丸のやり取りを見ていて、長年世話になってきた乙丸といとには幸せになってもらいたいと、まひろを心から思うのでした。そうこうしていると宣孝が「待ち遠しかった」とまひろをめがけて家に入ってきて、夜は皆で宴をすることになりました。その宣孝は宴の席で歌にこめてまひろに求愛のしぐさをし、惟規は姉と宣孝の間に何があったのかと少々驚いていました。年が明けて長徳4年(998)、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)は内裏で帝(一条天皇)にめでたいことを並べて新年を言祝いでいました。しかし晴明の言葉に疑問を感じた左大臣・道長は、晴明から本音を聞きだしました。晴明はこれからしばらくは凶事が続くと言うので道長が「凶事とは、地震か疫病か、火事か日食か、嵐か大水か。」と問うと、晴明はそれら全てだと答えました。さらに晴明は災いの根本を取り除かねば厄払いしても意味がないと言い、根本とは出家した最愛の中宮・定子を職御曹司に入れて定子と会うようになってから、帝がすっかり政務を怠るようになってしまったことを指していました。晴明は、帝を諫めて国が傾くことを防げるのは道長しかいない、そして道長はよい宝を持っている、と謎めいた言葉を残して去っていきました。季節が移っても帝は定子のところに入りびたりで政務から遠ざかり、道長が鴨川の堤を修繕したくても、帝は急がなくていいと勅命が得られないままでした。大水が出てかれでは遅いという道長の考えを理解している蔵人頭の藤原行成は帝に何度も勅命を願い出ていましたが、定子と過ごす時間しか頭にない帝は政のことは考えたくないようでした。一方、恩赦で都に戻ってきた藤原隆家(竜星涼さん)は飛ばされた出雲の地で政に目覚めたのか、何かと道長に接触して自分を使って欲しいと願い出ていました。(道長の呼び方も、左大臣ではなく「叔父上」とさりげなく親しみを込めてます。この人懐っこさで人心掌握をして、俺、政はイケるわと自信を持ったのかな。)早く帝に鴨川のことを進言して勅命を得なければと藤原行成(渡辺大知さん)は帝の生母である女院の詮子を頼ったのですが、あいにく女院は病に伏していてとても力添えを頼める状態ではありませんでした。帝は政務に出てこない、でも道長から一刻の猶予もないと言われた行成は仕方なく夜分に職御曹司に出向いたのですが、定子のことしか頭にない帝はこんな時分まで自分を追いかけ回すのかととらえ、行成に怒るだけでした。道長は行成の苦労を理解しつつも、行成の働きに頼むしかありませんでした。弟の隆家と共に恩赦で都に戻っていた藤原伊周(三浦翔平さん)は、妹で中宮の藤原定子(高畑充希さん)がいる職御曹司の出入りを許されていました。ききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)が定子の心を癒すために書いたつれづれ話を読んだ伊周はたいそう興味深く感じました。そしてこれを書き写して宮中に広めてはどうか、皆の評判になれば職御曹司に面白い女房がいると皆が興味を持って集まるようになる、皆が集まれば中宮のいるこの場所が華やいで隆盛を取り戻せる、と思いつきました。そして伊周は早速書写の手配に移り、少納言には続きを書くよう命じました。帝が政を忘れている一方で都には大雨が続き、道長のもとに恒方(尾倉ケントさん)から、ついに鴨川の堤が大きく崩れたとの報が入りました。そして晴明の予言どおり次々と禍いが都を襲い始め、中宮が職御曹司に入ってから悪いことばかり起こる、これは左大臣・道長が帝にはっきりと進言しないからだ、と公卿たちは陰口を言うようになりました。大雨がようやく上がり、都の人々は後片付けに追われていました。職御曹司では相変わらず世間とはかけ離れた時間が流れ、自分たちのかつての隆盛を取り戻したい伊周は、藤原公任(町田啓太さん)を師としてここで歌の会を開いてはどうかといったことを帝(一条天皇;塩野瑛久さん)に進言し、帝も定子が喜ぶからと快諾していました。そこに道長が急に参上、ここでは政の話はしないと言う帝にかまわず、鴨川の堤が崩れて多くの者が命を落とし家や田畑を失った、と報告しました。道長は、堤の修繕の許可を帝に奏上していたけれど見てももらえず、帝は内裏にはいなくて、やむを得ず許可なきままに修繕にかかったけれど時すでに遅しで、一昨日の雨で大事に至ってしまった。これは早く修繕に取り掛からなかった自分の煮え切らなさゆえに民の命が失われてしまい、その罪は極めて重い。このまま左大臣を続けていられないから辞職する、と道長は帝に訴えました。帝は自分の叔父であり朝廷の重臣である道長が自分を導き支えてくれなければと道長の辞職を許しませんでしたが、道長は「帝の許可なく勝手に政を進めることはできない。その迷いが此度の失態に至った。」と訴えました。帝は政を疎かにし過ぎた自分の非を認め、道長に詫びました。道長はその後3度にわたって辞表を提出し、でも帝は受け取りませんでした。道長が災害の処理で忙しい日々を送っている時に藤原宣孝がやってきて、何事かと思ったら先の除目で山城守を拝命したことの礼を言いに来たのは口実で、実は自分がまひろと結婚することを道長に言うために来たのでした。道長は一瞬少しだけ動揺しましたが平静を取り戻し、宣孝を祝いました。宣孝はその後でまひろのところに行き、まひろを妻とすることを道長に伝えてきたと言い、まひろも一瞬動揺して苛立ち、宣孝を追い返しました。しかし後日、道長の家人の百舌彦(本多力さん)がまひろの家まで結婚祝いの品々を持ってきたのですが、そこで渡された文が道長本人の字ではないことにまひろは気がつきました。まひろの中にあった道長へのかすかな望みが消え去ったと感じたまひろは一転、宣孝の求愛を受け入れることにし、夫婦の契りを交わしました。
June 25, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回ではどうやら、「人は他人のこと(感情や考え、事情など)はわかっているつもりでもまだまだわかっていないし、実は自分の心の中もよくわかっていない」というのが全体に流れていたようでした。周明(松下洸平さん)はまひろ(吉高由里子さん)を篭絡しようとしたけど、まひろの心の中に深く存在する誰かがいることまでわからなくて任務に失敗。そのまひろはというと、長年傍で仕えてくれている乙丸(矢部太郎さん)の思いがずっとわからないままだった。宮中では、藤原道長(柄本佑さん)は幼い頃からの友で今は政治上でつながっている藤原斉信の心の中を見抜けなくて判断を誤り、自分の至らなさを反省。他にも女院・藤原詮子(吉田羊さん)と帝(一条天皇;塩野瑛久さん)との関係など、「相手の心の中がわからなかった」ために起こったことっが随所にありました。でも逆に、相手の心の中を感じたが故に理解を示してくれた大人たちもいました。朱仁聡(浩歌さん)は周明のまひろへの思いを理解して無理強いはしませんでした。そして藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)は、まひろの年齢などの諸事情や心の中を読み、たぶん狙っていたまひろに父・藤原為時が不在というタイミングを逃さず告白して、自分の利点をグイグイ押しまくりました。そして京に戻ったらまた文でプッシュです。これはもう営業職の見本みたいなものでしょうか。そしてまひろのほうも、ちょうど自身のことでいろいろと考えさせられることが続き、でもなんかあれこれ考えるのがもう面倒にもなって、そんな時にふと現れた結婚話に乗っていった、そんな感じでした。私個人としては、乙丸の不器用なまでの一途さと、本当にまひろが好きだからからこそ宋の現実を教えてまひろを切り離した周明に、心を打たれました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳3年(997)、越前に国司として赴任した藤原為時のもとに藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)がこっそり遊びに来ていたのですが、京に帰る際に為時の娘のまひろ(吉高由里子さん)に突然、自分の妻になるよう言いだしました。幼い頃からのなじみの宣孝ではあるけど、親子ほど歳の離れた宣孝にいきなり求婚されてまひろは戸惑います。そして宣孝は、あの宋人(周明)と海を渡ってもまひろの心の中にいる人(道長)は消え去りはしない、まひろの全てを引き受けられる自分と一緒になればまひろも楽になる、まひろが都へ帰ってくるのを待っている、と言って笑って去っていきました。(女の扱いに慣れた年長の男で幼い頃から知っている娘なら、まひろの心は手に取るようにわかるし、宣孝自身はすでに複数人の妻子がいるから「丸ごと引き受ける」と言っても格別に寛大な心の人じゃないと思います。)その頃、京では帝(一条天皇;塩野瑛久さん)の母の女院・藤原詮子が重い病となり、詮子を自分の屋敷に迎えている藤原道長(詮子の弟;柄本佑さん)は陰陽師を呼んで邪気払いをさせたりしていましたが、一向に良くなりませんでした。そこで帝は女院の病気平癒を願って大赦の詔を出すことにし、特に流罪となっている藤原伊周と藤原隆家の兄弟を都に召喚すべきかどうかを公卿たちに訊ねました。道長が直ちに陣定を開いて論議すると、陣定ではほとんどの公卿が「両人の罪は許すべきだが召喚については勘申させるべき。」と答えました。道長はそのことを帝に伝えましたが、帝の意向で両人を召喚することになりました。帝は伊周と隆家、そして最愛の中宮・定子への罰が厳し過ぎたことを悔やんでいて、そして事件の報告が確かな調べでなかったことに怒っていました。道長は事件を藤原斉信から聞いたままで判断してしまった、斉信にしてやられたと妾の源明子(瀧内公美さん)に愚痴を言っていました。そんな道長を明子は、人を見抜く力をつけて素晴らしいと慰め、そして「人の上に立つ者の周りは敵」と考えを伝えました。それは明子の父で左大臣だった源高明が陰謀によって失脚させられた(安和の変)ことを指していて、今左大臣となっている道長も「(人を見抜いて)誰をも味方にできるような器がなければやっていけない。」と改めて自身を反省しました。(幼い頃から優しくて不都合を他者のせいにしない道長らしい考えですよね。)さて赦免されて京に戻ってきた藤原隆家(竜星涼さん)ですが、あまりにも早く挨拶に参内したので、公卿たちは皆いぶかしがっていました。隆家は出雲の土産の干しシジミを持参して是非賞味して欲しいと道長に差し出し、道長から兄・伊周のことを訊ねられても兄のことは知らない、自分と兄は違うと、そして左大臣・道長の役に立てるのは自分だと明るく自信をもって言いました。また事件についても、矢を射たのは自分、でも思いがけず大事となって驚いたと明るく言い、過去のことは振り返らないと決めたようでした。まひろが左大臣・道長とつながりがあることを知った周明(松下洸平さん)は、この越前で日本と宋が貿易できるようまひろを利用しようとしていました。宋に憧れるまひろに宋語を教えながらまひろとやがて深い仲になって、自分の言うことを何でもきくようにしてと考えていた周明でしたが、まひろは周明に対してまだそこまで強い気持ちは持てませんでした。焦りと怒りでまひろを脅す周明でしたが、まひろは屈しませんでした。まひろには脅しが効かないとわかった周明は結局はまひろを解放するのですが、その前に宋のことを、まひろが思い描くような国ではない、宋は日本を見下している、つまらぬ夢など持つな、と現実を教えていってくれました。(宋でも苦労している周明はまひろを思いとどまらせて、ある意味まひろを守ってくれました。つまり周明はまひろのことが本当に好きだったのですね。)宋に憧れて、なにより周明を信じて宋語を一生懸命に学んでいたまひろでしたが、憧れと信頼が一度に壊れて激しく気落ちし、食事ものどを通らず、宋語を勉強した帳面も燃やしてしまおうとさえしました。まひろの従者の乙丸(矢部太郎さん)が気になって声をかけると、しばらくして部屋から出てきたまひろは乙丸に、なぜ妻を持たないのかと尋ねました。あまりの唐突な問いに乙丸はびっくりしましたが、「妻を持とうにもこの身は一つしか・・。」と自分の正直な思いを述べました。乙丸はかつてまひろの母が殺されたときに自分が何もできなかったことを強く後悔していて、だからせめてまひろは守り抜こうと考えていたのでした。常に自分の傍にいて仕えていてくれた乙丸がそんなことを考えていたとは露ほどにも思っていなかったまひろは、自分という人間は周りの人のことも他のことも、まだ何もわかっていないのだと実感しました。さて京では、床から起き上がれるまで病が回復した女院の藤原詮子(吉田羊さん)は、息子である帝の見舞いを受けていました。中宮・定子との間に姫が生まれた帝は母の前で喜びを隠せず、その幸せそうな笑顔を見た詮子は今まで自分が帝に対して厳し過ぎたことを詫びました。帝は自分も子を持って母の気持ちがわかったから詫びは要らないと言いつつも、出家した定子を内裏に呼び戻すと言い出しました。帝の発言を聞いて控えていた道長は内裏の秩序が乱れることを案じて帝を制しましたが、これは自分の最初で最後のわがままである、もう後悔したくないと言って帝は自分の考えを押し通し、女院の詮子も帝の望みを叶えてあげるよう道長に命じました。愛する定子と姫を傍に置きたいという帝の強い気持ちは理解できるものの、帝の行動を見て皆が平然と帝を批判するようになると政がやりにくくなります。道長は何か妙案はないかと蔵人頭の藤原行成(渡辺大知さん)に相談しました。すると行成は、職御曹司(しきのみぞうし)ではどうかと提案しました。職御曹司は内裏ではないけど帝が会いに行ける場所、他の女御たちの顔も立つ、ということで道長はその案に納得、そして行成に帝を説得するよう頼みました。(難しいことを行成なら頼めてしまう道長、道長の頼みなら結局は引き受けてしまう行成。若い頃からの良き友です。)果たして職御曹司で再会が叶った帝と定子、そして生まれた内親王。ただ帝は喜びのあまりこの日から、政務をなおざりにしてまで定子の元へ通うようになり、御所での評判は良いものではありませんでした。さて越前では、国司となった藤原為時(岸谷五朗さん)が大掾の大野国勝(徳井優さん)を伴っての国内巡視から戻ってきました。ここに来たときは介の源光雅や国勝らとも対立があった為時でしたが、今では互いにすっかりと打ち解け、為時の巡視も良い成果をあげました。しかし戻って早々まひろから、京に戻って宣孝の妻になると聞かされ、驚いた勢いで為時は腰を痛めて動けなくなってしまいました。医師が来るまでの間、為時は自分の不在時に何があったのかをまひろから聞き、宣孝はあの歳で今でも女にマメだからまひろが辛くなるのではと心配しました。しかしまひろは、自分もいい歳だし、相手が好きすぎるとかえって苦しくなる、でも宣孝ならその心配はないし自分も子を産んでみたい、とまで言いました。父娘でそんな話をしていると松原客館から宋の薬師が到着しましたが、そこには周明の姿はありませんでした。長の朱仁聡(浩歌さん)は今日は周明の師が来た、周明は生まれ故郷(対馬)を見たいと言って出ていったと説明し、あの時の周明の思いを自分なりに理解したつもりだったまひろは、どこか寂しさを感じました。(周明と過ごした時間で、いつの間にか簡単な宋語なら通訳なしで会話できるようになりましたからね。)治療して為時がなんとか起き上がれるようになると、朱は再び入宋の交易の話になり、交易ができないなら自分たちは帰らない、帰らなければ次の荷は博多の津に着かない、宋の品は日本に入らない、と強気の交渉に出てきました。朱が松原客館に戻ると、周明は旅に出ていなくてそこにいました。入宋の交易を成立させるために朱は周明にまひろを篭絡するよう命じ、周明もそのつもりでしたが、いつの間にか周明がまひろを本気で好きになっているとわかった朱は周明に、任務が遂行できなかった罰ではなく、周明の心の中からまひろが消え去るといいなと優しい言葉をかけました。一方、京では越前からの報告で宋が強気だと聞いた帝は、交易でうまみが出るなら越前は朝廷の商いの場にすればと考えました。しかし越前は京に近いから万一宋の大軍が越前から押し寄せたらひとたまりもない、交易では宋は日本を属国と扱う、と道長は帝に進言しました。道長の考えを理解した帝はこの件を道長に一任、しかし越前にある唐物の中におしろいと唐扇があれば定子のために差し出させるよう道長に命じました。道長は為時に時をかせぐよう命じ、為時は気が重いままでした。
June 18, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は、主人公のまひろ(吉高由里子さん)と宋人の周明(松下洸平さん)がだんだんと強く結びついていくのですが、終盤でまひろの背景を知った周明が宋のために、というか本国より密命を受けている自分たちを守るために、左大臣・藤原道長(柄本佑さん)とつながるまひろを利用しようとする動きが出てきました。で、この展開に対して下のリンクにもありますが、Xのポストで「国際ロマンス詐欺」という、ピッタリの言葉が出てきました。まあ、なんてセンスのよい言葉を思いつくのでしょう。 ⇒ ⇒ こちら そしてしばらくしたらXのトレンドに国際ロマンス詐欺が出てきて、まさかと思って覗いてみたら、上位はこのドラマの周明さんに関することでした。(いくつかは現代で本当に起きている事件でした)さて、学問に対しては反応がいいまひろだけど、どうやら(特に)男の心の中のことは、自分にも相手に対しても、あまり深く考えない・感じないようです。藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)もまひろに絡んできたし、周明のまひろへの愛情は本当にただの打算で無いのか、来週の展開が楽しみです。さて追加画像で、福井県越前市にある「紫式部公園」に隣接する「紫ゆかりの館」をご紹介します。 ⇒ ⇒ こちら 海も山も近いこの地なら、採れたての海の幸・山の幸を堪能できたでしょうね。京のような華やかさはないけど、落ち着いたいい暮らしだったと思います。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳2年(996)、越前に国司として赴任した藤原為時(岸谷五朗さん)でしたが、就任早々に通事の三国若麻呂が殺害されるという事件が起こり、宋人の長の朱が咎人であるとして連行されました。しかし周明(松下洸平さん)が咎人は朱ではないと証人を連れて為時のもとに来て、その者は介の源光雅(玉置孝匡さん)から脅されて嘘の証言をしたのでした。為時は咎人の早成(金子岳憲さん)を呼んで事の仔細を確認し、そして光雅にはなぜ嘘を言わせたのかを聞きました。光雅は、この1年ずっと宋人たちのやり方を見てきた、宋人は貿易を企んでいる、自分たちは田舎役人と見下され宋人はやりたい放題、この機会に朱の力を奪わねばしたたかな宋に越前だけでなく朝廷まで害を被る、と思いを述べました。釈放された朱は為時に厚く礼を言い、そして自分たちは宋の朝廷から命じられて日本と貿易をする道を開くために越前に来た、この命令が遂行できなければ国には戻れない、なんとかお願いしたい、と本心を語りました。そして光雅なりに国を思う気持ちを理解した為時でしたが、無実の者を咎人にしたことは許されぬ、こちらも筋を通さねば宋人に立ち向かえぬ、と光雅には年内は謹慎するよう処罰を言い渡し、光雅も納得して受け入れました。事件も落着し、まひろ(吉高由里子さん)は周明が和語を話すことやいろいろな事が気になっていたので、周明に訊ねました。すると彼は、自分は対馬の生まれで12歳のときに親に海に捨てられた、宋の船に拾われたけど酷い扱いを受けてそこを逃げた、薬師の家に転がり込んで師に助けてもらい良くしてもらった、と生い立ちを話しました。宋の国に憧れるまひろは周明にもっと宋の話をしてほしいと言い、松原客館にある宋の珍しいものや書物などについて、目を輝かせながら周明に訊ねていました。そんなまひろに周明はどこか寂しげな目をして「俺を信じるな」と呟きつつ、宋の言葉をまひろに教え始め、まひろも夢中になって宋の言葉を学んでいきました。針治療の話から周明がまひろの手を取った時、周明のことを殿方として見ていないつもりのまひろでしたが、思わずどきりとしてしまいました。兄の伊周が起こした事件のせいで最愛の中宮・定子を遠ざけている帝(一条天皇)でしたが、その定子が自分の子を身ごもっていて産み月も近いことを知った帝は内心は定子に会いたくてたまらず、蔵人頭の藤原行成(渡辺大知さん)に定子に会う手立てはないかと、それとなく訊ねていました。その話を聞いた左大臣の藤原道長(柄本佑さん)は行成に、帝の術中にはまらないよう、情に流されないよう注意し、行成も反省しました。ただ帝は藤原義子(藤原公季の娘)や藤原元子(藤原顕光の娘)を新たに女御として迎え入れても、定子への思いが強すぎて義子や元子には一向に近づくことがなく、道長たちもどうしたものかと悩んでいました。今のままでは義子や元子が気の毒だと思った道長の嫡妻・源倫子(黒木華さん)は、帝と女御たちが何か語らう場でもあればと考え、帝の母で女院・詮子もいるこの屋敷でその場を設けようと思いつきました。張りきって準備を始める倫子を道長は頼もしく思っていました。帝から一向に関心を持たれない娘の藤原元子(安田聖愛さん)を案じていた藤原顕光(宮川一朗太さん)は、左大臣の道長に会うと何度も礼を述べました。帝の笛に合わせて琴を奏でる元子を顕光は嬉しそうに見守っていました。しかし、やはり心ここにあらずの帝は途中で演奏をやめてしまい、元子は悲しく、そして他の皆は心配になるばかりでした。我が子ながらあまりにも定子のことしか頭にない帝の気持ちを理解しかねる女院の藤原詮子(吉田羊さん)は、弟の道長に相談しました。幼い頃から道長を見ている詮子なので、まあ道長にはわからないだろうと思っていたのですが、道長からは「2人の妻がいるが心は違う女を求めている。己ではどうすることもできない。」という意外な思いを聞くことになりました。そして身分の低い女から道長が捨てられたと聞くと、今は貴族の中で最高位にあり変わらず優しいこの弟を捨てるなんて!、と詮子は信じられない思いでした。昔から道長にだけは心を許してきた詮子は道長をもっと追求したかったのですが、道長は適当に話を切り上げて去り、姉と弟の時間は終わってしまいました。いよいよ出産間近となった中宮の藤原定子(高畑充希さん)は、父・道隆亡き後に次々と起こった騒動で心が弱りきり死ぬことさえ考えていたときに、美しい文で自分を支え続けてくれたききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)に改めて礼を言いました。そしてききょうを自分の傍に置いてくれた亡き母・貴子を思い、またききょうも登華殿で初めて定子を見たときの感激と定子の両親や兄弟が眩しいほどに輝いていたあの時のことを思い出し、互いに笑いあっていました。翌日、定子は姫皇子を出産し、母子共に健やかでした。定子が姫皇子を産んだと聞き、帝はすぐにでも定子と姫の傍に駆けつけたくなり、行成にその旨を伝えました。しかし行成はそれに返事をすることができず、察した帝は行成に無理を言わずに絹をたくさん贈ってやるよう、せめてもの思いを行成に託しました。一方、帝より4歳年上で東宮の居貞親王(道長の甥でもある;木村達成さん)は、帝の第一子が姫であったことで内心安堵していました。定子には祝いで何か贈るよう叔父の道長に言いましたが、そこには中宮といえど後盾を失った定子をどこか見下すような態度がありました。その居貞親王は実は密かに陰陽師の安倍晴明に定子のことを占わせていて、出家した定子にはもう子はできないだろう、次の東宮は我が子の敦明だと喜んでいて、晴明に確認しました。しかし晴明の答えは「帝には中宮から皇子が生まれる」ということでした。年が明けた長徳3年(997)、まひろは周明から宋語を教えてもらう日々が続いていて、越前での毎日を楽しんでいました。まひろが周明と海岸を散策しながらあれこれ語らっているとき、まひろの口から「あの人」という言葉が出て、それが左大臣・藤原道長を指すことだとわかると(まひろは気がつかないけど)周明は急に神妙な顔になりました。そこに親戚で昔なじみの藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が突然京から越前までやっきたので、周明は宣孝に挨拶だけして去っていきました。父・為時が越前国内を巡察に出ていてしばらくは戻らないので、まひろが宣孝の対応をしました。宣孝はまひろや為時がこの越前でどのような日々を送っているのかをまひろから聞いていましたが、話の内容や話しぶりでまひろがこの地で何かが変わったと痛感し、まひろへの興味関心が尽きないようでした。夜は越前の海で採れたウニで宣孝をもてなし、楽しそうに話して笑うまひろを宣孝は愛おしそうに見つめ、まひろへの恋心をさりげなく伝えていました。(ちょうど為時さんが不在で、宣孝さんにはラッキーだったようですね)そんな頃、宋人たちの間ではいかにして本国の命令である日本との貿易を進めるか、密かに話し合いがなされていました。周明から長の朱仁聡(浩歌さん)に、まひろは左大臣の藤原道長とつながりがある、もしかしたら左大臣の女かもしれないと報告があり、そして周明は朱の力になれるようまひろをうまく取り込んで左大臣に文を書かせると言いました。周明は日本人であることを隠していたから皆の信用がない、うまくやって皆の信用を勝ち取れと朱は言い、事がうまくいったら自分を宰相の侍医に推挙して欲しいと周明は言い、朱はその言い分を認めました。まひろに周明の策略の手が伸びる一方で、越前を出て京に戻る宣孝はまひろに都に戻って自分の妻になるよう求婚をしました。
June 11, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回で全体を通して思ったことは、ひと言で言うなら“優しい男たち” です。何か事件が起きて、その決断を下さなければならないときに、岸谷五朗さん演じる藤原為時は1月にドラマが始まったときからそうだったけど、深く深く悩みます。あるいは、やんちゃで誰もが手を焼いた師貞親王(花山天皇)のお守りや病弱な妾を献身的に看病したりなど、どの場面をとってもまず相手を思う優しい男でした。柄本佑さん演じる藤原道長もそう。少年のころから弱いものをかばい、いざとなったら上の者たちにも自分の考えをきっちり言うけど、最初ははっきりと強い口調で言えないし、最高位の左大臣になってもまずは「どうしよう。」と悩みます。妻の倫子や妾の明子にも穏やかで優しい夫です。藤原公任(町田啓太さん)も、独断&事後報告でもいいのに伊周への対応をまずは道長に相談し、伊周に哀れを感じたら結局は、特別に許してしまいます。現代でもそうですが、こういう悩み事の解決は、苦難を乗り越えてきた女たちのほうが決断が早いのでしょうか。あるいはドラマに登場した、道長が権力を握るまでの最高権力者たちに優しさを感じなかったから、今いる若者たちと為時が優しく見えるのでしょうか。そして道長は、後に娘の彰子が入内しても優しい男のままでいられるのか、展開に興味がわいてきます。さて追加画像で、福井県越前市にある「紫式部公園」に隣接する「紫ゆかりの館」をご紹介します。 ⇒ ⇒ こちら 私がここに行ったのは3年前で、このときは『源氏物語』を中心に見学していました。今だったら紫式部のほうに興味をもって見てしまうと思います。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳2年(996)越前の国司となった藤原為時は越前国府に入る前に宋人たちがいる敦賀の松原客館に立ち寄り、商人たちの長の朱仁聡に挨拶を受けました。この宋人たちはどのような者たちなのか為時は探って考えていましたが、やはり為時らしく好意的で同情的な解釈になりました。そして翌朝、父・為時に同行して越前に来ているまひろ(吉高由里子さん)は、従者の乙丸(矢部太郎さん)と共に越前の浜辺に来ていました。今ここには直秀も道長も一緒にいないけど、まひろの目の前には異国につながる海があり、近江の湖とは違う“海”を感じていました。するとそこに宋人の一人の周明(松下洸平さん)が来て、少し話をしたくなったまひろは声をかけ、会話は通じないけど砂浜に文字を書いて対話を試みました。でも周明は商人仲間に呼ばれて、すぐに行ってしまいました。そして夜、明日の出立を前に藤原為時(岸谷五朗さん)は朱仁聡(浩歌さん)から宴の誘いを受けたので出向きました。宋の音楽が奏でられ、朱から為時の前途を言祝ぐと乾杯の言葉をもらい、為時とまひろは宋の国の酒と最高の馳走でもてなしを受けました。宴は通事の三国若麻呂(安井順平さん)を介して双方の会話もはずみ、終盤ではさらに為時が即興で作った漢詩が披露され、互いに気分良く時間を過ごしました。まひろが酔い覚ましに庭に出ると浜辺にいた周明がいて、まひろは羊料理は正直美味しくなかったと本音を言いつつ、宴への礼を伝えました。越前国府に到着した為時は、この地の役人の源光雅(玉置孝匡さん)と大野国勝(徳井優さん)らから挨拶を受けました。(「守・介・掾・目」は役人の位)光雅らは為時に面倒をかけないよう気遣う言葉を並べているけど、その本音は越前でのことで為時に余計な介入をしてほしくないということでした。為時が左大臣・藤原道長から宋人の扱いを任されていると返すと役人たちは皆怪訝な顔をし、とりあえずは為時に従ったけど何か考えているようでした。後ほど光雅が為時のところに来て、目配せをして人払いしました。光雅は袋のものを為時の前に置き、越前のことは我ら越前の者に任せてほしい、国守の為時はただそれを認めてくれたら懐が潤うと言いました。為時が袋の中を改めると中には大量の金が入っていて、生真面目な為時がそれを受け取れるはずもなく、袋を光雅に返して下がらせました。そして翌日、国守の為時のところには越前の民たちが事の大小も公私も関係なく一斉に陳情に訪れ、為時はその対応に疲れ果ててしまいました。これは越前のことは自分たちに任せろと言って賄賂までしたのに台無しにされた光雅たちの嫌がらせでした。翌日、為時のもとに朱仁聡が松原客館から訪ねてきました。朱は朝廷に品物を献上したいから為時に取り次いでほしいと要望しました。でもこれは為時の独断でできることではないので、まずは左大臣に文を書くから待って欲しいと説明しましたが、その直後に為時は不調で倒れてしまいました。朱が薬師を呼ぶと言い、そしてそこに現れたのは周明でした。周明は為時を診察して背中から針を打ち、不思議な治療でしたがおかげで為時は体調が少し回復したので、宋の進んだ医学に感心して礼を言いました。ところが朱は帰り際に為時に貢物の件を念押しし、助けてもらった手前、為時は朱の頼みを断れなくなり、朝廷にその旨を伝えました。果たして朱たちからの献上品が朝廷に贈られ、その一部であるオウムと羊を藤原実資(秋山竜次さん)と藤原公任(町田啓太さん)は興味深げに見ていました。そして宋の商人たちからの要望が特にないようだと聞くと、公任は彼らの思惑がつかめずに考えていました。一方、越前ではいつも朱に同行しているはずの通事の若麻呂がいなくて、朱は貢物が朝廷に届いたことの礼を為時と筆談していました。するとそこに大野国勝が乗り込んできて、若麻呂が殺された、咎人は朱だと言い張り、朱を強引に連行してしまいました。為時がそれは解せぬ、自分が話を聞くと言っても、国勝はそれは国守の仕事ではないと言って、為時を関わらせないようにしました。為時は朱が咎人であるとは信じられないし、もしこれが間違いだったら国の信用に関わる一大事なので、まひろは左大臣・藤原道長(柄本佑さん)に文を書くよう父に提案、しかし為時が心労からまた倒れてしまったので、まひろが代筆をして事の次第を道長に知らせました。早速、陣定が開かれましたが、異国の者をこの国の法で裁けるのか、これを機に宋に追い返すのがいい、為時に任せても裁きができないなど意見が出ました。そして最高位の道長に意見が求められたので、道長は明法博士に調べさせた上で帝に伺い帝の指示を仰ぐと言いました。越前の事件の解決策が見つからないさ中、検非違使別当となった藤原公任から道長に、太宰府に向かっているはずの藤原伊周が都に戻ったらしいと報告が入りました。越前のことだけでも頭が痛いのに伊周のことまで加わり、道長は頭を抱えました。公任は、すぐにでも高階明順の屋敷を改めたかったのですが、まずは道長に報告、そして道長も伊周の件は公任に任せることにしました。(道長と公任、朝廷内での立場の違いはあるけど、二人きりのときは昔からの友として心がつながっているのがいいですね。)ようやくあきらめて太宰府に行く覚悟ができた藤原伊周(三浦翔平さん)でしたが、病が重い母・高階貴子にせめて一目だけでも会いたい、母も自分を呼んでいる、そんな思いから無理やり道を引き返し、京に戻ってきました。フラフラになって京の母の元に戻ってきた伊周でしたが、高階の屋敷には公任が先回りしていて、伊周が母に近寄るのを制しました。しかし土下座をしてまで母に会うことを乞う伊周を不憫に思った公任は、特別に伊周が母と会うことを許しました。ところがそこに中宮・定子(伊周の妹)に仕える清少納言から、母・貴子が息を引き取ったと報せがあり、伊周は頭の中が真っ白になってしまいました。力なく中庭を抜けて母の元へ近寄っていく伊周、いったんは公任に制されたけど役目として伊周を制しにいく検非違使たち。伊周は御簾の内には入れず、庭先に跪いて涙ながらに母を見送りました。伊周の母・貴子は中宮・藤原定子(高畑充希さん)の母であり、道長にとっても義姉なので、道長は定子にお悔やみの言葉を述べました。定子は道長に近くに来るよう言うので清少納言は御簾を上げ、定子が姿を現すと、そこには帝の子を身ごもり産み月も近くなった定子がいました。両親・兄弟・親戚全ての後盾を失った定子は生まれてくる子をどうやって育てていこうか途方に暮れていて、もう道長を頼るしかなかったのです。定子はこの子を守って欲しいと懇願、でも道長は軽はずみなことは言えないので、即答はせずに帝に報告しました。政治的には遠ざけたけど最愛の定子が自分の子を身ごもっていると聞いた帝は、やはり嬉しさを隠せませんでした。定子と我が子の近くにいたいと願う帝を、道長は「朝廷の安定を第一に。」と強く説得しましたが、自身にも何人か子がいる道長には辛い説得でした。越前の事件の裁きを左大臣の道長に頼った為時でしたが、道長からは越前のことは越前で決めよという指示で、どうしたものかと為時はまた困ってしまいました。するとそこに周明が一人の男を連れて為時の元に駆け込んできました。そして周明の口から出たのは漢語ではなく、はっきりした和語。朱は咎人ではない、この男が証人だと周明は言い、宋人で今まで漢語でしか話をしなかった周明が和語を使い、事件のことと相まって、為時とまひろは何がどうなっているのか、ますますわからなくなりました。
June 4, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回でいよいよ『枕草子』がでてきました。古文が苦手な私は、『源氏物語』は大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』を読むまでは、内容はさっぱり理解できませんでした。でも『枕草子』のほうは出だしの文章がシンプルだったので、わかりやすかったゆえか中学・高校時代にかなり後ろのほうまで読んでいた記憶があります。今回つくづく感じたのは、俳優の皆さんは役作りのために、どなたも本当に裏で猛勉強・猛特訓しているのだなと。ききょうを演じるファーストサマーウイカさんは習字を長らく習っていたそうですが、清少納言を演じるために小筆で書く当時のかな文字をたくさん練習したと思うし、まひろを演じる吉高由里子さんは、自身は左利きなのに右手で小筆を持ってを字を書く練習をかなり積んだと想像しています。そして藤原為時を演じる岸谷五朗さん。中国語をかなり勉強されたことでしょうね。セリフにある言葉だけだとしても、その意味や発音など、基礎知識は必要でしょうから。ラストに出てきた宋人役の大勢の俳優さんたち。たぶん日本人であの喧噪の声を中国語で言っていたと思うのですが、なんてセリフを言っていたのでしょうか。さて、藤原為時が京都から越前に下向する際に通ったとされるルートですが、福井県越前市にある「紫式部公園」に隣接する「紫ゆかりの館」で見ることができます。 ⇒ ⇒ こちら ゆかりの地ということで、これだけ資料を整えて出してくれているので、見応えがあって嬉しいです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳2年(996)、太宰府に配流となった藤原伊周は帝の命に従わず、さらに逃亡してしまい行方不明となりました。もし伊周が最後にいるとすれば、妹で中宮・藤原定子(高畑充希さん)が下がっている実家の二条第なので、検非違使別当の藤原実資は右大臣の藤原道長を通じて帝の許しを得て二条北宮に伊周の捜索に入りました。捜索中に伊周は見つかったものの、まだ太宰府行きを拒んで見苦しいまでの抵抗を。そんな兄の姿を見た定子は帝の命に従うよう言いますが、それでも伊周は抵抗するので、見かねた母・高階貴子(板谷由夏さん)は自分も一緒に太宰府に行くからと伊周をなだめて説得しました。藤原伊周(三浦翔平さん)は母・貴子と共に太宰府に向けてようやく出立しましたが、その報告を聞いた帝は伊周の愚か過ぎる振る舞いに強い腹立ちを覚え、直ちに母と引き離すよう藤原実資(秋山竜次さん)に命じました。藤原道長(柄本佑さん)と実資は伊周らの後を追い、途中で追いついて母の同行はならぬと帝の命を伝えました。しかし二人はやはり抵抗、貴子は「娘の定子は出家、次男の隆家は配流﨑の出雲に行き自分には伊周しかいない。」と自分の付き添いを乞いました。とはいえ道長や実資がそれに応じられるはずもなく、伊周は騎馬で下向し、貴子は網代車に乗って京まで戻っていきました。ある晩、定子のいる二条殿が火事になり、屋敷は激しい炎に包まれました。父・道隆の死からわずか1年で栄華を誇った一族は没落し、また心が乱れて分別もなく勝手に出家してしまったことを帝が怒っているので、定子は生きる気力を失い、このまま炎の中で命を終わらせるつもりで一人残っていました。でもそこに定子を心から慕うききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)が現れ、おなかの中の子(帝の子)のためにも中宮は生きなければいけないと必死に説得、定子はまずは生きようと思い直して炎の中を脱出していきました。伊周らの騒動がひと段落し、帝は実資を中納言に昇進させて検非違使別当の役は免じ、道長を正二位・左大臣に昇進させました。女院の藤原詮子(吉田羊さん)は兄・道隆一家の没落のことをふと考えていましたが、定子が出家したので息子の帝のために次の后を探すことにしました。血筋も年頃もちょうどよい姫がいることに詮子は乗り気になっていて、道長の嫡妻の源倫子(黒木華さん)はそんな詮子の姿を見て思わず笑ってしまいました。倫子の笑いが気になった詮子が問うと倫子は、呪詛されて枕も上がらなかった詮子があまりにも元気になった、そういえば父君の兼家も仮病が得意だった、もしかしたら詮子は仮病だったのでは?と言って匂わせました。やはり倫子には見抜かれていたとわかった詮子は怒ることもできず、その場を濁して話を終わらせました。さて実家の火事から逃れた中宮・定子でしたが、懐妊のことは帝にも知らせることができなくて、ききょう他ごく一部の者が知るのみでした。ききょうはまひろ(吉高由里子さん)に定子のことを打ち明け、生きる気力を失って日に日に弱っていく定子をなんとか元気づけたいと相談しました。するとまひろは、ききょうが定子から賜った高価な紙があることを思い出し、二人で紙にまつわる話をいろいろとしていくうちにまひろは思いつきました。その紙に何か書いて定子に贈ってはどうか、帝が「史記」ならば中宮は「春夏秋冬の四季」はどうか、とききょうに提案しました。まひろの提案が良いと思ったききょうは早速、四季を題材にして自分の思いを何か書いてみることにして、心静かに筆をとりました。「春はあけぼの やうやうしろくなりゆく山ぎは すこしあかりて・・・」ききょうはまだ寝ている定子の部屋にその紙をそっと置いて去りました。夏の夜は庭に舞う蛍の光をながめながら「夏は夜 月のころはさらなり・・・」と、そして秋になれば「秋は夕暮れ ゆふ日のさして山のはいと近うなりたるに・・・」と詠んで定子の部屋にそっと置いていきました。でも定子は密かに部屋に来ているのはききょうだとわかっていました。秋も深まったある日のこと、定子が縁側に出てききょうが贈った紙を優しい笑みを浮かべて見ていました。定子のために書き始めたききょうの思いを、定子は受け取ってくれたのでした。間もなく越前守として藤原為時(岸谷五朗さん)が出立するにあたり、道長は為時を呼び出しました。道長は「我が国では筑前の博多の津のみで宋との交易を許しているのに、70名もの宋人が若狭に突然きて交易を要求してきた。今はその者らを越前の松原客館に留め置いているが、朝廷は越前に新たな商いの場を作る気はない。商人が大人数で来るのはおかしい、彼らは商人ではなくて官人か戦人かもしれない。」と越前の情勢を為時に伝えました。そして道長は「その者らに交易は博多の津のみと了見させ、穏便に宋に帰すこと。これが越前守の最も大きな仕事と心得よ。」と越前での役割を為時に命じました。為時とまひろがいよいよ越前に出立する日が近づき、為時の家では送別の宴が開かれていましたが、越前行きには為時の想定していなかった重い任務があり、真面目な為時は少々気が重くなっていました。それを見た藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が、土地の者とうまくやれば国司はいい儲けができると言ってみたり、まひろは宋人のよい殿御と出会って宋の国に行ってみたいとか、各々が勝手に話していました。そんなところに為時の嫡男の藤原惟規(高杉真宙さん)が大学寮から急ぎ戻り、文章生になったと父に喜びの報告をしました。めでたい報告で惟規は祝杯を受け、一家は二重の喜びにわきました。そして惟規の乳母だったいと(信川清順さん)は、惟規のために自分は越前に行かないと為時に伝え、為時もいとの気持ちを了承しました。越前に発つ前に、まひろはどうしても道長に会っておきたくて文を出しました。まひろの求めに応じて道長はちゃんと来てくれました。まひろは道長にまず父・為時の昇進のことの礼を言い、そして世間では中宮や伊周のことで道長が悪く言われているので、その真偽が気になって訊ねました。道長はあっさりと噂の事を認めましたが、道長の顔を見てそうではないことがまひろにはすぐわかり、まひろは道長に詫びました。そして二人で昔語りをしながらこれからの自分たちを考え、互いに体を大事にするよう言葉を交わし、かつて愛し合った互いを思いながら別れとなりました。翌朝、父・たと共にまひろは越前に出立しました。琵琶湖を塩津の湊まで舟で北上し、そこからは山道を進んでで越前入りしました。この画像は福井県越前市にある 「紫ゆかりの館」 で展示されている資料です。当時は京都市から越前市まで5日がかりだったのですね。(館内の資料の写真撮影とSNSへのUPは館内の方に許可を頂きました)「紫ゆかりの館」に展示されている、「下向行列の和紙人形」です。ドラマでもあったようにかなり大掛かりな行列が越前和紙で製作されています。ただの荷物持ちだけでなく、弓矢が使える武人や陰陽師もいます。為時は越前国府に入る前に、宋人たちがいる松原客館に立ち寄りました。しかし着いて早々、為時の目に入ったのは宋人たちが何かもめているのか、互いにつかみ合って怒鳴り合う姿でした。為時は宋語で静かにするよう言い、自分が越前の新しい国守であると告げました。すると宋人たちは、今度は一斉に為時のほうを向いて何かを言い立て始め、為時もまひろもただ茫然とするばかりでした。
May 28, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回で印象に残った場面が2つありました。1つは、知らずとはいえ花山院に矢を射かけて大事件を起こしてしまった藤原伊周(三浦翔平さん)と藤原隆家(竜星涼さん)兄弟の、2人のその後の態度でした。常に優等生で名門貴族の嫡男というプライドを持っているゆえか、それが保てなくなった伊周はこんなにも精神的にもろくて、感情が不安定になって周囲に当たり散らして、腹もくくれずにうろたえるだけなのかと。そこで思い出したのが、母の高階貴子(板谷由夏さん)は、娘の定子には幼い頃から厳しくて、内裏で生きるために強く生きるように言っていたことでした。でも伊周が一条殿から逃げ帰ってきたときにはただ優しい言葉を並べるだけで叱りもせず、厳しいことは言いません。これはもう幼い頃から伊周を甘やかしてきたのか?と想像するに十分はシーンでした。その点、隆家は次男で気負うものがないゆえか、やらかすことも大胆だけど、とりあえず死なずに済んだとわかれば覚悟を決めて素直に命令に従いました。でも伊周は減刑をありがたく思うどころか、それはそれでまた不満を爆発させて怒り狂っていました。これはやはり、名門の嫡男として両親から大事大事にされ過ぎてきたからでしょうか。そしてもう1つ気になったシーン。女院・藤原詮子(吉田羊さん)が急に具合が酷く悪くなり、その原因が伊周一派に呪詛されていたという展開です。1回目に視聴したときは気がつかなかったのですが、2回目に観たとき、これは詮子のヤラセで呪詛をでっち上げるための行動だったのかと思えてきました。道長との会話で、伊周たちの処分が甘くなりそうなことに詮子は苛立っていたし、源倫子(黒木華さん)が用意した薬湯が飲めないほど体が弱っていたのに、呪詛の札を見たときに驚いて体がスッと動いたし、「許すまじ!」の声もずいぶんと大きな声でした。そして倫子も呪詛の件では詮子の意図をわかって合わせていた、もしくは密かに相談を受けていたと思えました。藤原道長(柄本佑さん)が「あっ!」と言ったときは、亡き父・兼家がやっていたことを思い出し、姉の詮子は兄弟の中で父の政治的センスを一番強く受け継いでいることをふと思い出したのかと感じました。この呪詛の件の真偽は、後にはっきりさせるのでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳2年(996)1月、藤原伊周の思い違いからその弟の藤原隆家は一条殿にいる藤原儼子にお忍びで会いに来ていた花山院(本郷奏多さん)に矢を射かけてしまい、大きな騒動となりました。一条殿の前では院の従者と伊周・隆家の従者との間で乱闘となり、その間に2人は現場から逃亡しましたが、この事件は儼子の兄である藤原斉信(金田哲さん)から右大臣の藤原道長にすぐに報告されました。屋敷に戻った伊周は大変なことになったと激しく取り乱していました。この事件は検非違使別当の藤原実資(秋山竜次さん)から帝(一条天皇;塩野瑛久さん)にすぐに伝えられ、伊周は中宮・藤原定子(高畑充希さん)の兄であり隆家は定子の弟なので自分では取り調べできないと、実資は帝に裁可を仰ぎました。あろうことか院に矢を放ち死者まで出たことへの帝の怒りは凄まじいものでした。しかも事の発端が伊周の女人への思い違いであったことを知り、帝は右大臣・藤原道長(柄本佑さん)に伊周と隆家を謹慎させるよう命じました。そして中宮・定子には「身内の者にはいっさい会うべからず。」と固く命じました。除目が行われ、藤原為時が従五位下に昇進して淡路守(国司)に任官され、為時は娘のまひろや息子の惟規から祝いの言葉を受けていました。前職を追われてから10年、申文を送り続けてようやく得た官職に、為時は神仏の御加護だと感無量でした。一方、女院・藤原詮子(吉田羊さん)の力添えで越前守に就けた源国盛(森田甘路さん)は、たくさんの高価な御礼の品々を持って詮子に挨拶に来ていました。ところが今、越前には交易を望む宋人が大勢来ていて、交渉にも漢文は必須なのにこの国盛は実は漢文が苦手で、しかも本人は事の重大さをわかっていませんでした。詮子は国盛のことで頭を抱えつつ、別件で伊周たちの処分はどうなったのかを弟の道長に訊ねました。伊周たちは大罪にはならないだろう、政敵ではあるけど厳しい処分でなくても別にいいと道長が答えると、詮子は道長の甘さに苛立ったようでした。国司となることが決まった為時の家には親戚の藤原宣孝が来ていて、祝杯をあげたら為時はそれまでの疲れが出たのかその場で横になって寝てしまいました。宣孝は為時の若い頃の話などをして、まひろと宣孝は二人で盛り上がっていました。そしてまひろは宣孝から、越前守は源国盛になった、しかし国盛は若くて頼りないと聞き、高望みではあるけど漢語の得意な父・為時が越前守になったら存分に力を発揮できるのに、と残念に思っていました。すると宣孝が「帝が為時の学識の高さを知れば。あと除目の後に任地が変わる事もある。」と助言してくれました。まひろは父が越前守になれたらと願い、この文が道長の目に留まることを祈って、まひろならではの申文を書いて提出しました。果たしてまひろが書いたその申文は道長の目に留まり、見覚えのある筆跡に道長はもしやと思い、文箱の奥に隠しておいた昔のまひろの文と照合してみました。この申文はまひろ(吉高由里子さん)からだと確信した道長は、越前守に決まった源国盛が漢語が苦手で頼りないこともあり、藤原為時(岸谷五朗さん)を越前守に推挙しようと、申文を帝に見せました。帝は申文の内容に感心し、道長の考えにも納得したので、越前守を国盛から為時に変更しました。大国・越前の国司に任じられたことに為時はたいそう驚き、これは一体どういう事なのかとまひろに問いただしました。為時はこれまでの全てのことは道長が動いてくれたのだと薄々は感じていて、娘のまひろに道長との関係を訊ねました。まひろは父に、道長とは遠い昔に夫婦になろうと語り合った仲だった、でもそれは全て終わったことだと答えました。そして越前は父の力を発揮する最高の国、自分も共をすると父を鼓舞しました。ところで急な病で倒れた女院・詮子はいっこうに具合が良くならず、道長の嫡妻の源倫子(黒木華さん)が勧める薬湯ものどを通らないほどでした。倫子はこれは屋敷内に悪しき気が漂っているせいでは?と思い、女房や家人たちに屋敷内をくまなく調べさせました。するとあちらこちらから呪詛の札が出てきて、これを見た詮子は自分を嫌っている中宮・定子と、道長を恨んでいるその兄の伊周のせいではないかと疑いました。「許すまじ!」と女院は激しく怒り、倫子から報告を聞いた道長は直ちに動こうとしましたが倫子は、屋敷内で起きたことは嫡妻である自分が責めを負うべきこと、自分が収める、と言い倫子はかすかに微笑みました。倫子の表情を見た道長は何かに気が付き、この件は倫子に預けることにしました。ただこの呪詛の件は、道長は自分からは帝に言わなかったものの、いつの間にか検非違使別当の藤原実資に知られることとなり、帝に報告がなされました。これは藤原伊周(三浦翔平さん)が祖父・高階成忠に命じて帝の母である女院と右大臣の道長を呪詛し、さらに法琳寺で大元帥法(怨敵調伏)を行い道長を呪詛した、証言もある、と帝に報告がなされました。女院と道長への呪詛は帝である自分への呪詛と同じだと帝は激しく怒り、身内であっても許されないと、実資に取り調べを命じました。そして帝は中宮・定子には、兄と弟の不祥事により内裏を出て実家の二条北宮に下がることを命じました。ただ伊周は呪詛の件の潔白だけはどうしても道長に訴えたくて、謹慎中の身ではあるけど密かに出てきて、涙ながらに道長に減刑を乞いました。道長は刑を決めるのは帝であることだけは伊周に念を押しました。今の自分の思いをどうしても伝えたいのは定子も同じで、定子は道長の力を借りて夜の内裏に上がって帝と会うことができました。定子は頭を深く下げて、兄・伊周と弟・隆家の減刑を帝に乞いました。愛しい定子の願いであっても帝は立場上それを認めることはできず、言葉を返すことができないままでいたら、定子はあきらめて内裏を去ろうとしました。帝は定子を呼び止め、駆け寄って力強く抱きしめ、何かを決意しました。そして翌朝の公卿会議で藤原行成から「謀反は死罪であるが罪一等を減じて遠流とする。伊周は大宰権帥に、隆家を出雲権守に配流とする。伊周と隆家に代わり、藤原道綱を中納言に、藤原斉信を参議とする。」と帝の意思が示されました。伊周と隆家に対しての帝の裁定が下された後、これでいいのかよくわからない道長は、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)に相談しました。伊周と隆家が本当に女院と自分を呪詛したのだろうかと道長が言うと、晴明は「禹歩」の呪法を行いながら、そんなことはどうでもいい、大事なのはいよいよ道長の世になるということだと言いました。そして隆家はいずれ道長の強い力になるが、伊周は道長次第だと答えました。一方、二条北宮では中宮・定子は自分に仕えているききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)に今は里に下がるよう命じていました。そんなところに帝から遠流の裁定を下された伊周が、自分は絶対に太宰府など行かないと怒りを露わにしてやってきて、同じく出雲に流される弟の藤原隆家(竜星涼さん)が兄をなだめていました。その時の有様をききょうはまひろに知らせ、伊周と隆家が処分を受け入れないから検非違使が屋敷の周りを囲んで見張っている、その様子を見に下々の者が集まっていると言い、二人は家人に変装して二条北宮に入り込みました。屋敷の外から検非違使たちが門を突き破る音が響き、出雲に行く覚悟を決めた隆家は、姉の定子と母の高階貴子(板谷由夏さん)に別れを告げて自ら出頭していきました。それでも伊周は帝の命を受け入れられず、一人でどこかに行ってしまいました。やがて門が壊され、検非違使別当・藤原実資(秋山竜次さん)が指揮をする検非違使たちが伊周を捕らえるために屋敷の中に乗り込んできました。すると定子がふらりと御簾の中から出てきて、実資が屋敷内をくまなく捜索するよう配下に命じていると、定子は突然一人の検非違使から刀を奪い取り、刀を振り回して皆を威嚇しました。そして次に刀を自分の方に向け、長い髪を自ら切って落としてしまいました。
May 21, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。藤原道長(柄本佑さん)が公卿たちのトップになり、政は民に少し近づき、帝もはじめこそは母に押されてトップを道長にした感じがあったけど、だんだんと道長に信頼を寄せていっているのがわかります。そして道長が若い頃から仕事も遊びもずっと一緒に時を過ごしてきた公達仲間の藤原公任(町田啓太さん)と藤原斉信(金田哲さん)と藤原行成(渡辺大知さん)が、道長が一人抜きん出ても変わらぬ友情を示しているのにどこかホッとしています。地位に差ができても、どこかよそよそしくなったり、ひがんで辛く当たったりとかはないのがいいです。公任は道長の真の実力を快く認め、かつ人の好い道長に抜けている部分を助言してくれました。斉信なんかは多少は「自分をよろしく」的なところはあっても無理は言わず、行成は道長のためにさりげなく個人“裏”情報の収集など、危ない橋を渡ってくれています。上に立った道長の足を引っ張るのではなく、道長を快く支えて仲間の皆で出世していこうよ考える、変わらぬ友情に温かさと優しさを感じます。そして中宮・定子(高畑充希さん)だけでなく帝(一条天皇;塩野瑛久さん)にも拝謁できて、おまけに自分の思うことを述べるという、予想だにしてなかった展開となった主人公のまひろ(吉高由里子さん)。帝はまひろに好印象を持ったようですが、定子はどこかまひろを警戒する感じがありました。それも女人としてのまひろではなく別の何かで。後の歴史を知っている我々から見たら、まひろは定子のライバル?ともなる彰子の女房となり、つまりは彰子の知恵袋となるわけです。定子がまひろに対して何か嫌な予感がした、というのもありかもしれませんね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳元年(995)、藤原道長(柄本佑さん)は右大臣に任じられ、内大臣の藤原伊周(三浦翔平さん)を超えて公卿の頂点の座に就きました。ただ道長は、陣定で皆の意見を直接聞くことができない関白の座に就くことは固辞し、今までとは違う形で帝(一条天皇)を支えると考えを伝えました。そんな中で道長は早速、租税免除のことで陣定で伊周と対立が起こりました。皆が徐々に退室していくとき伊周は道長に、前の関白の父(道隆)や叔父(道兼)を呪詛していたとか、道長が姉の女院(詮子)に頼んで帝や中宮(伊周の妹・定子)に無理強いをしたとか、伊周の思い込みの言いがかりをあれこれつけてきました。果ては道長につかみかかってきたので道長は伊周をいなし、退室していきました。伊周はその屈辱から、弟の藤原隆家(竜星涼さん)と共に、以降は参内をしなくなり、道長もどうしたものかと思っていました。道長が若い頃から互いに切磋琢磨してきた藤原公任(町田啓太さん)と藤原斉信(金田哲さん)と藤原行成(渡辺大知さん)との仲は、道長が一人出世しても友情は変わらずに続いていました。とはいえ皆それぞれに先のことを考えていて、公任は出世はもう考えないから学問や芸事などを楽しんでいきたい、道長には敵わないから張り合うのはやめたと言います。でも斉信は参議になりたいと道長にそれとなく頼みます。ただこの8月の除目では、道長は源俊賢(道長の妾・明子の兄)の気質を見込んで参議にすると決めている、斉信はこの次に、と斉信に詫びていました。友との語らいの中で道長は公任から、参内する貴族たち各々が抱えている裏事情を知っておいたほうが良い、男たちが閨で女たちに見せる裏の姿の情報を集めるのは行成が適任だと助言し、行成は道長のためにその役割を引き受けました。そして行成は早速情報を仕入れて道長に見せ、道長は行成の仕事ぶりに感心しつつ貴族たちの裏の姿に驚いていました。行成は道長に、その文は読んだらすぐに焼き捨てるよう念を押していました。この秋の除目で源俊賢を参議にした道長は、俊賢に内密の仕事を頼んでいました。それは参内しなくなった伊周と隆家を参内させることで、俊賢はうまく伊周を説き伏せ見事に道長の期待に応える働きをしました。一方、道長の嫡妻の源倫子(黒木華さん)は、左大臣の嫡妻だった母の藤原穆子(石野真子さん)から、大臣の妻としての心得の伝授を受けていました。穆子は、まず倫子自身が丈夫であること、内裏ではささいな事でも重荷になるから殿には子供のことで心配をかけないことを伝えました。そして道長は仕事での苦労を倫子の前では見せない立派な人であると言い、倫子の父・雅信は実は左大臣として気苦労が絶えなかったことを語りました。倫子は道長を思い、穆子は亡き夫・雅信を思い出して、母娘で笑い合っていました。まひろ(吉高由里子さん)の父・為時が職を失って10年がたち、また申文の季節が来たので、為時は今度こそ最後の申文と思い筆を進めていました。ある日、まひろの家に来たききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)は右大臣になった道長の政や先日若狭に来着した宋人70名の道長の対応など、その実行力を皆が感嘆していると、道長の評判を話しました。でもまひろは宋ときいた瞬間に、道長のことよりも書で読んだ宋での政を思い出し、自分が理想とする政についてききょうに熱く語っていました。そしてききょうが中宮のことを熱く語り、まひろが自分も会ってみたいと言うと、ききょうは喜んでまひろが参内する手はずを整え始めました。ききょうの仲立ちでまひろは中宮に会えることになりました。衣装を整えて参内したまひろはいきなり女房たちの意地悪に遭いましたが、それに驚くまひろとは対照的にききょうは意地悪な女房たちを堂々と牽制していました。緊張しながらまひろが中宮・定子(高畑充希さん)に挨拶をしていると、なぜか帝(一条天皇;塩野瑛久さん)が急に現れ、帝は定子の手を取って二人で塗籠の中に入っていってしまいました。まひろは意味がわかりませんでしたが、ききょうから説明を受け、そういうことかと納得していました。思いがけずに帝にも会うことができたまひろは、帝の言葉に甘えて政について自分の思うところを堂々と述べました。まひろは宋の政の話をしてそれが自分の夢であると言い、さらに 高者 未だ必ずしも賢ならず、下者 未だ必ずしも愚ならずと『新楽府』の中の一節を読みました。帝がそれに応えるとまひろはさらに深い話を続けてしまい、帝はまひろの発言をまんざらでもなさそうに聞いていたのですが、定子がまひろを制しました。帝がまひろの発言を覚えておくと言葉を送ると、ちょうど伊周と隆家が来たのでまひろは帝に挨拶をして下がりました。二人はまひろのことを快く思わず、また伊周は妹の定子だけでなく帝に対しても「早く皇子を」と言うばかりなので、帝もうんざりしていました。まひろは父・為時がまだ申文を出していなかったので、宋の国の言葉が使える父ならば越前守を希望したらどうかと進言しました。ただ為時は位が正六位で越前のような大国では五位が必要、淡路守でも自分には出過ぎた願いになると言い、逆に大胆なまでの申文を書くよう強く主張しだした娘のまひろを不思議がっていました。(まひろは帝に直接、自分の考えを聞いてもらって、無意識に気が大きくなってたのでしょうか)一方、内裏では帝が道長に、身分は低いけれど帝である自分に政のことを述べるまひろという興味深い女がいたと話をしました。まひろの名が出たとき道長の胸は高鳴り、平静を装いつつ、まひろの父・為時が申文を出していたことを思い出して探しました。そして道長は為時に従五位下の位を与えました。10年ぶりに得た大出世の官職、しかもそれが右大臣・道長の推挙であると使者から聞いた藤原為時(岸谷五朗さん)とまひろは、信じられない思いでした。まひろは父の前では言わないけど、力を持った道長が陰ながら自分たちを支えて守ってくれていることに、感謝で胸がいっぱいになりました。宮内に参内した為時は道長に官位を授けてもらったことに厚く礼を述べ、そして道長の看病でまひろが元気になったことの礼も述べ、我が家が向上したのは何もかも右大臣・道長のおかげだと深々と頭を下げました。道長も為時の言葉を満足そうに聞き、退室していきました。さて伊周ですが、お気に入りの女・光子(故・藤原為光の三の君)がいる一条殿に行ってみたところ、見慣れぬ高貴な牛車が門の前で待機していて、光子に新しい男ができたと思い込んだ伊周は激しく落胆して屋敷に戻ってきました。関白になれないと女まで自分を軽んじるのだと、いつも強気の兄が涙を浮かべて話しているのが情けなくなり、弟の隆家はこれから一緒にその屋敷に行って誰が来ているのか確かめて懲らしめてやろうと言い、兄弟で外に出ました。伊周と隆家が一条殿に着くと隆家はなんと矢をつがえだし、門のところに狙いを定めていたので、さすがに伊周は隆家を制しました。しかし門が開いて中からお忍びらしき人物がちょうど出てきたので、隆家はその者に向かって、当てないようにだけど矢を放ってしまいました。自分の目の前を矢が飛んできて、びっくりして腰を抜かしてへたり込むその男は、今は出家している花山院(本郷奏多さん)でした。遠目で誰だかよくわからなかった伊周と隆家でしたが、周囲が「院!」と呼んで駆け寄る姿を見て、とんでもないことをしてしまったと二人は青ざめていました。
May 14, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は、エリート街道をばく進してきた挫折知らずの人間が、思い通りにならなくなった時にどうなるのかを、まざまざと見た気がします。藤原伊周(三浦翔平さん)は家柄もよく学問ができて、芸事も武術もなんでもできて、おまけにルックスがいいから女人からは憧れの君。男は自分の将来を考えて伊周とはうまくやっていこうとするから、表面的には人気があるように見えます。でも権力欲にとりつかれ、叔父・道兼の死を陰で笑って喜んでいる一家です。いくら外面がよくても、そういうところがふだんの何気ない言動でにじみ出ているのでしょう。伊周に心から好感を持つ他人はいないようです。本人の努力以上に優遇されてきて、次第にそれがもはや当然ともなってきました。だからちょっとつまずいただけで、ちょっと思い通りにならないだけで、感情をむき出しにして声を荒げて妹の定子に人前でキレまくりです。そして自分は何一つ反省しない。だから定子が悪いのだと、妹に八つ当たりでした。その伊周の真逆をいくのが藤原道長(柄本佑さん)です。真面目で頭が固くて自分が進んで前にでるキャラでない道長は、表立った人気はないように見えます。でも仕事では皆からの信頼があるし、彼の人間としての優しさは、周囲の人も日ごろから感じているでしょう。ただ本人は好んで上に立とうとしないし、後ろ盾の源もその他周囲も彼を無理に上げようとしないだけで。でも結果、公卿たちのトップに立ってしまった道長です。より良い世にするために、このまま優しい男でいられるのか、この先の出来事で彼が変わっていくのか。展開が楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳元年(995)、筑前守で大宰少弐だった藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が任期を終えて4年ぶりに都に戻ってきて、たくさんの珍しい土産を持って親戚の藤原為時(岸谷五朗さん)の家に遊びに来ていました。為時の娘のまひろ(吉高由里子さん)を幼い頃から見ている宣孝は、まひろの気の利いた返答を気に入り、土産に渡した唐物の紅が似合う大人の色香を感じる女人になったまひろを特別な目で見ていました。まひろは宣孝の宋の国のあり方や学問の話を聞きたくて宣孝にあれやこれやと尋ね、宋の国に興味津々で、それはそれで為時は娘のまひろが心配になりました。関白・藤原道隆の死後10日がたち、帝(一条天皇)が次の関白をまだ決めていないことで、公卿たちの間では陰で憶測や意見が飛び交っていました。公卿たちが陰で語る正直な考えをこっそり聞いていた帝は熟慮の末、今回は関白を右大臣の藤原道兼(道隆の弟)にすると、藤原伊周(三浦翔平さん)に告げました。次の関白は道隆の嫡子で、中宮・藤原定子(高畑充希さん)の兄である自分だと信じていた伊周は、帝の言葉に愕然としました。帝が退室した後で伊周は不満や怒りを妹の定子にぶつけていました。でも定子は兄・伊周が、若い女人からは人気があっても政をする上で肝心な公卿たちからの人望がないことをわかっていました。道隆の死から17日後の4月27日、帝は正二位で右大臣の藤原道兼(玉置玲央さん)を関白とする詔を下しました。道兼は自分が落ちぶれたときに救ってくれた弟の道長に礼を言い、政をする上でこれからも協力して欲しいと頼みました。道長は早速、長兄・道隆が関白のときにやむなく自分の私費でやっていた疫病の救い小屋を公の仕事にして欲しいと次兄の道兼に頼み、道兼も快諾しました。昔の暗い面影はすっかり消えた道兼は政に意欲的で、民の負担を減らすために諸国の租税を減免することなどを考えていました。しかし道兼が清涼殿で帝から政に励むよう言葉をもらって下がろうとした時に、道兼は急に意識を失って倒れこんでしまいました。(倒れるのに顔から落ちていく玉置さんの迫真の演技がスゴイ!)藤原道長(柄本佑さん)は兄・道兼をすぐに自室に運んで薬師を連れてきました。しかし道兼は、自分は疫病だから近寄るな、道長が倒れたらこの家が終わる、と言って御簾の外に出るように命じました。「俺を苦しめるな。」ーー道兼は可愛い弟の道長を守りたかったのでした。道長は一旦は廊下に出たものの、中から道兼が読経する声や自分の人生を嘆いて死後を不安に思っている言葉を聞くと、たまらず道兼に駆け寄っていきました。病で苦しむ兄の体を支え、兄の背中をさすってやり、道長は介抱しました。しかしその後も道兼の病は治ることなく、関白の慶賀奏上から7日後の5月8日、道兼は35歳で世を去っていきました。(この時に道兼が唱えていたのは光明真言だそうです こちら )道兼の死を、甥(道隆の子)の藤原隆家は「七日関白とは情けない。」と陰で嘲笑し、伊周は「よくぞ死んでくれた。自分が関白になればこの家の隆盛は約束されたも同然。」と言って、親戚の死を悼む気持ちはありませんでした。一方まひろの家では、その昔に母・ちやはを道兼に殺されたし、今の道兼が昔のような人柄ではないことを父・為時も知らないけど、道兼を恨む思いは今はもうほとんどなく、まひろと為時は道兼の死を悼んでいました。そして宮中では道兼の死後わずかひと月の間に、道長と伊周を除く大納言以上の公卿が死に絶えていきました。次の関白がどうなるのか、このまま流れ任せてはいけないと思った女院の詮子(帝の生母)は弟の道長とその妻の源倫子を呼び出しました。詮子は道長に関白になる心積もりをしておくように言いますが、肝心の道長にはその気がなく、伊周が関白になったら政が危うくなると考える詮子は覇気のない道長を強く叱りつけました。その伊周は公卿たちを夕餉に招き、自分が関白になれば帝と公卿たちの間を取り持つことができると、自分の側につくようほのめかしていました。伊周の宴の後で藤原公任(町田啓太さん)と藤原斉信(金田哲さん)と藤原行成(渡辺大知さん)は今後のことを考えていました。全体の流れは伊周でも、強い道長びいきの行成は道長が関白だと主張します。ただ公任は、出世欲がない道長は関白になる気があるのか?と案じていました。そんなある日、ききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)が中宮からもらった菓子のおすそ分けだと言って、まひろの家を訪ねてきました。内裏では次の関白が伊周か道長か、今はその話題でもちきりでうんざりしているとききょうは言い、そして道長のことを知っているかとまひろに訊ねました。まひろはとっさに道長はよく知らないとごまかし、そして内裏での道長の評判はどうなのか、をききょうに訊いてみました。するとききょうは、自分が仕えている中宮・定子のことで道長はいちいち細かく厳しくうるさいと、とても不満そうに話しました。それがいかにも道長らしいと感じたまひろは思わず笑ってしまいました。ききょうが帰った後、権力欲もなくてお固いから人気がないという道長のことをまひろは一人でしみじみと思い返していました。次の関白は道長であり、伊周が関白になることは何が何でも阻止せねばと考える女院の藤原詮子(吉田羊さん)は宣旨を翌朝に控えた深夜、我が子の一条天皇(帝;塩野瑛久さん)の寝所に押しかけました。詮子は帝に人払いをさせ、次の関白のことを訊くと、やはり伊周だと。詮子は、帝が幼い頃に摂政・関白だった道隆(伊周の父)は己の家のためだけの政を行い公卿たちの信頼を失ったこと、伊周も同様のことをするだろうから帝を支える気はないことなどを訴えました。そして野心がなくて人に優しくて我がない、伊周とは正反対の道長なら、ずっと帝を支えてよい政をするだろう、と帝に訴えました。それでも帝は次の関白は伊周と気持ちを固めているので詮子は、父の円融天皇は己の意をくもうとしない関白の横暴を嘆いていた、帝には関白に操られないよう政をして欲しい、道長が関白ならそれができる、と強く訴えました。母が訪ねてきた昨夜は関白は伊周と考えを変えなかった帝でしたが、翌日になると道長に内覧宣旨を下しました。思いがけない展開に怒りが収まらない伊周は妹の定子のところに行き、帝を意のままにできない定子を声を荒げてなじりました。定子は(道長に)関白ではなく内覧宣旨のみを与えた、帝は心遣いをしてくれていると兄・伊周に説明しますが、内覧がなくなり位も前のままの伊周はそれでは納得せず、鬼のような形相で「早く皇子を産め!」と定子に迫りました。それは亡き父・道隆が死ぬ直前にここに乱入して「皇子を産め!」と迫ってきたあの時と同じで、自分ではどうにもならないことを(権力欲にとりつかれた父と兄に)罵倒され、定子は涙を必死にこらえていました。そしてひと月後、一条天皇は道長を右大臣に任じ、道長は伊周を超えて公卿の中でトップの座に就きました。道長の妻の源倫子(黒木華さん)とその母・藤原穆子(石野真子さん)は、女院とつながりを持っていてよかったと喜び、特に穆子は「関白と左大臣がいなくて内覧と右大臣なら政権の頂と同じ。」とことのほか喜び、道長でなければ嫌だと亡き父に泣いて訴えて結婚した娘の先見の明を褒めていました。ただ倫子は、人の上に立つのが苦手な道長がこれから苦労するだろうと心配しているので、穆子は「父上があの世から守ってくれる」と空を見上げていました。トップの座は自分からは望まなかったけどそこに就くことになった道長は決意も固まり、そんな時にふと、昔まひろと交わした約束を思い出していました。自分が偉くなってより良き政をすることをまひろが望んでいる、自分がこの国を変えていく様をまひろが見ているーーそんな言葉を思い出した道長はどうしてもまひろに会いたくなり、あの空き家に呼び出しました。互いに求め合ったあの時を思い描く道長。しかしまひろの方は、呼び出しに応じて来てみたものの道長の姿を見ても特別な感情がなぜか湧くことはなく、今語る言葉は何もないのだと、道長の横を無言ですり抜けて行ってしまいました。(まひろ、ちょっと待て。何も言うことはないって、せめて夜通しの看病の礼くらいは言ったらどうなのよ。・・・ききょうから道長の話を聞いて一人でもの思いにふけってたし、道長をあえて無視するのはまだ道長に思いがあるのかな。)
May 8, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は、関白の藤原道隆(井浦新さん)の病によって引き起こされる事となった密かな後継者問題に、女院の藤原詮子(吉田羊さん)と今上の中宮・藤原定子(高畑充希さん)の双方が、これまた密かに裏工作に動いていた場面が見どころとなりました。詮子と定子は叔母と姪であり、今上の母と中宮。たとえ親戚であっても互いに隙もなく容赦もない戦いがあって、思わず見入ってしまいました。やることにぬかりない詮子は、3人の男兄弟よりも強く父・藤原兼家の血を受け継いだことをうかがわせます。また、いざとなったら大胆な定子は、父・道隆の力で実力以上の位を得ている兄・伊周よりも、祖父・兼家の血を受け継いだのだろうと感じさせます。入内したものの円融天皇に冷遇されて詮子は強くなり、詮子の産んだ今上に入内し詮子に何かとキツく言われて定子は強くなりました。優しいほんわかした温室のような後宮にいれば弱いままだっただろうけど、冷たい厳しい風を受けて、2人とも運命に鍛えられてしまったようです。2人とも特に権力欲があるわけじゃないけど、うかうかしていたら我が身がどうなるかわからない。だから最善と思う手を先に打っておく。どっちもだてに帝に入内したわけじゃない。男兄弟が思わず感心してしまうほど、賢く強く行動力のある女たちの戦いが面白い回でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 正暦5年(994)京の都では疫病が蔓延し、早急になんとかしなければと思った藤原道長(柄本佑さん)は、悲田院はもういっぱいだから別の救済小屋を建ててはと、兄で関白の藤原道隆(井浦新さん)に進言しました。しかし道隆は疫病の対策には関心はなく、それどころか道長ともう一人の弟の道兼が行動を共にしたその理由を疑っていました。道長は「疫病で都の民が死に絶えたらその害は自分たち貴族にも及ぶ」と道隆を説得するのですが、道隆は「掛かりは宮廷の修理に使う。救済小屋を建てたいなら道長の私費でやれ。」と言い、兄との話し合いは徒労に終わりました。帰宅した道長が妻の源倫子(黒木華さん)に救済小屋のことを話すと、倫子は何の迷いもなく自分の財を使えばいいと道長に言ってくれました。自分のことを信じて財も自由にさせてくれる倫子に、道長は素直に頭を下げました。とはいえ倫子には道長を疑うことがただ一つだけあり、それは悲田院に行った日に道長が一晩どこで過ごしてきたのかということでした。まひろ(倫子のかつての話相手で、夫・道長にとってはかつての思い人)の看病のためにまひろの家に居たと正直に言いにくかった道長は、その場では内裏に戻って仕事をしていたと倫子に言いました。倫子は道長の嘘をうすうす感づいていましたが、この時は追及しませんでした。道長の献身的な看病のおかげで疫病から回復したまひろ(吉高由里子さん)は、書を読んだりして静かに時を過ごしていました。ただあの晩のことは父・藤原為時(岸谷五朗さん)にとっても気になることであり、大納言(道長)とはどういう関係なのだと娘のまひろに問いました。まひろは特別な間柄ではないと言うも、父は道長がまひろを抱きかかえて家に入り、そして道長が一人で看病していたその姿に、道長のまひろへの愛を感じていました。為時はこれをご縁にまひろは道長の妾になってはどうかともちかけました。しかしまひろはそれを否定し、父の望み通りにならぬことを父に詫びました。一方、道長もまひろのその後の様子が気になっていたのですが、自分が動くことができないので、従者の百舌彦に命じてまひろの様子を見に行かせていました。道長は急ぎ救済小屋をつくることに奔走していましたが、疫病が蔓延する都には人手が集まらず、思いのほか苦労していました。それでも道長には、まひろの望む世をつくるべく「やらねばならぬ」という思いが心の底にあり、掛かりが増えてもよいと下級役人に急ぐよう命じていました。その頃、関白の道隆は病が進行して日々の疲れもひどくなっていて、家族の前ではみっともない姿を平気で見せるようになっていました。長男・藤原伊周(三浦翔平さん)はそんな父を労わりつつも、やはり目にはしたくない姿なので、気晴らしにお気に入りの光子(先の太政大臣・藤原為光の三女)のところに行こうとしていました。次男・藤原隆家(竜星涼さん)は、あんな父上の姿を見たくないと素直に言葉にし、兄と同じようにどこかへ出かけてしまいました。(何気ないこのシーンですが、後に伊周が起こす事件のことを知る人にとっては、ドラマの展開の期待にざわつくシーンでした。)道隆の病は日に日に悪くなっていき、ついには帝(一条天皇;塩野瑛久さん)の御前であっても倒れてしまいました。道隆は陰陽師の安倍晴明を呼び、自分の寿命を延ばす祈祷をするよう命じました。しかし間もなく道隆の寿命が来ると感じた晴明は、下級の須麻流に道隆のことを任せ、自分は道隆からもらった病の穢れを払っていました。年が明けた正暦6年(995)、疫病で傾く世の流れを止めるべく、道隆は帝に新しい年号を長徳とする改元をしてはどうかと進言しました。翌月には長徳元年(995)となったものの、関白・道隆が一方的に決めたこれは重臣たちには評判が悪く、藤原実資(秋山竜次さん)は「帝は関白のいうことを何でも聞いてしまう。帝ははなはだ未熟だ。」と不満を漏らしていました。源俊賢(本田大輔さん)は、帝は我々でお支えしようと実資の腹立ちをなだめるけれど、実資は「いくらお支えしても断を下すのは帝だ。」と心配が募っていて、その時のやりとりを実は帝は陰で聞いていたのでした。兄・道隆の病がかなり重いことを人づてに聞いた女院の藤原詮子(帝の生母;吉田羊さん)は弟の道長と次兄の藤原道兼(玉置玲央さん)を呼びました。詮子は、若い頃は優しかった長兄・道隆が権力をもった途端に世のことを思う政をせずに自分たちの栄耀栄華ばかり考えてきたことを批判しました。そして詮子は、順として道兼が次の関白になるべき、出過ぎ者の伊周が道隆の後を継いで関白になるのは嫌だと言い、道兼もまた、父と兄に冷遇されてきたけど妹に助けてもらうとはと、浮き沈みの激しかった運命の不思議を感じつつ、道長にも礼を言っていました。栓子は中宮・定子に夢中の帝(息子)に会うのは嫌だから周囲の公卿たちを取り込んでおく、公卿たちは伊周を嫌っているから自分が一押しすれば上手くいくだろう、と言いました、道長も道兼も、詮子の情報収集力や分析力や行動力に感嘆していました。一方、中宮の藤原定子(高畑充希さん)も父・道隆の容態を案じつつも万一の事態に備えて、兄・伊周を守るために動いていました。内々に先例を調べさせ、父が存命のうちに兄に内覧の許しを帝からもらう、20年ぶりでも何でもやってしまえばいい、とまで言いました。伊周は妹・定子の先を読んで行動する頭の良さや肝の据わった強さに感嘆し、内覧になってしまえば関白になったも同じだから兄妹で共に力を尽くそう、と言う定子の言葉を頼もしく思っていました。“2人の妹”が裏で密かに火花を散らしているそんな頃、病が重くて自分の先はもうないと感じた道隆は弟の道兼を呼び出していました。道隆は道兼に、自分の亡き後は妻と伊周・隆家を支えてやってほしい、酷なことはしないでくれと全力で懇願します。でも兄の公私にわたるこれまでの諸々の事を思うと、道兼は兄にどこか虫の良さを感じて、兄を複雑な思いで見ていました。ある日のこと、先日の石山詣での出来事でずっと音信不通になっていた友人のさわ(野村麻純さん)が、まひろの家にひょっこりとやってきました。まひろは少し戸惑いながらもさわを温かく迎え、さわの近況を訊ねました。さわは疫病で兄弟を亡くしたことで急に人生のはかなさを感じ、またまひろも助かったけど自身も疫病にかかったことを伝えました。するとさわはまひろの手を取って再会を心から喜んで、石山詣での帰りの事と、その後はまひろからの文をいちいち返したことを詫びて許しを乞いました。たださわは、まひろからの文をもらうたびにその文を手本に文字を書き写すという事をしていて、思いがけない行動にまひろは驚きました。さわが帰った後、まひろは文字が持つ不思議な力をどこかで感じていました。自分の寿命がもう近いと感じた道隆は参内して息子の伊周を内大臣にするよう帝に懇願しましたが、先日の実資ら公卿の自分への不満を聞いてしまった帝は、道隆に即答することせず、なおもしつこく食い下がる道隆を下がらせました。帝が期待通りに動かなくて不安になった道隆はよろける体で娘の中宮・定子のところに行ったのですが、道隆のただならぬ様子を見た清少納言(ファーストサマーウイカさん)は直ちに女房たちに御簾を下げさせ中を隠しました。道隆は定子に早く皇子を産めと何かにとりつかれたように連呼し、その様子に定子はどこか悲しみや哀れみを感じていました。そして結局、帝は伊周に関白の病の間だけという条件で内覧を許しました。都に蔓延する疫病はついに公卿たちにも広がりだし、疫病にかかることを恐れて屋敷から出たくないと言う公卿もいました。実資はこの疫病の広がりは全て関白の横暴のせいだ言い、道長は兄・道隆と甥・伊周への批判を複雑な思いで聞いていました。正常な判断もできないようになりよろけながら陣定に出てきた道隆は、伊周を関白にしたい執念で帝の御簾を勝手に上げて中に入り込み、帝に宣旨を迫るという無礼を働いたため、皆に力づくで引きずり出されました。その後、道隆はもう起き上がれなくなって、妻の高階貴子(板谷由夏さん)の看病を受けながら伊周の行く末を案じていました。いよいよ最期の時がきた道隆は、貴子と出会った若かりし頃がふと思い出され、『忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな』と貴子に心を決めたときのあの歌を詠み、長徳元年4月10日、藤原道隆は43歳でこの世を去りました。
April 30, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回では私は、人はその人の生まれ持った性格や能力に育った環境が加わると、ある価値観を持った人になってしまうのだな、と思って観ていました。栄華を極める中関白家で、身びいきの父・藤原道隆(井浦新さん)が、周囲の気持ちに配慮することなく、まだ若いのに位を強引なまでにグイグイと押し上げてしまった嫡男の藤原伊周(三浦翔平さん)。学問・芸事・武術など何をやらせても人より秀でていて、もちろんこれは本人が幼い頃より勉強や稽古に励んだからなのですが、それでもできてしまう伊周です。加えて見た目も麗しいし、父が高位を授けてくれます。苦労知らずの伊周は、万能感にあふれていますね。これは伊周が育った環境が、父も母・高階貴子(板谷由夏さん)も優秀で、金持ちだから生活のために働くことを考える必要もなく、優秀で自分たちは他者より優位に立つのが当然、という家だからでしょう。伊周が若さの勢いもあるけど万能感に少々生意気さを感じてしまうのは、その前の話で藤原道兼(玉置玲央さん)の人生が描かれたからだと思います。道兼が努力しても報われない人生とか、父の裏切りで一度はどん底に落ちた人生を見せてくれたので、人の心の痛みをまだ知らない、父・道隆からの優遇を当然のように受けて進むだけの伊周が軽く見えるのです。同時に余計な見栄とかを捨てて自分らしく生きるようになった道兼が肩の力が抜けた感じで、「汚れ仕事」と言っても政務者としてだけど下々への思いやりを感じられるようになったのがいいですね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 正暦5年(994)、中宮・藤原定子(高畑充希さん)のいる登華殿は帝(一条天皇;塩野瑛久さん)のお渡りが多く、若い公達たちも集って華やかさを増していました。定子の兄で中関白家の藤原伊周(三浦翔平さん)は、帝との親密さを殊更に周囲に見せつける形となりました。藤原行成(渡辺大知さん)や藤原斉信(金田哲さん)はそれぞれに帝や中宮に気の利いた贈り物を献上し、若い二人は感激して快く受け取っていました。定子は公達たちに、末永く帝の良き友であるようにと言葉をかけました。登華殿に皆が集まったこの日は雪が積もっていて、さて帝と何をして遊ぼうかとなった時、定子は少納言(ききょう;ファーストサマーウイカさん)に「香炉峰の雪はいかがであろうか。」と問いかけました。定子の意図を瞬時に理解したききょうは女房たちに御簾を上げるよう言い、そして帝と定子に廊下まで出てくるように促しました。これの意味がわからない者のために藤原公任(町田啓太さん)が、これは白楽天の詩で『香炉峰の雪は簾をかかげてみる』ということだと解説をし、定子はききょうを「見事であった」とほめました。それから定子は皆に雪遊びをしようと提案し、定子は嬉しそうに裸足で雪が積もる庭に下りていきました。帝や他の者たちも定子に続き、若い皆は無邪気に雪遊びを楽しんでいました。中宮・定子の登華殿に対しては経費のことなどで、定子の叔父ではあるけど中宮大夫の藤原道長(柄本佑さん)には思うところがいろいろありました。道長は定子に進言したかったのですが、登華殿は帝もいていつも賑やかで楽しそうなので、道長も皆の気分を壊すことは言いにくいままでした。ただ帝の母である女院の藤原詮子だけは、時折り登華殿を訪ねては皆に気遣うことなく苦言を呈していました。すると伊周が女院に対し「これが帝が望んでいる新しき後宮の姿」と堂々と意見を述べて女院に理解を求め、伊周の父で関白の藤原道隆は満足そうでした。この時の光景を見ていた藤原道綱(上地雄輔さん)は弟の道長に興奮気味に話し、そのついでに先日の石山寺であった出来事も話しました。まひろのことはもう忘れたつもりだった道長だけど、兄・道綱がまひろに手を出しかけたと知り、道長の心中は穏やかではありませんでした。ところで、この頃は御所内の後涼殿と弘徽殿で火事が相次ぎ、次はどこかと関白・藤原道隆(井浦新さん)の妻の高階貴子(板谷由夏さん)は不安がっていました。さらに貴子は、この家への妬みが帝や中宮(定子は道隆と貴子の子)に向かっているのかと心配になりました。その話を聞いて次男の藤原隆家(竜星涼さん)は、犯人は女院か?と軽口を言い、妬まれて結構と笑っていました。道隆が「女院(道隆の妹)が我が子の帝に危害を加えるとは思えない」と言うと隆家はならば父上を恨む者だと言い、兄の伊周が隆家をたしなめました。でも道隆は「光が強ければ影は濃くなる。恨みの数だけこの家は輝いているのだ。私たちが動揺すれば相手の思う壺。動じないのが肝心だ。」と笑っていました。中関白家は栄華を誇っていたこの時、都では疫病が広がっていて、公卿たちは早く疫病の対策をすべきと関白・道隆に何度も提言していました。しかし道隆はそれを無視し続けていて、陰陽師の安倍晴明は疫神が通る(疫病が蔓延する)と予言し、果たしてその通りになりました。帝も疫病と民のことを案じていましたが、道隆は帝にそのようなことは考えずに国家安寧のために早く皇子を、というばかりでした。そんな中、道隆は伊周を内大臣にし、伊周は叔父の藤原道兼(玉置玲央さん)に挨拶をしていました。道兼は伊周に政務者として疫病のことを問うと伊周は、疫病は貧しい者にうつる病だから自分たちは心配ない、と気にもとめていない様子でした。伊周の姿勢に道兼が苦言を呈すると、道兼の昔を知っている伊周は道兼にそれをにおわせるように反論し、道兼の忠告を聞こうとしませんでした。ある日、まひろ(吉高由里子さん)の家にかつて文字を教えていたたねが突然やってきて、両親が悲田院に行ったきり帰ってこないと窮状を訴えていました。従者の乙丸は悲田院に行くのは危ないとまひろを止めましたが、まひろはたねと一緒に行ってしまいました。悲田院には疫病にかかった者たちが苦しそうにしてそこらじゅうに横たわり、息絶えた者はすぐに運び出さなけれないけない有様でした。たねの両親も息絶え、やがてたねも命を落としました。まひろは見ず知らずだけど病に苦しむ者たちを放ってはおけず、悲田院に泊まりこんで、懸命に病人たちの世話をしていました。疫病の対策を急がねばと考える道長は兄の道隆に相談しましたが、道隆は疫病は自然に収まると言うばかりで、それでも道長は関白の兄から帝に奏上してほしいと訴えましたが、道隆は聞き入れるつもりはありませんでした。それどころか帝と中宮を狙った相次ぐ放火のほうが一大事、道隆は中宮大夫だがどうするつもりだ、役目不行き届きだ、と言って道長を下がらせました。道長は退室した廊下で次兄の道兼と会い、道隆が声をかけると道長は、道隆と話しても無駄なので様子を見に悲田院に行く言うと言いました。すると道兼は「都の様子は俺が見てくる。汚れ仕事は俺の役目だ。」と言って、すぐに外に出ていってしまいました。「汚れ仕事」という道兼の言葉には昔のような妙な含みはなく、政務者の一人として民のことを考えている姿勢がありました。兄・道兼を追って道長も悲田院に着くと、そこには惨状が広がっていました。庭には多数の死人が横たわり、薬師たちも何人か疫病にかかって倒れ、今動ける者は看病にてんてこ舞いでした。道兼が薬師の派遣を内裏に申し出ようと言うと、これまで何度も自分たちが申し出ていたけど何もしてもらえないと言われ、道兼は言葉を失いました。(昔の道兼なら下の者から「あんた」呼ばわりされたら怒ったと思います。でもどん底に落ちてから無理をせず生きることを知った道兼は、自分のことよりも苦しむ民草のことを考えるようになったと思います。)やがてまひろも疫病になって倒れかけたときに、悲田院に来ていた道長と出会い、意識のないまひろを道長が家まで送ってくれました。まひろの家に着くと道長はまひろを抱きかかえて家に入り、まひろの部屋まで乙丸に案内させました。父・藤原為時(岸谷五朗さん)が慌てて枕元に駆けつけると道長は、自分が看病するからと言って為時といと(信川清順さん)を下がらせました。道長が大納言と知る為時は、どうして道長がまひろのためにここまでと思いつつ、道長の命なのでまひろの看病を道長に任せて下がり、いともまひろが石山詣での土産にくれたお守りに病気の快復を祈っていました。まひろの従者の乙丸(矢部太郎さん)と道長の従者の百舌彦(本多力さん)は久しぶりの再会となったのですが、互いの主人が突然このような状態になってしまったため、二人とも眠れぬ夜を明かしました。(ところで、ここでふと疑問が。石山詣でのときも乙丸は廊下で座って寝ていて、これは旅先や今回のような非常時の警護だから、という理由だったのでしょうか。ふだんの生活でも主人のために座って寝るとなると、かなり体がキツイかと。)病でうなされるまひろを看病しながら道長は、なぜ悲田院にいたとか、あの時に言っていた「生まれてきた意味」を見つけたのかとまひろに語りかけ、そしてまひろに「逝くな、戻ってこい!」と強く呼びかけました。道長の必死の看病の甲斐あって、翌朝まひろの容態は落ち着きました。為時は道長に夜通しの看病の礼を厚く述べ、道長には大納言としての政務があるから帰るよう促しました。まひろのことが気がかりだけど為時のいう事ももっともなので、道長はまひろが気がつかぬまま妻・倫子が待つ屋敷に帰宅しました。明け方に戻ってきた夫・道長の様子で何かおかしいと倫子は感じ、妾の明子でもない女人の存在が道長の心にあると直感しました。
April 23, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回では私は前半は、父に裏切られてからすっかりやさぐれてしまい、自堕落な日々を過ごす藤原道兼(玉置玲央さん)と、傷ついた兄・道兼を気遣いつつ自分なりに受け止めてやる藤原道長(柄本佑さん)のやり取りに心が引かれました。元・上司が突然訪ねてきて家に居座ってしまい、それが振る舞いが立派ならまだ客として迎えてもいいけど、この家に居られると迷惑レベルなみっともない品の無さ。これでは公任さんもたまったものではありません。そんな兄・道兼を、道長は受け止めて優しく諭しました。少年の頃は道兼が機嫌の悪いときは暴力だって振るわれた道長だけど、彼が幼い頃から持っている寛大で柔らかい心で、自暴自棄の泥沼にいる兄を引き上げました。ドラマの中の道兼と同じような経験をしたことがある方は、道兼の思いに共感し、さらには自分のときに道長のような人に出会えて救われた、あるいは道長のような人に出会えたらよかったのに、いや、自分は時間が薬となってじきに立ち直れた、などの思いを持ったのではと想像しました。そして後半は、まひろ(吉高由里子さん)とさわ(野村麻純さん)の石山詣でがあり、これは当時の風習を知るのに興味深いシーンでした。さらにこの石山詣でには、本家の石山寺の方が用語などをいくつかポストしてくれていて、とても参考になりました。石山寺*公式のポスト ⇒ ⇒ こちら 石山寺へのアクセスは「京都から(中略)歩いても4時間半~5時間で来られます」だとか。 ⇒ こちら これなら当時の都の人々が石山寺を詣でてみようか、と考えるのもうなずけますね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永祚2年(990)、父・藤原兼家が隠居する間際に藤原家の後継者を兄の道隆にされ、これまで父のためにあらゆることをやってきた藤原道兼(玉置玲央さん)は我慢の限界を超え、さらには妻子も自分の元から去ってしまい、自暴自棄になって荒れた生活を送る道兼は藤原公任の屋敷に転がり込んで居座っていました。困った公任は道兼の弟の藤原道長(柄本佑さん)に相談、道長はすぐに兄・道兼を迎えに公任の屋敷に行きました。他人の家に居座って行儀の悪い振る舞いをする道兼でしたが、亡き父・兼家を思うが故に父にさんざん振り回されてきた兄を理解する道長は、兄を優しく諭しました。それでも長兄・道隆に持っていかれた摂政の地位にこだわり世を恨む道兼を道長は、「兄はもう父の操り人形ではない。己の意思で好きにすればいい。兄にはこの世で幸せになって欲しい。まだこれから。自分が支えるから生まれ変わって生き抜いて欲しい。父はもういない。」と思いのたけを伝えました。父と兄・道隆は自分を冷たく見捨てたけど、この弟だけは自分をわかってくれていたことを知り、道兼はただ泣き崩れていました。正暦4年(993)、摂政・道隆は立ち直った道兼を内大臣に、嫡男の伊周を末弟の道長と並ぶ権代納言に、公任と妾腹の弟・道綱を参議としました。道隆は他にも自分と昵懇の66人の者の位を上げ、あまりに露骨な身びいきに他の公卿たちは口々に不満を言っていました。さて、まひろ(吉高由里子さん)の家では父・藤原為時(岸谷五朗さん)が未だに官職を得られず、苦しい生活が続いていました。そんな中、まひろの弟の藤原惟規(高杉真宙さん)がひょっこりと家に帰ってきて、大学寮での試験で疑文章生の試験に合格したと家族に報告しました。まひろの家では久々の明るい話題に皆の喜びの声があがり、惟規の乳母だったいと(信川清順さん)は、この日のために隠しておいたというとっておきの酒を出して、まひろの従者の乙丸も同席して皆で惟規の合格を祝いました。摂政となった道隆は公卿たちの反発も構わずに娘の藤原定子(高畑充希さん)を一条天皇(帝)の中宮にしましたが、道隆も定子も宮中での評判は良くないもので、道隆の妻の高階貴子(板谷由夏さん)にもその声は聞こえていました。貴子は娘の定子に「中宮の勤め」として帝の皇子を産むことだけでなく、帝だけを大切にしていてはいけない、昼間は後宮の長としてここに集う全ての者の心をひきつけて輝かなければならない、と心得を伝えていました。貴子は定子のために、以前の漢詩の会や和歌の会で見知ったききょう(ファーストサマーウイカさん)を定子の話相手として女房とすることにしました。ききょうはその喜びをまひろにすぐに報告し、まひろも気持ちよくききょうを祝いましたが、一方では先がまだ何も決まらない自分を憂いていました。参内して定子の前に出たききょうは、定子の匂いたつような美しさと品格に言葉を失ってただ見惚れていました。そして定子から「清 少納言」の名を賜り、この上なき誉の喜びと共に定子に一身を賭して仕えることを誓いました。定子のいる登華殿は帝と若い公卿たちが交流する華やかな場となりました。帝が大人になり藤原道隆(井浦新さん)は摂政から関白へと役職が変わったけど、道隆の独裁は相変わらず続いていて、中宮・定子の登華殿には定子の衣装や調度品、さらには付き従う女房の衣装まで公金で莫大な費用を費やしたりしていて、それは弟の道長の目にも余るものでした。黙っていられなくなった道長が道隆に進言すると、道隆は取り合わないどころか、身内なら面倒なことは言わないと思ったから道長を中宮大夫にしたと言いました。そして道隆は嫡男の伊周や若い貴族たちがやっている「弓競べ」の見物に道長を誘い、弓の稽古場に行きました。稽古場では道隆自慢の嫡男の伊周が次々と的の中央を射抜ていき、見物をする姫君たちも思わず歓声をあげていました。父と一緒に来た道長を見た藤原伊周(三浦翔平さん)は道長を弓競べに誘いました。あまり気乗りしない道長でしたが、結局は受けて立つことにしました。とはいえやはり気乗りしないので適当に相手をして道長は帰ろうとしたのですが、伊周がまだ2本矢が残っている、最後のこの2本はそれぞれに願掛けをして射ようと言い、まず伊周が「我が家より帝がでる」と唱えて矢を射りました。するとその矢は的の端に当たり、次に道長が同じことを唱えて射るとその矢は的のほぼ中央に当たりました。伊周は残り1本の矢で「我、関白となる」と唱えて射るとその矢は的を大きく外し、道長が同じことを唱えて射ようとすると、道隆は慌ててそれをやめさせました。道長は道隆にまた改めて話をと言って、稽古場から去っていきました。(参考:願掛けをしてから矢を射るのは「うけい」と言うそうです。 こちら )その夜、道長のもとに舅の源雅信(益岡徹さん)が危篤との報が入り、道長は嫡妻・源倫子(黒木華さん)のいる土御門邸に急ぎました。雅信は絶え絶えの息で、もう自分が道長の後盾になってやれないから道長の出世はこれまでかと語りました。でも妻の藤原穆子(石野真子さん)は、権代納言の婿殿なら素晴らしいことと言い、娘の倫子も道長と一緒になれて幸せだと父に言いました。藤原氏全盛の世に16年の長きにわたって左大臣を務めた源雅信は、愛する家族に見守られながら74年の生涯を閉じました。さて、まひろの方ですがある日さわ(野村麻純さん)が、今の自分は家に居づらい、気晴らしに近江の石山寺に旅に出るからまひろも一緒にどうか、と誘ってきました。行きたいけど旅の掛かりが気になるまひろは父・為時に相談し、父はそのくらいは何とかなろうと快くまひろを旅に送り出してくれました。まひろとさわはそれぞれの従者を連れて出立し、従者たちは自分が仕える姫様が久しぶりに明るい笑顔で楽しんでいるのを微笑ましく見守っていました。さて石山寺で願掛けをしようと張りきっていたさわですが、夜遅くに延々と続く誦経がすぐに飽きてしまい、つい文句を言っていたら近くにいた藤原寧子(財前直見さん)に𠮟られてしまいました。でもその後で寧子は二人をおしゃべりに誘い、寧子が「蜻蛉日記」の作者と知ったまひろは嬉しくて、目を輝かせながら本の感想を寧子に伝えていました。まひろの素直な感想に寧子も「心と体は裏腹」と自分の思いを述べました。そう言われてまひろは道長とのことを思い出してふと切なさがよぎったのですが、「自分は日記を書くことで己の悲しみを救った。兼家との日々を日記に書き記して公にすることで妾の痛みを癒した。」と言う寧子の言葉が心に残りました。さらに寧子は「命を燃やす恋でも妾は辛い。高望みせず嫡妻にしてくれる心優しき殿御を選びなされ。」と若い二人に助言してくれました。(まひろとさわがつけている赤い帯は「掛け帯」だそうです。 こちら )寧子とまひろとさわが話をしていたら藤原道綱(寧子と兼家の間の子;上地雄輔さん)が後からやってきて話に加わりました。「蜻蛉日記」にも登場する道綱と会うことができ、光栄に思ったまひろは嬉しくてたまらない様子で道綱に挨拶をしました。そんなまひろを可愛く思った道綱は、皆が寝静まった夜更けにこっそりとまひろとさわが寝ている部屋に忍び込んできました。まひろは寝つけなくて庭に出て月夜を眺めていたため、部屋にはさわが一人。さわは道綱なら妾になってもいいと思ったのか道綱の誘いに応じるつもりだったのですが、道綱が望んだのはまひろの方で、道綱の下手な言い訳でさわは余計に深く傷ついてしまいました。(ここで現代の石山寺さんからのお叱りポストが。 ⇒ こちら )翌朝の帰り道、昨夜のことがあったさわはずっと落ち込んでいました。まひろが声をかけるとさわは、自分は才気も殿御を引き付ける魅力もなく、家にも居場所がないからもう死んでしまいたい!と叫んで川のほうに走り出しました。まひろと2人の従者がさわを追いかけていくとさわは川原で突然立ち止まりました。4人がそこで見たものは、川の中や川原に累々と横たわる死体で、それはこの頃都の近辺で流行り始めた疫病によるものでした。(当時もしこのように死体が川の中にもあったら、汚染された水が下流にどんどん広がって疫病が蔓延したと思われます。)
April 17, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。1月にドラマがスタートしてから己の野望のために周囲をグイグイと動かして、ついには望むものを手に入れた藤原兼家(段田安則さん)がこの回で退場となりました。特に父・兼家にいいように利用されてきた藤原道兼(玉置玲央さん)が、後継者選びで兄・藤原道隆(井浦新さん)が選ばれて、それだけでも十分ショックなのに、十数年前の失態を盾に父から突き放されたときは、道兼が可哀そうと思った視聴者が多かったのではないでしょうか。ただ見方を変えると、これは兼家の主義というか、後継者を道隆とするからには道兼を追い払っておかなければならない、兄弟で手を取り合ってなんて綺麗ごとは考えない、これは跡を継ぐ道隆の権力を盤石なものにするための、父としての最後の大仕事、のようにも思えました。父の愛が欲しくて、命じられるがまま汚れ役をやってきた、栄誉が欲しくて娘を入内させようと妻子に無理強いをした、そして自分に愛想づかしをして妻子は去り、全てが報われないままに道兼の10年という時間が流れました。ただ自暴自棄になっても、父の悪行をバラして一族全てが滅びることをしなかったのは、まだマシだったでしょうか。現代でも、自分のための努力じゃなく、誰かの愛を求めて、誰かに認めてもらいたくて、誰かを振り向かせたくて、必要以上に頑張ってしまったけど報われなかった人には、道兼の姿が心に刺さったと思います。まあそれでも、いかなる理由であれ、努力して手に入れたものは後で役にたつ、という『塞翁が馬』でもありますが。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永祚2年(990)父・藤原為時が無職になって4年、いよいよ生活に困ったまひろ(吉高由里子さん)は以前から交流のあった左大臣家の源倫子にこの家での仕事を紹介してもらえたのですが、ここはかつてまひろが愛した藤原道長が婿となっている家なので、まひろは丁重に断り帰ろうとしました。その時に帰宅した道長と廊下ですれ違うこととなり、まひろはとっさに顔を伏せて礼をとり、道長もそのまま通り過ぎていきました。道長本人がいて、まひろの耳に入る「北の方」や「お父上」の呼称、倫子たち家族の光景は、まひろにはいたたまれないものでした。しかし道長のほうも、思いがけない再会となったまひろに心が揺れ動いていて、妻の倫子や娘の彰子のことにも心ここにあらずでした。ところで病が重く死期を悟った摂政の藤原兼家(段田安則さん)は嫡妻を母にもつ藤原道隆(井浦新さん)と藤原道兼(玉置玲央さん)と藤原道長(柄本佑さん)を呼び、後継者のことや今後のことを伝えました。兼家が絶大な権力を持つために、父・兼家の命のまま兄弟の誰よりも働いたと自負する道兼は自分が必ず父の後継者となると信じていましたが、兼家が指名したのは兄の道隆で、道兼は唖然としました。父はさらに「人殺し(道兼は十数年前にまひろの母を自ら殺害した)に一族の長は務まらん。大それた望みを抱くな。」とまで道兼に言い、下がれと命じました。父のあまりの言葉に我慢ならなくなった道兼は、父こそ権力を持つために先先帝や先帝に対して人に言えないことをやってきたのだと暴露し、「とっとと死ね!」と暴言を吐いて退出していきました。兼家は道隆と道長に「今より父はいない者として生きよ」と命じ、従者に支えられながら力なく歩いて去っていきました。一方、まひろの家では相変わらず困窮が続き、藤原為時(岸谷五朗さん)に仕えるいと(信川清順さん)が思いつめたように為時の前に来て暇願いを言いました。とはいえいとは身寄りもなく、疫病で夫と生まれたばかりの子を亡くした後にこの家に来て、嫡男の惟規の乳母となって惟規を我が子のように慈しんで育ててくれた、為時にとっても大事な存在です。良くも悪くも純粋で優し過ぎて殿としては頼りない為時だけど、「この家はお前の家である。ここにおれ。」ーー為時の優しさにいとはただ泣き崩れていました。さて、兼家には妾の藤原寧子(財前直見さん)と庶子の藤原道綱(上地雄輔さん)が別宅にいるのですが、寧子は病床の兼家の耳元で「道綱」の名を連呼し、後継者の道隆にも道綱をよろしくと、ささやき続けていました。道綱は母を窘めますが、でもそれぐらいしておかないと兼家は道綱のことを忘れてしまうかもと、心配でたまらなかったのでした。すると兼家が目をあけ、寧子を見て微笑みながら絶え絶えの声で『嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る』と、寧子が『蜻蛉日記』に記した和歌を詠んだのでした。「輝かしき日々であった。」ーー兼家は寧子と過ごした時間を懐かしんでいました。しかし兼家を恨む源明子の執念は凄まじく、道長の妾となって道長の子(兼家の孫)を宿す今になっても、兼家を密かに呪詛するのをやめませんでした。その念ゆえか、ある夜中に兼家は何かに導かれるように庭に出て、そのまま絶命してしまいました。父・兼家のことが気にかかって夜明けに庭に出た道長は橋のたもとで父が倒れているのを発見、しかし父はすでに息絶えていました。冷たくなりかけた父の遺骸を道長は愛おしそうに抱き寄せ、涙ながらに「父上」と幾度か呼びましたが、その声は兼家にはもう届かないものでした。兼家の死から3日後、藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)がまひろの家に来て兼家の訃報を伝えました。兼家によって職を解かれた為時でしたが兼家に仕えて窮状を救ってもらった時もあり、為時はその死を悼んでいました。また宣孝は、自分が筑前守として国司になり間もなく下向すると伝えました。為時は兼家の死と親しくしている宣孝の下向で一抹の寂しさを感じ、一人静かに涙していました。兼家を呪詛してその願望を成就した源明子(瀧内公美さん)ですが、その無理が祟ったのか道長との子を流産してしまいました。(これは呪詛返しとかじゃなく、単に安静にしていけなきゃいけない時期に夜中に起きて心身に過大なストレスをかけたせいだと思います。)明子を見舞い優しい言葉をかけていたわる道長でしたが、明子のそばにずっといるわけではなく、また参ると言ってすぐに退出していきました。兼家の喪に服して都全体が静まりかえっている中、亡き父・兼家に裏切られて激しく傷つき自暴自棄になっている道兼は、屋敷の中で昼間から酒をあおり遊女まで呼んで一人遊興にふけっていました。そんな夫の姿を見るに堪えなくなった妻の藤原繁子(山田キヌヲさん)は道兼に離縁を申し出て、道兼がいずれ入内させるつもりでいた娘の尊子も連れて繁子は道兼の元を去っていきました。妻子が去った後の道兼の自堕落ぶりはますます酷くなり、また太政大臣だった亡き父・藤原頼忠に言われて道兼の方についていた藤原公任も当てが外れたと、これからは道隆に真剣に取り入らねばと考えを変えました。摂政となった道隆は、まだ17歳の嫡男の藤原伊周(三浦翔平さん)を一足飛びに蔵人頭に任命するなど、他の公卿たちの意向など全く気にせず次々と己が権力をふるっていきました。また道隆は帝(一条天皇、妹の藤原詮子の子;柊木陽太くん)に娘の藤原定子(高畑充希さん)を入内させ、定子も両親の期待通りに帝と仲睦まじくしているので、道隆の権勢はますます揺るぎないものになっていきました。道隆の嫡妻の高階貴子(板谷由夏さん)は、伊周の位が上がったのだからそれにふさわしい姫に婿入りさせたいと考えていました。そこで貴子は姫を見定めるために和歌の会を開くことにし、そのときに5年前の漢詩の会で呼んだまひろとききょうも呼ぶことにしました。和歌の会では、まひろとききょう(ファーストサマーウイカさん)は5年ぶりに再会することとなり、2人は共に会での役割を果たしました。後日ききょうはまひろの家を訪れ、その折に、あの和歌の会はつまらなかった、集った姫たちはより良き婿を取ることしか考えていない、志もなく己を磨かず日々をただ暮らしているだけの自分にとって一番嫌いな人たちだった、などと本音をまひろにぶつけていました。(ただね、志があって意思が強くて難しいことを考える女は扱いにくいから、伊周の妻には和歌の会に集ったような姫たちを望むと思います。)でもききょうは愚痴だけでなく、自分はいずれ宮中に女房として出仕して世の中を広く知りたい、そのためには夫と子供と離れてもいい、己のために生きることが他の人の役に立つような生き方がしたい、と将来の展望を語りました。ききょうに志はあるのかと問われたまひろは、貧しくて文字を知らないが故に不幸になる人を減らしたい、1人でも2人でも、と答えました。自分の志を確認したまひろでしたが、その文字を教えているたねが急に来なくなり、まひろは気になってたねの家を訪ねてみました。するとたねは父に叱られながら農作業をしていて、まひろが声をかけると父のたつじから「文字は要らない。余計なことをするな。」と文句を言われました。一方で道長は、面倒だからと罪人を密かに殺めている検非違使庁を改革しようと、何度も却下されながらも改革案を出していました。道長は身分の低い者にもちゃんとした裁きをと望んでいるのですが、摂政で兄の道隆は、権中納言の道長は下々のことを考えなくてよいと一喝しました。そして帝に入内させた娘の定子を中宮にすると言い、円融院の遵子を皇后にして定子を中宮にすると言いました。道長が前例がないと反論すると「公卿たちを説得せよ。これは命令だ。」と強く言い、多くの公卿が反対しても道隆は帝に「定子を中宮にする」と言わせました。たとえ高い志があっても己に権力がなければ何も成し遂げられないのだと、この時に道長は思い知るのでした。
April 9, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。このドラマは主人公は後に紫式部となる吉高由里子さんですが、吉高さんがまだ「まひろ」のうちは、メインは 藤原兼家(段田安則さん)と3人の息子たちの動きだと思って視聴しています。長男・藤原道隆(井浦新さん)と次男・藤原道兼(玉置玲央さん)の本人同士、そして妻子を含めた家族同士の対比に興味が湧いてきます。内面は冷徹だろうけど人当たりの良い道隆と、実務的な力はあるのに人気のない道兼。与えられた地位と家族の皆がそれぞれに持つ高い能力で、いつも自信にあふれて明るい道隆一家。働きの割には父からの評価が低くて悔しくて、兄より上に立とうと躍起になるものの、元からの卑屈な性格もあって妻子にプレッシャーをかけてしまい、どこか暗くなってしまう道兼一家。でもそんな兄たちをよそに、仕事の面ではブレずに己の考えに忠実であろうとして、会議の場でも上役に臆せず意見が言える藤原道長(柄本佑さん)がいて、この先のことを想像できる面白い設定だなと思っています。(もっとも私的な心の中はブレまくりにようですが)でもドラマの終盤で、老いて呆けたと思った兼家が道長に対して、しっかりした態度で父としての考えを伝えました。道長の甘さを指摘し、この先に道長が守るべきものとその理由をちゃんと説明しました。そしてさらに「その考えを引き継げる者だけがわしの後継だと思え。」ーー兄たちと違い道長は自分が父の後継者になりたいなんて一言も言ってないのだけど、兼家は道長に強くそう言いました。これは晴明から「答えは自分の心の中に既にあり、それが正しい。」と兼家が言われたことの、兼家が心の奥で直感して涙して得たことの答えなのでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永祚2年(990)正月、一条天皇は摂政の藤原兼家の加冠により元服し、兼家は政権の頂点に、そして息子たちを瞬く間に昇進させて政権の中枢に置きました。兼家の長男の藤原道隆(井浦新さん)の中関白家には、学問・音楽・武芸など何をやっても他者より秀でた嫡男の藤原伊周(三浦翔平さん)と、優秀な息子が可愛くて仕方がない道隆の妻・高階貴子(板谷由夏さん)、伊周の弟の藤原隆家、そして間もなく一条天皇に入内する娘の藤原定子(高畑充希さん)がいました。明るく聡明な定子は入内した後には、元服したとはいえまだ幼い帝(一条天皇)と打ち解けるよう工夫をこらし、帝の心を掴もうと努力してしました。一方、一条天皇を即位させるために父・兼家の命ずるままに兄弟の中では誰よりも働いたと自負する藤原道兼(玉置玲央さん)でしたが、兄・道隆よりも下にいることが常に不満でした。道兼はその苛立ちを娘の藤原尊子(愛由ちゃん)をいずれ帝に入内させることにかけていて、尊子が定子よりも先に皇子を産めばとまで考えていました。道兼の妻・藤原繁子(山田キヌヲさん)はそんな夫に、自身の栄達も大事だけど尊子の幸せも考えてほしいと訴え、また尊子も父が自分に向ける強すぎる期待に恐れを感じて返事もできませんでした。まひろ(吉高由里子さん)が市場に買い物に出たある日のこと、男の怒号と女が言い争う声が聞こえてきたのでその場に行ってみると、3人の子供が縄で縛られ連れていかれるところでした。人買いの男が示す証文には確かに子供一人を布1反で売ると書いてあり、文字が読めずに人買いの嘘を信じてしまった貧しい女は、3人の我が子を人買いに渡さざるを得なくなりました。「文字が読めたらこんな不幸は起こらない。文字を教えたい。一人でも二人でも。」ーーそう考えたまひろは従者の乙丸(矢部太郎さん)に頼んで、人が大勢集まる場所で文字が読める嬉しさを伝える芝居を始めました。行きかう人のほとんどはまひろと乙丸の芝居を怪訝そうに見ているだけでした。でも、たね(竹澤咲子ちゃん)という少女だけは文字に興味を持ち、嬉しそうにまひろから文字を教わっていました。いつしかたねはまひろの家に来てもっと文字を教わるようになり、喜んで教えるまひろと一生懸命に学ぶたねの姿を、乙丸は温かく見守っていました。ただまひろの父・藤原為時が職を失って4年がたち生活はますます苦しいのに、まひろが一文にもならないことをやって喜んでいるので、為時に仕えるいとは苦々しく思っていました。この頃の朝廷では、尾張国郡司百姓等解文をはじめ地方の人々が国司の横暴を訴える上訴が相次いでいました。左大臣の源雅信(益岡徹さん)は国司たちがこのように勝手に重税を民に課しているのかと気にしていましたが、内大臣の藤原道隆は、これらの訴状をいちいち取り上げていてはきりがない、そこら中の民が都に来て訴えるようになる、全て却下すべきと意見し、他の高官たちも道隆に賛同しました。しかし道隆の弟の藤原道長(柄本佑さん)は、遠方より都まで出てきて上訴する民には切実な思いがある、民なくば我々貴族の暮らしもない、と反論しました。その道長の政への姿勢を藤原実資は感心して見守っていました。雅信は摂政の藤原兼家(段田安則さん)に意見を求めましたが、兼家は議題から離れたおかしなことを言いだして、その場の一同を唖然とさせました。父・兼家の老いと呆けが誰の目にも明らかになってきて、次男の道兼は父に早く自分を後継者にしてもらわなければと焦っていました。長男の道隆も、父はこの夏には世を去るだろう、その時には次は自分が摂政にと読んでいて、妻の高階貴子にも心づもりをしておくように言いました。一方、亡き父・太政大臣の藤原頼忠から、道隆ではなく道兼につくよう言われている藤原公任(町田啓太さん)は、道兼に取り入っていました。道兼は公任に、蔵人頭の立場を利用して父・兼家の様子を逐一自分に知らせるよう命じ、自分が父の後継者になった際には公任の出世を約束しました。さて、思いを寄せる道長を婿に迎えることができた左大臣・雅信の一の姫・源倫子(黒木華さん)は道長との間に一の姫の彰子をもうけていました。御所の勤めから戻った道長が物憂げな顔をしているのでどうしたのかと倫子が尋ねると、道長は父・兼家の様子がおかしいことを話しました。でも倫子は、それは兼家の老いであろう、自分の父・雅信もすっかり老いたがそんな父も愛おしい、ここまで一生懸命に働いてきたのだ、と語りました。そう聞いた道長は、父も長い闘いを生き抜いてきた、(孫の一人の)帝が即位して(もう一人の孫の)定子が入内したから気が抜けたのかも、と考えました。「お優しくしてあげてください。」ーー道長は倫子の言葉を受け入れました。さて、まひろの家には親戚の藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が来ていて、この格好で御嶽詣でをしてきたと、土産話で盛り上がっていました。そして宣孝はまひろにまた縁談を持ってきたのですが、まひろは今は結婚など考えていない、収入にはならないけど子供に読み書きを教えていてやりがいを感じて楽しいと答え、宣孝はそんなまひろを興味深く見ていました。一方でまひろの父・藤原為時(岸谷五朗さん)には、摂政・兼家の加減が悪い、兼家が生きているうちは為時は官職を得られないがもしかしたら近いうちに、と情報を提供して宣孝は去っていきました。この頃、道長の妾である源明子(瀧内公美さん)が道長の子を宿していて、でもめでたいことなのに笑顔のない明子を、道長は優しく受け止めていました。その明子が突然、父・兼家の見舞いに行きたいと言い出し、道長は明子を父の元に連れていきました。兼家は明子にとって父・源高明を陰謀で失脚させた(安和の変)仇なのですが、兼家は明子のことも明子の父とのことも全くわからない状態でした。父の復讐を固く誓う明子は兼家の機嫌をとって扇子を手に入れ、扇子を使って兼家の呪詛をはじめました。兄の源俊賢は(兼家の孫を身ごもっている)明子をたしなめましたが、明子は復讐をやり遂げる決意でした。明子の呪詛のせいか兼家は夢でうなされるようになり、時には幻覚も見るようになって自分の先が長くないと感じたのか、陰陽師の安倍晴明を呼び出しました。兼家は自分の寿命があとどれくらいか、自分の後継者は誰なのかと問いました。しかし晴明はどちらもはっきりと答えは言わずに、答えは兼家の心の中に既にありそれが正しいとだけ言い、兼家はなぜか涙しました。父の病状を案じて道長が声をかけた時、兼家は道長に語りました。「民をおもねるようなことだけはするな。お前が守るべきは家の存続だ。人は皆死ねば土に還る。栄光も誉れも死ぬが家は生き続けるのだ。家のために成すことが政だ。その考えを引き継げる者だけがわしの後継だと思え。」老いた父がしっかりとした口調で、全身全霊を注いで自分に伝えたかのような言葉を、道長は深く胸に刻みました。ところでまひろですが、この頃には本当に生活に困っていて、その事を学びの会の時に聞きつけた倫子が自分の家で働かないかとまひろを誘いました。しかし倫子の屋敷は(倫子はまだ知らないけど)まひろがかつて愛した道長が婿として住む家です。まひろは倫子の心遣いを嬉しく思いつつも、倫子の申し出を断りました。ただこの折に倫子が道長の文箱から気になるものを見つけたと言ってまひろに漢詩の文を見せたのですが、それは4年前にまひろが道長に送ったものでした。漢詩は男が使うものだけどこれはどうも女文字、もしかしたら明子女王が?と倫子は考えを巡らせてしまい、さらには4年前に初めて道長と結ばれた折にも自分とは文のやり取りもなかったと、倫子は寂しげでした。しかしまひろにとっても、4年前に別れたあの直後に道長はここに来たことと、道長の子が目の前にいて倫子が道長の話をしたがるのは辛いものでした。まひろが倫子に断って帰ろうとした時、廊下で道長と再会し……。
April 2, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は、まひろ(吉高由里子さん)と藤原道長(柄本佑さん)がやっぱり互いに思い合っているし、相手の立場を理解して歩み寄ろうとしているのに、結局は二人が別の方向に行ってしまうことが気になった方が多いと思います。しかし私は、全く別の部分で感動していました。ドラマの冒頭でまひろの父・藤原為時の妾で病人のなつめを演じた藤倉みのりさんと、ドラマの中盤で一の姫の倫子の元に道長が婿入りしようとしていることでオロオロとうろたえまくる左大臣・源雅信を演じる益岡徹さんの、お二人の演技に感動でした。重病人を演じる藤倉みのりさんの、力の入らない体、やつれ具合、咳き込み、荒い息づかいなどは、どう見ても重病人そのものでした。また娘・さわにどうしても会いたいと哀願する表情、願いが叶って心残りはないという表情など、どれも見事だったと思います。そして益岡徹さん。目に入れても痛くないほど可愛い自慢の姫の倫子の縁談では、摂政の藤原兼家には気圧され、倫子からはどうしても道長を婿にしてほしいと懇願され、特に倫子をなだめるシーン(22分10秒から24分30秒)の益岡さんの表情は、困惑や狼狽を表すのにこんなにも種類があるのかと、画面に見入ってしまいました。感動というと、泣けることをさすことが多いと思うのですが、感動の言葉の意味は「美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること」とあるので、私はお二人の演技にスゴイ!と思う感動をしたのです。私は演技に関してはド素人ですが、ここでベテラン役者さんの本領発揮を見たと思っています。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和2年(986)夏、藤原為時(岸谷五朗さん)は病の床に伏す妾のなつめ(藤倉みのりさん)はもう先が長くないと悟り、僧を呼んで得度(出家して僧や尼になること)の儀式を受けさせ、なつめを安心させました。しかしなつめにはもう一つ心残りがあり、離れて暮らす娘のさわ(野村麻純さん)に一目でも会いたいという思いでした。為時は娘のまひろ(吉高由里子さん)に頼んでさわを呼んできてもらい、離別してからずっと会えなかった娘との再会を果たせて、なつめは為時に看取られて穏やかに旅立っていきました。その後、さわは礼を言いにまひろのもとを訪れ、そしてまひろに家での仕事や琵琶の弾き方などを習って、姉妹のように仲良く時を過ごしていました。しかし為時の失職によりまひろの家の暮らしは厳しいものになっていました。それを案じた親戚の藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)は、まひろがこの家に力のある婿を迎えることこそが最良と考え、いい人物がいると話をしにやってきました。その相手は正四位下で左中将の藤原実資で先ごろ北の方(嫡妻)が亡くなっていて、知恵者で名高い実資は賢いまひろを気に入るだろう、ということでした。為時も実資の学識と筋の通った人柄を認めていて、自分たちとは身分が違い過ぎると思いつつも、まんざらではないようでした。(まひろはこの時は、自分の気持ちも考えずに勝手に盛り上がる父と宣孝に困っていましたが、後で宣孝に「甘えるな。」と叱られています)さて、藤原道長(柄本佑さん)には妾腹の兄・藤原道綱(上地雄輔さん)がいて、父・藤原兼家の陰謀の折にも一緒に働いてその後に父に官位を上げてもらっているのですが、道綱は宮内での人間関係に疲れているようでした。道綱は道長の住む東三条殿に遊びに来て、酒を酌み交わしながら11歳年下の道長にあれこれ愚痴を言っていました。その折に道綱が女の「妾という立場」のことにふれ、道綱の話から道長はまひろとのやり取りを思い出して一人考えにふけっていました。(そしたら兄から顔をムギューっと。この2人は互いに心を許せるようです。)後日、摂政となった藤原兼家(段田安則さん)は左大臣・源雅信(益岡徹さん)を呼びたて、人払いをして内密の話をしました。その内容は、兼家の息子・道長が雅信の一の姫の倫子に婿入りしたいというもので、兼家にとっては願ってもないことでした。兼家は言葉こそ愚息の願いとか雅信への敬語とかで雅信を立てていますが、口調や態度は話を進めるごとに強くなっていき、是非にでもこの縁談が成立するようにと雅信に圧をかけていました。兼家に気圧された雅信でしたが、兼家とのつながりは慎重にしたいので即答は避け、まずは倫子の気持ちを確かめなければと言ってその場を濁しました。道長を倫子の婿にすると決めた兼家はすぐに道長を左大臣家に送り込み、道長が大臣家の皆の目に留まるようにしました。道長が帰った後、源倫子(黒木華さん)が思いつめたような顔で父・雅信のところに来て、そして父に訴えました。「私は、藤原道長様をお慕いしております。」自慢の姫で可愛くて仕方がない娘から、好いた男がいると言われて激しく衝撃を受ける雅信左大臣さま。さらに倫子からは、夫は道長と決めている、どうか婿に、生涯一度のお願いとまで言われ、雅信はよりによって摂政家の若君をと、どうしたものかと狼狽するしかありませんでした。果て倫子は、道長との結婚が叶わなければ自分は生涯、猫しか愛でないとまで言いだし、なんとか父上の力で道長を婿にともう必死の訴え。そして倫子が道長の目に留まっていたようだと伝えたら、それならば!とさらに力を込めて、そして泣きながら倫子は父に訴えました。涙する倫子を雅信が慰めながらつい「不承知ではない」と言ったら、それを妻の穆子が聞いていて「この話、是非進めていただきましょう」と穆子からも雅信に圧が。摂政・兼家の圧に負け、可愛くて仕方がない娘の涙の懇願に負け、妻からの圧がダメ押しとなり(要するに自分以外はみんな賛成っこと)、左大臣さまは道長を婿として迎えることになりました。道長は姉で一条天皇の生母である藤原詮子から、倫子だけでなくもう一人、醍醐天皇の孫にあたる源明子を妻に迎えよと強く言われていました。さて、倫子との結婚を意識したからか道長はかな文字の稽古に励んでいて、藤原行成(渡辺大知さん)が師となって教えていました。いつもは大した欲もなく日々を過ごしていると思っていた道長がやる気になっていて、藤原公任(町田啓太さん)と藤原斉信(金田哲さん)は目を見張りました。道長の姿を見て、これは摂政家が宮中を全て意のままにしようとしているのではと感じた公任は父で太政大臣の藤原頼忠に相談しました。すると父・頼忠は、自分は内裏に出仕をするのをやめるから後を頼むと、そして摂政家では藤原道隆ではなく藤原道兼と懇意になるよう、公任に助言しました。さて平安の都では、人々が眠らずに夜を明かす庚申待ちの夜を迎えました。まひろは弟の藤原惟規(高杉真宙さん)と、近頃すっかり親しくなったさわと共に3人であれこれ語り合いながら眠らない夜を過ごしていました。その時、道長の使いで百舌彦がまひろ宛の文を持ってきていたのですが、それを受け取った惟規が勝手に開封してしまい、さわにも読まれてしまいました。でも、いつもの空き家で道長が待っているのでまひろは居ても立っても居られず、惟規とさわを置いてすぐに家を飛び出していきました。まひろは無我夢中で走りながら、妾でもいいから道長の妻でいたい、道長以外の妻にはなれない、と思いを改めていました。しかし道長と再会して道長の口から出た言葉は、左大臣家の倫子に婿入りする、それを自分でまひろに伝えたかった、ということでした。思いがけない展開にまひろは呆然としつつも、なんとか道長を祝福する言葉を送り、道長もまひろが理想とする政を行うために精一杯努めると返しました。まひろは道長なら妾でもいいと思ったけど、才能も人柄も素晴らしくて自分も好感を持つ倫子が嫡妻ではそれはできない/したくないと思い、自分も道長と別れるつもりだったととっさに言葉をつくろい、去っていきました。(息を切らしながら何かを期待した顔で空き家に入ってきたときのまひろのことを思い出せば、今の言葉は本心じゃないと道長もわかると思うのですが。)まひろが去った後、道長はその足で倫子の屋敷を訪れました。(道長なりに、まひろとの決別の思いもあったと想像します。)穆子は倫子に文も寄越さずにいきなり来た道長を呆れつつも、そのまま倫子の部屋の前に通しました。御簾の内を許された道長は倫子の傍に座り、倫子の手を取って徐々にと思っていたら、倫子のほうから道長の胸に飛び込んできました。自分への思いを一心にぶつける倫子に、道長も自然と惹かれていきました。道長に会うために急ぎ走った道を、まひろはトボトボと歩いて帰ってきました。家を出るときは飛び出していった姉が思ったよりも早く、しかもどこか哀しげな顔をして帰ってきたので、惟規とさわはうまくいかなかったのだと察しました。二人は何も言わず、惟規はまひろに酒を勧め、さわは「こらえなくてもいい」とまひろをなぐさめ、まひろは夜空を仰いで酒を一気に飲み干しました。(まひろが道長とのことで傷ついていることを察し、まひろの悲しみに寄り添いただ傍にいてくれる惟規とさわがいてくれてよかったと思いました。)
March 27, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は花山天皇を退位させた寛和の変(986)のその後が描かれ、視聴した後に私は政治的な面よりも藤原兼家(段田安則さん)の父としての息子たちへの扱いが気になりました。いつの世でも、その人の外見や雰囲気や言動で、本人が特に意識していなくてもなんとなく周囲の人が惹かれるいわゆる「人気」のある人がいます。反対に本人の地のままでは特に引き寄せられるものが感じられない人気の無い人もいます。父・兼家は、息子たちの性格を親として直感し、長男・道隆(井浦新さん)と三男・道長(柄本佑さん)には、自然と人の気を集めることを期待したと思います。そして次男の道兼(玉置玲央さん)には、周囲の目がとかいずれとか言って、あの働きの割には自分の扱いが低いと怒る道兼をなだめて説得していました。これはまあ兼家が道兼を利用しているだけ、と思えるのですが、それでも兼家は道兼に「相手の心をつかめ」と大事な助言をしています。つまり兼家は父として道兼の性格ではこれから政治家となるうえで大切な「人気がない」ことを見抜いていて、力を持つためにも周囲を味方にするよう努力し、実力で兄・道隆を抜け、と道兼に言っているようにも思えました。もちろん現代でも、上に立つ人や人気のある人は、元々持っている能力や性格に加えて、見えない場所で本人がすごく努力しているのがほとんどだと思いますが。親の直感は正しいことが多いーー今回はドラマから、ふとそんなことを思ってしまいました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和2年(986)6月、藤原兼家の陰謀で花山天皇は退位させられ、人事が大きく入れ替わったため、まひろ(吉高由里子さん)の父の藤原為時(岸谷五朗さん)は官職を失い、再び無職になってしまいました。為時は昨夜のうちに何があったのかは全くわからず、ただ兼家が新しい帝の摂政として最高権力者になったことと、兼家の元を去った自分は兼家には許してもらえずこの先の除目でも職を得ることはないと深く落胆していました。大学に入ったばかりのまひろの弟・藤原惟規(高杉真宙さん)も父の力添えはもう期待できなくなり、苦手な学問に励んで自力で進むしかありませんでした。帝のあまりにも突然の退位・出家には誰もが驚きを隠せず、藤原公任(町田啓太さん)たちも密かに、誰が何をどうやったのかと憶測し合っていました。父が太政大臣・藤原頼忠である公任は、あの日の明け方に兼家の息子の藤原道長(柄本佑さん)が父の元に帝の譲位を馬で報せにきたことを漏らし、そう聞いた藤原斉信(金田哲さん)と藤原行成(渡辺大知さん)は、これは兼家の一家を挙げた謀り事だと3人は考えました。そこに当の道長が来たので行成はさっと話題を変えましたが、斉信は直に事件のことを道長に問いました。道長は「知らないほうがいい」と流し、そのまま学問の時間に入っていきました。無職となってしまった父に何とかして職をもらうためにも、まひろは左大臣家の一の姫の源倫子を訪ねました。左大臣・源雅信の力で父に職をと期待したまひろでしたが、摂政・兼家の決定を左大臣がくつがえすことはできない、摂政はまひろの身分では直接会える人ではないと、倫子から厳しく言われました。それでも諦めきれないまひろは藤原兼家(段田安則さん)の屋敷に行き、兼家に会えるまでは帰らないと食い下がって、なんとか兼家に会ってもらえました。まひろは兼家に、父は長年精一杯勤めてきた、どうか官職をと懇願しました。しかし兼家は、自ら去っていった為時に情けをかけることはできない、自分が生きている間は為時が官職を得ることはない、と厳しく言い渡しました。まひろが帰宅すると親戚の藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が来ていました。まひろが兼家に会ったとこを話すと宣孝は、摂政に会えただけでも途方もない事、摂政に直談判するなんてまひろは肝が据わっている、と感心していました。ただ父の仕事が望めない以上、下女たちは暇をだして自分も働かねばとまひろが言うので、宣孝は「有望な婿を取れ」と助言しました。北の方(正妻)にこだわらなければまひろならいくらでも良い婿が来る、それでこの家も安泰だ、と宣孝は言います。妾は好まぬまひろでしたが、宣孝は誰か探してやると言って帰っていきました。御所では早速、摂政・兼家による臨時の除目が行われ、兼家は(帝の退位の裏で密かに働いた)長男・道隆や次男の道兼を昇進させていました。そして兼家の孫の懐仁親王は新たな帝・一条天皇となり、帝の母で国母となった藤原詮子(吉田羊さん)は、まだ7歳の帝にいろいろと心得を聞かせていました。また次の帝となる東宮には、詮子の亡き姉・超子が産んだ居貞親王(兼家の孫で道長の甥)が立ちました。兼家は妾の藤原寧子(財前直見さん)を訪ねていました。寧子との間の子の藤原道綱(上地雄輔さん)も花山天皇退位の件ではさちゃんと役割を果たしたので、蔵人の官職を与えていました。亡き北の方(時姫)の子たちは兼家の力で十分過ぎる昇進をしているので、寧子は道綱のことが気が気ではなく、何度も兼家に念押しをしていました。(しつこく言わないと兼家が道綱のことを忘れそうで心配なのかも)でも道綱は、高い位についても自信がないと、蔵人で十分満足していました。(素直で明るい道綱を兼家も可愛がっているとは思いますが、逆に道綱も父母の前では明るくふるまうよう努力しているように思えました。)そして幼い一条天皇(高木波瑠くん)が即位式をする朝がきました。即位式のときのみ使われる高御座では着々と儀式の準備が進められていたのですが、道長が外で警護をしているとその高御座のほうから悲鳴が上がり、道長が急ぎ駆けつけてみると、そこにいた者たちは皆腰を抜かして恐怖におびえていました。道長が高御座を覗いてみると、そこにはなんと子供の生首が。道長はそれを布でくるみ捨ててくるよう舎人に命じ、またこのことは一切他言無用、外にもれたら命はないと思えと、そこにいた者たちに厳しく命じました。それから準備を進めるよう命じたものの誰もが穢れを恐れて動けないので、道長はやむなく自分で穢れの始末をし、その後では何事もなかったかのように即位式が執り行われました。その一方で、失意の花山院は播磨国書写山の圓教寺に旅立っていきました。兼家の孫で藤原道隆(井浦新さん)の甥でもある一条天皇の即位は一族にとって大変喜ばしいことで、兼家は道隆やその嫡男の藤原伊周(三浦翔平さん)、いずれ一条天皇に入内させる予定の娘の定子(木村日鞠ちゃん)ら道隆一家と、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)を招いて宴を開いていました。聡明で物おじすることなく晴明に対しても思うままに物を言う伊周と、入内したら皇子を産むよう加護をしてほしいと道隆に頼まれた定子を、晴明は何か考えながら黙って見つめていました。ところがその宴のさなかに、父・兼家のご機嫌伺いに来た次男の藤原道兼(玉置玲央さん)が兄の道隆一家が楽しそうにしているのを見て、帝の退位の件では自分はあれだけ働いたのになぜ呼ばれないのかと、怒りを露わにしました。兼家は道兼をなだめるためにに庭に出て、道兼が身を賭して働いたことを内心は十分に認めていました。しかし公卿たちの目もあるのですぐには高い地位につけられない、いずれ報いる、この宴は定子を入内させるためのものであり、道兼の3歳の娘も同じように帝に入内させたい、孫娘2人の入内を考えられるこの幸せは道兼が切り開いてくれたおかげだと、道兼の将来も考えていると兼家は話しました。さらに道兼が高い地位に就いたときのためにも今から公卿たちの心を掴んでおけ、地固めをしておけば堂々と兄を抜けると助言し、道兼は納得して喜んでいました。まひろの父が職を解かれたことでまひろの生活が苦しくなっていることを道兼は薄々感じていました。一方、源倫子(黒木華さん)もまひろのことを案じていましたが、その話からなぜか倫子の婿取りの話になり、倫子は密かに思う人がいると打ち明けました。倫子が思う相手は道長なのですがそれは伏せ、必ず夫に、この家の婿にするとまひろに決意を伝えました。そんな頃、まひろへの思いをまたどうしても抑えられなくなった道長は家人の乙丸を通じてまひろに会いたいと伝え、同じ思いのまひろもそれに応じて夜に道長が待つ空き家に向かいました。まひろをどうしても自分のものにしたい道長は、まひろに妻になってほしいと思いを伝えましたが、それはあくまで妾としてでした。道長は自分の心の中ではまひろが一番だと言いますが、妾の立場はまひろには絶対に受け入れたくないことで、道長と考えが対立してしまいました。父を摂政にもつ道長にとってまひろを北の方にすることは無理であり、せめて妾であれば自分なりにまひろ一家を守ってやれるという思いもあったでしょうが、それも叶わぬことに激しく失望した道長は怒って一人で帰ってしまいました。(前回は道長が、今回はまひろが感情的に。互いに相手のことを思って冷静に考えられても、自分のことには感情的になってしまうようです。)それから屋敷に戻った道長は父・兼家のところに行き、何かを頼んでいました。
March 19, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回は開始早々、藤原兼家(段田安則さん)が一族の存続をかけた陰謀のために、4人の息子たちそれぞれに役割を与えていく場面に、思わず引き込まれました。兼家は父として息子たちの個々の性格や能力をよく見ていて、そこにそれぞれの息子に対する自分の感情を織り交ぜた絶妙な役割分担をさせていたように私は思えました。長男・道隆(井浦新さん)は跡継ぎとして大事であり、また全体をまとめるのが上手で人望があるので、計画が成功した暁には家が安泰する絶対的な地位に。次男・道兼(玉置玲央さん)には目的を達成するための下準備の、陰で動く一番難しい裏方の役割を。庶子の道綱(上地雄輔さん)は明るく素直で可愛いけど、万一の時は汚れ役をやるように命じ、そして末子の道長(柄本佑さん)は息子として可愛いという思いと道長の人望を見込んで比較的ラクな役割を振っていました。さらに兼家はこの陰謀で、上3人の息子は自分と運命を共にする覚悟で、そして万一のことを考えて道長だけは生き延びさせて、家の再興を図るようにしました。先々を考えた時に、表舞台に立つ者(道隆と道長)と裏方に徹する者(道兼と道綱)、成功か否かどうなるか分からない状況で、自分と運命を共にする者(道隆と道兼と道綱)と必ず生かしておく者(道長)。4人の息子をどちら側の置くべきかを、冷徹なまでに判断して役割を振り分けていました。ところで、この「家の存続のために誰かは生き残るようにしていく」という場面に、長年大河ドラマを見ている方は、どこか既視感がある方が多かったと思います。そう、2016年の『真田丸』の、『犬伏』の回です。真田家の3人が豊臣と徳川のどちらにつくかで悩んだ末に、父・昌幸(草刈正雄さん)と弟・信繁(堺雅人さん)は豊臣方に、兄・信之(大泉洋さん)は徳川方につくことにして、勝敗がついた時には互いに命がけで除名嘆願をすると決めた、あの親子の別れの回でした。権力者が大きく入れ替わるかもしれないという時は、どの時代も命を懸けた大きな決断があったのですね。さて、今回のドラマの中で、いったいどれほどの意味があるのかよくわからない「剣璽」について、番組のHPで解説が出ていました。 ⇒ ⇒ 剣璽とは こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和2年(986)6月某日、帝(花山天皇)を退位させようともくろむ藤原兼家(段田安則さん)は、安倍晴明の占いで決行は6月23日が良いと言われ、急ぎ4人の息子たちを集めて計画を練りました。その日の丑の刻から寅の刻のわずかな時間の間に帝を出家させるために、次男の藤原道兼(玉置玲央さん)には、丑の刻までに女装させた帝を内裏から連れ出すように、長男の藤原道隆(井浦新さん)には、朔平門の外に女車の牛車を用意し、丑の刻までに朔平門を出るようにと。その後は内裏の全ての門を閉じ、道兼は帝に同行して元慶寺に行くように、また剣璽を道隆と庶子の藤原道綱(上地雄輔さん)で梅壺に運ぶように、もし誰かにそれを見られたらその者を道綱が後で始末をするように、という父の命でした。(父に呼ばれて喜んで参上したであろう道綱。それがとんでもない陰謀の一端を担うことになり、重責に恐れおののいていました。)兼家は三男で末子の藤原道長(柄本佑さん)には、剣璽が梅壺に運びこまれたら、帝が譲位したと関白・藤原頼忠の屋敷に伝えに走るよう命じました。この陰謀はもし万一失敗したら兼家の一族は滅びるという大きな賭けでした。なので伝令を命じた道長には、万一しくじった時は、道長は父が謀り事をしたと関白に伝えよ、道長自身は何も知らなかった事にして我が身とは関わりない事と言い張れ、そして生き残って家を守れ、と言いました。道長が家を守るのは道隆兄上の役目ではと問うと父は、この謀り事が成功すれば手柄は道隆のもの、道隆はそちら側だと言って父は去っていきました。このところ父・藤原為時(岸谷五朗さん)が高倉の女のところに行ったままずっと家に帰ってこないので、まひろ(吉高由里子さん)はどうにも気になってしまい、様子を見に行ってしまいました。粗末な家に住むその女は病の床にいて、為時に粥を食べさせてもらっていました。まひろがいることに気がついた父は庭に出てきて、事情を説明しました。女は病が重いが他に身よりもなく見捨てられない、間もなく命が尽きるだろうが一人で死なせるのは忍びなく見送ってやりたい、と父は言いました。父を人として立派だと思ったまひろは女の看病の協力を申し出ましたが、為時はまひろの気持ちだけ受け取ってそれは断り、まひろは家に戻りました。(こういう時の従者(乙丸;矢部太郎さん)は、話をしている主人の方を見ないようにして待っているのですね。)まひろが高倉から戻ると、道長の従者の百舌彦が家の前で待っていました。百舌彦は道長からの文をまひろに届けにきていて、まひろは胸が高鳴りました。文には古今和歌集の句が書かれ、それは道長のまひろへの恋心でした。まひろは急いで漢詩で返歌を書いて道長に届け、道長からは恋心を歌う和歌が、まひろからは冷静な漢詩がと、そんなやり取りが3度続きました。このことを道長が藤原行成(渡辺大知さん)に相談すると行成は「和歌は人の心を言葉に表したもの、漢詩は人の志を言葉に表したもの。漢詩を送るという事は、何らかの志を詩に託している。」と助言をくれました。道長とまひろが交わした和歌と漢詩の内容についての解説があります。 ⇒ ⇒ こちら 道長は6月23日に決行される謀り事のために、東宮(懐仁親王)の生母であり、姉の藤原詮子(吉田羊さん)のいる梅壺を訪ねました。この時に道長は梅壺から出ていく女性を見ていて、姉はその人は亡き源高明の一の姫の明子女王だと言いました。詮子は父・兼家が万一失脚しても懐仁親王が困らぬよう、宇多天皇の孫である左大臣・源雅信と醍醐天皇の皇子である源高明の2つの源氏を後盾にしておきたい、だから道長が明子女王と左大臣の一の姫の倫子の両方を妻にもってくれたら言うことない、と嬉しそうに語りました。さて道長が内密の用事でここに来たと察した詮子は人払いをし、道長は詮子に近寄って小声で、23日は内裏から出ないようにという父の伝言を伝えました。道長は詳細は詮子には伏せ、この時に起こることは詮子と東宮にとって悪い話ではないと言い、詮子は父も兄たちも信用できないけど唯一信用できる道長が言うならと、詮子は了承しました。一大事の決行を前に、まひろへの思いをどうにも抑えられなくなった道長は、情熱のままに文をしたためてまひろに送り、道長の思いを受け止めたまひろは逢瀬のために一人夜道を駆けていきました。道長はこのまま二人でどこかに行って一緒に暮らそう、自分は藤原と今持っている全てのものを捨てるとまで言い、まひろに決心を促しました。激情のままこの先の出世も何もかも捨てると言う道長だけど、貧しい暮らしの辛さを、なにより権力がないと直秀のように理不尽な目に遭う事を知っているまひろなので、道長の思いに応えられないと言いました。道長が好きでたまらない、でも二人で都を出ても世の中は変わらない、道長は偉い人になってより良き政をする使命がある、とまひろは伝えました。高貴な家に生まれた道長だからこそできる己の使命を果たして欲しい、直秀もきっとそれを望んでいると、そしてまひろは語気を強めて「一緒に遠くの国には行かない」とはっきりと道長に伝えました。でもこの都で、誰よりも愛おしい道長が政でこの国を変えていく様を片時も目を離さず見つめ続ける、とまひろなりの思いの丈を伝えました。そして夫婦にはなれないけど、愛し合う思いを二人で確かめ合いました。(互いに思い合うからこそ、激情のままに藤原を捨てるという道長と、最後は権力が身を守ることを知っているから貧しい弱い側に道長を来させてはいけないと理性で考えるまひろ、だと思いました。)そしていよいよ兼家の陰謀を決行する日になり、帝(花山天皇;本郷奏多さん)を内裏から外に連れ出す役割の道兼は、急に側近の藤原義懐に相談しようか、とか忯子の文を忘れたとか言いだす帝を説得するのに苦労していました。どうにかして道兼が帝を朔平門で待つ牛車に乗せたら御所の全ての門が閉じられ、道隆と道綱は剣璽を運びに動き出しました。(本妻の兄たちのように出世は望めないけど、重圧もなくノビノビ暮らしているであろう道綱は、生死を懸けた大仕事の一端を担うことになり、あまりの緊張で心も身体も平常ではいられませんでした。)剣璽が懐仁親王(高木波瑠くん)のいる梅壺に運びこまれた後、道長は急ぎ馬で関白の藤原頼忠のもとに走り、ただいま帝が退位して剣璽が梅壺に移り、東宮が践祚したと報告をし、関白にはすぐに内裏に来るように促しました。花山天皇退位の策を考えた安倍晴明は星空を見上げながら事の成り行きをじっと見守っていました。亡き女御の忯子を思うあまり道兼の誘導に乗せられるがまま出家への道を進んだ花山天皇は、元慶寺で剃髪を終えて出家しました。しかし一緒に出家すると約束していた道兼は、自分の番になったら出家はしないと言い、後を御坊に任せてさっさと退室していきました。花山天皇は道兼に裏切られた、騙されたとわかってもすでに後の祭り。屈強な武者たちに道をふさがれ、あきらめるしかありませんでした。花山天皇が退位して出家した報は藤原義懐にももたらされました。そして寅の刻となり、事がうまく終わった兼家は高笑いが止まらず、4人の息子たちは安堵の表情になり、我が子の懐仁親王がこれから新しい帝になる詮子は、父・兼家のやり方やこれからのことに複雑な思いでした。夜が明けて蔵人たちが仕事に就いた時、兼家と道兼が入ってきました。そして兼家は、昨夜にわかに帝が退位して東宮が践祚したこと、まだ幼い新しい帝の摂政は自分が務めること、今ここにいる蔵人は習いにより皆解任となること、新しい蔵人頭は道兼が務めると告げ、退室していきました。その後で道兼が新しい蔵人を発表し、藤原実資は筋が通らぬ、納得がいかないと猛反発しましたが、道兼に逆らう力もなく黙るしかありませんでした。
March 12, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回で強烈だったのは、藤原兼家を演じる段田安則さんの、4人の子たちを前にして、政界を生き抜いてトップに立つための術を父として教えておこうとする、迫力の演技でした。そして父・兼家と共にだんだんと、4きょうだいたちの生き方や能力が見えてくるようになりました。藤原道隆(井浦新さん)は第6回の漢詩の会でもあったように、若い者たちををうまくまとめて望ましい方向に皆を率いていく、長男らしい力を感じます。次男の藤原道兼(玉置玲央さん)は親の愛を乞うが故に、父が望むことならなんでもやろうと考え、この策略も父が誰よりも先に自分だけに真実を明かしてくれたのが嬉しくて、そのために己を痛めつけて帝に近づきました。ただそれで得た「成功」の喜びをどこか得意げになって兄と弟に語る姿は、少しもの悲しい部分も感じましたが。三男の藤原道長(柄本佑さん)は、幼い頃から力の弱い者たちをかばってやる優しさがあり、自分とは異なる世界の考えも受け入れる度量があります。でも今はまだ、どの方向に行けばいいのかを模索中で周囲の考えや行動をじっくり見ている感じです。道長の姉の藤原詮子(吉田羊さん)は女子だけど父の気質をいちばん受け継いでいるようです。ただ父ほど人生経験も実力も足りないので、まだまだ未熟で迫力も足りない感じがしますが。そして今回意外だったのが、直秀(毎熊克哉さん)があまりにもあっけなく退場となったことでした。直秀はもっと後半まで登場してまひろの人生に絡んで、たくさんの影響を与える人かなと思っていました。でも直秀を演じた毎熊さん、見事なインパクトを我々視聴者に残していってくれました。もしかしたらNHKに、この先のドラマで毎熊さんが違う役で再登場するよう嘆願書がたくさんきているのでは?と想像してしまうほどに。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和2年(986)藤原道長(柄本佑さん)が住まう東三条殿に盗賊の集団が入り、警護の者たちが捕らえてみたらそれは直秀(毎熊克哉さん)たちの一行でした。道長は直秀に会ったときからどこか親しみを感じ、つい先日は“弟”として打毬の代理も頼んでいましたが、もしかしたらあの時の盗賊ではとうすうす感じていて、この時それがはっきりとしました。道長は警護の者たちに、直秀たちは人を殺めてはいない、手荒なことはするな、検非違使に引き渡せと命じて、奥に入っていきました。左大臣・源雅信の一の姫の源倫子(黒木華さん)のところでは、茅子(渡辺早織さん)としをり(佐々木史帆さん)が右大臣家の東三条殿での盗賊騒ぎの噂をあれこれと話していました。道長が活躍した話になったときには密かに道長を思う倫子はついうっとりとしてしまい、慌ててごまかしたりもしていました。(道長が獅子奮迅の働き?・・というか、この時は家来に指図しただけだと思うのだけど、噂はいつの時代も尾ひれがついて誇張されていくのですね。)左大臣家からの帰り道、まひろ(吉高由里子さん)は直秀たちがいつも稽古をしている場所に立ち寄り、直秀の行方を捜していました。するとその時放免たちが来て、まひろと乙丸(矢部太郎さん)を盗賊の仲間だと決めつけて、縛って獄に連行していきました。ただちょうどその時に道長が直秀たちの様子を見に獄に来ていて、彼らを早めに解き放つよう、手荒なことはしないよう頼んで番人に金を渡していてそこにいたので、まひろと乙丸は道長によってすぐに解放されました。しかしその時、獄の中にいる直秀たちを見てまひろは愕然として立ちすくんでしまい、道長はまひろを連れてすぐにその場を立ち去っていきました。道長はまひろを馬に乗せて、少し離れた空き家に入って話をしました。なぜ直秀たちを見逃してやらなかったのかと問うまひろに道長は、自分の立場上それはできない、自分の今の生活は身内とて信用できない、でもまひろと直秀は信じている、直秀は盗賊であっても敵は貴族と筋が通っている、と説明しました。そして直秀たちの身を案ずるまひろに、検非違使には心づけを渡しておいたからまもなく獄を出て都から遠くに解き放ちとなるだろう、と道長は言いました。その時、乙丸がそろそろ帰宅をと声をかけ、道長は送っていこうと思いました。でも一緒にいるところを左大臣家の誰かに見られたらよくないとまひろは断り、道長に今日の礼を言って帰っていきました。(もしなにか噂になれば権力のある道長はいいけど、力のないまひろの側はそうはいかないですからね。)最愛の女御の忯子を亡くして以来、帝(花山天皇)は何もする気力が起こらず、帝に仕える藤原為時(まひろの父)もただ黙って見守るしかありませんでした。しかし今の帝の次の代も権力を持っていたい側近の藤原義懐は、蔵人頭である藤原実資(秋山竜次さん)に帝の傍に女子を送り込むよう命じました。義懐はさらに、帝の気力が戻らないのは実資の怠慢とまで言い、我慢がならなくなった実資は義懐に反論、義懐は帝に対する愚痴を言いながら去っていきました。帰宅した実資は妻の藤原桐子(中島亜里沙さん)に宮仕えでの不満や愚痴をあれこれとこぼしていました。実資の愚痴があまりにしつこいので、桐子は日記を書くことを勧めました。(ドラマでは実資は「日記など書かん!」と言ってますが、実際には『小右記』という全61巻の日記を残しています。)ところで、病で倒れてずっと眠ったままだった藤原兼家(段田安則さん)は、実は病は陰陽師の安倍晴明と組んだ芝居であり、とうに回復していました。兼家の枕元に長男・藤原道隆(井浦新さん)ら4人の子が集まり、兼家は4人に我が一族の命運に関わる大事な話だから心して聞くよう言いました。兼家の狙いは今の帝をなんとか譲位させて娘の藤原詮子(吉田羊さん)が生んだ懐仁親王を玉座につけることであり、晴明がそのための画策をしていました。そして次男の藤原道兼(玉置玲央さん)には、帝の信頼を得て傍にあがるように命じていて、道兼は己を傷つけ父・兼家に冷遇されていると見せて帝の哀れみを誘い、帝の様子を父に知らせていたのでした。策として晴明は忯子の霊が兼家に憑りついていると噂を流した、しかしこの後、内裏でさらにいろいろなことが起こり(=起こし)、それは兼家が正気に戻ったと同時に忯子の霊が内裏でさまよっているということにして帝に譲位を促すというものだと、兼家は4人に説明しました。そして兼家は力強く「これより力の全てを懸けて、帝を玉座より引き降ろし奉る。皆、心してついてこい。」と言い、父の命を道隆・道兼・道長は承知しました。さらに兼家は、源を味方につけて強気になっている詮子に、いつもの「女御さま」ではなく父として「詮子」と呼び、自分についてこなければ懐仁親王の即位はないと思え!と念を押しました。ところで獄にいる直秀たちですが、捕まってからずっと取り調べもなく、この先自分たちはどうなるのだろうと、不気味さと不安を感じていました。でも盗みはしたけど人殺しはしていないからムチ打ち30くらいかなとか考え、ここを出たら女に会いに行こうとか話をしていたらそのうち冗談も歌も出てきて、皆で歌って笑って獄での時を過ごしていました。一方、直秀たちの今後が気になっていた道長は、直秀たちが流罪となって明日の卯の刻(夜明けの6時頃)に出立するという情報を得ました。そこで従者の百舌彦を通じてまひろに伝え、直秀たちを見送ろうと思いました。しかし道長とまひろが見送りに来たときには、直秀たちはもう出立していました。向かった先が鳥辺野と聞き、そこは屍の捨て場であり、まさかと思いつつ道兼はまひろを馬に乗せて急ぎ鳥辺野に駆けつけました。そして道長が着いたときには時遅しで、直秀たちはすでに放免たちに殺されて息絶えていました。せめて遺骸をカラスや獣たちに荒らされないよう道長とまひろは二人で皆の穴を掘り、直秀には自分の扇子を持たせ、彼らを埋めてやりました。検非違使が最初彼らを拷問にかけるようなことを言っていたから、手荒なことをさせないよう心づけを渡した、でも後で盗人ならせいぜいムチ打ちくらいと聞き、もしかしたら自分のしたことで検非違使が何か思い違いをして直秀たちを殺してしまったのかと、道長は激しく後悔して皆に詫びて泣き崩れました。ところで内裏では、床下から動物の死骸が出てきたり廊下が水で濡れていたり、あるいは弘徽殿に白い影が出ると噂されたりと、気味の悪い現象が相次ぎました。帝(花山天皇;本郷奏多さん)が病に倒れた兼家が死ななかったことを苦々しく思っていたら、事態はもっと深刻で兼家に憑いていた忯子の霊がこの内裏に飛んできている、霊が成仏できずに苦しんでいる、と安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)が帝に進言しました。忯子を哀れに思う帝は霊が成仏するならなんでもする、どうすればと晴明に問い、晴明は言いにくかったけど帝から促され、帝が出家するしかないと答えました。一方、まひろの家では弟の藤原惟規(高杉真宙さん)が大学に入ることになり、父・藤原為時(岸谷五朗さん)は惟規から挨拶を受けていました。 大学寮とは惟規の乳母のいと(信川清順さん)は惟規がこの家から出ていってしまうことが寂しくてしかたなくて、ずっと泣いていました。父は息子に言葉を贈り、そしてまひろほど学問が得意でない惟規のことを案じつつ、惟規を送り出しました。父はまひろが男であったらとまた思い、まひろもまた自分が男だったら勉学に励み内裏に上がって世を正すのにと、どうしようもないことだけど考えていました。
March 6, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。ドラマも8回になり、主人公まひろ(吉高由里子さん)の周りを固める方々の存在がますます面白くなってきました。今回私が興味を持ったのはこの2つです。1つは直秀(毎熊克哉さん)が海の見える土地の話をしたときに、まひろが興味津々だった場面。現代の私たちは小学校から地理を習って、日本の地形が山が海岸線の近くまできている土地がたくさんあることを知っているから、海と山で生活する者がすぐ近くに住むことも納得がいくでしょう。でもこの時代の人で、京都盆地の町から出たことがない人だと、海や山の人々の暮らしなんて全く想像できなくて、ましてやまひろのように好奇心旺盛だと、直秀からもっと話を聞きたくてたまらないだろうなと想像しました。そしてもう1つは、上流貴族の藤原道兼(玉置玲央さん)が藤原為時(岸谷五朗さん)と飲みたいからと酒を持って、わざわざ為時の屋敷まで来た場面です。これはまあおそらく、道兼が父・藤原兼家(段田安則さん)から指令を受けて為時に近づいたのだろう、と考える人が多いと思います。道兼はわざとあざを作り、幼い頃からの自分の不遇を語って為時の憐憫を誘ったと思うですが、それでも本当に兄や弟と比べたら愛されなかっただろうと思います。その道兼が、為時の家では今までのような横柄な態度はなく、「つまらぬ、不愛想、真面目な家」などと言いながらも、嫌な顔はしていなくて、ずっと優しい表情なんですよね。だからこの時の兼家は策略とか抜きに、為時の家では本当に優しい気持ちになった時間だったのかな、とも思いました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和元年(985)公達たちによる打毬の見物に招かれたまひろ(吉高由里子さん)はそのときに公達たちの衝撃的な話を聞いてしまい、逃げるようにその場を立ち去り、そして密かに思う藤原道長のことはもう忘れようと決心しました。後日、左大臣・源雅信の一の姫の源倫子(黒木華さん)のところでの集まりでは、打毬を見物した姫君たちがそれぞれに心惹かれた公達の話をしていました。もちろん道長のことも話題になり、倫子も道長を気にかけていたうようでした。倫子の教育係の赤染衛門(凰稀かなめさん)は道長が連れてきた直秀を気に入り、「人妻でも心の中は己のもの。そういう自在さがあればこそ、人は生き生きと生きられる。」と語り、年頃の姫たちは衛門の考えに胸を躍らせていました。打毬のときに急に出られなくなった藤原行成の代理として藤原道長(柄本佑さん)に“弟” という形で連れてこられた直秀(毎熊克哉さん)は打毬ではなかなかの活躍ぶりで、後日、道長の屋敷に公達たちが集まったときも同席していました。直秀は道長に、このような立派な屋敷は見たことがないから屋敷の中を案内して欲しいと頼み、道長は内心は直秀を盗賊の一味ではと疑っていましたが、屋敷の中を案内していました。道長は直秀の左腕の傷のことにふれましたが直秀はとっさにごまかし、他愛ない話をしながら毬を投げ合って二人で笑っていました。道長のところから戻った直秀はいつもの芸人の姿になって仲間たちと散楽の稽古をしていて、まひろは寄り道して稽古場にお邪魔していました。二人でいろいろ話をする流れで直秀は、自分が間もなく都から去ると言います。(自分たちが盗賊であると道長に感づかれたからでしょう)直秀はこれまでに丹後や播磨や筑紫で暮らしたことがあると言い、都の外の話にまひろが興味深く尋ねると直秀は教えてくれました。海があって晴れた日には彼の国の陸地が見える、海には漁師・山には猟師がいる、彼の国と商いをする者もいる話など、まひろは目を輝かせて聞いていました。直秀はふとまひろに「一緒に行くか?」と言葉を投げかけました。でも「行こうかな。」という言葉とは裏腹に、まひろの心にはまだ道長がいるとわかっているので「行かないよな。」と笑っていました。先の帝から仕えている太政大臣の藤原頼忠と左大臣の源雅信(益岡徹さん)と、右大臣の藤原兼家(道長の父)は、今の帝(花山天皇)に重用されて位を上げていく藤原義懐の存在に危機感を持っていました。そこで3人は自分たちが結束していることが大事だと考え、兼家は息子の道長を雅信の姫の倫子に婿入りさせてほしいと伝えました。屋敷に戻った雅信は妻の藤原穆子(石野真子さん)に婿入りのことを話してはみたものの、正直、道長の官位がまだ低いことに不満だし、右大臣家の者の性格が好きではありませんでした。(先日、女御の詮子に東宮の後見を有無を言わさず承諾させられた)でも穆子は道長ならいい婿になるだろうと考えていて、ちょうどその時に倫子が来たので、倫子に道長のことを訊いてみました。道長を意識して頬を赤らめる倫子、倫子の様子に慌てる父と満足そうな母の姿がそこにありました。(この時の益岡さんと黒木華さんの演技が絶妙です)寛和2年(986)になり、帝の寵臣の藤原義懐(高橋光臣さん)はますます態度が大きくなっていて、帝からのお達しで今後は陣定(合議制)を開かない、帝への意見は書面で、帝にそれを届けるかどうかは自分が決めると言いました。義懐の発言や態度に我慢ならなくなった藤原兼家(段田安則さん)は声を荒げて立ち上がり、陣定は古来よりの習わし、帝の誤りを諫めないのは天の意に背く政となり世が乱れる、義懐が諫めないならこれから自分が諫める、と言って雅信と頼忠に声をかけ、帝のもとに向かおうとしました。しかし義懐が兼家を止めようとしたとき、兼家は急な病で倒れてしまいました。兼家の病は重く、薬師も命が危ないと言い、兼家の子たちは皆集まりました。長男の藤原道隆(井浦新さん)は、父が回復するまでこれより自分が父の代理をすると弟たちに告げ、藤原道兼(玉置玲央さん)も道長も承知しました。円融天皇の女御で東宮・懐仁親王の生母である藤原詮子(吉田羊さん)はそんな兄・道隆に対して「まだ位階が低い今、父上に死なれたら困るのでは」と言い、道隆は詮子に対して「東宮の後盾を失うから詮子も同じだ」と返しました。その時、詮子は「自分と東宮には源の人々がついているから大事はない」と言い、初めて聞く話に道隆と道兼は驚きを隠せませんでした。そして詮子は「左大臣家に道長が婿入りする話も進める」と、さらに兄の道隆と道兼に源と手を組む覚悟を持つよう言って退室していきました。道隆はまずは父・兼家の回復が最優先と考え、安倍晴明を呼びました。兼家の枕元ではたくさんの僧たちが祈祷の真言を唱え、庭先では晴明が祭文を読み上げて、兼家の回復を祈りました。僧たちが読経している時によりましに何かが降りてきて、僧が尋ねるとそれは花山天皇が寵愛した女御の忯子でした。よりましに憑りついた忯子は恨み言を述べながら怪力で大暴れし、止めに入った道長も危ういところでしたが、庭にいる晴明が何か合図をしたらよりましは急に力が抜けて気絶してしまいました。忯子の霊が父に憑りついたことを不思議に思った道長が兄たちに訊ねると、兄は忯子のおなかの子が流れる呪詛をするよう父が晴明に命じたと教えてくれました。最愛の忯子の死は右大臣・兼家のせいだと考えた帝は兼家を激しく恨みました。また兼家が重病で倒れたことに関して、嫡男の藤原惟規(高杉真宙さん)は父・藤原為時(岸谷五朗さん)が兼家から離れておいてよかったと喜んでいました。為時は兼家にはこの家が苦しいときに引き立ててもらった恩もあるし、なにより兼家の政治的手腕を高く評価しているので、単純に喜ぶ息子をたしなめました。かつては父の生き方を非難していたまひろも今では父を理解し、父は政争に巻き込まれるのは嫌で静かに学問を究めて身を立てたいのだと、弟に説明しました。父と姉からたしなめられた惟規は面白くなくて、退室していきました。右大臣家では父・兼家の容態を心配して、4人のきょうだいたちが交代で看病して兼家のそばにいました。ある夜、道兼がそばにいたときに兼家は意識が戻って目を開けました。後日、為時が書庫で整理をしていると道兼が現れて手伝いを申し出ました。為時にはその必要はなかったのですが道兼が進んで手を貸し、そのときに為時は道兼の腕にあざができているのを見てしまいました。為時がその理由を尋ねると道兼は、自分は子供の頃から父に嫌われていた、兄や弟は可愛がってもらえるのに自分は違った、いつも殴られたり蹴られたりした、昨夜も一時正気に戻ったら激しく打擲された、と語りました。さらに道兼は、自分は父だけでなく帝からも右大臣の子だからと嫌われていると悲しみの思いを吐露して去っていきました。道兼の不遇を知って心を痛めた為時が帰宅すると、なんと、道兼が為時と一緒に飲みたいと、酒を持って屋敷に来ていました。やがてまひろも帰宅し、道兼を激しく憎むまひろには会わせないよう為時が配慮しようとする間もなく、まひろは道兼と鉢合わせしてしまいました。激しく動揺するまひろでしたが、道兼にはその理由がわかりませんでした。為時が道兼の接待に苦慮しているとまひろが琵琶を持って現れ、一曲奏でました。その音楽に道兼は素直に感動し、そして琵琶を習った母は病気で亡くなったのかと尋ねると、まひろは「はい」と返事をし、その後すぐに退席しました。道兼のことは許せないけど、自分の思いを全て受け入れてくれた道長がいるから、まひろはそれが心の支えになって己を抑えられるようになりました。ある日、道兼が帝の御前に出たとき、帝は憎い右大臣の子だからと道兼をすぐに追い返しましたが、道兼の不遇を哀れに思う為時が帝に進言しました。道兼に興味を持った帝は道兼を連れてこさせ、両腕に残る道兼のあざを見て帝もまた道兼を哀れに思いました。そしてある夜、右大臣家に盗賊の集団が来て金目のものを奪おうとしました。しかしこの時は盗賊たちは警備の者たちによって全員取り押さえられて、道長の前に引きずり出されました。顔を隠していた覆いを取ったその顔は直秀で、直秀に早く京からどこかに去ってほしかった道長には、一番辛い展開となりました。
February 27, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。ドラマがだんだんと進むにつれ、脇を固めるメインキャストの方々の動きに目が離せなくなってきました。まず藤原道長(柄本佑さん)の二人の兄の藤原道隆(井浦新さん)と藤原道兼(玉置玲央さん)。第1回の登場のときから、自分が気分を害することがあると立場や力の弱い者に暴力的に当たり散らして、しかもそれを当然と考える嫌な奴だった道兼。でも権力のためなら恐ろしく冷徹になる父・藤原兼家(段田安則さん)に、おそらく幼い頃から兄・弟とは違うぞんざいな扱いをされてきたら、持って生まれた性格以上に心がヒネてしまって、でも父の愛を求めているのだろうと感じました。そして特に目立ってなかったけど前回の漢詩の会からその急に存在感が出てきた嫡男・道隆は、父のやり方を見ていて、弟の性格と心の内を考えて、道兼を一人にしないと約束しました。道兼は自分は父に利用されてもいいと言ったけど(卑屈、あきらめ)やはり兄が自分に優しい言葉をかけてくれるのは嬉しいのです(気分が高揚)。ただ道隆が、弟が感情の起伏が激しいのを計算していて、それを利用して道兼に何か大仕事をさせるような気がするのですが。そしてだんだん注目度が上がってきた直秀(毎熊克哉さん)。今回は打毬のピンチヒッターとして道長が思いついたのですが、その時の言い方が「最近、弟が見つかった」。その言葉に道長も公任も斉信も、誰も驚きません。この時代は、身分の高い男が気まぐれに女の屋敷に出入りして、その後は別れたけど実は子供ができていたとか、正妻の他にも妾に屋敷を与えて通っていたとかは、よくあったことでした。なので、「今まで知らなかったけど、実は他にも自分の兄弟姉妹がいたんだよねー。」ということでしょう。何気ないシーンや言葉の中に、当時の世界感を垣間見ることができて、これも面白いものです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 寛和元(985)、最愛の女御・忯子を失った花山天皇(本郷奏多さん)は訃報を受けて取り乱し、寝所から被り物すらせずに忯子の亡き骸に駆けつけようとしました。しかし当時は死は穢れと考えられていて、天皇や貴族は遺体に近づくことは許されず、気力を失った帝(花山天皇)は離れた場所からただ忯子を思うばかりでした。ただこの裏には右大臣の藤原兼家に命じられた安倍晴明の呪詛があり、晴明はこれで帝は失意のあまり政を投げ出すから兼家にとって好都合と説明していました。さらに晴明は、右大臣家にいくら権力があっても自分の霊力を侮らないよう、自分は政をする人の命運も操るとくぎを刺していました。さて、三男の道長に「人の命を操り奪う者は卑しき者のすること」と言って間接的に晴明を強気で批判していた藤原兼家(段田安則さん)でしたが、やはり晴明の言葉が内心は気になっていたのでしょう。恐ろしい夢を見て夜中に目が覚め、妾の藤原寧子(財前直見さん)を起こし、怯えて甘えていました。そんな兼家を寧子は「大丈夫、大丈夫。」となぐさめ、「大丈夫だから(自分たちの間の子の)道綱をお願いしますよ。道綱、道綱。」と兼家に吹き込んでいました。表では権力で押し通していく兼家だけど、寧子には小心者の一面を見せていました。忯子の亡き後、帝はすっかり政をする気力が失せてしまい、政は左大臣・源雅信(益岡徹さん)以下、重臣たちの話し合いで進められていました。この時の議題は亡き忯子に皇后の位を贈りたいという帝の要望について。帝の側近の藤原義懐(高橋光臣さん)は忯子を皇后にと強く主張しますが、他の者はほぼ、それはあり得ないとか、わからない、難しい、という意見でした。その中で唯一、右大臣の兼家は「先例は見つかればよい」と意見し、はっきりと反対しない兼家のことを藤原実資は陰で怒りながらも理由がわからずにいました。ある夜、兼家の嫡男・藤原道隆(井浦新さん)と次男の藤原道兼(玉置玲央さん)は二人で酒を酌み交わしていました。道兼は帝に気に入られている義懐が兄・道隆をはるかに超える出世をしていることに腹を立てていていましたが、当の道隆は気にしていませんでした。それよりも道隆は、何かと気が回る弟の道兼が父のためにと無理をしてはいないか、父にいいように使われてはいないか、と道兼を案じていることを伝えました。外には出せない自分の思いをわかってくれ、自分を置いてはいかない(兄弟のために泥をかぶっても知らん顔はしない)と言ってくれる兄・道隆の優しさに心を打たれた道兼は、思わず兄の胸で泣き崩れました。投壺(とうこ)をしながら早死にしてしまった妹の忯子のことで悔んで不満を言う藤原斉信(金田哲さん)、そんな斉信に藤原公任(町田啓太さん)は「妹に早めに偉くしてもらっておけば」と言い、公任は言い過ぎを詫びていました。藤原道長(柄本佑さん)は姉の詮子が円融天皇に入内した後の悲しみを見てきているので「入内はけっして女子を幸せにはせぬと信じている。」と考えを言いました。こんな話をしていては妹の忯子は浮かばれぬと斉信は思い、気晴らしに打毬をやろうと言いだし、その準備に取り掛かりました。かつて絵師からは「おかしき者にこそ魂は宿る」と、そして直秀(毎熊克哉さん)からは「下々の世界では、おかしきことこそめでたけれ」と言われていたまひろ(吉高由里子さん)は、笑いを求めて辻に集まる人々が楽しめる物語がないかと、ずっと考えていました。そして考えついた芝居を直秀たちに提案したら受け入れてくれ、辻で直秀たちが演じる散楽を人々は喜んで見物していました。しかしその内容は権力者の藤原一族を中傷する部分もあり、それを知った道長の家の武者たちが怒って辻に駆けつけ、力ずくで散楽をやめさせようとしました。直秀たちは抵抗し、やがて道長も駆けつけて武者たちを止めようとしましたが、今度は検非違使が来て、これに捕まると下々の直秀たちは大変なことになるので、その場から大急ぎで逃げました。検非違使がまひろを捕まえようとしたとき、乙丸(矢部太郎さん)が盾になってまひろを守り、その後は道長がまひろの手を引いて逃げ去りました。二人はとりあえずどこかの空いた屋敷になんとか逃げ込んで落ち着きました。まひろは道長に、あの芝居は自分が考えたと打ち明けたけど、道長はそれに怒ることもなく、あれは権力者の側の自分たちを笑い者にする芝居だけど自分も見たかったと語り、二人は互いに次に何を言ったら言葉もなく見つめ合いました。やがて乙丸がまひろに追いつき、まひろを連れて帰りました。道長は直秀に、家の警護の者たちの乱暴を詫び、直秀から「お前たちの一族は下の下だ。」なんて言われても、それを受け入れていました。一方、まひろの父の藤原為時(岸谷五朗さん)は、帝が自分を師として心を許してくれているのに、その帝の様子を兼家に逐一報告をする、間者としての役割に罪悪感を感じていました。為時はいたたまれず、もうこの役目を辞めたいと兼家に申し出、そして兼家は意外なほどあっさりと認めてくれました。為時は帰宅して、藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)にそのことを「良い報せ」として報告し、真っ直ぐに生きたい父にまひろは賛同しました。しかし宣孝は、次の帝は右大臣・兼家の孫、右大臣側についているべきだ、今からすぐに右大臣家に行って前言を撤回してこい、と強く言いました。宣孝は新しい帝になったら為時は今の官職を解かれる(=収入がなくなる)と言い、惟規の乳母のいとも昔のような貧乏暮らしはもう嫌だと強く訴えました。そしてさらにいとは、右大臣家の後ろ盾がなければ若様(惟規)もどうなるかわからないと、泣いて為時に訴えていました。さて、いよいよ打毬の当日となり、皆は支度を整えていたのですが、一緒にやるはずだった藤原行成が急な病で来られなくなりました。そこで道長は直秀を急遽「弟」として代理を頼み、この催しに連れてきました。貴族の遊びの打毬なんてやったことがない直秀ですが、塀の反動を使って馬に横から飛び乗れる直秀です。道長の見込んだとおりなかなかの働きでした。そして道長は競技の最中に、幾度かまひろのほうに視線を送っていました。この催しの見物に招待された左大臣・源雅信の一の姫・源倫子(黒木華さん)をはじめとする名門の姫君たちは、間近で見る若い殿方たちの活躍に心を躍らせ、倫子の教育係の赤染衛門(凰稀かなめさん)でさえ、控えめだけどつい歓声が出てしまうほどでした。先日の漢詩の会でききょう(ファーストサマーウイカさん)のことを意識するようになった斉信は何度もききょうに熱い視線を送り、目が合ったききょうもまんざらでもなさそうでした。競技が終わった頃、急に強い雨が降り始めました。この時に倫子が連れてきていた小麿呂が雷に驚いて逃げてしまい、まひろは雨に濡れながら小麿呂の後を追いました。小麿呂が逃げ込んだ建物は道長たちが支度をしていた場所で、まひろはとっさに物陰に隠れましたが、その時に公達たちの本音を聞いてしまいました。今日あの場にいた姫君たちをあれこれ評し、自分たちの一族の繁栄のために家柄の良い姫君を嫡妻にして女子をもうけて帝に入内させて次につなぐ、あとは好いた女子のところに通えばよい、というものでした。まひろは隠れていたけどその話を聞いていたたまれなくなり、雨の中を飛び出して逃げるように去っていきました。そして着替えをしていた道長は直秀の腕の、盗賊が入ったときにちょうど矢を射た場所に傷があるのを発見しました。ところで、小麿呂を探しにきたまひろはショックであの場を立ち去ってしまったけど、小麿呂はつまりは、探してもらえなかったのですね。(誰か小麿呂を早く保護して)
February 20, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。このドラマ、平安貴族の衣装や生活を知り、高校の古文や漢文の勉強のすごい参考になるわと、この回はつくづく実感しました。内裏や上級貴族に仕える女房たちの衣装は、当然ではあるけど、同じ十二単でも仕える相手によって衣装のランクが全然違っていました。女御に仕える女房たちは、最高に華やかですね。そしてドラマの終盤の漢詩の会。招待された公達たちが披露した漢詩をそれぞれに画面に映してくれていたので、これはもうこの白文を自分で書いて、テレビで読みを聞きながら訓読文にする練習をすれば高校の漢文の勉強になるな、と思いました。そしてこの漢詩の会のやり方がいいですね。今の時代だって、勉強に限らず、スポーツでの試合や何かのコンテストや発表会など、頑張って打ち込んでいるものには、自信ありとか恥ずかしいとかは別として、どこかで自分の力を試す場が欲しいものです。ドラマではあの場にいた人たちは男も女も、より高みを求めて互いに切磋琢磨し合い、相手をねたんだり見下したりすることなく、互いに前に進もうとしています。友人かライバルか微妙だけど、理想的な関係ですね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永観2年(984)、長年抱え続けた母の死にまつわる話をやっと、それも当事者の弟である藤原道長に耳を傾けて聞いてもらえたまひろ(吉高由里子さん)は屋敷に戻ったとき、母の死以来ずっと反発していた父・藤原為時(岸谷五朗さん)の胸に飛び込んで、気が済むまで泣いていました。まひろが落ちついたら父・為時は、何があったのかを問うこともなく、左大臣家の集まりにはもう行かなくてもいいと言いました。しかし道長が自分に味方してくれたことでまひろは気が晴れ、これまでの父の苦労も考えることができるようになりました。父の拠り所が右大臣家だけにならぬよう、左大臣家の源とのつながりも持てるよう、覚悟をもって倫子と仲良くなるよう努めるとまひろは父に誓いました。兄・藤原道兼(玉置玲央さん)の所業を知った藤原道長(柄本佑さん)は激怒して兄を殴り倒し、その後で父・兼家と話をしました。しかし父は道長に、道兼の所業はもう忘れよ、そんなことよりこの家のために血筋と富の申し分ない左大臣家の一の姫に婿入りせよと言ってきます。さらに父は、長男・道隆と三男・道長の出世ために泥をかぶる役割が道兼の使命だとまで言い、兄・道兼を道具と思えと言う父の言葉に衝撃を受けていました。父の部屋から退室した道長は廊下で道兼と会い、父の発言を伝えました。しかし道兼は、父のためならいくらでも泥をかぶると平然と言い、そして道長に対し、「自分だけは綺麗なところにいると思っていても足元の影は皆同じ方を向いている。これは一族の闇だ。」と言って、立ち去っていきました。寛和元年(985)、まひろは左大臣家の一の姫・源倫子の集まりの帰りに、時折り通りで芝居をしている直秀(毎熊克哉さん)たちの一座が道端で稽古をしているのを見かけ、彼らのあまりにも軽い身のこなしに感心して直秀に声をかけました。ただ、まひろが何気なく言った言葉は直秀には少しカンに障り、虐げられている者は元より人扱いされていないという現実をまひろに伝えました。その後でまひろは彼らに芝居のネタを提案しましたが、それは面白くないと却下。倫子には『蜻蛉日記』の写本の件でも断られたまひろは、相手が望むものがまだまだわからない少女でした。そのころ花山天皇(帝)の寵愛の深い女御である忯子(井上咲良さん) は病の床に伏せったまま一向に体調が良くならず、兄の藤原斉信(金田哲さん)が忯子の回復を願って見舞いに来ていました。食事ものどを通らぬほど弱っている忯子は懐妊もしていて、じきに実家に宿下がりをするのですが、斉信はその忯子に宿下がりの前に自分を高く評価するよう帝に言って欲しい、忯子だけが一族の頼みだ、と訴えていました。忯子が兄への返答に窮していると帝が忯子の見舞いに来て斉信は下がったのですが、斉信は寵愛する女御の兄であっても帝から顔を覚えてもらってない存在でした。帝の側近である藤原義懐(高橋光臣さん)は、帝と共に新しい政をすることを考え、そのために若い藤原公任(町田啓太さん)と藤原斉信を取り込もうと屋敷に招いて酒宴を開いていました。それは同時に右大臣一派を排除する狙いもあり、右大臣の三男である道長はその宴には招かれていませんでした。道長はそのことを長兄・道隆に報告、道隆も若い者たちの心が帝と義懐一派に傾くのを案じていました。道隆はこのことを父・兼家と次兄・道兼には黙っているよう道長に言いました。その理由は、父なら権力で無理やり抑えこもうとする、そうすると若い者たちの憤まんをあおるだけになる、というのが道隆の考えでした。では有能な若い公達たちをどうやって自分たちのほうに懐柔したらいいのか。藤原道隆(井浦新さん)が悩んでいると妻の高階貴子(板谷由夏さん)が漢詩の会を催してはどうか、漢詩には選んだ者の思いが出る、それに学問に励む若い者たちはその成果を披露する場を求めている、と提案しました。妻の案をなるほどと思った道隆は学者も呼ぼうと言い、相手をその気にさせるであろう兄夫婦の考えを道長は褒め称えていました。ただ漢詩が苦手な道長はその会には出たくないと言い、素直で可愛い弟を二人は笑っていました。東宮(時期天皇)・懐仁親王の生母である藤原詮子(吉田羊さん)は左大臣・源雅信(益岡徹さん)を呼び出していました。詮子は雅信に、詮子の父で右大臣の藤原兼家が先の帝(円融天皇)に毒をもって帝に退位を促したことは知っていたかと問い、雅信は知らないと答えました。詮子は、自分はもう父を信じられないが、自分と東宮の身を守るために表立って父には逆らわない、でも父とは違う力が欲しい、と思いを率直に語りました。それは雅信に自分の味方になるよう要求していて、詮子はこの話を聞いた以上はもう後には引けない、断れば雅信から誘いがあったと(捏造だけど)父に言う、と強気で雅信に返事を迫りました。もう逃げられないと悟った雅信は覚悟を決め、詮子の要求を承諾しました。話がまとまり雅信が退席した後に来た弟・道長に詮子は、左大臣家に婿入りするよう言いました。父と姉、政治的に立場の違う二人から同じことを言われた道長でした。やがて為時の家に道隆からの使者が来て、4月27日に漢詩の会を催す、講師として為時と清原元輔(大森博史さん)を招くとありました。為時はこの機会に勉強させようと嫡男・惟規を連れていこうとしましたが学問が苦手な惟規はこれを拒否、なのでまひろが同席を願い出て父に同行しました。元輔も娘のききょう(ファーストサマーウイカさん)を連れてきていて、物おじしない性格のききょうは若い有能な公達たちに会えるのを楽しみにしていました。藤原道隆が主宰する漢詩の会が始まりました。音楽が奏でられる中、結局出ることになった道長は少し遅れて着席、その場にはまひろもいて、思いがけない再会に二人はどちらも驚いていました。講師の清原元輔から「酒」というお題の提示があり、藤原公任、藤原斉信、藤原成(渡辺大知さん)、藤原道長ら若い公達たちはすぐに紙と筆を手にとって考え、詩の作成にとりかかりました。それぞれに思いがこもった漢詩を為時が順に読み上げていきました。道長の詩は切ない恋心をうたったもので、まひろはその相手が自分であったらと密かに思い、余韻にひたっていました。また才学では当代無双と言われる公任の詩は誰もが感心するものであり、道隆も公任の詩を惜しみなく褒め称えていました。道隆は公任の詩の感想を、同席するまひろとききょうにも求めました。まひろは無難に答え、ききょうは違った意見を言い、ききょうはまひろと討論をしたそうでしたが、父である元輔は娘の出過ぎた言動を制しました。まひろとききょう、どちらの才もなかなかのものだと貴子は微笑んでいました。漢詩の会の〆に道隆が挨拶をし、この国をやがて背負う若者たちの思いを知った道隆は、彼らの思いをかなえるために自分も力を尽くすと言いました。そしてここにいる皆と共に帝を支え、この国をよりよき道に導いていこうと呼びかけ、その言葉は一同の胸を打ちました。退席した公任と斉信は廊下で、この先自分たちがついていくのは義懐ではなく道隆だと、互いに確信していました。父と姉の二人から左大臣家への婿入りを迫られる道長は、まひろへの思いがより深くなっていました。思いをどうしても伝えたくなった道長は文をしたため、急ぎまひろに届けるように従者の百舌彦に頼み、その後で内裏の宿直に向かいました。その夜、内裏に盗賊の集団が入り、宿直をしていた道長は盗賊を追いかけて矢を射ましたが、取り逃がしてしまいました。その夜はさらに花山天皇の寵愛が深い忯子が死を迎えました。そして道長からの文を受け取ったまひろは、互いに思い合えた嬉しさで涙がにじみ、胸がいっぱいになりました。さて、ドラマのラスト道長がまひろに送った和歌 『ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 恋しき人の 見まくほしさに』この和歌の意味が気になる方が多いのではないでしょうか。こちらでばっちり解説がなされています。 ↓ ↓
February 13, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。このドラマで何度も繰り返されてきた主人公・まひろ(吉高由里子さん)の母・ちやはの死に関する場面。そして母の死の真相を伏せようとする父・藤原為時(岸谷五朗さん)をまひろが受け入れたくなくて、何かとまひろが反抗する場面。当時は今よりも身分による権力の差がはるかに大きい時代だから、ふつうの子供なら、悲しいけど悔しいけどどうしようもない、と理解してあきらめると思います。でもそれをドラマであえてしなかった。それはまひろの一途な思いが藤原道長(柄本佑さん)に結びつき、道長に全てを聞いてもらって、そして泣いて泣いてまひろの気持ちが収まった。気持ちが収まって、ようやく父を許すことができた、という流れにしたかったのかなと感じました。さて、あるときは露骨に、あるときはさりげなく繰り広げられる平安貴族の権力争いは、毎回興味深く見ているのですが、この時代ならではの風俗も面白いですね。今のような科学的な証明ができない時代、人々は何かを信じてすがって生きているから、良い意味での御仏への祈りや悪い意味での呪詛の力を信じているんですよね。それにしてもドラマ冒頭の僧と寄坐(よりまし)。まずはじめにさりげなくその家の個人情報や悩み事を聞き出しているから、あれは霊が下りてきたのではなく、どう見ても似非ですね。それでたんまりと謝礼をもらっていく、いい商売です。バレたら恐ろしいと思うけど。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永観2年(984)、宮中行事で「五節の舞」の舞姫を務めたまひろ(吉高由里子さん)でしたが、その折に密かに思う三郎と母の仇であるミチカネが実は藤原の右大臣家の次男と三男であることを知り、激しい衝撃を受けて倒れてしまいました。水も食事も摂らず起き上がれないまひろを案じた弟の藤原惟規(高杉真宙さん)とその乳母のいと(信川清順さん)は、僧(植本純米さん)と寄坐(傅田うにさん)を呼んで神降ろしをしてもらいました。僧と寄坐が帰った後でまひろは起き上がり、父・為時と改めて話をしました。父は弟・惟規が出世するためには右大臣の力が要る、そのためにも藤原道兼のことはもう胸にしまって生きてほしいと言うけど、まひろは納得がいきませんでしたさて若くして即位した帝(花山天皇)でしたが、周囲が思う以上に政に熱心で、自分の考える政策を次々と打ち出していました。ただその政策の中には実行するのに無理なものもあり、先帝に使えた大臣たちが帝に従わないこともしばしばありました。帝は自分に従わない者には構うなと言って新しい側近の藤原義懐(高橋光臣さん)と藤原惟成(吉田亮さん)に命じていましたが、蔵人頭の藤原実資(秋山竜次さん)は帝の勢いを案じて、義懐と惟成に帝の行き過ぎをいさめるよう言いました。無理な政策は世が混乱する、政策をしくじれば朝廷の権威は地に落ちる、というのが実資の揺るぎない考えでした。一方こちらは、御所勤めをする有力貴族の若い公達たちです。帝の寵愛が深い弘徽殿の女御の兄である藤原斉信(金田哲さん)と、父が太政大臣の藤原公任(町田啓太さん)は、互いに競い合ってけん制し合っているのか、あるいは仲が良い故なのか、政のことなどをどちらも思うまま言い合っています。そんな二人のやりとりを若い藤原行成(渡辺大知さん)は喧嘩にならぬようにとつい余計な気を使ってしまい、父が右大臣の藤原道長(柄本佑さん)はなるようになると自分の出世や地位にはあまり関心がないようでした。道長自身は出世欲はなくても、父で左大臣の藤原兼家はそんなわけにはいかず、道長には「内裏の仕事は騙し合い」とまで言っていました。そして道長が、帝は志が高く若いから在位が長いだろうと皆が言っていると父に話をすると、兼家は道長に自分の考えを問いました。道長が「帝を支える者が誰か、が大事だ」と答えると兼家は喜び、我が藤原一族は帝を支える者たちの筆頭であらねばならぬ、と道長に言い聞かせました。兼家のその言葉は、自分の孫である東宮の懐仁親王が次の帝になることを指し、長男・藤原道隆(井浦新さん)はそのためにも懐仁親王の生母で父・兼家と仲たがいをしている妹の藤原詮子(吉田羊さん)を説得していました。しかし詮子は父のやったことを許すつもりはなく、そして東宮の生母として絶対的な力もあるので、父には屈しないと兄・道隆に伝えました。若い帝が次々と出す政策は、先帝に仕えた大臣たちとの対立を引き起こし、左大臣の源雅信(益岡徹さん)は家に太政大臣の藤原頼忠(橋爪淳さん)と右大臣の藤原兼家(段田安則さん)を招いて思うところを話し合っていました。帝が出す荘園整理令は自分たちの富を封じるためのものだと3人は怒っていて、特に東宮を孫に持つ兼家とちがって先の頼みがない頼忠は気が弱っていました。兼家は「荘園は自分たちの手で守る、若い帝やその側近たちはねじ伏せればよい」と強気で意見し、雅信は自分は権力には固執しないが荘園は守らねばと言い、3人は我らは初めて意見が合った、と笑っていました。そのとき雅信の一の姫・倫子が通りがかり、倫子の入内が気になる兼家はそれとなく尋ね、倫子の入内はないと雅信から聞いて内心は安堵していました。さてこちらは、兼家の妾の一人で藤原寧子(財前直見さん)の屋敷です。兼家と寧子との間に生まれた藤原道綱(上地雄輔さん)は明るい性格でそれは彼の舞にも表れていて、道綱の舞を見ている兼家は愉快そうでした。寧子は兼家に道綱の将来を頼み、兼家も道綱を可愛く思っています。しかしあくまでも政治的な実権を握るのは亡き嫡妻・時姫の子たちである、法外な夢は描かぬように、そのうち良くしてやると、道綱に言い聞かせていました。五節の舞で倒れた舞姫がまひろだと噂で知った道長はまひろのことが気になっていて、次の満月の晩にまひろの屋敷を訪ねると文を書いて下人に持たせました。しかし父・為時がいるところでは道長に会いたくないまひろは、どこか違う場所で会えるよう直秀に頼みたくて、乙丸(矢部太郎さん)に使いを頼みました。夜ままひろの屋敷を密かに訪ねた直秀は、はじめはまひろの頼みを断りました。でも、どうしても道長と話がしたいというまひろの熱意を汲み、六条の空き家に場所を決めて、それを道長にも伝えていました。帝が深く寵愛する弘徽殿の女御が懐妊したという噂を聞きつけた兼家は、その真偽を陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)に訊ねました。晴明が答えられないと返答しますが、もし帝に皇子が生まれたら東宮である自分の孫・懐仁親王の将来にも関わることなので、兼家は晴明に女御の腹の子を呪詛するよう命じました。晴明が、いくら褒美を積まれてもそれはできないと断ると兼家は、この国の未来を担っているのは自分たちだと言い、灯りを消すと御簾の向こうに関白・太政大臣の頼忠たちの姿が浮かび上がりました。兼家はこの命を絶対に成し遂げるよう強く言い渡し、晴明も断れなくなりました。直秀が用意した六条の屋敷で、まひろと道長は再会を果たしました。道長は改めて自分が右大臣の三男・藤原道長だと名乗り、幼い頃から今まで自分のことを明かさなかったことを詫びました。そしてまひろは、舞の後で自分が倒れたのは実は道長の隣にいた道兼を見たからだと言い、6年前に母が道兼に刺殺された話を打ち明けました。母は道兼に刺殺された、しかし我が家は貧しかったあの時に父が右大臣から大事な仕事をもらえた恩がある、父は道兼が犯人だと言えず母の死の真相を隠した、ということをまひろは涙ながらに語りました。道長はまひろに一族の罪を詫びて、まひろに許しを請いました。道長は兄・道兼よりもまひろを信じると言い、まひろは道長は悪くないけど道兼は生涯呪うと言い、道長はその思いを受け止めました。道長は直秀に礼を言い、泣きじゃくるまひろを直秀に託してそこを出ていきました。道長は馬を駆って急ぎ屋敷に戻りました。父・兼家と兄・藤原道兼(玉置玲央さん)が談笑している場に乗り込んで、道兼に6年前の出来事を確認しました。すると道兼は悪びれる様子もなく、それどころか虫けらの一人や二人を殺したとて、という言い方をしたので道長の怒りが爆発しました。道兼の胸倉をつかみ、虫けらはお前だと言って道兼を殴り倒しました。しかしこのとき道兼が事件をもみ消したのは父・兼家であると話し、事件のことは父も知っていたとわかった道長はさらに衝撃を受けました。父は「我が一族の不始末を捨て置くわけにはいかぬ」と何食わぬ顔で言い、さらに動揺する道長を見て「道長にこのように熱き心があったとは。これなら我が一族の行く末は安泰じゃ。」と感心して笑っていました。「今日は良い日じゃ。」と笑う父に道長は言葉を失い、呆然としていました。六条から戻る夜道をまひろは一人で歩いて帰ってきました。(夜盗が横行するこの時代に身分が低くとも姫が一人で歩けるとは思えないので、これは直秀が付かず離れずで、まひろをずっと守っていたでしょう。)夜なのにまだ戻らないまひろを皆が心配して待っていて、まひろが一人で屋敷にふらふらと戻ってきたとき、父・藤原為時(岸谷五朗さん)が思わず声を荒げてどこにいたのかと問いました。しかしいつもと明らかに様子が違う娘は泣きながら父の胸に飛び込んできました。娘・まひろにいったい何があったのかわからぬまま、為時はただ泣く娘の思いを受け止めていました。
February 6, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。今年の大河ドラマを、私は思った以上に毎週楽しく視聴しています。まあ正直なところ、昨年の『どうする家康』に比べて、まだ大きな感動の場面はないです。でも昨年のは、ドラマの背景が戦国でしかも弱小国で、主役の主君と彼をとりまく家臣たちは、毎日が生きるか死ぬかの日々だったから、場面やセリフにもどこかに力強さや勝ち上がっていくワクワク感が入っていたのかもしれませんね。その点、今年の『光る君へ』は、上流貴族の雅な世界の中にも政権争いや駆け引きがある面白さはあるのだけど、セリフでの感動はまだない感じです。しかしこの第4回では、映像での感動がありました。ラストの「五節の舞」は、舞姫たちの装束が美しいのはもちろんのこと、映像の美しさ、舞を撮るアングルなど、舞というものを最高に美しく魅せてくれました。これは歴史の資料集やネットの画像検索では、今一つ伝わらない“美”だと思います。『光る君へ』製作の皆さま、素晴らしいものを見せてくださり、ありがとうございます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永観1年(984)、父から唯一外出を許されている左大臣家からの帰り道のまひろ(吉高由里子さん)は四条万里小路に立ち寄り、その折にずっと気になっていた三郎(藤原道長のこと;柄本佑さん)と再会しました。互いに心の内を語り合ううちに、まひろは自分が父の官位が六位で何年も官職につけない藤原為時の娘で藤原でもずっと格下だと三郎に打ち明けました。そして三郎が自分のこと(実は右大臣の三男)を打ち明けようとしたとき、そこにまひろの親戚の藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が通りがかり声をかけました。宣孝は三郎を、下々の身なりをしているもののどこか育ちが良さそうなものを感じつつ、まひろを連れて帰ることにしました。まひろの家に立ち寄った宣孝は、まひろの帰りが遅くなったのは自分のせいだとまひろをかばい、そしてまひろには今日のことは父・為時には黙っていてやるからもうあの男には近づくなと釘を刺しました。下級でも自分は貴族の娘で、三郎は下々の者と思っているまひろは「身分」があるからだと思い、そのことを宣孝に言いました。宣孝は「身分があるから争いが起こらず世が乱れずにすむ」とまひろに教えました。そして今の帝が退位し、父・為時が学問を教える東宮が次の帝に即位すれば、父もいよいよ官職につけるであろうから、この大事なときに(どうも只者とは思えないあの男と)問題を起こすなと念を押しました。まひろは父の考え方について宣孝に愚痴をこぼしていましたが、宣孝はそれを受け止め、また悩みや愚痴が募ったら自分に吐き出せばよいとまひろをなだめました。安倍晴明による夜を徹して行われた占いで円融天皇の退位と新しい帝の即位の日が、そして次の東宮は詮子(道長の姉)が生んだ懐仁親王に決まりました。御所勤めの女房たちは、詮子の悪口と行事が続いて自分たちが忙しくなることの愚痴をこぼしていました。(この時代は几帳をこのように使って、間仕切りや目隠しをしていたのですね)まもなく次の帝(花山天皇)となる師貞親王(本郷奏多さん)は藤原実資(秋山竜次さん)を呼び、自分の代でも蔵人頭を務めてほしいと頼みました。しかし実資は習わしに反すると固辞、師貞親王は再度頼み込み、次の帝の側近となる親王の叔父の藤原義懐(高橋光臣さん)や乳母子の藤原惟成(吉田亮さん)が説得しても実資は固辞します。業を煮やした師貞親王は癇癪を起こして暴れ、義懐や惟成の被り物を取るという酷い悪戯をして腹の虫を収めていました。左大臣の源雅信は次の東宮が右大臣の孫に決まったことにあせりを感じていました。そこで一の姫の源倫子(黒木華さん)に、次の帝に入内してはどうかと気持ちを確かめていましたが、なにせ女癖は悪いし、もし自分が飽きられたら円融天皇の后の詮子のようなにってしまうからと、倫子は断っていました。さて、まひろが左大臣家に行ったある日のこと、教育係の赤染衛門(凰稀かなめさん)から出たお題は「竹取物語」についてでした。得意顔して自説を述べることに夢中になるまひろでしたが、それはやんごとなき(=身分が高い)方々に暗に皮肉を言っているようなものでした。倫子は以前の「偏つぎ」のときと同様、つい夢中になると周囲の気持ちに配慮することを忘れるまひろを叱り、しかし同席の姫君たちには怒らないよう笑って促し、その場を収めていました。(ちゃんと注意してくれる倫子さま、優しいですね)次の東宮が藤原詮子(吉田羊さん)の生んだ懐仁親王となり、近い将来この家から帝がたつと藤原兼家(段田安則さん)は喜んでいました。そして兼家は同時に、次の帝をどうやって早く退位させるか、知恵を絞るように3人の息子たちに言っていました。長男・藤原道隆(井浦新さん)は、新しい帝は無類の女好きで人の道をわきまえずこのままでは国は滅ぶと噂を流す、その手筈が整っている、と父に伝えました。また次男の藤原道兼(玉置玲央さん)は、帝に取り入り側近となって、何かあればそれとなく退位を促す、と考えを述べました。一方、栓子は円融天皇から、毒を盛ったのはお前だと決めつけられ激しく罵倒され、深く傷ついていました。毒のことは実家の父だと気がついた栓子は父・兼家のもとに乗り込んで真相を追求しましたが、兼家はとぼけて認めません。栓子は父と2人の兄を見限り、懐仁は自分が守る、自分は薬は生涯飲まぬと言って、退室していきました。この年の8月、師貞親王は即位して花山天皇となり、后として藤原斉信の妹の藤原忯子(よしこ)が入内しました。さて、まひろの家では父の藤原為時(岸谷五朗さん)が花山天皇の即位によって12年ぶりに官職を得ることができ、祝の宴でにぎわっていました。為時は宣孝の助言のおかげだと礼を言い、宣孝は推挙してくれた右大臣・兼家に礼を言うよう促していました。美酒に心地よく酔う父を見て、母の死の一件以来ずっと父に反抗していたまひろでしたが、今日だけは父を気持ちよく祝う、明日からはわからないけど、と弟の藤原惟規(高杉真宙さん)に思いを伝えていました。花山天皇は帝となってからは政務にも積極的に取り組んでいましたが、一方的に物事を決めてしまうところがあり、先代から仕える関白や左大臣・右大臣ら重臣たちは困り、陰で不満を漏らしていました。そこに今の帝の側近である義懐が、それは重臣たちの努力が足りないのだと意見を述べ、また帝は本年は凶作なので自らが贅沢を慎み食事も減らして天下に模範を示していると民に伝えるよう述べていました。新参者の義懐の遠慮のない物言いや態度は、兼家にはとても不愉快でした。その御所では藤原公任(町田啓太さん)ら若い公達たちが政務に励んでいました。公任は妹・忯子が入内した藤原斉信(金田哲さん)の出世を予測していました。でも斉信は、もし帝が妹に飽きて他の女に心変わりしたらどうなるかわからない、と慎重な考えです。藤原行成(渡辺大知さん)は忯子が皇子を産めば斉信は安泰と言い、道長も賛同していましたが、そうなると東宮(道長の甥)がどうなるかわからないと公任に言われ、道長も少し考えていました。秋の実りの季節を迎え、宮中では行事で「五節の舞」が行われます。源雅信(益岡徹さん)の左大臣家からも舞姫を出さねばならないのですが倫子は嫌がり、雅信自身も倫子が女好きの帝の目に留まったら一大事と考えています。誰か代わりの姫はいないかと悩んでいたら藤原穆子(石野真子さん)がまひろの存在に気づき、まひろを代理で出すことにしました。まひろも自分なら大丈夫だからと快諾、倫子は「一生恩にきる」とまひろに約束して、舞姫をまひろに頼みました。軽い気持ちで舞姫を引き受けたまひろでしたが、稽古は大変なものでした。そして豊明節会(とよあかりのせちえ)の日を迎え、装束に身を包んだまひろは倫子の屋敷で同席させてもらう肇子(横田美紀さん)や茅子(渡辺早織さん)らと共に、舞の舞台に立ちました。帝と上流貴族たちが居並ぶ中で「五節の舞」が始まりました。(夜の御所に松明の灯りがともり、その中で美しい装束の舞姫たちが音楽と共に舞い、最高に美しいシーンでした。中学や高校で古典や日本史で国風文化を知りたい人は、このシーンは是非見てほしいです。百聞は一見に如かず、です。)しかし舞の最中にまひろは、その貴族たちの中に「三郎」らしき人がいるのを発見、しかも三郎の隣にはあのとき母を殺した「ミチカネ」とよく似た人物が。まひろは気持ちが混乱したままなんとか舞を終えましたが、肇子と茅子の話から三郎とミチカネは右大臣家の道長と道兼で兄弟であるとわかりました。自分が思いを寄せる三郎と、母の仇のミチカネがよりによって兄弟、しかも自分とは身分が天と地ほども違う右大臣家の、と思うとわけがわからなくなりました。
January 30, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。放送が3回目となり、貴族たちの権力争いやそのための動きなど、ドラマ開始前に私がイメージした以上に興味深いネタがいろいろと出てくるこのドラマ。この回は、今はまひろという名だけど後に紫式部となる主人公の吉高由里子さんが、自分も上流貴族の世界に関わることとなって、少しずつ清濁併せ吞んで大人になっていく変化を表す回だったのかなと思いました。私が注目するのは源倫子を演じる黒木華さん。この方は『真田丸』ではあまり印象がなく、『西郷どん』では西郷隆盛の後妻の糸役では好印象を持ちました。そしてこの『光る君へ』での倫子役。この方、平安時代の装束や髪型がすごく似合いますね。そして人物像も、学問ができるのかどうかはわからないけど、利発で明るくて表面にはださない策略もありそうで、この先夫を大出世させる陰の力になりそうな感じがします。それを黒木さんがどう演じるのか、楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ (永観2年(984)頃)市場で無実の者を助けるために、逆に放免(検非違使庁の下級刑吏)たちに捕まって牢獄に入れられてしまった藤原道長(柄本佑さん)。でも従者の百舌彦が道長の父で右大臣の藤原兼家(段田安則さん)に知らせたので、すぐに釈放されました。兼家は道長に、民の暮らしを知ると思い切った政ができないと叱り、入内した娘の詮子(道長の姉)が帝から遠ざけられている今、身内が厄介事を起こせば藤原一族だけでなく詮子が産んだ懐仁親王にまで傷がつくと、道長を厳しく叱りました。怒って退室していく父・兼家の機嫌を取りなすよう詮子に頼んで自室に戻った道長でしたが、あのとき市場でかばい合ったまひろのことが頭から離れませんでした。それはまひろも同じで道長のことが気になって頭から離れませんでしたが、その夜まひろの家にひそかに現れた見知らぬ男が道長の無事を知らせてくれました。道長が内裏で宿直をしていたある夜、特に異変もなくて退屈で何か面白い話はないかと考えていたら、藤原公任(町田啓太さん)が自分が女房や女官たちからもらってて見ないままためてあった恋文を取り出しました。早速、道長と公任と藤原斉信(金田哲さん)の3人で文の品定めです。文字の美しさやその者の容姿などで好みを言い合い、女子に格別興味のない道長がいつの間にか文をもらっていたり、気になる女子がいるならいっそ訪ねてしまえばよいと公任が助言したり、3人であれこれ語り合っていました。中でも斉信は左大臣・源雅信の娘の倫子に熱心に文を送ったりでご執心でした。このところ帝(円融天皇)の体調がすぐれず、安倍晴明が邪気払いの祈祷をしてもいっこうに効き目はありませんでした。蔵人頭の藤原実資(秋山竜次さん)は、帝のこの病気の様子は何かおかしいと疑い、内侍所で倍膳の女房たちを取り調べると言いだしました。実はこれは藤原道兼(玉置玲央さん)が父・兼家に命じられて、帝が病気になるよう女房に食事に薬を入れさせていたためであり、実資の行動に道兼は肝を冷やしました。道兼はすぐに父・兼家に報告、父は道兼に落ち着くよう言いました。そして兼家は道兼に、帝の信任が厚い実資は味方にしておきたいから心して仕えよと、また協力した女房はちゃんと丸め込んでおくよう命じました。さてこちらは、父・兼家に従って藤原一族の立身出世を狙う長男・藤原道隆(井浦新さん)とその妻の貴子(板谷由夏さん)です。藤原詮子(吉田羊さん)が生んだ懐仁親王(石塚陸翔くん)に娘の定子(木村日鞠ちゃん)をいずれ入内させるために、貴子は定子を厳しく教育していました。一方で兼家に取り込まれた形となった安倍晴明は、帝のために祈祷をしつつ帝には暗に譲位をほのめかす奏上(言う;皇族に対する絶対敬語)していました。兼家は晴明の働きに褒美を取らせました。病で気が弱っている帝は晴明からの奏上でますます気力が落ちていました。そんな帝を蔵人頭の実資は、まだ譲位は早いと励ましていました。その理由の一つに東宮の師貞親王(本郷奏多さん)のことがあり、東宮は幼い頃から教育係の言うことは全く聞かずに自由奔放に育っていて、周囲から見えるその立ち居振る舞いはとても次の天皇にはふさわしくないものでした。帝には自分の唯一の血筋である懐仁親王を早く次の東宮にしておきたい思いはあれど、師貞親王のことは悩みの種でした。しかしその後で見舞いに来た兼家は、懐仁親王(自分の孫)を早く次の東宮に、それが帝やこの国の願いだと、強く奏上していきました。倍膳の女房たちを取り調べたことで、藤原実資は内侍所の女房たちからすっかり嫌われてしまいました。陰口どころか本人に聞こえるように非難ごうごう。帝も回復しつつあり、女房たちの憤りの圧も耐え難いので、実資はこれは自分の思い違いとして、取り調べをやめることにしました。(女房たちが寄り集まって悪口を言うシーン、このドラマの楽しみになりそうです)師貞親王に教育係として仕える藤原為時(岸谷五朗さん)は、雇い主の藤原兼家に、近ごろの東宮は心を入れ替えたように勉学に励んでいる、これは自分の即位が近いと覚悟ができたのでは、と喜んで報告していました。しかしそう聞いて兼家が思ったことは、東宮が即位した後は(ライバルの)左大臣は娘を入内させる気なのか、ということでした。そこで為時は娘のまひろ(吉高由里子さん)を、自分の遠い親戚でもある左大臣家に送り込んで、左大臣家の様子を調べさせようとしました。父から謹慎を命じられて家から出られないけどこの日だけは外出を許すということで、まひろは父の勧めに従うことにしました。左大臣家に上がると、正室の穆子と一の姫の源倫子(黒木華さん)と倫子の教育係の赤染衛門(凰稀かなめさん)、そして倫子の友人でやんごとなき(身分の高い)姫君たちが集まっていました。まひろは穆子から「遠い親戚の娘」と紹介を受けて仲間に入れてもらい、そこで早速「偏つぎ」という遊びが始まりました。姫君たちはみんな漢字が苦手で札がなかなか取れなくて、逆に漢字が得意なまひろは夢中になって次々と札を取っていき、とうとう全部の札を取ってしまいました。1回戦が終わり、友人の姫君たちは1枚の札も取れなくて面白くなさそうでしたが、倫子はまひろの頭の良さを笑って褒めてくれました。師の赤染衛門は、これからは女子でも漢詩が読めて漢文が書けなければいけないと教え、姫君たちもみんな素直に明るく返事をしていました。当時、姫たちは学びの中にはのどかな遊びもありましたが、上級貴族の子息たちは勉学に励み、関白の屋敷では休日であっても学友たちが集まって、やがて国家を率いてゆく者としての研さんを積んでいました。この中には後に書で名をはせる藤原行成(渡辺大知さん)もいました。左大臣家で思いがけずに楽しい時間を過ごして帰宅したまひろでしたが、父は一の姫の倫子のことや姫が婿をとる話はなかったかと聞くばかりでした。まひろは左大臣家を探ってくるよう父が兼家から頼まれたのだと察しました。ただ、ここで以前のまひろなら間者の役目などしたくないと反発するのでしたが、父の立場を悟ったのか、あるいは自分で何かを受け入れたのか。まひろは自分から倫子のお気に入りになれるよう努めると父に言って退室したのですが、自室で一人になったときにひそかに涙しました。そしてまた左大臣家に行く機会があり、まひろは姫君たちの気分を壊さないよう気を付けていましたが、つい知識が出てしまうこともありました。その帰り道、まひろは四条万里小路の辻でやっている散楽が見たくなり、お供の乙丸と一緒に寄り道をしました。その時、散楽見物をする輪の中に別々にいるまひろと道長を見つけた演者の男が二人を引き合わせるかのような動きをし、まひろと道長は互いに気が付きました。互いに歩み寄って近づく二人、そして面がとれた演者の男は、あの市場での騒動のときにまひろとぶつかったあの男でした。
January 24, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。平安時代でイメージとしてはいちばん国風文化を感じるであろう、藤原道長の時代の今年の大河ドラマ。皇族や貴族といった身分の高い人たちの色とりどりの華やかな衣装や高価な道具類はもちろん見どころですが、庶民の風景も織り交ぜてあるのを興味深く見ています。そして華やかなイメージとは真逆の、権力争いをする貴族たちの裏の顔や駆け引きと、身分が低い者への容赦ない仕打ちなど、当時はこうだったのかと思いながらドラマを見ています。柄本佑さんが演じる藤原道長が気になります。今はまだ身分も低く、穏やかでのんびりした感じですが、この青年がどうやって「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」と歌うあの道長になっていくのか。ふだんはTVでもなかなか見ることのない雅な平安貴族の世界を味わいながら、展開を楽しもうと思ってます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 永観2年(984)母を失ってから6年の月日が流れ、まひろ(吉高由里子さん)は裳着の儀式を行い、腰結は父・藤原為時の友人でまひろを幼い頃より知る藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が行いました。母の死に対していまだに父にわだかまりをもち、その相手はどうも父が仕えている右大臣の次男が関係しているのではと疑うまひろは、宣孝にそのことを訪ねました。宣孝はとっさにとぼけて言葉を濁し、さらにそれを知ってまひろはどうするつもりなのかと、逆に問いました。わからないと答えるまひろに宣孝は「わからないなら黙っておれ。」とぴしゃりと言い、そしてこれは宣孝からの心からの忠告だと言って去りました。宣孝は為時の事情や思いを理解し、今為時が仕える東宮が帝になれば運が開けると、為時を励ましていました。そのころ巷では盗賊が跋扈していて、円融天皇(坂東巳之助さん)はどうすべきか公卿たちと対策を考えていました。右大臣の藤原兼家(段田安則さん)は検非違使庁の別当を変え、盗賊を捕らえた者には褒美を出してはどうかと進言、関白の藤原頼忠(橋爪淳さん)はそれに反論をしますが、兼家の勢いに押された天皇は兼家の意見を採用することにしました。右大臣・兼家の子供たちもそれぞれに官職を得て順調に上流貴族への道を進んでいて、三郎は元服して藤原道長(柄本佑さん)となり、宮中での勤めに励んでいました。道長の姉・藤原詮子(吉田羊さん)は6年前に円融天皇に入内し、藤原一族の期待どおりに皇子(懐仁親王;後の一条天皇)を産んでいました。しかし天皇は后の最高位の中宮を藤原遵子とし、さらに兼家が増長することを恐れ、詮子を遠ざけていました。母としては満たされても天皇の寵愛がなくなってしまった詮子は寂しい日々を送り、唯一心を許せる弟の道長を時折り呼び、本音をぶつけて考えたり、あるいは姉弟として他愛ない話をして笑い、気を紛らわせていました。さて、こちらにも仲良しの姉弟がいました。父・為時から家の跡取りとして期待される藤原惟規(高杉真宙さん)は幼い頃から学問の指導を父から受けていましたが、惟規は学問はどうにも苦手でした。反対に姉のまひろは父の授業を少し離れて聞いているだけなのに、学問が得意で書物も好きなので、様々なことをどんどん吸収していきました。父は惟規が間もなく元服であり、その後は出世のために大学に入ってもっと勉強しなければならないので、宿題を与えて外出していきました。父が出かけたら惟規は早速まひろの元に甘えに行き、二人で軽く話を。でもその後で、まひろもまた父には内緒にと惟規に念押しして出かけていきました。(惟規は幼い頃に母を亡くしているから、姉でしっかり者のまひろは惟規にとって甘える相手だし、まひろにとっても惟規は可愛い弟でしょうね。)まひろは市場にある絵師のところで、和歌を代筆する仕事をしていました。その帰り道、お供の百舌彦を連れて市場見物にきていた道長と、6年ぶりに偶然出会いました(当時は三郎)。道長は、あの時まひろをずっと、夜になっても待っていたのになぜ来なかったのかと問いますが、話したがらないまひろの気持ちを受け止めていました。代筆の仕事が楽しいというまひろを見て不思議がる道長。まひろが逆に道長に尋ねると、自分の周りの女子は皆さみしがっている、男は偉くなりたがっていると道長は答えました。話を重ねるにつれ、まひろと道長は互いに「この人はいったい何者なのか」という思いが強くなっていたのだけど、ちょうど百舌彦が道長を呼びに来ました。己の心のままに話す道長にまひろはどこか惹かれつつ、また会った時に話をと約束して道長は去っていきました。道長の姉・詮子は、このまま帝が自分から遠のいてしまうのはあまりにも悲しく、もう一度帝の心を取り戻したいと決心して、帝に文を送っていました。そしてようやく帝が今宵、自分のところに来てくれるとなり、身支度をして待っているのですが、その様子を女房たちは冷やかして笑いものにしていました。(漫画「あさきゆめみし」の中で「口さがない(他人のうわさや批評を無責任・無遠慮にするさま)女房たちがいる宮中にこの姫を入れるのは・・」みたいな部分があったように記憶しています。どこだったかな・・?)しかし何年かぶりに渡ってきた帝は、詮子の期待とは反対に不快感をあらわにして詮子の文を冷たく突き返してきました。帝は詮子の行動を見苦しいと言い、さらに侮蔑の目で詮子を見て「懐仁親王の母なのに汚らわしい。」とまで言いました。詮子が帝にかつての自分への寵愛は偽りだったのかとすがると帝は、親王を成すために務めを果たしたまでで今は愛情はない、と平然と言いました。そして詮子に国母になる心づもりを忘れるな、内裏を去るなら親王は置いていけ、と言って、詮子のもとを去っていきました。(前回私は、帝は真面目で不器用な詮子を気に入ったのかと思っていましたが、政治的な背景だけでなく、どうやら若々しくて色香のある遵子のほうが良かったという感じですね。)さて、6年前から藤原為時(岸谷五朗さん)は、やんちゃ過ぎて誰も教育係をしたがらない師貞親王(本郷奏多さん)に漢学を教え続けていました。しかし師貞親王の奔放ぶりは相変わらずで、真面目に勉学に励む様子は全くなく、男女のことを覚えてからはますます手がつけられなくなっていました。為時は親王の様子を雇い主の藤原兼家に報告するのですが、理解を超える親王の奔放ぶりに兼家は、これは痴れ者のふりをしているだけではなくて本当に痴れ者なのか、とまで思うようになりました。ある日、兼家は次男の藤原道兼(玉置玲央さん)を伴って遠乗りに出かけました。小高い丘の上から京の都を眺めるのが好きだと言う父・兼家と、3兄弟の中では日頃あまり目をかけてもらえない自分が急に父に遠乗りに誘われて、誇らしくて嬉しくてまらない道兼がいました。しかし父が道兼を呼んだのは、御所の女房を使って帝を病にする薬をいれさせるよう命ずるためで、そういうことを成すのが道兼の役目とまで言い切りました。なぜ自分がと尋ねる道兼に兼家は、6年前に道兼がまひろの母を刺殺したことをさし、その後始末のために家の名を汚し、父の手も汚したと言いました。道兼は父の命に従うしかありませんでした。(兼家は長男・道隆のために、何かあれば汚れ役を道兼にさせるつもりでした。親の愛を望む道兼を利用しているのですよね。)道兼が父の命を実行しているのか、帝は政務の間も加減が悪そうでした。一方、相変わらず好き勝手しながら為時の講義の時間を過ごしている懐仁親王ですが、為時に「ないしょだけど」と念押しながら自分が帝になるかもしれないことを話していました。(この親王は痴れ者に見えて、実はしっかりと政治的な情報網を持っているということですね。)懐仁親王は自分が即位したら、為時を式部丞の蔵人にしてやると言います。自分に手を焼いて教育係はみんな去っていったけど、為時だけはずっと傍にいてくれたことを親王は嬉しく思っていたのでした。(為時にしたら、これしか仕事がなくて我慢しながらずっとやっていた面もあると思うのだけど、教育者としては雇い主よりも、一番認められたい人(生徒)に認められた嬉しさはあると思います。)出世の見込みのことを為時が家でそのことを話すと、太郎の乳母のいとから、まひろが市場に出て何か仕事をしているらしいということを聞きました。為時はまひろを叱り断じて許さないと言って、乙丸を見張りをつけました。それでもまひろは隙をついて市場の絵師(三遊亭小遊三さん)のところに行くのですが、父が先回りしてまひろをここに来させないようにしていました。そうとも知らない道長は絵師のもとを訪ねて追い返されるのですが、その帰り道、無実の罪らしき男が検非違使に捕まって乱暴をされていたので、道長は男を助けようと検非違使を挑発して逃げ回りました。それで今度は道長が検非違使に捕まったのだけど、その時まひろが道長を助けるために動きました。
January 17, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。2024年の新しい大河ドラマが始まりました。昨年の戦国時代から今度は600年ほど戻って平安時代へ。学校では、中学で『枕草子』を習いますが、高校の古文で習う『源氏物語』の世界です。私は高校時代、この『源氏物語』は、「いづれの御時にか女御、更衣あまた候ひ給ひける中に・・」みたいなほんの一部は記憶にあるものの、これは何の話なのか物語全体がサッパリわからない世界でした。これをようやく理解できたのは、大和和紀さんの漫画で『あさきゆめみし』を読んでからです。(この漫画に救われた人はたくさんいると思います。書店の参考書コーナーにも置いてあるほどです。わかりやすく描いてくれた大和和紀先生、本当に感謝です。)でも平安時代で1年間、ドラマを見続けることができるのか。そんなことを考えながら見始めた第1回放送。『源氏物語』に出てくるような当時の人々の様々な思いや、政治や恋愛での「駆け引き」が楽しめそうです。何より平安時代独特のメイクでないことに安心しました。この1年は、平安時代の装束をはじめとした国風文化を学びながら、ドラマを楽しんでいこうと思ってます。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 貞元2年(977)年の暮れ、まひろ(後の紫式部;落井実結子ちゃん)の幼少期。父の藤原為時(岸谷五朗さん)は下級貴族で漢学者ながら一家の生活は大変苦しくて日々を食いつないでいくのがやっとでした。昨夜の大雨で雨漏りして濡れた床をふきながら、まひろは父が弟に教える学問を耳で聞いて覚え、暗唱できるほど賢い女の子でした。母のちやはは苦しい生活の中でも悲観的にはならず、年が明ければ夫・為時の官職も決まってなにもかもうまくいくと信じて、家族や家人たちを支えていました。一方、京の都では上級貴族たちの出世争いが熾烈を極めていました。大納言・藤原兼家は来年、娘の詮子(吉田羊さん)を円融天皇(第64代)に入内させることが決まり、兼家と長男・道隆は詮子が入内して第一皇子を産めば一族の繁栄になると期待していました。しかし元服前の三男・三郎(後の藤原道長;木村皐誠くん)はまだ自身や家のことに対して欲がなく、そんな三郎は詮子にとって周りには黙っている自分の本音が言える、唯一の心許せる存在でした。まひろの父・為時は、学はあるけど要領よく立ち回ることができず、官職を5年間得ることができずに家族に苦労をかけていました。(食事の膳の様子、住まいや衣服など、上級貴族と下級貴族の暮らしぶりの違いがドラマの中でさりげなく出てきて、興味深いです。)そんな為時を見て親戚の藤原宣孝は為時に、いずれ権力者となると予感する大納言・藤原兼家の屋敷にすぐに行け、推挙をお願いしてこい、と助言しました。はじめはためらっていた為時ですが、このままではどうにもならないので自分を売りこむ文をしたため、兼家の屋敷に出かけました。兼家の屋敷では一族で正月を祝う宴が開かれていて、為時は会ってもらえません。やむなく平惟仲(佐古井隆之さん)に文を託して戻ることにしました。貞元3年(978)正月、下級貴族たちの運命を左右する除目(天皇、大臣、参議以上の公卿によって行われる人事の会議)が内裏の清涼殿で行われました。これは宮中での仕事を望む者が事前に、希望する官職と自分を売り込む申し文を提出し、公卿の審議を経て天皇が承認すると官職を得られるものです。しかし為時は自分を売り込もうとして円融天皇(坂東巳之助さん)の心象を悪くしてしまい、官職を得られませんでした。失意の為時が史記の「本紀」を手にして考え事をしていると、まひろが父の傍に来て本を読んでほしいとねだりました。学問好きなまひろが男子だったらーー為時はふとそう考えるのでした。春になり、関白・藤原頼忠の娘の遵子が円融天皇に入内、続いて秋のはじめには、大納言・藤原兼家の娘の詮子が入内、兼家はこれを機に右大臣に昇進しました。円融天皇は、生真面目で不器用そうだけどどこか女子として可愛い詮子の気立てを気に入り、詮子を深く寵愛しました。しかし詮子が入内した夜、安倍晴明の館に大きな落雷があって火事になり、晴明はこれを災いが起こる前兆と捉えていました。そして宮中の女官たちも詮子の入内は凶であると口々に噂し、また天皇の詮子への寵愛が過ぎることも批判的にささやいていました。宮中でささやかれる噂を詮子の兄・藤原道隆(井浦新さん)は心配していました。しかし父・兼家はそれに動じることなく「慶事の折の風雨は吉兆。詮子の入内は吉である。」と噂を流すように命じました。「世の流れは己で作るのだ!頭を使え。肝を据えよ。」ーー宮中での評判を恐れる嫡男の道隆を、兼家は𠮟咤激励しました。ある日のこと。まひろは飼っている小鳥の世話をしているときにうっかり逃がしてしまい、まひろは小鳥を追いかけて外に出ていきました。川原まで来たときに身分を隠して散楽を観に来ていた三郎と出会い、優しい三郎は悲しんで泣きそうなまひろを一生懸命に笑わせようとしていました。高級な菓子をくれた三郎をまひろが不思議に思っているとちょうど従者の百舌彦が三郎を呼びに来たので、三郎は次にまた会う約束をして去っていきました。(『源氏物語』にでてくる若紫との出会い「雀の子を犬君が逃がしつる。」の場面。藤原道長は紫式部の憧れの人と聞いたことがありますが、何かの出来事がまひろが紫式部になって書く物語のネタになっているとしたら、これからまひろが経験する出来事が『源氏物語』のあの場面、ということになりそうですね。)大臣らとの政の話が終わった後、天皇はこの日は関白・頼忠の娘の遵子のところに行くと言い、頼忠は右大臣の兼家に遠慮して声を落として返事をしましたが天皇は兼家のことは気に留めていませんでした。その様子を見て女官たちは早速「閨も政の場所」とか、寵愛が過ぎる詮子のことを「宮中では一人勝ちは許されない」と陰でささやいていました。不機嫌になった兼家が屋敷に戻ったとき、まひろの父・為時が兼家に推挙を願って書いた文がふと目に留まりました。兼家は為時を屋敷に呼び出しました。そして為時に、正月の除目では宮中での官職は得られなかったが申し文は上々の作であったと褒め、東宮の師貞親王に漢文の指南をしてはどうかと持ち掛けました。これは正式な官職ではなく兼家が雇う形だけど、やっと仕事がもらえた為時はこの話を喜んで引き受けました。ただこれには一つ兼家から条件があって、東宮はいずれ帝となるから考えや気質を知っておきたい、どのようなことでもつぶさに知らせてほしい、とありました。そして兼家は一方で陰陽師の安倍晴明を呼び出し、娘の詮子より少し先に入内した遵子に子ができぬようにせよと命じ、晴明もそれを引き受けました。東宮に漢学の講義をする日を迎えました。久しぶりに出した直衣はカビだらけでしたが、妻のちやはは一生懸命に手入れして夫の為時を送り出しました。さて、兼家から「一風変わったお人柄」と言われていた東宮の師貞親王(伊藤駿太くん)は、為時の講義中でも真面目に聞く気は全くなし。ウロウロ歩き回り、ふざけて講師の為時を蹴飛ばし、変顔して遊び、講義の途中で勝手に退室していくような皇子でした。為時は兼家の恩義をありがたく思いつつも、兼家が「(東宮の教育係を)誰も引き受けたがらない。為時なら辛抱強く穏やかゆえ適任。」と言っていた意味を、身に染みて理解することになりました。さて兼家の次男の藤原道兼(玉置玲央さん)ですが、日頃から、兄・道隆のように父に尊重してもらえず、母・時姫からは悪気なく兄と比較されて悲しくて、鬱憤がたまったり何か癇に障ると、弟の三郎や家人など傍にいる立場が下の者に暴力的に当たり散らしていました。この日も家人をかばう三郎に腹を立て、怒りの矛先を三郎にむけて乱暴していたら母が通りかかり、道兼を止めました。身分の低い者には何をやってもよいという道兼の考えを時姫は厳しく叱りました。自分の気持ちを母にわかってもらえずむしゃくしゃした道兼は、馬を駆って屋敷の外に出ていきました。道兼が林の中を駆けていると、父・為時のための御礼参りに来ていたまひろが林の中から飛び出してきて、そのため道兼は落馬してしまいました。相手は上級貴族なのでまひろもちやはもすぐに詫びたのですが、従者が言った何気ない一言で怒りが収まらなくなった道兼は、ちやはを刺し殺してしまいました。突然帰らぬ人となって戻ってきたちやは。しかし為時は先日に兼家の館を出るときに、家人を乱暴に扱う道兼をたまたま目にしていて、家人の乙丸やまひろが言う「ミチカネ」という名はあの道兼と直感。「ちやはは急な病で死んだことにする。あの時のことは忘れよ!」ーー為時は母の死に納得がいかないまひろに厳しく言い渡しました。
January 10, 2024
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。松本 潤さん演じる、徳川家康を1年かけて描いた物語が、いよいよ最終回を迎えました。この1年、松潤の顔立ちの良さを随所で実感しました。月代になっても想像以上に似合い、晩年の家康もゾクゾクするほどカッコ良くて、アップになっても全然かまわない。つまり土台(顔立ち)がいいと、何やっても似合うということを実感しました。『青天を衝け』の主演:吉沢亮さんが国宝級イケメンで私はよく見惚れましたが、松潤も同じでした。でもこのドラマが良かったのは、松潤一人が全ての回の中心だったわけではなく、メインキャストの誰かがその回その回で話の中心になっていたことでした。脚本の古沢良太さんの解釈もなかなか面白くて、時々は受け入れたくないストーリーもありましたが、それでも1年を通して、良いドラマだったと思います。この最終回は、前半は大坂夏の陣での豊臣家の滅亡を、そして後半では、この1年の間に何度か話に出てはきたけど、その内容が結局誰の口からも語られることなく次の場面に進んでいった「鯉」エピソードでした。鯉を食べたことが単なる忠義や説教めいた話になるのではなく、主君と家臣が互いの存在を感謝に思う流れになっていき、それが家康の幸福な往生になっていったという、これまた今までの家康ドラマにない展開でした。そしてグランドフィナーレが「えびすくい」。まさかこの「えびすくい」がはじめから終わりまでくるネタとは思っていなくて、ふと気が付けば多くの視聴者からも愛されていたのだと感じました。この1年、『どうする家康』関連で、他の歴史番組でも戦国関連のものをたくさん見ました。研究が進んで、数年前とは違った解釈が出ているものもあって、なかなか面白かったです。来年は『光る君へ』で平安時代になりますね。またイロイロと新たな歴史の勉強ができそうです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長20年(1615)5月、徳川家康は京の二条城で出陣の身支度を整えて出立し、茶臼山にに陣取って馬印の金扇を敵からよく見える位置に掲げさせました。一方、豊臣方の軍議では後藤又兵衛が討ち死になど苦戦が報告され、総大将の豊臣秀頼(作間龍斗さん)も大野治長(玉山鉄二さん)も、この戦に勝つには家康ただ一人の首をとることと考えていました。「戦では、ひっくり返せるときが必ずくる。」ーー父・昌幸の教えを思い出した真田信繁(日向 亘さん)は真田勢が家康のいる茶臼山に向かうことを志願、戦支度をした茶々(北川景子さん)や千(原菜乃華さん)も皆々を鼓舞しました。徳川家康(松本 潤さん)の馬印は遠くからでもよく見え、それを確認した豊臣方は真田勢を先頭に猛然と突撃していきました。決死の攻撃で防護柵を突破してくる真田勢に家康はあえて呼びかけて己の位置を知らせて挑発しました。家康のお側衆が本陣に乗り込んできた敵と戦って家康の側を離れ、家康が一人になったときに家康の眼前に信繁が迫りました。「乱世の亡霊たちよ、わしを連れていってくれ。」ーー家康は心の中でつぶやきましたが、結局は信繁が討たれました。家康は本多正信と共に、年老いた自分たちが再び生き残ったことを実感しました。(でも家康が思い浮かべた亡霊たちは、信長、信玄、秀吉といずれも戦乱の世をなくすという大志があったから、家康は連れていってもらえなかったと思います。)内堀もない大坂城は防御の力もなく、城全体が炎に包まれていました。秀頼・茶々・千たちは山里曲輪に逃げ込んでいて、大野修理から千を徳川に返すと申し入れがあり、千は秀頼と一緒にいたいと激しく拒否しましたが、結局は初(茶々の妹、千の伯母)に伴われて大坂城を出てきました。千は祖父・家康の顔を見るなり土下座して、茶々と秀頼の助命を嘆願しました。千は家康に、豊臣には戦う力はないし秀頼は素晴らしい人だから若き才を救ってほしいと一生懸命に訴えます。家康は千の訴えを、優しい言葉で拒否します。しかし娘の千が強く訴える内容は、現将軍である徳川秀忠(森崎ウィンさん)にとって聞き捨てならぬことであり、秀忠が進み出てきました。秀忠は毅然と「私が将軍として命を下す。秀頼には死を申しつける。」と言い、この戦の指揮を自分に執らせなかった父・家康の真意を理解して「最後くらい、私に背負わせてくだされ。」と家康のほうを向いて言いました。必死の願いが聞き入れられなかった千は父と祖父を鬼と罵って暴れ、侍女たちに力づくで連れられて戦場を後にしました。炎に包まれた山里曲輪で、秀頼たちは死を覚悟しました。まず秀頼が切腹し、絶え絶えの息で母の茶々に自分の首を持って生きてほしいと伝え、そして大野治長に介錯され絶命しました。秀頼の死を見届けた家臣や豊臣方の武将たちも後を追って次々と自害していき、大野治長の介錯は茶々がしました。最後に一人残った茶々は業火の中で「己の夢と野心のために、なりふり構わず力のみを信じて戦い抜く!かつて、この国の荒野を駆け巡った者たちは、もう現れまい。」と最期の思いを吐き出し、そしてあの世にいる父母を思ったのか、天を仰いで「茶々は、ようやりました。」と自分を認め、そして自害して果てました。茶臼山から燃え尽きた大坂城を見て、家康はそっと手を合わせました。かくして天下泰平の世が訪れ、徳川家では家康の偉業を正しく後世に伝えるために、南光坊天海(小栗 旬さん)が家康の歴史書を編纂していました。天海が「いい話を集めよ。」と皆に指示するので、秀忠は父・家康のことなれど立派な話ばかり残すのはいかがなものかと意見しました。しかし天海は「世間では悪評が立っているが、かの源頼朝公だって実のところはどんなやつかわからない。周りがしかとたたえて語り継いできたからこそ、今日全ての武家の憧れになっているわけで。」と、そして「(家康は)人ではない。大権現!」と強調して進言しました。元和2年(1616)家康は駿府城で重い病の床に臥していて、若い者たちは畏れ多くて誰も近寄れないため、側室の阿茶が家康の世話をしていました。家康の見舞いに訪れた本多正信(松山ケンイチさん)は、もう身体を起こせない家康の枕元まで行き、これまで自分を信用して傍においてくれたことへの深い感謝の意を伝えました。そして自分もだけど皺だらけになった家康の手を取り、乱世を生き抜いて長きにわたって泰平の世をつくってきたことへの労いを伝えました。見舞いの後で正信は阿茶と二人で、家康の人生を思いました。家康は果たして幸せだったのか、戦無き世をなしこの世の全てを手にいれた、が、本当に欲しかったものは…(手に入ったのか)、と。そして元和2年4月17日。これは家康の夢の中なのか現なのか。気分が良いのか身体を起こし、力の入らない手で木彫りの人形を作っていました。そこへ37年前にこの世を去った正妻の瀬名(有村架純さん)と長男の徳川信康(細田佳央太さん)が、あの当時の姿のまま現れました。二人は家康のこれまでの働きをねぎらいましたが、家康はそう言われて嬉しくもなく、望まぬことばかりしてきたという思いでした。するとそこへ孫の竹千代(後の家光)が、絵が上手に描けたと言って持ってきて、御簾の下から紙を差し出して去っていきました。その絵には白兎が描かれていて、瀬名は「あの子はあなたが狸でも神でもないとわかっている。あの子が戦場に出ない世の中をあなたが生涯をかけてつくった。ご立派。」と家康を再びねぎらい、家康は少し心が軽くなりました。家康の意識は、今度は永禄10年(1567)の、嫡男・信康と織田信長の娘・五徳との祝言の日の岡崎城に飛んでいました。目が覚めると家臣たちが何やら大騒ぎしていて、話によれば信長が「両家の絆と繁栄の証に」と言って贈ってきた鯉3匹がいない、とのことでした。そして見つかったのは鯉の骨で、もしこのことが信長に知られたらと家老の石川数正(松重 豊さん)や酒井忠次(大森南朋さん)も頭を抱えていました。家康が重臣一同を集めて問いただすと、長老の鳥居忠吉(イッセー尾形さん)が自分が食べたと言いだし、家康は忠吉を手討ちにしようと構えました。そして忠吉も、誰かが責めを負わねばならぬなら、この老いぼれが責めを負うと言って家康の前に座りました。しかし家康は、結局は忠吉に刀を振り下ろすことはできませんでした。「大事な家臣を、鯉と引き換えにできぬ。」ーー刀を置いて、そう言って家康も座りこんでしまいました。忠次と数正が信長にどう対応するのか尋ねたら家康は「正直に言う。もし逆鱗に触れたら、そんな相手はこっちから縁組は願い下げだ。」と言い切りました。そして「鯉はしょせん鯉。食うて何が悪い。」と言い、その言葉に安堵した皆はすでに“お造り”となった鯉を運んできて、皆で笑っていました。呆然とする家康と、「信長の鯉にまでへつらっていられるか!」と口々に本音を言い、早く鯉を食べようと笑っている家臣たち。主君・家康を担いで戯れたことを夏目広次(甲本雅裕さん)は詫びて許しを乞い、信長は多忙で岡崎には来ないとわかったら家康は急にホッとして力が抜け、その姿を見て家臣たちはまた大笑いしました。「主君を一同でからかうとは、なんという家臣どもじゃ!」ーー家康がそう怒ると、「それが殿と家中のよいところ。」「殿は手討ちにしないと信じておりました。」「皆ようわかっている。殿というお人を。そのお心を。」と口々に言いました。そして忠次が膝をついて座り、姿勢を正してあらためて「殿、まことにありがとうございました。」と礼を言うと、皆も次々と家康の前に進み出て座って姿勢を正し、「ありがとうございました。」と礼を言いました。「何もかも殿のおかげ。」「いつまでもお支えします。」「わしらはずっと殿と一緒じゃ。」「どこまでもついていきますぞ。」自分を囲んで皆が次々と言ってくれる心からの言葉に家康の目からは涙があふれ、「こちらこそじゃ。」と言って家康もゆっくりと座り、そして「心より感謝申し上げる。」と言い、家臣の皆に両手をついて、頭を下げて礼を述べました。家康は床から起き上がり、両手をついて頭を下げて礼を言う姿でいました。夢の中か幻か、若き日の家康は家臣の皆に「わしは幸せ者じゃな。ハッハッハッハッ・・。」と言って泣き笑いしていました。そして温かい気持ちになり、和らいだ表情で深くうなだれ、座ったまま永眠していきました。(享年73)天に昇る家康の魂が真っ先に思い浮かべたのは、信康の祝言の日に家臣の皆で祝って踊った「えびすくい」だったのでしょうか。世はまだ乱世で平らかじゃないけど、若殿の祝言のこの日だけはと、岡崎城では楽しそうに歌って踊る皆の声がこだまします。その光景を妻の瀬名と共に幸せそうに眺め、そしていつか、戦無き泰平の世が来ると信じる若き家康がそこにいました。秀吉の命で江戸に入り、そこで徳川の皆が一丸となって開拓して、家康が将軍となって幕府を開いた江戸は、やがて現代の東京の姿になっていくのでした。(完)
December 28, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。時間は豊臣家が滅亡へと向かう1615年の大坂夏の陣へと流れていきました。松本 潤さん演じる徳川家康をはじめ、ドラマに登場する人物の描き方は、本当にいろいろとあるのだなと感じます。このドラマでは、徳川と戦うことを決めたのはほかならぬ豊臣秀頼(作間龍斗さん)で、 “乱世が生み出した最後の化物” と位置付けられ、それは秀頼が幼い頃から母の茶々(北川景子さん)が自分の理想を思い描きながら繰り返しつぶやいてきたであろう言葉によって植え付けられていた意識が作り出したもの、と描かれました。そして秀頼の決意は、真田信繁(日向 亘さん)をはじめとした戦に再び己の夢をかける乱世の生き残りの武将たちの心に火をつけ、大坂夏の陣へと向かっていきます。自分の老い先が長くないと感じている家康が、「この戦で乱世の亡霊たちを根こそぎ連れていく」という解釈は、私にとって初めて出会った考えかもしれません。徳川家康の生涯の中で最後のメインとなる場面を、脚本の古沢良太さんはとても興味深い描き方をしてくれていると感じています。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら慶長19年(1614)12月、大坂冬の陣において徳川と豊臣は和議を結ぶこととなり、徳川家康(松本 潤さん)は側室の阿茶(松本若菜さん)を徳川方の全権代表にして、「二度と大坂を戦えなくするように。」と和睦交渉を命じました。一方、豊臣秀頼は和睦の全権代表を母・茶々の妹で叔母の初(常高院)に頼みました。秀頼の側近の大野治長は「豊臣の所領安堵、秀頼と茶々は江戸に出さぬ、牢人たちに所領を与える。」この3つを豊臣方の条件として徳川に約束させるよう伝えました。難題と言ってもよい3つの条件を頼まれた初(鈴木 杏さん)は、茶々の乳母である大蔵卿局(大竹しのぶさん)とともに和睦交渉の場に臨みました。阿茶は徳川としては、所領安堵と秀頼と茶々は江戸に出さぬことは認められるけど、牢人たちに所領を与えるのは到底無理、罪に問わず召し放ちを認めるのが精一杯で、それは堀をすべて埋め立てて本丸以外を破却するならば、と伝えました。そう聞いた初は、ならば堀の埋め立てと建物の破却は豊臣が行うと返し、のんびりそうに見える初の交渉のしたたかさに、阿茶も敵ながらあっぱれと感じていました。阿茶の報告を聞いた本多正信は、大坂城の防御機能(堀、櫓、真田丸など)がなくなれば、もう豊臣方は戦えないだろうと考えていました。年が明けて慶長20年(1615)、本多正純(井上祐貴さん)の指揮のもと大坂城の堀の埋め立てが始まり、正純は外堀だけでなく内堀も埋めさせていました。それを見て、内堀を埋めるのは豊臣方の約束のはずと明石全登(小島久人さん)が刀を抜き、あわや斬り合いという事態に。それを大野治長(玉山鉄二さん)が止め、堀は後で掘り返せばよい、徳川が卑怯なことをすれば豊臣方の味方が増える、諸国の同志が集まってくる!と強気に仲間を鼓舞し、正純は治長の言葉に警戒心を抱きました。徳川と豊臣の間で緊張状態が続く中で、寧々(和久井映見さん)はこの先のことをどう考えているのか、茶々(北川景子さん)と話し合いました。寧々は、和議が相成ったのだから豊臣はあらがう意思がないことを徳川に示すべき、牢人たちは召し放ったほうがいいと茶々に意見しつつも、豊臣の跡を継ぐ秀頼を 見事な将に育ててくれたと礼を言いました。しかし、今の豊臣は徳川に代わって天下を治めることはできない、また乱世に戻ると寧々は茶々に説き、そして「野心を捨てれば豊臣は生き残れる、秀頼を、豊臣を守ってほしい。」と茶々に手をついて懇願しました。しかし茶々は、自分は野心ではなく世のため、この国の行く末のためにやっていると考えを変えませんでした。徳川と豊臣は一触即発状態が続き、初は双方の間を取り持とうと家康のいる駿府城を訪れましたが、はじめに対応したのは阿茶でした。しばらくすると家康が江戸から呼び寄せた江(2代将軍・徳川秀忠の正室、初の妹;マイコさん)が駿府に到着し、姉妹は再開をともに喜んでいました。一方、家康のもとには大坂の動静が続々と伝えられていて、牢人たちは以前よりもさらに増え兵糧も集められているとのことでした。「戦を飯の糧ではなく、ただひたすら戦うことを求める者がやっかい。乱世が生み出した化け物が滅ばぬ限り戦はなくならない。」ーー家康がそう語っていると都より急ぎの報が入り、牢人たちが都で放火して多数の死者が出たとのことでした。家康は初に会い、これは和議を反故にしたとみなす、我が軍勢で豊臣を攻め滅ぼす、それを避けたいなら、直ちに牢人どもを召し放ち、秀頼は大坂を出て一大名となり我が配下になるように、これが最後の通達、と伝えました。慶長20年(1615)4月、家康は大軍勢を率いて京に入りました。家康は二条城で寧々と会い、戦を避けるためにと力添えを頼みました。寧々は、茶々に伝えるべきことは伝えた、茶々は再び戦うことが何を意味するかわかっている、自分はともかく秀頼は死なせたくないはず、でも茶々の中の何かがそれを許さなくて天下を取り返すことをあきらめようとしない、と語りました。そして寧々は「自分は茶々の気持ちには考えが及ばない。自分の役目は終わった。秀吉と二人で何もない所から作り上げた豊臣家は夢のような楽しい日々だった。」ーーそう語って、家康に深く頭を下げて退室していきました。駿府まで来ていた江は、姉の茶々を説得するために、初とともに家康に同行して京まで来ていました。寧々が退室した後で江は、話すべきかどうかずっと迷っていたと前置きして、姉・茶々のこれまでの出来事を家康に語りました。茶々は伯父・織田信長が討たれたときは家康の無事を一心に祈っていたけど、越前北ノ庄城の戦いに家康が助けに来なかったことで落城して母・市は自害し、それを逆恨みしていると。でも母がよく言っていた憧れの君のことが茶々の頭にあり、我が子の秀頼を自分の理想像の憧れの君に育て上げたと、初も言葉を添えました。思いが暴走していく茶々を止めるべく家康は筆をとり、思いのたけをこめて茶々に文をしたため、それを江に託しました。初と江は大坂城に入り、まず最後通牒となる徳川からの条件を伝えました。秀頼は承知し、熟慮のうえ追って返答すると答えました。そして江が家康から預かってきた文を茶々に渡し、茶々はその場では文は読まずに懐に入れ、江には娘の千(原菜乃華さん)と話すことを許しました。江は千に、自分が選んだ櫛と、家康からの格別なる贈り物のぺんすうを渡しました。しかし千は、自分は豊臣の妻だと言ってそれを受け取ることなく母に返し、家康にぺんすうを返すよう伝えました。「お達者で。」ーー千は母・江に別れを告げて、義母の茶々の傍に座を変えました。一人になった茶々は家康からの文を読んでいました。「あなた(茶々)を乱世に引きずり込んだのは私(家康)。でも乱世を生きるのは我らの代だけで十分。私とあなたで全てを終わらせましょう。私は命尽きる前に、乱世の生き残りを根こそぎ引き連れて滅ぶ覚悟。されど秀頼はこれからの世に残すべき人。いかなる形であろうと生き延びさせることこそが母の役目。かつて母君(市)があなたにしたように。」家康からの文を読んだ後、茶々は秀頼の成長を記した柱を見に行き、柱の傷を見て再び心が揺れ動くのでした。茶々は徳川とどう向き合うのか、秀頼にきめさせることにしました。秀頼の決定には、母・茶々はもちろんのこと、正室・千も家臣一同も秀頼に従うと覚悟を示しました。そして秀頼自身は徳川と戦うことを決意。中庭に出て豊臣方の武将たちを前にして「自分は戦場でこの命を燃やし尽くしたい。皆の者、天下人はこの秀頼であることこそが世の為、この国の行く末の為。自分は信長と秀吉の血を引く者。正々堂々、皆々と共に戦い徳川を倒してみせる。決して皆を見捨てぬ。共に乱世の夢を見ようぞ!」と鼓舞しました。秀頼の力強い宣言に誰もが歓喜して奮いたち、秀頼のために戦うことを誓いました。茶々は揺るぎない決断をした息子・秀頼を褒めて支持し、家康からの文を燃やし、徳川と豊臣の間を取り持っていた初は、もう戦いは避けられないことを悟りました。徳川との決戦に舵を切った豊臣は、大野修理らがまず大和郡山の城を攻めて落とし、その報はすぐに家康に届けられました。徳川秀忠(森崎ウィンさん)は「これが秀頼の返答か。」ととらえ、本多正信(松山ケンイチさん)は「どうやら豊臣秀頼こそ、乱世が生み出した最後の化物」とつぶやきました。「乱世の亡霊よ、さらば。」ーー写経していた家康も決戦の覚悟を決めました、
December 24, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。松本 潤さん演じる徳川家康の生涯を描いた最終章。大坂の陣(1614-15)が始まりました。この回の33分30秒あたりから真田丸への攻撃が始まり、その次は大筒による大坂城への絶え間ない砲撃が続いて、迫力のある描写で私は画面から目が離せませんでした。真田丸での攻防は、2016年の『真田丸』を視聴していた方には、あのときのことを思い出しつつより興味深いものだったと想像しています。特に2年前のNHKの『歴史探偵』の11月17日放送の「大坂の陣 幻の大洪水」を見ていた方は、今回の真田丸全景のCGで、大坂城の周辺が水浸しになっていたことに気がついたかもしれませんね。ちなみに今日の夜10時から、この『歴史探偵』の番組で真田丸について放送されます。この番組はたいてい次週、夕方前に再放送もあります。見逃した方はお住まいの地域の番組表をチェックしてはいかがでしょう。そしてこの回、なにより感動だったのが家康の言葉ーー「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ行く。それが最後の役目。」ーーでした。若い頃は全く頼りない弱小国・徳川家の殿だった家康が、幾たびの戦乱を経て、乱世を終わらせるためという信長や秀吉の信念を理解し、自分が業を背負ってあの世へ行く覚悟をして非情な決断を下せるまでの人物になりました。その一方で「南無阿弥陀仏」の文字を繰り返し繰り返し写経する家康の胸中はどのようなものだったのか。このドラマでの家康の人物像がわかるまで、最終回までかかりそうです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長19年(1614)夏、大坂の豊臣秀頼が寄進をして再建された京の方広寺にある梵鐘に刻まれた銘文の内容が徳川にとって忌々しきものであると本多正純から報告を受けた徳川家康(松本 潤さん)は、金地院崇伝(田山涼成さん)と林羅山(笑い飯哲夫さん)に意見を求めました。羅山は、この銘文は明らかに徳川を呪詛して豊臣の世を望むものだと考え、崇伝は、それは言いがかりで銘文に他意はないと豊臣は言うであろうと考えていました。本多正信(松山ケンイチさん)は、他意あるなしのどちらにしてもこれを見逃せば徳川の権威が失墜して豊臣が力を増し、かといって処罰すれば徳川が言いがかりをつけたと世を敵に回す、と考えていました。正信は家康に、もう腹をくくるしかないと進言し、家康も同じ考えでした。一方、大坂では大野治長(玉山鉄二さん)が、梵鐘のことで徳川方が騒ぎ始める頃だと考えていて、戦を想定していました。豊臣秀頼(作間龍斗さん)の元には徳川に恨みを持ち、戦で手柄を立ててもう一度世に出たいと願う牢人たちが集結していました。今や徳川と豊臣をつなぐ唯一の存在の片桐且元は、梵鐘の件で徳川方から出された「秀頼の国替え、秀頼の江戸への参勤、茶々を人質として江戸へ」の3つの条件のどれかを受け入れるよう伝えるも、戦力が集まって強気の茶々(北川景子さん)は激怒して全て拒否して、着々と戦の準備を進めていました。豊臣の中では戦で家康を倒し徳川を潰すことですっかり盛り上がっていて、秀頼の妻・千姫(原菜乃華さん)は実家の徳川の祖父・家康や父・秀忠を思うと、とてもその場にはいられず、一人廊下に出て涙していました。千姫の様子が気になった織田常真(亡き織田信長の次男、信雄;浜野謙太さん)は、厠に行くと言って廊下に出て、その場を去ろうとする千姫に小声で語りました。「戦は避けましょう。あなたのおじい様には世話になった。わしの最も得意とする兵法は・・・和睦。」と笑いながら言い「大丈夫。わしと片桐でなんとかする。」と千姫を励まし、常真は去ろうとしました。ところが片桐の名を聞いた千姫は慌てて常真をつかまえ、涙ながらに訴えました。「明日、片桐が大野治長に・・。」千姫の話を聞いた常真は急ぎ片桐に話を伝え、片桐は寸でのところでだまし討ちから逃れ、亡き信康(家康の長男)の妻で今は京で暮らす五徳の手助けもあって、片桐は大坂を出奔して常真とともに伏見に逃げました。本多正純(井上祐貴さん)と阿茶(松本若菜さん)からその報告を聞いた家康は、これでもう徳川と話し合いができる者が豊臣にはいなくなったと考えました。さらに豊臣の兵が10万に膨れ上がったことを聞き、家康はいよいよ大戦をするしかないと覚悟を決めたました。家康は、諸国の大名に大坂攻めの触れを出すよう、そしてウイリアム・アダムス改め三浦按針に用意させていた西洋式の大筒も用意するよう、正純に命じました。家康は「この戦は徳川が汚名を着る戦となる。」とも覚悟していました。一方、大坂では、関ケ原の戦い以降に牢人となって家康に恨みを持つ者たちが我こそが家康を討ち取ると意気込んで集まり、秀頼はその者たちの苦労に思いを馳せ、ここに集ったことに礼を言いました。そして茶々は皆に「我が豊臣の子らよ」と呼びかけ、家康を卑しき盗人で非道の絶対悪であると言い、正しき天下の主は秀頼と皆の胸に刻み、今こそ家康を討ち取って天下を取り戻そうと強く呼びかけました。その後で茶々は千姫にも、豊臣の家妻として皆を鼓舞せよと命じ、従うしかない千姫は「豊臣のために励んでおくれ。」と言うのがやっとでした。慶長19年(1614)冬、徳川方は総勢30万の大軍勢でもって大坂城を包囲し、家康は大坂城の南1里ほどにある茶臼山に本陣を構えました。そして豊臣を出奔した片桐且元(川島潤哉さん)を徳川方に迎え、大坂の内部を知らせるよう求めていました。先の大戦の関ヶ原から14年の月日が流れ、家康と共に乱世をくぐり抜けてきた歴戦の武将たちはほとんどこの世にいなくて、渡辺守綱(木村 昴さん)は戦を知らない今の若い兵たちに心得を聞かせようとしていました。家康は守綱の若い頃の失態を話しつつも、盛綱のような兵が自分の宝だったから、その全てを若い兵に伝えてやれと命じて笑っていました。その後での軍議では現将軍の秀忠が主導しようとしていましたが、家康は指図は全て自分が出すからそれに従えと命じ、秀忠は仕方なく引き下がりました。家康は、この戦の責めは全て自分が負う覚悟でした。そして開戦となり、大坂城の周辺では徳川と豊臣の局地戦が繰り広げられ、その全てで数に勝る徳川方が勝利していました。しかし豊臣方はそれでも話し合いに応じることはなく、難攻不落の大坂城で籠城すれば心配ない、手柄をあげたい者の士気も高いと強気でした。さらに大坂城の南に真田信繁が築いた真田丸では、徳川方の兵をことごとく倒す目覚ましい戦果を上げ、大坂方はますます強気になっていました。今回使われた真田丸の全景です。2016年大河ドラマの『真田丸』を視聴していた方は、当時のCGを思い出しながら、つい見比べていたと想像します。あれから7年たち、豊臣方が防御のために淀川の堤を決壊させて大坂城の周辺を水浸しにしたことや、徳川方が真田丸に近づくために塹壕を掘り築山をつくっていたことなどが考慮されたCGです。豊臣方が話し合いにすら応じないのを見て、家康は戦を早く終わらせるためにも備前島(大坂城天守の北)に設置してある大筒を使うことを決めました。大筒で天守にいる秀頼を狙うーーその言葉に秀忠は、それでは傍にいる千姫に害が及ぶと反対しますが、家康は「戦が長引けば、より多くの者が死ぬ。これが僅かな犠牲で終わらせるすべ。」と、そして「主君たる者、身内を守るために多くの者を死なせてはならぬ。」と秀忠に言い聞かせました。家康の命令が下り、現場で指揮を執る本多正純が大坂城本丸に狙いを定めるように言い、砲台から一斉に砲弾が放たれました。大筒の攻撃を知った秀頼は女たちを天守へ逃がすよう命じました。弾が壁を突き破って飛んでくる中を茶々や千姫の他、女たちは悲鳴をあげながら逃げ、恐怖で動けなる者を茶々は叱咤して天守の上に向かいました。片桐且元も大坂城の中では恐らく天守に向かって皆が逃げているだろうと考えて正純に進言し、正純は天守への更なる砲撃を命じました。大坂城天守への容赦のない大筒の砲撃を見ていた徳川秀忠(森崎ウィンさん)は、父・家康に砲撃をやめるよう懇願、しかし家康は全く動じることなくその様子を見ているので、たまらず父に掴みかかって砲撃をやめるよう叫びました。あの城の中に娘の千姫がいると思い涙する秀忠に、乱世を生き抜いてきた家康は無表情まま「これが戦じゃ。この世で最も愚かで醜い、人の所業じゃ。」と。しかし、そう言いながら家康もまた涙を流していました。茶々と千姫と女たちは大坂城の天守の上階を目指して逃げていましたが、砲弾の攻撃が続く天守は次々と破壊されていきました。茶々がふと頭上から土が落ちてくるのに気がついて上を見ると、天井が崩れる寸前になっていて、その下には恐怖で身動きできなくなった千姫がいました。千姫は秀頼の嫁ではあるけど、初も含めた3姉妹で一緒に乱世を生き抜いてきた妹のお江の子であり、茶々には血のつながった姪でもあるからでしょうか。とっさに千姫をかばって崩れ落ちる天井の下敷きになってしまいました。
December 6, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、関ケ原の戦い(1600)から10年以上がたち、齢70を超える徳川家康(松本 潤さん)にとって、生涯最後の大仕事となる大坂の陣(1614--1615)に向けて、事態が動き出す回でした。二条城での家康と豊臣秀頼(作間龍斗さん)との会見は、これまで私が見た戦国ドラマでは比較的美しく描かれていたように記憶しています。でもこのドラマでは、どちらが上段下段となるかで家康と秀頼で攻防となり、家康が上段になってはいけないという、これまでにない解釈でした。そして徳川と豊臣との政権争いを、家康は戦にならぬよう穏やかにまとめたいと願うのに、茶々(北川景子さん)は「織田と豊臣の血をひく我が子・秀頼が、力で奪い取ってこその天下」と息巻きます。でもね、戦になれば侍たちは戦って勝っても負けても納得でしょうが、巻き込まれて難儀するのは民たちなのです。茶々はその視点がすっぽり抜け落ちていると思いました。父・浅井長政を小谷城で、母・市を越前北ノ庄城で、共に落城で失っていて、妹たちとは違って物心ついた歳だったから戦とはどういうものかを見てきたと思ったのですが、小谷や北ノ庄では民たちの姿を見ることがなかったのか。あるいは我が子・秀頼を天下人にという執念しかなかったのかな、とも思っていました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長16年(1611)大坂では豊臣秀頼が元服して18歳になり、秀頼の母・茶々は「豊臣の代わりに政をしている徳川が、いつ政権を豊臣に返すのか。返さないなら戦も辞さない。」と考えていました。その頃、大御所となって駿府で過ごす徳川家康(松本 潤さん)の元に第2代将軍の徳川秀忠(森崎ウィンさん)が来て、大坂への対応を相談していました。本多正信(松山ケンイチさん)の報告によれば大坂では、牢人を養い武具や兵糧も集めて戦に備えていて、世間でも豊臣と徳川が戦になると噂になっているとのこと。秀頼の側近の本多正純(井上祐貴さん)は3月に秀頼を京の伏見城に来させ、家康への臣下の礼をとらせる、もし従わなければ力で、と進言しました。しかし家康は、上方では今でも太閤・秀吉が人々に人気だからその遺児の秀頼には下手なことができないと考えていました。そこで本多正信は、秀頼を二条城に来させ、あえて秀頼を上段に座らせ「徳川は武家、豊臣は公家」とし、公家だから城や武力は不要とすればよいと進言。家康はそのために北政所の寧々(和久井映見さん)に大坂方との仲介を頼みました。しかし案の定、寧々の話を聞いた茶々(北川景子さん)は不快感を露わにし、嫁の千姫(原菜乃華さん)は身の置きどころがなくなっていました。豊臣秀頼(作間龍斗さん)は千姫を優しくかばい、寧々も「今、天下を治めているのは徳川。豊臣は徳川の庇護の下にあることを忘れてはいけない。」と茶々たちをたしなめました。また加藤清正(淵上泰史さん)は、ここで出ないと心が弱い君と思われる、自分が命に代えても秀頼を守ると進言し、それを聞いて秀頼も納得。茶々は「そろそろ秀頼を世に披露する時」と考え、二条城に行くことにしました。慶長16年(1611)3月28日、いよいよ二条城での家康と秀頼の会見の日が来て、民の前に姿を現した秀頼は徳川方の想像以上の人気ぶりでした。秀頼が二条城に到着し、家康が玄関の車寄せで秀頼を下座して出迎えると、秀頼は笑顔で家康に近寄り初対面の挨拶をしました。その後もどちらが先に進むかなど小さなことでも互いに相手を立て合い、言葉遣い一つでも気を付け、双方の家臣たちも緊張の中にいました。結局この時は、家康が案内するという形で秀頼より先に進みました。奥の書院に入るとそこには寧々がいて、秀頼に上段に座るよう促しました。秀頼は辞退するけど家康も、豊臣は高貴な家柄で徳川は武家の棟梁だから及ばない、それがしきたりと秀頼に上段を促します。どちらも上段に上がらず、埒があかないと見た寧々は、ならば二人で上段へと促し、家康が動かないのを見ると秀頼は家康の手を取り、共に横並びにと促しました。そう聞いて家臣たちは敷物を上段に移動させ二つの座を用意したのですが、家康がそこに座るやいなや秀頼は下段に下がり、敷物のない場で家康に対しうやうやしく挨拶が遅れた詫びを言って頭を下げ、さらに秀頼は「武家として共に手を携えて」と言い、自分たちは公家ではないと家康に念押ししました。この若さでこれだけの機転が利く秀頼を、家康は警戒せざるを得ませんでした。二条城でのやり取りは上方の人々には「家康が秀頼をひざまずかせた」と伝わり、「天下の主は秀頼様!」「徳川を断じて許すな!」と怒りの声になり、大坂には前にも増して牢人たちが集まるようになっていました。阿茶(松本若菜さん)が秀頼をどういう人物と見たかと家康に訊ねると家康は、「(見た目は)涼やかで様子のいい(中身は)秀吉。」と答えました。(秀頼にはさらに、幼少の頃から母・茶々に吹き込まれた「家康を信じるな」という怨念で、大らかで素直な秀忠とは対照的な人物になっていると思います。)慶長17年(1612)、12年前に日本に漂着してから家康の庇護を受けているウイリアム・アダムスは三浦按針(村雨辰剛さん)と名を変え、領地も与えられ苗字帯刀を許されて家康の直参として仕えていました。按針が置時計の修理を終えた後、自分をここに呼んだ他の理由を家康に訊ねると家康は、西洋式の大筒を用意するよう按針に命じました。あれは恐ろしい道具だと快諾できない按針に家康は「大筒は戦を防ぐためのもの。大いなる力を見せつければ敵は攻めてこなくなる。」と目的を伝え、「よろしく頼む」と按針に念を押していきました。家康は置時計を見つめながら、戦に明け暮れた昔のことを思い出していました。そこに今川氏真(溝端淳平さん)が訪ねてきたので家康は少し昔語りをし、そして今は氏真が奥方と悠々自適に暮らしているのを思い、家康は羨ましくなりました。戦無き世をつくるために今もまだ苦悩を続ける家康を思い、氏真は「戦が無くなり王道で治世をする時代をつくるまで、あと少し。」と家康を励ましました。しかし家康は、いずれ起こるであろう大坂との戦を思って、自分の生涯は死ぬまで戦が続くのだと涙ながらに氏真に思いを伝えました。そんな家康を氏真は抱き寄せ「弟よ、弱音を吐きたいときはこの“兄”が全て聞いてやる。そのために来た。お主に助けられた命もあることを忘れるな。本当のお主に戻れる日もきっと来る。」と家康の苦悩を受け止め、そして励ましました。家康との二条城での会見以降、秀頼は豊臣の威光を復活させる事業を進めていて、その一つに京の方広寺の大仏の再建がありました。慶長19年(1614)に大仏の開眼供養が予定され、それを取り仕切る片桐且元(川島潤哉さん)は徳川を含めた諸国の大名や公家、そして商人に至るまで式に招くと秀頼に報告し、秀頼もそれを了承しました。大野治長(玉山鉄二さん)は秀頼を、これからますます輝きを増していく旭日の若君と呼び、そして家康を齢70を超える老木と例え、この先は“時”が否応なく勝負をつけるだろうと茶々に話していました。父・家康の老いは、2代将軍となった秀忠には大きな問題でした。世間では家康の亡き後は秀頼が天下人になるという意味の歌が流行り、歌の中に秀忠の存在はなく、秀忠は父の力があるうちに京大仏の開眼供養をどうにかしてほしいと考え、父亡き後の秀頼との戦いを恐れていました。そんな秀忠に家康は「自分の才を、弱いところと、その弱さを素直に認められるところをよく受け継いでいる。」と思いを語り始めました。「かつて自分も今のそなたと同じだった。でも戦乱の中でその弱さを捨てざるを得なかった。わしはそなたがまぶしい。」と。そして秀忠の傍に行き、静かに、でも言葉に力をこめて「戦を求める者たちに天下を渡すな。」と言い、王道と覇道とはと問いました。その問いに自信をもって見事に答える秀忠を見て家康は「そなたこそがそれを成す者と信じている。わしの志を受け継いでくれ。」と思いを伝えました。大坂城で日々鍛錬に励む若き秀頼の成長は目覚ましく、学問も武術も教養も、家臣たちがかなわないと思うほどでした。大野治長はその有り様は今は亡き乱世の名将たちを思い起こさせると言い、そう聞いた茶々は「家康を倒してこその天下」と悔しがりました。そこに片桐且元が京大仏と共に披露する梵鐘に刻む銘文の案を持ってきました。銘文の案に目を通す茶々はある部分に目が留まり、「面白い。」とつぶやいたかと思うと、何かを思い描いているようでした。梵鐘に刻まれた銘文の内容はやがて、本多正純から家康に知らされました。『国家安康 君臣豊楽』ーーその字は、家康の諱を2つに切り分け、さらに豊臣こそが君であるという意味を密かに込めている、というものでした。江戸から高僧の金地院崇伝(田山涼成さん)と儒学者の林羅山(笑い飯哲夫さん)を伴って秀忠が駿府に駆けつけ、家康は二人に意見を求めました。そして本多正信は豊臣との大戦はもう避けられないだろうと進言、家康も秀忠も家臣たちも覚悟を決めざるを得ませんでした。
November 29, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。このドラマもいよいよ、徳川家康(松本 潤さん)が天下泰平の前の総仕上げとなる、ラストの大坂の陣に向けて動き出しました。しかしその前に、徳川四天王として家康が若い頃から常に傍にいて支え続けてきた本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)も、井伊直政に続いて家康より先にあの世に旅立ってしまいます。忠勝と康政は、今風に言えば、少年期から青春時代をずっと共にしてきた、おそらく互いに相手が何を考えているのかもわかるような、まさに親友です。その二人が、ラストで互いに心を確かめ合うような勝負をしていたシーンは、槍の柄がカン、カン、ガシッとぶつかる音と共に、感動の場面でした。史実だからしょうがないけと、この二人は大坂の陣でも登場して、老いてもなお存在感を見せてほしかったなあ。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの後に徳川家康(松本 潤さん)は大坂城に入り、豊臣秀頼(重松理仁くん)と茶々(北川景子さん)に戦勝の報告をしました。茶々は秀頼に家康を父と思えと言い、家康は天下の政を引き続き自分が行うと伝え、その言葉を茶々は「秀頼が成人したら政権は秀頼に返ってくる」と解釈して、納得していたようでした。また茶々は、家康の孫娘で徳川秀忠(森崎ウィンさん)の長女である千姫を秀頼に嫁がせることを確認し、豊臣と徳川の結びつきを念押ししていました。しかし家康たちが退室すると茶々はすぐに秀頼に「家康を決して信じるな。」と言い含め、また家康も茶々のあの言葉は「早く千姫を人質によこせということだ。」と物事の読みの浅い秀忠に教えていました。関ヶ原の後の大名の配置をどうしようかと悩む家康に、本多正信は「いっそのこと将軍になってはどうか」と進言しました。征夷大将軍となって幕府を開けばやれることが随分と増える、という正信の考えに家康は賛同し、正信は早速そのための手立てを講ずじに動き出しました。慶長7年(1602)家康の生母・於大の方(松嶋菜々子さん)は上洛し、北政所の寧々(和久井映見さん)と伏見城で会って話に花を咲かせていました。後で家康と二人きりになったとき於大は、家康が点ててくれた薬湯を飲みながら、これまで自分が家康に「国のために全てを打ち捨てよ」と言ってきたがそれが正しかったかどうかわからない、と思いを語りました。そして家康に「そなたの大事なものを大切に。独りぼっちにならぬように。」と今の思いを伝え、家康はそれを背中で聞いていました。その3か月後、家康に看取られながら於大はこの世を去りました。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に徳川幕府を開きました。そして新しい世を築くために戦以外の才に秀でたる者を抜擢していきました。3年前に日本に漂着したウイリアム・アダムス(村雨辰剛さん)は西洋の造船の技術で家康のために大型船をつくり、他にも泰平の世を築くために必要な、若く知恵の優れた者たちが家康のもとに集まっていました。しかしその一方で、本多忠勝(山田裕貴さん)や榊原康政(杉野遥亮さん)など、若い頃から家康の傍で仕えて戦働きをして徳川を守ってきた老臣たちは、戦のない世で平穏に暮らしつつも、自分の存在意義を考えていました。忠勝は桑名(現在の三重県)に移って西の豊臣恩顧の大名たちににらみを利かすことが自分の役割としていました。しかし康政は、もう自分たちの働ける世ではない、殿・家康のもとには新たな世を継ぐ若く知恵の優れた者たちが集まってきているという現実のほうが大きく、自分は秀忠に指南するのが自分の最後の役目だと康政は考えていました。「戦に生きた年寄は早く身を引くべきだ。」ーー康政の言いたいことを忠勝も自分も同じとよくわかっていました。家康が江戸城で町づくりのことで忙しく働いていると、孫の千姫(金子莉彩ちゃん)が駆け寄ってきました。千姫は家康に、間もなく大坂の秀頼のもとに嫁ぐけど、豊臣の家が恐いから大坂には行きたくないと訴えます。母の江(マイコさん)は娘の千姫に、上の姉の茶々の恐さは否定しないけど、もう一人の姉・初というとても優しい人が傍にいると千姫に説明しました。そして家康も「姫はこの家康の孫。徳川の姫であることを片時も忘れるな。」と優しく言いきかせ、さらに「何かあればこのじいがいつでも駆けつける。」と千姫と約束しました。(実家の後ろ盾が大きいというのは心強いですね。家康は弱小国に生まれて幼少期から十代終わりまで人質生活を送ってきました。だから余計に可愛い孫姫の強力なバックとなってやろうという思いもあることでしょう。)家康は一方では、秀忠が頼りないままのことをもどかしく思っていました。関ケ原の戦いから4年たっても、あの折に遅参したこと、多くの兵を落伍させて自分たちだけ先に来たこと、側近の助言に従ったと言い訳することなど、秀忠の物事の考え方に苛立って、皆の前で厳しく叱っていました。それを見ていた康政は「生涯最後の諫言」と言い、家康の秀忠への態度は理不尽である、家康だって若き頃も頼りなかった、と訴えました。そう聞いて家康は「自分の若い頃は酒井忠次や石川数正、忠勝や康政らがいて、皆が自分をこっぴどく叱り続けた。今、秀忠を誰が叱ってくれるか。自分は耐え難い苦しみを何度もあじわったが、秀忠はそれがない。」と言いました。康政は苦しみを知らぬのは本人のせいではないと言い、忠勝も秀忠がこれから時をかけてさまざまなことを更に学べば、と言うとーー家康は「それでは間に合わん。関ヶ原はまだ終わっていない。」と言いました。関ケ原の戦いは豊臣家中の仲違いによるもの、しかし今、秀頼の成長と共に再び一つに集まっている、もっと難儀なのは関ヶ原の後に牢人となった者たちが戦を望んでいるから秀頼が成人したら大戦になるかもしれない、と考えを述べました。そして二人に、隠居など認めない、まだお前たちの力がいると。家康の考えを理解した二人は「手の焼ける主だ。」「いつになったら主君と認められるのか。」とつぶやき、再び心が通い合った3人は笑い合いました。後日、家康は秀忠を呼び、関ヶ原のことを再度問いました。秀忠はもうこう言わなければ終わらないとばかりに、自分のせいだと答えました。家康は秀忠に「自分たち上に立つ者は、いかに理不尽でも結果において責めを負うこと。上手くいったときは家臣を讃え、しくじったときは己が全ての責めを負え。それこそが自分たちの役目。」と心得を伝えました。秀忠がまずは理解したようだと感じた家康は「征夷大将軍を1年のうちにそなたに引き継ぐ。用意いにかかれ。」と命じました。いつも自分を厳しく叱る父・家康の言葉がにわかには信じられない秀忠でした。しかし腹違いの兄・結城秀康(岐洲 匠さん)はすぐに弟を「秀忠様」と呼び、礼をとって祝意を伝えました。秀忠はなぜ父が自分を次期将軍に選んだのか、全く理解できませんでした。でも本多正信(松山ケンイチさん)から、才があるからこそ秀康を選ばなかったと言われ、さらに「その点、貴方様は全てが人並み。人並みの者が受け継いでいけるお家は長続きする。」と納得できるようなできないような説明を受け「いうなれば偉大なる凡庸!」と妙な太鼓判を押されてしまいました。また康政からも、於愛の子だけあっておおらか、誰とでもうまく付き合うと言ってもらい、正信の「関ヶ原の遅参のおかげで誰からも恨みを買っていない。」という言葉で素直な秀忠はすっかり自信を取り戻し、ようやく笑顔になりました。しかし次期将軍を秀忠にするということは、家康は政権を豊臣には返さないということであり、さらに秀頼に挨拶をするよう求めたことで、茶々たち大坂方を激怒させました。さて、家康からまだまだ働くように言われた忠勝と康政ですが、康政は自分は病で先は長くないとわかっていました。そんな康政に忠勝は槍を渡して「自分は殿・家康を守って死ぬのが夢だから老いなど認めん!」と、さらに「見届けるまで死ぬな!」と言って互いに力限りの勝負をしました。互角の勝負をした後、共に家康を大樹寺のときから主君と認めていたのだと確認し合い、乱世を一緒に生き抜いてきた絆を感じていました。しかしその後、康政は慶長11年(1606)に、忠勝は慶長15年(1610)に、共に家康より先に天寿を迎えました。慶長16年(1611)、そのころ大坂では成人して19歳になり、品格も風貌も立派になった秀頼のもとに、豊臣恩顧の武将たちが集い、豊臣の天下を思い描いていました。大坂の動きを本多正信と阿茶(松本若菜さん)から報告を受けた家康は、徳川と豊臣の立場をはっきりさせる時がいよいよ来たのかと、大戦も想定して警戒感を強めていました。
November 23, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。関ケ原の戦い(1600)を描いたこの回では、今までの戦国ドラマで描かれた関ケ原とはどんな点が変わるのか、私はその部分に注目して見ていました。松本 潤さんが徳川家康を演じるこのドラマでは、開戦当初は石田三成(中村七之助さん)方の西軍がやや優勢のような感じで、でもそれが家康が仕掛けておいた調略によって、その後はジワジワと三成にとって想定外の展開になっていた感じでした。逆にこれは出なかったのかと思ったのが、井伊直政(板垣李光人さん)の娘婿殿。直政はやがて徳川第2代将軍となる秀忠の弟(お愛の次男)の忠吉に娘を嫁がせているし、忠吉は子役の時代に少し登場しているので、この関ケ原でも登場するかと思っていました。ちょっと残念。とはいえ、別のアングルで、石田三成が捕縛された後に家康に、天下取りのためにこの先も、きれいごとでは済まない、避けては通れない道を示した、というのが興味深いものでした。いろいろな人物の描き方があって、面白いですね。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長5年(1600)9月14日、徳川家康(松本 潤さん)は美濃の赤坂(現在の大垣市)に陣を構えて、大垣城にいる石田三成(中村七之助さん)の動向を見ていました。(大垣城と赤坂の直線距離は約4km)福島正則はすぐに大垣城を囲んで攻撃をと主張しますが、藤堂高虎は今いる兵では足らないと言い、内心では豊臣恩顧の武将たちに手柄を全部持っていかれては困る井伊直政は、徳川秀忠の本隊を待つのがいいと家康に進言しました。その秀忠は信濃の上田で真田によって足止めをくらってしまい、家康のいる赤坂に向けて急ぎ進軍しているところでした。ただ本軍が到着しないのは敵の三成方も同じである、しかし毛利が三成につけばこの戦は危ういと本多忠勝(山田裕貴さん)は考えました。家康は黒田長政(阿部進之助さん)に毛利調略の状況を尋ね、長政は既に内応を約束している吉川広家を通じて小早川秀秋と毛利輝元に調略を繰り返していると家康に答えました。家康は井伊直政(板垣李光人さん)に小早川に何枚も文を書くよう命じ、さらに各陣所に小早川は既に家康に内応していると言いふらすよう命じました。家康が流した噂は大垣城にいる三成方の西軍の諸将らに動揺を与えました。しかしそれでも三成は、毛利の軍が秀頼を頂いて戦場に来ると信じていました。家康は秀忠の到着を待たずに、そして大垣城を放って出陣すると決めました。家康は自分が関ケ原に向かえば三成たちが後を追ってきて、徳川が得意の野戦に持ち込めると計算、しかし直政は三成に後ろを塞がれて大坂から本軍が来て前を塞がれたら危ないと進言しました。それでも家康は三成が大軍勢を率いるのは容易ではないと考えていました。家康らが出陣した報が三成方の西軍にもたらされ、三成は先回りすべく関ケ原に向けて急ぎ進軍を開始しました。翌9月15日の早朝、家康ら東軍は関ケ原に着き、桃配山に陣を張りました。関ケ原では家康は周囲をぐるりと西軍に囲まれましたが不思議に落ち着いていて、長年自分と共に歩んできて、先に逝った者たちや今は遠くにいる者たちに思いを馳せ、その者たちの思いが今ここに集まっていると感じていました。やがて霧が晴れていよいよ決戦の出陣となり、直政はこの戦の先陣は絶対に徳川でなければならぬと考えていて、家康も直政に先陣を命じました。そして井伊直政勢がいきなり攻撃を仕掛け、井伊勢の抜け駆けに怒った福島正則や藤堂高虎らが一斉に動き出し、双方の大軍が入り乱れての戦いになりました。初めは地の利のある西軍が有利でしたが、三成は小早川が動かぬことに苛立っていて、その小早川は松尾山の上から双方の成り行きを眺めていました。三成の側近の嶋左近は、毛利家重臣の吉川広家(井上賢嗣さん)が家康の背後を突けば小早川も動くと考えていました。徳川勢も自分たちの背後に陣取る南宮山の毛利勢が攻撃してきたら危ないと考えていましたが、家康は毛利家は小早川秀秋も吉川広家らの家臣もまとめきれていないと読んでいて、調略の進展を待っていました。その吉川は南宮山の麓に陣取っていましたが、兵たちには飯をゆっくり食べるよう命じていて、長宗我部から出陣の矢の催促が来ても動く気配はありませんでした。吉川が動かないため、その奥にいる毛利秀元も動けなくなっていました。大坂城にいる毛利輝元は吉川や小早川が家康に内通していると知り、秀頼を頂いて出陣などとはうかつにできない状態でした。我が子・秀頼が出陣すれば西軍の士気が上がって家康に勝てると考える茶々(北川景子さん)は、大坂城にいる輝元が出陣しないことに苛立っていました。そこへ家康の側室の阿茶(松本若菜さん)が北政所・寧々の使いとして茶々の前に現れました。阿茶はこれは北政所も同じ考えとして茶々に、秀頼はこの戦には関わらないほうがよい、徳川の調略はかなり深く進んでいて間もなく勝負が決着するだろう、毛利が出陣しないのはその証、我が殿・家康は秀頼を守る、と伝えました。阿茶の言葉に茶々は激怒し、すぐに自分を抑えましたが、阿茶に二度と自分の前に現れぬよう言って退室させました。小早川と吉川が動いていないことを確認した家康は、桃配山を下りて前進し、今この時を逃さず一気に勝負をかけると決め、徳川軍2万の出陣を命じました。戦場の真ん中に出てきた家康を見て、三成は西軍の総掛かりを命じました。総大将・家康が戦場にいることで味方は士気が上がって西軍を押し、そして家康はもうこれで様子見をしている小早川秀秋(嘉島 陸さん)も動くと読んでいました。その狙いどおり秀秋は、一気に山を下りて大谷吉継の陣を襲撃するよう家臣に命じ、小早川勢のまさかの裏切りで大谷勢は壊滅し、吉継はその場で自害しました。東軍の勢いで西軍は総崩れとなり、兵たちは戦場から一斉に逃げ出しました。忠勝は家康に戦勝の祝いを述べ、家康も皆をねぎらいました。その時、西軍の島津勢が徳川勢に向かっていると報が入り、家康は島津がここから逃げるためだから放っておくようにと命じました。しかし井伊直政が徳川の目の前を通すまいと島津に向かっていって、井伊勢は再び戦闘状態になり、直政は銃弾を浴びて重傷を負いました。午後になり、開戦から半日もたたぬうちに東軍が勝利して西軍が敗れた報が毛利輝元(吹越 満さん)の元に届きました。あまりの予想外の展開に輝元は狼狽し、茶々と秀頼の前では声を大にして三成の非を訴えていましたが、茶々は輝元を許さず扇子で打ち据え退室を命じました。その後、毛利輝元は大坂退去で減封、宇喜多秀家は改易で配流に、上杉景勝は減封で移封に、真田昌幸は高野山配流から紀伊九度山に蟄居、小西行長は処刑と西軍諸将らの仕置きが決まり、嶋左近は行方知れずでした。島津を追って重傷を負って気絶した井伊直政は、徳川の陣に運ばれて家康から手当を受けていました。気が付いた直政は起き上がり、殿・家康の名を傷つけたくなかったと、そして改めて家康のほうを向いて喜びの笑顔で戦勝祝いを述べました。天下人となった家康を想像して「これから先が楽しみだ。」と直政は嬉しそうに語り、家康もそんな直政に優しい笑顔を向けていました。関ケ原の決戦から7日たった9月22日、戦場から敗走していた三成が捕まって、近江大津城で家康の前に引き出されていました。家康が三成に、戦無き世に出会えたなら互いに無二の友となれたはず、と語ると三成はそうではないと言い、自分は豊臣に忠誠を誓った、全ては豊臣のため、その志は微塵も揺らいでいないと家康に返しました。家康が、ならばなぜ死者が8千を超えるこのような無益な戦を引き起こしたのか、何がそなたを変えたのかと怒りを込めて問うと、三成は少し笑って「思い上がりも甚だしい!」と家康に強い口調で返しました。そして三成は「自分の中にも戦乱を求むる火種が確かにあった。それは誰の心にもある。この悲惨な戦を引き起こしたのは自分であり、あなただ。そしてその乱世を生き延びるあなたこそ、戦乱を求むる者!」と家康を見据えて言いました。「まやかしの夢を語るな!」ーー死を覚悟している三成の心の底の言葉を家康は受け止め、「それでも、やらねばならぬ。」と静かに告げて去っていきました。石田三成はその後、京の三条河原で処刑されました。
November 15, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。学校の歴史の教科書で徳川家康の名前が最初に出てくる 1600年 関ケ原の戦い がいよいよ近づいてきました。若い頃は何かあるたびにオロオロと「どうする?」状態だった徳川家康(松本 潤さん)も、この関ケ原の戦いでは60手前の歳です。人生経験をいっぱい積んで、すっかり老獪になりました。若い頃から命をかけて自分に仕えてくれてきた家臣たちが、一人、また一人と去っていき、この回では音尾琢真さんが演じる鳥居元忠が「ようやく自分の番だ。」と家康を支え守ってきた誇りを胸に、戦って旅立っていきました。元忠本人は納得して喜んでの討ち死にでしょうが、負ける(=死ぬ)とわかっていても徳川のためにそれを命じた殿・家康の胸中は、あの時代の武将たちはさぞや複雑な思いだっただろうと想像しています。そして知恵者といえば真田昌幸(佐藤浩市さん)です。2016年の『真田丸』を見ていた人なら、草刈正雄さんが演じた昌幸がどういうことをやってきたのかわかっているので、「乱世を泳ぐは愉快なもの」というセリフを聞いて思わずニヤリとしたでしょう。でも佐藤浩市さんのちょっとした表情の変化などの演技で、初めて真田昌幸という人物を知った人でも、セリフの意味をなんとなく感じたのではないかと思っています。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長5年(1600)6月18日、徳川家康は会津の上杉征伐のために伏見城を鳥居元忠に託して出立、そして約1カ月後の7月17日に石田三成が家康を逆賊として討つために大坂城で決起し、城に残る大名の妻子を人質として捕らえていました。また三成が家康を断罪する書状を諸国に送っていることなど、大坂の動きは下野の小山に布陣する家康の元に次々と知らされ、いったいどれだけの大名が徳川の味方となるのか、家康も側近たちも計りかねていました。大坂城に残る家康の側室の阿茶(松本若菜さん)も兵たちに囲まれていました。しかしそれは阿茶を城から逃がすために北政所の寧々(和久井映見さん)が送った兵たちで、寧々は家康の頼みをきいてくれていたのでした。家康は今は徳川の味方をしているものの福島・黒田・藤堂らの豊臣家臣と、そして真田昌幸(佐藤浩市さん)の動向が危ういと考えていました。家康に同行している福島らを懐柔する策を本多正信に任せ、家康は諸将たちを明朝集めるよう命じました。夜になり真田信幸が小山に到着、しかし父・昌幸と弟の真田信繁(日向 亘さん)は豊臣方について信濃・上田に引き返していったことを確認しました。信幸の城である上野の沼田城に着いた昌幸と信繁は開門を要求、しかし信幸の妻で本多忠勝の娘である稲(鳴海 唯さん)は昌幸の考えを見抜いて開門を拒否。昌幸は、せめて孫に会いたいと頼み、稲は柵越しに離れて会うことを認めました。子供たちの「じいじ!」と叫ぶ声を背中で聴いて、昌幸は去っていきました。7月25日、これからどうするのか小山にて評定が開かれました。徳川家康(松本 潤さん)は諸将らに、三成が挙兵したこと、これから上杉征伐をやめて大坂に向かうことを伝えつつも、豊臣恩顧の諸将らには妻子を人質にとられているからここから去ってもよいと、そして乱世に逆戻りさせないためにも自分は孤立無援となっても三成たちと戦うと力強く訴えました。諸将たちが迷いながらも家康の考えに従うべきだと気持ちが傾いてきたとき、本多正信(松山ケンイチさん)が福島正則(深水元基さん)をちらりと見て促しました。正則は立ち上がって皆に「内府殿と共に!」と家康に味方するよう力強く呼びかけ、諸将らもそれに応じて、秀頼のために家康の味方になる決意を固めました。ここにいる諸将らの気持ちが一つになったことを確認した家康は三男の徳川秀忠(森崎ウィンさん)に、本多正信と榊原康政(杉野遥亮さん)と3万の兵と共に信濃に向かって真田を従わせることを命じました。「取りかかれーっ!」ーー家康の号令の元、諸将らは自らの意思で動き出しました。しかし上方では、7月19日には鳥居元忠(音尾琢真さん)が守る伏見城が豊臣方の総攻撃を受け、元忠は奮戦すれど多勢に無勢で、城は落ちようとしていました。かつては武田の忍びだった千代(古川琴音さん)だけど元忠に大事にしてもらって女子の心を取り戻し、大将・元忠の奥方として共に果てる覚悟でした。元忠は「数えきれん仲間が先に逝った。ようやくわしの番がきた。」と家康を守るために散っていった者たちを思い、どこかうれしさを感じていました。主君・家康が力を持つまでの時代は皆まだ貧しくて、元忠や側近たちは藁の具足で戦いに出陣していて、でも今は立派な具足をつけて天下の伏見城を枕に討ち死にができる、こんな幸せなことはないと一同は満足気でした。「殿、お別れだわ。浄土で待っとるわ。」ーー8月1日、伏見城は落城しました。下野の小山からいったん江戸城に入っていた家康は、渡辺守綱(木村 昴さん)から伏見城が落ちたとの報告を受けました。盛綱は家康に、直ちに西に向かって元忠の仇を!と意見しますが、本多忠勝(山田裕貴さん)は「今は、誰がどちらに付き、どう動くかを見定めるとき。」と静かに言い、自分が先に出て井伊直政と落ち合い西に進むと申し出ました。そして家康には、全国の諸大名たちを味方につけるために1通でも多く書状を!と進言し、家康も伏見城で討ち死にした者たちを思い「腕が折れるまで書く。」と。忠勝は家康に一礼して、西に向かうために退室していきました。この戦はより多くの者を味方につけたほうが勝つーー家康だけでなく三成も同じことを考えていて、家康は江戸で、三成は美濃・大垣城で、双方は連日連夜書状を書いては諸大名に送り、数百通が日の本全土を飛び交いました。双方の書状を受け取った大名の中には、どちらに付くべきか悩む者もいましたが、豊臣方に参陣して伊勢に布陣している小早川秀秋のように、立場的には三成につくけど戦上手は徳川だから「どちらにも転べるようにしておけ。」と家臣に命じておく者もいました。徳川方の先陣を切っていた福島正則や黒田長政らは怒涛の勢いで西に進撃を続け、8月25日には犬山城と岐阜城を落としていました。その勢いは同行している井伊直政(板垣李光人さん)と本多忠勝が驚くばかりで、正則は自分の手柄を家康に伝えるよう直政に言い、戦勝祝いの酒でご機嫌でした。ただ豊臣恩顧の諸将たちの働きが凄まじすぎて、これでは三成との決戦が早まってしまうと直政と忠勝は危惧し、それは家康も同じ考えで、自分と秀忠の本軍なしで戦が終わってしまうと、手柄が全て持っていかれるという思いでした。とはいえこれは福島と黒田が徳川と共に戦うと世に知らしめたことであり、家康はこの時を逃すまいと徳川の出陣を決めました。家康は信濃にいる秀忠に、真田にはかまわず急ぎ西に向かうよう、9月9日までに美濃・赤坂に着くように伝えよ、と家臣に命じました。3万8千の秀忠の軍勢は真田昌幸と信繫に迫っていて、昌幸は降伏の使者を秀忠に送るよう家臣に命じました。真田・降伏の書状を受け取った秀忠は「これで父上に任された役目っが果たせた。」と気分良く笑っていましたが、本多正信と榊原康政は真田の降伏を疑っていました。正信は真田信幸(吉村界人さん)に、父・昌幸に直ちに城を明け渡してここに来るよう伝えるように言いました。しかし昌幸は、降伏を申し出たものの信繫と上田城にこもったまま出ることなく、秀忠は話が違うと苛立っていました。ただ百戦錬磨の正信と康政は真田親子のやり方を「敵味方に分かれてどちらかが生き残る。これも戦国の世を生きる術。」とわりきっていました。苛立つ秀忠に正信は「稲を刈ろう(相手の食糧を奪おう)」と進言、康政が「そうすれば相手は城から出てくる」と補足し、秀忠は稲刈りを命じました。予想通り、稲を守るために真田が城から出てきて、ここは信繁の勝ち。城に戻った信繫に昌幸は「これで(豊臣に対する)自分の役目も十分果たした。あとは家康と三成、どちらの才が上回るかだ。どちらにしても真田は生き残る。」としみじみと言いました。父の言葉に信繫は複雑な思いもしましたが、「乱世を泳ぐは愉快なものよ。」と知恵を巡らせて生き抜き真田を守ってきた昌幸らしい言葉を語りました。9月8日、家康の使者として大久保忠益(吉家章人さん)がボロボロの姿になって秀忠の陣に到着しました。書状には「決戦が早まるので、真田のことは捨て置き西へ急げ。美濃赤坂に9日までに。」とあり、それは明日のことでした。忠益は利根川で書状を奪われ昨夜やっと取り返せたと遅参した理由を涙ながらに伝え、責任をとって切腹しようとまでしました。正信はこれを真田の忍びの仕業と考え、康政が真田の狙いは我らをここに足止めするためと補足し、秀忠は激しく悔しがりました。美濃赤坂にいる家康は、秀忠の本軍がまだ到着していないと報を受けました。秀忠を足止めするのは三成の策で、これで家康は本軍なしでの戦いになり、自分たちが秀頼と毛利を本軍として迎えれば兵力の差は歴然ともくろんでいました。三成はさらに家康を、大垣ではなく関ケ原に誘い出して討つつもりでいて、ただ家康もそれを見抜いていて、その誘いに乗ってやろうと考えていました。「これは天下分け目の大戦じゃ。」ーー家康は三成との決戦を覚悟しました。
November 8, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、徳川家康(松本 潤さん)と石田三成(中村七之助さん)の対立が決定的なものになり、家康が会津征伐で大坂を出てから3カ月後に起こる"関ケ原の戦い"への序章となった回でした。対立といっても、三成が「我こそが正義!」の思考で、家康のことをどんどん悪い方に考えて、三成の頭の中で「自分が正しい」を強化していったように思えました。これは勤勉で生真面目なのは認めるけど、自分の流儀を通すことがなにより大事で、かつ度量が小さくて自分が認めないものは受け入れられない人・・なのでしょうか。家康は逆で、泣き虫で弱虫な大将だったけど度量は並み以上にあったと思うし、織田信長やさまざまな人に鍛えられ、我慢や妥協を学びながら、強運も手伝って大きく強い大将になっていきました。そして家臣団にも恵まれていました。家康を支え、時に命懸けの諫言をしてくれた石川数正や酒井忠次のような年長の忠臣がいて、同年代や若い忠臣がいて、わりと遠慮なく物が言える風通しのよい家風の中で、女も含めて家臣団の団結がありました。三成には彼を理解する大谷吉継という友や、嶋左近という忠臣はいたけど、他の大名や武将たちとは利害関係の結びつきだけだったように感じました。そして伏見城での鳥居元忠(音尾琢真さん)との、2人で酒を酌み交わすシーン。今生の別れを家康も元忠も互いに覚悟し、それを視聴者に感じさせるのに十分な、美しい西日の風景でした。来週の伏見城がどう描かれるのか、楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長4年(1599)9月、徳川家康(松本 潤さん)は大坂城の西の丸に入り、大坂で内府として政務をとることになりました。しかしこれを快く思わない浅野長政(濱津隆之さん)と土方雄久(水野智則さん)と大野治長(玉山鉄二さん)そして前田利長の4名が家康の暗殺を企ててそれが露見し、家康の仕置きを待っていました。家康は、長政は隠居のうえ蟄居、雄久と治長は流罪としました。(利長は生母のまつを江戸に人質として送る仕置きとしました)家康の側近の本多正信(松山ケンイチさん)は、他にも毛利・宇喜多・上杉など油断がならない者たちがいる、厳しく取り締まるしかないと進言しつつ、家康の苦労を理解してねぎらっていました。慶長5年(1600)、失脚した石田三成は隠居して佐和山城にいました。ある日、大谷吉継が佐和山を訪ねてきて大坂での出来事を三成に話していました。吉継は家康のことを、自分を慕う者はとこと可愛がって豊臣家中を掌握し、今や何もかも思いのまま政務を行っている、世間は天下殿と呼んでいると三成に報告、しかし三成は家康の力で天下が静謐ならばと冷静に受け止めていました。また吉継は大坂城の家康には、三成が穏やかに暮らしていると報告していました。春になり、家康は豊後の臼杵に漂着したイングランド人のウイリアム・アダムス(村雨辰剛さん)に会いました。アダムスに興味を持った家康は2代目・茶屋四郎次郎の清忠(中村勘九郎さん)を通訳とし、世界地図を広げてどこからどうやって来たのかとかを問いました。またアダムスは家康に、バテレンどもの話に耳を貸してはいけないと忠告し、自分たちはただ商いをするためだけにやって来たと訴えました。商いで皆が豊かになる世の中を願う茶屋はアダムスの話を聞いてつい興奮し、途中から自説を熱く語り始めました。でも家康も茶屋の考えには賛同で、日ノ本の揉め事をさっさと片付けないと異国の文明に置いていかれると感じていました。家康はアダムスにもっと話を聞かせて欲しいと言い、アダムスも喜んでいました。(その前に、早く手枷と縄を解いて、互いのためにも風呂に入れてやってほしい)しかしこの頃、会津の上杉景勝は新たに城を築き、橋や道を改修し、牢人や武具を集めるなど、不穏な動きを見せていました。本多忠勝は、これは戦支度と疑いをかけるには十分と考えましたが、家康はまずは事を荒立てないよう、武をもって物事を鎮めることはしたくないと考えていました。上杉の件を家康は秀頼と生母の茶々(北川景子さん)に報告、景勝が上洛をずっと拒否していることもあり、茶々は小田原征伐のようにしてはと意見しました。もう一度、景勝に上洛を促すと言う家康に茶々は不安がるので西笑承兌(でんでんさん)は自分が書状を送ると言い、その場を収めました。承兌からの書状を景勝は無礼と受け取り、景勝の側近の直江兼続は家康は狸だから全く信用ならない、家康が前田家をも服従させていつ戦になるかわからない時世に戦の備えは当然のこと、と進言しました。景勝はその意見を家康に言い返してやれと命じ、兼続は家康に書状を送りました。直江が送ってきた長い長い書状の文言を読んで、阿茶(松本若菜さん)はこれは殿・家康への侮辱であると怒り、戦をけしかけていると考えました。また正信も、上杉は自分が挙兵すれば他の大名たちも後に続くとふんでいる、ただ上杉相手に下手な戦をすれば国を揺るがす大戦となる、と考えていました。家康は自分が出陣せねばと言い、そう聞いた阿茶は大坂の留守は自分が守ると言い、あとは京を誰に託すかと家康は悩んでいました。6月15日、家康は秀頼と茶々に謁見し、上杉征伐には自分が会津に向かうと報告、家康が求めていた黄金2万両と兵糧米2万石を秀頼から受け取りました。大坂城を出陣した家康は17日に伏見城に入り、次男の結城秀康(岐洲 匠さん)と合流、そして徳川家重臣の本多忠勝(山田裕貴さん)、榊原康政(杉野遥亮さん)、井伊直政(板垣李光人さん)らの軍勢も続々と伏見城に集結しました。家康は戦場に出るために皆とこうして再び顔を合わせたことを感慨深く思い、皆もまた「我らの殿がついに天下を取る時が来た!」と意気込んでいました。一同との顔合わせの後、家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)を別室に呼びました。酒を酌み交わしながら雑談した後、そして家康は改まって元忠に、この伏見城を任せたいと言いました。家康は自分が上方を留守にすれば石田三成が味方をつけて挙兵するかもしれない、この伏見城は要の城、逃げることは許されない、最も信用できる者に任せたい、必ず守り通せと、死を覚悟の命でした。「謹んでお預かりいたします。」と一礼する元忠に、家康は「すまぬ。」と言うのが精一杯で、兵は元忠が要るだけと言いました。しかし元忠は「3千でいい。伏見城は秀吉が造った堅牢な城だから簡単には落ちない。」と、さらに「自分は腕も立たないし知恵もない。だが殿への忠義の心は誰にも負けない。」と言い、家康に己の覚悟のほどを示しました。そして家康に仕えた50年のことをしみじみと振り返り、家康に「宿願の戦なき世を」と最後の思いを伝え、家康もそれにうなずいて応えました。伏見を出た家康の軍勢は7月2日に江戸城に入り、3男の徳川秀忠と平岩親吉の軍勢と合流、21日に会津に向けて進軍を開始しました。一方、佐和山で石田三成(中村七之助さん)は挙兵の決心を固め、やめよと言う大谷吉継(忍成修吾さん)には家康の行状を全て悪いほうに解釈した声明を発し、「家康を野放しにすれば豊臣家はいずれ滅ぼされる。故・太閤の遺言だった政を行うのが我が志。」と吉継に迫りました。自分たちでは太刀打ちできないと吉継が言うと、嶋左近(高橋 務さん)は床下にある大量の金塊を見せ、これで奉行衆と大老たちを味方にできると言いました。家康が伏見を発ってひと月後の7月17日、大坂城に毛利他いくつもの軍勢が集結し、大坂城に残っていた阿茶はどこかの兵に取り囲まれていました。そして大軍勢が大坂城に入ったとの知らせを受けた伏見城の元忠と千代(古川琴音さん)は、家臣たちに急ぎ戦支度をするよう命じました。大坂城に大老の毛利輝元に石田三成・宇喜多秀家ら奉行衆が集結して秀頼と茶々に謁見し、家康の不行状の数々を訴えました。総大将は毛利輝元で、決起した自分たちの元に家康を討つために諸国の大名や武将たちがことごとく集まってくるものと予測し、それを聞いた茶々は皆と戦勝を祈願する杯を用意させ、かわらけを割った茶々は笑みを浮かべて満足気でした。大坂の動きを知らせる文が早馬で次々と下野の小山の家康の本陣に届きました。大坂城に残る阿茶や伏見城の元忠はどうなるのかと皆が案じていると、今度は茶々から家康宛てに文が届きました。その内容は、三成が勝手なことをして怖くてたまらないからなんとかして欲しいというもので、それを読んだ家康はなぜか笑いがこみあげてきました。そして正信は、この戦がとんでもない大戦になると考えました。
November 1, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、若い頃は強い者に従って徳川家を守るためにただ真っすぐに進んできた徳川家康(松本 潤さん)が、この先の厄介事や苦難を覚悟のうえで、天下泰平のために自分が天下人になる決意を固めた回でした。対照的に描かれたのが石田三成(中村七之助さん)でした。確かに亡き秀吉の思いを実現させようと、豊臣家の、秀吉の第一の忠臣を自負して三成なりに奮闘はしていました。でも朝鮮出兵では国内にいたから帰国した者たちの思いがわからずに激怒させるし、どこまでも「自分は正しい」にこだわって譲歩ができなくて事態をややこしくします。そこにもってきて随所で三成に家康を疑うようにささやく者がでてきて、最後はそちらを受け入れます。まあこれも、家康にしたら自分の若い頃の姿の一部だから、三成の考えや行動が読めてしまうのでしょうが。さて、家康の知恵袋の本多正信(松山ケンイチさん)の存在感が大きくなってきました。ある課題をクリアするのに、正信のいい意味でのズルさや要領の良さが家康を助けています。私は要領が悪い人間なので、ドラマでどんな正信の知恵がでてくるのか、楽しみでもあります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長3年(1598)秋、豊臣秀吉は朝鮮出兵を収束させることなく死去し、その後の国内を統制するために徳川家康(松本 潤さん)ら大きな力を持つ大大名を五大老、豊臣政権の実務を担う石田三成(中村七之助さん)らを五奉行として新たな政の体制が整い、伏見城に集まりました。秀吉の遺児・秀頼が成長するまでは五大老と五奉行が協力して政務を行い秀頼を支えていくことを、互いに確認し合いました。しかしこの話合いの後、毛利輝元(吹越 満さん)と上杉景勝(津田寛治さん)は三成に、合議制であっても格別な力を持つ者がいればその者が全てを決めてしまうと家康を暗に批判し、家康のことを信用しないよう忠告していました。屋敷に戻った家康に、側近たちはそれぞれに思うところを意見しました。阿茶(松本若菜さん)は三成がうまくやればと言い、本多忠勝(山田裕貴さん)は天下は力のある者の持ち回りだから次は家康が天下人になればよいと言いました。しかし家康はまだその時ではないと考えていて、本多正信(松山ケンイチさん)も泥沼化した朝鮮出兵の後始末を買って出ずに今は息を潜めているほうがいいと言い、家康も同じ考えでした。秀吉の死後3ヶ月ほどたってから、諸将たちは朝鮮半島から撤退を開始しました。食糧の補給もなく多くの死傷者を出した壮絶な戦いからやっとの思いで戻ってきた諸将らに三成は、秀吉の死去は明言を避け、そして「しくじりの責めは不問にする」と心無い言葉を発し、さらに「後日京で茶会でも」と飢えとも戦ってきた者たちをいたわることのない無神経な事を言ったため、諸将らは怒り心頭になりました。自分への怒号が飛び交い狼狽する三成に、加藤清正は腹立ちで涙を流しながら「皆にはわしが粥を振る舞う。」と言って皆を引き連れて退室、去り際に諸将らは三成を侮蔑の目で睨んでいきました。京に戻った諸将らは家康と前田利家に、朝鮮出兵では三成が自分に都合のいいよう秀吉に報告していた、自分たちの名誉が傷ついたと訴えていました。三成に対する敵意むき出しの諸将らを家康と利家はなだめて軽挙妄動せぬよう釘をさし、三成もまた豊臣家中をしっかりまとめるようにと寧々から叱られていました。しかし三成は自分の何が悪いと納得せず、諸将らと対立が深まっていました。一方、諸国の動きを探らせていた家康は正信から、伊達政宗など不穏な動きをする者もいる、裏から首ねっこを抑えておいてはどうかと進言がありました。そこで家康は自分の子や縁者と伊達・福島・蜂須賀などと密かに婚姻を結び、徳川とのつながりができた大名たちもまんざらでもなさそうでした。しかし家康のこの行動は五大老・五奉行の合議で許されないものとなり、家康の予想通り直ちに糾問の使者がやってきました。家康はうっかりしていたととぼけ、正信は秀吉亡き後は許可は必要ないと思っていたと言い訳し、家康も行き違いだったから後で皆に詫びると言いました。しかしそんなわけにはと使者が言うと、正信が「本多忠勝、榊原康政、井伊直政」と徳川の猛将たちの名をあげ、家康の身に何かあればこの者たちが軍勢を率いて駆けつけ大戦になるかもと匂わせました。話がこじれたら戦も辞さない家康と、家康の行動は許されないと怒る三成を前田利家(宅麻 伸さん)は「道理だけで政はできぬ。」と叱りました。そして家康もまた三成を密かに呼び出し、二人だけで話し合いをもちました。家康は自分の浅慮を詫び、そして自分は三成の味方だと言い、三成の五奉行としての働きぶりを評価しました。ただ率直に言って、今の形で政を続けるのは困難で、まずは皆の不満を鎮めることが大事だから一時自分が政務を預かりたいと家康は言いました。しかし三成は家康のそれを天下簒奪の野心と解釈し、怒って退席していきました。家康は病床の利家を見舞い、そして自分は天下泰平のために動ているけど皆には理解してもらえないと相談しました。そんな家康に利家は「この40年、今川・織田・武田・秀吉と渡り合ってきた貴公が怖いから仕方がない。貴公は強くなり過ぎた。」と言いました。そして改めて「腹をくくれ(天下人になれ)」と言って病床に伏しました。慶長4年(1599)3月、利家が病死すると三成に対する怒りが爆発した福島正則(深水元基さん)や加藤清正(淵上泰史さん)らが三成の屋敷を襲撃、三成がすでに逃げて京の伏見城にいると知った諸将らは武装して手勢を連れて伏見城を取り囲み、三成に口々に罵声をあびせていました。正信は「このまま放置して、もし三成を助けるために毛利と上杉が軍勢を率いて出てくれば大戦になる。」と家康に進言、そして忠勝が城門の前に行き、深夜に大騒ぎをする諸将らを鎮め、家康は話を聞くために皆を屋敷に入れました。家康の屋敷で落ち着いた諸将らは、三成を襲撃する気は毛頭なかったが、奴が話し合いに応じないのでやむなくこうなったと釈明しました。彼らが帰った後、正信は家康に「ここらが潮時かも」と言い、忠勝も「(殿が)表舞台に立つときかと。」と、それぞれに家康が立つことを促しました。後日、騒ぎの元となった三成への処分が合議で決まり、家康は三成と二人で話し合う場をもってそれを伝えました。三成は「全ては自分が至らなさゆえ。処分を慎んで受ける。全ての政務から身をひいて所領の近江・佐和山に隠居する。」と言いましたが、あくまで三成はこの処分に納得はしていなくて、自分は誰よりも秀吉の忠実な臣下だと言いました。その後、三成は家康の次男の結城秀康の警護を受けて佐和山に移りました。秀吉が昨年の夏に死去し、11月に朝鮮出兵から諸将らが引き上げて帰国し、そして三成との対立が激しくなってこの襲撃事件が起こり、その間のことを家康はいろいろと考えていました。「やるからには後戻りはできぬ。修羅の道になるかもしれぬ。」ーー家康の決意に忠勝は「どこまでもつきあいまする。」と静かに答えました。家康が一人で薬をひいていると、これまでの人生を導き支えてくれた人たちの顔が次々とふとうかんできました。今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、そして何より自分と生死と苦楽を共にしてきた家臣たちと、自分に「天下をとりなされ!」と遺した酒井忠次が。家康は一人薬湯をすすりながら静かに天下取りの決意を固めました。家康は大坂城に五大老をはじめとした諸将らを集め、これより我らが一丸となって豊臣家と秀頼のために力の限り励む、天下の泰平を乱す者あれば自分は放ってはおかぬと宣言し、一同もそれを了承しました。このことは幼い秀頼に報告され、秀頼の母の淀殿(茶々)も満足気でした。
October 25, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)の家老・酒井忠次(大森南朋さん)と、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の二人の老人が天寿を迎える回でした。ドラマの前半とラストの忠次@大森南朋さんの演技は鳥肌の感動で涙ウルウルの圧巻でした。特にラストで松潤が流した涙は、演じている本人も感動した、自然の涙だったと思います。主演は松潤だけど、この回は本当に大森さんが全部もっていった、そんな感じさえしています。そしてこのドラマでの忠次と秀吉の二人の絶命の瞬間の描かれ方は、あまりにも対照的でした。幼い頃から仕え守ってきた大好きな殿・家康に、死期が近いことを悟った自分の最後の思いを伝えることができ、そして最期は聞こえるはずのない殿の出陣の命を聞き、絶え絶えの息で具足を揃え、妻・登与(猫背椿さん)の手を借りて支度が整ったら、主・家康を思いながら忠次は静かに息を引き取りました。それは己が蒔いた種とはいえ、心安らかに旅立つことができなかった秀吉とはあまりに違っていました。若い頃は貧乏で底辺で生きてきた秀吉だから、民の幸せを願う気持ちもあったでしょう。ただ秀吉は、出世してから身内はこの上なく大事にしたけど、家康と家臣団のように心を許せる他人はいなかったように思えました。だから家康が自分に本気で進言してくれて、その言葉の中に「猿!」とか「秀吉!」とかあっても、それは友のような温かみを感じて、どこか嬉しかったのかも、とも思えました。ドラマもいよいよあと2カ月でおしまいです。これからは大戦が2つと、その間に徳川の中でややこしい問題が起こるので、どう描かれるか楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 文禄2年(1593)5月、明との戦を休戦させた豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の元に、側室の茶々(北川景子さん)から子ができたという知らせがあり、秀吉は大喜びで大坂城に戻ってきました。秀吉は「拾」と名付けた我が子と対面して拾を抱こうと手を伸ばしたとき、ふと自分がこの手で多くの者を殺めてきて汚れているのではと思いました。そして周囲にいる家臣たちを手で振り払って「汚れた者を近づけるな。」と命じ、寧々(和久井映見さん)と茶々に「拾に粗相した者がおれば誰であろうと成敗してよい。」と命じました。秀吉の言葉に「はい。」と快く返事をする茶々に寧々は驚きを隠せませんでした。秀吉は明との和議の条件で、明の皇女を天皇の妃とすることなど明側がとうてい受け入れないであろう七か条をつくり、その内容で必ず交渉をまとめるように石田三成(中村七之助さん)らに言い渡しました。徳川家康(松本 潤さん)のところに相談にきた三成は困り果て、その様子を見た家康の側室の阿茶(松本若菜さん)は「耄碌しても天下人。難儀なことで。」と皆が内心思うけど口にしないことを言い、家康にたしなめられていました。家康はこの機会だからと、三成が考える新たな政の仕組みについて問いました。三成は力ではなく知恵で、合議制でと夢を語り、本多忠勝(山田裕貴さん)と阿茶はそれを秀吉に伝えてみてはと言い、家康も三成を後押ししました。文禄4年(1595)秋、家康は嫡男の徳川秀忠(森崎ウィンさん)を伴って、京の酒井忠次(大森南朋さん)の屋敷を訪ねていました。秀忠は茶々の妹の江を正室に迎えていましたが、これは秀吉の強い要望によるもので、秀吉は豊臣と徳川の結びつきを強固にしようとしていました。さて秀忠は、忠次を訪ねたからには忠次の十八番の「えびすくい」を見たいと所望し、目を患って隠居している忠次でしたが、可愛い若殿・秀忠のたっての要望に老いた身体がスッと立ち上がり、古女房の登与(猫背椿さん)と一緒に縁側で踊り始めました。すると秀忠は踊りを見ているだけでは我慢できなくなり、父・家康や井伊直政(板垣李光人さん)を巻き込んで踊って、楽しいひと時となりました。後で家康と二人きりになった忠次は、政の状況を家康に訊ねました。家康はかつて織田信長が言っていた「安寧な世を治めるは、乱世を鎮めるよりはるかに難しい。」という言葉を思い出しました。すると忠次はやにわに家康に近寄って家康を抱擁し、幼い頃からこれまでずっと家康が辛いことや苦しいことをよくぞ乗り越えてきたと思いを伝えました。そして家康も、忠次がいてくれたからと思いを伝え、そんな家康に忠次は「殿があまたの困難を辛抱強く乗り越えたから、我ら徳川は生き延びられた。」と言い、一つだけ願いを言い残したいと家康に正対しました。「天下をお取りなされ。秀吉を見限って、殿がおやりなされ。」それから3か月後の小雪の舞う冬の日、忠次は一人縁側で息も絶え絶えになりながら具足を身に着けていました。何をしているのかと登与が声をかけると忠次は「殿から出陣の陣触れがあった。参らねば。」と言って、よろけた身体が庭に崩れ落ちました。夫・忠次の最期のときを察した登与は笑顔で優しく具足をつける手助けをしていたのですが、全てが整ったとき忠次は静かに息を引き取っていました。「ご苦労さまでございました。」ーーもう届かない声を登与は夫・忠次にかけ、深く一礼をしました。文禄5年(1596)9月1日、大坂城にて秀吉は明国との講和で皇帝の返事を受け取り、自分が出した条件が通ったと満足していました。しかしこれは戦を終わらせるために小西行長らが作った偽物でやがてそれが発覚、秀吉は怒り狂い、再び明国との戦を決意しました。秀吉をなだめるために間に入った家康に対し秀吉は、今のままでは文禄の役で何一つ得ていない、何かを得るには今一度、戦をするしかない、と言いました。それは危うい賭け、徳川の軍勢は出さないと進言する家康に秀吉は長久手の戦(1584)のことを出し、あのときは徳川に負けた、しかし戦は勝てなくても利を出す術はいくらでもある、自分に任せておけと言い、そして秀吉は三成に朝鮮攻めにとりかかるよう命じました。慶長2年(1597)6月、第二次朝鮮出兵が始まりました。またこの頃は日本国内でも戦乱の火種があり、家康の側近の本多正信はこの状況を「内も外もめちゃくちゃ」と考えていました。一方、秀吉の子・秀頼(拾・改め)はすくすくと育ち、その成長を周囲の者は温かく見守っていたのですが、そんな時に秀吉が突然、病で倒れました。幼い秀頼の行く末を案じる秀吉は三成を呼び、政についての考えを問いました。三成は合議制の考えを述べ、秀吉は三成に「やってみよ。」と言いました。三成は秀吉から了承をもらったことを家康と前田利家(宅麻 伸さん)に報告し、二人には自分たち五奉行への助力を求めました。特に利家は秀吉とは信長の家臣時代からの友で、若い頃から秀吉という男を見てきているので、秀吉が天下人らしい考えをするのを喜んでいました。そして家康も、気力が快癒した秀吉なら、自分が始めた明国との戦をうまく収めるだろうと期待していました。しかし秀吉の容態は悪化していき、家康と二人きりで話がしたかった秀吉は病床に家康を呼びました。秀吉は家康に、我が子の秀頼に家康の孫娘の千姫を嫁がせるよう頼みました。ただ家康は、幼子たちの婚儀よりも秀吉には(存命のうちに)まず明国との戦を終わらせて欲しいと考えていました。「世の安寧、民の幸せを願うならば、最後まで天下人の役目を全うされよ。」ーー家康は訴えましたが秀吉は、そんなものどうでもいい、秀頼が安泰ならそれでいい、と考えていました。さらに秀吉は、三成が考える合議制などうまくいくはずがない、豊臣の天下は自分一代で終わると言い、その言葉に家康は「だから世をめちゃくちゃにしたまま天下人の役目を放り出すのか?」と怒りを露わにしました。そして秀吉が「そうだ、ぜ~んぶ放り投げる。」と笑いながら言うので家康は真剣に怒り「まだ死なさんぞ!秀吉!」と声を荒げました。人をくったような態度の秀吉でしたが、亡き信長は自分の後継者を家康と思っていただろうと言い、そう聞いた家康は秀吉を「天下を引き継いだのはそなた。まことに見事であった。」とねぎらいました。秀吉は家康に「すまん。」と詫び、その思いを受けた家康は「二度と戦乱の世には戻さぬ。あとは、任せよ。」と伝え、退室していきました。ほどなくして秀吉に最期の時が近づき、その枕元には茶々がいました。寧々を呼ぼうとした?秀吉から茶々は呼び鈴を遠ざけ、苦しみにあえぐ秀吉に「秀頼は私の子。天下は渡さぬ。猿!」と言い放ち、あれだけこよなく愛したはずの茶々からの言葉に、秀吉は悲しみのまま絶命していきました。家康は忠次から「天下人になれ」と言われたときのことを振り返っていました。「天下人など嫌われるばかりだ。信長にも、秀吉にもできなかったことがこの自分にできようか。」と忠次に自信のなさを打ち明けていました。主・家康の思いを受けた忠次は優しい目で「殿だからできるのです。戦が嫌いな殿だからこそ。嫌われなされ。天下を取りなされ!」と家康を励ましました。幼い頃から自分を傍で支え命をかけて仕えてきてくれた忠次の最後の願いを胸に刻み、家康は自分が天下人になる決意をしました。
October 18, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、国内を統一して天下人となってますます強大な権力を持った豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に、このままではいけないと考える徳川家康(松本 潤さん)が、初めは命をかけた進言をし、次は秀吉とは違った形で人生経験を重ねて成長した家康だからこそ言える、強烈な諫言が見どころとなった回でした。特に後半の、家康が秀吉の脅しをさらりと受け流し、秀吉を太閤ではなく「秀吉」と呼び、果ては「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」とまで言ったあのシーンはぞくぞくしました。秀吉が織田信長に仕え、皆に蹴飛ばされていたあの若い頃から知っている、秀吉が信用できるのは信長と自分だけだとわかっている家康だからこそできる、あの言葉でした。松潤@家康の成長がいいですね。信長に対しては、とにかく怖くて仕方がなかったけど、終盤では信長を「お前」と呼んで意見できるようになりました。そして秀吉に対しては、臣従する前でさえ言わなかった「猿」呼ばわりをして秀吉を諫めました。家康なりに人生経験を重ね、もう若い頃の「言われっぱなし・やられっぱなし」じゃない、強運だけでなく真の実力もついた天下人になっていく姿を想像すると楽しみになります。そしてもう一つ、別の戦いというか対立ができました。家康の側室・阿茶(松本若菜さん)と秀吉の死後に豊臣家の権力を握る淀の方の茶々(北川景子さん)。特にこの阿茶が、後に豊臣家の女たちを相手にどんな交渉を繰り広げていくのか、これもまた楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正20年(1592)5月、朝鮮への出兵を決めた豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は肥前の名護屋(現在の佐賀県唐津市)に巨大な城を建造し、全国各地から大名を集結させて10万を超える軍勢を朝鮮に送り込みました。開戦してからの日本軍は快進撃を続け、名護屋城に残る徳川家康(松本 潤さん)ら大名たちの間で宴が開かれることもありました。またこの頃、秀吉は関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自らは太閤と称していました。(この宴のシーンは2016年の『真田丸』を見ていた人は、すぐに第26回放送の『瓜売』の「やつしくらべ」が頭に浮かんだと思います。同じシーンを描くのでも音曲の囃子を入れて皆でニギヤカに歌うと印象が全く違ってくるのですね。)日本勢は朝鮮に上陸して1カ月余で半島をほぼ制圧し、名護屋城での軍議ではいよいよ秀吉本人が唐入りする準備が進められていました。勢いづく秀吉は諸将らに、自分の唐入り後は大唐の都に天皇を移す、さらには天竺(インド)や南蛮も手に入れる、“褒美”は無限と皆を鼓舞しました。(まず褒美を念頭に置くあたり、いかにも秀吉らしいと思います。)秀吉の話に一同が歓喜にわく中で、家康ともう一人そう思えなかった武将がいて、浅野長政(濱津隆之さん)が「どうかしておる!正気の沙汰とは思えない。」と声をあげました。「殿下は狐にとりつかれている。殿下はもう昔の殿下じゃない!」ーー自分への批判が許せなかった秀吉は長政をその場で手討にしようとしましたが、そのとき家康が間に入り、長政にはよく言って聞かす、自分に預けてほしいと秀吉に願い出て、その場はなんとか収まりました。しかし快進撃を続けていると思われていた日本勢は、実は藤堂高虎の水軍が敵にやられていたという噂を他所の陣で服部半蔵(山田孝之さん)が耳にし、すぐに家康に報告しました。家康はそんな話は聞いていないと言い、本多忠勝(山田裕貴さん)もこの噂がもし真なら本当の事は自分たちには伝えられていないという事だから仔細を探らねばと考え、半蔵のほうを一瞥し、家康も同様でした。半蔵は、今は自分たちは忍びではなく武士である、今さら忍び働きはと言いつつも、結局は大鼠らとともに仔細の探りに動き出しました。家康はまずはこの噂を秀吉が知っているのかと石田三成(中村七之助さん)を訪ね、三成に訊くと「この戦の取り計らいは我らに一任されている。何を伝えて何を伝えないかは我らの裁量。」と答えました。忠勝が「水軍がやられたら補給路が断たれて一大事。皆かの地で食糧も援軍もなく、勝ち進んで戦場が広がるほど苦しくなる。」と説明し、家康も「この戦は難しい。やるべきであったのか。」と本音で意見しました。さらに家康は秀吉と諸将らの間に立つ三成の立場を理解しつつも、秀吉が間違ったことをすれば自分が止めると言ったのでは?と三成に言いました。早く唐入りしたくてたまらない秀吉に、家康と三成は進言しに行きました。三成は天候を理由に今はやめたほうがいいと伝え、家康はもし秀吉に万一のことがあれば天下がまた乱れるから考え直してほしいと伝えました。そのとき茶々が現れ、秀吉に早く唐入りするよう催促していました。しかし家康の態度を見て秀吉は茶々を下がらせました。家康は秀吉と茶々の間に生まれた鶴松が夭折したことに触れて進言したら、秀吉は「茶々は関係ない。日ノ本と朝鮮の民のためだ!と怒りながら立ち上がりました。退室しようとする秀吉を三成が、自分たちが先に朝鮮に渡って準備をしておくからと止めようとすると、三成は足蹴にされました。しかし家康が、どうしても唐入りするのなら自分がこの場で切腹すると短刀を差し出して対峙すると、秀吉は気が鎮まってそのまま去っていきました。7月、肥前にいる秀吉の元に大政所で母の仲(高畑淳子さん)が危篤だと知らせが入り、秀吉は急ぎ大坂に戻りました。しかし時遅く、秀吉は母の臨終に間にい合いませんでした。寧々(和久井映見さん)は仲の最期の様子を夫・秀吉に語りました。「息子が皆に迷惑をかけた。自分のせいだ。貧しくて何も与えてやれんかった。秀吉は自分でもわからんようになっとる。自分が本当は何が欲しかったのか。」ーー仲の言葉を伝えた後、寧々は秀吉に「これ以上、何が欲しい。何が足らん。この世の果てまでも手に入れるつもりか。身の程をわきまえなされ。」と。寧々の厳しい言葉に秀吉は怒りの顔を向けたけど、寧々はかまわず「かか様の代わりに言っている!」と夫を叱り、秀吉もその言葉を考えていました。秀吉は茶々(北川景子さん)に、自分がいない間は前田利家に相談するようにと言っていましたが、茶々は家康のところに来ていました。茶々は父・浅井長政と母・市のことを語りながら、初めは離れて座っていたけど気持ちの高ぶりとともにだんだん家康に近寄っていきました。そしてしまいには家康の手を取り、自分を守って欲しいと情をこめて訴えました。家康は冷静に「私にできることがあれば、なんなりと。」と返しましたが、その光景は傍から見たら家康が誤解されるようなものでした。するとそこへ家康が同道させている側室の阿茶(松本若菜さん)が来て、二人の間に割って入りました。阿茶が主の家康に狐が憑いたら退治すると例え話をしたら、茶々は阿茶に狐退治に励むようにと言い、退室していきました。冬が来て小雪が舞う季節になった頃、朝鮮で戦っている武将たちの様子を書き記したものを捜して忍び働きをしていた服部党が、その証拠となるものを持って家康に差し出しました。それには、朝鮮攻めが滞っている、敵に明国の大軍勢が援軍がついた、兵糧は尽き民衆も進軍してくる日本勢に激しく抗っている、朝鮮の冬の寒さはこちらの比ではない、などとありました。やがて秀吉が大坂から名護屋に戻り、家康はまず茶々を遠ざけるよう秀吉に進言したのですが、それが癇に障った秀吉は怒りを露わにして家康に「図に乗るな。徳川くらい潰せるぞ。」と家康に迫りました。しかし家康は動じることなく「かつての底知れぬ怖さがあった秀吉なら、そんなことは口にしない。」と返し、自分の胸倉を掴んでいた秀吉の手を掴んで外し、「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」と言い放って秀吉を畳の上に転がしました。家康と秀吉がそんな状態のとき、かつて織田信長に室町幕府の将軍職を追放され(1573)、今では秀吉の庇護を受けて名護屋城に来ていた足利義昭(古田新太さん)が勝手に部屋に入ってきました。義昭は「一杯やろう」と手酌で酒をつぎ、将軍だった頃の話を始めました。「将軍だった頃は、この世の一番高い山の頂上に立ってて、下々がよく見えた。何もかもがわかってた。・・・と思い込んでいた。だっが実は何もかも逆で霞がかかって何も見えてなかった。周りがいいことしか言わないから。自分はそうならんと思っていても、なるんじゃ。遠慮なく厳しいことを言ってくれる者がおって、どれだけ助かったか。信用する者を間違えてはならんの。」と。昔語りと称して秀吉にそう言うと、義昭は退室していきました。義昭の言葉が胸に響き、母・仲の言葉を思い出したとき、秀吉は家康に自分を見捨てないで欲しいと思いを伝えました。秀吉は茶々に肥前・名護屋から京の淀城に帰るよう命じました。翌・文禄2年(1593)5月、秀吉は明との戦を休止させました。三成らは秀吉が望む成果が出せなかったことを詫びましたが、前田利家(宅麻 伸さん)のとりなしもあり、秀吉は三成らをねぎらいました。秀吉は家康と利家に明国の使いを丁重にもてなすよう命じ、諸将らが退室しようとした時、淀城の茶々からの文が届きました。文を見た秀吉は言葉にならない声をあげ、皆が何事かと思ったらなんと、茶々がまた身ごもって秀吉との間の子ができた、とのことでした。
October 11, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はタイトルが「さらば三河家臣団」とあり、視聴する前は、北条征伐後に徳川から誰かっが去るのかな?そんな人いたかな?と思っていました。でも実際は、秀吉の関東移封の命で父祖伝来の地の三河は手放すけど、重臣たちが城持ち大名になって、今までのように城の近くに屋敷を構える暮らしから、一つの領国のまさにお殿様になる、という意味でした。ドラマ終盤の、徳川家康(松本 潤さん)と、家康と苦楽を共にしてきた重臣たちとの場面は良いものでした。たしかに、この乱世で生き延びているだけでもラッキー、スタートは弱小国で貧しかったけど、次々とくる難題を主従の皆で力を合わせて乗り越えて、徳川家として出世してそれぞれに立派に豊かになってもっとラッキー、といったところでしょうか。そして家康の若い頃の弱さや頼りなさを知っているだけに、いや、弱くても他者の言葉を受け入れる、そういう殿だったからこそ家臣団は主君・家康に遠慮なくものを言ってきて、主従が互いに相手を見放すことなく絆を深めてきたのかな、と感じる場面でした。現代では、この江戸入りの頃を思うと信じられないくらい発展している東京ですが、逆にこの時代の地政学を調べて想像してみるのも面白いかと思いました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正17年(1589)5月、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は側室の茶々との間に初の我が子・鶴松を授かり、喜びの絶頂にありました。秀吉はその勢いのままに関東の北条征伐を決定したのですが、北条家の嫡男・氏直には徳川家康(松本 潤さん)の娘・おふうが嫁いでいました。家康は当主・北条氏政に対し秀吉に臣従するよう説得しているのであと少しの猶予をと秀吉に乞いますが、秀吉は家康に「早く軍勢を整えて北条に向かえ、北条を滅ぼせばその領国は全てくれてやる。成敗後はそのまま関東を治めよ。」と言うだけで、そのまま退室しようとしました。家康は秀吉を引き留め、褒美は断る、北条には領地を安堵して速やかに戦を終らせるので4カ月待って欲しいと乞いましたが、秀吉は3カ月で北条征伐を終らせよと言って出ていきました。家康は京を発つ前に病気で伏せっている正室の旭を見舞いました。一緒にいた秀吉の正室・寧々も、鶴松が誕生して以来、秀吉は自分の話に耳を貸さなくなった、弟の秀長も病に伏せって誰も秀吉にものが言えなくなった、秀吉にものが言えるのは家康と(秀吉の妹の)旭だけと言っていました。駿府城に戻った家康は重臣たちに、秀吉より北条攻めの命が下った、3か月で終わらせる、戦の仔細は皆に任せると言って退室していきました。家康はこの戦の後には国替えを命じられるだろう、これまで故郷・三河を守るために多くの犠牲を払って戦い続けてきた皆には言えない、と悩んでいました。そんな話の後で、今や家康の知恵袋となった本多正信(松山ケンイチさん)は軍議中の皆のところに行き、大久保忠世(小手伸也さん)を外に呼んで密かに何やら伝えていました。天正18年(1590)2月、北条征伐のために駿府より徳川勢が出陣、続いて3月に京より秀吉の軍勢が出陣、各所から総勢20万の大軍勢が小田原に向けて進軍し、周辺の城を落としながら北条の領地を取り囲みました。しかし北条氏政(駿河太郎さん)はかたくなに籠城を続けていて、重臣たちも籠城か降参かで議論がまとまらないままでした。そんな時、笠懸山に城が現れたと注進があり、一同が何事かと山の方を見たら、昨日まではたしかに山だったところに城ができていました。この小田原城の様子が丸見えになる場所に、一夜にして城が。秀吉の力を見せつけられた一同は、ただ呆然とするばかりでした。もうこれで北条は降参してくると読んだ秀吉は、これで天下一統の総仕上げとなった、亡き主君・織田信長も喜んでいるだろう、と上機嫌でした。家康は秀吉に、北条に少しだけ領国を与えて降伏を促してはと進言しましたが秀吉は耳を貸さず、ちょうどそこへ側室の茶々(北川景子さん)が来たため、秀吉は家康に「北条領はそのままやる。今治めている領国は他の者に。家康は武蔵の江戸に入れ。徳川の重臣たちにも領国を与えて城持ち大名にしてやれ。」と言って茶々と奥に入っていってしまいました。その話を正信は「江戸に町を作らせ、財を失わせ、ついでに徳川家臣団を分裂させて我らの力をとことんまでそぐもの。」と分析していました。一夜城出現より9日後の7月5日、家康の娘婿の氏直が降伏して家康の元に来て、7月10日、家康は小田原城の引き渡しで入城しました。家康は氏政に、氏直は助命されるが氏政は切腹と秀吉の命を伝え、北条領を家康が治めると考えた氏政は「我が民を頼む。」と言って去っていきました。陣地に戻った家康は、秀吉のやり方に腹が立ちながらもこの先のことを考えていると、そこへ石田三成(中村七之助さん)が訪問してきました。家康の気持ちを察している三成は、秀吉から国替えを命じられた織田信雄が不服を言ったら改易にされたと話し、家康に「今は辛抱を」と伝えました。しかし、秀吉の判断は今までに一度として間違ったことになってない、自分は戦なき世を目指す家康と同じ星を見ているとも言い、去っていきました。「江戸からも同じ星が見える。」ーー正信の言葉に家康は決心がつきました。夜になり、家康は重臣たちを集め、秀吉の命で徳川は関東移封になった、今の領国は徳川のものでなくなると伝えました。重臣たちの猛反発を予想していた家康でしたが、いちばん異を唱えると思った本多忠勝(山田裕貴さん)の口から「関東も良いところに相違ない。」と。続けて榊原康政(杉野遥亮さん)が「我らはとっくに覚悟ができている。」と、井伊直政(板垣李光人さん)も「新たな領国を治めるのもやりがいがある。」と、このことをそれぞれがもう知っていたようでした。鳥居元忠(音尾琢真さん)は「もう故郷には別れを告げてきた。」と言い、家康が不思議に思うと平岩親吉(岡部 大さん)から「実は国を発つ前に忠世から話を聞かされていた。」と真相を聞かされました。その忠世は、実はあの軍議の時に正信から「国替えのことを皆にうまく伝えておいて欲しい。」と頼まれたとのことでした。まあ話をした時は怒り狂った皆が文句を言いながら忠世に突っかかっていって乱闘になったけど、ひとしきり暴れて悔し泣きしたら皆それぞれ気が済んで、故郷の山河に別れを告げてこれたと納得の表情になっていました。それでも家康は、表に出さない皆の悔しさや無念さを思い詫びました。しかし家臣の皆は、今川や武田が滅び、織田が力を失ったこの乱世をこうして生き延びてきた、それで十分と言い、そして家康は、こんな自分によくついてきてくれた、支えてくれた、皆のおかげだ、と皆に礼を言いました。その後は、直政は上野箕輪に、康政は上野館林に、忠勝は上総万喜に、元忠は下総矢作に、親吉は上野厩橋にと次々と領国が正信から言い渡され、そして相模小田原は、忠世がこの家臣団をまとめあげてくれていた礼とともに家康が直々に忠世に言い渡しました。家康は正信と服部半蔵(山田孝之さん)を連れて江戸に入り、今は荒地の江戸だけど大坂をしのぐ街にしてみせる、今の粗末な城も造り直す、と皆の前で意気込みを語りました。「次に集まるときは江戸!」「我らは離れ離れになっても心は一つ!」ーー皆は笑って別れの盃をかわしました。そんな頃、大坂では病に伏していた秀長が兄・秀吉が天下一統を成したと聞き、心から喜んでいましたが、同時に「これ以上の欲は張らないで欲しい」と兄のいる方角を見つめて祈っていました。その秀吉は、ようやく授かった我が子の鶴松が病になり、天正19年(1591)8月、鶴松は夭折してしまいました。最愛の我が子・鶴松を失った悲しみで秀吉は「次は何を・・」と秀長が願う方向とは逆の方に進もうとしていました。一方、江戸に入った家康は街の造営に励んでいました。普請奉行に伊奈忠次(なだぎ武さん)を据え、丘陵部の先端に江戸城を築き、土地を増やすために神田山を削ってその土で日比谷入江を埋めるなど、人を集めて豊かな街にする構想を練って進めていました。そんな折の天正20年(1592)正月、秀吉から朱印状が家康に届き、そこには朝鮮に出兵する旨が書かれていました。
October 4, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は歴史的に大きな出来事はなかったものの、この先ドラマの中で起こるであろう歴史的な大事の伏線が各所に張られた回でした。徳川家康(松本 潤さん)の側室・於愛(広瀬アリスさん)の生き様が家康をはじめとした周囲の人々の気持ちをほぐし、考え方や見方を変えて事が丸く収まっていきました。ところで今回、私がなるほどと思ったのは「側室の地位」。大名家の奥を束ねるのは殿の正室で、殿の代わりに外交して、家中で事が起これば当事者から話を聞き、女たちのことは正室が裁定を下していたようです。そして正室が不在(または空席)のときは、側室が正室に代ってその役割を果たしていたのですね。このドラマでは過去の回でも、家康は出陣や上洛で自分が城から出るときは、於愛に「奥を頼む。」と言ってました。やるべき事の全体を考え、城勤めをする使用人たちに指示を出して主君のメンツを保つエキスパートで、人柄も良くて皆がついてきました。今、家康には正室の旭(山田真歩さん)がいるけど、今回の鳥居元忠(音尾琢真さん)が起こした事件に関しては、旭は不在でちょうどよかったと思います。旭は立場は一番上だけど、徳川家の家臣たちのそれぞれの実績や性格や細かい内情などはよくわからないでしょう。そんなんでは自分が家臣たちの話を聞いたところで、家康にどうつないだらいいのかわからなくて困ったと思います。でもその旭は、於愛の亡き後は、正室として徳川の嫡男・長松の後盾になって長松を守ってくれるでしょう。徳川家の正室ともなれば前夫のときとは比較にならないほど大きな役割があるでしょうが、不器用だけど家康の優しさに一生懸命に応えて務めを果たしていく旭だと想像します。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 徳川家康の側室の於愛の方(広瀬アリスさん)は日記から過去を振り返りました。元亀3年(1572)10月に於愛の夫だった西郷義勝は、武田信玄が奥三河に侵攻してきたときに戦死し、於愛はその後は城務めをするようになりました。夫を失った悲しみがつい顔に出てしまう於愛に、先に家康の側室となっていたお葉(北 香那さん)からは「嘘でもいいから笑っているように。」と助言された於愛。懸命に城務めをこなし、そして天正4年(1576)5月、家康の側室となりました。豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従して豊臣政権を支える立場となった徳川家康(松本 潤さん)は、上洛して聚楽第に来ていました。秀吉はいまだに自分に臣従しない関東の北条に苛立っていて、家康に早く北条を攻めるよう促していました。家康は北条氏政の嫡子・氏直には家康の姫・おふうが嫁いでいて北条父子を説得していると伝え、酒井忠次(大森南朋さん)も北条が上洛しない理由の真田との領地の問題も近いうちに解決するからもう少し時間の猶予をと乞い、また家康は本多忠勝の娘を自分の養女として真田に輿入れさせるとも秀吉に伝えていました。その本多忠勝(山田裕貴さん)と娘の稲(鳴海 唯さん)ですが、稲は真田は好きではないと輿入れを拒み、父・忠勝は忠勝でこの娘ではかえって真田との関係が悪くなると言い、果ては於愛の前で親子喧嘩をしていました。於愛は稲に、北条家に嫁いだおふうのことを引き合いにだして、嫁ぐ(政略結婚)ということは好き嫌い関係なく、両家が戦にならぬよう働くこともあり、稲にも同様の働きが求められていると説得しました。この上洛では家康は正室で秀吉の妹の旭(山田真歩さん)を伴っていました。家康は旭に、自分たちは駿府に戻るけど旭はこのまま京にいて母の大政所の傍にいればよい、旭を今さら人質とは思っていない、我が正室として京での務めを支えてくれたらよい、と優しく言いました。旭は涙を浮かべて家康に礼を言い、その様子を見ていた寧々(和久井映見さん)は旭が家康のもとで幸せあると実感していました。しかしその寧々はというと、夫の秀吉が新しい側室に夢中で忙しいことを、嫉妬というより半ば呆れて「周りの者の生気を吸い取って、自分だけ血気盛んになるもののけのよう。あの男は何でも欲しがる病だ。」と皮肉を言っていました。家康が駿府城を留守にしている頃、城では大問題が起きていました。家康はかつて武田の間者だった千代という女を探すよう大久保忠世と鳥居元忠(音尾琢真さん)に命じていたのですが、その千代がなんと元忠の屋敷にいて、しかも元忠と千代は互いに思い人になっているようでした。そして二人の光景を見た渡辺守綱が城内で言い触らし、その話を聞いた忠勝は、元忠が(武田の家臣だった)真田の罠にかかった、真田の手先となた元忠は稲を真田に輿入れさせようと執拗だった、と激怒していました。そして忠勝は家来を引き連れて元忠の屋敷に押しかけ、大乱闘となりました。どちらも引かない大乱闘を「双方厳しく罰せられるぞ!」と大久保忠世が諫め、家康が不在なので元忠と千代(古川琴音さん)は側室の於愛に申し開きをすることになりました。元忠は実は半年前に千代を見つけていて、それからずっと自分の屋敷に置いていた、千代は徳川で恨まれているだろうから引き渡せなかったと。そして元忠は、千代は今はもう忍びではない、ひっそりと暮らしたがっている、殿の命でも従えないことがある、と言いました。そんな元忠を忠勝は、徳川の重臣が真田の忍びに操られていると非難しました。於愛が千代に何か言い分はあるかと問うと千代は、自分の言葉に(周囲からの)信用はない、元忠を慕う気持ちもわからない、と言いましたが、於愛は千代に殿・家康の裁定を待つように命じました。家康が駿府城に戻ってきて、元忠たちの裁定が始まりました。家康は元忠の不忠を言語道断と厳しく言い、元忠は自分は切腹の覚悟があると言いつつ千代だけは許して欲しいと乞いました。そんな元忠に家康は、なぜ千代を妻にしたいと素直に言わなかったのかと問い、元忠は千代の過去を思うととても言えなかったと言いました。また家康も、千代を探させたのは何かに利用するためではなく、ただその身を案じていたからでした。家康は千代に過去を捨てて元忠の妻になればよいと言い、千代はそれを情けは無用にと断りましたが、家康は「幸せになることは生き残った者の務めであると思う。元忠を支えよ。これは我が命である。」と優しく言いました。主君・家康の命に感謝して平伏する二人に、これは於愛の助言だったと家康は言い、於愛も互いに思い合うなら大事にすべきと自分の思いを述べました。この騒動の行方を、稲は父・忠勝に同席して聴いていました。家康が忠勝にこの裁定で良いかと問うと、忠勝はまだ真田への疑いが晴れていないと納得していませんでした。「万が一、徳川の重臣が忍びに操られ寝首をかかれた一大事。」とまで忠勝は言いましたが、そのとき稲が「ならば私が。」と発言しました。稲は父の方を向き、自分が真田に入りこんで真田を操る、元忠がやられた事は自分がやり返すと言いました。そして家康の前に進み出て、夫婦をなすのも女子の戦と思い知ったと言い、「真田家、我が戦場として申し分なし。」ときっぱりと言い、迷いのない眼で家康にこの縁談を進めるよう申し出ました。(この十余年後に、諸事情により義父と義弟を門前払いにする奥方が誕生しました)裁定が終って自室に戻った家康は於愛に礼を言い、ここのところ胸を患っている於愛のために薬湯を煎じました。そして家康が、於愛がいてくれたからこれまでに幾度も心が救われたと思いを語ると於愛は、自分のほうこそ殿にお仕えしていて心が救われた、もう無理に笑顔を作ることがなくなっていた、と思いを述べました。於愛は改まって家康に、亡き瀬名と信康のことを聞かせて欲しいと言い、最愛だった二人のことがもう過去のことになっている家康は、二人の思い出の中で愉快だったことだけが思い出されて、笑いながら於愛に語っていました。その後、間もなくして於愛はは亡くなり、貧しき弱き民たちに施しをしていた於愛の死を悼んで葬儀には多くの民が集まりました。天正17年(1589)、稲が真田に輿入れしたことにより北条氏政は秀吉に対抗する力が弱まり、弟の氏規を上洛させました。しかし秀吉は沼田の領地問題に介入し、さらに北条が当主の氏政が上洛していないことをあげ、自分の裁定に不服なら北条を滅ぼすと言いました。井伊直政(板垣李光人さん)が豊臣秀長(佐藤隆太さん)に、秀吉は初めから戦をするつもりだったのかと問うと秀長は、兄・秀吉はますます思いのままに生きるようになった、周りには秀吉の機嫌をとって唆す者ばかり、厳しく意見できるのは北政所(寧々)と家康のみ、秀吉に取り入る者の中には危うい者もいると言い、他の者には言えない秀吉の現状を密かに教えてくれました。家康と秀長がそんな話をしていると、1発の銃声が響きました。すると奥から秀吉の側室らしき女性が笑いながら出てきて、それは亡き織田信長の妹・お市の遺子の茶々(北川景子さん)でした。茶々が愛おしくてたまらない秀吉は茶々が家康や自分に銃を向けて撃つマネをする無礼をしても笑って許していました。越前・北ノ庄城の落城(1583)後、秀吉の庇護のもとに大事に育てられたとは思えないほど狂気じみた笑いを浮かべる茶々に、家康はただ驚くばかりでした。
September 27, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、長らく続くむごい戦乱の世を終らせるために徳川家康(松本 潤さん)が豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従する決意をし、家康が上洛したことで生じた大坂と岡崎の出来事が話の中心になりました。このドラマでは前半は出番がなかった秀吉の正妻・寧々(和久井映見さん)でしたが、ここにきていよいよその存在感を出してきました。会見前夜の豊臣秀長(佐藤隆太さん)邸での宴会のシーン。秀吉は寧々の手を引いて徳川の重臣たちを次々と寧々に紹介していくのですが、今や天下人となった秀吉は誰に対しても言葉を選ぶことなく言いたい放題です。そんな夫をフォローしながら回る寧々は女性であっても「豊臣にはこの人あり」と思わせる存在でしょう。寧々の才覚や性格はあの織田信長も気に入っていたし、秀吉子飼いの武将たちも寧々が育てて、年齢は秀吉より一回りくらい下でも、秀吉が頭が上がらない唯一の人であったと十分に想像できます。その秀吉ですが、この勢いのまま天下一統を成し遂げた後は、家康が望む「戦のない世」は不可能だとばかりに大陸へ進出する野望を抱いています。ただこれは、戦がなくなったら武士たちをどうやって養っていくのかという秀吉の考えがあり、もしかしたら育ちの良い家康には気がつかない視点かもしれません。子供の頃から貧しくて身分が低かったゆえに、人は豊かでないとどうなるかをたくさん見てきました。出自の低さでこれまでさんざん人に馬鹿にされてきて、その反動での権力欲もあるでしょうが、天下人として民のことを、国全体を考える面もあったのだと、このドラマからは感じました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正14年(1586)、家康に臣従を迫る豊臣秀吉は妹の旭(山田真歩さん)を家康の正室として嫁がせ、さらに10月には自分の母親の大政所・仲(高畑淳子さん)を旭のいる岡崎に送ってきたため、家康は「この世を浄土にする」ために、秀吉に臣従する決意をして上洛していきました。岡崎城では大久保忠世(小手伸也さん)が仲を出迎え、仲は到着したときは娘の旭に会えて喜びつつも長旅で疲れた文句を言ってましたが、そこにいた井伊直政(板垣李光人さん)を一目で気に入り、旅の疲れを忘れたようでした。大坂に到着した徳川家康(松本 潤さん)は豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の弟の秀長の屋敷に入ったと思ったら、そこに突然、秀吉がやってきました。秀吉は妻の寧々(和久井映見さん)ともてなしの女たちや囃子方を連れてきていて、早々にニギヤカな宴会が始まりました。秀吉は寧々の手を引いて徳川の家臣たちを紹介して回り、互いに挨拶する際に寧々は言葉足らずの夫・秀吉を上手に補佐していました。2年前の小牧・長久手の戦では敵として高札に秀吉の悪口を書いた榊原康政(杉野遥亮さん)に秀吉が嫌味を並べそうになれば、寧々は夫と康政の間に入って康政をかばい夫を引き離していきました。秀吉は家康に、姻戚関係を結んだ豊臣と徳川はもう一つの家だ、互いに身内だと上機嫌にはしゃいでいました。宴会もお開きになり、ご機嫌に酔った秀吉は座敷で寝てしまいました。寧々は夫がここまでハメを外したのは久しぶりと家康に言い、また豊臣秀長(佐藤隆太さん)は「人を知るには下から見上げるべし。人は自分より下だと思う相手と対する時、本性が現れる。」と兄・秀吉の生き方を語りました。そこに寧々が「信用できるのは2人だけ。裏表がない信長様と徳川殿と言っていた。」と付け加え、秀長も「だから兄は徳川殿が来てくれて心の底から嬉しかった。」と秀吉の思いを伝えました。そして天下一統したいという思いは秀吉も同じだから末永く支えて欲しいと、秀長と寧々は家康に頭を下げました。さて、前夜の宴の後で家康が「もう殿下(秀吉)に陣羽織は着させぬ覚悟。」と言ったことが気に入った秀吉は家康に、大坂城で諸侯が居並ぶ場でその言葉を言って欲しいと言い、ご丁寧に台詞の紙まで渡しました。家康は秀吉に臣従する挨拶をし、その後は互いに視線をチラチラ送り合いつつ「陣羽織」の芝居を演じ、どこかぎこちない2人のやりとりだけど諸侯も感心したようで、家康はなんとか役割を果たしました。さて家康の帰りを待つ岡崎城では、仲は超お気に入りの直政をそばに置いて、時にはまるで息子のようにかいがいしく世話を焼いて喜んでいました。そんな直政だけど、大坂で万一、主君・家康の身に何かあれば仲を焼き殺すと言って、庭に薪や柴を用意させていました。三河に戻る前夜、家康は秀長から、秀吉の養子として出した我が子の於義伊が秀吉にたいそう気に入られていると聞いて安堵しました。そして家康は、豊臣家臣の変わり者と呼ばれる石田三成(中村七之助さん)と出会い、星を観察している三成といろいろな話をしました。知識欲旺盛な三成の話はとても興味深く、三成はまた「政も新たなるやり方や考え方が必要」とも言い、家康は三成と尽きることなく話をしていました。そんな家康を見て、家康の傍でずっと仕えてきた酒井忠次ら徳川の重臣たちは、家康は戦の話ではなくああいう話がしたかったのだとしみじみと思い、学問の話で盛り上がる二人を見て、戦なき世がそこまできているとさえ思いました。翌朝、大坂を出る前に家康は秀吉に挨拶をし、この上洛が良い時間になったと秀吉に礼を言いました。そして家康が、信長の妹・市が遺した3人の姫たちの近況を訊ねると、秀吉は姫たちは健やかに麗しく育っていると嬉しそうに語り、特に長女の茶々には目をかけているようで、「もうじき茶々と」と嬉しくてたまらない様子で言いかけたところで秀長に口止めされました。秀吉はこれから九州平定に向かうので家康には関東の北条を従わせるよう言い、その前に家康がなんとかしなければならない信濃の真田昌幸については、秀長は真田が徳川に赴くよう言うので説き伏せるようにと言いました。11月半ば、家康と秀吉の会見も無事に終わり、人質の役目も終えて間もなく大坂に戻れる仲でしたが、仲はなぜか帰りたくないと言い出しました。少し前に仲は、周りは自分を天下人の息子を持って幸せと言うけど、秀吉が出世するまでは貧しい百姓で朝から晩まで働きづめながらも自分らしく生きていた、なのに今はすることもなく窮屈な生活だと愚痴をこぼしていました。大久保忠世が「ご自慢の息子・関白が待っている」となだめても仲は、「あれは私の息子なのか?私はあれのことを何も知らん。十で家を出たあれが今や関白?あれは何者だ?私はとんでもない化け物を生んでしまった。恐ろしい。誰かが力づくで首根っこを押さえたらんとエライことになるだろう。」とおびえながら話し、そう家康に伝えるよう忠世に頼みました。12月、家康は16年暮らした浜松を離れて駿府城に移ることになりました。そこで家康は浜松の民たちに別れの挨拶をしようと思い、町に出て餅や握り飯を人々に振舞っていました。殿様からの振る舞いを皆は喜んでいましたが、その中にどうしても受け取れないという老婆(柴田理恵さん)がいました。聞けばその老婆は家康が浜松に来た折に、餅に石を入れる意地悪をしたり、思い込みの悪口をさんざん言い触らしていたと言います。そして老婆が土下座をすると何人かの者たちが次々と集まって家康に土下座をし、自分も殿の悪口を吹聴したと謝っていました。でも家康は今はもうそんなことは全く気にしていなくて、それどころか存分に語り継いで自分を笑えばいいと、笑って彼らを許しました。家康が駿府城に移って程なくして、真田昌幸(佐藤浩市さん)が嫡男の真田信幸(吉村界人さん)を連れてやってきました。沼田領のことで徳川と揉めている昌幸は終始不機嫌で家康に対して皮肉も言い、しかし昌幸のほうが話の筋が通っているので、家康も沼田のことは自分の落ち度と認めざるを得ませんでした。そこで家康は代替地を与えるから沼田を渡すようにと言いますが、昌幸は家康を信用していないと言い、逆に嫡男・信幸の嫁に徳川の姫を欲しいと言いました。酒井忠次(大森南朋さん)が殿にはあいにく年頃の姫がいないと言うと、昌幸はならば重臣の姫を家康の養女にしてという形でもよいと言いました。家康と昌幸の間でそのような話が進んでいる頃、於愛の方(広瀬アリスさん)は城で仕える娘たちに生け花の稽古をつけていました。その中の一人の稲(鳴海 唯さん)は稽古に集中できないようで、理由は重臣で父の本多忠勝(山田裕貴さん)が稲の稽古を窓越しに見張っていたからでした。「このままでは輿入れ先がない!」ーー忠勝はお転婆でたしなみのできていない娘の稲を案じて、一層厳しくしつけるよう於愛に頼んでいました。
September 20, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)が今や天下人となった豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従するために上洛するか否かで、家康と秀吉の駆け引きが、秀吉の妹・旭(山田真歩さん)を巻き込んでの展開となった回でした。私はこれまでいろいろな戦国ドラマを見てきて、その中で旭の話は本当に印象が薄いものでした。これまででは家康は旭を正室として粗略に扱うことはないものの、妻としての情を感じることはありませんでした。でもこの『どうする家康』では、山田真歩さん演じる旭という人物と、旭に対する家康の心情の変化ととった行動がとても印象的でした。女人としての色香には程遠い自分が、兄・秀吉に言いつけられた役割をなんとか果たそうと、前夫との辛い別れのことは徳川家では微塵も感じさせず、努めて明るく振舞い周囲にとけこもうとしました。そんな旭のけなげさや相手への思いやりは、計算ではなく、於大(松嶋菜々子さん)と於愛(広瀬アリスさん)らの女たちの心を動かし、旭の味方となりました家康を唯一、遠慮することなく叱れる於大や、側室だけど家康に対して何でも追従じゃなく、自分の思うところをけっこう言ってしまう於愛の存在がいいですね。そしてラストで、旭の身の上や立場を思いやることなく今まで冷たい態度をとってしまったことを家康が詫び、「そなたはわしの大事な妻じゃ。」と旭にハッキリ言い、旭が嬉しくて泣いてしまうシーンは感動でした。そんな旭だから家康は、正妻として愛おしく思い、またそんな於愛だから家康は、自分の協力者であり奥の差配を任せる女人として頼りにでき、側室として愛おしく思うのかなと感じていました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正13年(1585)11月、徳川家の家老だった石川数正は一族郎党を連れて敵対する豊臣秀吉のもとに出奔し、徳川の家中は大きな衝撃を受けました。徳川家の全てを知る数正が秀吉についたから今度こそ秀吉は徳川を攻めてくるだろうと本多正信(松山ケンイチさん)は進言し、徳川家康(松本 潤さん)はすぐに守りを固めるよう井伊直政(板垣李光人さん)に命じました。数正が自分に相談もせずに去っていったことを酒井忠次(大森南朋さん)は寂しく思い、また家康は数正を思い出すことを不快に思うばかりでした。その家康は上洛して秀吉に臣従か秀吉と戦か、選択を迫られていました。11月末、天正大地震が発生し(現在の)近畿・北陸・東海(地方)にかけて壊滅的な被害をもたらしました。家康の領国も大きな被害を受け、於愛(広瀬アリスさん)が城の奥の片付けをしていたときに、数正が残していったけど家康に命じられても処分できなかった木彫りの仏と木箱を見つけました。家康が見回りに出るときに声をかけられた於愛はとっさにその木仏を隠したけど見つかってしまい、家康は不快感をあらわにしましたがそのまま出ていきました。そしてこの大地震は秀吉の治める畿内周辺の被害が甚大で、家康との戦に備えていた大垣城も焼け落ちてしまいました。寧々は秀吉に、もはや戦どころではない、領国内の立て直しが急務と進言し、もちろんそれを十分にわかっている秀吉は、家康という男の運の強さをいまいましく思っていました。そんな頃、前年の小牧・長久手の戦(1584)では徳川と同盟を結んだもののその後に秀吉の側についた織田信雄(浜野謙太さん)が岡崎城を訪れ、秀吉はまさに兵を差し向ける寸前であったけど大地震で中断し、家康は命拾いをしたのだ、早く上洛を、と話をしました。さらに仲介役で張りきるような顔で家康に、負けを認めるべき、天下は秀吉のもの、数正は賢かったと言葉を並べるので、家康もたまらず信雄が勝手に秀吉と和睦をせいでと言い返しました。忠次は冷静に、徳川は秀吉を信用していない、上洛すれば殺されるかもしれないと思いを伝えました。そう聞いた信雄は、ならば秀吉の方から人質を出せば家康は上洛するのだと考え、そのまま秀吉に話を伝えてしまいました。徳川に出す人質として秀吉は、妹の旭(山田真歩さん)を家康の正室にすればいいと考え、夫のいる旭を無理やり離縁させて岡崎に送ることにしました。もう正室は置かないと決めていた家康は不承知でしたが、秀吉の妹ならば大いに利用する価値はある、上洛はまた別のこと、と正信に進言され話を承諾しました。天正14年(1586)5月、旭は家康に輿入れして浜松に到着しました。披露宴の席では、今や関白の妹という地位になっても言葉や振る舞いは変わらず尾張の百姓のままという旭に、家康も家臣一同も驚きを隠せませんでした。そんな旭は、家康は自分に興味がないこともわかっていて、形ばかりの夫婦だ、自分みたいなので申し訳ない、と家康に思いを伝えていました。兄・秀吉から「徳川でうまくやれ。でないと次はかか様が人質に行くことになる。これくらい役にたて。」と言いつけられてた旭でしたが、姑の於大の方(松嶋菜々子さん)や家康の側室の於愛にも気さくに明るく接していて、於大も於愛も自分を飾らず偉ぶらない旭に好感を抱いていました。大坂や京の土産で話が盛り上がり、旭の周りにはいつも女たちの笑い声が響いて楽しそうでした。一方、大坂に行った数正のことを探った正信によると、数正は特にこれといった働きもしてなくて、与えられた屋敷で静かに暮らしているとのことでした。家康は数正のことを考えないでおこうとしていましたが、一人になると「私はどこまでも殿と一緒。」と言った数正の最後の言葉が脳裏をよぎっていました。妹を嫁がせても一向に上洛する様子がなく自分に臣従しない家康に、豊臣秀吉(ムロツヨシさん)は業を煮やしていました。そこで秀吉はいよいよ大政所の自分の母親を岡崎に人質として送る事を決めたのですが、ただし、かか様が着いたその日に家康が上洛しなければ、今度こそ天下こぞっての大軍を送って戦になる、これが最後通牒だと家康に伝えるよう、弟の豊臣秀長(佐藤隆太さん)に命じました。そして母・大政所が岡崎に来ると於愛から知らせを受けた旭は兄の言葉を思い出して一瞬顔が曇り、でもすぐにいつもの笑い話にしてごまかしていました。ただ旭の様子は何かおかしいと、於大と於愛はすぐに気がつきました。於大と於愛は家康のところに行き、上洛についての家康の考えを確かめました。あくまでも上洛を拒む家康に於愛は「あちらは妹君に加えて老いたる母君まで差し出すのに。」と言い、さらに旭の身の上が不憫であると家康に進言しました。それでも「旭は猿の妹。正室は瀬名一人。」と言って自分の考えを通そうとする家康を見て母・於大はたまらず「人を思いやれるところがそなたの取り得だと思っていたが。」と家康をたしなめました。そして乱世にほんろうされた於大だからこそ、ないがしろにされる者を思いやるよう、息子・家康に言いました。家康は女二人の言葉には返事をせずに評定に出ていったのですが、その途中で一人泣き崩れる旭の姿を見てしまいました。評定になり、秀吉の使者がこちらに向かっているから上洛するか否かの決断が迫られていることを、家臣たちも承知していました。本多忠勝(山田裕貴さん)ら若い重臣たちは相変わらず主戦論者で何年でも戦を続けると強気でしたが、家老の酒井忠次は彼らに「秀吉を相手に本気で戦えると思っているのか。どんな勝ち筋があるのか。」と考えを問いました。そして家康にも「本当は我らは負けたとわかっているはず。でもそれを認めないのは、亡き人(瀬名・信康)に心をとらわれているから。」と言い、その思いは忠勝と榊原康政(杉野遥亮さん)も同じでした。その時、評定のさなかとわかっていても於愛は中に入ってきて、自分には難しいことはわからないけどと言いつつ、(亡き瀬名が目指した)戦無き世は他の人がつくってもよいのではと進言しました。続けて忠次が、数正は自分が出奔すれば徳川はもう戦ができなくなり、それが殿と皆と徳川を守ることになるのだとわかっていたのだと言い、さらに正信がだから数正は己一人が間者となって罪を一人で背負ったと考えを述べました。そして於愛は数正が置いていった木仏と木箱を出し、中の押し花を広げました。それはかつて瀬名がいた築山に咲いていた花で、家康はすぐに気がつきました。於愛は、数正は言葉には出さなかったけど亡き瀬名と信康にいつも思いを馳せていたのではと言い、押し花と共に誰もが亡き二人に思いを寄せました。家康は忠勝と康政に、自分が天下人となることを諦めてもよいかと問い、さらに皆に秀吉にひざまずいてもよいかと涙を浮かべて問いました。忠勝が「数正のせいじゃ。」と言いだし、続けて皆も口々に「数正のせいで戦えなくなった。やむを得ん。」「やつのせいで。責めるなら数正だ。」と悔し涙を流しながら、でも心のどこかでは「数正、あっぱれ。」と思いつつ、今ここにはいない数正をののしりました。家康はようやく上洛して秀吉に臣従する決意ができました。一方、その石川数正(松重 豊さん)は大坂では変わらず仕事を与えられることもなく、妻の鍋(木村多江さん)と静かに暮らしていました。鍋は夫・数正のことをちゃんと理解していました。出奔すればこのような処遇に遭うとわかっていたけど出奔した、でもそれは殿・家康が大好きで殿と徳川を守るためだったと。鍋の言葉を数正は遮って「あほたわけ」と言ったけど、言葉とは裏腹の通じ合う優しい思いに二人は笑っていました。評定の後、家康は旭の部屋に立ち寄りました。家康が来て慌てて涙をふき、いつものように明るく、母が来ればまたやかましくなると家康を思いやりました。そんな旭に家康は「もうお道化なくてよい。辛い気持ちを押し隠し、両家の間を取りもとうと懸命に明るく振舞ってくれていた。なのに老いた母君まで来させる事になり、まことに申し訳ない。」と言って頭を下げました。そして上洛する決定を伝え、旭のおかげで家中が少し明るくなったと礼を言い、「そなたはわしの大事な妻じゃ。」と旭に優しく微笑みました。前夫と離縁させられた辛さや、兄・秀吉のために自分なりに懸命に徳川で努めてきた思いなどが一気にあふれだし、旭は嬉し涙が止まりませんでした。家康は旭を優しくいたわり、そして瀬名への思いを象徴する木彫りの兎を封印し、天正14年(1586)10月、大坂に向けて出立していきました。心の中では「自分が秀吉を操ってこの世を浄土にする。」と誓って。
September 6, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)の幼い頃より傍で仕え、家康を守り導いてきた家老の石川数正(松重 豊さん)が出奔し、よりによって敵対する羽柴秀吉(ムロツヨシさん)の家臣となってしまう回でした。私は史実としてこれを知っていたので『どうする家康』で石川数正の配役が松重 豊さんと知ったとき、松重さんがこの場面をどうやって演技するのか興味津々でした。小牧・長久手の戦(1584)で秀吉に勝ったことですっかり強気になってしまい、主戦論者であふれる徳川方。一方、数正はあの織田信長を超えたとさえ思う秀吉の持つ「力」を知るがゆえに、この小牧・長久手の戦は局地戦に勝っただけにすぎないことをわかっていて、このまま秀吉に臣従しないと徳川家が潰されると予想しています。現段階での実力がまるで違う秀吉を相手に徳川家では到底かなわないのに、本多忠勝・榊原康政・井伊直政といった若い重臣たちは希望的観測と精神力だけで徳川がまた勝つと言い、しまいには数正を裏切り者呼ばわりします。そして秀吉にはどうしても屈したくない主君・家康です。徳川家を守るために「今は」我慢して秀吉に従うべきだと訴えても、家康は受け入れません。しかしドラマの終盤、家康と数正が二人だけで話をして、そのとき数正は主君・家康を天下人にするのだと改めて決意し、その思いを力強く声に出して家康に伝えます。そしてとった行動は、まず家康を守るために(秀吉と戦をさせないために)一族郎党を引き連れての出奔でした。数正が力強く宣言したあの場面は、観ていて私も感動でじ~んときたし、家康役の松本潤さんも松重さんの演技に本当に泣いていたと思います。数正の思いを感じる、想像以上に感動した神回でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正12年(1584)小牧・長久手の戦で徳川家康(松本 潤さん)は羽柴秀吉に勝利しましたが、秀吉はまず家康と共に戦っていた織田信雄を臣従させ、次は家康を臣従させるために家康の子を誰か、人質ではなく自分の養子として手元に置く、それが嫌なら徳川を滅ぼすと考えていました。その旨の書状が家康に届けられ、家康や若い重臣たちは徳川が勝利したのになぜこちらが養子(人質)を差し出すのかと怒りを露わにしていました。筆頭家老の酒井忠次(大森南朋さん)は「総大将の信雄が和睦したのだから」と若い衆をなだめ、まずは秀吉と話をと石川数正(松重 豊さん)が大坂の秀吉の元に使者に立つことになりました。大坂から戻った数正は主君・家康の望む成果でなかったことを詫び、秀吉に押し付けられた金を家康に差し出しました。ただ養子には側室のお万(松井玲奈さん)が産んだ於義伊(岩田琉聖くん)を行かせることに決めました。お万は於義伊を秀吉の元に行かせることを快諾し、万一また徳川と羽柴が事を構えることがあった折には於義伊の事を気にかけなくてもいいと言い、於義伊も自分の事は捨て殺しにしてもいいと気丈に答えました。そして於義伊の供として数正の子・勝千代が行くことになりました。天正13年(1583)5月、秀吉は徳川との交渉を進める一方で弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)を信州に遣わし、真田昌幸(佐藤浩市さん)を取り込もうと画策していました。昌幸は領地の沼田のことで徳川には不快感があり、また越後の上杉と手を組んだものの上手くいかなかったこともあり、間もなく関白になるという秀吉の側にあっさりと寝返りしました。そして7月、秀吉は公家の最高職である関白に任官され、名実ともに亡き織田信長を超えたことに家康は驚きを隠せませんでした。数正は再び大坂に使者にたち、関白となって姓を羽柴から豊臣と改めた秀吉(ムロツヨシさん)と談判しました。秀吉は壮大な大坂城や城下町の繁栄を数正に示し、そして数正の器量を認めて自分の家臣になるよう言いました。もちろん数正は我が主は徳川三河守とその話を固辞しましたが、秀吉は自分は関白であり日ノ本全土の大名は我が家臣と同様、家康も自分に従うべきと今度は圧力をかけるように数正に言いました。それでも数正が、徳川は和睦しただけで臣下の礼はとっていないと反論すると秀吉は自分の軍事力を示し、家康には直ちに臣下の礼をとって人質をもう一人差し出すよう、さもなくば家康の領地は焼け野原だと数正に言いました。しかしその時、正妻の寧々(和久井映見さん)が出て秀吉の物言いをたしなめ、秀吉は態度を改めて日ノ本を平和にして繁栄させたいのだと数正に伝えました。真田昌幸が秀吉に寝返ったことを知った家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)、平岩親吉、大久保忠世らを信州の上田城に送り、合戦となりました。しかし元忠らは予想外の敗北を喫し、真田の背後には秀吉があると考えました。破竹の勢いで四国と北国を制した秀吉は次々と大名の「国替え」を行っていて、秀吉にひれ伏せば徳川も三河を追いやられるだろうと考えたとき、本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)と井伊直政(板垣李光人さん)はそれは絶対に認められない、2年3年籠城して決戦あるのみと息巻いていました。家康もこれ以上人質を送る気はなく秀吉と決戦をする考えでした。しかし数正に意見を求めたとき数正は「徳川は秀吉に臣従すべき。秀吉は名実ともに信長を超えた。大坂の町は富にあふれ、大坂城は安土城を超えた巨大さと美しさ。もはや秀吉の天下は崩れぬ。戦となればこの岡崎が焼け野原となる。」と言い、直政ら若い重臣たちは数正が秀吉に寝返ったとののしりました。徳川の多くの者は小牧・長久手の戦で秀吉に勝ったから自分たちは戦になっても秀吉には勝てると思い込んでいて家康も同じでした。家康が自分は秀吉には劣るのかと数正に問うと、秀吉の人の心を掴んでいく様や欲しいものを手に入れるために手段を選ばないことをあげ、秀吉は化け物だから殿はかなわないと数正は答えました。それでも家康が秀吉との決戦を言うので数正は「岡崎城代としてお断り申す!」と強く反論し、数正は家康に岡崎城代の任を解かれてしまいました。退席して家に帰った数正を酒井忠次が訪ねました。忠次は数正が調略されたとかではなく殿と皆を思ってのことだとわかっていると言い、ただそれでも今まで苦労して手に入れた国は失いたくないと言いました。数正は秀吉が天下一統すれば日ノ本全てが秀吉のものになり国はなくなると言い、これは秀吉の手腕を見てきた数正にしかわからないものがあるのだろうと思った忠次は、数正に家康と二人きりで話すように勧めました。参上した数正に家康は先日のときの怒りはなく、むしろ自分は幼い頃から数正に叱られてばかりだった、でもそのおかげで今の自分がある、数正が自分をここまで連れてきてくれたと、しみじみと感謝の思いを伝えました。そして数正の言い分もわかっているつもりだと。家康はそれでも、秀吉に屈するわけにはいかない、勝つ手立てが必ずあるはずだと言い、(先日は怒りの勢いで岡崎城代を解任してしまったが)そなたがいなければできないと思いを伝えました。家康にそう言われて、数正も静かに胸の内を語りました。「これまで数え切れないほど戦をして実に多くの仲間を失った。今もよく夢に出る。あの弱く優しかった殿が、かほどに強く勇ましくなられるとは。さぞやお苦しい事でしょう。」としかしそう言われた家康は「戦なき世を作る。この世を浄土にすると決めてきた。苦しくなどない。」と否定し、立ち上がって語気を強め「王道をもって覇道を制す!わしにはできぬと申すか!」と数正に問いました。家康のその姿を見て数正は少しだけ笑みを浮かべ「秀吉にひれ伏すなどと申したらこの国を守るために死んでいった者たちが化けて出る。危うく忘れるところだった。殿を天下人にすることこそ我が夢であると。」と。そして背筋を伸ばして家康に向かい「覚悟を決め申した!もう一たび、この老体に鞭打って大暴れいたしましょう!」と力強く言いました。そして手をついて家康の目を見て「私は、どこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、すっと立ち上がって「羽柴秀吉、何するものぞ!我らの国を守り抜き、我らの殿を天下人にいたしまする!」と腹の底から声を出して宣言したかと思うと、ニヤリと笑って退室していきました。しかし廊下で今一度立ち止まり、家康に背を向けたまま「殿、決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、数正は去っていきました。数正は妻子と家臣たちを引き連れ、闇夜に紛れて岡崎を出ていきました。そう、数正の“覚悟”とは、徳川を守るために自分が出奔して、秀吉のところに行くことだったのでした。大坂城に挨拶に来た数正と妻の鍋を、秀吉と寧々は歓待しました。主従の固めの盃をかわした数正に秀吉は、今日からは「石川出雲守吉輝」と名を改めさせ、数正も謹んでそれを受けました。数正が出奔した報を受け、家康は急ぎ数正の家に入りました。あのとき「どこまでも殿と一緒」と繰り返し言っていた数正。なのに数正の覚悟とは出奔することだったのかと、「関白殿下、是天下人也」と書かれた置手紙を見て、家康は呆然としていました。
August 30, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」の後半で、ドラマでは主役の徳川家康(松本 潤さん)よりも、家康の周りを固める榊原康政(杉野遥亮さん)ら若い大将たちの活躍や思いがより深く描かれた回でした。大河ドラマで2回にわたってやるから、康政のあの悪口の立札が出てくるかと思ったら、出てきました。でも発案が本多正信(松山ケンイチさん)で、悪口のネタを皆で考えたという展開がいいですね。あと「三河中入り」の作戦を正信が見抜き、軍議の場にいた皆がハッと気づき、人夫に突貫工事を命じて、時間が惜しい最後は若い大将たちも一緒に泥だらけになって働いた姿は、皆で一丸となって困難を乗り越えてきた徳川方らしい描写に思えました。ただ一つ、私が残念に思ったのは後半で「岩崎城の戦い」のことがナレーションもなく終わったことでした。岩崎城は長久手古戦場よりほぼ南に約3kmの位置にあり、三河中入りの池田恒興が岡崎に向かう途中にありました。この岩崎城を守る丹羽氏次は徳川方で、この時は弟の氏重が守る、兵の数は300ほどの小城でした。氏重と城兵たちは岡崎に向かうであろう池田勢をくい止めるために、全員打ち死に覚悟で7000の敵兵に挑んでいきました。そして丹羽勢は全滅してしまったのですが、ここで先発隊の恒興の進軍が止まった間に、最後尾にいた秀吉の甥・秀次に小牧山城を出た徳川方が追いついて、恒興が引き返していくことになったので、大きな意義のある戦いとなりました。だから少しでもこのドラマの中に組み込んでほしかったな~と思うばかりであります。※岩崎城のHPです ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正12年(1584)3月、羽柴秀吉との決戦のために徳川家康(松本 潤さん)は秀吉が陣を構える楽田城より南に1里半にある小牧山城を堅固な要塞に作り替え、そこを本陣として対峙しました。しかし両軍とも膠着状態のまま日が過ぎるばかりなので、本多正信が秀吉の悪口を書き連ねてそこら中に立札を立てて相手を挑発してはどうかと発案。榊原康政(杉野遥亮さん)もそれに賛同し、皆がそれぞれに秀吉をののしる言葉を考え、字が上手い康政が清書してあちこちに立札を立ててきました。それらの立札を池田恒興(徳重 聡さん)が集めて羽柴秀吉(ムロツヨシさん)に報告し、内容を読みあげました。あまりの内容に弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)は途中で読むのをやめさせました。でも秀吉は、この罵詈雑言の立札は康政が自分を怒らせようとしているのだと見ぬいていて、さらに自分はこれまでにもっと酷いことを言われ続けてきたのだと言って、こんなのは可愛いもんだと平然としていました。(たしかに秀吉は出世するまでは、さんざん武士たちから侮辱され時には蹴飛ばされて、人としての尊厳を踏みにじられても我慢し続けてきましたからね。)そして「この卑しき野人の子に家康はひざまずくのだ。」と笑い、同時に恒興の態度が大きいことへの苛立ちを密かに弟・秀長には漏らしていました。そろそろ秀吉が動き出すであろうと考える徳川方では軍議が開かれ、家康は本多正信(松山ケンイチさん)に意見を求めました。正信は自分が秀吉ならばここを攻めると机の外に石を落としました。本多忠勝(山田裕貴さん)は最初は「ふざけたことを!」と怒ったけどすぐに正信の言わんとしていることに気がつきました。それは絵図面の外、つまり秀吉は岡崎を狙うだろうという意味で、その意図を家康も康政も他の重臣たちもすぐに理解しました。康政は翌日から、堀と土塁を作る人夫たちに修正した図面を渡してこのように作るよう命じ、忠勝も人夫たちに急ぐよう命じました。徳川方がひたすら堀を作っているのを見た秀吉たちは、家康は小牧山城にこもるつもりだと考えていました。そこへ恒興と娘婿の森 長可(織田信長の小姓・森蘭丸の兄;城田 優さん)が来て、家康を引っ張り出す策があると言いました。それは家康の本領の三河を攻めるというもので、恒興の軍勢が密かに出陣して岡崎城を狙い、それを聞けば家康もすぐに出てくるというものでした。秀吉は「三河中入り」は気乗りしませんでしたが、恒興が自分がいるから織田家臣たちが付いてくる、ここは自分に従えと強気でした。秀吉は一晩考えると言い、恒興たちが去った後で、そんなのは自分もとっくに考えてたけどやるなら密かにやりたかった、恒興は己の手柄にするためにもう兵たちに言いふらしているだろうと、不快感をあらわにしていました。堀作りを急ぐため、忠勝や康政たちも人夫と一緒に作業していました。その折に井伊直政は本多正信かつて殿・家康の命を狙ったことがあるのかと問い、実は自分もそうだったと打ち明けました。直政は「なぜ殿は自分たちを赦し信じてくれるのか。戦なき世を作るのはそういうお方だ。」と言い、そして「ご恩に報いてみせる。」と自分に固く誓いました。また若い頃は自分の傘下にいた康政が(出世し、加えて)こんな見事な図面を描くようになっていたのかと、忠勝は思いを康政に伝えました。康政は「お主に追いつき追い越すのが望みだった。でも戦場ではかなわないから、おつむを鍛えた。」と言いました。そんな忠勝は「殿を天下人にするまでは死ぬわけにはいかん。」と決意を康政に伝え、作業に戻っていきました。秀吉は三河中入りを決定し、総大将を甥の羽柴秀次にして池田恒興と森 長可と堀 秀政に出陣を命じ、その軍勢は3万となりました。羽柴方出陣の報を聞いた家康は、あとは堀の仕上がりを待つのみでした。夜になり、康政から堀ができたと報を受け、中入り勢を叩く出陣となりました。一大決戦となる出陣に向けて家康は改めて皆に思いを伝えました。「弱く臆病だったこのわしがここまでやってこられたのは、今川義元に学び、織田信長に鍛えられ、武田信玄に兵法を学んだから。そしてなにより良き家臣たちに恵まれたからにほかならぬ。礼を申す。」そして力をこめて「この戦を我らの最後の大戦とせねばならぬ!今こそ我らの手で天下をつかむときぞ!」と家臣たちを鼓舞し、出陣していきました。夜陰に紛れて密かに小牧山城を出陣した徳川方は、羽柴方に気づかれることなく進軍し、榊原康政ら先発隊は白山林(現在の愛知県尾張旭市、長久手古戦場より北西に約4km)で羽柴方の最後尾の秀次勢をとらえました。「悪逆非道の秀吉に思い知らせてやれー!」ーー康政は皆を鼓舞し、徳川方の進軍に気づかず油断していた羽柴方に容赦なく襲い掛かりました。(このとき羽柴方で岡崎に向けて先発していた池田恒興と森 長可と堀 秀政は秀次のところに急ぎ引き返しています。)家康から旧武田の兵を任され、この一大決戦に向けてまとめ上げた井伊直政(板垣李光人さん)は出陣にあたり、徳川への仕官を決めたときに母・ひよから言われた「徳川様を天下一のお殿様になされ。井伊家の再興はそなたにかかっておる。」という言葉を思い出していました。「やってみせますぞ、母上。」ーー直政は今一度心に固く誓い、真に自分の家臣となった旧武田の兵たちを率いて出陣していきました。家康自身が戦場に出てきたと知った池田隊と森隊が襲い掛かってきましたが、直政隊はそれを壊滅させ家康を守りました。家康がいつの間にか小牧山城を出て、長久手周辺で三河中入り隊を叩いていると知った秀吉は、自身も3万の本軍を率いて出陣しました。その秀吉が龍泉寺城(長久手古戦場より北西に約8km)に来たとき、本多忠勝勢がわずか500の兵で立ちはだかりました。忠勝は名乗りをあげ「こっから先は一歩も通さん!」と羽柴勢に立ち向かい、鬼神の働きで秀吉の進軍を妨害しました。家康は色金山(長久手古戦場より北に1.5km)に陣を構えて総指揮をとり、長久手で池田恒興と森 長可を討ち取り、三河中入り勢を壊滅させました。その後で家康はすぐに小幡城(秀吉のいた龍泉寺城より南西に約2.5km)に引き上げ、さらにその翌日には小牧山城に引き上げていきました。秀吉はその報を聞き、すぐに引き上げを決めて西に戻っていきました。小牧山城に戻った家康は、堀や土塁の突貫工事からこの勝利の帰還までずっと働き続けた家臣の皆と、勝鬨で喜びを分かち合いました。一方、陣に戻った秀吉はこの敗北をなんとも思っていなくて、むしろこれで自分に対して偉そうな態度をとっていた池田恒興がいなくなってよかった、とまで言っていました。さらに弟・秀長と子飼いの武将の加藤清正と福島正則に「これは策ではない。三河中入りは池田恒興が無理強いしてきた策だ。わしの言うことを聞かないからこうなったと言い回れ。」と命じていました。そして亡き織田信長によって鍛えられ強くなった家康の力を認めつつも、この戦の総大将は信雄だから何も案ずることはない、と笑みを浮かべていました。小牧山城では徳川の皆で酒を飲んで歌って踊って、勝利を味わっていました。そんな中でただ一人、石川数正(松重 豊さん)だけは浮かない顔をして、宴の場から離れて考えにふけっていました。家康が数正を気遣い声をかけると数正は、会心の勝利と喜んでいる、忠勝ら若い大将たちは見事だった、されど秀吉には勝てないと思う、と。家康がその意味を問うと「一つ戦を制しただけのこと。秀吉は我らの弱みにつけ、そこにつけこんでくるだろう。」と数正は言い、その言葉が気になった家康はこれで我らの天下だと宴に浮かれる皆のほうを見て考えてしまいました。
August 23, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はいよいよ天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに突入しました。豊臣秀吉や徳川家康を扱う長編ドラマでも、なぜかこの小牧・長久手の戦いは軽めに流されてしまうことが多くて、信長・秀吉・家康の3英傑を出した愛知県人の私としては少々残念に思っていました。でもこの『どうする家康』では、小牧・長久手の戦いが1回で終わっても満足なのに、がっつり2週にわたってやってくれるようです。舞台は愛知県西部の濃尾平野で、ドラマで出てくる地名の場所や距離感がだいたいわかる尾張の地元民としては、たまらなく嬉しいことであります。今週は羽柴秀吉(ムロツヨシさん)との戦いに挑む前に、徳川家康(松本 潤さん)が苦楽を共にしてきた家臣団のそれぞれと思いを語り合い、互いに決意を固めていくのがストーリーの中心で、それぞれに面白いものでした。天下一統への勢いのまま、家康の存在を認めるがゆえに家康を潰しにくる秀吉と、強大な秀吉に勝てる確信はないけど戦わねば秀吉のいいようにされてしまうのでそれは防がなければならない家康の意地と誇りがぶつかります。今回出てきた犬山城、小牧山城、おそらく来週出てくるであろう龍泉寺城、岩崎城などは高台になっていて、眼下には平地が見渡せて、現代の建物がなかった戦国の当時なら敵の進軍が良く見えたと思います。アクセスは良くない場所が多いですが、ご興味があれば、機会があれば、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正11年(1583)織田信長が亡き後の覇権争いで柴田勝家を破った羽柴秀吉(ムロツヨシさん)は天下人への階段を駆け上がっていました。秀吉の力を恐れる公家や僧や戦国大名たちは皆こぞって貢物を持って秀吉の元に祝いの挨拶に行き、いつか秀吉を倒すと考える徳川家康も筋を通しておくために、石川数正(松重 豊さん)を秀吉のいる大坂に向かわせました。秀吉は数正から戦勝祝いの言葉を受けたとたん、堅苦しいのは無しと相好を崩し、親し気に数正に近寄って数正の器量を褒めたたえました。家康が数正に持たせたのは信長から下賜された初花肩衝で、秀吉は自分のような卑しい身分の者にこのような高価なものを勿体ないと感涙しましたが、内心は家康自身が挨拶に来ないことを不満に思っていました。秀吉はまた、信長亡き後に焼失した安土城を造り直し自分が信長の後継者であるとして住もうとしている織田信雄(浜野謙太さん)を軍事力で追い出し、信雄には二度と天下人の夢をみないよう釘を刺しました。(三男・織田信孝は兄・信雄の命により野間大坊(現在の愛知県知多郡美浜町)で自害。この野間大坊は源義朝(源頼朝の父)の最期となった場所でもあります。)その後での信雄の動きは秀吉の読みどおり、信雄は徳川家康(松本 潤さん)を尾張の清須城に呼び、秀吉から天下を取り返して欲しいと泣きつきました。家康は、織田と徳川は何を措いても助け合うと亡き信長と盟約を結んだと信雄に言いつつ、しばらく時が欲しいと言って清須を出ました。清須に同席した石川数正と清須での信雄との話を聞いた酒井忠次は、主・家康が無謀な戦をするつもりはないと言いつつも、秀吉と一戦交えるつもりだと感じていて、その時は自分たちの最後の戦にすると覚悟していました。家康は家臣たちの考えが聞きたくて、それぞれのところに出向いていました。召し抱えた旧武田の家臣の大将となった井伊直政(板垣李光人さん)は、自分の強さを見せないと従ってくれないからと、激しい稽古で全身傷だらけでした。直政は彼らを率いるのは自分でよいのかと悩んでいました。でも家康は、本多忠勝と榊原康政では武田に恨みがある、最強の兵をてなずけられるのは負けず嫌いで人たらしのお主しかいない、と直政を励ましました。そして直政に、もし近いうちに大戦となったら彼らを思いのまま動かせるかと問い、家康の思いを察した直政は「必ずや。」と答え、決意しました。家康は次に榊原康政(杉野遥亮さん)のところに行きました。家康は康政に、秀吉と戦になったら勝算はあると思うかと問いました。康政は冷静に「敵は寄せ集めの大軍。我らはいくつもの戦をくぐり抜けてきた、小さいながらも固い固い一丸。なぜ負けましょうや。」と。家康が今度こそは死ぬかもしれないと言うと、家柄のよからぬ武家の次男坊である自分がここまで出世し長生きできるとは思ってなかった、何の悔いもない、と迷いなくきっぱりと答えました。そんな康政を見て家康は「お主の知恵を頼りにしておる。」と、秀吉との戦場になるであろう尾張一帯の絵図面を渡して退室していきました。そして本多忠勝(山田裕貴さん)のところに行くと忠勝は、家康が直政や康政と話していたことを聞いていたのか、家康が何も言わないのに「俺に聞くまでもないこと。やるべし。」と力強く言いました。そして忠勝は「天下の覇権をめぐって戦えること、この上ない喜び。」と言い、桶狭間の戦(1960)のときの家康との思い出を語り、今もまだ家康を主君と認めてないとまで言うので、家康は一瞬戸惑いました。でも「天下をとったら考えてもよい。」と言って、三方ヶ原の戦(1573)のときに武田と戦って討ち死にした叔父・本多忠真の形見となった瓢箪の水筒を家康に差し出しました。水筒を眺め忠勝の思いを悟った家康は、その水をゴクリと飲みました。秀吉と戦う決意をした家康に家臣たちもそれぞれに決意を固めました。軍議が開かれ、本多正信が秀吉方の池田恒興を調略すれば丹羽長秀や前田利家らも寝返り秀吉を取り囲む日の本全土の戦になる、と意見しました。家康は皆に「何も持たず皆に蔑まれていた百姓の秀吉がここまで上がってきた。そういう男は欲に果てがない。もし秀吉にひざまずけば、我らのこの国もやつに奪われる。わしは身に染みてよくわかっている。力がなければ何も守れん。強くなければ奪われるだけだと。」語り、そして「乱世を鎮め、安寧の世をもたらすのは、このわしの役目と心得ておる!」と力強く言いました。「秀吉に勝負を挑みたい。」ーー家康の決意に家臣一同「異存なし!」と迷いなく力強い返事をしました。年が明けた天正12年(1584)2月、家康は清須の信雄に徳川家が味方すると報告しに行きましたが、信雄の横に控える三家老が気になり人払いさせました。家康は信雄に池田恒興を調略するよう強く言い、また同行した数正は秀吉への内通者のことをほのめかしたので、後日信雄は三家老を誅殺しました。そしてこの三家老のことは、家康と秀吉の開戦のきっかけとなりました。大戦を控えた家康は於愛の方(広瀬アリスさん)と二人の子たちの様子を見に、会いに行きました。家康は家を取り仕切る於愛の苦労をねぎらい、於愛もまた家康の思いを理解し、手習いの稽古に疲れた二人の子たちの寝顔を愛おしく眺めていました。秀吉との決戦に出陣するために、徳川の一同は岡崎城に集結しました。酒井忠次(大森南朋さん)は背後の守りを大久保忠世(小手伸也さん)と鳥居元忠(音尾琢真さん)と平岩親吉(岡部 大さん)に命じ、特に真田からは目を離すなと念を押しました。そして家康は皆に、ここまでよくついてきてくれたと礼を言い、続けて「この戦は未だかつてない日の本を二分する大戦となる。機は熟せり。今こそ我らが天下を取るときぞ!」と力強く鼓舞し、家臣一同もそれに応えました。決戦が始まり、信雄が調略したかと思われた池田恒興は褒美の大きさで秀吉につき、進軍を開始した池田軍は尾張北部の犬山城を落城させました。その池田軍がさらに進軍を続け、今度は楽田に向かうと予想され、敵が攻めてくる恐怖に戦に慣れない信雄は大声を出してただうろたえるだけでした。そんな信雄を家康が一喝、その後は穏やかに「総大将がうろたえるな。信長の息子だろ。しっかりせい。」と言い、信雄は「はい。」と返事しました。そして家康は、秀吉の本軍が来る前に池田勢を足止めして時を稼ごうと考え、その足止めを自分たちがやると酒井忠次が名乗り出ました。忠次の後で「いや、それは自分が。」と数正や忠勝ら若い大将が名乗りをあげましたが、忠次は若い者たちには次に来る秀吉に備えよと命じました。出陣にあたり忠次は家康に、自分は当初は秀吉に勝てないと思っていた、でも今はそれを恥じていると言い、殿・家康がすっかり逞しくなったし若い大将たちもいる今なら勝てる気がすると語りました。そして忠勝ら若い者たちに「後は頼んだぞ。」と言い、家康からは「生きて帰ってこい!」と言葉をもらい、家臣たちを引き連れて出陣していきました。そして羽黒にて池田恒興の娘婿の森長可(織田信長の小姓だった森乱の兄)との戦いが始まりました。忠次は敵の側面をついて攻撃して勝利し、森勢を退散させました。秀吉の本隊との戦いに備え、榊原康政が策を出しました。それはかつて信長が築城して17年前に廃城にした小牧山城に二重の土塁と空堀を巡らせ、難攻不落の要害としてそこを本陣とする、というものでした。工事に10日かかるという康政に家康は5日でやるよう命じました。一方、動き出した秀吉の本隊は3月29日に楽田城を制圧し、小牧山城とは1里半の位置に対峙しました。
August 15, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)自身に何かあったというより、今後起こっていく一大事の種を自分で蒔いてしまった、あるいはやむを得ず?芽が出てしまった、といった感じの回に思えました。母・市(北川景子さん)を助けに来なかったと家康を恨むようになった茶々(白鳥玉季さん)。家康だってまず徳川を守らなければいけないし、市も仕方のない事と理解しているけど、まだ若くて物事を総合的に見られない茶々は、母を失う悲しみを家康にぶつける方向にもっていってしまいます。まあ茶々の場合、父・浅井長政のことも覚えている分、妹たちよりも余計に敗者が味わう悲しみや辛さを知っていて、負けないように自分が頂上にいたいという思いが強いかもしれませんが。でも家康自身も、長い間、信長をただ恐れ、信康事件以降は信長を勝手に恨んでいましたからね。今度はその信長の姪に、どうしようもないことで逆恨みされる番ということでしょうか。市が語った「織田家は死なぬ。その血と誇りは我が娘たちがしかと残していくであろう。」の言葉。この先の歴史を知る者から見たら、代々の受け継いでいった方々は本当に成し遂げてしまっているのだと、あらためてそのすごさを感じました。そしてこれから台頭してくる羽柴秀吉(ムロツヨシさん)。元々知恵者だけど世の中を渡り歩いて織田家に入ってからも苦労してつけた秀吉の知恵には、正統派の家康や徳川家臣団ではかなわないでしょう。でもそこに、やはり元々知恵者で世の中を渡り歩いてきた本多正信(松山ケンイチさん)が出てきました。秀吉と正信の知恵比べがどうなるのか、今後が楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)6月2日に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の後、すぐさま備中から京に戻って光秀を討った羽柴秀吉(ムロツヨシさん)は、周囲には自分が信長の仇を討ったと触れ回り、そして6月27日には信長の後継者を決める清須会議では、その勢いのまま主導権を握って話を進めていました。信長の三男・信孝を推す柴田勝家(吉原光夫さん)は信長の次男・信雄と信孝はどうするのかと問うと、秀吉は信雄と信孝の争いを避けるためにも嫡孫の三法師を立てて自分たち重臣が補佐して政務を執り行っていくと決めてしまい、池田恒興(徳重 聡さん)や丹羽長秀(福澤 朗さん)もそれに同意なので、勝家は何かと面白くありませんでした。会議は思い通りに進めた秀吉でしたが、その後で信長の妹の市(北川景子さん)が勝家と再婚するという想定外の話を聞かされました。驚きつつも市に挨拶に行った秀吉は思いっきり市と勝家を祝福する言葉を並べましたが、言葉とは裏腹に祝意は全く感じられないものでした。浅井長政と市の間できた三人の姫たちも秀吉の祝意は嬉しくなく、特に長女の茶々(白鳥玉季さん)は秀吉に侮蔑の視線を送っていました。市と勝家の再婚の話は徳川家康(松本 潤さん)にも伝わり、家康はそれを市が秀吉の好きにさせないためと読んでいて、徳川家臣たちもそうなるといずれは羽柴勢と柴田勢がぶつかるだろうから、そのときは徳川はどちらにとつくのかと考えていました。さて先ほどから本多忠勝(山田裕貴さん)が不満をあらわにしていて、家康がどうしたのかと聞くと、伊賀から戻ってすぐに出陣すれば徳川が明智を討っていたのになぜそうしなかったのかと怒っていました。家康は徳川が急ぎ成すべきことは、主のいなくなった旧武田領の甲斐・信濃・上野を鎮めて北条より先に手に入れることだと説明しました。納得した忠勝は家康の命を遮る勢いで他の重臣たちに出陣を呼びかけ、皆を引き連れて出陣の支度のために退室していきました。旧武田領を取るために家康は出陣し、甲斐の新府城に布陣しました。しかし北条も徳川と同じことを考えていて2万の大軍で出陣していて、兵の数が3千と圧倒的に少ない徳川勢はどうしたものかと考えていました。そこに伊賀で再会した後に再び徳川に仕官することになった本多正信(松山ケンイチさん)が来て、味方の数が少ないときの戦法を提案しました。家康がそれを受け入れたとき井伊直政(板垣李光人さん)は反対しましたが、家康は直政を「一軍の将になるからには正信のずる賢さも学ぶがいい。」とたしなめ、召し抱えた武田の兵を直政に預けると言いました。家康の小姓だった自分が一軍の将へーー直政は感激で言葉も出ませんでした。一方、織田家では秀吉が擁立する次男の織田信雄と勝家と市が擁立する織田信孝(吉田朋弘さん)の2派に分かれて対立が深まっていました。秀吉のところから三法師を連れてきた信孝に叔母の市は、織田家の天下を決して秀吉に渡さぬよう強く言い聞かせ、亡き信長に恩義のある丹羽・池田・滝川・佐々らは自分たちに付き、そして家康もまた味方するであろうと考えていました。10月、北条との和睦を図っていた家康は北条から和睦に応じる返事を受けました。その内容は、上野一国さえもらえば甲斐・信濃からは手を引くという事でしたが、上野にある沼田領は真田昌幸のもので、真田はひと月ほど前に北条から離反して徳川についたばかりでした。沼田領を勝手に北条に渡せば真田に恨まれると分かっていたけど、家康はそれを承知で上野を北条に渡すことにしました。もう一つ北条が出してきた条件に家康の姫を北条氏直の妻にとあり、家康は側室・お葉の産んだおふうを輿入れさせることにしました。12月になり家康は、羽柴秀吉と柴田勝家との間で戦が始まった、秀吉は織田信雄と手を組んで勝家方の近江・長浜城を攻め込んだ、勝家は越前・北ノ庄城にいて雪のため動けない、岐阜城も落ちたとと酒井忠次から報を受けました。そこへ直政が年の瀬の贈り物が届いたと2つの物を持ってきました。1つは勝家からの市が選んだであろう美しい綿布で、皆は市の品格や事実上の織田の将としての気概を称えていました。もう1つは秀吉からの砂金で、皆は秀吉の品のなさを笑っていました。年が明けて天正11年(1583)4月、勝家と秀吉は近江の賤ケ岳で激突。しかし秀吉が柴田勢の武将たちを調略していて裏切りが相次いだため柴田勢は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城まで撤退していました。秀吉勢に取り囲まれた北ノ庄城は絶え間なく鉄砲が撃ち込まれて罵声が飛び交い、勝家たちは追い込まれていました。市は心のどこかでは家康が救援にくることを願い、本多忠勝ら徳川の一部の家臣たちも市のために出陣すべきだと主張しました。その軍議の場に後から来た本多正信は、柴田方の将たちが秀吉に調略された事実を述べ、人の心をつかむ天才とまで思える秀吉という男の才覚を説明し、人は美しい綿布よりも下品な金が好きなのだと、徳川の家風にはあまりない価値観を話しました。そして「これはあくまで織田家中の争い。我らはただ静観して、勝った方に祝意を述べに行くのが上策。」と家康に進言しました。今の秀吉は明智に続いて柴田を破ろうとしている破竹の勢い、今の秀吉と戦をするのは時期尚早だと石川数正は考え、酒井忠次も今は甲斐・信濃を固めることが肝要と家康に進言し、家康は様子を見ると結論を出しました。そして北ノ庄城では落城を悟った市が三人の姫たちだけは助けようと秀吉に文をしたためていました。一方、秀吉は自分は今までさんざん周囲から出自が卑しいと馬鹿にされてきたけど、織田家の血筋があればそれを言う者はいなくなるだろうと考えていて、市を自分の妻に迎える気満々でした。徳川が救援に来なかったことを茶々は非難し、市が戦とはそのようなたやすいものではないとたしなめても、茶々は家康を恨んでしまいました。やがて秀吉の使いが来て、勝頼は市と三人の姫たちに城を出るよう命じました。しかし市は、自分は後から行くと言って姫たちだけを先に行かせました。市は生き恥をさらす気はなく勝家と共に自害して果てるつもりで、茶々だけが母・市の覚悟を見抜いていました。しばらくしてまた戻ってきた茶々は母に抱きつき、母上の無念は茶々が晴らす、茶々が天下をとると言って、母・市と今生の別れをしました。秀吉のもとには姫たちと文だけが来て、市が城に残ったことを知った秀吉は市を愚かと言いつつも、目にはかすかに涙を浮かべていました。弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)から織田家の血筋のことを言われたとき、秀吉はふと目の前にいる茶々のことに気づき近寄りました。秀吉が茶々に触れたとき、茶々は怖がるどころか微笑んで、自分から秀吉の手を取って秀吉に熱い視線を送り、かと思うとパッと手を離して踵を返して立ち去り、小娘と思っていた茶々に秀吉はほんろうされ狼狽していました。そして北ノ庄城が落城して勝家と市が自害したことを知った家康は、市を救ってやれなかった悔しさと共に、秀吉は自分が倒すと決意しました。
August 9, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)が堺から脱出して領地の三河に戻るまで、まさに生きるか死ぬかの行軍となった、あの伊賀越えでした。家康が百地丹波(嶋田久作さん)を頭領とする伊賀者に捕まって、あわやその首が!というときに、かつて三河を追放され、流れ流れて伊賀に来た本多正信(松山ケンイチさん)が現れました。百地が刀を構えて振り下ろそうとするたびに正信が何か言い出して、百地は正信を一応軍師として迎えているからかそのたびにいちいち正信の話を聞いて、ちょっと考えて、百地の手が止まります。これはもう口が達者な正信が、口先では家康の首を打てと言いながら、でも家康を助けるために絶妙なタイミングで百地の邪魔をしているんですよね。嶋田さんと松山さん、見事な掛け合いでした。でも最後に家康を救ったのは、家康がふだんから服部半蔵(山田孝之さん)率いる服部党の働きを認めて人並に扱ってきた優しさと、家康自身があの土壇場で百地に交渉できるようになった強さでしょうか。伊勢の白子浜に着いたとき、多羅尾光俊(きたろうさん)は実はただのいい人だったなんてオチもありました。でもあの伊賀での窮地のおかげで家康は、半蔵率いる伊賀者と信頼関係がより深くなり、百地率いる伊賀との繋がりが持て、正信が帰参するきっかけが持てました。まさに『塞翁が馬』の展開だったと思います。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)6月2日、堺にいた徳川家康は茶屋四郎次郎から京の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれたとの知らせを受けました。光秀は瞬く間に京を制圧して次なる天下人は自分であると自負し、さらに家康の首を持ってきた者には褒美に糸目をつけないと日ノ本中に触れ回っていました。家康は急ぎ領地に戻る決意をし、自分を狙って次々と襲ってくる者たちと戦いながら三河への道を進んでいました。道の途中では徳川家康(松本 潤さん)を慕う民たちの助けもあったものの、その者たちに褒美として金を与えたり、あるいは自分たちを通してもらう代わりに野伏りに金を置いていったりして、家康たちは金も食糧も底をついていました。京にいた服部半蔵と一党は家康の一行に追いつき、家康を守って敵と戦ったり食糧をどこかから確保してきたりなど、家康のために懸命に働いていました。そんな彼らを家康は有難く思い、食糧も同じように分けて大事に扱っていました。小川城(現在の滋賀県甲賀市)の手前で服部半蔵(山田孝之さん)は家康に、この先は道のりが短い伊賀を超えたらどうかと進言しました。伊賀の地は亡き織田信長が制圧のために手荒なことをしていて、信長に与していた自分たち徳川が通るのは危険なのではと酒井忠次(大森南朋さん)や石川数正(松重 豊さん)は案じていました。しかし半蔵は、伊賀は自分たちの親や祖父母の故郷なので安心だろうと考え、この先は別の道を進むことになった忠次と数正から「(殿を守ってこの危機を脱するのは)服部党、一世一代の大仕事と心得よ。」「やり遂げれば末代までの誉れとなろう。」と檄を飛ばされていました。家康は伊賀に行く途中にある近江の小川城を頼ることにし、忠次と数正とは伊勢の白子の浜で落ち合うことを約束して出発しました。小川城の城主の多羅尾光俊(きたろうさん)は家康一行が立ち寄ることを想定していたのか、赤飯その他ごちそうを用意して皆でニギヤカに囃し立て、家康一行が近くに来たことを察すると大声で呼びかけて城に誘っていました。しかし伴与七郎(新田健太さん)もごちそうを見せびらかしながら大っぴらに誘うので、もしやこれは罠ではと疑心暗鬼に。そこで半蔵と大鼠が毒見に出て、その様子を見て大丈夫と判断し、皆も空腹と疲れが限界だったので、家康は城に入る決断をしました。城では多羅尾が次から次へとごちそうを振舞ってくれ、家康たちはようやくひと時の休息を得ることができました。家康がこの先は伊賀を抜けていくと言うと多羅尾は、伊賀は織田を心底憎んでいるし腕利きの軍師を雇って戦に備えているから危険だ、と言いました。半蔵が伊賀者は我が殿に恩があると言うと、多羅尾はそんなものは通用しないと言い、自分たちが守るから信楽から抜けるよう助言しました。しかし家康は多羅尾の言葉を信用することができず、三河に着いてから褒美を出すと約束した置手紙をして、夜明け前に密かに小川城を出ていきました。6月4日、家康一行は伊賀との境にある御斎峠に着き、600を超す砦が建ち並ぶ伊賀の地を見下ろしてここを抜けるのはまさに命がけだと誰もがが感じ、家康も天が生かしてくれるかは自分に徳があるかどうかだと覚悟しました。しかし伊賀者たちは白煙を上げて襲ってきて、半蔵が名乗りをあげても誰も耳を貸さず、家康は逃げようとしましたが捕らえられてしまいました。家康一行は捕らえられ、伊賀の音羽郷の牢に入れられました。伊賀の頭領の百地丹波(嶋田久作さん)は家康の首を明智光秀に持っていくと言い、大鼠(松本まりかさん)が家康は織田に攻められてここから逃げた者を大勢かくまっている(恩がある)、家康は自分たちを人並に扱ってくれていると訴えても百地は耳を貸さず、家康を牢から引きずり出しました。「さぞ、いい銭になるだろう。」と百地が家康の首を打とうと刀を振り上げて構えたとき、半蔵は「やめい!」と叫んで自分が家康だと言い、捕らわれている他の伊賀者たちも次々と自分が家康だと叫びました。この土壇場で自分をかばおうとする皆を見て家康は、自分の首をやるから他の者たちは見逃すよう百地に言いました。百地がそれの返事もせずに再び刀を振り上げたとき、雇われ軍師が現れました。その者はかつて三河にいて追放された本多正信(松山ケンイチさん)で、正信は百地に「やれ!(首を打て)」と言いながら、信長が生きているかもしれないという噂があると言いました。噂が気になった百地は「万一、信長が生きていたらどうなる?」と正信に問うと正信は「そうなると明智はすぐに信長に滅ぼされる。そこに家康の首が届いたら、信長は今度こそ伊賀を滅ぼすだろう。」と言い百地は手を止めました。正信は続けて「逆にここで家康を助ければ、信長はもう伊賀には二度と手出しはしないどころか手厚く守るだろう。」と言いました。百地は家康に信長の死をどう思うか問い、家康は「信長はもう死んでいると思う。が、今ここでわしを逃がして恩を売れ、それがお主にとって最も利となる。」と百地を相手に交渉してみました。百地は家康を賢い物言いと評し、正信が家康に惚れ込んでいて実はこの場で助けたいということも見抜いていて、刀を振り下ろして家康の縄を切ってやりました。「その口車に乗った!お主に賭ける。」そう言って家康たちを解放しました。家康たちはその後も危機はあったものの無事に伊勢の白子の浜にたどり着き、忠次と数正と落ち合うことができました。家康と分かれた忠次と数正は意外にもすんなり進めたとのことで伊賀越えを提案した半蔵はバツが悪そうでした。正信は家康の元に帰参したいとは素直には言わず、自分は三河は追放されたけど殿は今は浜松にいるのだからと、妙な言い回しで帰参の希望を匂わせました。家康もそれに応え、正信に「気が向いたらいつでも浜松に来い。」と言い、そう聞いて正信は家康に一礼して去っていきました。そして家康は半蔵を呼び、「此度この難を乗りきれたのは何より服部党のおかげ。皆に褒美を取らす。」と約束しました。地元の漁師に船を出してもらって伊勢湾を渡り、堺を出立して3日後に家康はなんとか三河に戻ることができました。家康は浜松に戻り、於愛の方や長丸・福松の子たちと、そして留守居をしていた皆とも再会を果たしました。その後で大久保忠世(小手伸也さん)は改まって、家康とは別行動をとった穴山梅雪が討たれた、梅雪は「我こそは徳川家康!」と名乗っていたと報告しました。忠次は梅雪のおかげで我らは助かった(明智を混乱させて時間稼ぎになった)のかもと思い、数正は我らが明智を討たねばならないと家康に進言しました。一方、山陽道では羽柴秀吉の軍勢が大急ぎで京に引き返して移動し、光秀の軍を山崎の戦(現在の京都府乙訓郡)で破っていました。光秀は逃げたものの山城の小栗栖(現在の京都市伏見区)で落ち武者狩に遭って、その首は秀吉に検分されていました。
August 1, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回はいよいよ天正10年(1582)の本能寺の変で、徳川家康(松本 潤さん)が想像だにしていなかった形で織田信長(岡田准一さん)と永遠の別れを迎えることとなり、心の中でそれぞれの思いが交錯した回でした。家康が信長を恨んだまま本能寺の変で別れてしまうのかと思ったけど、あまりにも突然の別れと、そして自分が襲われて必死に戦うことによって、信長が自分に授けてくれたもの(戦う力、生き抜く心構え)を家康がやっと理解できて、信長に感謝の思いが持てました。見ていて正直、ホッとした場面でした。家康の子役・竹千代をやった川口和空くんは収録当時は13歳(中学1年)なので、信長役の岡田准一さんに立ち向かっていく体力はそこそこありましたが、史実的には、家康が織田家の人質だったのは年齢が6~7歳で、その年齢の子が大人の男に立ち向かうのは無理です。でもまあ、それが家康と信長の結びつきを作り、今生の別れの場面で意味のあるものになったのなら、他の作品ではどう思うかはわかりませんが、今作ではそれも悪くないかなと思いました。それにしても、本能寺の変はやはり大きな見せ場ですね。岡田准一さんは織田信長としてこれまで、頂上に立つ者としての恐さ、強さ、決断、隙のなさ、唯一心を許した家康への見せかけじゃない実のある優しさなど、随所で存分に魅せてくれた、実に魅力的な織田信長でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)5月29日、織田信長はわずかな手勢で本能寺に入りました。徳川家康(松本 潤さん)は京で信長を討って自分が天下を取る決意をして、家臣たちも一旦はそれに従ったものの、やはりその先のことを案じていました。6月1日、家康はその先の戦に備えて堺に入り、そこで多くの有力者たちと親交を深めていたら、町中で市(信長の妹;北川景子さん)と出会いました。再会を懐かしみつつ市は家康に、兄を恨んでいるだろう、でも兄は決して貴方には手を出さない、たった一人の友だから、と語りました。さらに市は、兄は孤独で貴方にも恨まれて哀れ、兄の人生で楽しかったのは貴方が人質として織田にいたあの頃だけ、兄は常に周りに誰かいて支えてくれる貴方が羨ましいのだと家康に語り、隣室で控えていた家臣たちも市の話を聞いていました。本能寺に入った織田信長(岡田准一さん)は、ふと父・織田信秀(藤岡弘、さん)がまだ生きていたときのことを思い出していました。幼い頃から織田家の次期当主として父や傅役の平手政秀に厳し過ぎる教育を受け、我慢の限界を超えて初めて反抗したあの日は父にはまだかなわなくて、それから城を飛び出して父をしのぐ力をつけて戻ってきたあの日。自分の死期を悟っていた信秀は信長に家督を継げと、そして孤独が耐え難ければ心を許す者を一人だけ持てと信長に心構えを授けていました。明けて6月2日未明、眠っていた信長は鎧武者が近づく気配で目が覚め、襲撃を受けて応戦しましたが、背中から刺されて深手を負いました。しかしその後も信長は敵襲に気がついた家臣たちと共に、獅子奮迅の戦いをして多勢を相手に応戦を続けました。(槍で3人を一度に串刺し!)「上様をお守りしろー!」ーー寝込みを襲われた織田家の家臣たちは防具を付ける暇もなく敵に立ち向かい、信長を守るために必死に戦いました。そしてただ一人、家康になら討たれてもいいと思っていた信長は、深手を負って朦朧とする意識の中で、このどこかに家康がいないかと探し、庭から建物の中に入っていきました。一方、堺にいる家康は、あれほど信康を討つと決めてここまで来たのに、市から言われたことや亡き妻・瀬名のことが頭をよぎり、迷いが生じていました。そして今の自分には到底成し遂げられない、無謀なことで家臣の皆を危険にさらすわけにはいかないと結論が出て計画を取りやめ、自分の未熟さを皆に詫びました。そんな家康を石川数正(松重 豊さん)は「今はまだその時ではないということ。」と言い、他の者たちも口々に「いずれ必ず!」と言葉を続けました。「いずれ必ず、天下を取りましょうぞ!」ーー本多忠勝(山田裕貴さん)は力強く言い、家康も皆も次節の到来を待とうと決意を新たにしました。家康は京を通って浜松に帰ることにし、その道中で穴山梅雪(田辺誠一さん)と会い別れの挨拶をかわしていました。するとそこへ茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)が火急の知らせだと、息を切らして駆け込んできました。茶屋の報告によると、本能寺に明智光秀の軍勢が押し入り信長は討ち死に、光秀は家康の首を取るよう号令を出しているから名を上げたい兵や浪人や褒美目当ての民百姓たちが家康を狙っている、早く逃げるように!とのことでした。前々からいつか家康を亡き者にと考えていた明智光秀(酒向 芳さん)だったけど、鯉の刺身の件では(家康の別の意図でたまたま)家康に万座の中で大恥をかかされたので、恨み骨髄になってます。(その仕返しで、こんなことが思いつくとは・・)そのころ備中にいた羽柴秀吉は、弟の秀長から信長が光秀に討たれたとの報を受け、突然逝った信長を嘆き悲しんだ後、自分が仇を討つと決め、急ぎ毛利と講和を結ぶよう、秀長に命じました。(何かとストレスのたまる上司だったけど、百姓だった自分をここまで引き立ててくれた人だし、信長の才に秀吉自身も男惚れしていたと思います。)そして明智の包囲網をかいくぐって堺から領国の三河を目指していた家康でしたが、途中で何度も野武士や農民たちに襲われて命からがら逃げていました。燃え盛る本能寺の中を、信長はすでに戦う力もなく意識朦朧としながら家康を求めて姿を探していました。そして庭に面した障子を開けたときに目の前に現れたのは、最期に一目でも会いたかった家康ではなくて明智光秀。信長は心底がっかりしました。光秀は「貴公は乱世を鎮めるまでのお方。平穏なる世では無用の長物!そろそろお役御免で。」と自分の正統性を口上で述べました。それを聞いて頭にきた信長は再び力をこめて「お前に俺の代わりがやれるのか!」と言い返しました。(信長、今生の最期の悪口で光秀に置き土産です。)光秀がいよいよ全軍に信長の首を取るよう命じたので、明智軍が一斉に信長に襲い掛かってきました。主君・信長の首を敵に取られないよう、信長が自害できる時間を作るために、信長の家臣たちも最後の力を振り絞って明智勢をくい止めていました。小姓の森 乱(大西利空さん)は自分の槍を信長に渡し、槍を受け取った信長は自分と運命を共にする家臣たちの戦う姿を見渡して、炎に包まれた建物の中に入っていきました。そして家康は自分に襲い掛かってくる敵と必死に戦いながら、心の中では幾度も信長の名を呼び、信長との日々を思い返していました。今まで心を許すことなんて到底できなくて常に警戒して、一時は殺すことまで考えた信長だったけど、家康は「あなたがいたから。あなたに地獄を見せられ、あなたに食らいつき、あなたを乗り越えねばと・・。弱く臆病なわしがここまで生きてこられたのは、あなたがいたからじゃ。」と気持ちが変わっていました。『弱ければ死ぬだけじゃ。地獄を生き抜け。』ーー信長の教えを胸に、家康は皆に「皆の者、誰も死ぬな。生き延びるぞ!」と命じました。家康は今一度、信長がいた本能寺のほうを向き、心の中で「さらば・・、狼。」と、そして「ありがとう。」と礼を述べ、再び三河への道を急ぎました。
July 26, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、歴史が大きく動いた天正10年(1582)の本能寺に向けて、徳川家康(松本 潤さん)や織田信長(岡田准一さん)が動いた回でした。家康が信長を討つ決意をした動機については、私には私怨に思えて無理があるのでスルーします。ただ家康が心の内を隠して面従腹背してきたつもりでいても信長には見破られていて、信長に核心の部分を突かれたときに感情が爆発し、信長を「お主」と呼んで互いに心の内をぶつけ合いました。その信長自身も、父・織田信秀(藤岡弘、さん)から「身内も家臣も誰も信じるな。信じられるのは己一人。」と言い聞かされ、それは織田家の当主となるための父の愛だったのだろうけど、心を捨ててしまうほど、厳しく育てられてきました。そんな信長が、幼い家康が人質として自分の手元に来たときに、家康の中に心を許せる何かを感じたのでしょうか。信長は自分がされてきたように、一方的でかなり乱暴なやり方だったけど、家康を可愛がり守ってきました。桶狭間の戦い以降に再会しても、なんだかんだと家康を外から守ってきました。親と子。育てた者と育てられた者。育てた者の根底に筋の通った愛があれば、育てられた者は何かで反発しても、心の底ではその愛を受け取っていて、切羽詰まったときの生きる力になるかもしれませんね。そして、その信長の家康への思いを、家康の面従腹背の態度で見誤ったのが明智光秀(酒向 芳さん)でした。家康を軽く見たために万座の中で家康を下げる失言をし、その前では家康を亡き者にと信長に密かに相談をして、家康が可愛い信長には許せないことばかりでした。信長・光秀・家康の感情と行動がどう絡み合うのか。来週の展開が楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正10年(1582)3月、織田・徳川の連合軍は武田を滅ぼし、その戦勝祝いで徳川家康は織田信長を富士の遊覧で厚くもてなしました。信長はその返礼にと5月に家康を安土に招くのですが、信長に臣従しているかのように見えた家康は心の中では信長を激しく憎んでいて、安土に行った折に京で信長を討つ決心をしていて、その準備も進めていました。家康の家臣たちの中では榊原康政(杉野遥亮さん)のように、信長が討たれたら世は乱世に逆戻りすると家康の考えを危惧する者と、主君・家康の考えに従ってただついていこうと考える者に分かれました。石川数正(松重 豊さん)がやはり家康を止めなければと動こうとすると酒井忠次(大森南朋さん)が立ちはだかり、殿(家康)は心が壊れた、信長を討つと決めてなんとか心を保ってきた、殿に委ねようと言い、数正を止めました。安土に向かう前に徳川家康(松本 潤さん)は側室の於愛の方(広瀬アリスさん)と二人の子たち(長丸と福松)の顔を見ていきました。家康が兎と狼について問うと於愛は「狼が強いに決まっている。でも狼は数が少なくて兎はたくさんいる。ならば勝ち残っているのは兎。案外、兎のほうが逞しいのかもしれない。」と屈託のない笑顔で答えました。(信長への復讐心で煮詰まって思考が固まっていた家康だったけど、このときの於愛の言葉が心の底に残っていて、小さな灯になっていたと想像しました。)家康の一行がまもなく安土に到着という頃、明智光秀は密かに主君・織田信長(岡田准一さん)にもてなしの料理に薬を入れようかと相談していました。そして家康一行は安土城に入り、信長が誇るあまりにも荘厳華麗な城を間近で目にして、誰もが言葉を失って見入っていました。宴が始まり、信長は小姓たちに幸若舞をさせ、豪華な馳走を次々と出して家康たちをもてなしました。(信長の小姓たちは有能ぞろいで、若くても武芸に秀でて戦闘能力が高かっただけでなく、学問もできて舞などの文化的教養も高かったでしょうね。)信長は家康の家臣たちにも「遠慮なく食されよ。作法など気にするな。」と優しい言葉をかけてくれますが、家臣たちは主君・家康の心の内のことや、もしかしてこの料理はと考えると箸が進みませんでした。ただ一人、家康小姓の井伊直政(板垣李光人さん)だけは出される料理を美味しそうにバクバクと頂いていましたが。(この食べるそぶりが可愛いし、若いながら大物ぶりを感じさせます。ネタバレですがこの18年後の関ケ原の戦いでは、直政は戦場で娘婿殿に手柄を取らせるために𠮟咤激励して・・・)膳が進んで次に鯉の刺身が出たときに、家康は魚の臭いが気になってしまい、鯉には手をつけずに箸を置き、家康の家臣たちもそれにならいました。それを見た明智光秀(酒向 芳さん)は上物の鯉だからと勧めましたが、家康は「贅沢なものは食べ慣れていない」と言って食べませんでした。(事前に信長が光秀から怪しげな相談を受けていたからか?)無理に食べなくてもよいと信長が家康に言い家康が箸を置くと、光秀はつい「徳川殿は高貴な料理に馴染みがない。」と失言してしまいました。その発言に怒った信長は膳をひっくり返して・・光秀のほうに近寄っていき「申し開きはあるか。」と問い、光秀が自分は万全の支度をしたと答えると、怒りの収まらない信長はもてなしの万座の中で光秀を何度も打擲(ちょうちゃく:打ちたたくこと。なぐること。)しました。しかしさらに光秀が「私は何の細工も。上様のお申しつけどおり、何も。」と家康たちから妙な疑いをもたれかねない言葉を続けたので、信長は全ての膳を下げさせ、光秀には退室を命じました。光秀は家康の前に行って睨みつけ、「三河のくそ田舎者が!」と吐き捨てて退室していきました。しかしこの料理の件は、実は光秀を信長から遠ざける家康の芝居でした。家康は一旦、安土山麓の徳川邸に戻りましたが再度、二人だけで話がしたいと信長から呼び出されました。家康が光秀の処分を寛大にと願い出ると信長は家康の考えの甘さを指摘、でも家康は、自分は一人では何もできない、周りの助けがあったからこれまで生き延びられたと言い、話を変えて退室しようとしました。すると信長が「京で俺を討つつもりか。」と言い、家康は本心を表に出さないようにしていたけど信長はちゃんと見抜いていました。そして信長が瀬名と信康のことに触れて笑い「くだらん。」と言うと、家康はついに抑えていた感情が爆発しました。家康は信長を以前のように「お主」と呼び、ずっとこらえていたものを信長にぶつけ、信長もそれに応えて「感情を捨てきれない、やられた相手の痛みを受け止める覚悟のないお前に、俺の代わりは無理なんだ!」と返しました。「大変なのはこれから。戦無き世の政は乱世を鎮めるよりはるかに困難だろう。やらねばならぬことが多すぎる。俺を恨んでも憎んでもいいから、傍にいて俺を支えろ。」ーー信長の孤独と怖れと覚悟と、そして自分への思いの激白を聞いた家康の頬に一筋の涙がこぼれました。家康は「たしかにわしは弱いが、弱ければこそできることがあると信じる。」と言い、信長の言葉を受け入れませんでした。信長が家康に「京に入るときはわずかな手勢だ。その後のことの全ての覚悟があるなら俺を討て。」と言うと、家康は去っていきました。家康が自分のことを何でもできる人だと言ったことで、信長はふと織田家の後継者として学問や武術に励んでいた幼い日々のことを思い出しました。傅役だった平手政秀(マキノノゾミさん)は幼い信長(三浦綺羅くん)にも容赦のない指導をし、父・織田信秀(藤岡弘、さん)から「誰よりも、強く賢くなれ。周りは全て敵ぞ。身内も家臣も誰も信じるな。信じられるのは己一人。」と言いきかされていた、あの日々のことを。京に移動した家康は、信長が宿所とする本能寺の近くにある茶屋四郎次郎邸に立ち寄り、信長を討つための首尾を確認していました。茶屋邸には武具が揃い、信長に深い恨みをもつ伊賀者をてなずけて配下にした服部半蔵(山田孝之さん)からは、本能寺の周辺には500の伊賀者を潜ませていることを確認、そして本能寺の見取り図も用意されてました。そして信長は家康に言ったとおり、100ほどの少ない手勢で京に向けて安土を出立していました。さて、そのころ羽柴秀吉(ムロツヨシさん)はどうしていたかと言うと、備中高松城を水攻めにして、長期戦のつもりで備中に布陣していました。酒を呑んで皆が寝静まったころ秀吉は、そろそろ(上様に)いなくなってほしいと、弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)にだけは本音を漏らしていました。でも秀吉は「やった奴がバカを見る。自分はやらない。」と言い、秀長には撤退の準備だけはしておくように命じていました。
July 18, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は織田・徳川連合軍が甲州征伐(1581)を終えて武田を滅ぼした後で、徳川家康(松本 潤さん)が安土に帰る前の織田信長(岡田准一さん)を手厚くもてなした『富士遊覧』がメインの回でした。そしてこの回から、松潤@家康が月代になりました。個人的には、松潤は総髪のままでいいじゃないかな~と思っていたのですが、月代もイケますね。顔の土台が良いとどんなスタイルになってもほとんどが似合う、そんな印象でした。さすがは松潤ですね。その松潤、この回では歌と踊りも披露しました。彼は日本舞踊もやっているそうですが、「海老すくい」を舞ったときの身体の向きやブレのないターンなど舞全体の美しさ、そして目線の決め方。“嵐”の20年でステージで鍛えたものが自然と身についていて、それを存分に魅せてくれたと思っています。(もっとも嵐ファンの中には、潤殿の歌とダンスがやっと見られたと思ったら「海老すくい」か・・。という嘆きも聞かれましたが。)本職といえば、茶屋四郎次郎を演じる中村勘九郎さんも、歌舞伎の口上のようなセリフや動作が、さすがですね。2018年の『西郷どん』で、長州力さんが「禁門の変」の戦闘シーンでラリアットを入れたりして、ときどき本職の持ち味が出てくるのって、けっこう好きです。その茶屋とか、服部半蔵(山田孝之さん)率いる伊賀衆とか、この後に起こる大事件のときに活躍するであろう人々がチラチラ出てきました。どのような形で登場するのか、楽しみであります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正9年(1581)春、天正元年以来ずっと武田方に奪われたままだった高天神城を徳川家康(松本 潤さん)はようやく取り返すところまできました。武田方の大将・岡部元信からは開城と自分の首と引き換えに城兵の助命を求めてきて、徳川の家臣たちは家康がそうするものだと思っていました。しかし家康は、降伏は受け入れない、上様(織田信長)から言われている、高天神の城兵たちが無残に死ねば武田勝頼の信用がなくなり武田は崩れる、と考えていました。本多忠勝(山田裕貴さん)は、それは侍の道にもとる!と家康に強く進言しましたが、家康は無表情で「上様の命じゃ。」と決定を変えることはありませんでした。そして高天神城は落城、徳川の家臣たちは家康の変貌ぶりにただ驚くばかりでした。信長の命ずるままに動くだけの家康を家臣たちは歯がゆく感じて苛立っていましたが、大久保忠世(小手伸也さん)は信長に服従しない伊賀者が根絶やしにされかけていることをあげ、今は信長に従うしかないと皆に説いていました。天正10年(1582)2月、武田勝頼を滅ぼすために織田軍は信長の長男の信忠を大将として信濃から、徳川軍は駿河からそれぞれ甲斐に向かいました。そして浜松城では、酒井忠次(大森南朋さん)と大久保忠世と井伊直政(板垣李光人さん)が留守居を命じられ、家康の側室・於愛の方(広瀬アリスさん)も含め失敗の許されない格別な密命を家康から受けていました。3月、織田・徳川の大軍の前にはなすすべもなく武田の兵たちは次々と戦線を離脱し、武田勝頼はわずかに残った兵とともに甲斐の天目山麓まで落ち延びていました。勝頼は兵たち逃げよと言い、ここまで自分について来てくれたことに礼を言い頭を下げましたが、兵たちは勝頼と最期を共にすると決めていてついていきました。一方、家康は徳川方に付いた穴山梅雪(田辺誠一さん)の案内で甲斐の躑躅ヶ崎館に入っていて、そこで勝頼が信忠に討たれたとの報を受けました。勝頼の加護を諏訪大社に願った思いもむなしくかつての主の訃報に触れた梅雪はただ涙し、家康は不動明王像にそっと手を合わせて冥福を祈りました。しかし家康がどこまでも織田に気を遣うことに、家臣たちは強く腹立っていました。家康は諏訪法華寺に本陣を構える織田信長(岡田准一さん)に戦勝祝いを述べに行き、そこで勝頼の首級と対面しました。「死ねば皆、仏。勝頼を恨んではいない。」と言う家康に信長が「では誰を恨んでいるのか」と水を向けましたが、家康は何のことかわからないと答えました。場の流れを変えるように石川数正(松重 豊さん)が信長に今後の予定を訊ね、武田亡き今は織田の天下で対抗する者はいない、慌てて帰ることはないから徳川が用意している戦勝祝いのもてなしを受けて欲しいと願い出ました。信長から「やぶさかではない」と返事をもらい、ならば我らはすぐに支度にかかると言って家康たちは本陣を後にしていきました。家康が富士の浅間神社の様子を見に行くと、御座所では家康から密命を受けた酒井忠次らが突貫工事で作業を進めていました。時間や人手だけでなく金も足りないので忠次は、元は三河武士で今は京で商いをしている茶屋四郎次郎(中村勘九郎さん)に金策の助けを求めました。手伝えと言われても事情を全く聞かされていない鳥居元忠(音尾琢真さん)と本多忠勝と榊原康政(杉野遥亮さん)に、家康は「富士をしかと見たことがない上様を街道の要所要所でおもてなしをする。」と説明しました。信長のご機嫌とりをまだやるのかと忠勝は腹立ちを露わにして家康と対立したので、とっさに於愛は自分が作った手引書を家康に見せて場を収めました。なぜここまで信長をもてなさなければいけないのか納得がいかない康政や忠勝らに、忠次は「このお役目を甘く見るな。これは戦事より難しいぞ。」と注意しました。家康は街道を広げて徹底して整備し、お休み所を各地に設け、信長を連日連夜、酒と肴でもてなして極上の旅を提供しました。湖に「逆さ富士」が映る富士見の名所に来たときは、信長だけでなく同行している明智光秀(酒向 芳さん)もその美しさに思わず感嘆の声をあげて喜びました。そのころ次の予定地の「信玄の隠し湯」では、鳥居元忠と平岩親吉が急ぎの準備に大わらわしていましたが、信長の気が進まず取りやめとなり、逆に急に信長が来ることになった浅間神社ではさらに慌ただしい準備となりました。信長にこびへつらうかのような主君・家康の態度に忠勝は我慢がならず作業場から出ていってしまい、康政もそうしようと帰ろうとしたら忠世に引き止められました。康政が「お二人(瀬名と信康)のことを思うと・・」と言うと、家康を間近で見ている於愛から「殿がどんな気持ちで上様をもてなしているのか、わかるのか。」と言われ、さらに年長の忠次からも「殿には深い考えがあるのだと信じている。」と言われ、康政は思い直して忠勝を呼びに行きました。ところがその信長は徳川家の旗印の「厭離穢土 欣求浄土」を小馬鹿にして笑い、徳川家を「田舎くさい」と評し、家康が「駿河を(徳川家の客将の)今川氏真に任せたい」と許可を求めると氏真は無能だと認めず、徳川家と家康をどこまでも見下したような態度で、徳川の家臣たちは己を抑えるのに精一杯でした。そして信長の言葉に続いて光秀が家康に、世を乱す伊賀者を必ず根絶やしにするよう念を押し、家康もそれを了承しました。場の空気が重たくなったのを察した於愛が笛を吹き始め、忠世が忠次に十八番の「海老すくい」の披露を勧めると、家康が自分が出ると忠次を止めました。そして信長に三河のめでたき舞を披露すると言って舞台に出ていきました。固唾をのんで見守る徳川家臣たちをよそに家康は舞い始め、それに合わせて笛や鼓の拍子が入り、さらに家康は途中で歌詞を信長を称賛する言葉に変えました。家康の「海老すくい」で信長は愉快そうに上機嫌に笑い、織田家の家臣たちも一緒になって笑いました。その光景は徳川の家臣にとっては笑えないものでしたが、一緒に場を盛り上げようと於愛と茶屋が舞台に上がり、忠次と数正の呼びかけで徳川の家臣たちも舞台に上がって信長を称える家康の舞を盛り上げていきました。富士遊覧の最終日、信長はしばしの間は家康と二人の時間を過ごしたかったのか、人払いをして家康と二人で富士の裾野の遠駆けを楽しみました。そして茶席に戻り、信長は富士を眺めながら家康がたてたお茶を飲んで「良い時を過ごした。」と家康に礼を言いました。そして返礼で、今度は自分がもてなすから安土に来るよう、家康に言いました。その饗応役をやると光秀が挨拶し、信長は「またすぐに会おうぞ。」と家康に約束して、安土に帰っていきました。しかし信長は家康の、自分に対して妙に従順で明るいけれど感情を押し殺したような態度や表情がずっと気になっていました。信長が帰った後で、家康は服部半蔵(山田孝之さん)から(信長が根絶やしを命じていた)伊賀国から逃れてきた伊賀者を100名ほどかくまっている、皆信長を深く恨んでいる、いつでも動けるよう彼らを手なずけておく、といった報告を密かに受けました。そのころ羽柴秀吉は毛利攻めのために備中(現在の岡山県)にいましたが、弟の羽柴秀長から武田が滅亡したことや、家康が信長をもてなしたことなどの情報がすでに入っていました。ある晩、家康が一人でいると重臣たちが皆で部屋に入ってきました。殿が信長の機嫌を取り続ける今の状態が続くなら自分たちはもうついていけない、本心を聞かせてほしいと訴えると、家康自身もそう思っていたと。そして茶を一口飲んだ家康の口から出た言葉は「信長を殺す。」でした。思いもよらぬ家康の言葉に皆が言葉を失っていると、家康は「わしは、天下を取る。」と静かに語りました。
July 11, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康の生涯の中でも最大の悲劇となった、1579年の「築山殿・信康事件」でした。いろいろな説があるこの事件で、ドラマではこれまでにない解釈がされました。ただ私としては、本当の瀬名(有村架純さん)は悪女ではなかったまではOKだったのですが、瀬名が素晴らしい女性であったという部分に重きを置きすぎて、その分、徳川家康(松本 潤さん)が身贔屓でいい加減で頼りない大将になってしまった感じを受けました。ドラマ終盤で瀬名との別れとなるシーン。瀬名が大事なのはいいけど、「国なんぞどうでもいい!知ったことか!」と家康が言ったのは嫌でしたね。1560年の桶狭間の戦いの後、今川から離れるとき、駿府に残る家康(当時は元康)の家臣の妻子たちが、家康の離反の見せしめに処刑されてます。家康の妻子は無事に人質交換が成立し、そこは回想シーンでも出てきて感動的に描かれたけど、それはあの者たちの犠牲があってこそのことだと思います。家康はそういったことを忘れて、家臣たちの痛みに思いが至らない大将なのか?とも思える描写でした。そして徳川信康(細田佳央太さん)の方は、このドラマでは戦場に出てはじめのうちは気分が高揚していたけど、あるときからトラウマなのか戦が恐くなってしまいました。今までに伝え聞く信康は、武勇の誉れが高いだけでなく、家康の側室・お万の産んだ男子を家康は周囲をはばかって遠ざけていたのですが、信康が「我が弟と呼びたい」と父・家康に認知させた優しさも持っています。だから岡崎衆は信康を慕っていて、ドラマでも信康が岡崎を出るシーンでは別れがつらい家臣たちが涙していました。二俣城での最期も、感動的ないいシーンでした。他には、例えば山岡荘八の『徳川家康』では、信康が自刃した後に、後追いで信康の小姓が切腹したともありました。今回のドラマ終盤では、瀬名と家康のシーンが回想も含めてかなり長く続いたので、それよりも「信康を慕って小姓が後追い切腹」なんてシーンを、小姓役をジャニーズの若手がやってくれてたらなあ、とか思ってしまいました。早いもので、ドラマが始まってもう半年が過ぎたのですね。あと半年、どんな展開になるか楽しみです。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正7年(1579)、正妻の瀬名が構想した経済で東国を治める案に乗り、武田とは互いに戦を避けてきた徳川家康(松本 潤さん)でしたが、それはやがて織田信長(岡田准一さん)に徳川は武田と内通していると伝わり、家康は鷹狩りと称して出てきた信長に詫びを入れ、その後の指示を仰ぎました。織田の重臣の佐久間信盛(立川談春さん)は、内通の噂は虚説であろうと家康をかばってくれましたが家康は何も弁明できず、そして信長は「徳川の家中のことだから自分で決めろ」と言って去っていきました。その帰り道に家康は瀬名のいる築山に立ち寄りました。瀬名はこの騒動の元である自分と信康が責めを負う覚悟をし、五徳には実家の父・信長に自分たちの悪行を書いた書状を送るよう命じました。そして家康は「瀬名と信康は責めを負って自害したことにして二人を逃がす」と決め、側近たちとともにその手配に動きました。五徳の書状を持って信長のいる安土城に赴いた酒井忠次(大森南朋さん)は、書状の内容のまま瀬名と信康の悪行の数々を信長の前で読み上げ、瀬名と信康は自害と主君・家康は決定を下したと信長に伝えました。一方、家康の命を受けて瀬名と信康を逃がすよう動いていた服部半蔵は、二人の身代わりとなる者を見つけた、二人が岡崎を出た後にその者たちとすり替えて逃がす、しばらくは名を変えて別人として密かに生きて、世が変わればまた元のように、と計画を家康に報告していました。8月に入り、信康が岡崎を出ていくとき、城主だった信康を慕って仕えていた多くの家臣たちが涙しました。(このときすでに逃げるつもりはなく自害を覚悟していた)信康は別れ際に妻・五徳(久保史緒里さん)に「いつでも織田に戻るがよい。」と言いました。しかし(計画どおりいずれ信康が戻ってくると信じていたのか)五徳は「自分はこの先も『岡崎殿』と呼ばれたい。」と言って笑顔で夫・信康を見送りました。ただ山田八蔵(米本学仁さん)はじめほとんどの家臣たちは、武家の世の習いで主君・信康は二度と帰ってこないだろうと考え、辛い別れとなりました。(ここで一つ疑問が。そもそも信康がこうなったのは五徳の書状が原因だと考え、五徳を恨む家臣もいたと思うのだけど、そういう描写は無し。山岡荘八の『徳川家康』では、五徳の愚痴手紙はかなり前のことで一時の感情で書いてしまった、五徳が家臣団の前で信康の助命を家康に直訴して家臣団が五徳を見直したとあり、このほうが流れが自然に思えました。)家康は信康が半蔵たちの計画どおりに動いて、堀江城に入る前に逃げたと思っていましたが、信康は堀江城に入ってしまいました。家康は苛立って半蔵を叱りましたが、半蔵は信康自身にその気がなかったと。そこで家康はもう一度、大久保忠世のいる二俣城に移すと決め、今度こそ信康を必ず逃がすよう半蔵に命じました。しかしそれでも信康は二俣城に入ってしまいました。そして8月末、瀬名(有村架純さん)は築山を出立し、三河領を出た後は小舟で佐鳴湖を渡って冨塚に着きました。大鼠(松本まりかさん)は瀬名に、藪の中にいる瀬名の身代わりの女と早く入れ替わるよう促しましたが、瀬名はその女を逃がしました。瀬名の覚悟を悟った大鼠が瀬名の介錯の態勢をとると鳥居元忠(音尾琢真さん)がそれを阻止、そうこうしていると霧の中から小舟で家康たちがこちらに向かってくるのが見えました。9月15日、二俣城で謹慎を続ける徳川信康(細田佳央太さん)に、守役の平岩親吉(岡部 大さん)は早く逃げるよう再度促し、大久保忠世(小手伸也さん)は力ずくでも逃がすよう殿(家康)から命を受けていると説得しました。母・瀬名が無事に逃げた後にと考える信康は半蔵に訊ね、半蔵の返事からそれが嘘だと感じた信康は、皆の言うことを聞くフリをしました。そして隙をついて親吉の刀を奪い、その勢いのまま刀を自分の腹へ。あれだけ存命を願った若殿・信康の突然の自刃に親吉と忠世は激しく狼狽、でもこの傷ではもう助からないとわかると、守役として岡崎で信康に愛情を注いできた親吉は信康の体を抱きかかえてただ泣き叫ぶばかりでした。絶え絶えの息で信康は親吉に「我が首を、しかと信長に届けよ。」と命じました。そして「信康は見事、務めを果たしたと父上に・・。」と最期の力を振り絞って言伝を続けるけど、もう楽にしてやりたいと考えた服部半蔵(山田孝之さん)は信康の介錯をするから離れるよう親吉に言いました。信康が可愛くて信康から離れない親吉を忠世が力ずくで引き離し、信康が半蔵に視線を送って介錯を頼むと、半蔵は「御免!」と刀を振り下ろしました。(切腹してからの信康は、痛くて苦しいけど言伝を皆に伝えたい思いと、苦しいけど自分を愛してくれた親吉が自分を離さないのをどこか嬉しく思う気持ちと、でも苦しいから早く介錯をと望む気もちがあったのかなと想像しました。)浜松に戻っていた家康は、このふた月ほどの間のことで憔悴しきっていて、於愛の方(広瀬アリスさん)が家康に寄り添っていました。しかし小姓の井伊万千代(板垣李光人さん)から信康が自害したとの報を受けると、家康の疲労は限界を超えて倒れてしまいました。床に伏しても眠れない中で家康の脳裏に幾度も浮かぶのは、佐鳴湖を渡って瀬名を富塚まで迎えにいったあの時のことでした。自害を決意した瀬名を、家康は生きるよう必死で説得していました。しかし瀬名は、こうなったからには信康は生きていまい、だから自分も共にと。「(この騒動の)全てを背負わせてくださいませ。」ーー瀬名の言葉に家康は、「世の者どもはそなたを悪辣な妻と語り継ぐぞ。」と悲しさや悔しさが交錯した思いで涙ながらに伝えましたが瀬名は「平気です」と。そして家康の胸に自分の手をあて、「本当の私は、あなたの心におります。」と言った時、家康はこの世から永遠に去ろうとする瀬名を抱き寄せました。でも瀬名は「ここにいてはいけない」と家康に早く城に戻るよう促し、家康の供をしてきた本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)に家康を連れて行くように命じました。死出の旅立ちを決めた瀬名に悲しみの涙が止まらない家康でした。瀬名はそんな家康に「ずっと、ずっと見守っております。」と言葉と共に最期の微笑みを送り、家康もなんとか少し笑ってそれに応え、自ら小舟に行きました。家康を乗せた小舟が岸を離れ、家康がもう一度岸辺の瀬名を見たとき、やっぱり瀬名を死なせたくない家康は舟を戻せと命じました。暴れる家康を「ご覚悟を!」と必死で抑える忠勝と康政と、そして自分のためにここまでしてくれた家康を見て、もう思い残すことはないと瀬名は微笑み、首に懐剣を当ててひと思いに引きました。大鼠が瀬名の介錯をし、大鼠は瀬名の亡骸に土下座して別れを告げました。
July 4, 2023
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。今回は次回の「築山殿事件」の原因となる流れを描いたようでしたが、私の正直な感想では、瀬名(有村架純さん)を悪者にしないために、加えて瀬名を素晴らしい考えを持った女性とするために、かなり無理やりな感じがありました。それは同時に、徳川家康(松本 潤さん)を、瀬名には弱い、なんとも頼りない武将にしてしまった感じです。(家康は亀姫や信康から“情”で訴えられると、結局は子たちの言うことを聞いてしまう場面もこれまでにありましたが。)家康が戦国乱世の中で家臣たちと共に戦いを続けているのは、民を守り国を豊かにするために「まず自分たちが強くなって、戦乱の世を終わらせる」という考えがあったと思うのですが、家康はそれを忘れて瀬名の夢が素晴らしく思え(正直、甘い)考えに流されてしまいました。瀬名のプランがうまくいくと思い込んでいれば家康は考えが甘いし、瀬名のプランがリスク大だと分かっていて決行したなら家臣や領民を守る気はあるのかと思えます。家康さん、どういうつもりだったのでしょうか。築山に来た者は瀬名の考えに誰もかれもが感心し賛同・協力するというシーンを見ていると、この方々はモノの価値とか人と人の利害関係とか欲とか、何も考えていないのかとさえ思うような感じでした。どうしても瀬名と武田を結び付けるなら、例えば「信康の病を治す薬が欲しくて武田と~」とかにしておけば、無理のない展開だったのかなとも。他にもイロイロあり、今回の感想は私が知る当時の歴史的な背景も考えた、疑問だらけになってしまいました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 徳川家康(松本 潤さん)の嫡男で岡崎城主である信康が、近頃は母・瀬名のいる築山に入り浸っている、その築山には正妻の五徳も守役の平岩親吉も入れなくて中の様子がわからない、さらには築山からあちこちに密書が飛んでいて連日身元のわからない者たちが築山に来ている、といった報告を浜松にいる家康は受けました。石川数正(松重 豊さん)ら重臣たちは岡崎の離反とその先にある身内同士の戦を案じ、鷹狩りと称して岡崎のことを家康に忠告しに来た織田信長の様子から、酒井忠次(大森南朋さん)はすぐにも手を打つべきと家康に進言しました。さて、武田の館に忍んで瀕死の重傷を負った大鼠(松本まりかさん)でしたが、その後なんとか生き延びたようでした。療養を続ける大鼠は様子を見に来た服部半蔵(山田孝之さん)にそろそろ仕事をくれと頼みましたが、半蔵は忍び働きはもうやめて誰ぞの嫁になれと意見しました。でも「おめぇをもらってくれる男はいないし、自分の命じた仕事で怪我して・・」と口下手な半蔵なりに大鼠に求愛をしていたようですが、大鼠の返事は・・・(笑)信康の他、築山に誰かが来るときは、必ず人払いがありました。半蔵は忍びの者を庭師として築山に送り込み、大鼠もひと月ほど床下に潜んで中の様子をずっと探っていました。半蔵が大鼠から受けた報告は「築山には減敬と名乗る武田の重臣、於大(家康の母)とその夫・久松、今川氏真とその妻・糸らが来ている。今朝も茶や菓子が運びこまれているから明日にでもまた誰かが。」と。家康は3人に兵を集めるよう命じ、瀬名と信康に知られぬよう築山に乗り込むことを決め、大樹寺に移動しました。築山に減敬らしき者が入ったと報を受けた家康は、石川数正と酒井忠次を伴って築山に乗り込みました。すると瀬名(有村架純さん)と徳川信康(細田佳央太さん)は家康を待っていたと言い、武田の重臣・穴山信君と面識がある数正と忠次はすぐに減敬は穴山だと気がつきました。穴山は丸腰でここにいると言い、瀬名は自分の話を聞いて欲しいと強く言うので、家康は話を聞くことにしました。瀬名は、この戦乱の世を「奪い合うから与え合うにしたい」と言います。一緒に話を聞いている忠次は「仰せになることはわかるけどそれは理屈、実際はうまくいかない。」と、そして数正も「少なくとも徳川と武田がそのように結ぶことはない。」と瀬名に進言しました。瀬名は自分の理想を実現するために、氏真と久松から誓書を取ってある、どちらも自分の考えに賛同で協力を約束している、東国をまとめ上げ、共通の銭を使って一つの経済圏ができれば、それは織田に対抗する大きな力となる、と信康と共に瀬名は目を輝かせて語りました。そして瀬名は自分と同じ夢を見てくれと、家康たちに懇願しました。(要するに、戦をせずに交易で互いの利を得て共存していこうということだと思いますが、それは以前から行商の者たちが個々でやっているし、双方の持っているモノの価値の差が大きいと、国同士という大きな単位での物々交換はそれを生産する者には不満となり、分配でも簡単にはいかないでしょう。民たちが戦のときに苦しくても高い年貢や労働力を出すのは、我らがお殿様が勝てば後が安定するからであり、瀬名は働いてやっと得たものを持っていかれる苦しさがわからないから、簡単に夢を描くのだと思います。誰もが瀬名の考えを讃え、賛同してしまう中で、数正と忠次がマトモでよかったと思いました。)家臣たちは家康が決めたことに従うのみ、と決めていました。そして家康は瀬名の考えを受け入れてしまい、同時に武田の重臣の穴山は「戦い続ければ先に力尽きるのは武田。我らが生き残るためにも!」と主君・勝頼を必死に説得し、勝頼もそれに乗ることにしました。浜松城では忠次と数正が重臣たちを集め、徳川と武田の密約が成立した、今後は戦をするフリを続ける旨を伝えました。忠次は、織田に知られないよう、そして瀬名の目指す東国の夢を必ず成し遂げると強く皆に伝えました。(とはいえ、忠次と数正は万一のときは、家康や瀬名の代わりに自分たち二人が責任を取る覚悟だったと想像しています。)徳川と武田は、戦場で相対しても空砲を撃ち合うなどして、しばらくの間は互いに戦のフリを続けました。(戦のフリというのは『真田丸』でも1回出てきました。しかしずっとこれが続けられるとういのはやはり無理に思えます。時間がたてば商人たちが、徳川も武田も鉄砲の火薬を買ってくれないとか、遺体がないから地元の農民たちが甲冑や武器をもらっていけないとか、何か変だとそれぞれが感じるでしょう。そして村人の世間話から行商人に伝わり、すぐに信長に伝わっていくと思います。信長が楽市楽座をさせたのも、行商人や忍びを使って諸国の情報を集めたり、逆に都合のいい噂を広めさせるためだったのですから。)天正7年(1579)、安土城に移っていた織田信長(岡田准一さん)は徳川が未だ高天神城を落とせぬことに苛立っていました。信長は徳川の目付の佐久間信盛(立川談春さん)を叱りつけ、そして「家康に何かあれば責めを負うのはお前だぞ。」と佐久間に忠告していました。(やっぱり家康が可愛い信長がいると、どこか安心してしまいます。)武田勝頼(眞栄田郷敦さん)は穴山信君(田辺誠一さん)と千代(古川琴音さん)を呼び、徳川との戦の状況を聞きました。戦のフリでうまく信長の目をくらませていると聞いた勝頼は、逆に全てを明るみに出す良い頃合いと考え、二人に「徳川は織田を騙し、武田と裏で結んでいると噂をふりまけ。信長の耳に入れてやれ。信長と家康の仲を壊せ。あの二人に戦をさせ、わしは織田・徳川もろとも滅ぼす!築山の謀略、世にぶちまけよ!」と命じました。その噂はたちどころに広まり信長の耳に、そして信長が知ったことが岡崎の瀬名と信康に、浜松の家康たちにも伝わりました。
June 27, 2023
全695件 (695件中 1-50件目)