旅行記 クライストチャーチ '18.09月 0
全57件 (57件中 1-50件目)
今年5月に「開運!なんでも鑑定団」で本物と認められた伊藤若冲の掛け軸を、丸亀城城郭内にある資料館で現在見ることができる。双幅【鶏図】という。本日、しとしとと数日前より続く雨の下、私も若冲を訪ねてみた。若冲といえば、奇抜なほどの色鮮やかな鶏の絵を思い浮かべる人が多いのだろうか。私も漠然とそんな印象を持っていた。ただ、昨今の若冲人気のおかげでそれを知り得たくらい、私は彼の絵を全く知らない。これまで唯一目にした本物が、金刀比羅宮(こんぴらさん)奥書院の障壁画「花丸図」であり、今日出会う作品が私にとって若冲の鶏第一号となる。なので偉そうに若冲を語ることはできないのだが、ちょっとブログに残そうと思った。あらかじめ掛け軸の写真を見て水墨画ということはわかっていたが、派手さのない若冲に一瞬戸惑った。正直、「ふん」というのが第一印象だったのだが、じーっと眺めているうち味が出てくる。まあ、「これは若冲が描いたものだよ」と聞かされているからかもしれないが、さすが若冲、面白い絵を描くなと思った。墨の濃淡もいいが、絵に勢いがあった。鶏の顔もひょうきんでいい。頭に残る。若冲は鶏を描くにあたり、自身で鶏を飼い、一年ひたすら深く観察し、続く二年は写生を続ける修練を積んだという。若冲研究者の第一人者である狩野博幸さんによると、「菊のこの描き方は若冲にしかできず、鶏も若冲がよく使う表情をしており、雄鳥と雌鳥の目線を意識的に合わせている」とのこと。やはり「ふーん」程度にしかわからない私だが、この絵、好きだなと思う。この鶏は、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市)のある町家にあった。現在所有している方の父親が海運業を営んでいた50年ほど前に、木材の運賃代わりに材木商から渡されたものらしい。なので保存状態は完璧とは言えないのだが、対で残っていたのは幸運だろう。もともと本島を中心とする塩飽(しわく)諸島は、昔水軍で栄えた場所。江戸時代には船大工の技術を生かし家大工や宮大工として活躍していた彼らの裕福さは、島を訪れると今も残る江戸時代の古い町並みからもよくわかる。この鶏と塩飽水軍に関わりはないだろうが、塩飽大工によって建てられた立派な民家から見つかったことは大いに頷ける。資料館をでると冷たい雨はやんでおり、長雨はひとまずお休みということか。
2017.10.17
神奈川県在住の鹿写真家、石井陽子さんに勧められ訪館。陽子さんとはペルーの記事をきっかけにブログを通して知り合い、鹿写真家になるずっと以前から彼女のレンズの向こう側にある人々に惹かれ、動物や鳥たちを愛しいと感じ、そして彼女の持つ独特の色彩感覚に憧れてきた。四国からはるばる東京まで彼女の個展を観に行ったり、ダラス空港でまさかの再会があったりと、気が付けば10年来の付き合いになる。今度はその彼女が、ある女性写真家の作品を観るために神奈川からはるばる四国まで来たという。志賀理江子 ー ブラインド デートなんだろう。美術館に入ってすぐ目にしたこの写真家の言葉に、私の心臓がドクンと鳴った。これ、ただの写真展じゃない。息をひそめ、カーテンの向こうにある志賀理江子ワールドへと足を踏み入れた。2009年にバンコクの恋人たちを写した「ブラインド デート」のみに終わらず、「生と死」を見つめる大きなテーマに繋がっていた。展示方法もただ写真が並んでいるんじゃない、こういう見せ方もあるのかと、静かな展示室に響くカチャカチャというスライド式映写機の音に誘われながら見入っていた。言葉と写真が交互に胸に突き刺さる。現在の穏やかな毎日に不満はないが、なんだろう、胸の奥がざわざわし始めた。そして見終わってしばらく経った今も、胸のざわめきはおさまらない。
2017.08.19
大阪へ行くのなら京都にも足を延ばそう。毎年世界で一ヶ所しか開催されないフランスのハイジュエラー・ヴァンクリーフ&アーペルと、日本工芸とがコラボした展覧会が京都であると知り、そう決めた。もともとジュエリーには全く興味のなかった私だが、7年前にモスクワのクレムリンで迷い込んだダイヤモンド庫との出会いが私を変えた。「本物」と呼ばれるものの圧倒的存在感は、人をも狂わすに値するだけのことはある。1200年以上昔から都として栄えた京都には、衣食住に関連する最高級なものが生み出されてきました。十二単や小袖、辻が花、能衣装など金襴を惜しげなく使った装束は、現在の西陣のような織ものから染ものまで技術の粋が詰まった地域で、熟練した職人の技と心意気により作られました。フランスを代表するハイジュエリーメゾンのヴァンクリーフ&アーペルも同様に、熟練した職人が一子相伝のように技を伝えています。本店では「技を極める」をテーマに、ヴァンクリーフ&アーペルの秀逸な作品が伝える「技」と、長い歴史の中で生まれた七宝や陶芸、漆芸、金工などの日本工芸の「技」の対比や結びつきを紹介します。フランスと日本の技の競演をお楽しみください。(リーフレットより)私が最も見たかったのが、「ミステリーセッティング」という宝飾技法だった。それは偶然テレビで見て知ったのだが、宝石を支える爪を表から見せない特別な技法で、格子状に作られた石座へ一つずつ石を置いていき、隣接する石がぴったりと合うようにカットして、パビリオン上にレーザーで溝を彫り格子状の枠へはめていくというヴァンクリーフ&アーペル独自のものである。特にルビーとの相性がよく、思わずため息が出てしまう。釘付けになった目の中でもキラキラと煌めきを放っていたに違いない。もちろん、カッティングの素晴らしさだけでなく宝石の大きさや光具合にも心を奪われた。とりわけバードクリップにつけられた大きな一粒のイエローダイヤモンドからはしばらく目が離せないほどだった。小さなペンダントに輝くそのダイヤの大きさは、なんと96.62カラット。はああああ、といった感じである。そして数多く見ているうちに、本物と呼ばれるものほど光の放ち方が上品で、色合いも控えめだという印象を持つようになった。控えめというより奥行きのある煌めきといった方がより近い表現かもしれない。だから余計に石の世界に引き込まれてしまうのだろう。多くの宝石に吸い込まれ心惑わされそうになりながら、だが、ふと心癒されていく自分に気付く。手が届かない宝石の中にあって、段々と心が開放されていく感覚はフシギだった。「本物」なんだと思った。その「本物」を作り上げていく過程を、展覧会では工程ごとに映像で見ることができる。驚くべきことは、そのすべてが今も手作業であること。これだけコンピュータが浸透している現在において、デザインもすべて人の手で描かれているのだ。細かい作業を一つ一つ見つめていると、そのすべてが愛おしくなってくる。心が開放される、心が癒される、その理由がその時ほんの少し理解できたような気がした。と、ヴァンクリーフ&アーペルのことばかり書いてしまったが、日本工芸も負けてはいない。私が好きな並河靖之氏の七宝焼に、信じられないほど細かく見事な孔雀図屏風など、技を極めるということにかけて決してヴァンクリーフ&アーペルに引けを取らない作品たちがずらっと並んでいる。ただ、今回の私はヴァンクリーフ&アーペルの煌めきに夢中になってしまっただけ。それは自分でも愉快なほどヒカリモノに魅かれていったのだった。私は現実に戻るため、美術館のカフェで少し早めのランチをとる。ぼおおっと冷めやらぬ余韻にテラス席で浸っていると、一匹のスズメが私のパンを盗んでいった。ダイヤやエメラルドはやれないが、パンならどうぞといった感じ。笑この展覧会は京都国立近代美術館にて8月6日まで。一見の価値ありと自信をもって伝えられる。
2017.07.05
これは展覧会を称賛すべきか、美術館を褒めるべきか。比較的自然豊かな処に暮らしている私でも、非日常の緑の中は本当に気持ちいいと心底思う。訪れた兵庫陶芸美術館は、深い緑に囲まれて思わず大空に手を伸ばしたくなるそんな場所だった。すっかり初夏の陽射しが眩しい空はすぐそこだ。流れる水の音がすでに恋しい涼を運んでくる。そんな心地良い空間で、今日、言葉では言い表せられないいいものを見せてもらった。デザインといい、色遣いといい、圧倒され続けてしまった。
2016.05.15
母とモーニングに出掛けようと家を出て、「そういえば、広島の北斎展ってもうすぐ終わるんだったよね」との話から、急きょその足で広島まで車を走らせることとなった。北斎といえば私が小学6年生の時、学研の「学習と科学」シリーズの付録にあったスタンプが『神奈川沖浪裏』で、その年は多くの同級生の年賀状を北斎が飾ったのを覚えている。遠い話ではあるが、当時私もそれに漏れず、北斎の描く大胆な絵の構図に魅了された。今回の展覧会は、その『神奈川沖浪裏』をスタートに、北斎の描く富士の世界へと進んで行く。それにしても、一口に富士山と言っても色んな表情を持っているのだと改めて感じた。私が初めて富士山を見たのは23歳とデビューは遅く、それも熱海へ向かう何処かのサービスエリアから見上げた姿だった。二度目は仙台へ向かう飛行機の中から。その後何度か目にしたのはすべて新幹線の中からで、そういえばじっくり富士山を眺めたことなどあっただろうか。それでも、その一つ一つが記憶に残っているというのは、さすが富士の御山ならではと思う。この展覧会では、描かれた場所も具体的に示されており、遠く茨城や尾張、諏訪湖から望む富士の姿もある。当たり前だが、そのどれもが富士山であるのに違いないが、私の中では静岡から見た富士山が最もしっくりくる。一昨年だったか、朝の連ドラ「花子とアン」で、山梨と静岡、どちらの富士が表か裏かという話にそんなこと大したことじゃないのにと思っていたが、なるほど、なんとなくその気持ちも分かってきた。そして、そこには富士山と共にある江戸時代の人々や生き物たちがイキイキと描かれていて、いつの間にか私は富士山よりもそちらに目がいくようになっていた。旅人であったり船頭であったり、普段の生活を営む人々の姿が剽軽にあって、それらが絵に動きを与えていた。富士の静と人々の動。時に主役に、時に脇役に、どっしりと存在感を示したり消してみたり。どちらにしろ、黙ってそこにあり続ける富士の山。そういえば、大学入試の時だったかな。二次試験の会場で親しくなった、静岡は三島出身の女の子が言っていた。「富士山のない景色の方が変な感じ。」きっとそうなんだろうな。江戸の人々も動物たちも、いつも富士山に見守られて生活してきたのだろう。いつも見上げると富士山がそこにあったのだろう。北斎の富士山への思いも伝わってくるようだ。『冨嶽三十六景』は言うまでもなく、これまで観ることのなかった『富嶽百景』も飽きることなく興味深くて面白い。何気に心惹かれた作品は、『田面の不二』。
2016.02.06
気ままな午後。本屋帰りに、ふらり東山魁夷せとうち美術館。現在開催中のテーマは、「唐招提寺の障壁画」と「鑑真和上の捧げる風景」。東山魁夷の鑑真和上に対する思いが、壮大な構想や綿密なスケッチからも溢れていて、ちょっぴり感動してしまった。東山画伯の作品は、静けさの奥から聞こえる潮騒だったり、しっとりとした雨露だったり、肌にまとう霧雨だったり。耳を澄まして、心を落ち着かせ、微かに漂う匂いが嗅ぎ、それらが自分と向き合う時間を与えてくれる。自分の心の奥底にある邪悪なものさえ洗い流してくれるような、穏やかな時。今回、特に気に入った絵は、中島敦の「山月記」をイメージさせる「黄山良夜」。鑑賞後は美術館のカフェでぼんやり海を見ていた。
2016.01.09
シャガールといえば、6本の指を持つ自画像であったり、首が真反対になった男性が空を飛んでたり、子供の頃の私は、ずっと不可解で気持ちの悪い絵を描く画家だと思っていた。それが19の秋、ひろしま美術館で「私のおばあちゃん」という彼の作品と出会ってから気持ちが変わった。二十歳の誕生日、その「おばあちゃん」の前にひとり佇む私が居た。成人するその日を、大好きな空間の中、穏やかな気持ちで迎えたい。友達が計画してくれたパーティさえ日にちを変更してもらって美術館へと赴くほど、彼の描くおばあちゃんのファンになっていた。(笑)それほど その「おばあちゃん」は、よく絵本に描かれるような暖炉にぽっと灯った火みたいに、柔らかい あったか~い絵だったのだ。それ以来、シャガールは私のお気に入りの画家となる。それでも、ここ最近は絵を見るなら旅先の、しかも作品と縁のある場所で、できれば作品が生まれた国、空気の中で見たいという気持ちが強くなり、全国を巡回するような大規模な展覧会からは足遠くなっていた。それが、友人達の「良かったー!」という声がFacebookにアップされる度に私の心は揺さぶられ、先日、広島県立美術館まで『シャガール展』を観に行って来た。片道200km、軽自動車をふんふん飛ばし、なんと贅沢な芸術鑑賞であろうか。(笑)しかし、これが本当に凄かった。私だけじゃない、「凄い」と思わず言葉を漏らす観客のなんと多いことか。しょっぱなのガルニエの天井画『夢の花束』からやられてしまった。これは本物を見にゃならぬ、と思ってしまった。しかも、ただオペラ座内部の見学ツアーでなく、天井画の下でバレエやオペラを楽しみたいと強く思った。正直、パリのオペラ座やウィーンの国立歌劇場はあまりに有名すぎて、天邪鬼の私は自分がその場に似つかわしくないことを棚に上げ、時々ふんっ!て思ってた。(笑)だが、悔しいことに天邪鬼だって感動する。シャガールは言った。「上部から、まるで鏡を乗せたように役者や音楽家の夢や世界を花束を抱えたみたいに反射させたい」というような言葉を。正にそうなのである。馬鹿で無知な私は、画と描かれた内容の説明を交互に見比べながら、その夢の世界を想像する。その後に続く『「魔笛」の思い出』という作品の前ではしばし動けなくなってしまった。そしてシャガールの『夢の花束』は、ただ単なる夢の花束とは違うと思った。シャガールは後半生において、歌劇場や美術館、教会、大学等の公共空間を飾るモニュメントを多く手掛けている。彼が60歳を過ぎてからのことだから、彼の集大成、人生そのものが描かれているといっても過言ではないだろう。アメリカのメトロポリタン・オペラハウスの大壁画には、「冷戦時代にあって、アメリカ音楽とロシア音楽の両方を賞賛し」表したシャガール。その奥に、彼が旧ロシア(現ベラルーシ)で生を受け、東欧系ユダヤ人であったことが作品に大きな影響を与えていたことは否めない、と私は思う。私は、この春巡った東欧に思いを馳せた。そして、気付く。この展覧会、確かに絵画の素晴らしさや色鮮やかさのみを観るのであれば、昨年の私でもそれなりに感動できたに違いない。しかし、今回の展覧会の作品達が、絵画の持つ世界観を圧倒的迫力でもって私に迫ってきたのは、あの旅あってのことだろう。極寒の中、厳しい歴史と逃げずに向き合ったことで、新しいシャガールとの出会いを見つけた。感動というより打ちのめされてしまったというのが正しいか。その中で、大きな赦しに抱かれる安心感を与えてくれるシャガールの絵。いつまでもいつまでも眺めていたいと思った。展覧会の謳い文句、「こんなシャガール見たことない!」広島では12月25日まで開催されるということで、来月 もう一度観に行こうと思っている。
2013.11.24
そうそう、岡山ってなかなか面白い展覧会をしてくれるのです。文化意識の高い県民性なのかな?中四国で一番大きな街といえば広島市になりますが、いいものは決まって岡山に集まりますね~。岡山は、世界最古の庶民のための学校「閑谷学校」からも分かるように、古くから教育熱心であり、国際交流も盛んな場所です。それにプラス、私には「ミイラが好きな県」ってイメージもあります!(笑)ミイラが巡回する大きな展覧会は、必ず岡山へやってきてくれるのです。例えば、数年前の「大英博物館展」や「インカ・マヤ・アステカ展」など。確か、吉村先生の青いミイラマスク「セヌウ」もそうでした。そして、今年早々には、岡山市デジタルミュージアムで開催された「(インカ帝国のルーツとなる)黄金の都 シカン展」でも"ミイラ包み"があった記憶が…!?*ずいぶん前置きが長くなってしまいましたが、今日は久々に四国を脱出し、岡山市立オリエント美術館へ、『古代エジプト 神秘のミイラ展』を観に行って来ました!(こちらは、沖縄 → 福島 → 群馬 → 岡山の地方都市のみの開催となります。)今回もメインはミイラということで、じっくりと2600年ほど前のミイラと心の対話をして参りました。(笑) こういう時、時々思うのです。数千年の時を越え、数千キロ離れた異国の地で、こうやって私達(私とミイラ)が出会う不思議な縁を。長い眠りの中にあっても、深い深い意識の底で向き合う魂。袖触れ合うも他生の縁と申しますが、これはどんな縁を意味するのかな?古代エジプトにおいて、死後その肉体をミイラとして保存するのは、死者が再生復活すると考えられていたからです。その為には、オシリス神による最後の審判で心臓を天秤にかけられ、真実の女神マアトの羽と自分の心臓が釣り合わなければなりません。釣り合わない心臓はワニに食べられてしまうのです。 ねぇ、オシリス神の前で最後の審判を受ける時、死ぬ時よりも緊張したでしょ?ねぇ、あなたの心臓と真実の羽が釣り合って、ちゃんと死者の楽園に復活を成し遂げることができたの?ミイラさんに色々聞きたいことはあったのですが、彼は堅く沈黙を守り通しました。(笑)と、ふとミイラから外した目の先には、「どうか起こさないで下さい」との文字が…。(^^;おぉ~っと、そうだった! 変な質問なんかして、万が一 ミイラさんを起こしてしまったら、それこそ後が大変なことになるのだった!どうか、どうか、そのまま静かにお眠りください~~~。(笑)それでも こうやって出会えた縁は、やっぱり不思議だな~って思うのです。^^* 今回の展覧会はミイラそのものが凄い存在感でしたが、そのミイラを納めた三重の棺も見事でした。ちなみに、そのミイラさんはエジプト末期王朝時代の神官アンクホルさん。40歳前後でこの世を去ったとされていますが、こんなに丁寧に埋葬されているということは、生前 かなり高い身分の人物であっただけでなく、復活するのに相応しい人物だったということかな?^^その他の見どころは、「死者の書」と呼ばれる、来世において復活するための呪文や美しい挿図と、今回初公開となる、神聖文字ヒエログリフの解読者として知られるエジプト学者シャンポリオン(1790-1832)のノートなど。そして、復活の象徴としてミイラの心臓の上に置かれたスカラベの装飾品も印象的でした。それら200点もの展示物は、オランダ国立古代博物館のコレクションなのだとか。オランダの博物館といえば、私はアムステルダム国立博物館くらいしか知らなかったのですが、そのオランダ国立古代博物館は、古代エジプトコレクションにおいて、大英博物館やルーブル美術館と並ぶほど充実していることで有名なのだそうです。確かに、これほど凄い展示物を一年以上に亘って日本へ貸出してもへっちゃら~なのですから、もっともっと驚くべきものが保存展示されているってことですよね!考古学ファン、エジプトファンにはたまらないだろうな~。(*^^*)岡山での開催は8月31日までの予定でしたが、9月4日まで延長されるのだそうです。(これが全国巡回の最後かな?)それまでに もう一度じっくり観に行ってもいいかな~と思うほど、内容の濃い展覧会でした!
2011.08.27
広島市中心部にある ひろしま美術館。 広島に住んでいた大学時代、私が何度も何度も足を運んだお気に入りの美術館です。 印象派を中心とした、まるでお手本のような西洋美術が並ぶ常設展はもとより、都心部にあって緑豊かで、静かに穏やかに鑑賞できるスペースが何よりも心地いい時間を演出してくれます。 そして、そうやって何度も訪れた者に懐かしい気持ちをもたらせてくれる作品たち。 この場所でシャガールのファンになったんだった!(^^)ちょうど一週間前も、変わらぬ姿で私を和ませてくれました。 * 正直、常設展が目当てだった私は、6月5日まで開催中の特別展「平櫛田中(ひらくしでんちゅう)展」にさほど期待をしていませんでした。 と言うよりも、日本の近代彫刻界の巨匠・平櫛田中という人物を知りませんでした。 面白くなければ素通りしよう、そう思いながら足を踏み入れて、その展覧会に来られている観客の多さに驚きました。 そして、並べられた作品の第一番目で釘付けにされてしまいました。 これまで彫刻家といえばロダンであったり、カミーユ・クローデルであったりと、情熱を地で行く彼らの作品は、時に痛々しいほどの愛情、嫉妬、悲しみ、苦しみが剥き出しに迫り来る凄さに圧倒されたものでしたが、 今回出会った作品は、これが東洋の精神かと思わせる、ピンっと背筋の伸びる空間に、それこそ千差万別の豊かな表現を見せてくれておりました。 木彫とは思えない質感、木目の使い方、思わず笑みのこぼれる表情に、、、ですが、一番は空気に動きを与えたり、留めたりする見事さだと私は思います。 第7回文展に出品された「堅指」を前にした時は、一瞬 身動きがとれなくなるほどの緊張感でした。 1957年の作品「良寛上人」では、彫刻でありながら背中で語る良寛上人の姿にびっくり。ありゃ~、私より人生(?)濃ゆいよ、(木彫の)良寛さん!(笑)田中作品には、仏教説話や中国の故事を題材にした作品が多いからか、俗世を一つ超えた世界観を感じました。 中性的で静も動も併せ持ち、それでもって見る者に親しみを抱かせる作品たち。 さすがは107歳で天寿を全うされるまで現役を貫いた田中(でんちゅう)さんならではの域なのだと思います。それは書家としての一面にも現れていました。本当に見応えのある良い展覧会に出くわすことができたな~と、とても得した気分です。^^さらに この田中さん、岡山県井原市出身とのことで、そちらに田中美術館があるのだそう。 20年を経て完成させた代表作「鏡獅子」はそちらで観ることができるそうですので、近々 行ってみたいと思います!* * * * * * * さて さて、今日はこれから、大阪は梅田芸術劇場にて、待ちに待ったミュージカル「MITSUKO」を観ます☆ 後5分で開演です!久しぶりのミュージカルに胸が高鳴ります!!!
2011.05.21
「で、宝塚歌劇場じゃないんなら、宝塚には何しに行ったん?」お土産を分けている私に、同僚の I石氏が尋ねました。「えぇ~とねぇ、手塚治虫記念館!」「あはは、アトムを見に行ったんか~!?」「いやいや、アトムが見たかったわけじゃなくて、、、とにかくいいところだから、一度 お子さん連れて行ってみなよ~。私、10年くらい前にも行ったことがあって、これで2度目だったんよ。」「ぷはっ! 2度目~?」と笑うI石氏。ぷっ。 私とI石氏の会話を隣りで聞いていた A山氏も吹き出しました。結局、話は高知の「アンパンマンミュージアム」に移ってしまいましたので、ここまで。ですが、本当に本当に『手塚治虫記念館』は素晴らしいのです!!!*手塚先生の作品を初めて読んだのが10年ほど前。それは、当時仲の良かったK君から無理やり押し付けられた漫画「アドルフに告ぐ」でした。それこそ、手塚作品といえば「鉄腕アトム」と「ブラック・ジャック」しか知らなかった当時の私。しかも中身は一度も読んだことはありません。アニメも見たことがありませんでした。けれど、アドルフという3人の人物を要とし、ヒトラーがユダヤ人の血を引くという機密文書を巡っての歴史漫画の勢いに呑まれ、手塚治虫という人物が"漫画の神様"と呼ばれる理由がほんの少し理解できました。そして、この秋。偶然、書店で目にした「ブッダ」を手に取り、手塚先生の思想や宇宙観、圧倒的なスケールの大きさにひれ伏したい気分になりました。そこで、急きょ 宝塚まで車を飛ばしたわけですが、やはり2度目でも大変素晴らしいものでした。作品全てがそうですが、記念館の至るところで、自然への思いと命の尊さが込められた 先生のメッセージを感じることができるのです。人間も動物も植物も、宇宙の中の地球の中の同じひとつの生命体だと、気付くことができるのです。ホント、スケールが違うんですよね~。改めて感動しまくりの私は、早速 先生の代表作「火の鳥」を購入しました。^^記念館には大人も子供も大勢 来られていました。2階に設けられたライブラリーでは、皆さん 夢中で手塚作品を読み漁っていました。医学部時代の貴重なノートや中学時代の自画像、子供時代に写生した昆虫などなど、漫画家として大成する前の貴重な資料も見ることができます。G階にはアニメ工房があり、実際に作品を作る体験をさせてくれたり、こんな施設が近くにある子供達は幸せ者だぁ~って、目をキラキラさせている子供達を見ながら羨ましくも感じました。ちょっとしたシアターでは、手塚先生にちなんだアニメが放映され、それだけでも心がじわ~って温かくなります。そう! 先生の作品に囲まれていると、自然と温かい気持ちになれるんです!先生ご自身が愛情に満ちた方だったのでしょうね~。^^ここは何度訪れても感動する場所!!今度、思いっきり笑ったI石氏とA山氏に、はっきりそう教えてあげようと思います。(笑)
2010.11.28
私のアンテナは、今もロシアに向けて伸びているらしい?先月11日、産経新聞の『トルストイ没後100年・「共訳」を手がけた日本人に脚光』という記事が目に飛び込んできました。読み進めていくと、それは岡山県出身の人物だとあります。そういえば、社会主義・マルクス主義に傾倒し、日本で最初の社会主義政党である社会民主党の結成に幸徳秋水らとともに加わった"片山潜"という人物も岡山の出身。ここで、ピクピクっと私の鼻が、、(もとい!)アンテナが動いたのが分かりました。(笑)早速 調べてみると、岡山県倉敷市において、その人物に関する展示があるということが分かりました。しかも、瀬戸大橋を渡ってすぐ、倉敷市児島です。(有名な美観地区からは随分と距離があります。)私の町から30kmばかり、同じ香川の高松市へ行くよりも近いのです。そこで、、いざっ、児島へ!*その人物は、小西増太郎。日本人で初めてトルストイと出会い、彼の葬儀にまで参列したという。あまり耳にしない名前だけど、どういう人物だったのか。記事には、「備前国(岡山)に生まれた増太郎は、東京の神田ニコライ神学校でロシア語を学び、明治20年、26歳でロシアへ。モスクワ大学で師事した教授の勧めで『老子』のロシア語訳を始めた際、同書に興味を持っていたトルストイと知り合い、共訳作業を5カ月ともにした。ロシア文学者の中本信幸・神奈川大学名誉教授は、「あるがままに生きるべきだとする『無為』に代表される老子の思想が、晩年、富や名声を嫌って家出するトルストイに与えた影響は大きい。共訳が、老子への理解を深めさせた側面はあるだろう」と指摘する。」とありました。増太郎と出会う前から、すでに東洋思想を好んでいたトルストイではありますが、彼との共訳作業でより一層 傾斜が進んだのかも(?)しれません。そして、その思想が家族に理解されず、ソフィア夫人との確執を生み、一人寂しく冬の鉄道駅で最期を迎えることとなったトルストイを思うと、何とも複雑ではありますが、それでもトルストイの言葉から影響を受けた人物が、世界に広がっているのもまた事実。小西増太郎は、その鍵(?)となる人物なのかもしれません。増太郎の死後、ある一冊の聖書が発見されました。徳富蘇峰に托してトルストイから増太郎に贈られたロシア語の四福音書。それが、今回の展示のメインだったのです。「小西君、君が紹介せられた徳富という方が、統ヤスヤナを訪問し愉快に面談した。同氏に托して、四福音書一冊を君に送った。同書の中で重要だと思う節々には朱線を引いておいた。まずこの節々を学び、それで根本思想をつくったのち、青線を引いた節々をお読みなさい。そしてどんな線も引いてないところは、大切ではないから学ぶに及ばぬ。」その経緯を、徳富蘇峰が箱に直筆で記しているのがこちらです。おお! トルストイが手にした聖書が目の前にあるぅ~!!!薄いガラスを一枚隔てただけの、こんな間近にトルストイによって丁寧に線が引れた聖書があるんだ~!!!かなり嬉しいぞ~、picchuko☆(笑)私の他に誰もいなかった展示会場。 しばし、貴重な空間を独占させていただきました。倉敷らしく、蔵の中での展示です。^^*今回、この展示会が開かれた場所が、国の重要文化財であり岡山県指定史跡の「野崎屋旧宅」。江戸時代後半、岡山の瀬戸内沿岸に広大な塩田開発を行い、「塩田王」となった野崎武左衛門の居宅です。 (扇面の石)なぜこの場所なのかと申しますと、増太郎がロシアへ渡る前にこの野崎家に奉公していたからなのです。ロシア正教(ハリスト修道会)の宣教師に出会い、その教えに感銘を受けた増太郎は、野崎家を飛び出し、東京のハリスト修道会の神学校を目指しました。そんな増太郎を、主人であった野崎武吉郎は生涯支援し続けたそうです。岡山には、世界最古の庶民の為の「閑谷学校」を開いた藩主・池田光政候といい、この野崎武吉郎といい、器の大きな"あしながおじさん(?)"が多かったのですね~。
2010.11.28
『世界遺産 アンコールワット展 ~アジアの大地に咲いた神々の宇宙~』待ちに待っていた展覧会が岡山までやって来ました。私が本気で外国に興味を持ったのは、私にとって三度目の渡航先、カンボジアでした。アンコール・トム南大門の通路両側にずら~っと並ぶ神々と蛇神・ナーガ。出発直前まで眺めていたその写真は、アンコールワット以上に私の想像を掻き立て、今でも 当時の興奮を 鮮明に覚えています。まるで太平洋に沈む伝説の大陸「ムー」を探しに、picchuko率いる探検隊が はるばる南の国まで赴くような、そんな錯覚すら感じていたのでした。(笑)そして、密林から一気に姿を現したアンコールワットを見上げた時、一瞬 身体中に電流が走り、言葉を失い、自分とアンコールワットとの奇跡の出会いに涙を呑み込んだほどでした。もう一つ、私にとってカンボジアを特別にしてくれた存在が、一対一でガイドをしてくれた見習い青年「サムナンくん」。('07.12.14日記) ('08.04.28日記)彼との出逢いによって、カンボジアだけでなく、世界とは本当に素晴らしいものなのだと教えられたように思います。*そのカンボジアの神々が日本へやって来る。しかも、上智大学創立100周年記念事業として、約1年半もの永きに亘り、日本各地を巡回する。2001年、それは私がカンボジアを訪ねた次の年のこと。「上智大学アンコール遺跡国際調査団」が、バンテアイ・クデイ遺跡において、千体仏石柱と274体の廃仏を発掘しました。また2007年には、アンコール遺跡群の拠点であるシェムリアップに「シハヌーク・イオン博物館」が開館しました。私は当時の感動を思い出し、次回のカンボジア訪問を期待しながら、「早く来い! 岡山へ来い!」と今か今かと楽しみにしていたというわけです。^^*上智大学の石澤良昭学長は、アンコールワット見たさに20歳そこそこでカンボジアを訪れ、そこでアンコール遺跡群に魅了され、現地の遺跡調査団と共に活動を始めました。しかし、その後に待ち受けていたのが想像を絶するあの内戦。(今もその傷跡は、遺跡の至る所に痛々しく残っています。)1980年、まだ内戦中であったカンボジアを12年ぶりに彼は訪ねます。ポル・ポト時代の知識人抹殺政策によって、かつて一緒に働いた同僚だった遺跡保存官36人のうち、3人以外は全て殺害されたことを知り、仲間の無念さに報いる為にも、カンボジア人の手による遺跡の発掘、修復を目指し、人材育成に力を注ごう、と決意されたそうです。石澤学長は次のように仰っていました。(DVD 映像ですが、、、。^^;)「当時、共に活動していたカンボジア人の仲間が言ってたんですよ。カンボジアの風土に生まれ、カンボジアの水に触れ、風に触れ、雨に触れた我々カンボジア人の感性の結集がアンコールワットを生み出したと、、、。」きっと、昔 夢を語り合った友人のこの一言が、石澤学長の中に深く刻まれていたのではないかな。多くを語ってくれた石澤学長の言葉の中で、最も私の心に響いてきた台詞でした。それを肌で感じるには、当然のことカンボジアの地を踏み、遺跡そのものに触れる以上にないけれど、海を越えて運ばれてきた アンコール王朝最盛期の彫像作品は、それでも何かを語りかけてくれるはずです。*私は、仏教もヒンズー教も、それらの仏像についても全く無知ですし、まして インドや中国の仏像、その他 ギリシャなどの彫刻との比較なんて、そういった細かい部分までは全く分かりませんけれど、どの彫像も、一度 どこかでお会いしたような、そんな親しみのあるお顔をされていて、前に立つだけでもの凄く癒されました。ヒョウキンなお顔のガネーシャも忘れてはいけませんね。思わず笑みがこぼれます。^^個人的には、リーフレットの表紙を飾っている菩薩様のご尊顔が、正面から拝すると、以前 私が老人デイサービスセンターで勤務していた頃に仲良しだった ハルコさんというお婆さんにそっくりで、思わず声を掛けそうになりました。(笑)そして、「鎮座する閻魔大王ヤマ天」。こちらは、"三島由紀夫が戯曲の題材にしたという砂岩の丸彫による大彫像" と説明にあるほどの閻魔様ですが、とても穏やかで素朴さすらも感じられるそのお姿。今回の展示場の中心に置かれておりました。前からのお姿の写真しかなくて非常に残念ですが、後ろ姿こそバランスの取れた いいスタイル!とりわけ お尻のふっくら感に、「触ってもいい~?!」と(ご本人に)尋ねてみたくなったほどです。(爆)他のアンコール朝の仏像のお尻が貧相なだけに、余計にそう思えてしまいました。^^;すでに5会場で開催済みの この展覧会、まだまだ全国を巡回します。岡山県立美術館では来月の5/30(日)まで。群馬県立近代美術館 6/5(土)~7/7(水)福岡市博物館 7/10(土)~8/29(日)熊本県立美術館 10/19(火)~12/5(水)大分県立芸術会館 12/11(土)~2011年1/23(日)
2010.04.27
宍道湖畔に建つ島根県立美術館。3月最後の土曜日に、私は瀬戸大橋を渡って はるばる島根県松江市まで『ビアトリクス・ポター展』を観に行きました。ビアトリクス・ポターとは、絵本「ピーターラビットのおはなし」で世界中に知られる絵本作家であり、またイギリスの美しい自然をこよなく愛し、農業生活や自然保護運動の推進者でもありました。リーフレットから抜粋すると、今回の展覧会は、そのビアトリクスの絵本作家としての活動とともに、これまで知られてこなかった優れた水彩の風景画、動植物画を中心に、スケッチ、貴重な初版本、映像などによって彼女の画業を振り返るものです。厳格な両親の元で育ったビアトリクスは、子供のころから小動物や昆虫の写生を好みました。学校に通わず家庭教師に学んだ彼女には同じ年頃の友人はおらず、ペットなどの動物が 何より大切な友達だったのです。それを単なる友達で終わらせなかったところが、彼女の並み外れた才能だったのでしょう。その細かく鋭い観察力は、後に解剖学的な精確なデッサンまで描くようになり、キノコについてなどは、繁殖の実験と研究まで行って、研究論文を学会に提出するという熱心ぶりだったそうです。そのとことん追求する性格は、例えば犬の頭骨をスケッチするほどまででした。(その絵とリアルな蜘蛛のスケッチには、正直 一瞬ひいてしまった私です。^^;)そんな彼女の一面を知って、子供時代に昆虫や科学に興味を持って 細かく写生していた手塚治虫先生を思い出しました。やはり 何かに秀でている人は、小さい時から゛見る目"を鍛え養っているのですね。ただ当時(19世紀末)としては、一風変わった女性であったことは間違いないですし、それは映画 『ミス・ポター』 からも良い意味で窺えます。^^彼女の作品の中で、とりわけ私の興味を惹いたものが、16歳の時に水彩で描いた「ぶどうと桃の静物」という作品でした。果物の瑞々しさはもちろんのこと、木からもぎ取られた静物たちも、自然が生み出した確かな生き物だということが画面いっぱいに輝いていたのです。そうそう、もう一つ心に残ったことは、「ピーターラビット」という有名な一つのウサギの物語は、もとは彼女が家庭教師をしていた病弱な男の子の為にお話を作って贈ったことがはじまりだということ。あの今にも絵本から飛び出してきそうなピーター達の愛らしさの中には、彼女の思いやりがぎっしり詰まっていたんだなって、物語の誕生からして微笑ましいものだったんだなって、今回 初めて知りました。この展覧会は、4/12まで島根県立美術館で開催された後、4/23~5/23 北海道立旭川美術館、6/4~7/11 新潟県立万代島美術館7/17~9/5 郡山市立美術館 9/16~10/24 下関市立美術館 を巡回致します。英国の湖水地方とスコットランドは、私にとっても以前から訪れたい場所の一つでしたが、彼女の自然を愛する気持ちと、彼女の描いた生き物達に出会える日を楽しみに、ますます夢を膨らませておこうと思います。^^* * * * * * *少しだけ 画像を。花冷えがひどかったこの日、島根までおよそ3時間の運転の途中、立ち寄ったサービスエリアから眺めた岡山県北・蒜山(ひるぜん)の雪景色。(本当は、鳥取県米子市近くで 雪を覆った美しい大山が姿を現わしてくれたのですが、写真を撮る機会を失ってしまい、それが非常に心残りです。)こちらは、4月頭に足を運んだ、徳島県鳴門市の「ガレの森美術館」にて。小さな美術館ですが、ここではフランスのアール・ヌーボーを代表するガラス工芸家「エミール・ガレ」の優美な装飾芸術を堪能できます。(この像は、エミール・ガレとは関係ありませんので、あしからず。)そして、毎年3月下旬から5月31日まで吉野川上空を泳ぐ、徳島県大歩危峡の「鯉のぼり」たち。 少し風がキツかったせいもあり、渓谷美を背景に いつになく大きくはためいておりました。^^
2010.04.07
次回の旅は、「フィンランド航空」を利用したいと思っています。前回のブダペスト行きで初めて乗った「エア・フランス」の、あの具のない゛ミソスープ"にいたく感動致しまして(笑)、「お! 欧州行きは、ルフトハンザドイツ航空以外もなかなかいいかも~!!」などと思い始めました。^^ちなみに、これまでに利用して気に入っている航空会社は「エアNZ」に「カンタス航空」、そして意外に感動したのが南米チリの「ラン航空」。(あらっ! 全て南半球ですね。^^)ただ経由するだけのフィンランドではありますが、一足お先にその世界に触れようと、先々週、広島県立美術館まで 『ムーミン原画展(~3/28迄)』 を観に行きました。(笑)(実は帰国便の乗り継ぎの際、ヘルシンキで少々待ち時間があるのです。空港から市内中心部まで、タクシーならおよど20分程度で行けるようですので、ちょっとだけ゛ムーミンの国"を覗くのもいいかなって計画中です。^^)*「ム~ミ~ン~~~♪」 会場には、無邪気にはしゃぐ子供達のムーミンを呼ぶ叫び声、原画に穴が空くのかと思うほど 真剣に覗きこんでいる青年、この人もイラストを勉強しているのかな、、、って つい想像してしまう女子大生など、゛ムーミン谷"というひとつの空間であるにも関わらず、それぞれに自分達の世界を広げていってるんだな~って、そういうところも 他の展覧会以上に強く感じるものがありました。ムーミンといえば、「ねぇ、ムーミン。こっちむいて。」しか知らない私。(笑)きっと あの場所にいた全ての人達の中で、私が一番 ムーミン初心者だったと思います。そのお話が一体どんなものか知らなくても、作者トーベ・ヤンソンの表現力に、いつのまにかのめり込んでおりました。細か過ぎるほど丁寧に描かれているものも、さらさらっと鼻唄でも歌いながら数秒で描いたんじゃないかしらって思える作品も、どれもこれも彼女の見事な表現力が存分に溢れ返っています。なるほど~、こうやって描けば雪のように見えるのか、、、水中にいるように、霧の中を彷徨うように、妖しげな満月に照らされた真夜中のように見えるのか、、、その技術を観察する為に、盗み取る為に、私も夢中で原画を眺めました。一本の線やひとつの点まで、全てが彼女の感性から生み出されたもの。モノクロだからこそ感じる何か…。その感性に少しでも近付こうと、気が付けば近くにいる子供達さえも押しのける勢いで(笑)、画面の前から動かない私がいました。(^^;そして、これまで明るく陽気なイメージを持っていたムーミンの世界ですが、意外に影の部分も潜んでいたんだなって、ちょっぴり印象が変わりました。以下は、公式サイトから拝借した数点です。^^初期のムーミン。(ちょっと変なのぉ~!笑) キュートなお尻がたまらないムーミンママ。^^ 一年に亘って全国7ヶ所を巡回した今回の原画展。28日(日)をもって全て終了とは少し淋しい気持ちもしますけど、本当にご覧になりたい方は、フィンランドのタンペレ市立美術館にあるムーミン谷博物館へ行きましょう!(笑)そこには、トーベ・ヤンソン本人が寄贈されたという約2,000点もの原画が所蔵されているそうです。^^* * * * * * *ところで、フランスはレユニオン島から、ブログ友達の「Mimiさん」から素敵な絵手紙が届きました♪* Mimiさん、どうもありがとうございます!!!* Mimiさんをご紹介して下さったchloeさん、どうもありがとうございました!先月送って戴いた1枚目の絵手紙は、どうもどこか世界を旅しているようで(貰い手に似て、放浪したくなっちゃったのかな?・笑)、今回、私の為にわざわざ2枚目を描いて下さったのです。このチャーミングな子は、インド洋に浮かぶレユニオン島のヤモリ君だそうです。この明るい色遣いと、クリクリっとした可愛いお目目は、南の島だからということもあるでしょうけど、何よりMimiさんそのもののように思えてくるから不思議です。よ~く見てみると、Mimiさんの筆遣いまでも感じられそうで、一枚一枚にMimiさんの温かい心が込められているんだな~と、ふつふつと喜びが湧いてきます。芸術って本当に素敵ですね。遠く離れた方、これまで会ったこともない方、そして時代を越えた人の輪を作ってくれるのですね。^^ということで(?)、この週末は、島根県立美術館まで『ピーターラビットの生みの親 ビアトリクス・ポター展 ~イギリスの自然を見つめて~』を観に行きたいと思っております♪^^
2010.03.26
≪ 田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな ≫「岡山のどこへ行きたい?」ほぼ10ヶ月ぶりに会う 親友M子が、メールでそう尋ねてきました。「岡山市から笠岡って遠い? 笠岡市立竹喬美術館で『生誕120年 小野竹喬展』をこの14日までやってるんだけど、、、。」「picchuちゃん、いいところに気が付いたわね~。私、1月にその美術展へ行って、とても良かったから、もう一度観に行きたいな~って思ってたの。」* * *ブダペスト旅行記の途中ではありますが、先日 鑑賞した小野竹喬展について、先に記しておきたいと思います。^^明治22年、岡山県笠岡市において、日本画を代表する画家・小野竹喬は生まれました。その生誕120年を記念して、10年ぶりの大回顧展が開催されているのです。昨年の11月のこと。ブログ仲間のsakura由子さんが、大阪で開かれたこの展覧会について日記で紹介されておりました。小野竹喬?日本画家に詳しくない私は、過去にその名前を聞いたこともありませんでした。由子さんがアップして下さってる数点の絵画にどことなく惹かれ、少し竹喬さんについて調べてみました。そこで、私の住む香川県のお向かいさん、岡山県出身だと知りました。しかも笠岡市と海を挟んだだけの、すぐその向こうが私の住む町なのです。不思議とそれだけで親近感が湧いてきました。^^そして、セザンヌの影響を受けたという竹喬さんですが、私にはどこか竹久夢二の世界にも通じる何かを感じて、同じ郷里の誼かな~、なんて思ってしまいます。^^その回顧展が、現在、彼の故郷である笠岡を巡回中です。雨降りにも関わらず、笠岡市立竹喬美術館は大賑わい。皆さん、竹喬さん独特の柔らかい絵に癒されたかったのでしょうか。どの絵からも温かい人柄が窺い知れて、とても心が和みました。きっと竹喬さんは欲のない、素直な方だったのでしょうね~。観ていて、気持ちがす~っとしてくるのです。明るい青色や淡い茜色など、その色遣いも印象的で、、、竹喬さんの優しい視線の先にある、ごく当たり前の風景に少し頬紅を加えたような、そんな可愛い感じがします。^^もちろん、それだけが竹喬さんの作品ではありませんけど、そういう部分が特に私の中に残りました。(もしかして、私の心は疲れてるのかな?)そして、彼の晩年の代表作となる『奥の細道句抄絵』の、松尾芭蕉とのコラボレーション(?)が私的にはヒットでした。これまで、感性の乏しい私が芭蕉の句を読んだとしても、さほど心に響くものはなかったのですが、竹喬さんの絵とともに見る数々の句に、さすがは、芭蕉!としばし唸ってしまいました。(笑)私にとって、俳句だけでは感じ得ることができなかったもの、絵だけでも何か足りないものを、2人の世界が上手く融合して、その情景が心にしっかりと届いてきましたよ。なかなか見ごたえのある展覧会、この2/14(日)まで笠岡市立竹喬美術館で開催された後、お次は 3/2(火)~4/11(日)まで、東京国立近代美術館で楽しめます。≪ 暑き日を 海にいれたり 最上川 ≫「竹喬さんの絵を見た後は、あぁ、やっぱり笠岡の景色だって思うよね~。」美術館を出て、少し車を走しらせた頃、M子は言いました。ちょうど私も、まるで竹喬さんの絵みたい、、、と車窓から眺める笠岡の風景にそう感じていました。二人で同じこと思ってたんだ。^^けれど、花より団子の私達。(笑)「picchuちゃん、妖しいカレー屋さんに行きたくない?」というM子の一言で、ランチお預けで竹喬さんの世界に浸っていた私達も、一路 倉敷にあるインド料理屋さんへと走りました。実はこの日、私にとって生まれて初めてのインド料理だったのです☆店の扉を押した途端、ぷ~んと妖しげなお香の香りが漂ってきて、竹喬さんの純日本からインドへと一気に空を飛んだようです。^^「もう、おなかペコペコだよぉ~!><」そこで、少し早目のディナーコースを頼みました。「ラッシー。」 インド人らしき店員さんは そう言って、まずはドリンクを運んできてくれます。何も分からない私は、「ラッシー」が挨拶の言葉なのかと勘違いしてしまいました。彼女につられて、首を傾げながら笑顔で「ラッシー」と答えてみました。(恥)「picchuちゃん! ラッシーって、このジュースの名前だよ!(><)」きっと私よりもM子の方が恥ずかしかったに違いありません。(苦笑)それにしても、インド料理はもの凄~く美味しかったです!!スパイスが効いてるのかな~、身体の内側から暖かくなって、一日経った今でもお腹に温もりを感じています。また食べに行きたいなぁ~。^^ 「きっと、あの人達はネパール人よ。」とM子。「え? やっぱりインド人でしょう…。」「いいや、岡山には沢山のネパール人が来てるから、きっと彼らはネパール人だって。」美味しい料理が食べられるのなら、彼らがインド人であろうが、ネパール人であろうが、私には全く問題ありません!(笑)〈インドレストラン&バー マタ〉岡山県倉敷市宮前356-1086-421-7344http://indianrestaurentmata.com
2010.02.10
池田理代子さんの「ベルサイユのばら」だったでしょうか、私がマリー・アントワネットを知ったのは…。それは、私が高校生の頃にテレビで再放送されたのがきっかけでした。それから10年あまり経った 2000年1月。パリ・ベルサイユの旅から帰国した私は、遠藤周作さんの著書「王妃 マリー・アントワネット」を読み耽っておりました。そこで知った彼女の祖国、オーストリア。名門ハプスブルク家も、母であるマリア・テレジアという大女帝についても、その時 初めて知ったように思います。それから4年後、私はカフェの本場・ウィーンで美味しい珈琲が飲みたい、、、という単純な理由でウィーンへと出掛けます。そこで外せないのが、定番の観光名所「シェーンブルン宮殿」。訪れるまでは、きっと幼少時代のマリー・アントワネットの面影を感じられる場所なんだろうな~、くらいにしか思っていませんでした。そして、それを期待していました。ところが、そこでの主役は皇妃エリザベートだったのです。誰? この綺麗な人???彼女の存在を知らなかった私は、シェーンブルンで初めて その美しさに出会ったというわけです。* * * * * * *1月から開催中の、京都国立博物館の『THE ハプスブルク展』でも、岡山県立美術館の『華麗なるオーストリア大宮殿展』でも、かなりの人出で賑わっていました。ハプスブルク家の今日の人気は、シシィ(エリザベート)も一役買っていることに違いありません。やはり一番人気はシシィの肖像画ですね~。(*^^*)特に、京都へ来ている星型の髪飾りをつけた見返り美人のシシィ像、その実物を見ることを私も非常に楽しみにしていました。思ったよりも随分と大きなことに驚き、すでに知っていながらも その美しさに二度驚き、しばし言葉を失い、見惚れてしまいます。^^この人にとっては本望でなかったかもしれませんが、彼女はフランツ・ヨーゼフではなく、天に選ばれてしまった皇后なのだと、私は思います。(皇后としての役割を果たしたかどうかは別にして、、、。)*そして、悲しいかな、、、それはフランツ・ヨーゼフ自身も言えることでした。1896年頃に描かれた「オーストリア元帥姿の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世」。その瞳からは、何とも言えない憂いのようなものを感じました。~THE ハプスブルク展~部屋の片隅に飾られたこの絵。シシィや11歳のマリア・テレジアの華やかさとは対照的なこの絵。会場を回っている時はさほど思いもしなかったのですが、時間が経てば経つほど、じわ~っと哀れのようなものが心に広がっていきました。1896年ということは、まだシシィは生きていた頃ですが、すでにフランツ・ヨーゼフの弟 メキシコ皇帝マクシミリアンも、長男 ルドルフも失った後です。愛する妻(シシィ)は相変わらず放浪を続け、すでに欧州きっての帝国は傾きを隠せず、彼は必死で大国を守り続けようとがんじがらめになっていた頃。この先、まだまだ襲ってくる不幸を予感させるかのような フランツ・ヨーゼフの表情は、どの作品よりも私の中で印象的なものとなりました。弟の処刑、長男の情死、妻の暗殺、皇太子である甥夫婦の暗殺、 そして第一次世界大戦の勃発、、、。(孫娘の貴賎結婚なんて、まだ可愛いものですね~。^^;)ホント、もう呪われているとしか思えないような人生です。><それでも、実質的にハプスブルク家最後の皇帝に相応しい人物は、天から見下ろして きっと彼しかいなかったのでしょう。私が皇妃だったら、決して寂しい思いをさせなかったのに…、共に時代と戦ったのに、、、な~んて、最後に冗談でも付け加えておきますね。(笑)
2010.02.06
風邪をひいて10日以上になります。今年の風邪は例年になくしぶといようで、今も鼻がずるずる、、、 もしかすると新型インフルエンザの方が治りが早いのかもしれません?!随分と冬らしく、寒さが厳しくなってきました。皆さまもくれぐれも気を付けて、体調管理はしっかりなさってくださいね。^^* * * * * * *もしかすると、これが風邪を拗らす原因だったのかもしれません。12日の土曜日、片道2時間のドライブで広島県尾道市瀬戸田町へ行ってきました。そこは、瀬戸内海に浮かぶ生口島(いくちじま)。12月2日に79歳でお亡くなりになった平山郁夫画伯の生まれ故郷です。尾道市に編入されたのは2006年のこと。市とは名ばかりの、島の斜面にはミカンやレモンの木が生い茂り、海岸線にはヤシの木が立ち並ぶ、いつ訪れても穏やかな周囲20kmばかりの小さな島です。平山芸術の原点が、その自然豊かな生口島。平山郁夫美術館で戴いたリーフレットにも書かれてありますが、「神秘的な潮の流れや群青色の海は、平山少年の心に大きな影響を及ぼしました。画家・平山郁夫の感性は、瀬戸内の風土に育まれたといえましょう。」また、戦時中の中学3年生の時に広島市で被爆した体験が、後の作品に大きな影響を与え、『仏教伝来』などの平和を願う作品へと繋がっていきました。その『仏教伝来』で、平山画伯は注目を集めることになるのです。そこからシルクロードへ、世界の文化遺産保護へと活動が広がっていったそうです。その全ての原動力は、平和への祈りでした。*画伯がお亡くなりになって10日後、少し天気は下り坂でしたけど、心持ち体調も回復したかに思えた私は、まるで平山画伯に呼ばれるように生口島へ、平山郁夫美術館へ行くことを決心しました。現在 秋の時別展として、「平山郁夫 幻想美の世界」が開催中です。第三展示室には、画伯の文学的素養の研究に裏付けられた幻想画が独特の景色を生み出し、円熟期らしい筆の乗った作品が並んでいました。これまでよく見てきた シルクロードや世界遺産を描いた作品と通じるところはあるものの、より画伯の内面に入り込んだかのようでした。* 画家はその1本の線を見つけるために、何千、いえ何万本もの線を描き続けます。集大成の域に入った作品たちは、確かに画伯らしい穏やかで壮大な世界観で観るものを圧倒させます。けれど そこに至るまでの何万本もの迷った線こそが、画伯の歴史そのものであり、祈りなのです。だからこそ、迷いの解けた晩年の作品からは天国にも似た安らぎさえも感じられるのでしょう。私はそんな迷い悩んだ線こそが美しいと感じました。そして、迷う前のスランプすら知らない子供時代ののびのびとした作品が愛おしいと思いました。常設の第一展示室では、画伯の幼少時代から東京美術学校(現・東京藝術大学)入学試験の作品までを見ることができます。幼いころから天才の素質はあったものの、まだまだ無駄な線がいっぱいの年頃。上手だけれど、完成はされていない作品たち。これが非常に面白いのです。そして、それこそが大いに私を刺激してくるのです。天才の作品とは、上手下手ではなく、「生きてる」んだなぁ~と感じました。ただ絵を描くのが好きだった時代から、方向性を模索していた時代にかけて、その作品たちの中に、今も生きる平山画伯自身にお会いすることができました。79歳、まだこれからも素晴らしい作品を生み出して戴きたかった、、、けれど これからは天国で絵筆を握って下さいね。あらためて、ここにご冥福をお祈り申し上げます。~武者(源義朝)~ 1943年、平山画伯13歳の作品です。
2009.12.15
紀元前15世紀頃から紀元前8世紀にかけて、シリアの一角、地中海東岸にフェニキア人は都市国家を形成し、海上交易を中心に発展しました。その都市国家の一つであるティロス(現在のレバノン)の王女エリッサは、神官である父王の弟シュカイオスと結婚をし、巫女として仕えていました。父王は、エリッサと兄のピュグマリオーンが共同で国を治めるように、と言い残して亡くなりましたが、兄ピュグマリオーンは王位の独占と財産目当てにシュカイオスを暗殺し、エリッサの命も狙おうとしました。エリッサは忠臣を連れ、ティロスを脱出します。地中海を西へ西へと進み、現在の北アフリカ・チュニジアの地に辿り着きました。そこで彼女は、原住民の王イアルバースに「1頭の牝牛の皮が覆えるだけの土地が欲しい。」と願い出ます。そして、牝牛1頭分の皮を細かく引き裂いて、砦を築くほどの広い土地を得ました。イアルバースは彼女の才能に惚れて求婚しました。けれど亡き夫以外の男性を拒んだ彼女は、自ら炎に飛び込み、命を絶つことで貞操を守り抜いたといいます。そのエリッサが建国した国を、フェニキア語で゛新しい町"を意味する「カルト・ハダシュト」から、『カルタゴ』と呼ぶようになりました。紀元前814年のことです。* * * * * * *岡山駅の駅ビルで少し遅めの朝食を取った私は、その足で゛岡山市デジタルミュージアム"へと向かいました。只今、『古代カルタゴとローマ展 ~きらめく地中海文明の至宝~ 』が開催中です。古代史といえばエジプトとローマ帝国くらいしか知らなかった私は、ここで初めて「カルタゴ」という地名を知りました。入り口で建国にまつわる伝説(↑)を読み、地図で「ティロス」と「カルタゴ」の位置を確認しながら奥へと進みました。海洋国家カルタゴは、広大な地域の人々を制圧するよりも貿易で富ませ、顧客として育てることで自らも繁栄したといわれています。アリストテレスも賛嘆した優れた国制、大西洋沿岸をも探検した航海術、美しい工芸品(染色・金銀細工・ガラス製品)でその名を知られていました。けれど100年にも及ぶ 新興国ローマとの戦い(ポエニ戦争)に敗れ、紀元前146年に滅亡してしまいます。それから又も100年後、ローマのアウグストゥス帝により再建されたカルタゴは、「北アフリカのローマ」として再び円熟期を迎え、モザイクをはじめとする華麗な文化・芸術を花開かせることとなるのです。今回の展覧会では、第一章「地中海の女王カルタゴ」と、第二章「ローマに生きるカルタゴ」の大きく2つの時代に分けて展示されています。目の前に並べられている発掘品の、その細かく優れた芸術性に溜め息を漏らしながら、丁寧にゆっくりと鑑賞していきました。見学者の中には小学生も多く、一生懸命ガイドホンに耳を傾けながら、想像すら及ばない世界にワクワクしている姿が印象的でした。幼い頃から゛本物"に接する機会に恵まれているなんて羨ましいなぁ~、、、子供たちのキラキラした目にそう思いました。^^この展覧会、子供たちにとってはエジプト展やインカ展などよりも面白いんじゃないかな。^^細かい調度品や装飾品だけでなく、富裕層などの邸宅の壁や床に施された大きなモザイクには神話の世界や動物などが描かれており、歴史的価値を知らなくても十分に楽しめるものです。しかもガラス越しではなく そのまま直に展示されていますので、1500年以上も昔の職人の息遣いまでもが伝わってきそうです。*以下、会場で買ったポストカードの中から、私の気に入った展示物をご紹介致します。説明文は公式サイトより。(1) 有翼女性神官の石棺(紀元前3世紀) 棺の形式はエジプト型、傾斜の鋭い屋根形をした蓋はギリシア様式のもの。 そして横に臥した女性神官の像は、エジプトのかぶりものを身につけ、エジプトの女神イシスやネフティスのイメージを想起させる人物像である。 まさにフェニキア、ギリシア、エジプトの文化の融合を示し、数多くの芸術的潮流に着想を得た、古代地中海美術の結晶といえる。(2) ヴィーナス頭部像(2~3世紀) 頭部しか残されていないが、裸身の女神が立ち上がり入浴しようとする姿をかたどった、ローマ時代に大変人気のあったタイプのヴィーナス像と推定できる。 レプティス・マグナ(現リビア)にあるハドリアヌス浴場から非常に類似した作例が見つかっている。(3) メドゥーサ(3世紀) 覗き込む者を石にしてしまう邪悪な眼と逆立った蛇の頭髪をもつメドゥーサのモザイク。 ギリシア神話にヒントを得た作品であるが、本来は地母神的性格を持ち、豊饒と厄除けを願って描かれたメドゥーサ像は、北アフリカでは非常に好まれたモチーフの一つである。(4) バラのつぼみを撒く女性(5世紀) チュニス近郊シディ・グリブで発見された私邸の浴場の床を飾っていたモザイクの一部である。 バラ園を背景に展開され、片方を前に出したその姿は、踊る身振りを示している。 その形姿、半裸像、バラによって、愛と美の女神ヴィーナスとの関連性が指摘される。* (1):古代カルタゴ、(2)~(4):ローマ時代のカルタゴ《ご案内》2009年10月31日(土)~12月20日(日) 岡山市デジタルミュージアム2010年1月7日(木)~2月2日(火) 岩手県民会館2010年2月11日(木・祝)~4月4日(日) 京都文化博物館2010年4月17日(土)~5月30日(日) 浜松市美術館2010年7月16日(金)~9月12日(日) 宮崎県総合博物館2010年10月23日(土)~11月21日(日) 松坂屋美術館古代カルタゴの至宝は、一年以上も掛けて日本中を巡回するのですね。^^
2009.11.01
* イワン・クラムスコイ ≪忘れえぬ女(ひと)≫原題は『見知らぬ女(ひと)』。日本では いつしか『忘れえぬ女(ひと)』と呼ばれるようになる。それはひとえに、描かれた女性の忘れられぬ美しさに起因する。1883年に展覧会で公開された瞬間から伝説に包まれる。ある者は皇帝の宮廷に近い具体的な人物を推量し、ある者はトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」を、またある者はドストエフスキーの「白痴」のナスターシャを重ね合わせた。これらの文学のヒロインは、行動と生き方によっていずれも社会のモラルの慣行に挑戦した。凍てつく冬のネフスキー大通りを「幌を上げた馬車」で行く洗練された装いの貴婦人。そのポーズも誘惑の眼差しも、その全てが約束事や厳格な行動基準に縛られ乙にすましたサンクトペテルブルクへの挑戦であり、対決ととれる。クラムスコイは、混乱する当時の社会の中で一体何を訴えたかったのであろうか。 (以上、解説文による)*一瞬゛ツン"としたこの表情、どこか見下された印象を抱きそうな この女性。それでも離れがたくて、何かを秘めているようで、私はしばらくの間、この女性の前から立ち去ることができませんでした。顔を擦りよせるほど近くで見上げてみると、気位の高さの陰に隠れたあどけなさ、そして、うっすらと涙を浮かべた憂いた瞳に気付きます。解説には「誘惑な眼差し」と書かれてありましたが、どれほど見ても、その瞳から誘惑を感じることはありませんでした。混乱する当時の社会をただ憂いているような。。。ある女性の一瞬の表情を捉えたに過ぎないこの絵ですが、その瞳の奥にある渦巻いた感情、それらを押し殺して生きる一人の女性の生き様が気高く描かれているようにも思えます。それは何も彼女だけではなく、そうせざるを得なかった当時の時代そのものを映し出しているようにも思えました。その謎めいた表情が、「ロシアのモナ・リザ」と呼ばれる所以でしょうか…。* * * もう随分前のことになります。ブログ仲間さんの日記でこの絵が紹介され、それまでロシア美術に触れたことのなかった私が何とも言えない感情の高ぶりを感じました。音楽にも文学にも秀でた大国ロシアなのですから、美術においても優れた遺産を数多く残しているのも当然のことでした。ただ どこか冷たく、暗く難しいイメージが強かった為か、これまで敬遠してきたことも事実です。だからこそ、この絵と出合った感動の大きさには自分自身が一番驚きを隠せませんでした。いつか本物を観たい。 彼女を間近で見上げてみたい。想いって通じるものなのですね。この絵を筆頭にして、19世紀後半から20世紀初頭にかけての質の高いロシア美術が、モスクワからこの春 日本へやって来ました。その名も『国立トレチャコフ美術館展 ~忘れえぬロシア』☆4月に東京の「Bunkamuraザ・ミュージアム」をスタートした この美術展、続く岩手県立美術館を巡回した後、広島県立美術館で只今 開催中です。*私はこの『忘れえぬ女(ひと)』が観たい一心で、広島まで車を走らせました。そして この絵は、私が過去に出会った名作の中で最も心に残るものとなりました。気が付けば、彼女の表情が自然と脳裏に浮かび上がっているのです。この絵とは出会うべくして出逢ったと、そう思わせてくれる時間でした。もちろん、素晴らしいのはこの絵だけではありません。展覧会に一歩足を踏み入れた瞬間から、「あ~、これはいい作品ばかりだ。」と思いました。美しいロシアの原風景に、まるで生きて目の前に立っているのかと思うほどリアルな肖像画たち。そこに描かれている光は、フランス印象派の絵に見るようなキラキラ眩しい光ではなく、もっと素朴な、そして暗く厳しい自然の合間に覗かせる安らぎと暖かさが滲み出ているようでした。自然体でイキイキと表現された人物画には、思わず声を掛けたくなりそうな一枚もありました。この展覧会は、10/18(日)迄 広島県立美術館で開催された後、10/24(土)~12/13(日)まで 福島県の郡山市立美術館を巡回します。『忘れえぬ女(ひと)』が被っている帽子と、僅かに覗く手袋、 とってもお洒落なんですもの、、、私も欲しくなっちゃいました。(*^^*)
2009.09.26
先月のこと、ブログ仲間のタケ5451さんの紹介で、徳島県美馬市にある素敵な和カフェへ出掛けました。*タケさん、いつもありがとうございます。 私、すっかり気に入ってしまいましたよ。(*^^*)そこは単なるカフェではなく、 萩焼をはじめ 砥部焼・有田焼・伊万里焼などの陶芸品が展示され、重厚な箪笥の趣きと畳の温かさが心地よい、和の空間が広がっていました。ママさんもお洒落で大変美しい方。 その柔らかい物腰が居心地の良さを増しています。^^そこで私は山口県無形文化財萩焼保持者である大和保男さんの作品に出会い、今まで抱いていた萩焼のイメージが一変しました。といっても、焼き物に詳しくない私ですから、萩焼といえば 土産品などで見かける無難で大人しいデザインと色合いのイメージしかありません。萩焼にこれほどの幅があったなんて、その大胆な色彩と技法に驚きを隠せませんでした。その隣りには保男さんの次男である大和努さんの作品も展示され、こちらも伝統と斬新さとが見事に融合されており、ここで初めて 焼き物を眺める面白さを味わいました。^^綺麗だな、見事だな、、、ってそんなレベルではなく、もっともっとワクワクする感じです♪* * *その感覚がまだ新鮮な私の手元に、徳島から「萩焼 大和猛展」の案内ハガキが届きました。この連休中は私も日本にいることだし(笑)、ちょうど奈良から母の旧友がお墓参りに帰省しており、美術品の好きな二人を乗せて、またも徳島まで足を伸ばして来ました。この展覧会の作家である大和猛さんは、大和保男さんの長男です。名古屋芸術大学彫刻科を卒業され、これまで数々の賞を受賞されています。ハガキにある言葉を借りると、「伝統的で素朴な萩焼に、モダンアートの美を取り入れた」作品とのこと。これからが楽しみな若手作家さんだけに、勢いと華やかさも兼ね揃えていました。少し頑張れば手が届くお値段のものもありましたが、作品に似合う置き場所がないことに気付き、断念。。。こうやって、時々 拝見させて戴く方がより一層 楽しめそうです。ママさんからお許しを戴きましたので、何点か写真を撮らせて頂きました。^^
2009.09.22
「貴女もがんばってますか?」そうメールをくれたのは、高校時代の恩師・坂田福子先生でした。^^坂田先生は、私の絵の先生です。 その昔(笑)、職員室にいる先生の元へ、私の下手なデッサンを見せに 毎週 通っていました。エネルギッシュな先生の作品は、いつも私に元気をくれます。先日も、先生が子供たちと一緒に 毎年応募されている「全国かまぼこ板の絵展覧会」の出品作品を、写メールで送って来て下さいました。先生は大の猫好きです。その可愛らしい2匹の猫が、まるで水面から顔を出しているかのように、かまぼこ板の模様を上手く利用して描かれていました。この作品、愛媛県の西予市文化協会長賞を受賞されたそうです。^^見て、見て、見て♪ねっ、とっても可愛らしいでしょう~!!(*^^*)* 先生の愛すべき作品は、'08年 11/10~12の日記にも載せてあります☆
2009.07.01
大学1年生の夏休み、私は初めて「足立美術館」を訪れました。その時 買って帰ったポスターが、林義雄さんの『こんにちわ』(↑)です。あれから17年ほど経ちますが、今も玄関に飾ってあります。小さな男の子とつくしんぼ、そして小鳥や蝶々たちが楽しそうに笑い合う姿が、優しい色合いと溶け合って、なんとも可愛らしい作品でしょ~。^^*林義雄さんは、元々 日本画を学んでおられたそうです。彼の師である蔦谷龍岬氏の死後、童話作家の道に専念されたのだとか。親しみやすい彼の絵は、たぶん誰しもご覧になったことがあるでしょう。先日も、その陽気で愛らしい作品を前に、思わず立ち止まって 微笑んでしまいました。作品名は、『いないいないばぁ』!(笑) 今日もお疲れさまでした。^^
2009.06.16
結局、高松市美術館で開催されていた「加山又造展」へ、私は三度足を運びました。彼の得意とした迫力ある屏風絵に混じって、キリン・鹿・狼・烏など様々な動物たちを主題とした初期の作品も並んでいました。その姿は孤独で、色彩も暗く、一本一本の線も痛々しいほどに研ぎ澄まされているかのようでした。説明には、それら描かれた動物たちは、厳しい現実と不確かな未来を前に、なお日本画の可能性を信じて必死に模索続ける加山自身の姿でもあるようだ、、、とありました。急激な西洋化の流れの中、日本画の存在意義そのものが危ぶまれた中で、それでも日本画にこだわり続けた加山画伯のもがき苦しんだ時代の表現です。*こちらは、その頃(1957年)に描かれたものであって、その中でも少し雰囲気が異なる作品。今回の展覧会で、後期のみに展示された『月と駱駝』です。(新潟県立近代美術館蔵)これは、夜の砂漠で丸く寄り添う駱駝の親子でしょうか…。 遠くに浮かぶ丸いお月さまも、地上の駱駝と同じ形をしています。それは、地上の駱駝が月の鏡に映ったもの?それとも こちらが月面で、向こうに浮かぶ姿が蜃気楼?この絵の意味するところは全く分かりませんが(^^;、それでも、穏やかな駱駝の表情と、この絵に漂う静寂さが好きです。まるで、この沈黙の世界を自由に浮遊するような感覚。ううん、茶色の砂漠の向こうにある、闇の世界へ吸い込まれそうな感覚。それとも、目を閉じた駱駝の夢の中に入っていくような感覚。たぶん、私はこの絵のタッチが好きなのだと思います。そして、この駱駝の顔も好みなのだと思います。(笑)やっと、疲れた一週間から解放されました。今晩の私は、展覧会で購入した加山画伯の図録を開き、しばし「月と駱駝」の世界に浸りたいと思います。皆さんも、思い思いに「月と駱駝」を旅してみて下さいね。^^
2009.06.12
*高山辰雄画「沼」 1956年~ 沼のふちに立って見ているうちに 空に空が無くなって 沼の中に空ができて 月が浮かんでいるのでした…。 ~*今日は、坂出市にある香川県立東山魁夷せとうち美術館と、高松市立美術館にて日本画の美を堪能しました。どちらも、先月にも鑑賞した展覧会。東山魁夷せとうち美術館では「東山魁夷をめぐる日本藝術院の作家たち」(4/25日記)、高松市立美術館では「加山又造展」(4/19日記)を、、。またもや加山画伯の世界に強烈に惹かれた私ですが、まずは、この高山辰雄画伯の「沼」という作品について記しておきたいと思います。*高山辰雄は、東京美術学校(現・東京芸大)日本画科において松岡映丘に師事、また日本藝術院の一員でした。前回、この展覧会を観た時には印象に残らなかった この作品。何故か今日は、その場から立ち去り難い思いでいっぱいになりました。高山画伯自身の言葉(↑)にありますように、じ~っとこの絵の前に立って観ていると、自ずと空の部分が薄れていき、柔らかい月光を呑みこんだ、水面に映る夜空が静寂とともに浮かび上がってきました。何の音もない静かな夜。それでも一本の糸が張り詰めたような空気の中を、聞こえないはずの音が耳の奥の奥の部分にかすかに響くのを感じます。それがかえって静寂さを引き立てているようです。月は黙って揺らめきます。本当に静かだなぁ~。。。私までもその沼に呑み込まれそうな、そんな不思議な感覚から、なかなかこの絵の前を離れることができませんでした。そして、その脇にあった高山画伯の言葉を何度も何度も読み返していました。
2009.05.24
*『面構 雪舟』 1997年(92歳)「球子さん、あなたは雪舟を抜いたよ…。」そう、私は球子さんの描いた雪舟の絵を前につぶやきました。「おまえに、わしの絵の何が分かる! 喝ッ!!」え??? 今 私、、、雪舟に叱られた???そう、球子さんの絵の中の雪舟に叱られたのでした。^^;それくらい、球子さんの絵はイキイキとしていました。*今は東京の日本橋高島屋に場所を変えて開催中の「片岡球子展」。私はこの17日に岡山県立美術館において鑑賞して来ました。昨年1月にお亡くなりになった片岡画伯の追悼の意を込めて、この展覧会は開催されました。彼女は明治38年に札幌市で生まれ、上京して女子美術専門学校(現・女子美術大学)で日本画を学びます。80余年にも亘る彼女の画業を回顧したこの展覧会は、彼女の人生そのものが、その情熱と生命力が画面いっぱいに溢れていました。*もともと独特の画風で目を引く彼女の作品たち。それに年々 鮮やかな色彩と大胆さが増していきます。*『幻想』 1961年(56歳)画面には収まりきれない彼女の情熱が、彼女の描く火山のように、今にもマグマが大きな音を立てて噴き出してきそうです。80歳を超えても、100歳を目前にしても、そこには生きるパワーがみなぎっていました。いえ、むしろその年頃の作品の方がより鮮やかに「生」の喜びが感じられました。そうなんです。球子さんは100歳まで絵筆を握り、裸婦のデッサンに懸命に取り組んだといいます。*私にこの展覧会を知らせてくれたM子の言葉が、より球子さんを表しているように思いますので、ここで少しお借りしたいと思います。^^「picchuちゃんも片岡球子展を気に入ってくれて本当に良かったです。力強い絵だったでしょ! なのに、コメントを読むとかなり謙虚な人でもあり、探求心の強い人でもあって、女ならではの強さを持っていて素敵です。」そう、球子さんの絵の脇に貼られていた自身のコメントも、彼女らしさを伝えてくれました。彼女の絵画に対する思いは、どれも人生の教訓に通じるものです。その情熱を形で表現したものが、目の前に並んでいた数々の作品たち。そして、それは女性の画家だからこそ描けた芸術に思えます。これらの情熱に、私だって負ける訳にはいきませんよね、球子さん♪(^^)*『富士に献花』 1990年(85歳)…文化勲章受章記念作品
2009.05.21
5月1日で、瀬戸内海の島々を結ぶ゛しまなみ海道"が開通してから10周年を迎えました。今日は、先月訪れた平山美術館において「しまなみ海道開通十周年記念特別展」と題して開催中の「アレキサンダーの道/しまなみ海道」の感想を綴りたいと思います。平山画伯の作品の中で、私が最も好きなものはやはりシルクロードを描いたもの。砂漠を歩く何頭ものラクダの姿は、遠く果てしない浪漫を連想させ、その絵の前に何時間でも居続けたくなります。世界の果てまでも描き続ける平山画伯ですが、その才能を育んだ場所は画伯が生まれ育った広島県生口島。リーフレットによると、幼少期の平山少年は、満ち引きを繰り返す海を見ながら、その海が世界につながっていることを意識したといいます。海の向こうに続く広い世界は、小さな島に住む少年にとっての憧れであり、そしていつか引き寄せてみたい夢でもあったのでしょう。この美術館に来る度に、平山少年の胸の高鳴りを感じることもできるのです。*今回は゛しまなみ海道"という とりわけ身近な存在がテーマでしたので、平山画伯の郷里に対する思いも溢れ、また、サラサラ~と描かれている作品達から、画伯のデッサン力の確かさを見事なまでに見せつけられました。色の付け方は、特に最近の作品を間近で見ると、肩の力を抜いて柔らかく淡い色合いをのせているだけのように感じます。ところが、少し離れた場所から眺める画伯の絵は、その色合い加減がうまく混ざり合い、作品に描かれた建物や風景は、まるで存在感を持って浮かび上がってくるようです。日本画の印象派だな、平山画伯の絵は…。それが私の感想でした。^^年数を経るにしたがって、線は少なく、色の重ね方も軽く見えます。どんどん無駄が省かれていったのか、1本の線の重みが増したのか、、、さすがは今の日本の頂点に立つ日本画家ですね。* * * * * * *この美術館を訪ねた一週間後に、私は「加山又造展」を鑑賞しました。集大成の域に達する平山画伯の絵は、観ていて安心感がありますし、穏やかなタッチと万人向けのような題材に危なげがありません。対して、うねりを上げて観る者に迫ってくる加山画伯の絵。どこまでも新しい世界に挑戦する心意気を感じさせる躍動感に満ちた斬新な作品達は、時に予想外の驚きをも与えてくれます。どちらもそれぞれの良さがあり、決して比べられるものではありません。ですが、平山画伯の絵が好きで何度もしまなみ海道へ足を伸ばしている私が、、、それを忘れさせる勢いの加山画伯の作品に、今 夢中です。^^/
2009.05.03
*東山魁夷画「月宵」 1948年昨年12月、香川県は東山魁夷の代表的シリーズ゛青の風景"の最初に位置付けられる作品「月宵(げっしょう)」を3487万円で購入しました。県立東山魁夷せとうち美術館では、4/18から開催されている特別展『東山魁夷をめぐる日本藝術院の作家たち(~5/31)』において、その作品が展示されています。*パンフレットによると、魁夷が風景画家として地位を確立した「残照」発表の翌年に制作され、山梨県落合村の風景を描いた作品。落合村は、1945年、兵隊として死を覚悟していた魁夷が、8月に終戦を迎えて疎開していた家族と再会し、再び絵を描く喜びをかみしめた場所であり、11月に母を亡くした場所である。当時の魁夷の心象を表すかのような、透明感のある澄みきった風景。* * *今回の展覧会は珍しく、東山魁夷の作品のみならず、魁夷の東京美術学校時代の恩師である結城素明・松岡映丘・川合玉堂、同級生の加藤栄三・山田申吾、同時代に活躍した高山辰雄・上村松篁らの作品を会しています。また、それぞれの画家と東山画伯のちょっとしたエピソードも記されていて、親しみのある作品と画伯がなお一層身近に感じられる展覧会です。それぞれに個性豊かな作品が並ぶ中、今回私が一番気に入ったものが東山画伯の「月宵」でした。(↑)この前に立つと、心が柔らかく開放されるんです。^^静かなブルーがじんわりと染み込んできて、この優しさの前にしばし ぼぉ~っと佇んでおりました。(笑)ただ、先週鑑賞した加山又造画伯の作品の印象があまりにも強烈でしたので、今日はどの作品を見てもぼやけてしまって、、、もう少し日にちをあけるべきだったと、ちょっぴり後悔。。。*そんな中、東山画伯が回想して書かれた、結城素明(ゆうき そめい)先生の言葉が心に深く響きました。ドイツ留学を終えて帰国した東山魁夷に、結城先生は言います。「もっと写生をしなさい」と、、、。「色々な壁にぶつかった時、まずは写実に戻りなさい。」「平凡を綿密にすれば、非凡な発見がある。」これらの言葉は、絵画の世界のみならず、なんて深いものなのだろう、、、と私の中に刻みました。ちょうど結城先生の緑豊かな作品を前にしての言葉でしたから、それがじわじわ~っと心に広がっていきました。この先生の言葉があってこそ、東山画伯の世界観は築かれていったように思います。そして、私も何かの壁に突き当たった時、この言葉を思い出せる自分でありたいなぁ~と思いました。東山魁夷画伯のお人柄と、それを囲む素晴らしい人達との繋がりが、温かく感じられたいい時間でした。^^
2009.04.25
~≪夜桜≫ 1982年 光記念館蔵~『加山又造』…「はぁ~~~、加山又造さんって もうお亡くなりになってるんだよね~。」私は何度もM子に零しました。これらの作品の息吹きを前に、これ以上彼の新しい作品を見ることができないなんて、、それがただただ残念で、信じられないことだったのです。とにかく凄い☆今まで現代日本画家といえば、横山大観・東山魁夷・平山郁夫の作品くらいしか観てこなかった私が、その三大家すら思い出せないほど圧倒されました。なんて表現すればいいのでしょう。。。一瞬の中に封じ込めた景色が、それでも踊り狂うかのように私に向かって迫ってくる!かと思えば、凍りつく冷たい空気がピンと張り詰めていたり、、、。この次にはどんな作品が待っているのだろう。これほど前へ前へ、ワクワクしながら楽しみながら観た展覧会はかつてなかったと思います。常に新しい世界を追い求めた加山画伯の世界観が、うねりを上げて、さぁ! 今! 私の中へ入ってきました!!とにかく凄い☆この作品達との出会いに感動と感謝でいっぱいです!~≪月光波濤≫ 1979年 個人蔵~~≪凍れる月光≫ 1981年 富山県水墨美術館~以下、リーフレットより抜粋加山又造(1927~2004)は、東京美術学校日本画科に進学して山本丘人に師事し、戦後まもなく創立された創造美術に西洋絵画の影響を受けた動物画を発表して注目を集めます。その後も、大和絵風の装飾的構成をみせる作品、線描の美しさを追及した裸婦像、北宋山水画に倣った作品など、常に日本画壇に新風を吹き込む作品を発表し続けました。また、平面としての絵画にとどまらず、着物や陶器の絵付けをはじめ、ジュエリーのデザインや祇園祭山鉾の見送り綴織の意匠に至るまで、その創作活動は多岐にわたっています。とにかく凄い☆大胆かつ繊細で、日本人離れしているように見えて 根っからの日本人!この芸術の良さを、同じ日本人の感性で感じられることが嬉しかったです。^^*~≪春秋波濤≫ 1966年 東京国立近代美術館蔵~「この絵を見てると、゛おむすび"が食べたくなるね。^^」ちょうど食事前ということもあって、M子は笑いながらそう言いました。なるほどぉ~、、、おむすびかぁ~。^^*そこで、思いつきました☆それこそ、゛加山又造弁当"!!桜の部分はやはり桜でんぶがいいでしょうか、、、満月にゆで卵の黄身っていうのは単純すぎるかなぁ~。(笑)そうそう、おむすびの定番といえば昆布や梅に鮭、そこにおからなんてどうでしょう。。。海苔は波?(雲のようにも感じますね。^^)の部分にうならせましょうか…。あぁ~、たこさんウインナーも欠かせませんね。^^なんて、大芸術を食べ物にしちゃぁ~ダメですかねぇ。(*^_^*)《ご案内》『加山又造展』 2009年4月17日(金)~5月31日(日)於 : 高松市美術館展示内容は5月中旬に何点か入れ替わりがあります。この展覧会は、国立新美術館(1/21~3/2開催)と高松市美術館の2会場のみの開催です。ちょうどGW期間と重なりますし、橋も千円で渡れます!この機会に、香川まで足をのばしてみてはいかがです?(^^)*今日の日記に拝借した4枚の絵は、5/10までの展示です。
2009.04.19
明日は愛媛から゛しまなみ海道"を渡り、瀬戸内海に浮かぶ生口島の「平山郁夫美術館」を訪ねます。来週末は親友のM子と共に、高松市美術館へ「加山又造展」を観に行く約束です。瀬戸大橋のたもとにある「東山魁夷せとうち美術館」では、5~8月の毎週金曜日は開館時間を2時間延長してくれます。瀬戸の夕焼けを眺めながら、ラウンジでのミニコンサートもお勧めですよ。どれも私が心待ちにしているものばかり。(*^^*)* * *中でも、特に東山魁夷の柔らかな世界観が好きな私。近頃、その東山画伯に多大な影響を与えた19世紀 ドイツ・ロマン派の画家「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ」の作品に興味が湧いてきました。フリードリヒの描く風景画は、どれも重たく厳しい自然が立ちはだかっています。そこには音がなく、ピンと張りつめた空気の冷たさが、観ている私にも感じられてくるのです。それなのに、そこに降り注ぐ光の筋は、まるで宗教画のような尊さと祈りで心の中に広がっていきます。そして、知らぬ間に癒されていく自分に気づくのです。いつかドイツへ、フリードリヒの作品を訪ねる旅に出るのもいいかなぁ~なんて思っています。^^*この絵は、ベルリン美術館に所蔵されている「樫の森の修道院」。説明によると、~荒れ果てた修道院が雪の中に建っている。冬のわびしい寒空に残骸のようにある修道院は、宗教改革に揺れた教会とそのつかの間の浮世を表しているという。墓、十字架、枯れた樫の木、廃墟、葬列などは、暗闇の死の世界を表す。三日月が浮かぶ夜明けの空と対比させている。三日月は永遠の生命を表している。~ 数ある彼の作品の中で、とりわけ私が心惹かれる一枚です。
2009.04.10
「さて、大山崎」ユニークな題名だなぁ~、というのが平凡な私の印象です。^^ちょうど一ヶ月前のことでした。゛今、京都の大山崎山荘美術館で山口晃展を観て来ました!"そうメールをくれた親友M子は常に新しく面白い世界を発見し、その意外性で何かと私を驚かせてくれます。^^そんな彼女が気に入ったという「山口晃」という現代画家と、美しく静かな庭園を持つ「山荘美術館」。なんだか気になってきた私は、せっかく関西に向かうのならと、その美術館行きを決めました。*「アサヒビール大山崎山荘美術館」: 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原5-3http://www.asahibeer-oyamazaki.com/地図で調べてみると、JR山崎駅 もしくは阪急大山崎駅より徒歩10分とあります。まずまず手頃な距離ね、、、と思ったのですが、なにせ「山荘」にある美術館です。天王山の中腹にあるこの美術館へ行く為には、しばし続く登り坂を我慢しなければなりません。しかし、この天王山というのが実に「くせモノ(笑)」。ここで羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を破った天下分け目の「山崎の戦い」がありました。そこから着想を得て、自身の世界を広げていった山口晃さんの展覧会が「さて、大山崎」です!(3/8にて終了。)彼の絵は一見 大和絵を思わせるタッチで、そこに描くモチーフも城下町であったり 名の知れた武将であったり、、、。ですが、単なる時代ものではないのですよね~。(*^^*)その中には現代や未来までも織り交ぜて、時間というものの概念を覆してしまうほどの勢いがあります。昔を連想させつつも、実は現代アートなのです☆遊び心と余裕で気楽に楽しめる芸術たち。もちろん、一作一作真剣勝負に違いないでしょうけれど、一呼吸おける心の余裕を感じるのは私だけでしょうか。観ていて楽しい☆ 面白い☆ 新しい発見がある☆そんな彼の作品です。今回、関西での個展は初めてだったという山口晃さんは、まだ40歳という若さです。彼の展覧会はこれからもチェックしたいなって思います。(o^―^o)*さて、さて、その「アサヒビール大山崎山荘美術館」ですが、そのコレクションも大したもの!私が訪れた時には、味わいのある古い陶磁器も同時に陳列してありました。また、レトロな雰囲気の本館に対して、近代的で斬新な新館、、、こちらではモネの「睡蓮」が観客たちを待ち受けてくれます。^^* * * 美術館の近くには妙喜庵(みょうきあん)というお寺があり、こちらの茶室「待庵(たいあん)」は日本最古の茶室建造物であり、唯一の千利休作と信じられているお茶室なのだとか。歴史あり見どころありの「大山崎」!さて、、、またいつか その大山崎へ参ろうかと思っております。(^^)
2009.03.12
*金刀比羅宮 奥書院上段の間(絵葉書より) 【香川県琴平町】いきなり「和」ですみません。^^;昨日の日記へのキタサンのコメントに、、、そうだ! 「侘び・寂」に象徴される日本にだって「金(キン)」で囲まれた部屋があるではないか!と思い出しました。(笑)しかも近所に、、、。^^;「こんぴらさん」の愛称で親しまれる香川県の金刀比羅宮「書院の美」が、無事 三重県立美術館・フランス国立ギメ東洋美術館の巡回を終えて戻ってきました。円山応挙・伊藤若冲らの襖絵に、"おかえりなさい"ということで『パリ凱旋帰国展』が開催されています。(~4/26)先週末、県外から来た友達(きょんさん)と共に私は初詣を兼ねて「こんぴらさん」へ行ってきました。一年ぶりの再会!('07.11.20、11.21、'08.01.26日記)この内容は後日改めようと思っていたのですが、ちょうど「金(キン)」という共通点が出てきたことですし…。書院に入ると、そこには本来あるべき姿の応挙らの襖絵が、大役を果たした安堵の表情(?)で座っていました。(^^)残念なことに、今回 「奥書院」は公開されておりません。しかし、同じくパリから凱旋帰国した伊藤若冲の襖絵「花丸図」だけは展示されていました。↑の写真は、たった6畳の空間に若冲によって201もの花々が描かれた奥書院上段の間です。この空間を、パリという大舞台でそのまま再現させました。(『こんぴらさん―海の聖域』展)そう、畳を敷いて、本物の襖絵だけでなく移動不可能な障壁画はデジタル複製画を用いてその通りに配置させました。これにはパリジャン・パリジェンヌ達もさぞ驚かされたことでしょう。。。それを成功に導いた現代の美術家であり金刀比羅宮文化顧問の田窪恭治さんは、高校生の時分に この「奥書院上段の間」に圧倒されて絵描きになろうと決心されたそうです。私も昨年 奥書院が公開された時に多くの見物客の列に並んだのですが、勿論それは開け放たれた空間での展示でした。やはりこれは、閉じ篭った上段の間の空間の中でじっくりと鑑賞したいものです。田窪氏によると、この間の真ん中に座って居ると不思議と花々が壁から浮き上がってきて、狭い6畳間が無限の広がりを見せると言います。これには上部の花ほど大きく描かれている工夫も一役かっているのかもしれませんが、なるほど、本物を前にすると田窪さんのその言葉はイメージしやすいです。これらの襖絵と障壁画、実は後の絵師によって金砂子が蒔かれてしまったとのこと。若冲や応挙は白地に絵を描いたのです。当時は全く別の雰囲気を放っていたことでしょう。では、なぜ「金」を蒔いたのでしょうか。 こんぴらさんの力を見せびらかしたかったからとか???たぶん、私は「金」地の方が好みなんです。 「金(キン)」が好きっていうのではなく、、、。アウグスブルク市庁舎の「黄金の間」では、その金箔が頭上から降り注ぐような、圧倒的な存在感を持って迫ってきました。こんぴらさんの「書院」では、金箔の部分が自然な背景となって私を含めて同一化してしまう。この「金(キン)」の違いは何なのだろう・・・? ちょっと不思議な感じがしました。余談ですが、「金(キン)」づくしの年の始まり♪ なんだか幸先がいいではありませんか!(笑)
2009.01.16
*コロー画「ヴィル=ダヴレーのカバスュ邸」(左)&「真珠の女」一週間前のことになりますが、神戸市立博物館で鑑賞した『コロー ~光と追憶の変奏曲~』について。12/7、この日がコロー展の最終日でした。ルミナリエ期間中でもあるし、ルーヴル美術館からコローの3大名画「モルトフォンテーヌの想い出」、「青い服の婦人」、「真珠の女」が来ているとあって、あらかじめ大混雑を覚悟の上、博物館を訪れました。開館30分過ぎに到着。"えっ? こんなに空いてるの?"入場券を事前に用意していた私は、何となく拍子抜けしてしまいました。日本ではコローの人気がいまいちだからなのか、絵画好きの人なら もうとっくに鑑賞し終わっているからなのか、、とにかく、ゆったりと自分のペースでコローと向き合うことができました。何度も何度も引き返したくなる作品に出会えたなら、その展覧会は自分にとっても貴重なもの。このコロー展がまさにそれでした。風景画で有名なコローですが、それ以上に彼の人物画がどれほど魅力的か、、、"コローのモナリザ"と呼ばれる作品「真珠の女」は、今回の来日で初めて知りました。(↑右)何か言いたげな表情なのに、目を合わせようとすると彼女は視線を逸らせてしまう、、。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とよく比較されるそうですが、ダヴィンチの方はどこまでも視線が追い掛けてくるというか、意思を強く感じるというか、、、掴みどころがないという点ではコローの作品も同じなのですが、もっと曖昧な、もっと感情を内にこめた女性という印象が私の中に残りました。絵を前にすると、そのどちらも立ち去り難い気持ちになります。ただ、発する波動が各々の画家の個性なのか、、それは全く異なっています。コローの作品は静かです。そして、純粋に美しい女性がそこにありました。この絵にもう一度会いたくなれば、次回はルーヴル美術館まで行かなければならないのですね。遠いなぁ~。。。^^* * *もう一点。私が特に気に入った作品が、「ヴィル=ダヴレーのカバスュ邸」。(↑左)この絵の柔らかな光と色調が好きです。このリズミカルな構図はもっと好きです。^^何気ない風景なんですけどね。私の部屋に飾りたいなぁ~と思う作品でした。行くかどうか最後まで迷った今回のコロー展。それは、想像をはるかに超える素晴らしい展覧会でした。そして、心がほんわか暖かくなった帰り道でした。^^
2008.12.14
《晝間(ひるま)の雪も納まって、色とりどりのスキー客の姿もない。夜の帳(とばり)と共に静寂が訪れる。どこからともなく射し込む月の光に誘われて、精霊の踊りが始まりそうな澄んだ夜である。そんな期待を胸に秘めながら、私は、じっと山小屋の窓辺に腰を下ろし待っていた。》東山魁夷画&詩「月光」 山形県・蔵王 1998年 麻布彩色(香川県立 東山魁夷せとうち美術館所蔵)*この作品は東山画伯晩年のもの。その次の年、画伯は90歳の生涯を静かに閉じました。1999年11月、第30回日展に出品、最後の日展出品昨となりました。* * *ちょうど私が『月光』の前に立ち止まった時、一人の女性が声を掛けてきました。「これ、億がつくほどの絵の具が使われているそうですよ。」それは、まるで半分は独り言のように、ボソボソっと繰り返しました。「億がつくほど高価な絵の具なんですって。」億~? あぁ、絵の具の値段のことね。(一瞬私は、何億種類の絵の具を使って描かれたのかと勘違いしました。^^;)よく見れば、無数の深い青の表情の上に目立たない金箔を散らせてあります。「どうも、今回の展示会の中で これが一番素晴らしい作品のようですよ。」彼女は勝手に続けます。「美術館の人に聞いたんです。一番はこの『月光』、二番目に価値があるのは『松庭』、三番目は2Fの出口間際.....これは楽しみの為に言わないでおきますね。」*『松庭』は、東山画伯らしくない???大胆な構図と色遣いで、大画面いっぱいに生命力あふれる松の木が描かれています。こちらも当館所蔵です。「へぇ~、そうなんですかぁ~。」絵の価値と私の好みに若干の差があるなぁ~と思いつつ、相づちを打ちました。「美術館に来たら、まずは その美術館の人に尋ねてみるといいんです。」それも名画を見落とさないコツかなぁ~と頷きながら聞いていました。「こんなに作品を間近で見られる美術館って他には少ないですよね。」「そうですね~。」絵にくっつくほど顔を近づけ、画伯の筆の流れを感じようと、私は作品に見入っていました。「蔵王かぁ~。こんなに美しい世界があるなんて凄いなぁ~。」「これは"リトグラフ"じゃなく、本物だしねぇ。」彼女はひとり呟きます。「額縁も凄いでしょ!」億が付くほど値打ちのある絵の具に気を取られ、全体像をまだ見ていなかった私は、彼女の言葉に一歩下がりました。まるで彼女に誘導されているかのような鑑賞です。(*^_^*)それは渋いシルバーで品格があり、内側は落ち着いたゴールドで絵を囲んでいました。見るからに高価そうな額縁です。周りの作品を見渡しても、これほどの額縁が使われているものはありません。又も私は感心して、夢中で眺めながら「お詳しいですね~。」と振り返ってみると、すでに彼女はそこにはおらず、2Fへの階段を勢いよく駆け上っておりました。^^不思議な人。。。突然現れて、言いたいことだけ言って、そして消えていった人。おかげで、いつもとは違う名画との触れ合いができました。。。が、やはり不思議な人でした。後で別の人に伺ったのですが、この『月光』という作品は、90歳を迎えて大作を描けなくなった画伯が精魂込めて仕上げたものなのだとか。いつもは観客がまばらな小さな美術館。それが、昨日は岡山からも大型バス2台で多くの方が観に来られていました。急な思いつきで訪れた場所で、思いもよらない貴重なお話に出会えた面白いひとときでした。^^〈展覧会のご案内〉現在、"東山魁夷せとうち美術館"では、第3期テーマ作品展『白雪にかがやく静寂な光景 & 心の投影/水に移る情景』が開催中です。来年1月25日(日)まで。第4期テーマ作品展は、『京都慕情/都のすがた―とどめおかまし & 高原を歩く』です。こちらは、1月28日から。この美術館だけの為に、遠くからわざわざ香川に来られるには、あまりにも小さ過ぎる美術館ですが、もし近くまで来られることがありましたら、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
2008.11.30
こちらも坂田先生による作品の数々。全て かまぼこ板に描かれています。先生の手に掛かると、ちょっとした遊び心が素敵な作品に仕上がります。^^* * *私の出身高校は、中高一貫の進学校。(私は高校からの入学組です。)坂田先生は、そこで中学生に美術を教えていらっしゃいます。中学時代まで美術が得意だと自負していた私は、高校3年になったばかりのある日、それまで話すらしたことのなかった坂田先生に自分の絵を持って行きました。確か、自分の手をデッサンしたものだったと覚えています。「先生、私の絵を見て下さい。」そこから、私と坂田先生の繋がりができました。^^今も変わらず、先生の下には沢山の子供達が絵や図工を習いに集まってきます。先生の明るく元気な作品は、子供達に無限の可能性をプレゼントしてくれるのです。^^
2008.11.12
こちらも坂田先生の作品です。^^かまぼこ板の上の猫。後ろの二匹は紙粘土で作られています。ニャンとも、可愛い猫ちゃんでしょ~。(*^―^*)
2008.11.11
*坂田福子先生画、 『オンフルールの猫』(水彩・色鉛筆)私、この絵を囲む額縁も気に入ってるんです。^^《人生は短く 芸術は長し》この言葉は、私が高校を卒業する時、恩師の坂田先生から戴いたものです。「やっと会えたわねぇ~!!!」そう言いながら 大きく両手を広げてくれたのは、高校生の私に絵を教えて下さった坂田先生でした。なんと、10年以上ぶりの再会です。^^毎年 先生から年賀状が届く度に、"今年こそは会いに行こう!"と思いつつ、月日だけが過ぎていき、、、。そんな中、先生から一枚の葉書が届きました。「お元気ですか? 女子美の元気な女性達とグループ展に参加します。一度、会いたいネ。」『ヴィーナスたちの108年』と題して、香川県在住の女子美術大学同窓生による作品展が、高松市美術館において 昨日まで開催されていました。今まで先生にお会いするタイミングを逃してきた私は、これは絶好のチャンスだと思いました。ドキドキしながら、高松へと車を走らせます。(*^_^*)先生、お変わりないかな~? ^^そぉ~っと会場を覗いてみると、、 、わぁ~!昔のまま! 全然変ってないわぁ~!!当時から元気いっぱいでイキイキとしていた先生、ますます輝いて見えました。お母さんというには若過ぎる先生、少し年の離れたお姉さんといった感じです。o^―^o主にデザインを専攻されていた先生の作品は、大胆な構図に鮮やかな色彩、ユニークな発想が非常に魅力的。そして、何より見る人に元気を分けてくれます。^^線に迷いがないところも、観ていて気持ちがいいですね。先生は、私の憧れの芸術家でもあります☆久々に先生の絵に触れて、私の中の何かが弾けました!「見に来てくれてありがとう。 とっても嬉しかった。貴女も描きませんか? 私もまだこれからです。」先生からのメールです。そして、最後にはやはりこの一文が、、《人生は短く 芸術は長し》です。^^*"私のブログに先生の作品を載せてもいいですか?"とお願いしたところ、気持ち良くOKの返事を戴きました。↑の作品以外にも、写真に撮らせて頂いたものが数点あります。特に、猫好きな先生ならではの可愛い作品を明日以降も紹介したいと思います!! 坂田先生、ありがとうございます。(*^―^*)
2008.11.10
『椰子実』・・・これは、ココヤシの殻の凹凸を利用して、人の顔にした容器です。(直径11.8cm、重さ170g、小さくて可愛らしい品ですよ。^^)発芽孔を広げて口にし、眉や目、瞳を描き、中は漆のようなものを塗っています。南方から海流に乗って漂着したのを日本で加工したとか、はたまた、南方産の製品が輸入されたとか、、、。* * *正倉院展へと続く長い列に並びながら、「読売新聞2008年10月特別号"正倉院展へ行こう!"」を手にしました。一面には、『平螺鈿背八画鏡~へいらでんはいのはっかくきょう』という螺鈿飾りの鏡と↑の『椰子実』の写真が取り上げられています。眩いほど見事な鏡は勿論のこと、そのユーモラスな表情で思いの外 存在感をアピール?していたのが、剽軽で笑いを誘うこの人面容器でした。^^博物館の中は、当然ながら押し合い圧し合い、一つひとつの展示物に近付く為にはかなりの労力を要します。聖武天皇遺愛の宝物、大仏様への捧げ物、天平文化の華やかさを垣間見れる 当時の貴族達の装身具、そして、聖武天皇の一周忌法会で用いられた品々など、どれもこれも目を見張る宝物が続きます。最初は張り切って見ていた私も、人いきれと疲れに負けて 次第に集中力が欠けていくのが分かりました。^^;そんな後半戦、誰もが"ほっ"と息をつけるように、この『椰子実』が置かれているのです。「あっ、これだよ。^^」 思わず微笑む見物客。遠く奈良時代の人達も、これを見て、きっと同じように笑顔になったのでしょうね、、。^^* * * * * * *そして、沢山の人が興味津々に眺めていた展示物が、『続修正倉院古文書 第十九巻』に収められている写経所に勤務する写経生の休暇願いや欠勤届けでした。「親族の誰々が亡くなったので3日間休みを下さい。」「病気で3日の休みを貰っていたが、まだ治らない為、後5日休みを伸ばして欲しい。」「今、治療をしなければ命にかかわる。」他にも、屋根の修理の為に休暇を下さいなど、今も昔も休暇を貰うためには一生懸命 理由付けが必要だったようです。^^それと並んで、「写経所への出仕を怠りました。以後、昼夜を問わずに仕事に邁進するので、今回は許してほしい。」(必死!)などという始末書までも!!当時もなかなか大変だったのですね。(笑)ただ、ここで驚いたのが、その届け出が記された紙。まるで、つい何十年か前に書かれたように感じるほど綺麗に保管されているのです。これらを書いた写経生は、まさか1200年以上も経って、これほど見事に自分の字が残っているなんて、いえ、それ以上に自分の不始末を後世の人に笑われるなんてこと、絶対に思ってもいなかったでしょう~。笑えます。^^
2008.11.04
756年(奈良時代)に聖武天皇がお亡くなりになった後、光明皇后が東大寺の大仏様に遺品を捧げたことが正倉院宝物のはじまりです。今年で60回目を迎える「正倉院展」。およそ9000件ほどもある宝物のうち、過去に出陳されたものは述べ4000件にも及ぶのだとか。その中にシルクロードを通って運ばれてきたものが数多くあることは、あまりにも知られていることですよね。シルクロードとは、ローマと長安(現:西安)を結ぶ交易の道。草原・砂漠・海といった各々のルートを通って、東から西へは絹・香料・陶磁器など、西から東へは主に工芸品が運ばれていきました。その"シルクロードの東の終着点"がこの正倉院です。* * * * * * *↑の写真は、正倉院の貴重な宝物の中でも人気の高い『白瑠璃碗~はくるりのわん』。(口径12cm、高さ8.5cm、重さ485g)カットグラスの碗です。説明によると、【ササン朝ペルシャ(226~651年、現在のイラン)から伝わったガラス器で、シルクロードの交易を示す品として、第1回正倉院展で展示されました。外側に円形のカットが80個施され、凹レンズ状のカット面から円形の連なりが美しく透けて見えます。イランや大阪府羽曳野市の安閑天皇陵(6世紀)から似た器が出土。古墳時代には日本に来ていた可能性があり、最古の正倉院宝物かもしれません。】ガラス器は、ササン朝ペルシャの輸出商品だったようです。ガラス容器を作る技は古代ローマから伝わっていましたが、それを壊れにくいように厚めにして、円やかめの甲羅のような形に細工しました。イラン国立博物館にも同じようなガラス器が納められています。それは、長い間 土の中に埋まっているうちにガラスが風化して、すでに透明なままではありません。それと比べ、今も変わらず輝きを放ち続ける『白瑠璃碗』の美しさは、正倉院の凄さを堂々と伝えています。* * *初めて『白瑠璃碗』を目の前にした時、やはり私も例外ではなく、その鈍く気高い輝きに思わず息を呑みました。人の波に押されながら会場を一巡した後、もう一度 振り返ってみると。。。「ローマだ!」 一瞬、そう思いました。現在のイランのものだと説明にはありますが、私の中では正に「ローマ」だったのです。すべての道はローマに通じていますしね☆^^遥かなる古代ローマを連想させる そのガラス器は、見る度に違う表情を見せてくれました。角度やその時の私の感情で、輝きも形さえも変わって見えます。また会いたいな。そう思わされる、素晴らしい宝物との出会いだったと、、、今 改めて振り返っています。^^
2008.11.03
以下、リーフレットより抜粋。《2007年1月、ダハシュール北遺跡から「吉村作治調査隊が新たな未盗掘ミイラを発見!」というニュースが世界を駆け巡りました。エジプト考古学史上でも過去に例がないといわれる夫婦ミイラの発掘。さらに同年10月には、新たな親子ミイラの発見!という驚くべき快挙が成し遂げられました。そして今回、発見されたばかりの3500年~4000年前の未盗掘木棺、「チャイの人型棺」「セベクハトとセネトイトエスの箱型棺」が日本で世界初公開されます。本展では、これらの木棺と、「埋葬に関わる神々の像」、「ミイラ製作」「副葬品と死者供養」の遺物など、エジプトの国立カイロ博物館所蔵の至宝70点を加え、「古代エジプトのミイラと埋葬」をテーマに展覧します。》◇美術館「えき」KYOTO2008年10月10日(金)~11月24日(月・振休)、会期中無休開館時間 = 午前10時~午後8時 (最終日 : 午後5時)入館締切 = 閉館30分前* * * * * * *フェスティバルホールにて、、オペラ「カルメン」18:10 終演。京都行きの新快速は、毎時00、15、30、45分に大阪駅を発車します。大阪~京都間、約30分。18:30の列車に乗れるようなら京都へ行こう。慣れない地下道を小走りで大阪駅へと向かいました。息を切らしながら、10分後にはホーム到着。何とか間に合いました。美術館には19:10に着いたと思います。入り口には、古代エジプトの神々の説明から始まっていました。その神々の小像を過ぎると、ミイラ製作をする際に取り出した内臓を入れる"カノポス壺"が並びます。それが何千年も前のものとは思えない美しさ。これはカイロ博物館のコレクションです。閉館まで僅かな時間。入場者の少ないこの時間帯は、独り占めして見学することができますね。^^ミイラ製作の手順を見て、今回 初公開の夫婦ミイラが入っていた木棺、親子ミイラの人型木棺との対面も、誰にも遠慮することなく、ゆっくりと見ることができました。死後の世界と復活を信じた古代エジプト人の死生観に、ほんの少しですが向き合えた感じかな。結構、面白い展示だったと思います。ミイラに包帯を巻いた後、死後も自由に話しができるよう、最後に口開けの儀式を行うなんて、今回初めて知りましたし、、。ただ、、さすがに疲れきった私は、せっかくの3連休の残り2日、殆んど家から出られませんでした。気力なし。。。(T_T)古代の霊に魂を抜き取られたのか、、はたまた私の魂がエジプトまで飛んでいったのか、、。こんなにも疲れる為に、わざわざ京都まで行った意味は???はぁ~、明日からまた仕事です。。なのに、まだまだバテ気味のpicchukoなのでありました。(∋_∈)
2008.10.13
8年前のこと。私が国際NGO『フォスター・プラン』を通して、僅かながら毎月の寄付を始めた時、「その団体って信頼できるの?」「自分が良かれと思って寄付しても、それがきちんと活かされているのか疑問に思わない?」と友達から聞かれたことがあります。勿論、きちんとした活動報告や決算報告も頂いています。けれど、私にはそんなことはどちらでもいいのです。その内の"1円"でもいい、何かの役に立っているのなら、、。今はまだ何もできていない私に代わって、活動を続ける団体を応援することから始めたいと思ったのです。* * *昨日の夕方、私は高松市にある天満屋デパートへと車を走らせました。只今7Fの催し会場にて、藤原紀香さんの写真展『Smile Please!』が開催中です。(13日まで)02年にアフガニスタン、04年にプライベートでカンボジアを訪れた際に撮った写真、そしてアフガンの子供達からの手紙など約100点が展示されています。そこには地雷で手足を失った子供達、両脇が地雷源の細道を歩く人達の姿もあります。そして、それらには輝く笑顔が写し出されていました。その笑顔を前にした時、私はこんなに恵まれているのに、最近"ちっとも"笑顔になっていないことに気付きました。実は、近頃の私は随分と気分が滅入っていたのです。職場において、私の頭の上を多くの悪口や陰口が飛び交う毎日。"いい加減にして!"と叫びたい程、うんざりしていました。なにも私の耳に入ってくるのは私の悪口ではありません。しかし、その場にいない者が陰口を叩かれるのであれば、席を立てば 次は私が言われている番だということも容易に想像できます。人間不信にさえ陥りそうでした。私の悪口ならまだしも、他人の悪口に同意を求められることが、いえ、とにかく悪口を聞いていること自体が耐えられないのです。そのような場所で、苦笑こそすれ 笑顔になるなんてこと、、。ストレスの溜まった私は、きっと他の人に八つ当たりをしていたでしょうし、思わず車の運転も荒くなり、昨日の仕事帰りには 大きくクラクションを鳴らされてしまいました。^^;そんなムシャクシャした気分の中、腕のない少女や片足を失った少年のその笑顔から、私の方が救われを感じたのです。目頭が熱くなるのが分かります。アフガニスタンでの10日間の取材を終えた紀香さんは、自宅で白いご飯とお味噌汁を口にした時、思わず涙が出てきたとありました。私達の当たり前の生活が、世界では決して当たり前ではないことを痛感したと。私は、そんな彼女の写真を見て涙しそうになりました。『ありがとう。』何故だか分からないけれど、彼女と彼女が出逢った世界の子供達に、何度もそう伝えたい気持ちになりました。長い間の内戦で全てを失った子供達の、医療も教育も行き届かない環境の中、それでも片道2時間もかけて 地雷と隣り合わせの道を喜び勇んで学校に通う子供達の、その眩しい笑顔のおかげで、私の心も少し強くなれたような気がします。『私って、意外と強いじゃない!』"強い"ということは、"何かできる"ということです。ほんの数時間前、自分の周りだけのちっぽけな悩みと憂鬱を持って高松へと走りました。"もっと真剣に何ができるかを考えなくては。""「いつか」ではなく、「今から」始めることを見つけなければ。"同じ悩みでも、他人の為の大きな悩みというものは喜びに繋がるのですね。帰りには私、すっかり元気になれました。紀香さん、そしてアフガニスタンやカンボジアの子供達へ『心を込めて、どうもありがとう。』^^*展示会による収益や寄付はすべて各NGOを通じて、アフガ二スタン・カンボジアの教育支援事業の資金に充てられるそうです。
2008.10.05
*愛媛県松山市「坂の上の雲ミュージアム」"名月や 伊予の松山 一万戸"チンチンチン♪ と音こそはしませんが、そんな雰囲気を残した路面電車の中で、子規の一句を目にしました。そこは松山。正岡子規の故郷であり、道後の湯で有名な城下町。今も昔ながらの風情を残す田舎町。夏目漱石の小説「坊っちゃん」の舞台もこの町です。来年(2009年)秋から3年間にわたり、NHKではスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送されます。これは、ご存知 司馬遼太郎さんの同名小説のドラマ化です。観光案内所で戴いた、"『坂の上の雲』のまち 松山 ヒィールドミュージアムマップ"によると、《司馬遼太郎さんが40代のほとんどをかけて完成させた小説『坂の上の雲』は、正岡子規、秋山好古・真之兄弟の三人の人生を辿りながら、「近代国家」の仲間入りをしようとした明治の日本を描いた物語です。貧しい下級武士の家に生まれ、軍人の道を選んだ好古と真之。好古は草創期の日本騎兵を育て、真之は日本海軍における近代戦術の確立者としてそれぞれ道を歩みます。真之の親友であった子規は新聞記者になり、近代俳句・短歌・文章の革新に力を注ぎました。東洋の小国日本が、西欧諸国に追いつこうと懸命に国造りを行った姿から、多くのものが見えてきます。》ドラマでは、秋山好古を阿部寛さん、真之を本木雅弘さん、正岡子規を香川照之さん、子規の妹に菅野美穂さん、、その他、加藤剛さんに伊東四郎さん、松たか子さん、竹下景子さん、渡哲也さんと超豪華なキャスティングですよ~。(o^―^o)この日、雨の中 行く場所がなくて飛び込んだミュージアムでしたが、思いの外 明治という特異な時代を知ることのできる面白い松山の新名所に出会えました。^^子規も遊んだと言われるステレオスコープ(ステレオカメラによって撮影された2枚の写真を立体的にみる機器)を覗いてみたり、からくり芝居を見てみたり、、なかなか楽しい場所なのです。明治という時代そのものが古臭いようで新しい、逞しさと希望に満ちていたことが展示物などから伝わってきます。閉館は18時半、入館は18時まで。17時に入った私は、1時間ではこの博物館を満足するには全然 時間が足りませんでした。でも、来館者の少ないこの時間帯はオススメかも?!司馬遼太郎さんは、大の子規好きだったとのこと。子規にふるくから関心があった彼は、ある年の夏、子規が生まれた伊予松山を訪れ、子規と真之の関係などを知るうちに彼らについて詳しく調べてみたくなったそうです。小説に書くつもりはなかったと言いながら、これほどの大作を産み出したのですから、よほど子規に対する思い入れが深かったのでしょうね。司馬さんといえば、「竜馬がゆく」!彼の作品を知ると、幕末から明治にかけての四国はどこまでも興味が尽きないように感じてしまいます。^^まだ未読の小説『坂の上の雲』、近々読んでみたいと思います。読んだ後、松山の町並みをもう一度歩くとまた違った趣きを感じられそうです。最後に、子規の詠んだ歌をもう一句。"世の人は 四国猿とぞ笑ふなる 四国の猿の子猿ぞわれは" ^^
2008.09.17
「ジロ~~~~~!!!!!」自分でも思ってもみませんでした、こんなに感激するなんて。。windyさんに案内して戴いた上野の「国立科学博物館」。同じく上野公園内の東京都美術館では、"フェルメール展~光の天才画家とデルフトの巨匠たち(12/14迄)"を、国立西洋美術館では、"コロー展~光と追憶の変奏曲(8/31で終了)"を催していました。*コロー展は、神戸市立博物館〈9/13(土)~12/7(日)〉を巡回します。絵と彫刻の展覧会の場合、私は一人でなければ鑑賞できないタイプ。しかも海外の大人気の展覧会は、貴重な時間 長蛇の列を並んでも、じっくり作品を鑑賞できないのが常です。windyさんが親切にも「コロー展を観に行かなくてもいいですか?」と仰ってくれましたが、今の私の気分はフェルメールでもコローでもなかったので、windyさんの念願だった国立科学博物館にある『忠犬ハチ公』の剥製を観に行きました。これが、私に最高の感激を与えることになるのです。^^「どうも、南極物語のジロも展示されているようですよ。」この何気ないwindyさんの言葉に、私は大きく反応しました。『南極物語』といえば、一昨年にディズニー映画で製作されたリメイク版が有名になりましたが、私が小学5年生の時(昭和58年)に高倉健さん・渡瀬恒彦さん主演(そして、夏目雅子さんも出演されていたんですよね。)の映画が上映されました。この映画、私の記憶に残る最も古い、しかも何よりも印象的で忘れられない作品です。当時、『南極のタロとジロ』という題名の本を買ってもらい、繰り返し繰り返し読んだことを覚えています。皆さん、ご存知だとは思いますが、ほんの少しだけ解説を。【昭和32年、南極観測隊第一次越冬隊と共にカラフト犬はソリ犬として南極に上陸した。翌年、第二次隊と交代するはずだったが、長期の悪天候の為に引き継ぎを断念。第一次隊もカラフト犬15頭を無人の昭和基地に置き去りにして撤収することになる。翌昭和34年1月、第三次隊が昭和基地に到着したところ、なんと2頭だけが南極の厳しい冬を乗り越えて生きていた。それがタロとジロである。タロは帰国後 14歳という長寿を全うしたが、ジロは タロよりも10年も早く昭和基地で病死。現在、タロは北海道大学植物園にて、ジロは東京・上野の国立科学博物館にて、その剥製が展示されている。】そのジロが私のすぐ目の前に立っている!~この事実が何よりも嬉しかったのです。その隣りで、同じように「忠犬ハチ公」との対面に大喜びのwindyさんがいらっしゃいました。^^/私には、有名なフェルメールの絵画より、"コローのモナリザ"と呼ばれる名画よりも、ずっとずっと心に深く刻まれる出逢いだったのです。*windyさん、本当に本当にありがとうございました! o(^-^)o↑の写真が、そのジロの剥製。逞しい犬というより、可愛い熊ちゃんって感じでしょ☆:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:〈お知らせ〉本日でブログを初めて丸一年となりました。このような拙い日記をいつも読んで下さって、本当にありがとうございます。心から感謝しています。このブログを通して出会った素晴らしい方達、いつも陰ながら支えて下さっている懐かしい方達。改めて、私は素晴らしい出会いに恵まれていることを感じています。(*^―^*)さて、一年間ほぼ毎日更新してきた日記ですが、今後は週に1・2回のペースに変更したいと思います。まだまだ勉強すべきことが多すぎる私です。それが、毎日日記を綴ることにより、より鮮明に そして具体的に見えてきました。ドイツ語もその一つ。苦手な英語の学習も必要でしょう。読むべき本も沢山あります。調べなければならないことは山ほどあります。そして、それらから得たことを遠くない未来に実行に移していきたいと思っています。その為にブログの更新を減らしていくことを決心しました。今後は、息抜きや備忘録としてゆっくりのペースで続けていくつもりです。至らない私ではありますが、これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。(o^―^o) picchuko.
2008.09.01
*ウズベキスタンの民族衣装を着てみました。この衣装、かなりの重さです。^^ 【'08.07.20】この連休の中日である昨日、親友Masakoと共に「岡山市立オリエント美術館」へ行って来ました。ここでは、只今 『シルクロードへの誘い ― 青い煌き ウズベキスタン ―』と題して、萩野屋慶記(はぎのやけいき)さんの写真展が開かれています。8/31(日)まで。【世界遺産に登録された青の都サマルカンドや城壁に囲まれた古都ヒヴァなどの存在で、ますます注目されるシルクロードの要、ウズベキスタン。本展では、旅行写真家として著名な萩野屋慶記撮影のオリジナル作品約70点と、個人コレクションの美しい工芸品160点を一堂に集め、シルクロード・オアシス都市の魅力に迫ります。(リーフレットより)】地元の人の話によると、この展示会の好き嫌いや意見はちょうど半分に分かれるのだそう。ですが、ずっと前からウズベキスタンへ行ってみたい、この青の都を見てみたいと思っていた私的にはかなり面白い展示会でした。なんといっても、体験企画として↑のように民族衣装を着れること(もちろん無料)が何よりの楽しみ。以前もこの美術館でオリエントの国(イランだったかな?)の民族衣装を着て撮った写真を、大勢の友達にメールで送りまくったことがあります。(*^m^*) とにかく、ウズベキスタンの遺跡が素晴らしいことは言うまでもなく、その空の青さといったら、モスクの青いドームよりも深い青さで私を驚かせました。雲ひとつなく。。建物に施されている洗練された幾何学模様の見事さは、それは息を呑むほどです。それに、色彩の美しさは何も青色だけではありません。赤や紫も印象的な極彩色の天井画や、夕日に照らされたレンガ色の建造物。ほぉ~~~、美しい~~~。(*^_^*)陶器の模様や装身具も可愛いし。。。ある説明文に、この展示会の象徴でもある、↑の写真にも写る「グーリ・アミール廟」について、私の興味を引くものがありました。~1941年、ソビエトの調査隊がこの遺跡を発掘。それには、ある呪いがかけられているのか、、、。 その次の日に、独ソ戦争が勃発した。それ以来、何人(なんびと)たりともティムールの墓を開けることはない。。。~鳥肌を立たせながら、、でも どこか無気味なロマンを感じてしまいます。ますます、ウズベキスタンへの憧れが増してきた私です。日本から直行便もあるようですし、、思いきって、行っちゃう?!o(^―^)o岡山市立オリエント美術館特別展 : http://www.city.okayama.okayama.jp/orientmuseum/uzbekistan/昨日はこのオリエント美術館だけで時間がなくなってしまいましたが、次回は、この美術館から北へ数十メートルの所にある「岡山県立美術館」で現在 催されている 『浮世絵の美展 (千葉市美術館所蔵)』を訪れてみる予定。そちらは、8/24(日)までです。
2008.07.21
*クライストチャーチにある「カンタベリー博物館」、充実したマオリの展示物。モディリアーニ独特の縦長い頭部の絵画を前にして、4/20に放送された NHK番組"新日曜美術館"での話が蘇ってきました。(以下、"新日曜美術館"公式サイトより一部抜粋)【長い首、わずかにかしいだ顔、そして瞳のないアーモンド型の目。モディリアーニは、個性や感情を超えた人間の奥底にある魂を追い求めた。アフリカなどの原始美術に影響を受けた彼は、魂の宿る造形を求め、ひたすら古代の女神像を描いては、石に刻んでいった。それは、まるで精霊を宿したかのような石像だった。モディリアーニの肖像画には、笑うことも泣くこともない、無の表情が宿っている。仮面のようなその顔に込めた彼の想いとは、いったい何だったのか。】この中に出てくる「原始美術」、、、「プリミティヴィズム (原始主義)」とは、西洋の画家達がアフリカ、オセアニアなどの原始的な文化から美しさを見い出した芸術的動きなのだそう。この流れから、構図や線を強調して形態をつきつめたものがピカソなどの「キュビズム」へ、強烈な色彩と筆触を追及し感覚を重視したものがマティスを代表とする「フォーヴィズム」へと受け継がれていったそうです。そして、そのどちらからも影響を受け、どちらにも同化しなかったモディリアーニ。彼は表面に出てくるものより、精神性を強く求めたのでしょうか。それは、彼の作品の中で絵画よりも彫刻の方が顕著に表しているように私は思います。* * *私は、モディリアーニの原始美術からの衝撃を、何となくですが、理解できるように思えるのです。モディリアーニは特にアフリカ美術からショックを受けました。私は、ニュージーランドのマオリ族の彫刻から衝撃を受けました。(比べるには畏れ多いことですが。。^^;)それは、マオリの文化が今も色濃く残るロトルアの街でではなく、クライストチャーチにある「カンタベリー博物館」にて。*本当はその彫刻の写真をアップしたかったのですが、探しても検索しても見つからず。残念。。 ↑の写真は、私が感銘を受けた彫刻の斜め前にあるものです。私がNZに渡って間がない頃、カンタベリー博物館で出会った一つの彫刻。その原始的な勢いのある、荒々しい削りの彫刻を前に、私は魂が吸い込まれそうな感覚に襲われました。元々、マオリ族の彫刻は、彼らが狩りをしているところをイメージして作ったものが多いとのことで、だから激しさと強烈さが溢れているのでしょうか。。それを知った後は少し冷静さを取り戻しましたけど、、。とにかく、その彫刻と出会った時の衝撃は半端ではなく、この彫刻が私をニュージーランドへ、クライストチャーチへ呼び寄せたとさえ感じました。当時、まだ友達もいなかった私は、ただ ただ寂しかったのかもしれません。その衝撃の感覚を、今も変わらず私を可愛がって下さる上司のKさんに当てたエアメールに記しました。クライストチャーチからバスで20分ほど走った所にある"リトルトン"という小さな港町の、これまた小さな図書館で、空低く飛ぶカモメたちを眺めながら。。Kさんは、その内容と葉書の行間から、そんな空気を、私の寂しさをすぐに読みとったのでしょう。次のような返事を送ってくれました。「今回の決断、あまり早く意義を持たせないで下さい。焦らず。あせらず。」モディリアーニがアフリカンアートから影響を受け、彫刻に没頭した理由の一つが、絵画ではピカソやセザンヌの影響下から抜け出せない、でも彼らのような前衛的な運動にも同化したくない、、もしかすると、そんな迷いと焦りの中で生まれた葛藤からかもしれません。原始美術は、そのような感情を根底から引き寄せ、どうしようもないほど魅了してしまう力を持っているように思います。モディリアーニにとって、彼の根底を救う芸術だったのかもしれないと私は思うのです。
2008.07.06
*アメデオ・モディリアーニ画「青い瞳 (ジャンヌ・エビュテルヌ夫人の肖像)」 1917年モディリアーニ、35歳で結核性脳膜炎にて死去。今の私と同い年で人生を終えたのですね・・・。姫路で途中下車した私は、市立美術館へと足を速めました。どんよりとした雲から 今にも雨が降り出しそうです。6/8~8/3(日)の期間、特別企画展として、「アメデオ・モディリアーニ展」が開催されています。いつの頃からか彼の作品に惹かれるようになりました。彼の特徴として、目には瞳を描き込まない、異様に長い顔と首。子供の頃は気持ち悪く感じていたこれらの画風が、今は不思議と安心感を私に与えるのです。過去において、私が彼の実物の作品と出会ったのは、"大原美術館"と"ひろしま美術館"くらいでしょうか、、。ひろしま美術館では、彼の彫刻も一体 展示されています。今回、初めて一堂に会された彼の絵画を観て、私が何故 それらから安心感を得たのか、少しだけ分かったような気がしたのです。それは、あの憂いを秘めた空間がもたらすものなのかもしれませんが、、、。モディリアーニは彫刻家を目指していたからでしょうか。彼の描く線に迷いが少ないように感じます。彼は、セザンヌやピカソなどの多くの画家、そしてアフリカ等の民族美術から多大な影響を受けていたと聞きます。また、美男子な上に物腰が上品でお洒落でもあったモディリアーニ。まして、教養のある文学青年で、詩句などを織り混ぜながら語る話上手だったとか。(まさに私好みの男性ではありませんか!・ 笑)ですから、私生活の上では数多くの女性の上を渡り歩いた色男。最後の最後で永遠の恋人ジャンヌと出会わなければ、ただの女ったらしですよね。^^アルコールや麻薬に溺れて夭折したドラマティックな人生。そんな彼の作品であるにもかかわらず、何故なのだろう、、、彼の描く線に迷いも無駄もないということは。色づかいにしても、意外にも挑発的で大胆さを感じるものが何点もありました。だからなのか、逆に私は彼の絵からなんとも言えない安心感 (この表現しか当てはまらないのです)を得られるのでしょうか、、。時間が少なかった為に駆け足のような鑑賞でしたが、それでも肩の力を抜くには最適の時間でした。* * *先日 東京で開かれた「モディリアーニ展」が、7/1~9/15(火)の間 大阪の国立国際美術館で開催されています。姫路市立美術館で、「記念グッズ引換券」を頂きました。これを大阪の会場入口で係員の方に渡すと、記念グッズ(絵はがき)が貰えるのだとか。大阪会場でも同じように引換券が配られているそうですよ。近々 又も大阪へ出向く機会のある私は、モディリアーニとの再会も楽しみで仕方ありません。
2008.07.05
《ザルツブルクの古城を、雪の樹間に見る構想は、音楽の都ザルツブルクへの、私の思慕の心を表す。それは、聖夜の幻想にも繋がっている。》東山魁夷画&詩 「雪の城」 1970年東山魁夷画伯の詩と 静かな時間の中での出会いが好きです。5~8月の金曜日のみ、香川県坂出市にある「東山魁夷せとうち美術館」では 閉館時間が通常の17時から19時に延長されます。私は夕暮れ時にふらりと この美術館を訪れるのが好きです。美術館のラウンジでは、穏やかな瀬戸内海を眺めながら、この時期 この時間帯に"夕焼けコンサート"が催されます。その時間は皆さん ラウンジにお集まりになるので、小さな美術館では展示室に来館者がいなくなります。私は、優しく漏れてくるコンサートの音色に耳を傾けながら、ひとり画伯の絵と向き合うのが好きです。この日の調べは"弦楽器四重奏"。曲目は「アメイジング・グレイス」に「千の風になって」、「愛の讃歌」など、、、「瀬戸の花嫁」には笑ってしまいましたが。。^^2Fの出口近くに、2m四方のスライドがあります。もちろん実際にある作品達も素敵ですが、私はその中にある 彼が描く"ホーエン・ザルツブルク城"の「雪の城」が大好きです。ソファに腰を下ろし、何も考えずにザルツブルク城を見上げるのが好きなのです。一週間の心の疲れから解き放たれる大好きな時間です。
2008.06.20
*平山郁夫画「蘇州 1995」今日は母の日ということで、昨年と同じく瀬戸内沿岸を一周"ぐるっ"とドライブしてきました。今回で3度目、【香川―愛媛県今治市~しまなみ海道~広島県生口島―岡山~瀬戸大橋~香川】というルートです。前回の9/23は、両親と共に広島県尾道市にも立ち寄りました。今日は、友人と高知へ行った父とは別に、母と二人きりの小旅行となりました。ですので、二人のお気に入りである『平山郁夫美術館』をゆっくりと訪れることができました。平山画伯の作品も、その美術館のカフェで戴くコーヒーも、毎回 私達を大満足させてくれます。平山郁夫画伯は瀬戸内海に浮かぶ生口島(広島県尾道市瀬戸田町)に生まれ、この豊かな海の恵みに囲まれて幼少時代を過ごします。中学3年の夏に広島市で原爆投下に遭い、九死に一生を得た平山少年。その後も原爆後遺症で苦しみますが、この被爆体験が後の彼の文化財赤十字(文化財保護)活動の原点になっているといいます。そして、その苦しみから生まれた三蔵法師をテーマとする「仏教伝来」で院展に入選し、彼の永遠のテーマであるシルクロードへと広がっていきます。そんな平山画伯の原点である生口島。お昼前には晴れ間が広がり、海は潮の流れが速いのか様々な青さで煌めいていました。道端では蜜柑が売られ、素朴な島の風景と 島と島を結ぶ架け橋のコントラストが美しかったです。美術館では尾道市制110周年を記念して、4月から6/18迄の間「中国と西域を描く」をテーマに展覧会が催されています。滋賀県守山市にある佐川美術館の所蔵品が多く展示されていました。特に印象的だったのが、中国は蘇州を描いた作品達。近くで見ても穏やかな情景に心洗われますが、離れて見るとより作品の素晴らしさを感じることができます。水の揺らめきが、揺らめく水に浮かび上がった町並みが、まだ見ぬ懐かしい大陸への憧れに繋がっていくのです。* * *10年程前になります。私が初めて観たミュージカルは、劇団四季の「李香蘭」でした。その時聴いた『蘇州夜曲』。私の中でその印象的な歌声と平山画伯の作品『蘇州』とが結び付き、その絵を前に思わず口ずさみそうになりました。~君がみ胸に 抱かれてきくは 夢の船歌 恋の唄水の蘇州の 花散る春を 惜しむか柳が すすり泣く~
2008.05.11
元日にバイエルン在住のsuhさんとお会いできた今年、何かとドイツに縁があるようです。何故か昔からドイツを信頼している私にはとても嬉しいこと。香川県のJR丸亀駅前にある「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」。4/6~6/22の期間、『Neue Fotogrofie~ノイエ・フォトブラフィー、1920-30年代のドイツ写真』が開催されています。昨日、お馴染みのカフェで何気なく手にした↑のリーフレット。"1920年代後半、ドイツで勃興した写真の動向。透徹した機械の眼と創造的な視覚をたずさえ新たな写真をつくりだしたドイツの写真家。"現代美術に大きな影響を与え続ける、、否、現代の写真表現の大河の源流のひとつであるこの時代のドイツ写真とはどんなものだろう。ナチス台頭の直前の時代、第一次大戦後の苦境の時代。この急激な社会の変化の真っ只中で、機械時代の到来による知覚の変容と拡張の只中で、新しい写真の時代を築き上げてきた作品達はどんなものだろう。興味津々に、早速 美術館を訪れてみました。結構、若い大学生が来ていましたねぇ。この時代の写真ですので、全てがモノクロの作品。どこか重圧感があり、そこに写っている人物の表情も、植物のクローズアップも、時代を感じる建築も全て重々しい空気が漂っています。一歩 展示室に足を踏み入れた時、思わず圧倒されてしまいました。どうも私には難しい。一度観ただけでは、時代の渦に巻かれたこれらの写真を読み解くことはできないように思います。"これは重い"、第一印象です。説明より、一部抜粋。~第一次世界大戦を経て、社会の有り様が「速度」「量」「密度」の面からそれぞれ急激な変化を遂げた1920年代。当時、世界一民主的と謳われたヴァイマール憲法のもと、敗戦からの再出発をはかったドイツは、工業技術の躍進によって経済的な復興を遂げつつあり、それに呼応するかのように様々な芸術領域で大きく発展しました。とりわけ写真表現の領域において、ドイツを震源とする動向が世界を席巻します。それが1920年代後半、ほぼ同時期に開花した2つの動向「新即物主義」と「新しい視覚」です。客観対主観、記録対創造という対立関係にあるようにもみえる2つの動向ですが、根底にあるのは共に、機械時代の到来を背景に、写真を絵画の模倣から解放し、新しい時代の知覚にとって重要な表現媒体として再定義しようとしたことであったと言えます。~これを少しでも理解するには、私の場合は何度か足を運ぶ必要がありそうですね。6/1、6/8の14時から2回シリーズで、「ノイエ・フォトブラフィーとは何か?」というレクチャーがあり、それ以外の日曜日は、同じく14時から展覧会の見所を教えてくれるとのこと。私のドイツへの興味は、まだまだ尽きることはないようです。
2008.04.13
*東山魁夷画「曙」香川県坂出市沙弥島(現在は陸続きです)にある「東山魁夷せとうち美術館」。彼の父方の祖父が、坂出市櫃石島の出身という縁で、今から3年前に開館しました。見上げると、そこには大きく伸びる瀬戸大橋(この春、開通20周年を迎えました)。瀬戸大橋のライトグレー色は、東山画伯が提案したものです。この美術館では、年間4回のテーマ展と春秋の2回に特別企画展を催しています。来週の日曜日までは、「魁夷 ― 夢の中 / 未知の国への誘い」と題して、07年度の第4期テーマ作品展が開催中。今日の昼下がり、ぶらり美術館へ立ち寄ってみました。小さな小さな美術館ですので、気負わずに観ることができます。東山画伯の作品自体が柔らかな印象で、ちょっぴり心が疲れた時になどオススメの場所といえるでしょう。今回のテーマが夢の中だからなのか、画伯が幼い頃から童話に慣れ親しんでいたからなのか、確かにこの展覧会で並ぶ作品達は、可愛らしい明るい色合いのものが何枚もありました。そして、彼の描く印象的な緑と優しい光。そこだけは現界とは違う空気が漂っていますし、、、作品とともに展示されている画伯の詩的な言葉からも、未知の国へと誘われていくような、、、彼独特の世界観に包まれるようです。東山画伯は様々な国を旅されて、その旅先の出会いにイメージを膨らませながら制作されたのだとか、、。彼の記憶と想像力から生まれた作品達は、誰をも幻想的な世界へと招待してくれますよね。この美術館は、本当に小さすぎるほど小さいのです。1Fの展示室をぐるっと一回りした後 階段を上って2Fへ、その東西に延びた展示室を出ると、もうおしまいです。けれど、この小ささが私にはちょうどいい。東山画伯の世界に浸るには、このぐらいがちょうどいいのです。展示室にある椅子にゆっくり腰かけて、画伯の絵を見ながら自分の世界に入っていけるこの空間が私のお気に入りです。通常は午後5時で閉館するのですが、5月から8月迄の金曜日だけは午後7時まで開館してくれます。仕事帰りにでも、海沿いをドライブがてらに絵画鑑賞できる季節はもうすぐです!!
2008.04.06
今月30日(日)まで、高松市にある香川国際交流会館(アイパル香川)に於いて、社会福祉の観点からドイツの歴史を紹介する『ドイツ社会福祉史展(ドイツ労働社会省主催)』が開かれています。写真などの資料50点とともに、主にドイツ帝国宰相のビスマルクからナチス時代を取り上げているのです。ナチスやヒトラーの残虐行為は憎むべきものですが、私はナチスが世界に残した大きな功績に興味があります。世界に先駆けたテレビ放送や、高速道路のモデルであるアウトバーン。宇宙開発やオリンピックの聖火リレー、現在私が直接関わっている給料天引きの源泉徴収制度など、数えあげるとキリがありませんが、ユダヤ人迫害とは違うナチスのプラス面の部分は勉強する価値があるように思えます。それにご存知、日本の健康保険や介護保険制度の見本はドイツの公的医療保険制度ですから、その国の優れた社会保障制度を知ることは大切かなと足を運んでみました。展示の案内によると、ビスマルクが「社会主義者鎮圧法」で労働運動を取り締まる一方、医療保険、労災保険など労働者に配慮した制度を導入した時代背景。ナチスが失業対策の名目で軍備を拡張していったことなどを紹介、とあります。・・・、そういった資料がところ狭しと並んでいました。確かに、そんなことが書かれていたように思います。・・・、思う?そう、実は詳しく見ることができなかったのです。(同内容の小冊子だけもらって帰りました。)先週の火曜日から歯痛がしています。水曜日は歯科に行くのを迷いつつ、木曜日が祝日。金曜日は仕事がとても忙しく、その痛みを忘れていました。昨日も外出しましたので、未だ歯科に行けておらず、、、。今日、忘れていた歯痛が復活したのです。(>_<)* * *昨日の午後は、岡山の書店でアメリカの保険制度について軽く立ち読みしました。格差社会の激しいアメリカでは、保険制度も自己責任という内容。偶然にもその説明の中で、保険に入っていなかった女性(寡婦)の息子が昨年2月に虫歯の菌が脳に回って死亡したとありました。・・・、(^_^;)本当は、歯科になど行きたくないのですが、、。有難いことに、私は基本的には国民皆保険の日本国民。。保険がない為に病院へ行けないのではなく、単に歯科に行くのが辛くて(恐くて)虫歯が大事になったなんてこと、、、これ以上恥ずかしいことはないですね。社会保障を勉強すると共に、それを素直に使っていこうと明日の歯科行きを決心しております。(苦笑)あぁ~、左上の「親知らず」。早めに抜いた方が良さそうです。。(∋_∈)
2008.03.23
全57件 (57件中 1-50件目)