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【2018年1月31日(水)】 公募ガイドの清閑寺下見の後(こちら)、研究員研究のため歴彩館に向かいました。歴彩館訪問は7回目になります。 もう午後3時頃になっていて、あまり時間がなかったので、優先順位を決めて文献の確認を開始しました。 まずは「伏見稲荷+神蹟」でのネット検索でヒットした大正時代の神蹟付近を描いた古地図です。国会図書館に所蔵されているもので、デジタルデータで提供されているのですが、アクセス権が大きな図書館などに限られているので、歴彩館に来てアクセスさせていただくことにしていました。 係の方にお願いしてシステムを立ち上げていただきアクセスしました。「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全図」という大正2年に作成された地図です。 期待した通り、お塚、お滝場の所在が記載されていて、お滝場があるところには滝のマークが記入されています。大部分のお滝をカバーしています。残念なのは解像度が悪いために、字の判読がむつかしいことです。それでも名前を既に知っているので、一部を除いて判読することができました。最終的には印刷をしてもらうのですが、印刷するとさらに解像度が落ちるであろうから、画面上でできるだけ判読しようとしたので、けっこう時間がかかりました。 大正14年の吉田初三郎地図には登場するが、この大正2年の地図には登場しないお塚場、お滝場がいくつかありました。記載があった滝:命婦滝、弘法滝、青木滝、七面滝、鳴滝 白菊滝か御剱滝のどちらか(字影から御剱滝の可能性が高い) 末広滝、薬力滝、清滝、白滝、○滝(判読不能。○は1字。初音滝の位置) 荒木滝、御壺滝?、五社滝? (?は画面での確認が漏れており字は不確か。次回歴彩館訪問時要確認)記載がなかった滝:清メ滝、八嶋滝、真心滝(地図の範囲に入っているかどうは不確か) 白菊滝か御剱滝のどちらか(字影から白菊滝の可能性が高い)、、 岩滝、不動滝、ねざめ滝、権太夫滝、熊鷹滝熊鷹本滝は地図の圏外と考えられる。大石滝は明らかに圏外。 今までお塚、お滝場の成立年代がよく分かりませんでしたが、これで大正2年にはすでに存在した「お滝」と、大正2年以降大正14年までにできた「お滝」の分類ができました。大きな成果です。 あと残った時間で、伏見稲荷大社の機関誌「朱」の文献をいくつかコピーしました。今まで、第1号から全部の文献にざっと目を通して、有用なものだけ精読したり、コピーしたりしてきました。しかし、時間も限られています。今回、大社のホームページの各号の目次から有用だと思われるものを前もってマークしておきました。今日はそのうちでも特に有用だと思われる、「お塚」や山岳信仰、修験道、イナリサゲ、稲荷講などについての文献をざっと読んで、役に立ちそうなものだけをコピーしました。 これらはまだ読んでませんので、読んだうえで、有用な内容があれば、投稿したいと思います。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/31
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【2018年1月24日(水)】 伏見稲荷御茶屋のガイド6日目でしたが、2本早いバスで出て、勤務前に、研究員の7回目のフィールドワークを行いました。勤務前のショート・フィールドワークとしては3回目になります。 今回は、稲荷山のいわば周遊「お滝」ルートではない、「たつみの滝」を訪問しました。 「たつみの滝」は、伏見稲荷大社の南にある、日蓮宗宝塔寺境内の七面宮にあります。以前、「京都市内全寺社巡り」の際に、偶然発見した「お滝」です。 「七面宮」は、江戸時代1666年に建立されたもので、かつては宝塔寺の鎮守社でした。神仏習合がそのまま残った格好です。七面大明神が祀られています。七面大明神は釈尊の応化身であり、法華信仰の守護のため、身延山の西の七面山の頂に、鬼封じのために垂迹示現した吉祥天だといいます。 瑞光寺開祖・元政によれば、平安時代、建治年間(1275-1277)、身延山で法華経を説く日蓮の前に、参詣者に混じり、若く美しい女が現われました。日蓮は正体を見抜き、本当の姿を見せよと言います。女は、一滴の水さえあればと答え、日蓮が、傍らの花瓶の水を与えると、女はたちまち龍身と化します。龍蛇は再び女の姿に戻り、釈尊の仰せに従い、法華経守護のために現われ、七面山の方に消えたといわれます。 七面宮の奥に「たつみの滝」跡がありました。前回訪れたときからですが、廃滝になっています。回りには「お塚」はありません。「たつみの滝」と彫った比較的新しい石碑があり、裏面には「昭和52春年開発 第四十八世日誠代 信者百余名」と彫られています。伏見稲荷周辺の「お滝」に比べると、年代は大幅に新しいです。この石碑の「昭和52年」は今回新たな発見です。 「たつみの滝」のネーミングは推定ですが、上記の「『龍蛇』は再び女の姿に戻った」の「龍蛇」からきているのでしょう。また、「たのみの滝」は、伏見稲荷周辺の「お滝」より、ずっと新しく、日蓮宗信者のために建てられた「お滝」のようで、他の「お滝」とは性格が異なります。 帰りに参道の石段を下りるとき、参道の落ち葉を掃除されている方がいらっしゃったので聞いてみました。お寺の方かと思いましたが、ご近所の方が奉仕されているようです。・「たつみ滝」は信者さんが、昭和52年に建設した・記憶は定かではないが、閉鎖されたのは20年ほど前か・以前は、修行衣に着替える小屋があった・伏見稲荷大社南谷に、宝塔寺のもう一つの滝がある(七面滝)・昔は、七面滝にショートカットするための道が南側にあった宝塔寺総門宝塔寺本堂七面宮に向かう石段七面宮七面滝石碑の裏面には昭和52年開発の字彫七面滝七面滝内の石碑 ここにも昭和52年の字彫 伏見稲荷大社に戻り、御茶屋のガイドを務めました(こちら)。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/24
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【2018年1月16日(火)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの受付の下見に午後2時半に行くことにしたので、それまでの時間を利用して、伏見稲荷「お滝」の6回目のフィールドワークを行いました。 夕刻には月イチ三味線レッスンがあるので、阪急で京都河原町に出て、河原町御池の十字屋に三味線を預けて、京阪で伏見稲荷へ。午前11時過ぎから歩き始めました。今日歩いたルート 伏見稲荷大社の講務本庁の前を通った際に、講員加入についてのポスターがありました。正講員は年額2000円以上となっています。今後も伏見稲荷大社についての研究は続いていくことになると思うので、これくらいの金額であれば、入会してみようかなと思います。講員加入案内 「三ツ辻」から「四ツ辻」へ。四ツ辻では、ご神跡の一つ、荒神峰(田中社)により、鳥居やお塚の字彫を再確認しました。古いものは大正前半でした。 御膳谷に到着。御膳谷の社務所は、ネット情報によると、戦前は民間の行者宿で、断食修行の世話をしてくれたそうです 御膳谷の「お塚」を再訪です。1月4日のフィールドワークでは、大正元年が発見した中では一番古い字彫でしたが、今回、明治33年の字彫を発見しました。御膳谷の「お塚」 明治33年の字彫「清明滝」(地図の1)へ。この「お滝」は伏見稲荷大社の境内地にあり、伏見稲荷大社が管理しています。入口には「お滝利用の方は、御膳谷の社務所へお越しください。」だったか何だか書いてありました。清明滝 伏見稲荷のお滝群の中では、最も大きな「お滝」ではないかと思います。そして今までの「お滝」は、「お塚」とセットでしたが、ここは「お塚」はありません。そして、他の「お滝」では、滝近くに不動明王などが祀られていることが多いのですが、ここはそういった偶像が一切ありません。最も静謐な印象を与える「お滝」です。「お滝」の水は勢いよく流れています。自然の水流のようです。 近くには「清明舎」と呼ばれる建物があります。滝行のための着替えや休憩の場所であったり、今はどうか知りませんが、ネット情報によると、宿泊もできるようです。清明舎 再び坂を上って、「薬力の滝」(地図の2)へ。数は少ないですが、「お塚」が滝の近くにあります。 滝口の上に上ってみますと、人口の貯水池があり、そこから流れ出ていました。山の方から自然の水流も来ていますが、それほど多くはなく、ホースもありますので、循環もさせているのかもしれません。 「薬力の滝」近くの分かれ道を山科の方に向かいます。「山科の里 大石良雄旧跡」と書かれた道標のところを下ります。大石良雄(大石内蔵助)が山科の岩屋寺に隠棲していたとき、伏見の遊郭に通うのに通った道だと伝わります。 ほとんど山科側に下り切ったところに、「大石の滝」の跡(地図の3)があります。ここは、一昨年、「京都市内全寺社巡り」の山科区のパートで訪れたことがあります。そのときは、もちろん山科側から入ったのですが、今日は伏見側から訪れたということです。「大石之瀧」と書かれていたのでしょう。祭壇お滝着替えをする建物でも建っていたのでしょう。 「お滝」は廃墟になっていますが、詳しい説明書きが設置されています。前回訪問時も説明書きは見たのですが、そのときは、こんなところにも「お滝」があるんだという程度で詳しくは読みませんでした。 今回、詳しく見てみますと、あの吉田初三郎の絵も掲載されていて、「大正14年に建立され、昭和34年に廃墟になった」と書かれています。吉田初三郎の地図が大正14年に発行されていますので、ほぼ同時期に建立されたもののようです。ここ以外の「お滝」はすべて稲荷山頂付近か、伏見側の谷にあります。山科の住人が「お滝」をしようとすると大変です。それで山科側にも作られたのではないかと思います。「お塚」は見当たりませんでしたが、「祀られていた一部は、岩屋寺境内、西野山墓地に祀られている」とあるので、昔は「お塚」もあったのでしょう。 下りてきた道を引き返します。途中の別れ道で、山に沿って南の方に向かいます。 四叉路があり、記憶が不確かですが、立て札に「大石神社」「深草」「一之峰」と書いてありました。次は「末広の滝」に行きたいのですが、地図は持っているものの、こんな細い山道は載っておらず、「深草」か「一之峰」かで迷いました。「一之峰」の方向に行って、お山巡り参道に戻って、そこから急な坂道を下りれば、「末広の滝」に行けるのは分かっていたので、「深草」なら近道かも知れないとも思ったのですが、おり確実な「一之峰」の方に向かいました。 そこから上りになっていて、しばらくしてお山巡りの道近くに到達。急坂を下りて、「末広の滝」へ。帰宅後、地形図を調べたら、やはり「深草」の方向に下りるのが、「末広の滝」への近道だったようです。 「末広の滝」(地図の4)は、管理者の住宅があり、店も開いていました。外に「お滝」の案内地図が貼ってありました。これを手に入れたくて、お店に入って尋ねたのですが、売り物ではなく、貼ってあるものしかないとのこと。 止むなく、写真を撮りました。地図部拡大説明部拡大 これを見ますと、伏見稲荷の南側の「お滝」に特化したものです。ここには、吉田初三郎の地図に載っている「真心滝」と「熊鷹本滝」が書かれていません。また「伏見稲荷山参拝図」に書かれた「岩龍ノ瀧」も書かれていません(初三郎の地図にもない)。「熊鷹本滝」はメインルートから大きく外れているので、書かれていないということかもしれませんが、「真心滝」は、この地図がいつ作成されたものか分かりませんが、比較的古い年代で廃滝になったのかもしれません。そして、「岩龍の滝」は、初三郎地図が出た大正14年より後にできて、「真心滝」より後に廃滝になったということかもしれません。「末広の滝」。扉が閉ざされ、立ち入り禁止となっています。水流は勢いよく流れていました。「お塚」、鳥居の字彫の古いものを探しました。大正7年、8年、15年などが見つかりました。 たまたまお塚にお供えをして帰られる老夫婦がいらしゃったので聞いてみました。お歳は70歳くらいでしょうか。年に1回お参りに来られる程度だそうです。その方のお父様がお塚を作られたとのことですので、その方がお生まれになった頃だとすると、戦後間もなく建立されたようです。個人で建てられたのか、共同で建てられたのかは聞きそびれましたが、地代を払っていらっしゃるとのこと。やはり「お塚場」は管理料で経営が成り立っているようです。附属の滝で滝行をすることが少なくなっても、やっていけるのはそのためなんでしょう。 これらお塚群の近く、「末広の滝」に近いところに「岩滝」と思われる「お滝」があります。水は流れておらず、脚立も置かれていて、長い間使われていないうようです。 昔、「お滝」巡りをした際に、「伏見稲荷山参拝図」に書かれている「岩龍の滝」を発見できませんでした。地図では「岩滝」と「末広の滝」の間にありますが、それらしきものはその時も今回も何も発見できませんでした。今回、さらに奥に行ってみました。ありました、廃墟になっていますが、立派な「お滝」です。 鳥居には、手書きのようですが、「竜王出現社」と書かれているので(何故、彫ってなくて手書きなのか分かりません。古い時代に書かれたのではなく、新しく誰かが書いたのかもしれませんが)、「岩龍の滝」とみなしました。 鳥居の裏には昭和8年の字彫があります。これが「お滝」創設時に同時に建てられたものであるとすると、さきほどの初三郎地図が発行された後に作られたものだという推定と符合します。「伏見稲荷山参拝図」での「岩滝」の位置関係と逆になっているのは、地図の記載ミスと思われます。 この「岩龍の滝」(推定)の下には、平らな広い土地があり、構造物の跡があります。さきほどの鳥居の前には「木田家私有地」の看板があり、075で始まる電話番号を消して、0727で始まる電話番号が連絡先として書いてあります。大阪の箕面あたりの電話番号です。「末広の滝」とは別の管理者だったのだと思われます。周りには「お塚」がないので、「お滝」だけだったのかもしれません。「お滝」の利用者が減り、「お滝」だけではやっていけなくて、早い撤退になったのかもしれません。あるいは、「末広の滝」の「お塚」が、昔は部分的に、「岩龍の滝」の「お塚」だったのを、「末広の滝」の管理者に管理を委ねたのかもしれません。 伏見稲荷御茶屋の受付下見の時間が近づいたので、伏見稲荷大社に戻りました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/16
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【2018年1月13日(土)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの集合時間までの時間を利用しての、研究員フィールドワークです。こぅいう形では2回目、通しでは5回目になります。今日は時間があったので、前回行けなかった坊崖遺跡まで行ってきました。 「帰り坂」と呼ばれる、北側の参道を登って三ツ辻へ。地図によるとその分岐点近くに、下に下りる道があるはずです。それらしき道が見つかりました。ここは「三ツ辻」という名前ではあるものの、この道を含めると「四ツ辻」です。しかし、それではもう一つ上の「四ツ辻」と同じになってしまうので、「三ツ辻」と呼んでいるのかもしれません。人の流れの多い道だけでいけば「三ツ辻」ではありますが。 下りていく道には、遺跡や行き先の表示は何もありませんから、観光客はまずこの道を下って、遺跡に行くことはないでしょう。私も何度もここは歩いていますが、過去はそんな遺跡の存在すら知りませんでした。 2,3分歩いたところに、それらしい場所がありました。「平安時代の?僧 浄蔵貴所旧跡」と書かれた石碑が立ち、お地蔵さんや祭壇のようなものが並んでいます。お地蔵さんの前掛けの赤が鮮やかなので、どなたかがちゃんとお世話されているのだと思います。 先日のフィールドワークの際に買った「深草・伏見」という本によると、この地は浄蔵貴所が修行をした場所であるとのこと。 浄蔵貴所は、京都検定の勉強で「一条戻橋」、「八坂の塔」の話を知っている程度で、詳しくは知りません。Wikipediaで調べてみました。「浄蔵(じょうぞう、寛平3年(891年)- 康保元年11月21日(964年12月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は三善清行。兄弟に日蔵がいる。宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ。扶桑略記によれば、909年(延喜9年)怨霊となり藤原時平を祟っているという菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化現した道真が現れ祈祷を制止したので調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという。 935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた。」 これで全文です。詳しくは書かれていません。 「坊崖遺跡」でググってみましたが、有用な情報は見つかりませんでした。浄蔵貴所が修行した場所かどうかも真偽のほどは分かりませんし、仮に修行したとしても滝行のような修行をしていたのかどうかも不明です。 御茶屋でのガイドの集合時間が近づいたので、もう一度「帰り坂」で本殿の方向に戻りましたが、時間が少しありそうなので、一番上のお社「小丸居神社」に立ち寄りました。 大連市と彫られた鳥居があり、裏には昭和15年と彫られていました。第二次世界大戦前、大連が日本領だったとき、大連に住む日本人の方が奉納されたものなのでしょう。 続いて昭和11年と彫られた鳥居を発見しましたが、さらに探すと明治33年と彫られた鳥居を発見しました。昨日探索した熊鷹社のお塚と同じく、今まで見てきたお塚の中では最も古い部類に入ります。 途中の茶店で、以前ネットで見つけて「お滝」リスト作成の参考にした「伏見稲荷山参拝図」手書きの地図が100円で販売されているのを見つけ、まだ営業時間前でガラス戸が閉まっていましたが、開けてもらって買い求めました。制作年代が書かれていることを期待しましたが、何も書かれていませんでした。 東京の中村風祥堂というところが発行元のようです。ホームページに問い合わせフォームがありましたので、制作年代について質問しました。回答待ちです。 この茶店の方に、この「帰り坂」に建つ神社群は明治時代にできたものですか?とお尋ねしたら、明治時代にはすでにあったとの回答でした。神仏分離で「お塚」が林立し始めたときに、これら神社群も建てられたと推定していたので意外でした。回答の内容の真偽のほどは不明ですが。 ガイドの集合時間に間に合うよう、伏見稲荷御茶屋に向かいました。今日のガイドの状況はこちら。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/13
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【2018年1月11日(木)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの集合時間まで少し時間があったので、研究員のフィールドワークをしました。都合4回目になりますが、今回はショート・フィールドワークです。 先日のフィールドワークで手に入れた「深草・伏見」という本によると、三ツ辻の近くに浄蔵貴所が修行したという「坊崖遺跡」というのがあるのですが、ネットである程度場所も特定できたので、そこを目指しました。しかし途中で、そこまで行っていては集合時間に間に合わない可能性もあると思い、途中の「熊鷹社」のお塚の字彫の年代だけ調べることにしました。 明治32年や明治33年と彫られた石柱や石鳥居が見つかりました。今まで巡ったお塚の中では最も古いのではないかと思います。 御茶屋でのガイドの集合時間が近づいたので、本殿の方向に戻りました。今日のガイドの状況はこちら。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/11
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【2018年1月9日(火)】 今日は、午前11時頃から午後2時くらいまで、明日から始まる「京の冬の旅」伏見稲荷大社御茶屋のガイドの下見をしました(こちら)。夕刻から、ガイド会に月イチエリア会議があるので(こちら)、それまでの時間を利用して、「伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究」の3回目のフィールドワークをしました。 去年12月11日には、伏見稲荷大社南側の「お滝」を巡り(こちら)、この1月4日には北側の「お滝」を巡りました(こちら)。 今日は、より南側のより東側の「お滝」を時間の許す限り回ろうとスタートしました。回ったルートは下記です。1回目に回った「お滝」も含め表示しています。1 清メ滝(12月11日)2 八嶋滝(12月11日)3 命婦滝(12月11日)4 弘法滝(12月11日)5 熊鷹本滝(本日)6 青木滝(本日) まず、「熊鷹本滝」を目指します。そのため以前訪れた「命婦滝」の中を通過します。前回は古い年代の字彫の写真撮影がなかったのですが、今回、入口近くで大正5年の鳥居への字彫を発見しました。 「弘法滝」の前を通って、「熊鷹本滝」に向かいます。伏見稲荷南側の「お滝」が、1本の道沿いに並んでいるのに対して、この「お滝」は離れたところにあるので、最初「お滝」巡りをしたときに見つけるのに苦労したところです。今回は、その経験があったので、少し迷いましたが、比較的簡単に見つけることができました。 鳥居が新しいので、廃墟にはなっていません。 しかし、管理棟のようなところは、無住のようです。しかし、入口近くにお住まいになっている家があったので、そこで管理されているのかもしれません。 「お滝」は水流がなく、落ち口はカバーがされていて、落ち葉で覆われ、最近使われた様子はありません。 「熊鷹本滝新設」の碑がありました。 裏面に建立年が彫ってあります。「昭和四」のあとが何と読むのかよく分かりませんでしたが、干支ではないかと思い、帰ってネットで調べたら、昭和4年の干支は「己巳」でした。「昭和四己巳」と彫ってあるようです。昭和4年に新設されたようです。今まで回った中では、比較的新しい「お滝」になります。(後日追記:大正15年に発行された吉田初三郎の「伏見稲荷全境内名所図絵」には、「熊鷹本滝」は記載されていますので、「熊鷹本滝」の創建は、大正15年以前と思われます。この記念碑が何年か遅れて建てられたのだと思います。あるいは新たに造り河替えて、それが昭和4年ということかもしれません) 鳥居やお塚で古い字彫を探しましたが、鳥居の昭和14年、お塚の昭和12年が探した中では古かったです。 「青木滝」に向かいました。 ここはしっかりと、きれいに管理されています。管理棟はシャッターが閉まってましたが、きれいにされています。 横にガラス戸の箱があり、個人名を書いたお供えのためと思われる三方がたくさん置かれていました。信者の方から依頼され、管理の方がお供えをするのでしょうか。 「お滝」は水流がありますが、チョロチョロです。これでは滝行にならないでしょうから、滝行をするときには、たくさん流すのでしょう。 他のお滝ではなかった由緒書きがありました。消えかかっていて読みにくいです。 探した中で、最も古い字彫は、大正10年でした。 時間が無くなってきたので、それ以上は奥に進まず、伏見稲荷大社本殿の方向に戻りました。 途中、「弘法滝」の上を通る道に沿って、注連縄で飾られたマンホールのようなものがあるのを発見しました。この下の水が「弘法滝」の「お滝」に流れているものと思います。ここに湧水を溜めているのかもしれません。1月4日の「お滝」巡りのときに買い求めた「深草・伏見」という本によると、熊鷹池が弘法の滝方面に流れる砂川の水源にもなっていて、熊鷹池から峠を越えて弘法の滝に流れるとの農家の古老伝承があるとのことで、その水路跡が弘法の滝の近くにあると書かれています。ひょとすると、これがその水路跡ということなのかもしれません。 京阪伏見稲荷駅からガイド会の地区組月例会に向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/09
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【2018年1月4日(木)】 去年誕生した孫2人を我が家の車に乗せるためのチャイルドシートを買い求めた後(こちら)、天気も何とか持ちこたえてくれそうだったので、特別客員研究員のフィールドワークの2回目に出かけました。この前(昨年12月11日)は伏見稲荷の南側の「お滝」をいくつか回りましたが(こちら)、今日は北側から始めて、可能な限り「お滝」を回る心積もりで出かけました。結果として下記の地図ルートを時計回りに回りました。 JR稲荷駅で降車して、伏見稲荷大社で初詣した後、伏見稲荷の北側に回り込みました。雨がけっこう降ってきたので、どこも寄らずに帰ろうかなとも考えたのですが、ガイドの仕事が始まってしまうとなかなか来られなくなるし、雨も酷くなりそうにはなかったので続行しました。最初は地図を見ずに行ったので、北に行き過ぎましたが、地図を取り出してルート修正。分かれ道で「権太夫の滝」「荒木の滝」の道標を発見。新しい道標が、これら「お滝」が現役で活躍していることを物語っています。 最初の目的地「権太夫の滝」(ルート図の)に到着。ここは3年前に最祖に訪れたとき、宮司さんから伏見稲荷の周辺には20近い「お滝」があると教えていただいたところです(こちら)。それがきっかけで興味を持ち、その後ほぼ全部の「お滝」を巡りました。そのことが今回の研究に繋がっています。いわば研究のルーツになった場所です。 研究員の名刺を持ってくるのを忘れてしまいました。またあの宮司さんにお会いできれば、研究のためのお話を色々お聞きすることができます。そのためにも名刺は携帯すべきでした。 3年ぶりの訪問です。「お滝」への道は、扉が閉まっていて、「社務所にお声掛けください。」とあります。社務所に入ると、年配の女性の方が出てこられました。3年前にお会いした宮司さんの奥さまかもしれません。「お滝」への扉を開けていただいて「お滝」を見学させていただきました。水が勢いよく流れていました。少々質問させていただきました。 分かったこと、・ここの創建は大正元年・今も、滝行をする方はいらっしゃる。一般の方。・滝行の代金は決まっておらず「志」。滝行の衣装は貸していただくことも可能。 「お塚」や鳥居に刻まれた年号の一番古い物を確認しましたが、私が発見した中では、大正2年が最も古かったです。管理人の方のが大正元年創立とおっしゃってのと、ほぼ合致します。 東に進みます。大正14年の吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(以下「図絵」)では、現存する「荒木の滝」の間に「ねざめの滝」というのが描かれていますが、その痕跡がないかどうか探索しました。「伏見稲荷全境内名所図絵」の該当部分 ありました、ありました。「荒木の滝」の手前に隣接した一般の住居のような家の敷地内に「お塚」があり、昔「お滝」だったような池もありました。「図絵」でも、「荒木の滝」の西隣に描かれています。不確かですが、これが「めざめの滝」の痕跡と思われます。門は開けらたままで、中に入ることはできそうです。「お滝」は止めても、「お塚」はお参りに来る人もいるので、入れるようにしておかなければならないのかもしれません。「ねざめの滝」の痕跡と思われる 東に進むと「荒木の滝」があります(ルート図の)。ここも「権太夫の滝」同様、管理人が居住し、滝の水流もしっかり流れていました。 最も古い年代の字彫を探しましたが、探した範囲では昭和16年と比較的新しい年代でした。しかし、前出の大正14年に描かれた「絵図」には載っているので、少なくとも大正14年には存在していたと思われます。昭和16年の字彫刻(左端)吉本興業の字彫があるお塚を発見しました。 「荒木の滝」の北隣には、前出の「絵図」の赤の楕円内にある池の痕跡も確認することができました。今は荒れ地になっています(残念ながら写真を撮るのを怠りました)。ここに溜めた水を落差を利用して「荒木」、「ねざめ」、「権太夫」の各「お滝」に流していたのではないかと思います。 さらに北に進み、三之橋川沿いの「お滝」である「御壺の滝」と「五社の滝」に向かいます。三之橋川はより下流に行くと、東福寺の通天橋の下を流れます。これらの「お滝」を訪れるのは初めてです。「荒木の滝」から北上して直行する道はかなりややこしいですが、過去二度ほど近辺を歩いたことがあるので迷わず到達することができました。 より上流にあるのが「御壺の滝」です(ルート図の<3>)。荒れ果てています。これが滝の跡だと思います。小さな滝壺状になっているので「御壺の滝」と呼ばれているのだと思います。ここの「お滝」は自然の水流を利用していたうようです。「白髭の滝」の石柱。「御壺の滝」というのがこの「お塚場」の名前で、滝の名前は「白髭の滝」ということなのかもしれません。管理人の住宅はありますが、住んでいる気配はありません。荒れ果てています。古い字彫を探すと、大正2年、4年、6年などが見つかりました。昭和31年の字彫平成30年(今年)の記入がある鳥居。管理がされていなくても、熱心な信者の方はお参りをきちんとされているようです。 少し下流に「五社の滝」があります(ルート図の)。管理人が住んでおり、管理も行き届いています。今回始めて訪れましたが、伏見稲荷周辺のお滝で最も管理が行き届いた「お滝」ではないかと思います。私が訪れたときも、年配の女性が掃除をしておられました。 お滝も立派です。さきほどの「御壺の滝」の流れの下流にあり、ここもポンプで揚げたりすることなく、自然の水流を利用しているようです。 最も古い字彫を探しました。私が見つけた中では「大正5年」の字彫が最も古かったです。 掃除をしておられた管理人の女性にインタビューをして分かったこと、・創建は100年ほど前か?(100年前は1917年=大正6年。最古の字彫とほぼ一致)・今も「お滝」の利用はある。修行をされる方が利用。・滝行の料金は志納・滝行をされる場合、衣装は自分で用意していただくとありがたい。 腰に着ける白い布1枚で、腰に巻きつける紐を両端に付けるだけでよい。 この布を腰に着けるだけで、あとはスッポンポン。・滝行の経験がないと単独でするのは危険。管理人がそばについて指導する。 今は冬場なので、暖かくなってからのほうがよい。・上流の「お滝」は「御壺の滝」。無住になっている。廃業して10年くらいか。 「図絵」では「御壺の滝」と「五社の滝」は、下図の赤色の楕円部分です。「御壺の滝」が下流、「五社の滝」が上流になっており、実際と逆です。「図絵」の中の別の概略図では「五社の滝」が下流になっているので、単純な間違いだと思われます。 川沿いに坂道を上って「白滝」(ルート図の)に到着します。今まで書いてきた「お滝」は伏見稲荷の境外、すなわち私有地にあったものですが、ここは伏見稲荷の境内地です。 管理人がいらっしゃいました。住居ではなく、昼間だけ詰められているのだと思われます。伏見稲荷の公式の「お滝」である旨の表示は発見できませんでした。滝の水流は勢いよく流れており、蛇の形をした滝口になっています。 一番古い字彫は探した範囲では、最初鳥居に見つけた大正7年でしたが、石柱に明治43年の字彫を発見しました。前回も含め最古の字彫です。ただし、明治45年=大正元年ですから、今まで見てきた「お滝」も最古字彫に比べ、大幅に前の時代といくわけではありません。 もう一度坂を下り、分かれ道に戻り、東側の谷筋の道を上ります。「清滝」に到着します(ルート図の)。ここも伏見稲荷大社の境内地で、管理事務所があり、ここには「伏見稲荷清瀧勤番所」と書いた看板が掲げられています。しかし、その下に写真のように「御用の方は御膳谷奉拝所にお越しください」との平成11年に書かれたプレートが置かれています。利用者がやはり減っているのでしょう。 滝は2筋流れており、お塚全体もしっかりと整備されていました。 古い字彫としては、大正2年、大正3年が発見できました。 まだ、フィールドワークができていない「お滝」が数か所残っていますが、暗くなり始めたので、今日の「お滝」訪問はここで切り上げ、御膳谷奉拝所まで上がりました。お山巡り地図御膳谷奉拝所 御膳谷奉拝所は伏見稲荷大社境内の「お塚場」になります。字彫の年代を調べてみましたが、探した範囲では、「大正元年」が最古でした。他の「お滝場」と大きく変わらないようです。 お山巡りの道を半時計回りに進み、「四つ辻」へ。お山巡りの絶景ポイントです。四つ辻からの眺め お山巡り参道を降りる途中の茶店で、吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(100円)と「深草・稲荷」という深草稲荷保勝会が編集した本(500円)を売っていたので買い求めました。後者の本で何か発見があれば、後日投稿します。 写真のようなお山巡りの地図が茶店の前に貼ってありましたが、お店の方に尋ねたところ、手書きであって、売り物はないようです。 「三つ辻」を奥社のほうには向かわずに、そのままお産婆稲荷の方向に下りていきます。 伏見豊川稲荷本宮の鳥居で、明治31年の字彫を発見。今までで最も古い字彫です。 途中で、3年前に発見した私の地元の三重県の小さな町「一身田」の住人たちの建てた「お塚」を再発見することができました。 石碑には当初明治32年に建立されたとあります。鳥居には大正元年の字彫があります。 将来の研究の題材にしょうと考えており、写真は他にもたくさん撮りました。 荒木神社。最も古い字彫は鳥居の大正4年でした。「図絵」では、毎日稲荷近くに「熊鷹の滝」が描かれています。今回痕跡を発見すべく探しましたが、何も手掛かりは得られませんでした。次回、再トライです。 前回、今回のフィールドワークから推定されるのは、「お滝」群にしても、北側参道に林立する伏見稲荷大社境外の寺社群も、明治末期から大正前期に、急速な勢いで増えていったのではないかということです。 帰りに伏見稲荷大社にもう一度寄って、御守りや御札を授与していただきました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/04
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