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マルクス『経済学・哲学手稿』
「ヘーゲル弁証法の批判」まとめ1
私は昨年(2023年)12月から、マルクス『経済学・哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」を学習してきました。この5月10日の第18回目の発信をもって終わりまできました。
右往左往の手探りでもありましたから、何が問題やらチンプンカンプンなこともあったかと思います。これから、あらためてその中身をまとめてみようと思います。
一、はじめに
なんでマルクス『経済学・哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」を学んだのか
直接の経過としては、昨年ですが、福田静夫先生(日本福祉大学名誉教授)の講座で、ヘーゲルの『法の哲学』「国法論」と『歴史哲学』「ゲルマン世界」を学ぶ機会がありました。長年にわたりヘーゲル哲学を研究されてきた方が、その中身と今日的な意義をといてくれたんです。私などは、その講座の終了後ですが、『歴史のなかの弁証法-『歴史哲学』「序論」をまなぶ』との冊子を、その後の学習の副産物としてまとめてみました。ヘーゲルが世界史のあゆみの中に弁証法をどのようにとらえていたのか、その「序論」から探ってみたんですが。まぁ、これが私などの理解の程度でしたが。
そもそも私などは、科学的社会主義についてこれまで学習していたんです。このことから、ヘーゲルにたいしても関心を持っていたわけですが、この機会があらためてヘーゲル哲学を学ぶうえでの貴重なものとなったわけです。
そうなると問題は、マルクスの『経済学・哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」です。そもそもヘーゲル弁証法とは何か。いったい、マルクスはどのようにヘーゲル哲学、その弁証法を理解したのか。どの様にしてそれを批判したのかです。
これまで私などは、折節につけてエンゲルスの『フォイエルバッハ論』を読んできました。この本が、その問題を主題にして解明してくれていたからです。しかし今回は、『1844年の経済学哲学手稿』です。エンゲルスがその著作をまとめるにあたって、元になっていた原材料となるものです。
なんで、その『経済学・哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」を学ぶかというと。
それは、ヘーゲルが初めて弁証法を意識化したように、マルクスが唯物弁証法をはじめて意識化した現場であるからです。唯物弁証法を学ぶ上で、一つの基本的な道だと思っているからなんです。
哲学の学習というのは大事だと思うんですよ。
いまを生きていく上での基本姿勢にかかわってくると思うんです。
しかし、今どき哲学を学ぶなんてことは、マニアックなひとか、専門の研究者の人たちならともかく、一般的には、それを語り合えるような場は、この世知辛い世の中ですから、なかなかそうした機会というのはないと思うんです。私なども「達磨大師」状況におかれたことを、さんざんボヤいてきたわけですが。
ここで問われていることは、ものごとに対する自己の基本姿勢だと思うんです。人間がこの世を生きていく上では、さまざまな問題が問われるじゃないですか。あれも、これも、それもと、万華鏡のようにつぎからつぎへと問題が出てきます。それらへの対応に、ついつい人は振り回わされますよね。それが普段の日常的なことがらだと思うんです。
なんといってもヘーゲルという人の努力は、そうした一端を示しているとおもいます。
人間の感覚から意識、理性、精神の『精神現象学』、一般の『論理学』、自然哲学、芸術・宗教、『法の哲学』、『歴史哲学』と。「対象というのは自己意識だ」との根本から、人をとりまいている森羅万象を、ひとりの知性で探るとことを挑戦しつづけたわけですから。おそるべき、愛される人です。
しかし私たちだって、現代に生きている以上、ウクライナ侵略はあるし、パレスチナ侵略問題があり、軍拡政治はあり裏金問題がある。こうした歴史学術の成果を学ばなくてはならないし、また働いて家族とくらしていくこと、同時にまわりの市・町での動きや、大本での国の政府や議会の動きと、これら自分をとりまく諸関係とのやりとりがあるわけで。同じように課題は多岐で、日々大変なわけです。
今の世の中にあって、私などがあえて哲学をうんぬんするのは、根本にはこれらに対する基本姿勢の問題にかかわると思うからですが。まぁ、そんな素朴な気がしてくるからでして。
もちろん、ものごと一般論だけでは、すべての問題が解決しきっこないんですが、しかしそれでも現実問題に臨む姿勢が、ある程度はしっかりしたものになるのでは、そう思っているからですが。
(以上、といったことで、まとめのスタートです)。