草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2014年10月14日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 確か、最近は青森県の小さな町 野辺地町を

全国に、また、全世界に向けて売り込むのだと、「豪語」して

いたはずなのに、その天命のような仕事と、前回論じたような「本質論」とは

どこでどの様に繋がっているのか?身近にいる友人から、そんな素朴な質問を受けました。

成程、これには丁寧にお答えする必要がありそうですね。

 私のような「不信心者」が神とか、天とか、はたまた絶対者などと、ご大層な

お題目を並べ立てること、そのこと自体が既に「常軌を逸している」行為と言わなければならないでしょう。

きっと。確かに…。私は、書きました、自分は何のためにこの世に生まれて来たのか?子供の頃から

物心がついて以来ずっと、心の底に蟠っていた 本質的な疑問 でありますよ。この「個人的な疑問」に



誰も彼も、自分の人生のはっきりとした目標なり、目的なり、ゴールをそれぞれに明確に持っている

かのように振舞っていた。或いは、わたしにはその様に見えた、感じられた。だから、何となく

周囲に対して引け目のような 劣等意識 を知らず知らずのうちに植えつけられてしまっていた。

そして、文学の世界に強く惹きつけられてしまった。特に、ドストエフスキーの特異な世界に

魅了されてしまっていた。彼、ドストエフスキーは一言で言えば、人間の異常性を異常だと

認めなかった天才であります、特殊人でありますよ、本当に。普通に「異常心理」などと

表現する人間性は、平凡な、ありふれた人間の中に普通に、当たり前のように存在している。

人間とは、人間性とは、「狂的なる何か」なのでありますが、それはなぜなのか?天才は

異常な熱情を持って、その謎を追求していきます。他人事などではないのですから。自分の

本質に迫る重大事なのでありますからね、何といっても。― おっと、ここは作家論を

開陳する場ではありませんでした。生きるとは、生物としての活動はそもそもの始めから



 しかし、人類はパンのみにて生きているのではありません。正義の 神 とともに

ありたいと念願する聖なる意図を内部に秘めてもいるのですから。単純ではありませんね。

一筋縄ではとても行きませんよ。だから、面白いのでありましょう。

 私も、人並みに 正義を求めています、熱烈に、激しく。野辺地は私にとっての

「聖地」なのであります、与えられた目標なのであります。どうしてそうなったのかは



そして、思い切って言ってしまえば、全世界をも照らす、大きな、大きな、灯火の

種火となる大切な土地なのであります、はい。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年10月14日 10時53分44秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: