第 九十一 回 目
いつもは、空いている座席に腰を下ろすと、必ず降りる直前まで眼を閉じて、半分は
眠っているのであるが、今朝の彼は普段と同じような、半ば習慣化している行動が、スムースに
取れないのである。で、隣に座った若い娘の顔などを、おずおずと窺ったりする。
二十一二と覚しきOL風の娘は、何処か物悩ましい、仄かな香水の香りを身辺に、漂わ
せている。眞木の遠慮勝ちな視線が、白い襟足の辺りから、頬や目元にまで達する。若々
しくはち切れそうな肌に施された、巧みな化粧。確かに、魅力ある若い女性には相違なかった。
が、其処には眞木が先程妻から受けた印象と同じ性質のものが、感じ取れるのだ。やはり
妻やこの娘の顔が、今朝突如変貌したのではなく、それを眺める彼自身の眼に、問題がある
ようであった。しかしながら、今朝の彼の感受性が、普段に比べて拙劣なのかどうかの点に
関しては、俄かには判断が付き兼ねる。
新たに発見した対象を、美と見るか、醜と看做すかの、審美的な観点を離れてみても、
それまで眞木が気付かなかった要素が、見える様になった、新たな事態の到来だけは、確実
なことだった。
この眞木の心の内部に起こった変化が、喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのかも、
今の所判然としない。この変化が、佐々木法子に関連して生起していることだけは、確実
なのだが、どちらが原因でどちらが結果なのか、まるで不明だ。
心理的、乃至は、肉体的な変化が先にあって、少女への奇妙な関心が、生じたのかも知れない。
一体全体、この変化が何を意味し、将来何を彼に齎す事になるのか?そう考えると、彼は
居ても立ってもいられない不安と、焦燥に駆られる……。
それにしても何故、山岡幸男はいつも卑屈と思えるくらい丁寧な態度を、取り続けていたのか
不思議である。…… 眞木は例の諍いを経験してからは、山岡の誰に対しても同じように「
紳士的過ぎる」態度が、本物でない気がした。慇懃無礼という表現があるが、それに近い
傲慢さと、強い人間不信の感情が、透けて見える想いがした。
その山岡がいつだったか、こちらが「おやっ」と首を傾げたくなる程に、素直な心情を
吐露したことがあった。
「俺、自分のお袋の顔を、知らないだろ。そのせいか知らないけれど、年上の女の人を見ると、
みんな綺麗に見えて、胸がドキドキするのだ。先輩の中には、女は単なる性欲の対象で、その
捌け口にしか過ぎない、なんて言う人もいるけど、俺にはどうしても、そうは思えないのだ―」
と、うっとりと夢見る様な視線を、宙に走らせながら、そう呟くように言う友の顔が、別人
の如くに清々しく感じられたのを、忘れないでいる。
早熟な先輩たちが、自慢げに売春婦を買った体験談等を語るのを、口の中に唾が溜まる程に
羨ましく、ひどく悩ましい想いで聞いていた高校生の眞木としては、山岡のその言葉が、真実
の響きを伝えていると感じられる度合いだけ、意外でもあったりして…。同時にまた、あの
中学生の頃の甘酸っぱい初恋の記憶を、心に浮かべて、自分が既に精神的にも、肉体的にも
大人に近い存在となっていることを、意識したのだった。
当時の眞木は自分の強い性衝動を持て余し、戸惑っていた。出来ることなら、プロスティチュート
を体験したいと、真剣に思い悩んだ。結局、彼にはその勇気が、どうしても湧かなかった。
従って、当時の彼が同年代、或いは、年上の異性に向ける眼差しには、何か切羽詰まった、
物狂おしい荒々しさを、伴っていた筈である。山岡の言う、ロマンティックな甘美さなど、
入り込む余地の全くない、殆んど動物的な激しい欲求が、身内に滾っていたのだから。
男性の性欲が急激に衰える中年過ぎの年代には、少女のセーラー服の胸の膨らみに視線を
奪われ、胸をドキドキさせる時期があると、誰かから聞いていたが、正に中年に差し掛かった
眞木には、そうした兆候は今の所現れてはいない。それどころか、真逆の現象さえ、起きかけている
有様なのだ。
元来心身共に健康そのものであった眞木にとっては、性本能の衰弱につれて異性への関心が
薄れる、という方がごくごく自然に思われる。妻の顔や隣席の娘の顔が、少しも美しく
感じられないのは、年齢の齎らす自然の摂理であろうか…、それにつけても佐々木法子の件だけが、
例外現象であることに、変わりはない。― 山岡が例の、率直な感想を漏らした同じ時期に、現在の
恋心に類似した心情が、眞木を襲っていたのなら、どんなにか気が楽で、愉快に感じられた事か。
そう思うと、眞木は又ひどく恨めしい気分に、陥るのだ。
学校に着くと直ぐ、眞木は校長室に呼ばれた。野口校長は、背の低い、小太りの体躯を肱掛け
椅子に、深々と埋めて、何事か瞑想でもするかの如く、天井に顔を向けていた。眞木が机の前に
立つと、ゆっくりと身を起こして、傍らのソファーを手で指し示した。
校長の話は佐々木法子に関するものであった。法子自身と、その母親に就いて先日担任の尾崎
から報告のあった、芳しからぬ噂は、どうやら事実らしく、事態が更に悪化して他の生徒達への
影響が出ないうちに、適切な処置を講ずる必要がある。問題が問題だけに、若い尾崎では手に負え
ない面があり、人生経験豊富な教頭先生に、是非とも御協力願わなくてはならない。野口は稍
沈痛な面持ちで、そう言うのだった。眞木は嬉しいような、恐ろしい様な、妙な気分に捉えられた。
これで公然と、佐々木典子に接近する権利を獲得した訣なのだが、話の成り行きが妙に出来過ぎ
ているような気がし、其処に何か途轍もなく大きな陥穽が、仕掛けられている様な不安がある。
しかし、校長の要請を断る正当な理由も、見つからない。臆病な眞木にも、人並みの野次馬根性
とそれに相応しい好奇心の持ち合わせがある。所謂、怖いもの見たさの心理も、働いている…。
「弱りましたな……」
思わず有頂天になって、笑いがこみ上げて来そうになるのを、辛うじて苦笑いに誤魔化し
ながら、眞木は心の片隅で、自分の意外な不謹慎さに、驚いていた。教育者として、生徒の
まことに憂うべき事態を前にして、悲しむこともせず、反対に、内心で自分の密かな望みが
叶えられた事を、手放しで喜んでいるとは。人の良い校長は、眞木の不自然な笑いを、
どう受け取ったのか、「御迷惑でしょうが」と、頻りに恐縮していた。
金曜日の時間割では、眞木は午前中で授業が終わり、午後からは身体が空いていた。佐々木
母娘の事に関して、校長から依頼があったことを尾崎に伝え、彼から改めて説明を求めたのであるが、
その説明だけでは中中要領を得なかった。それで、直接に警察に出向いて話を詳しく訊いてみる
ことにした。防犯課の担当警察官は、調書を繰りながら、次の如く語った―。
二日前の夜、〇〇駅付近の所謂「連れ込みホテル」からの通報で、佐々木法子と連れの高校生A
を補導した。通報したホテルの従業員の話では、法子が余りに幼く、子供子供していたのにビックリ
したのだと言う。補導を受けた時、少女は少しも悪びれた様子がなく、年上のAの方が却って
おどおどしていた。彼女が係官に言うには、自分たち二人は兄妹であるし、それにお巡りさんや
ホテルの人から咎められる様な事は、何もしていない。また、未成年者がホテルに泊まっては
いけない規則も、無いではないかと。実際、彼女が言う電話番号を廻して、確かめてみると、
両親共に不在であったが、偶々電話口に出たお手伝いの女性の証言で、二人は血の繋がりこそ
ないが、確かに兄と妹には違いないことが、判明した。