ここでこれまで縷々述べて来た事柄を、一回整理しておきたいと考えます。読者の為でもあり、私自身
の為でもあります。何しろ「人類史上で初めての、本当に画期的な試み」なのであり、有り体に申し上げ
れば「やってみなければ判らない事」尽くめなのですから。その上に、事柄を更に複雑にし、誤解を招き
易くしている非常に困った(?)、厄介な(?)付帯条件まで付いているものですから、事態をいやが
上にも複雑化させている。この様な弁解がましい物言いを本来であればしたくないのでありますが、なか
なかどうして非常に困難を極める一因と既になっている。念の為申し添えますが、厄介なのは説明なの
で、その実施なのでは断じてありません。
先ず第一に「セリフ劇」という呼称でありますが、文字通りに従来からのセリフ劇とは共通する部分が
多く、わざわざ違いを改めて述べるまでも無い。と、私自身も軽く考えていたのですが、目的が違えばそ
の在り方も全く異なるのは理の当然で、似ても似つかない「別物」なのであります。
次に、私は役者修行は人間修行に他ならない。と、これまた事新しくもない理論を、事新しく持ち出し
て居ります。これも、大いに誤解を招き易い立言でした。これも、同じ表現を使っても、目的が違えば
意味合いはまるで別個の様相を呈するに至る。既に、既成事実や先入の観念が存在しているのですから。
そこで、私の方も、そして説明を受け止めて下さる読者の皆様方も、お互いに気持ちを新たにして謂わ
ばゼロからスタートしてみたいと、考えて居ります。
ところで、私は現在も某学習塾で講師として継続して勤めて居りますが、昨日も生徒の一人に次の
様に申しました、「人生の大事は、言葉に要約すれば簡単に 表現 できる。例えば、スランプの時には
基本に還ろう。然し、それを 実行 するのが常に難しい」と。
今度の野辺地での新プロジェクトの場合には、これとは真逆の事が言えるのではないでしょうか。つま
り、実行し実施するのはそれほど難しい事では無く、むしろ簡単なのだが、それを言葉で説明し早急な理
解を求める事が、想像以上に難しく、困難を伴うのだ、と。
何故なのか、それは先行する観念があるからなのです。芝居・劇・ドラマと言えばこれこれだ。役者・
俳優と言えばこれこれだ。と、当然の事ながら、過去の既成の事実が夥しい数で存在しますので、誰でも
反射的に御自分の既に抱いているイメージを心の中に、思い浮かべ、その出来上がっている既成概念を
無意識に参照しながら、私の話なり説明を聞くことになる。これは理の当然でありましょう。
しかし、私としては「新しい」から新しいという形容詞を附けて表現するのですが、当にその新規さの
故に、理解がスムースに行かない。誤解なり、話の行き違いが、のっけから生じやすくなってしまってい
る。そこで、仕切り直しのスタートと言いますか、説明のし直しを試みようと考えた次第であります。
根本的な人の在り方を考えてみましょうか。「人」と言う字を見て下さい。縦棒を二本の足が支えてい
る人間の姿を象った象形文字であります。人は単独では存在し得ない。子供は両親という一対の男女から
生れ、自らもパートナーを探して次世代へと生命を繋いで行くDNAの担い手である。
この事実からだけからでも、単独の人間と言う者はあり得ないし、意味がないと言える。誰か最低でも
一人の相手が必要であり、不可欠な存在として今日ただ今をを生きている。生かされている。
手当という原始療法もこの前提から出発している。神は自己の患部に手を当てる、乃至は、手を翳す
治療法を人間に与えた。しかし、誰か相手が居て、それは両親であっても、兄弟姉妹であっても、身近に
いる他の誰かでもよい。他人が好意を持って「手当て」してくれれば、患部も心の中も同時に癒される。
こういう仕組みが有難い事に、私達人間には与えられている。
この人間に固有の、基本原理が私たちの目指す「セリフ劇」の基本でもある。心の琴線にダイレクトに
働き掛け、有効で、心温まる癒しを魂にもたらそうと意図しているのであります。
そして、その目的に最も適した手段として、私達の身近にある芝居・劇・ドラマを利用しよう。改良
してみよう。そういう試みとして御理解頂くのが、本筋であったような気が今では致して居ります、私と
致しましては。すると、私達の意識の向け方が違うだけで、芝居は私たちに今までとは全く相違した、異
なった姿を現しているのですね。高い入場料を取って見せるショーではありませんので、劇場といった
特別な施設は必要ではありませんし、必要不可欠なのは善意の人二人が其処に居れば、事足りるのであり
ます。特別な用意も、訓練なども従って要りません。少なくとも最初の段階では。そして、それを自然に
無理なく高度な段階に高めていく、人々の不断の努力が、それだけがあれば十分なのであります。
如何でしょうか? 何か、ためにする詐術のようなものを私が、巧みに使っているでしょうか…。
考えるまでもなく、極めて公明正大でありますし、その上に「少しばかりの善意」の持ち合わせがあれ
ば、誰にでも参加可能であります。そればかりではありませんで、誰もが人生を生きて行く上で必要不可
欠な、有意義で為になる好ましい行為・行動でもある。いいことずくめで副作用とか弊害などは皆無であ
ることも、自明な事実でありますから、後は人々の理解を深め、賛同を得る努力を粘り強く継続する。こ
の一事に尽きる。75歳の誕生日を迎えたばかりの老人の、ささやかな、本当にささやかな人生に対する
御恩返しにしか過ぎませんが、言い出しっぺの私自身が早くもいの一番に、その恩恵に浴している事実
から考えますと、この「神慮」に依って開始したプロジェクトの成功は、その根柢の所で保証され、守ら
れている。そういった確固たる確信を、私は既に手にしてしまって居ります。
この現代の福音と呼んで何の差支えもない事態に対して、感謝、感謝、またまた感謝!
もう少し丁寧で、解り易い具体的な説明を加えましょう。
例えば、最初の音読ですが、言葉を発する事は日常的に極めて普通の事であり、特別な事ではありませ
んが、基本的にはその通常の「発語」や「発声」があれば、それで十分でありまして、謂わば必要にして
十分なのであります。聞く、乃至は、聴く方も特別な訓練など要求されません。出来れば全神経を集中し
て、全身で聴いて頂ければベストではありますが。
さて、劇の演出でありますが、これもごく普通でよい。よく見られるケースですが、非常に厳格でやか
ましい注文を役者達に向けて発する有名なスター演出家と言う先生がいたりして、もし近くで稽古風景を
見学する者が居た場合などに、ぴりぴりとした稽古場の張りつめた空気に、圧倒されてしまう。そういう
事が、素晴らしい芝居・劇・ドラマには必要なのだ、と言った伝説めいたものが世間には流布しています
ね。私自身も数年前に、地元の草加市で市民参加の演劇公演に一役者として、参加した経験がありまし
た。文字通り厳しい指導者がいて、一から十まで実に張りつめた空気感の中での稽古が、連日の如く当然
のように実施されました。プロの役者も交えての真剣勝負的な舞台公演でしたが、こうした従来の定番の
パターンとも私たちの目指すものは、全くと言ってよいほど異なっている。
ました。ですから、舞台上のパフォーマンスだけでは、そのパフォーマンスが如何に完璧なものであった
としても、御客、客席との理想的な交流が成立しない事には、その公演の成功は覚束ないことを意味しま
す、実際の話が。何度でも申し上げますが、舞台の公演は所謂「主役」のものでも、演出家のものでも、
台本作家のものでも、その他の誰のものでもない。真の主役たる観客席のゲストたちの心の中で、如何に
理想的なカタルシスが遂行され果(おお)せたかの一点に懸っている。そう、言えるのであります。
人生を生きる生き方が各人各様で良いように、稚拙な素人役者集団によるパフォーマンスも良いし、
プロはプロでその発展途上のどの段階でも、一期一会の「好き・善き」出会いにさえ恵まれれば、最高の
公演であり得る、のでありますね。何故なら、これも人生と同様に完成ということが無いからでありまし
て、不完全でありながらも「理想的な在り方」が存在するのでありますから。
早い話が、最初の第一歩である「音読」は一人二役の訓練にも実質上なるわけでして、役者の役割と
しての朗読者と、観客役の聴き手である役割とが、無理なく自然な形で備わっているのですから、言って
みれば これはもう鬼に金棒 以上の強い味方に当然なるのでありますよ、驚いたことには。
このように冷静に反省してみれば、全ての道具立てと言いますか、プロジェクトに必要な要素・要件
は既にして完備しているのでありますから、後は行動あるのみ。
そこで、音読の台本としてほんの参考までに、私・草加の爺が現在の段階で思いつくままに、少しばか
り具体例を示してみたいと考えました。
先ず最初に、日本の歌謡史上で今様時代と命名される、際立った一時代・黄金時代を形成した、今様
諸歌謡集を集成して、その時代を代表する集に「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」があるのですが、
その梁塵秘抄から少し引用してみましょうか。
「 春 」
そよや、小柳によな、下がり藤の花やな、咲き匂(にを)ゑけれ、ゑりな、睦(むつ)れ戯(たはぶ)
れ、や、うち靡(なび)きよな、青柳のや、や、いとめでたきや、なにな、そよな(― 緑色が鮮やかな
小柳に、下がり藤の花が匂う様に咲き懸っていることだ。藤の花が小柳にとても親し気に咲き懸り、
戯れているよ。咲き靡いているよ、青柳がその緑が、本当に素晴らしいよ)
「 祝い 」
そよ、君が代は 千世に一度ゐる塵の 白雲かかる 山となるまで(― 私の最愛の恋人である妻
(夫)よ!
いついつまでも生き永らえておくれ。千年に一度だけ落ちて来て止まるチリが、積もりに積もって仕舞い
にはその山頂に白い雲が掛かる程に高い山に成長する時まで、永遠に近い時間、月日が経過するまで、終
わりが決して来ない程に常永遠(とことわ)に、永続しますように心の底から念願して、やみません、
愛するが故に…)
「 夏 」
そよ、我がやどの 池の藤波 咲きにけり 山ほととぎす 何時か来啼(きな)かん(― 私の住まい
致す家の中庭にある池の、中央部に作られた中島の藤の花が今夏を迎えて、実に見事に咲き並び、華麗な
見頃を迎えて居りますよ。その色彩豊かな藤の花に相応しい山ほととぎすである素敵な貴方様、一体
何時になったら姿を御見せになられるのでしょうかしら…。わたくしは待ち遠しくて待ち遠しくてなりま
せんの。どうぞ、わたくしの切ないこの気持ちをお汲み取りの上で、一刻も早くお越しくださいませ、ど
うぞ…)
「 梁塵秘抄 と 名づくる事 」
虞公(ぐこう)、韓蛾(かんが)といひけり。聲(こゑ)よく妙にして、他人の聲及ばざりけり。聽く
者賞(め)で感じて涙おさへぬばかり也。謡(うた)ひける聲の響きに、梁(うつばり)の塵(ちり)起
(た)ちて三日居(ゐ)ざりければ、梁の塵の秘抄とはいふなるべし(― 中国の古代に稀代の美声の持
主が居たが、その人物二人の名前を一人はグコウ、もう一人はカンガと言った。この両人は声の美しさが
霊妙であって、他人がこの美声に及ぶことなどは想像すら出来ない。一度彼らの声を聴いた者は誰でも
称賛して、感動の余りに涙を流さないでは居られない。朗々と響きわたる声の美しさに家の屋根を支える
横木の梁(うつばり)に積もった塵でさえ、感動の余りに立ち上がって、三日元に戻らなかったと伝えら
れている。その故事に因んでこの歌謡集を、梁塵秘抄と命名したのである)。