草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年04月02日
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第 四百二十二 回 目

 今回は、セリフに心を込める、又は迫真の真心を籠めて表現する「技術」と、意味合いについて

読者と一緒に考えてみたいと思います。

 先ず最初にアナウンサーの喋り、もしくは語りについて掘り下げた考察を加えます。皆さんはど

うお感じかは知りませんが、私は流暢な喋りや、立て板に水の語りをするプロのアナウンサーより

も、たどたどしく不器用な、もしくはつっかえつっかえでも一生懸命に自分の気持ちを聴き手に伝

えようと努力する、素人の方が断然好きです。

 お前が好きとか、嫌いとかは問題ではない。大した問題ではないではないか、そうお考えの方々

に私は次の如くに返答致したい。実は、そこの所が今回のテーマにとって肝腎要の勘所なのであり



 少し回り道をするようですが、これに本質的には関連している事なのですが、普通には皆さんが

そこまでは突き詰めて考えない、「重大な見落とし」があるので、その事を俎上に載せて検討を

加えてみます。

 端的にお尋ねします、チンドン屋と役者・俳優・タレント・芸人たちとどこがどう違うか? 

私、草加の爺はこう答えます、同じだ、ちっとも違いがない、と。その心は、と申せば「生活の

為に芸を売っている」から。ただ、相違点があるとすれば当人達の意識の在り方と、彼等を見る

世間の見る目が異なっている。要するに、見栄えがよいか悪いか、プライドや虚栄心を満足させら

れるか否か、が多少違っていると言えば、そうも言えるだけで本質的には何も変わりはない。

 伝統芸能の歌舞伎や能・狂言にしても、元を質せば「河原乞食」であったが如し。ただ、急いで

弁明いたしますが、日本の誇る歌舞伎や能・狂言の世界を貶めるのが目的ではなく、常識と言う物

の「過ち」を正し、色眼鏡を外したり、目に入っていた鱗を取って頂ければ、それで済む話です。



やレベルの相違、乃至は人としての境涯の高さが大いに違うのではないか。そう私・草加の爺は皆

様方の注意を喚起したい。そう切に願うのであります。

 少なくとも、セリフ劇ではプロよりアマチュアが断然勝れている。心の籠らない「立て板」より

も善意に溢れた「ど下手」がよい。そう声を大にして主張する者なのです。

 ここで一回立ち止まってみます。お前さんの言う事が仮に正しいとして、理屈ではそうかも知れ



上手な方がよいに決まっている。そう心の中で思われた方にお話致しましょう。

 実はその私の実感から、私・草加の爺は上に述べたような確信を得たのでありました。私事で

非常に恐縮では御座いますが、説明の都合上で触れなければならないので、少々御辛抱をお願い

致します。私の亡くなった家内の母親、私にとっては義理の母親に当たる方の葬儀が全部終了した

際に、まかど観光ホテルで参会者への食事の接待がありました。宴会の冒頭で義兄が喪主として開

宴の言葉を型通りに述べたのであります。この折の義兄の挨拶の言葉が、その述べ方がたどたど

しいものであった。はっきり言ってしまえば「ド下手」でした。しかし、少なくとも私は深い感銘

を受けた。この場合の式辞の述べ方としては最高であり、理想であるとまで感じました。

 私は長年芸能界に身を置いて居りましたので、冠婚葬祭の場に数えきれない回数身を置いて来て

いる。司会者は勿論の事、各種の挨拶を述べる人たちはプロ中のプロばかりで、実に見事の一言に

尽きる物腰であり、口演でありました。当時の私はそれが当たり前であり、当然にそういう立場に

立たされたなら、自分もそうある様に努力しなければいけないと感じ、身の引き締まる思いで聴き

入っていたものです。

 しかし、義兄の挨拶の言葉を聴いて強烈に感動した私は、目から鱗が落ちる思いに襲われてい

た。この場合の挨拶の言葉の述べ方はこれ以外にはない、と。

 プロにはプロの良さがあり取柄もある。聞きやすく、聞き栄えもする。大体において滑らかな調

子であり、当人も聞き手も安心している事が出来る。ただ、真心は何処にもない。いちいち真心な

どで表現していては、身が持たない。プロとして通用もしない。第一、プロとして要求されている

のは一種の型であって、真心といったようなものではないから。

 しかし、素人には巧まずして真心が籠る。真情の吐露が、表出が見られる。それが受け手の心の

琴線を強打し得る。一期一会の痛切なる思いの自然な流出があるのだ。

 これは何も私が特殊だからではありませんで、義母の葬儀の際の義兄の挨拶に就いて、少しして

から息子に語ったところ彼は「自分も同様の事を感じた」と思わぬ事を言ったのです。息子の貴信

は芸能界とは全く無縁の、そういう意味ではずぶの素人だからです。感じ方にプロもアマチュアも

ない事は議論の余地もありませんので。

 ここで又、寄り道のような話題に移ります。殆どの人が御存知ないでしょうが、笠 智衆という

大根役者に就いてです。名匠の小津安二郎監督によって発掘されて、日本映画を代表する名優と称

されるに至りました、その前には「箸にも棒にも掛からない」ような不器用で、ド下手な大部屋の

役者に過ぎませんでした。

 笠 智衆に限った話ではありませんで、日本の映画史を代表する名作「七人の侍」に主演した

三船敏郎も志村 喬も厳しく言えば大根ですが、まあ世評に従って不器用な役者だと今は言って

おきますが、主役の二人だけでなくその外の主要な「名優」たちも、学芸会に毛の生えた程度の

演技しか示していなかった。にも拘わらず黒澤 明監督の揮った演出上の剛腕が、名作を名作たら

しめる主たる要素であった。

 私が申し上げたい事は、名作は必ずしも名演技者を必要としていない。この事実であります。

 役者や演出よりも大事なのは台本の内容であります。これはショーであろうが、治療を目的とし

たセリフ劇であろうが全く変わりがありません。受け手の心に響いて来るメッセージ性や純粋な

面白さ・愉しさであります。生きて生活している人々の心にダイレクトに届く魂の叫び声なのです

よ、実に。

 こう書いて来てしまったので、勢い内容の吟味を省くわけにはいかない。で、申し上げる訳です

が、「七人の侍」も「東京物語」も共に娯楽映画としては第一級に挙げられるだけで、カタルシス

の効果と言う点からだけで評せば、幼稚であり、子供騙しの閾を脱してない。だからして、単なる

娯楽や興行ではないセリフ劇は、最初から映画の名作と言われる諸作品を、遥かに凌駕し得る。

 百歩譲って、その可能性を大いに蔵しているし、秘めてもいる。

 このようにして私・草加の爺がセリフ劇の素晴らしさや、セリフ劇に於ける俳優の役割の違い

や、更には「下手な素人で十分だ」などと「強引な」ことを口にするものですから、劇・ドラマ・

芝居に「無知」であった大抵の人々の腰が引けてしまう。と、私の想像の中で妄想の如き思いが

膨らんでしまう。

 また、私がセリフの音読から始めてみれば、直ぐにセリフ劇のよさや魅力が体感・実感できる。

などと、「旨い事を言って」嫌がっている人々をセリフ劇の世界に「無理やりに」誘い込もうと

企んでいる。そんな風に、猜疑や疑いの心を徒に芽生えさせるだけ。との不安も生まれもする。

 しかし、断じてそうではありません。私には今度の「体験」に酷似した実際の経験を積んだとい

う思いがあるからですよ、はい。

 それは何かと申しますと、学習塾に於ける小学低学年生から高校生、浪人生に到る生徒達との

数えきれない出会いと交流の結果で、得たもの、手にし得たもの。貴重な実体験から直接に学び

取ったものなのであります。

 学習塾に来る生徒達は一様に、通っている学校で満足できる勉学の成果が挙げられていない。そ

こが共通する点であります。従って、勉強その物が好きでない。それどころか勉強と言う事を頭の

中で考えただけでも、既にうんざりしてしまう。要するに「勉強そのもの」が大嫌いになってい

る。そいう生徒に対して私は必ずと言ってよい程に、次の如く言います。

 勉強とは本来は楽しい事である筈。何故なら知らない事が分かる様になる行為だから。しかし、

現実には「学びの行動」は楽しいどころか、苦痛で嫌なだけの、思っただけで嫌気のさすものに

なってしまっている。それには様々な原因があるのだが、それはそれとして、少なくとも君は成績

を少しでも向上させるために、これから私と一緒に苦手な学科を学習しなければならない。そうで

あるならば、最初の間だけでも「自分は楽しいから勉強をするのだ」と、自分で自分に暗示をかけ

てごらん。私も出来るだけ楽しい授業を心掛けるので、君の方でも少しだけ我慢して協力するよう

に、心掛けてくれたまえ。すると不思議な事に勉強は苦痛でも、嫌な事でもなくなるから。

 大体、上の様な事柄を語って聞かせる。それと同時に私は次の如くに付け加えることも忘れな

い。私は非常な年寄りで、君たちの様に勉強する必要はないのだが、未だに勉強を継続している。

何故なら、それがこの上なく愉しい事だから。誰にも強制されていないのに、みずから進んで毎日

欠かさずに勉強に取り組んでいる。嘘などではなく、本当に、本当の事なのだ。楽しいからこそ

続けられるし、文句なく愉しいからね。と、いった按配ですね。

 生徒たちは皆が皆、一瞬呆れたような表情を見せますが、疑いの要素は皆無ですよ。若い人達は

大人の嘘に対しては非常に鋭敏ですから、嘘は直ぐに見抜きます。私は長い間在籍した学習塾の名

物的な存在でしたから、この変わり者の先生なら、そういう信じられない事もあるかもしれない。

そう彼や彼女たちは考えるようでした。

 話が長くなりましたので、区切りをつけましょう。私は野辺地町の人々に「教える」つもりは

毛程にも考えては居りませんで、ただ、セリフ劇ごっこを町の人々と共に存分にエンジョイしたい

と希望して、期待で胸を膨らませているに過ぎません。ただ、それだけにしか過ぎないのです。





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最終更新日  2019年04月06日 09時56分35秒
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