草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年11月12日
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今回は生きることの意義について、少しばかり考えてみたい。

 お前は今、何のために生きているのか? そう聞かれたら、私はこう答える。生きているのが楽しいか

らだと。 ( そんな訳があるわけないだろうが。生きていて楽しいだって! 寝ぼけた事をほざくの

も、ほどほどにしろよ。昔はよく八苦の娑婆って言ってたものだが、今じゃあその二倍や三倍じゃ足りな

いほどに、苦しみや悲しみ、ため息の出るような事ばかりが次から次へと出現しては、我々を悩ませてい

ると言うのに、何を後生楽な御託を並べようというのだ… )  ですから、ですから、臍曲がりを自慢

にこの世を渡っている私としては、是が非でも「生きるは、楽しい。八楽の人生」と法螺まがいのモット

ーを世間様に吹聴しないではいられないのですよ。

 このブログも義理や義務などで書いているのではない。書くのが楽しいからだ。これが何か、商売だっ



私のことだから長続きはしない筈である。

 この世で長続きするのは、お金を稼ぐために仕方なくする事ぐらいではなかろうか。つまりは、商売と

か人に雇われてサラリーマンとして拘束を受けているから、と言うのが大部分ではなかろうか。

 私も、サラリーマン生活を四十年近く送ってきた。身分と立場は確かに現代の「奴隷」的な地位・サラ

リーという軛に繋がれての身売り奉公であった。

 しかし、幸運な事に、私の精神と実質的なあり方は、見かけとはまるで違っていた。私は 奇跡的 に

現代の自由人という極めて恵まれた立場を貫きと通すことが許された。これは私の性格と、少しばかりの

才覚とによるものだが、大半はラッキーという偶然の成せる業である。

 具体的に言えば、私はテレビドラマの制作会社のプロデューサーとして、謂わば英才教育を受けていま

す。先輩のプロデューサーには新東宝という映画会社から生き残っていた優秀な方も何人かいらっしゃっ

た。私はそうした方々にマンツーマンで付き、プロデューサー補という資格で、見習い二ヶ月という驚異



 映画で言えば、四十代のプロデューサーは駆け出しと言われ、五十歳、六十歳で一本立ちしたと言われ

たものです、初期には電気紙芝居などと揶揄されたテレビでしたが、ご存知の如くに斜陽の最晩期にあっ

た映画に替わって、娯楽の花形の地位に一気にのし上がったテレビでありました。

 中でも制作予算の嵩むテレビ映画(当時はフィルム制作でしたので、そう呼ばれました)の制作を取り仕

切るプロデューサーの地位は高く、社の内外での尊敬を集めていたものです。



れていた。因みに、タイトルの付記されない時代は数年で過ぎ、若干二十七歳の若さでタイトルが入る一

本立ちのプロデューサーに昇格した私ですが、その時には、私は実質的には何百時間ものドラマを手がけ

た大ベテランの域に達していた。

 こうして今、必要上ある程度の説明が必要なので書いておりますが、改めて「凄いことだった」と感じ

るのですが、当時はそれで「当たり前」と自信満々でいましたね、実際の話が。これ自慢の為に書いたわ

けではなく、私のサラリーマン生活がスタート時点から非常に特異だった事を、偉いとか、偉くないと

か、優秀だったとか、の評価を抜きにして、説明したまでの話であります。

 因みに、私はこの業界に何らの伝手もコネも無く入っています。入社した後で知ったのですが、映画の

時代からドラマの制作に携わる者は、業界内に知人とか、親戚とか、兎に角何らかの縁故関係がない限

り、入ることは不可能だった。全盛期の日本映画は当時のエリート集団だった伝統があり、その流れでの

現象でありましょう。

 世間知らずの私は、怖いもの知らずで、極めて特殊な集団社会に、闖入者の様に飛び込んでしまったわ

けでありますね。ずっと後になってから、どうしてテレビドラマのプロデューサーになったのかと、人か

ら度々質問を受けましたが、私は「自分でもよく分かりません」と答えるより、仕方がありませんでし

た。運命の悪戯とでも、言うのでしょうか。

 とにもかくにも、私は水を得た魚の如くに、実に馬の眼を抜くと形容する以上に苛烈な生存競争を、矢

玉と言う流れ玉にも当たらずに、易々と生き抜いたことになるのです。それはそれとして、楽しいだけの

稼業では決してありませんでしたよ。ちょっとした不運があれば、莫大な赤字を負ってしまう。扱ってい

る金額が並ではありませんので、私は運があくまでも強いので、大作、特別作品を担当する機会が多く、

それだけ肩に背負っていた責任が普通ではなかった。「西海道談奇」と言うフジテレビの特番で、テレビ

では異例の大ロケーションを大分県内で展開した際には、作品的には成功しても、所属している会社に大

損を蒙らせる事になるのではと危惧して、夜も眠れない日が続きました。作品と言うものは、大きな歯車

と同じで、一旦動き出してしまうと、人力では制止が利かない。運を天に任せるより仕方がないのだ。当

時は今のように安心して天に任せきることなど不可能でした。俺が、俺が、で何事もやっておりましたか

ら、肩が凝って、肩が凝って、それこそ死ぬほどに辛い目をみました。

 おっと、ついつい、愚痴話になってしまいましたが、こうした文字通りに血の滲むような苦労をして

も、その事自体が、同時にワクワクするような楽しい事でもあった。この感覚は、体験した者でないと分

からないでしょう、恐らくは。尊敬する畏兄・能村庸一氏だけでしょうか、頤使し得る立場の私に可能な

限り寄り添い、苦労を共にして下さったので、我が事として苦しみを分担して下さった。

 こうした私の仕事の在り方を、何に例えたらよいのか。野武士の集団とでも、極小中小企業とでも形容

したら当たらずと言えども遠からずで、謂わば命懸けで戦場を駆け巡る集団のボスが私で、スタッフは可

愛い部下と言ったところ。しかし、上下の支配と被支配の関係ではなく、同好会のような仲間意識で、強

い信頼という紐帯で結ばれていましたね。楽しかったです。仕事が、きつい仕事が、ちっとも辛くなどな

く、血沸き肉躍るワクワク感なのです。

 サラリーマンであってサラリーマンでない、奴隷であって身動き自由な自由人とは、こういう仕事ぶり

が可能だった私の仕事の実態であった。

 局プロと制作プロの立場の違いこそあれ、物を造る情熱においてはどちらも謂わば命懸けであった。プ

ロとアマの違いは技量の巧拙以上に、銭を稼ぐか否かによるだろう。私達、能村氏と私とは確かにプロと

して仕事をしていたから、プロフェッショナル精神を発揮していたに相違ない。しかし、実態はアマチュ

ア精神横溢する、良きディレッタントと言うべきであった。プロフェショナル以上にプロ精神を発揮する

職人でありながら、同時に誰よりも仕事を楽しんでしまっていたから。道楽や趣味で出来る生易しい仕事

ではないのに、いとも易々と困難さやしんどさそのものを心底エンジョイしてしまったのだ。

 能村氏などは常々「私の玩具」と、仕事を、時代劇制作に携わる事を、公言して憚からなかった。聞き

様によっては不謹慎な言葉と聞こえようが、誰よりも仕事に打ち込み、寝食を忘れて仕事に打ち込んでい

た氏の熱中ぶりを知る人は、襟を正さざるを得ないであろう。好きこそ物の上手というが、それを地で行

ったのがフジテレビの大プロデューサーの能村氏であったから。

 能村氏ほど公平に、また平等に各制作会社とお付き合いした局プロも珍しいだろう。楽をするのであれ

ば老舗とは言え、最弱小プロダクションに落ちぶれ果てた私の所属する会社などと、長く付き合う必然性

などは全く無かったのだ。しかし、どこかで馬が合ったのであろうか、結局、私が定年で業界を去るまで

の間長いお付き合いが続くこととなった。それもこれも、二人に共通した人生を大いに楽しみ、この世の

苦労を忘れてしまう。もしくは、現代の錬金術師よろしく、苦しみを転じて楽となしてしまう、天性の性

格と性分、人生観など多分に天与の幸運に幸いされて、水中の魚、天を飛ぶ小鳥の如く、自他ともに人生

を謳歌する術を自然に身につけていた事に由来するでしょう。

 この人生を骨の髄まで楽しむ生き方は、私の定年以後の後半生でも少しも変わらずに、続いているこ

と。ハローワークに通ううちに、人生の先輩からキャリアカウンセラーへの道を教えられて、通信教育で

猛勉強して資格を取り、仲間と共に勉強会などへも参加したが、プロのキャリアカウンセラーとして働く

事はなく、教師と学習塾の講師として収入を得る様になってからも、同じ様に、ただお金を得る為だけで

はなく、人生をエンジョイする精神は忘れずにいましたし、今日只今も、それは変わっておりません。

 私のように貧乏に生まれ、貧乏裡に生きてきた者にとって、何らかのプロとして働くことは生活上で必

要な事でありますが、それだけでは単なる奴隷的な存在であって、人生を謳歌することなど、及びも付か

ない。仕事を通じて人と接し、その事を通じて某かの社会貢献をする。生きる上で、逃れられない必須の

条件を独鈷に取って、自らの人生謳歌の道具としてしまう。

 学生時代に教員の免許を取ったのは、卒業後に直ぐ、教職の道に進む考えがあったからですが、若気の

至り、教師も人間の一種であると言う極めて当たり前な現実を知って、遠回りをしただけで、教師とは私

にとっては遂に進まざるを得なかった場所だったのです。

 高校でも、学習塾でも、他の人が不可能としたことを易々と成し遂げたのは、私に特別な才能があった

と言うよりは、生徒の側、教えを受ける側の立場に立って、その人の気持ちに添った指導をする。そうい

う、言ってみれば極めて当たり前な事を行った結果なのでありました。生徒も私も、共にウインウインで

過ごせたのは誠に幸運な事でありましたね。





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最終更新日  2020年11月12日 15時54分15秒
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