草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2020年11月07日
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人間らしさ とは何かを少し考えてみようと思う。英語では humanity 人間的属性とか人間性とか

になるだろうか。

 国により、又、民族によっても色々な違いがあるだろうし、同じ国、同じ民族であっても異なる特色を

示した場合もあるだろうが、人類の歴史全体を見渡して普遍的に見られる諸特徴をここでは考察すること

にする。

 一時は極端な人間嫌いに陥っていた私だが、極めて健全な精神状態に戻った今現在では、人間大好きに

変身している。その私が第一番に上げたい人間らしさは、優しいと言う事です。最も、シェークスピア流

に表現すれば、優しいとは ( 時には、残酷とか薄情、冷淡に豹変することが多々あるのだが )人間属性

の基本であろうと思う。日本で言えば、慈母とか慈父とかの言葉に表れている属性である。尤も現代では



景があちこちで見られているのではあるが。

 しかし、嬉しいことには慈母・慈父の伝統は根強く残っていて、嘗てささくれだってチクチクと傷んで

いた私の心の傷を癒してくれる。母性愛よ、父性愛よ、永遠に輝いてくれ! そう願わずにはいられな

い。

 でも考えてみれば仏教の教えから見れば、末法・末世もいいところで、正法が完全に消滅しないで曲が

りなりにも残存してくれている奇跡の方を、むしろ喜ぶべき事なのであろう。

 私の人間に対する表現はともすれば、否定的な嫌悪に走りがちであるが、その根底には「人間が、この

奇妙な生命体が愛おしく、大好きで堪らない」との切ない程の溺愛があるからなのであります。自分を含

めて人間存在の全てを全肯定したい強烈な衝動が、ついつい私に過激過ぎる悪口へと走らせている。そう

御承知おきください。

 第二の特徴は、素直だということ。素直は、捻じ曲がった根性とか、邪推ばかりする臍曲がりも、残念



 よく引用するのだが、愛の反対は憎悪ではなく、無関心だと喝破したマザーテレサは限りなく神に近く

優しく、素直な御方だったと思う。キリストの犠牲的精神を全面的に受け継いで、神々しいまでの献身愛

を路上に放置された捨て子に注いで止まなかった。神性に包まれたマリア像の極致ではありませんか、人

類にマザーテレサが出現した事実だけで、人類はこの美しい惑星・地球に生存した価値が認められるであ

ろう。



如くに散乱猖獗して、目を覆わしむる所が大いにあるのだけれど、それにはこの際、目を瞑ることにす

る。プラトンや本居宣長などの偉人のそれは勿論の事として、一先ず横に置いておくことにする。ここで

私が特筆したいのは、一般庶民の中にしっかりと根付いている極めて公正な判断の力である。どの様な強

権にも屈せずに、己の信ずる所を迷いなく貫き通す、正しく揺るぎのない判断力。これは名もない庶民が

自らに誇って良い一大美点であろう。

 次には、チャーミングだと言う事を言おう。見た目の素敵さは言うもでもないが、心根の麗しさでも生

物の中でも、群を抜いているだろう。ここでまた、反対の悪口を言わなければならないのは、残念で仕方

ないのだけれども、思わず眼を背けたくなる醜怪な怪物と評さざるを得ない種族も、他の特徴に劣らず数

多く地上に蔓延っている。元々、人間は無条件に美しく、見た目の外見だけではなく、その心や魂の輝き

は殊のほかに勝れているもの。生まれたばかりの赤子を一目見れば、それが嘘でないことは証明される。

 人間に限らずに、創造主の神が創られた生き物は、自然状態では眼を見張るほどに美しく、魅力ある存

在であった。イエスキリストの言葉ではないが、咲いたと思ったら直ぐに枯れてしまう定めの、例えば野

の百合であるが、人間の最高の王者がその栄華の時代に身に纏った衣装や装飾物など足元にも及ばない豪

奢な衣装を纏わされているのだ。人智、人為などと自己を誇ってみても、所詮は、神の御業には及びも付

かない。己の限界と分とを、よくよくわきまえる必要があるだろう。限りなく謙虚にへりくだった極限に

おいて、尚且つ自己を誇るならば、それはそれで良いのだが。

 次の特徴を上げよう。賢明であること。歴史上の名だたる賢人、偉人は言うまでもなく、名もない無名

の賢人・聖人が数限りもなく出現して、人間の名を生物界に高く轟かせて、創造主をも驚嘆させている。

これは他の被造物には見られない、特異な現象であろう。もう、書くのが嫌になるほどに、この長所に関

しても悪口と言うか、正反対の欠点を容易く列挙出来てしまうのが、無念でありますよ。

 愚鈍、鈍感、暗愚、大馬鹿野郎、根っからの阿呆、などなど、呆れるほどにこの種の輩が娑婆世界に蔓

延って、我が物顔に振舞っている。悪貨は良貨を駆逐するとはよくぞ言ったものであります。そういう

他の者が辟易する者に限って、自慢顔に娑婆塞ぎに余念がないのが、実に困りものでありますね。

 さて、話の途中ですが、今朝の夢について書かせて下さい。人間らしさに関する事で、非常に重要な示

唆が示されていた様に思うのです。夢の中で或る現役からは引退した老学者が出て来ました。何やら御自

分の学者としての業績やら、名声について大変な不満がお有りのようでした。その老学者がさる大成して

立派な記念館まで公共団体か国によって設立された大家の揮毫した記念碑の上に、見事な筆致で御自分の

御名前を、その辺に落ちていた石でもって突然殴り書きの如くに彫りつけたのでした。そして、一旦はそ

の場を離れたのですが、しばらくすると慌ただしく元の場所に戻って来た。そして、さっき御自分の彫り

付けた文字をしげしげと眺めている。やがて、老学者の顔に満足げな安堵の表情が浮かんだのです。この

一部始終を傍らで見るともなく見守る形になった私がその記念碑に近づいてよく見てみると、それは実に

見事な筆致で署名された老学者の名前だったのです。

 夢については、これだけの事です。ブログの事が夢の中でも無意識に気に懸かっていたので、こんな奇

妙な夢を見たものと想像されます。

 そこで、五番目の人間らしさの特徴として、名声への飽くなき執着を挙げておきましょう。こんな私で

も名声への憧れはありました。二十代にして、テレビ全盛時に、全国放送の八時台の所謂ゴールデンタイ

ムに番組プロデューサーとしてタイトルされたドラマが放送される。虚名ではありましたが、一時は足が

大地から離れて宙に浮いた様な強い陶酔感に幻惑された体験があります。私の場合には、実体のない虚名

の中の虚名でしたので、直ぐにその陶酔からは覚めてしまいましたが、何ともこそばゆい様な晴れ晴れし

さは少し後まで残りました、恥ずかしい話ではありますが。

 美酒に酔うという表現がありますが、本当に美酒に酔ったのなら、どんなにか酔い心地も素晴らしかっ

たのか知れませんが、私の場合は何度も言うようですが虚名中の虚名でしたから、その酔い心地といった

ところで、あっという間に醒めてしまう実に儚いそれでありました。

 しかし、翻って考えてみると、謂わゆる赫赫たる名声等と言ったところで、所詮は虚名と変わるところ

はなく、直ぐに実態のない蜃気楼の如きものと、悟らされる体のものではないだろうか。そんな風に、何

か悟っと様な事を口にするのも、年のせいなのでありましょうか。

 名声欲に負けず劣らずに熾烈な要求が権力追求の志向でありましょう。かのナポレオンもアレキサンダ

ー大王も、さては織田信長や徳川家康など英雄豪傑と呼ばれるほどの人なら、みなこの権力の化物に取

り憑かれた被害者のような存在ではないでしょうか。

 ともあれ、人を支配し、又、人・英雄豪傑から支配されたいと希求する事程に人間である鮮やかな証拠

は無いのかも知れない。この一事だけ取っても、イエスキリストは人の子ではあっても断じて 人間 で

はなかった。カエサルの物はカエサルにと、いとも容易く言ってのけているのですからね。思うに、人間

とはこれ程までに我欲、小我の妄執に苛まれ続ける哀れな代物なのでありますから、呉呉も英雄崇拝など

というまやかしの宗教には踊らされない様に、ご同輩、ご注意致そうではありませんか。

 さてそこで、支配し支配される権力の仕組みである政治についての話に移りたい。現代の政治機構では

民主主義が全体主義を凌駕して、地上では優勢を示している。で、デモクラシーの悪口を言って、人間の

特性の一つである政治に関心を寄せる材料としてみたいと、思います。

 どんな事柄にもプラスとマイナスがある。といういつもの私の口癖の延長上での民主主義・デモクラシ

ーへの八つ当たりと、受け取って下さい。

 一般大衆が支配者であるとする前提の上で、代議員が全体を代表して議会を構成している。その議会の

支配者が政府であり、内閣であります。現在の日本では総理大臣が支配者の頂点に立っているのだが、実

情は支配者と呼ぶよりは、統治機構の調整者としての役割が顕著である。統治者は偉いのではなく、本当

に偉いのは一般大衆たる国民の側であるとする、建前からすれば、当然そうならざるを得ないのだ。

 そんな馬鹿な話が、一体あるだろうか。例えば、このボンクラの私が支配者より優れていたり、賢かっ

たりする道理がないではないか。どうせなら賢く、立派なお人に統治してもらいたい。そう願うのが人情

の自然と言うものではないか? 違いますか。中国の大昔に神のような聖人が統治する、理想の国が存在

したと言う。孔子様という大賢人が仰るのだから、真実であると信じる。しかし、孔子の時代にしてそれ

は遥かな伝説の時代として消滅していた。現実は、麻のごとくに乱れに乱れた乱世が続き、それが今日に

まで及んでいる。

 理想の王、聖人による統治が無理であるからには、万民が平等だとする仮定、前提の上にしかみんなが

納得する政治体制は成立し得ない。そう思う、識者たちの考えは理解できる。しかし、現実を見る限り

は、少なくとも私などは、到底納得など出来はしない。

 みんなが互を監視し合う。油断すと、いつの間にか誰かに出し抜かれて、とんでもないことになってし

まうかも、しれない。そうした猜疑心と下衆根性が生んだ政治機構が民主主義の正体だとする考えに、私

は頷かざるを得ないわけだ。然らば、どうしたらよいのか? 神の位置まで祭り上げられた「愚民」たる

私達一般民衆が、真剣に、時間をかけて、根本から考え直す潮時だと愚考する者でありますが、あなた様

のお考えやいかに、如何に!?





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最終更新日  2021年03月04日 21時38分11秒
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