草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2020年12月18日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
今回は「白峰」から入ります。

 登場人物は西行法師と崇徳上皇という最高度にビッグで有名な二人です。能の方に「夢幻能」という形

式があるが、この短編はそれに則った形をとっている。シテ(主役)が崇徳院の怨霊でワキが西行である。

 夢幻能は霊的な存在が登場して過去を回想するもので、生きている人間だけが登場する現在能と対にな

っている。通常は諸国を行脚する僧が名所旧跡を訪ねて、この世に恨みを残して死んだ亡霊と対面して、

その霊を慰める、という内容になっている。

 崇徳天皇の略歴を述べておきましょう。平安時代の後期に鳥羽天皇と待賢門院との間に、第一皇子とし

生まれますが、祖父白河法皇の子供ではないかとの疑いが生じていたために、父親との間に軋轢が生じて

いた。生まれた年に親王宣下を受け、二年後に皇太子となり、鳥羽天皇の譲位によって五歳で即位した。



を即位させた。これが近衛天皇である。崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。後に、保元の

乱に破れ、讃岐の国に配流されてしまう。その後は二度と京の地を踏むことなく、1164年・長寛2年に4

6歳で崩御した。

 日本の歴史上で、死後に怨霊になったと言われる有名な人物が三人います。平将門、菅原道真、そ

して崇徳天皇です。いずれも悲劇的な生涯を送った人々ですね。

 この中でも最も高貴な出自である崇徳院に対する庶民の同情と共感は最も強く、江戸時代には崇徳院が

生きながらに大天狗・妖魔となり、敵対した人々に恐ろしい復讐を遂げたとする怨霊伝説として定着して

いた。

  松山の 浪のけしきは かはらじを かたなく君は なりまさりけり(― 契りきな かたみに袖を絞りつつ 末の松山 浪こさじとは ― 約束しましたよね、涙を流しながら、末の松山が決して波をかぶることがないように、二人の愛もかわらないと、それなのに…。松山と言えば、この古歌の末の松山の波のごとくに、変わるまいと思われたのに、形(潟にかける、浪の縁語)もなく、君はお亡くなりになられた )

  松山の 浪にながれて こし船の やがてむなしく なりにけるかな(― この松山に流れ来た、丸木をくりぬいて作った虚ろ船の如く、院もそのまま、ここで亡くなられた )

  濱千鳥 跡はみやこに かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞ鳴く(― 鳥の跡、即ち、文字で書いた自分の教典のみは送れば都に届くけれど、私はこの松山で、ひたすらに泣く )



 物語の詳しい在りようは、各自で原典を味読される事をお勧めいたします。私は、青春時代に周囲の環

境の下で西洋の文学にとても良い影響を受け、文学に限らずに、全ての事柄が日本は彼等に劣っている、

との先入観念を脱することができないでいました。しかし、小林秀雄に顕著に見られる如くに、成熟した

見識を以てすれば、我が国の文物は海彼岸のそれに比肩し得る、立派な物と言うか、世界的に見ても第一

級の文化を誇って良い、素晴らしいものであった事実は、紛れもなかったのであります。



大きな乖離が人為的になされてしまい、今の若い世代には古語や古典の世界は、外国語以上に難解な、近

づくのが容易ではない、宇宙の果ての様な僻遠の地に異ならないまでになってしまっている。

 私などは、涙が出て仕方ないほどに残念さが鬱積しているのですが、出来てしまったことはいくら残念

でも仕方がありませんので、前向きに、プラス思考で考えを改めることにしました。焼け石に水、とは承

知しながら、覆水盆に還らずとは思いつつ、さにあらず、為せば成ると信じて、老いの身に自ら叱咤激励

を加えながら、可能な努力を、少しずつ致しておる所であります。

 それにしても、であります。私達日本人の身体には大和民族の血が流れています。その血を愛し、誇り

を感じている限りは、古典を、古語を自分のものとして復活させることは十分に可能です。とにかく原典

に直接接することが肝要です。その際に、黙読だけではなく、音読する事を強くお奨めします。外国語の

習得の際にも、同様のことが言えますが、母語の場合には尚更であります。出来れば大きな声を出して、

子供のように、で構いませんので、朗々と読み上げることを推奨致します。

 それから、何度も繰り返し、繰り返し読み返す習慣も付けてみて下さい。言葉は、話し言葉が基本で

あり、紙に書いてあったり、印刷されたものは、単なる黒いシミと何ら変わるところがありませんよ。人

の口にのぼせられて音声化して、初めて言葉本来の役割を発揮するもの。取り分け、他人ではなく、貴方

ご自身が自分の声で発声する。それが、その事が一番に大切なのであります。

 読書百遍すれば、意おのずからに通ず、と言いますが、努力しないで暗記した文章は、自然に自分自身

の言葉となって、意味など殊更に考えなくとも、他人が書いた文章でも、その文章表現と一体となった暁

には、自分の手や足以上の存在となって、私たちを手助けしてくれる。その有難くも奇しき働きを、古人

は言霊(ことだま)と称した。言葉もまた生きて働く、一種の生命体なのです。

 その実例として命を輝かせているのが古典中の傑作として、古来から多くの人々に親しまれて来た名文

の一つが、秋成の「雨月物語」であり、「春雨物語」なのですね。

 それから、すべからく文章というものは、大意とか粗筋などと言うものは問題ではなく、響きであり、

勢いであり、調べなのであります。文の勢いと言っても良い。何をよりは、如何に言っているか、その紆

余曲節に全部がかかっている。

 私は「源氏物語」こそは人類が誇るべき一大文学であると、日頃から感嘆・賛嘆して止めることが出来

ずにいるのですが、この粗筋を知ったとしても、この傑作の百万分の一さえ伝わった事にはなりません。

如何に作者が 巧みに そしてまた、自然に語っているか。その読者から同意と共感とを巧妙に引き出し

ながら、得も言われぬ人生の妙味を、仮構・フィクションの嫌味を感じさせずに、体得させ、あたかも光

源氏と心を一つにする。或いは、登場人物の誰彼に同情して、共に悩み、悲しみ、喜ぶ。この様な大マジ

ックも及ばない離れ業を、眼前に如実に示してみせる手練の技に、読者は心地よくも酔わされる。

 上田秋成の短編の多くも、傑作揃いであります。「白峰」、「菊花の約(ちぎり)」、「樊噲(はんか

い、人名)」などは世界中のどこに出しても恥ずかしくない、珠玉の名品でありましょう。

 但し、外国語や現代文への翻訳では、その妙味は殆ど伝わらないので、やはり実地に原文で味読して頂

くしか方法はないでしょうね。

 コーラン、正しくは、クルアーンは、他の言葉に置き換えたなら、もうそれはクルアーンではないと言

われますが、宜なるかな、至極尤もな事と思います。

 「樊噲」などは短編と言うよりはボリュームから言って中編と呼ぶべきでしょうが、ピカレスク・悪漢

小説としての妙味を堪能させてくれる名品ですが、その性質上筋が単純であるだけに、一気呵成に読了で

き、読後の感じはやはり短編と言うべきかも知れない。創作に少しばかり手を染めた者として一言すれ

ば、珍しく一気加勢に書き進んで、苦渋や推敲を感じさせない。作者も興に乗ってズンズンと書き進み、

先ず先頭に立って面白がっている。読む方も作者の魂が乗り移って来るかのように、無邪気に悪を犯す主

人公・樊噲と共に悪事を次から次へと重ねて、痛快なカタルシスを得る。現実では出来ない面白さを、存

分に味わい尽くして満腹できる。フィクションの愉しさ満載と言ったところ。

 また、「菊花の約」は実に麗しい武士同士の清い友情の顛末を語ったもの。九月九日、重陽の節句(五

節句の一つで、旧暦では菊の花が咲く季節であることから、菊の節句とも。邪気を払って長寿を願い、菊

の花を飾ったりした)に再会を約束した義兄弟の片方が、約束の日に幽霊となって千里を旅し、辛くも約

束を守ったという、希に見る美談である。

 雨月にしても、春雨にしても、非常な怪異譚を中核として持つが、世にも希で美しい美談が多く見られ

る中でも、このエピソードは本当にタイトルに相応しい清々しい香りが、匂い立つ様な名品であり、文章

も引き締まって隙のないもの。幾度も繰り返し愛読する価値のある名文中の名文である。

 それにつけても、世界中に美しいロマンス・恋愛の数は星の数ほど多くあるが、同性の友情を描いてこ

れほどの感銘を読者に与える説話は、珍しいのではあるまいか。

 現実にも、男女の恋愛においてさえ、損得勘定が余りにも前面に出過ぎて、純粋な恋の陶酔に惑溺出来

難い御時世となってしまっている。誰もが外見の美しさだけに関心が行き、心の美しさ、麗しさが蔑ろに

されがちな昨今でありますから、まして同性同士の友情など、名前ばかりで中身のない、空虚なそれへと

すっかり堕してしまい、だれも嘗ての昔に「菊花の約」に書かれている如き、死を以て約束を守る体の篤

く誠実極まりない掛け値なしの清い友情が存在したことなど、とても信じられなくなってしまっている。

 少なくとも、この私は、この様な純粋この上ない清い友情が、この地上にあるとは信じたくとも、信じ

ることは出来ない。

 私の体験からすれば、能村庸一氏との公私に渡る交際の過程で、僅かに、もしかしたら、清く純粋な友

情はまだ存在し得るかも知れないと、微かに感じさせられた。

 恋愛にしても、悦子の出現がなかったならば、欲得抜きの男女の愛情の交流すら、考えられなかったか

も知れない程に、殺伐とした、砂を噛むような人情の海に、ただただ漂うに過ぎない人生を送って、生に

ピリオッドを打つことになったに相違ないのだ。

 人と人との出会い、縁の不思議、生きてみて、初めて判る事柄であります。それにしても、日本という

お国柄は本当に素晴らしく、この国にに生まれて良かったな、と心から思う今日この頃であります。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年12月18日 17時23分50秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: