草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2020年12月25日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
今回は、私にとって懐かしい古典の随筆「徒然草」について書いてみます。

 懐かしい、と書いたのは、慶応の志木高校で教育実習生として教壇に立った時に、教室のその時の順番

で偶々「徒然草」の一節だったので、そこを解釈したり、文章の印象を語ったりしたことがあったからで

で、そう申したのです。

 多分、虜になっていた「源氏物語」の事が頭から離れなかったので、文章から源氏の影響が感じられ

る、と言った感想を述べたのだと思う。授業の後で、先輩の教師からお褒めの言葉を頂いたのですが、も

う少し具体的に説明した方が、生徒の為になっただろうとの指摘も受けています。

 日本には隠者文学という一つの系譜があって、「徒然草」もその系譜に連なる作品であります。ついで

に軽く触れておきますと、ウル源氏と専門の研究者から呼ばれている、現行の原典にまとめられる以前



た人々の手になったと推定されるのです。

 隠者とは、貴族乃至貴族に近い高貴な出自を持つが、様々な理由から出世の表舞台から外れ、花やかな

表舞台から置き去りにされた知識人の男性を言います。従って、当時の老人に分類できる、高齢者と見て

良いわけで、男女関係始め、現世での人間の喜怒哀楽の全てに渡る機微をよく弁えている、いわば苦労人

の集団であり、しかも大きな挫折を経験している。概して、現実を支配している貴族階級に対して批判的

になり易いと言った特徴が見られます。

 さて、「徒然草」ですが、作者とされる吉田兼好ですが、実は謎の人物であり、実相はあまり良くわか

っていない。一般には次のように紹介されていることが多い。

 吉田兼好は鎌倉末期から南北朝にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部小輔・卜部兼顕の子。本

名は卜部兼好。卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以後は吉田兼好

と通称されるようになった、と。



れて学校の教科書などにも取り上げられる程に著名であります。が、高度に知的で、大人の文章でありま

すから子供たちに深い読みを要求するのは、無理というものでしょう。

 私は、文学・文芸、更には芸術一般について、何を what よりも how 如何に、が最も重要であると考

えておりますが、また大方の識者の文芸・芸術に対するオーソドックスな把握の仕方でもありましょう、

が、もう一歩徹底させて、如何に・どの様に・how に全てを賭けているのが、その一番の命の在りどこ



 従って、全体の要旨とか粗筋、概要と言ったものは毒にこそなれ、何の役にも立たないとまで、考え詰

めております。

 今回、このブログを書くに際して、手元に原文がないので、現代語訳をいくつか参照してみたのです

が、案の定、気の抜けたビールを飲んだような実に味気ない思いを致しました。翻訳で外国の名作を読ん

だ時にも、同様の感じがしたものですが、もっと酷く、最悪の感を深くしましたね。

 因みに、どうせなら、源氏物語を要約して、不良青年貴族が父親の若い妻の一人をレイプして、不義の

子供を産ませ、人生の晩年に至って、因果応報、自分の一番若い妻を、優秀な青年貴族に寝取られて、不

義の子供と知りつつ自分の子として腕に抱いて、今さらの如くに、若き日、自分の父親は罪の子と知って

いながら、自分を許し、大罪を黙認していたと悟る。しかも彼には父親の寛大な度量もなく、相手が親友

の息子だったこともあり、無言の圧力をかけて青年を死に追いやってしまう。ヒーローの上辺だけの息

子・薫がどの様な恋の遍歴をするか、その成り行きを追って、長編は終了する、と。

 如何ですか、これなら大概の文学好きは興味を惹かれ、読んでみようと食指が動くのではありますまい

か。少なくとも大学生だった私は、非常な興味を感じて、日本の古典全般への開眼のきっかけとなってい

ます。のみならず、ゲーテなど外国文学の名作は可能な限りに原語で読みたいと、改めて努力しようと決

意も致しましたよ。

 ともかくも、文学というジャンルへの真の誘いを、「源氏物語」のお蔭で蒙ったのは私の人生に於ける

大きな幸いでありました。

 物語と随筆の違いこそあれ、古代から連綿と続く隠者によって物された文章は、さり気なく、技巧を感

じさせずに独自の世界に読者を招じ入れ、あたかも銘酒ででもあるかの如くに、酔わすのであります。特

に徒然草は随筆という性格上、思想なり意見なり、考え方などが盛り込まれて居りますが、大切なのはそ

うした知的な要素なのではなくて、上に述べた如くに「如何に語っているか」その語り口を十分に味わい

尽くす事なのであります。

 名高い木登りの名人の話があります。これは名人に仮託して兼好自身を表現している。そう自然に読め

るのであります。この名人は弟子に対して殆ど何も教えたり、忠告したりしないのです。木登りの難所を

突破して、後は誰でも容易に通過できる所に弟子が差し掛かった所で、名人は初めて口を開いて、「用心

しなさい」と声を掛ける。人間の弱点を熟知した人の物事の勘所を示して間然するところのない表現であ

りましょう。これなどは、ジャーナリストが現場から実況中継するルポルタージュでは絶対に得られない

知見であります。

 所で、天才・小林秀雄は人生の最後に当たって、「本居宣長」と言う傑作を著作しているのですが、フ

ローベールがマダム・ボヴァリーは私だ、と言ったのと全く同じ意味合いで、「本居宣長は、この私だ」

と終始くどいくらいに言い続けに主張している。私には、そうとしか解釈できないのです。

 その小林秀雄が「徒然草」を褒め過ぎと思われるほどに、褒めちぎっている。ここでも小林は、ランボ

ーにゾッコン惚れ込んだ様に、徒然草の文章に異常な程に入れ込んでいる。「これは昔、私が前世で書き

残した名文なのだから、仇や疎かに読んではいけない。鈍刀で刻んだ国宝級の仏像の如く、一章一章が光

り輝いている様が、見える人には見えるに相違ない」、小林はそう主張している、と私には思われるのだ

が、如何なものでしょうか?

 若い頃の私は、才能も、学識も、異常な努力するエネルギーも、全てが小林秀雄に及ばなかった為に、

彼の文章を読んでもよく分からない、理解が及ばないことばかりだった。そして、世間が彼を高く評価し

ているだけに、自分の浅学非才故の理解不能を強く恥じていた。そして、私に可能な範囲での努力を続け

ながら、繰り返して彼の作品を熟読した。そして、彼が対象とする天才達と一体になり、「他人を出汁に

して己を巧まずして自然に語っている」、首尾一貫してのユニークな手法を見抜いたのだ。

 類は友を呼ぶ、とか、小林の嗅覚が洋の東西を問わず、同類の天才を嗅ぎ分け、己の自分自身でも明瞭

には判別できない天才の真の在りようを 腑分け して見せた。それは彼の類まれな天才が然らしめた成

果には違いないが、同時に人間としての最高の誠実さ、優しさがそうさせたとも言える。

 今、私のブログを読まれている方は、或いは訝しい思いをなさっているかも知れない。徒然草は、そし

て吉田兼好は何処に行ったしまったのか、と。

 私は小林秀雄という天才の虎の威を借りている。天才の手法を真似て、兼好法師を絶賛しているのであ

ります。どうです、大した狐ぶりでしょう。

 冒頭の文章、「徒然なるままに、日暮し硯に向かいて、心に移りゆくよしなし事を書きつくれば、あや

しゅうこそ物狂おしけれ」の文章にしても、形通りに、「退屈で暇を持て余しているので、一日中硯を前

にして、心に次から次へと浮かんでくるつまらない事柄を、書き続けていると、自分でも不思議と思われ

る程に、奇妙な気持ちになってしまう」などと訳してしまうと、文法的には誤りがなく、表面ずらは正し

いので、例えば教室などで生徒が提出した答案としては、減点のしようがないけれども、これでは徒然草

の名文が泣いてしまうだろう。

 私などは、「これは私、古屋克征自身の、現在只今の心境を述べたものであって、それを述懷する形で

解釈すれば、私は昔流に言えば楽隠居の身分であり、傍から見れば暇を持て余して、時間つぶしにどう

でもよいような事柄を、朝から晩まで飽きもせずに書き続けている。確かに、そうであることに間違いな

どないが、私には人に隠れた高い志がある。高い志などと自分で言うのも何か烏滸がましいのだが、世の

ため人の為に、少しでも役立ちたい。それも、現役の生活者には出来ない手段・方法で以て。私には豊富

な経験がある。他人が滅多に遭遇しない手酷い人生上の挫折をも実地に体験して、地獄の苦しみを舐めて

いる。実人生では運が悪かったり、世間を知ら無さ過ぎた故に、味わわなくても良い苦渋を蒙った。結果

からから見ればバカバカしい様な遠回りをして、しなくても済んだ馬鹿な目も見た。要するに、人生の落

伍者しか知らない、一種得難い視点を獲得している。これが私の唯一無二の武器だ。成功者には成功者の

得意が、敗残者にも敗残者の得意があるのだ。神や仏は公平であって、それぞれの利点を抜かりなく用意

して、トータルでは平等を期して下っておられる。だから私は、自由に使える今の立場を使って、世の中

に物申そうとしているのだ。目明き千人、盲も千人とか、まして私の如き金力も地位も、名声もない、無

い無いづくしの耄碌爺さんの声になど、誰ひとりとして耳を貸そうとしないに違いない。それで良い。そ

れで良い。だが、正直に申せばやはりちょっぴり寂しい気がしてならない。だが、ひょっとして…、いや

いや、私は結果など気にかけずに、我が道を行こう。少なくとも、私の鬱屈している気だけは少しばか

り霽れようと言うものだ。事実こうして無心にパソコンに向かって、あれこれと考えを巡らしていると、

自分でもどうしたのだろうかと訝しく感じる程、妙に狂気染みた気分に襲われている。これは一体どうし

たことなのだろうか。人は誰も注意を払わないにしても、神や仏は私のこのささやかな行為に、静かな注

目を払って下さっている証なのだろうか。いや、きっとそうに間違いはないのだ。事実私は少なくとも既

に救われてしまっているではないか…」

 最後に、こんな短いチャプターがある。ある所に米の飯を食べずに、栗ばかり食する娘を持った夫婦が

いた。夫婦は娘の世間に異なる食習慣の故に、娘を家にとどめて、嫁には出さなかった。

 この段落に関しても、小林は、兼好は言いたいことを極端に削ぎ落として、ほんの一部分だけを表現し

た。世間によくある怪異譚の類ではないから、注意しろと親切な忠告さえ与えている。ここでも彼は、言

いたかったに相違ない、この娘こそ、自分だ、と。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年12月25日 18時28分24秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: