草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2025年01月03日
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孫右衛門は老足で、休み休み門を過ぎて、田畑の端の溝の水が凍りかけていて滑るのを防止する高足駄、

鼻緒は切れて横様に泥の田にはたとこけ込んでしまった。はあ、悲しや、と忠兵衛もがけど騒げども、自

分の今の立場を顧みて、出るに出られず、梅川が慌てて走り出て抱き起して裾を絞り、何処も痛みはしま

せぬか、お年寄りのおいたわしや、御足もすすぎ、鼻緒もすげ換えてあげましょう、少しも御遠慮なされ

ないて下さいな、腰や膝を撫でていたわれば、孫右衛門は起き上がって何方かは存じないが、有難い。御

蔭で怪我も致しておらぬ。若い御婦人でお優しい、年寄りと思召して親身の嫁でも出来ない介抱、寺道場

に参っても此処この一心が邪険では参らないのも同然じゃ、此方がほんの後生を願いの仏法信奉者、もう

これ以上は御世話にあずからなくとも大丈夫ですぞ、もう手を洗って下されい。幸いここに藁もあり、鼻

緒はわしがすげましょと懐のちり紙を取り出すと、梅川はよい紙がござんする、紙縒(こよ)りひねって



 その手許を孫右衛門は不思議そうに見て、これ、こなたはこの辺りでは見かけぬ御人じゃが、何方であ

るからこのように懇ろにして下さるのじゃ、と顔をつくずくと見詰めれば梅川はひとしお胸が詰まるよう

で、ああ、我等は旅の者ですが、私の舅に当たる方親仁様が丁度あなた様の年配でして、格好もよく似て

いるのです。ですから、他人をお世話している気はまったく致しませんで、お年をとった舅御の臥し悩み

の抱きかかえ、お世話するのは嫁の役割です。お役に立てれば私もどんなにか嬉しいものですよ、連れ合

いは実の親御の事ゆえに飛び立つように気を揉んでいる筈です、あなたの懐紙と私の延べ紙とを交換して

私が頂戴して夫の肌に付けさせ、父(てて)御に似ている親仁様の形見とさせたいと存じまする。そう言

って彼女はちり紙を袖に押し包む。涙は見せまいと努めたのだが、思わず零れ落ちてしまったのだ。

 詞のはしばしから孫右衛門はつくずくと推量して、さすがに親子の情愛は捨てがたくて老いの涙にくれ

たのだが、むむ、そなたの舅にこの爺が似ていると言っての孝行か、嬉しい中にも腹が立つ、成長して大

人になった倅を仔細があって縁を切り、大坂(おおざか)へ養子に遣わしたのだが根性に魔が入って大分



になってしまうが世の譬えに言うように、盗みする子は憎くなくて縄にかける者が恨めしいとはこの事

よ、旧離(江戸時代に親子としての縁を切ること。勘当)切った親子であるから善いにつけ、悪いにつ

け、構わぬ事とは言いながら、大阪に養子に行って利発で器用で、身持ちもよく、身代も仕上げたあのよ

うな立派な子を勘当したと、孫右衛門は戯け者だ阿呆だと罵られても、その嬉しさは如何であろうか、今

にも探し出されて縄にかけられ罪人として逮捕される。良い時に勘当して、孫右衛門はでかした、幸せじ



下されと拝み願うのはこれから参る如来様、開山の親鸞聖人様と、仏には嘘はつかぬぞと土にどうとばか

りにひれ伏して声を限りに大声出して泣いたので、梅川も声を上げて泣き、忠兵衛も障子から手を出して

伏拝み身悶えして嘆き沈んだのは理の当然と思われた。

 尚も涙を押し拭い、のう、血が続いていると言う事は争えない事で何といっても他人とは違う、悲しい

もの。仲のよい他人より旧離切った親子の親しみは世の習い、盗み騙りをするよりも何故に前方に内証で

こうこうした傾城にこうした譯の金が要ると密かに便りをしなかったのか。そうしていたならば、普段は

疎遠でもいざ不幸という時には共に寄って来て泣くのは肉親だけ、殊に生みの母親もいない倅であるゆ

え、隠居の田地(それからの収入で隠居時の費用を賄う為に別に定めてある田地を言う)を売ってでも重

罪人の首にかける縄は付けさせはしなかったのに。今では世間に広く噂が広まって、養子の母に難儀をか

けて、人に損をかけ苦労をかけ、孫右衛門が子で候とて匿(かくま)っておかれようか、一夜の宿でさえ

貸せはしない。みな彼奴の心根が悪いので世間を狭くして身の置き所もなく苦しい目に遭っている。嫁御

にまで憂き目を見せて、広い世界を逃げ隠れして知己や親友、親子にまで隠れる様に身を持ち崩し、ろく

な死に方は出来ないだろうよ。この親は、そんな風には産み付けていない、憎いやつとは思っても可愛い

のでござると、わっとばかりに消え入る。泣き沈む。別けたる血筋が哀れである。

 涙、涙の後で、巾着から銀子(丁銀・ちょうぎん、長楕円形の秤量貨幣で一枚の重さは約四十三匁)一

枚を取り出して、これは難波の御坊(大阪北久太郎町と久宝町の間にある、東本願寺の別院)への御普請

の奉加銀、今ここに有り合わせに所持していた、嫁御と承知してやるのではないぞ、ただいまの親切への

お礼としての物、この辺にぶらついていてはよく似ていると言って捕まるぞ。そなたの夫はなおのこと危

険であろうよ、これを路銀にして御所海道(南葛城郡御所町、新口村の西南)へかかって一足も早くのか

っしゃれ、此方の連れ合いにも言葉こそは交わさないが、ちょっとは顔も見たいが、いやいやそれでは世

間に顔向けできない。義理が立たない。どうぞ、無事な吉報をと涙ぐみながら二足三足、行っては戻り、

何と逢ったとて大事はないだろうよ、どうして人が知りましょうか、どうぞ会ってやって下さいませ。あ

あ、大阪の亀屋に対する義理は欠く事は許されないだろう。どうか、親が子の回向をする逆様事をさせて

くれるな、倅によくよく聞かせてくれよ、頼みましたよと涙で咽(むせ)かえり、振り返り、振り返り、

泣く泣く別れ行く跡に、夫婦はわっと伏しまろび人目も忘れて泣いている。この親子仲こそは実に儚いも

のであるよ。

 忠三郎の女房が雨に濡れて立ち返り、待ち遠でございましたでしょう、うちの人は庄屋殿から直ぐに道

場に参られて、それゆえに遇うことが出来ませんでした。もう雨も晴れかかっています。おっつけ今にも

戻られるでしょう。そう言っている所に忠三郎が息せき切って馳せ来たり、これはこれは忠兵衛様、親仁

様の話で詳細を聞いて来たのです。此方のことでこの在所は大阪から役所の犬(密偵)が入り、代官殿か

らは詮議がありする劔の中に昼日中から参られるとは運の尽きた御人じゃわい。此方の様子を見つけたの

かにわかに在所の家々を片端から家探し、親父様の所を今捜索していて、これからはわしの家の番じゃぞ

、親仁様は気の毒にも早く抜け出させてくれよとて狂乱状態であったぞ。極めて危険な鰐の口とはたった

今じゃ、さあさあ、裏口から抜けて裏道へ、御所海道、山にかかって退(の)かっしゃれ、と言えば夫婦

は狼狽えてしまう、女房は事情を知らずにわしも一緒に逃げましょうかと、言うのを亭主は阿呆らしいと

押し退けて、夫婦に古蓑や古笠を貸してやり、夫婦は折から降りしきる雨の中を足も乱れ、心も乱れても

この深い情けは死んでも忘れないと忠三郎の恩を心に忍び、姿を忍ばせて家を出たのだ。

 忠三郎は先ず嬉しいと息をついていたところに、庄屋、年寄り、達が先に立って代官所の捕り手の衆が

門口背戸口と二手になってどやどやとなだれ込んで、蓆を捲り簀の子を破り、唐櫃・米櫃・肥料の灰俵を

を打ち返しては捜したのだ。土間にかけて二十畳にも足りない小家である。何処に隠れようも無くてこの

家は別条なしだ。野道を捜せと言い捨てて、茶園畑の有るところを間々を狩り立てて、通って行ったのだ

った。

 親孫右衛門は裸足でやって来て、どうじゃ、如何じゃ、忠三郎よ、善か悪かを訊きたいぞ、と言えば忠

三郎は、ああ、よいよい、気遣いは要らない、夫婦ともども何事もなく夫婦を首尾よく逃がしおおせた。

はああ、有難いぞ、忝い、如来の御蔭、直ぐにまた道場に参りて開山にお礼申そうぞ、のう、嬉しやあり

がたやと二人が打ち連れて行く所に、亀屋忠兵衛と槌屋の梅川をたった今捕らえたぞと、北在所に人だか

り。程もなく、捕り手の役人が夫婦を搦めて引いて来る。孫右衛門はその場で気絶して息も絶えるのでは

ないかと思われる様子。

 その孫右衛門の様子を見て、梅川は夫も我も縄目の科、眼(まなこ)も眩み、泣き沈む。忠兵衛は大声

を上げて、身に罪あれば覚悟の上、殺されるのは是非もない。御回向頼み奉る、親の嘆きが目にかかり、

未来の障り、これ一つだ、面を包んで下され御情けですと泣きければ、腰の手拭をしごいて目隠しをして

やったが、面無い千鳥百千鳥、啼くは梅川、河千鳥、水の流れと身の行く方、恋に沈みし浮名だけが難波

に残りとどまったのだった。


 近松の最高傑作と称されている作品は、旧離切った老父と倅が嫁を間に挟んで、考え得る限りの最悪の

状況下で再会し、観客の涙を催させる最後の場面が圧巻である。親子の情愛の深さを前面に押し出しての

やり取りは実に自然な展開であり、観客は十二分にカタルシスを満喫することが出来る。素晴らしい描写

力だと舌を巻かざるを得ない。念の為に申し添えますが、この作品も含めて近松の作品は読むのではなく

て耳で聴くもの。今の若い人には縁遠くなってしまったのですが、歌謡曲の演歌の長い歌詞を名人芸の義

太夫語りが名調子で歌い上げる。素読みしただけでも自然に涙が零れるのに、観客の琴線に触れる節回し

で語られてはいやが上にも感動せずにはいられない。劇であって劇でない、ドラマであってドラマではな

い。やはり日本独特の名調子の劇的構成を持った 語り物 の一種なのであって、世界に類例を見ないユ

ニークな世界なので、シェークスピアのドラマの世界とは似て非なる物と言うべきだ。

 源氏物語が長編小説とは別個のものであるように、所謂、ドラマ・劇とは一線を画すべき独自の、素晴

らしい語りの世界なので、その事をくれぐれも忘れないようにしたい。この作品での八右衛門の性格の矛

盾などとあげつらう専門家もいるようであるが、人間の性格などは矛盾だらけなのであり、一見は矛盾や

破綻などと見える物が実はそうではなく、本当にリアルであり本物の人間が描かれていると、すくなく

とも素直な観客には受け取れるように描写されている。賢げな心理分析など無用の、完璧な人間理解をも

とに実にドラマティックに、写実的に生きた人間が描写されて余すところがない。それが近松ワールドな

のだ。私の拙い現代語訳が橋渡しになって、特に若者達に近松の作品が広く理解される契機となればこれ

にすぎる幸せはないのです。どうか、日本に生まれ、日本人であることの幸福を噛み締める契機としてく

ださい。





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最終更新日  2025年01月03日 09時33分34秒
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