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写真の花は「ユキヤナギ」 蛙の子であるおたまじゃくしは、親とは似ても似つかない姿をしていますが、成長すれば間違いなく親と同じになります。「蛙の子は蛙」というのは、凡人の子は所詮凡人でしかないという意味ですから、「さすが学者の子は優秀ですね、蛙の子は蛙・・・」なんていう使い方は間違いです。 昨日の雪は、都心では東京タワーの上半分が見えなくなるほど降っていたようですが、この辺では大したこともなく、すぐ小雨に変わりました。 昔、桜が咲く頃に大雪が降ったことがありました。その頃私は西荻窪に住んでいて、都心にお勤めしていたのですが、帰る頃には電車が動かなくなっていて、地下鉄で荻窪まで来て、一駅歩きました。途中に大きな桜の古木があって、もう、かなり花が開いていました。桜の花に雪が降り積もっているのを見たことがありますか。それはそれは美しい光景で、しばらく立ち止まって眺めていました。百人一首 41 瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 崇徳院 急流の水が岩に当たって二つに別れても、下流でまた一つになるように、今はあなたと離れ離れでも、いつかは再び逢いたいと思う。 崇徳院(すとくいん)は、第七十五代崇徳天皇。保元の乱に敗れて隠岐へ流された。 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守 源兼昌 淡路島から海を渡ってくる千鳥の声の物悲しさを聞きながら、須磨の関を守る番人は幾夜目覚めたことだろう。 源兼昌(みなもとのかねまさ)は、源俊輔の子で、後に出家した。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.28

写真の花は「アロエ」 ことわざ「暗闇の鉄砲」 向こう見ずなことをすること。また、物事をあてずっぽうにすること。暗闇で目標も分からずに鉄砲を撃つのは無意味なことから。 今日の東京は今シーズン一番の寒さで、今は雪が降り始めました。この辺では初雪です。C・G・ユングの心 19 ユングは自分の視点を入念に考察し、自分がどちらのグループに入るのだろうかと自問自答した結果、自分は内向型であるという答えが出た。 アードラーも内向型であったが、ユングは自分がアードラーと同じだとは思わなかった。アードラーの視野は狭すぎると思ったからだった。 アードラーの議論は他者に対する権力、人生の挑戦に対する権力の観念によって決定されていた。 ユングはもっと広い視野を持っていて、その観点から人格が説明されるような教義や記述は拒否していた。 彼は内向型の中にも、様々なタイプがあり、また、外向型の中にも様々なタイプがある。複雑な構成をもった人間の性質を、たった二つのグループに分類するのは不可能だと思った。 ユングは類型理論の価値について迷いはなかったが、しかし何かが欠けていると考えた。 彼は高度で複雑な主題を、簡単に扱おうとしていたことに気がついた。このため、彼は研究の公刊を10年間も控えていたのだった。 1920年に出版された「心理学的類型」は、何年も以前から取り組んでいた問題だった。 その4年前に公刊された論文では、これについて、さまざまに方向付けられた個人類型があり、その心性を我々は自分自身の類型に固有の視点に制限しようとしてはならないと書いている。 また、一つの類型が別の類型を完全に理解するだけでも困難であるが、他の個体の完璧な把握は不可能である、なぜなら他の個体の完璧な把握は、その人物の無意識の理解を含むからであるとも書いている。 この段階でユングは、意識心理学と無意識との関係という複雑な問題について議論することを避けていた。 そのような問題を類型心理学の言語で表すことは困難であり、人格という言葉の意味は、内向型と外向型とでは異なっている。「心理学的類型」を書くための研究が進むにつれ、ユングは意識の心理学が無意識の心理学と結びつかなければならないと考えた。そうして初めて類型心理学は理解される。 それは特に精神病理学にとって重要だった。外向的、内向的患者についての推測はある程度有用だとしても、無意識からの情報が判るまでは不完全なままに留まらなくてはならないからだった。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.27

写真の花は「すみれ」 ことわざ「国敗れて山河あり」 戦争で国は滅びてしまったが、山河は昔のまま存在しているということ。 昔の戦争は山河だけは残したが、未来の戦争では山河の姿形も変えてしまうかもしれない。 爪を噛む麻生さんを見ていると、ちょっと可哀相になる今日この頃、それでもまだ、一割前後の人が支持しているのは不思議! あれって誰に聞いてるの? 聖徳太子 1 観音様の正式名称は観世音菩薩。菩薩はいずれ仏になる、今は修行中で、弥勒菩薩は56億7千万年後に仏になる。すでに仏になったのは如来という。観音と普賢菩薩は現世利益、地蔵菩薩は地獄の救済者。 今は昔、我が国の朝廷に聖徳太子という聖人がいた。 太子が六歳になった年、百済から僧が経典を持ってきた。 太子がその経を読みたいと言うので、父の用明天皇は驚いた。 太子は、昔漢の国にいた時、湖南省の名山南岳に住んでいて、仏教の修行をしていたが、今は日本に生まれ、この経を読むと言った。 天皇が許すと、太子は香を焚き、経典を開き見た後、「月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日、これを六斉という、この日には、梵天、帝釈、閻浮提の政を見給う、しかれば、国の内で殺生をしてはならぬ」と言った。 天皇はこれを聞いて、天下に宣旨を下し、その日には殺生をしてはならないとした。 太子が八歳になった年の冬、新羅から仏像が贈られて来て、太子はそれを見て、「これは西国の聖人、釈迦如来の像である」と言った。 また、百済から弥勒の石像が贈られた時、大臣の蘇我馬子という人が、家の東に寺を造り、その弥勒を敬い供養した。 大臣は、この寺に塔を建てようとすると、太子が、「塔を建てたら、仏舎利を奉る」と言った。 舎利一粒を得、瑠璃の壷に入れて塔に安置し、礼拝した。太子は大臣と心を一つにして、三宝(仏教)を広めた。 その頃、国に伝染病が発生し、多くの人が死んだ。 すると大連の物部弓削の守屋と、中臣の勝海の王という二人が、「我が国には本来の貴い神があるのに、蘇我の大臣が仏教を広めたので、病気が起こって民を死なせた、しからば仏教を廃止して人の命を救うべきだ」と言った。 天皇は、二人の進言を聞き入れて、仏教を廃止することにした。 太子は、「その二人の人はまだ因果を悟っていない、善を行えば福がくるし、悪事を行えば禍が必ず来る」と言った。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.26

写真の花は「思いのまま(梅)」 ウチの病院では、看護婦さんを苗字ではなく名前で呼びます。最近は上司を役職名ではなく苗字で呼ぶ会社も多いそうですね。しかし、上司であり、先輩であることの敬意まで忘れてしまってはいけません。礼儀や節度を弁えた言葉遣いや態度が大切です。上司の指示や注意には謙虚に従い、応答するのが一人前の大人です。上司の言葉に明らかな間違いがあったり、意見を求められた場合は、厳しく指摘したり、偉そうにしゃべらないで、節度を持って自分の考えを述べるべきです。シャムネコ猫ですにゃん 8 シャムネコはシャム(タイ)が原産地だということは誰でも知ってるよね。 19世紀末までは、タイの宮殿や寺院でのみ飼われていて、門外不出で、秘宝として珍重されてたんだって。 毛色とポイントによって呼び名があって、20種類あるらしいね。でも毛色は年齢によって変化するらしいよ。 私たちブス猫三姉妹のママだって、若い頃は黒っぽかったけど、口の周りが白っぽくなったけどね。 シャムネコは生まれた時には真っ白で、少しづつ鼻や耳、尻尾が色付いてくるんだよ。 それにね、育つ環境の気温によっても色のつき方に異いがあるって、興味深いね。寒い所で育つと全身が黒っぽくなって、暑い所で育つと、全身が城っぽくなるんだって。 19世紀末にイギリスへ連れて来られたけど、気温の変化に弱かったから死んでしまったんだって。可哀相だね。昔のイギリスは人間だけじゃなく、猫にまで酷いことをしてたんだね。 現在のシャムネコは、改良されて気温の変化にも対応できるようになってるけどね。人間です 先日友人とおしゃべりしていると、友人が「一寸先は闇なのに、こうして生きていることは奇跡だ」と言いました。「こんな丸いものの上で、滑り落ちもせずにね」「奇跡よ」「これが凄いスピードで回転してるのに、振り落とされもせず」「ねえ、奇跡よ、ありがたいと思わなきゃあ」現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.25

写真の花は「オブコニカ」 風邪をひいたら化学薬品に頼らず、ミカンの皮で治しましょう。 ミカンの皮を二個分、よく洗って電子レンジで約8分温める。 それを刻んで、水3カップと一緒に半量になるまで煮詰める。 茶こしなどでこして、蜂蜜を適量入れて飲む。 アルコールを飲んではいけませんね。C・G・ユングの心 18 ユングは、フロイトとアードラーが異なった類型(フロイトは外向型であり、アードラーは内向型)に属すると結論した。 外向型にとっては、下界の事象が最も重要であり、それが彼に誕生からづっと生涯影響を与える。 これと対照的に、内向型は環境に対する主観的反応が特徴で、事象が自分にとって何を意味するかが第一の関心事であり、それらに容易く反応しない。 アードラーによれば、子供は両親や世界との関係における劣等感、および不信とともに人生を始める。 幼年期、児童期、青年期を通して、また成人として個人は劣等感を克服し、その優越性の目標を達成するための計画を工夫する。 ユングは、アードラーの中心的観念、人格の完全性、自我の権力はいかなる犠牲を払ってでも保持されなくてはならないというところに関心を持った。 自我は、人生の好意的ではない条件に打ち勝たねばならない。あるいは打ち勝ったと感じなければならない。 ユングは、内向型も外向型もともに共同体の正常で健全なメンバーであり、人生を異なったように見る素質なのだと考えた。 この素質は、運命として固定されているのではなく、代わる事もあり、目立たない場合もある。 アードラー自身、素質的には内向型であったが、だんだんと変化し、内向型からむしろ外向型のように思われた。 内向型は、内省と同一視され、不健全な精神状態と考えられてしまうことがある。 内省が不健全である場合もあるが、反省がこの範疇に入ると結論付けるのは馬鹿げている。反省、熟考、思考、跳ぶ前に見ることは健康的である。 内向型というユングの造語は、その意味において考えなければならない。自分の内面を見ることは有用であり、望ましいということである。 ユングは、容易に観察できる事実に注意を引いた。それは、内向型と言われるある種の人々は、自分が外界の対象に対する自分の反省によって、動かされていることに気づき、一方、外向型は、自身の中の変化でさえ、対称に、すなわち自分に影響を与えている外側の何かに帰するのであるつづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.24

写真の花は「リビングストンデージー」 ことわざ「口だけなら大阪城も建つ」 言うだけなら簡単、どんな大きなことも言えるという意味。夢を買った北条政子 北条時政には三人の娘が居た。 長女は先妻の子で、21歳になる政子。次女と三女は今の妻の娘で、19歳と17歳だった。 長女の政子は美人で、他の二人より優れていた。 時政は、実の母が居ないこの娘を不憫に思い、特に目を掛けていた。 ある時、19歳の次女が、不思議な夢を見た。 どこか分からない高い山に登り、太陽と月を左右の袂に入れ、橘が三つ成った枝をかんざしにしている夢だった。 考えてみると、自分は男ではないのに、月日を取ることなど思いも寄らないし、まったく不思議な夢だと思って、そのことを姉の政子に話した。 政子は、詳しく聞き、これは素晴しい夢だ、私達のご先祖様は、観音様を信仰していたので、月日を袂に入れたり、橘をかんざしにするというめでたい夢を見たのは、根拠があると言った。 橘(小さいミカン)という木の実の始まりは、十一代垂仁天皇の頃、常世の国(不老不死の国)から三つ来た。 その頃皇后が懐妊し、悪阻が酷かったので、橘が欲しいと言ったが、我が国には無いのでどうにも致し方がなかった。 皇后の願いを聞いた大臣が、異国へ行ってとってきますと言った。 いつ頃までに持って帰って来るかと聞くと、5月には帰ると言ったが、待てど暮らせど帰って来なかった。 6月になってやっと橘を持って帰ってきたので、皇后は大喜びで橘を用いて悪阻が快くなった。 この時に生まれた皇子が景行天皇である。 さて、政子は、女性ながら才覚に優れ、そのことを思い出し、景行の帝が橘を願い誕生したごとく、幾程もなく若君(源頼家と実朝)が頼朝の跡を継いで天下を納めた。されば妹の夢を買おうと思った。「実は、素晴しい夢と言ったが、本当は怖ろしい夢で、悪い夢は7日のうちに語ると、不幸になる」と嘘を言った。妹は驚いて、どうしたら良いかと姉に尋ねた。、「悪い夢を、良い夢に転じることです」「転じるとは、どうするのですか?」「夢を売ってしまえば、逃れられます」「悪い夢を買う人なんていますか?」「私が買って、あなたの難を転じてあげましょう」 政子は、北条家に伝わる唐の鏡に着物を添えて夢の代金とした。 妹は以前からその鏡を欲しがっていたので、大喜びだった。 その後、政子は頼朝の妻になった。おわり現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.23

写真の花は「プリムラ」 阿蘇中岳を中心にした周囲100キロの世界最大のカルデラと、雄大な外輪山からなる阿蘇は、一般の観光客が火口を覗ける世界でも珍しい活火山。中岳第一火口は、エメラルドグリーンの湯だまりを湛え、もくもくと白い噴煙をあげるダイナミックさ、生きている地球を感じられる。 直江兼続 8 謙信が没した時点で、春日山城の金蔵には、二万七千両あまりの遺産があった。兼続はいち早く金蔵を占拠させたので、景勝派は十分な資金があった。 黄金の効果もさることながら、兼続には他にも目算があった。 武田勝頼は、北条氏の勢力拡大を恐れていた。景虎が家督相続すれば、北条氏の勢力圏は越後まで達し、武田領が北と東から圧迫される。勝頼は甲斐、相模、越後の勢力が均衡することを望んでいた。 兼続はそこまで読んでいて、勝頼との講和を推し進めていたのだった。 北条氏が動いたのは九月になってからで、二万の軍勢を出陣させ、越後へ侵攻した。 樺沢城を攻略した北条氏は、ここを本拠地として坂戸城、板木城、浦沢城を攻めたが、落城までは至らなかった。 御館の乱は長期戦になり、年末には樺沢城の北条勢は大雪のために撤退した。 景勝優勢のうちに年が変わり、1579年2月、景勝軍は樺沢城奪還に成功し、北条氏は拠点を失った。 形勢は大きく変わり、景虎側だった諸城の兵は、相次いで景勝の軍門に降った。 3月17日、兼続は景勝に総攻撃を進言した。景勝自身も出陣し、御館を猛攻撃したが、上杉憲当はなおも和解を望み、景虎の一子道満丸をつれて春日山城へ行った。 だが、二人とも斬殺されてしまった。 景虎は敗北を悟り、小田原へ落ち延びようと御館を脱出し、途中で鮫ヶ尾城へ立ち寄った。城主の堀江宗親は、景虎派の武将だったが、景勝派に降っていたため、3月24日、景虎は自害した。 越後最大の危機御館の乱は、兼続の資質を大きく開花させた。 軍師として策謀をめぐらし、戦場では陣頭で果敢に采配を振るって、見事に景勝政権を誕生させた。 景勝は、兼続を全面的に信頼し、政務の全てを託した。その後、兼続は上杉家との絆を一段と深め、景勝と二人三脚で上杉執政の道を歩んでいった。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.02.22

写真の花は「スノーフレーク」 メールが全盛の世の中でも、ビジネスシーンではまだまだ電話がメインです。新入社員が電話に出る時には、会社の代表として応対するのだという意識で、失礼のない言葉遣いで受け答えしなければなりません。 ベルが鳴ったら素早くでて、ハキハキと社名を名乗り、用件は必ずメモすること。そして電話を切る前には復唱すること。電話に出た人の応対の悪さは、その人自身ばかりか、会社のイメージダウンになります。百人一首 40 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり 藤原基俊 あなたが約束してくださった恵みの露のような言葉を命としてきたが、今年の秋もむなしく暮れようとしている。 藤原基俊(ふじわらもととし)は、源俊頼とともに院政期の歌壇を指導した。 わたの原こぎ出でて見れば久方の 雲居にまがふ沖つ白波 法性寺入道 大海原に漕ぎ出して見回すと、白い雲のごとくに、白波が立って見える。 法性寺入道(ほっしょうじにゅうどう)は関白太政大臣、藤原忠道。法性寺に邸があったので、こう呼ばれた。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.21

写真の花は「シナマンサク」 ことわざ「義を見てせざるは勇なきなり」 人として為すべき正しいことと知りながら実行しないのは、勇気がないからである。C・G・ユングの心 17 フロイトの理論は、患者の幼児期における重大な人物によって引き起こされた問題に対する患者の反応を捜し出すことをめざしている。 一方アードラーは、神経症を目的論的に方向付けられたものと見て、治療は、患者の生き方が未来に対するためらいや、日常生活の様々な問題に対する用心深い見方によって左右されることを示す。 患者の人生は、失敗を避けたいという欲求、責任を他者に転嫁したいという欲求によって支配されている。それは彼の生活と思考の、あらゆる面に影響を与える。 人はレースに出なければ、決して敗北することはない。この人生計画を患者に理解させれば、病気が治るだろう。 アードラーは、患者に与える説明の性質が重要だと考えた。もし説明が充分であれば、患者は理解し、病気を捨てさり治療するだろうと考えた。 フロイトとアードラーの相違を研究するためのユングの計画は、それぞれの理論を取り上げ、それが症状を解釈するのに、どのように適用され得るかを示すことだった。 その比較研究は、詳細に実行され、二つの結論が得られた。つまり、この二つの理論は両立不可能であること。そしてどちらも多くの理由で支持されているという結論だった。 ユングが見出したのは、どちらもユングが調べた症例の心理学と精神病理学を説明していた。 ユングの推論が確かであれば、神経症は二つの対立したやり方で、理解されるように思われる。 フロイトもアードラーも、患者の病気の一面しか見ておらず、自分だけが正しく、他の説明は誤りだと言い張っていた。 ユングは、それが正しいとは思わなかった。なぜなら、どちらも神経症の一つの側面を説明する有効な観察を含み、それが両立不可能であっても、両者が排除し合うわけではないからだった。 フロイトもアードラーも、ウィーンで開業していたので、同じ種類の神経症患者を診ていた。 ユングは、二人の研究者はどちらも、自分の特性に照応する神経症の要因を容易に見てとる、両者は問題をそれぞれ別の角度から見ているため、根本的に異なった見解と理論を築き上げているのだ、相違は気質の相違、人間の心性の二つの類型の対立であろうと考えた。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.20

写真の花は「クリスマスローズ」 ことわざ「昨日の綴れ、今日の錦」 つづれはボロのことで、錦は絹の美しい衣裳。人生は浮き沈みが激しいもの、人の運命は定まりなく変わりやすいということ。蛇(くちなわ)の夢 ある女が雲林院の念仏寺の菩提講へ行こうと、大宮大路を北へ向かって行くと、淳和院の近くに石橋があった。 川の辺を、二人の女房が帯を腰の中ほどに結んだ姿で、石橋を渡って歩いていた。 橋の石の下に小さな蛇がとぐろを巻いていた。 後から歩いていた女房が、蛇の上の石を踏むと、石が転がって、蛇は石の下から出て女房の尻にぶら下がった。 女房がどうするか見ていると、まったく気づかない様子で行ってしまった。 また、他にも通行人がいたが、女の尻に蛇がぶら下がっているのを、誰も見つけて教える人はいなかった。 ただ自分にだけ見えるのか、これからどうなるのかと思っていると、やがて雲林院に着いた。 女房が寺の板の間に上ると、尻にぶら下がった蛇も一緒に上り、傍でとぐろを巻いていたが、それを見つけて騒ぐ人は誰もいなかった。 珍しいことだと目を離さずにいると、講が終わって、女房が出て行くと、蛇も一緒に出て行き、都へ向かった。 家に帰り着くと、蛇も一緒に家に入った。 蛇が何かを企んでいたとしても、昼間は何もしないだろうが、夜になったら何かするかもしれない、それを見届け、女房を守ろうと思って、その家を訪ねて泊めてくれないかと頼んだ。 蛇を憑けた女房の女主人らしい老女が、「よろしゅうございましょう」と言った。 喜んで家に入り、板の間に上って見ると、あの女房が居た。蛇は柱の根元にとぐろを巻いていた。 日が暮れて暗くなったので、女主人が灯りをつけた。 みると、女房が横になっていたので、今こそ蛇が女の傍へ行くだろうと見ていたが、傍へは寄らなかった。 このことを話そうかと思ったが、話したら本人のためにも、自分のためにも良くないであろうと、怖ろしい蛇の崇りを想像した。 夜中が過ぎるまで女房を見守っていたが、ついに灯が消えて、自分も眠ってしまった。 夜が明けて、女房に「昨夜は何か夢でも見ましたか」と言うと、女房が、「枕元に人が居ると思って見ると、上半身は人間で、下半身が蛇の女が居て、こう言いました、前世の因縁でこのような蛇の姿に生まれ変わり、重石の下で暮らしているのが辛かった、昨日、重石を取って助けられて嬉しかった、この人の傍に居てお助け申そうと、一緒に行くと、菩提講の庭に参り、ありがたい法をいただき、罪を滅ぼして、もう一度人間に生まれることができるようになったので、ますます嬉しく存じます、そのお礼に、幸せにして差し上げるために、立派な人にめあわせて差し上げるつもりですと言いました」と語るので、びっくりして昨日からのことをすっかり話した。 その後、あの女房は大臣家の家司の妻になって幸せに暮らした。 おわり「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.19

写真の花は「ガーベラ」 私が常々不思議に思っていることは、どうして国会議員、あるいは市議会議員に立候補するのに、国家試験が無いのかということです。官僚だって弁護士だって、美容師や看護士でさえ試験に通らなければなれないのに、議員だけは、親あるいは祖父が政治家だったという理由だけで立候補できるのか、皆さんは不思議だと思いませんか? そしてそういう、日本語もろくに読めない人や、大事な時に泥酔するような人に一票を投じてしまって、後で文句を言う人がいることも不思議です。 アビシニアン猫です 野生で暮らしていた猫が、最初に家畜化されたのは、北アフリカから西アジアにかけてだったらしいね。 エジプトのピラミッドからは、丁寧に埋葬された猫のミイラが何体も発掘されたんだって。王や貴族も猫を大切にしていたんだろうね。 壁画に描かれている猫にそっくりなのが、アビシニアンという猫なんだ。 いかにもクレオパトラに抱かれていた、古代エジプトの聖なる猫の子孫という風貌で、筋肉質で野性的な毛並だね。 本当は聖なる猫の子孫ではなく、それに憧れていた人が作ったんだよ。 アビシニアンの起源になった猫は、19世紀にエチオピアからイギリスに輸入された猫で、そこから改良されて、1926年に純血種と認められたんだって。 アビシニアンは、その体型からバレーキャットと呼ばれ、動きがしなやかで、狩が得意なんだ。 古代エジプトの直系ではなくても、美しく神秘的な姿に見せられる人は多いらしいよ。 私たちブス猫三姉妹は、縄文時代の直系なのかな。人間です。 テレビはつけていても、画面は見ていないという場合がありますよね。 そんな時は、聞き違いも多くなります、たとえば「独創の発毛」が「毒草の発毛」に聞こえたり。 例の変な耳の持ち主、M子の場合は、画面は見ていても文字は読まないらしいので、聞き違いは酷いもので、たとえば、「米粉(こめこ)ドーナッツ」は「米小僧」「ホームセンター・コーナン」は「ホームセンター・コーガン」「第一生命の順風」は「第一生命のジンプン」だと思っていたそうです。 ペ・ヨンジュンは、「いっぱい少し鯛です(いっぱい過したいです)」と言ってるけど、どういう意味?と聞かれても、笑うしかないですね。彼女は耳ばかりではなく、目も変なんですよね。「保険薬局」を「危険薬局」と読んだんです。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.18

写真の花は「ジンチョウゲ」 ことわざ「既往は咎めず」 既に過ぎ去ってしまったことをあれこれ非難してみても仕方がない。それよりもこれから先のことを慎重にせよということ。C・G・ユングの心 16 ユングは自分とフロイトの相違を評価する上で、自分が公平になれるとは思わなかった。どうしても自分の観点が優勢となるだろう。 フロイトの最も古い弟子の一人である、アルフレッド・アードラー博士は、激しい論争の末、結局フロイトとは全面的に決裂した。 両者の心理学的特徴を、客観的に研究することは可能であり、それがユングとフロイトとの不和に光を投じてくれるかもしれないとユングは考えた。 フロイトとアードラーの対立への答えを探している中で、ユングの類型論的研究が始められた。 ここでも二つの全く異なる立場が対立しているのだということを、ユングは知っていた。 アードラーの神経症理論、心的障害における症状の意味は、権力衝動に基づいている。 症状は、家族などに対して権力を得るための手段である。患者は自分自身の安全と優越性を求めるのである。彼の目的は、自分の中に権力の感情を達成することだ、劣等コンプレックスという用語に要約された無能力、あるいは挫折の感情と対比的に。 患者は実際に劣っているかどうかは別として、自分は劣っているのだと思い込んでいる。 そのため、優越した安全な立場に身を置こうとする。その状況では、世界は彼の個人的立場からしか見えない。 同時に、将来自分に降り掛かってくるかもしれない困難が、漠然とした理解をもち、それが克服され、自分の個人的安全が乱されない手段を探す。 アードラーは、自分の心理学的体系を提示し、優れた講義をし、明晰で説得力のある文章を書いた。 一方、神経症を別の角度から見るフロイトは、神経症のあらゆる症状、そしてその人物の性格や気質は、直接的な因果性によって、子供がエディプス・コンプレックスとして知られるものに対処する仕方から派生すると言明した。 抑圧されたエディプスは、異性の親に対する子供の態度と、同性の親を排除したいという欲望からなっている。 フロイトとアードラーの視点は、神経症を理解するための、二つの相対する方法であった。 したがって、その内から一つを選ぶことは治療の方向性を決定することになる。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.17

写真の花は「ミツマタ」 仕事場での人間関係をスムースにするには、まず挨拶は欠かせませんね。朝、出会った人の全てに「お早うございます」。退出時には「お先に失礼します」。先に出る人には「お疲れ様」の一言を。「ご苦労様」は目下の人へのねぎらいの言葉ですから、目上の人に言うのは失礼です。夢1 伴大納言の夢 今は昔、伴大納言善男という男が居た。 善男がまだ佐渡の地方官の従者だった頃、平安京の東寺と西寺を股に架けて立っている夢を見た。 このことを妻に話すと、「あなたの股は、そのうち裂けてしまうでしょう」と言ったので、善男は驚いて、つまらぬことを話してしまったと思った。 主の地方官の家へ行き、その話をすると、この地方官は人相見や夢解きをする人だったので、話を聞いたとたんに善男を座敷に上げ、座布団まで勧めるので、善男は驚いて、妻が言ったように、私の股を裂く気ではないかと思った。 地方官は、「お前、末は高い身分の人になる夢を見たが、それを妻に語ってしまったので、高貴な地位についても、事件が起こって無実の罪を蒙るかもしれない」と言った。 善男はその後、縁があって都へ上り、大納言にまで出世したが、政治的ライバルによって、応天門放火の罪を被せられた。夢2 夢を盗んだ人 備中の国の豪族の息子に、吉備真備(きびのまきび)という若い人が居た。 ある時、夢を見たので夢解きの女の所へ行った。 夢を解いてもらった所へ、国司の長男の太郎が、お供を引き連れてやって来た。太郎は17歳ぐらいで、気性は分からないが見かけの良い男だった。「ここが夢解きの女の家か?」「はい、左様でございます」 真備は隣の部屋に隠れて、太郎の話を聞いていた。 太郎の夢の内容を聞いた夢解きの女は、「素晴しい夢でございますよ、将来は大臣にまでなれるでしょう、おめでとうございます」と言った。 太郎が嬉しそうに帰ってしまうと、真備は女に、「夢は盗ったり売ったりできるそうだな、あの太郎の君の夢を私に盗らせてくれませんか、国司は四年の任期が過ぎれば都へ帰ってしまうが、私はこの地の豪族だから、いつまでも長くここに住み続ける、私の方がお前にとっては大事な者だ」と言った。女は、「仰る通りです、では太郎の君がしたのと同じ事をして、同じ話を少しも異わずに話してください」と言うので、真備はさっき太郎が来た時と同じように家に入り、同じ話をした。 その後真備は、都へ上り勉強して目覚しく上達し、学識のある立派な人になった。 帝は真備の噂を聞いて呼び、まことに才深くあると思い、「唐へ行って、様々なことを勉強して来なさい」と言って、官職を昇級させ、唐へ留学させた。 真備は、後に大臣になった。 夢を盗られた太郎は、大臣どころか官職さえなかった。おわり現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.16

写真の花は「寒緋桜」 ことわざ「樹静かならんと欲すれども風止まず」 親孝行したいが、親はもうこの世に居ないのでできないという嘆き。親孝行したい時には親は無し、さりとて墓に着物は着せられず。直江兼続 7 現在の19歳は少年と呼ばれ、少年法で保護されているが、同じ19歳でも直江兼続は、馳せ参じて来た上杉家の重臣たちに向かって、「皆の者、上杉家の跡目を継ぐのは、景勝さまじゃ」と宣言したのだった。 その2日後、謙信の葬儀を終え、50騎組と30人長柄組を中核とする上田衆と、直江信綱配下の与板衆に命じて、本丸、金蔵、兵器蔵を占拠させ、景勝を本丸へ移した。 更に「毘」の一字旗、乱れ龍の軍旗を翻らせ、上田・与板に城門を固めさせ、景虎が来ても城内に入れるなと命じた。 事実上の宣戦布告に対して、景虎も反撃に出て、景勝の居る中城へ攻め込んだが、鉄砲で撃退した。 勝利した景勝・兼続の主従は、国外への宣伝も忘れず、各方面へ書状を送り、謙信の正統な後継者が景勝であることを報じた。 景虎も、自分が家督相続したと宣言し、互いに反目しながらも、しばらくは春日山城に居た。 5月5日、両者の軍勢が衝突、景虎は身の危険を察知して、妻子とともに春日山城を脱出し、上杉憲当が居る御館へ逃げ込んだ。御館は、春日山城から4キロ地点に位置し、関東管領の憲当が、北条氏康との戦に敗れて、謙信を頼った時、館として築造し、謙信の政庁としても利用されていた。 それをきっかけに、越後に内乱の嵐が吹き荒れた。御館の乱である。 景勝派が明らかに有利だったが、景虎派は北条氏と同盟する武田氏の支援を期待していた。 本格的に戦闘が始まったのは、5月16日だった。景虎は春日山城の城下に火を放ち、3千軒を焼き払った。 翌日、数千の兵で急襲したが、景勝は城外で撃退した。その時点では、まだ前哨戦だった。 北条氏は、武田氏に景虎支援を要請し、武田勝頼は7千の軍勢を率いて信越国境を越え、五月末、春日山城の近くの小出雲に陣取った。 春日山城は動揺し、軍議の席では諸将が懸念の声を上げた。 しかし兼続は動揺の色を見せず、不敵な笑みを浮かべて、一策を論じた。 さらに東上野の上杉領を、武田方に譲り、勝頼の妹である菊姫を、景勝の正室に迎えることを条件で、兼続の目論見通り、6月7日に和睦した。つづく
2009.02.15

写真の花は「デンマークカクタス」 身だしなみ ビジネスの現場は、機能性の良い服が第一で、ファッションショーをする場所ではないので、派手で場違いな服はよろしくないし、逆にだらしない服装も良くない。人間は外見じゃない中身だという人もいるが、世の中は外見で判断される場合が多いし、中身がその通りだというケースも多く、服装がだらしないのは、中身もだらしないのだ。少なくとも周囲の人に不快な思いをさせないように、清潔な服装を心がけたいもの。百人一首 39 高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみ立たずもあらなむ 高い山に桜が咲いたので、近くの山よ桜が見えなくなるので、霞がかからないように。 権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)は、大江匡房。代々学者の家系で、幼い時には神童と言われ、博学多識だった。 うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣 初瀬の観音につれない人が私に靡くように祈ったが、山風よ、あの人がますます攣れなくなるようにとは祈らなかった。 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌会に参加した。 昨日は各地で気温が上昇し、春一番が吹いたそうですが、この辺は寒くて、風速は0。夜になって少しだけ風が強く吹きましたが、30分で止んでしまいました。 今日は朝から生温かく、今年初めて黄蝶が飛んでいるのを二度見ました。梅の花は散り始めました。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.14

写真の花は「河津桜」 環境ホルモンの原因物質は、不明な点が多く、まだほとんど分かっていない。現在、種々の調査、研究が実施されている。特に問題なのは、生物の存続を危うくする生殖や発育への深刻な影響である。C・G・ユングの心 15 ユングとフロイトの見解の違いは、二人が最終的に分かれる以前に明らかになった。1912年、ミュンヘンの精神分裂学会で決定的となった。 彼らの対立は、学問的レベルだけではなく、感情が理論的論争を色付けていた。 ユングはイエスマンではなかった。フロイトの優秀さは認めていたが、彼を権威に祭り上げる気はなかった。 ある時、フロイトはユングと議論した後、なんと気絶した。まったく別の次元の情動がはたらいていたのは明瞭だった。 フロイトはそれ以前にも、ユングと議論した後に気絶したことがあった。それは、どちらもフロイトがユングに対して、言葉の上での些細な勝利をおさめた時のことだった。 フロイトとユングの相違点をめぐって、長期にわたる感情的な論争が巻き起こった。 ユングは酷く苦しんだ。しかし、これほど大きな意見の相違を、ある特定の論点をめぐる個人的な喧嘩とみなしてはならない。自分が渦中に置かれているにもかかわらず、ユング自身はそのことに気づいていた。 知的で誠実な二人の研究者が、重要な事柄において一致できないことは、心理学的に重要な問題だった。これを、ユングが正しいとか、フロイトが正しいといったレベルに引き下げて単純化してはならなかった。 ユングは、論争自体には興味がなかった。彼の関心は、心理学と精神病理学についての知識を拡大することだった。 彼は、フロイトに協力したことで、厳しい批判に曝された。彼らが初めて出会った1907年頃、フロイトは大多数の医者や教養ある一般人から疑問を持って見られていた。 ユングは尻込みはしなかった。彼の目的は自分の仕事の基礎である原理を理解することだった。 彼はフロイトの主張を批判したが、フロイト個人を批判したのではなかった。彼は常に、フロイトの優れた点を評価していた。 ユングは、フロイトとの論争が、両者の前提における本質的相違に基づくものだと考えた。 前提は必要であり、避けることはできなかった。しかし、前提や仮説は、例えば心の本質についての一般論を作り上げ、さらに自分がまだ絶対的真理ではなく、仮説について語っていることを忘れて、それが真実であるかのように主張してしまうという危険がある。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.13

写真の花は「枝垂れ紅梅」 GMOとは、遺伝子組み換え作物のことで、作物のDNAに別の植物や動物の遺伝子を組み込む、バイオテクノロジーにより、人間に都合の良い、自然界には無い性質を付加したもの。なぜそんなことをするようになったかというと、60億人の人間が、50年後には100億人に増えると予想し、世界中が食糧難になると思って、環境ストレスに強い作物が必要だと考えたからだった。しかし、人類があと50年生きられるか、100億人に増えることができるかは、誰も知らない。明恵夢記 2 明恵の夢に登場した善妙という女性は、「華厳宗祖師伝」の「義湘絵」という物語に現れる唐の女性である。 義湘と元暁という二人の僧が、仏教を学ぶために一緒に唐へ行った。 旅の途中で雨に降られ、近くの洞窟で雨宿りをした。 しかし翌朝、ただの洞窟だと思っていた所が、実は墓場で、人骨が散乱していた。 二人はゾッとしたが、外はその日も雨で出発できなかった。 その日もその場所で宿ると、夢に怖ろしい鬼が出て来て、二人を襲おうとした。二人は同時に同じ夢を見たのだった。 元暁は目覚めた時、前夜何も知らずに安心して寝ていた場所も、墓と知ったら鬼に襲われたことは、つまりは一切のことは全て自分の心から生じることで、自分の心以外に師を求めても意味がないことだと悟って、そこから引き返すことにした。 義湘は、元暁の決意を知っても同意するでもなく、反対もせず、志を変えなかったので、二人はそこであっさりと別れて、義湘は一人で唐へ渡ることになった。 義湘は船で唐へ着き、物乞い(托鉢)を始めた。 そのうち、美しい娘に出会うが、それが善妙で、義湘は一目惚れしてしまった。 善妙は巧みな声で、「お坊様、高く欲境を出て、広く法界を利す。清くその功徳を渇仰し奉るに、なお、色欲の執着抑え難し。法師のお顔を拝見しますと、私の心は忽ち動きます。慈悲を垂れて私の妄情を遂げしめ給え」と言った。 義湘はこれに対して、「心堅しこと石の如し。我仏戒を守りて、身命を次にせり。浄法を受けて衆生を利す。色欲不浄の境界久しくこれを捨てたり。汝、我が功徳を信じて長く我を恨むことなかれ」と答えた。 善妙は道心を発し、義湘の功徳を仰ぎ、義湘が衆生のために尽くすのを「影の如く添い奉り」助けると言った。 その後義湘は長安に行き、至相大師の許で仏法の奥儀を窮め、帰国することになった。 そうと知った善妙は、贈り物を調えて港へ駆けつけたが、すでに船は出港していた。 善妙は嘆き悲しみ、贈り物の入った箱を、義湘に届けと祈って海中へ投げ入れた。 その箱は、祈りが通じて義湘の許へ届いたのである。 善妙は嬉しくなり、勇気付けられて、義湘を守る大願を起し、海に飛び込んだ。 すると善妙は龍に変身し、義湘が乗った船を背中に乗せ、無事に海を渡った。 義湘は、自分の教えを広めるため、適当な山寺をと考えた。 しかし其処には反対派の僧が500人も居て、妨害するので困っていると、善妙が一里四方の大岩になって、寺の上を上下に動いたので、僧たちは恐れをなして逃げ去った。 義湘はその山寺で華厳経を起し、浮石大師と呼ばれるようになった。おわり「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.12

写真の花は「アネモネ」 ことわざ「艱難、汝を玉にす」 人は多くの困難や苦労を経験し、克服することで立派な大人に成長できるということ。 ヒマラヤン猫ですにゃん 6 ヒマラヤンは、ペルシャとシャムを交配して作り出された猫なんだって。 ペルシャっていうのは、イギリス原産の猫で、中・大型の長毛で、19世紀に作られたらしいよ。 ペルシャには純血種の猫の3分の2を占めるほどの種類があって、チンチラはスモーク・ペルシャとシルバー・ペルシャの交配なんだよ。 ヒマラヤンはペルシャの体型の特徴を受け継いでいて、鼻ペチャで平べったい顔もペルシャ似だね。 ペルシャの元々の出身地はアフガニスタンで、その後トルコやアルメニア地方に居たアンゴラ猫と交配して、イギリスで改良されたんだって。 ヒマラヤンという名前は、ヒマラヤのウサギに似てるからなんだよ。 ペルシャは、長い被毛の美しさや顔立ちが野生の猫とは掛け離れているので、ヨーロッパでは猫の貴族って呼ばれたんだって。 私たちブス猫三姉妹だって、飼い主にとっては貴族より可愛いんだよ。人間です 人間はこの世で生を全うすることで、罪の償いをしていると思うんです。つまりこの世は牢獄ですね。だから途中で自殺するということは、脱獄と同じなんです。脱獄すれば罪は加算されるのが当然ですから、運良く再び人間として生まれ変わることができたとしても、今よりもっと苦しい辛い刑罰を受けなければなりません。人間に生まれ変わることができなければ、浮遊霊とか悪霊になってしまうんです。私はそう思います。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.11

写真の花は「ヘーベ」 ことわざ「勘定合って銭足りず」 理論と現実が一致しないこと。計算上では利益があるのに、実際は損をすること。 で、自動車会社、前年は何兆円も儲けていたのに、そのお金はどこへ消えてしまったの?C・G・ユングの心 14 フロイトは、象徴という語の意味を、それまでの何世紀前から用いられていた意味と完全に変えてしまった。 精神分析における象徴は、通常の象徴とは正反対のものである。通常の象徴が、その象徴するものとの直接な因果関係を合意していないのに対し、フロイトの象徴は本質的に、定義からして、それが象徴するものによって産出される。 フロイトにとって物質的象徴は、対象物や人物を指していて、このことにおける変更も、物質的象徴の受容によって課される不愉快な結論からの逃避でありうる。 分析を受けている患者は、ある種の結論を避けようとしている、それが不体裁だという理由で。 患者を治療している精神科医も、同じ罠に陥る。このような誤りは避けなければならないというのが、フロイトの主張だ。 一方ユングは、フロイトがこう主張した象徴という語にこめた意味は、現実物の代用品と同じであり、それは象徴の意味を狭め、誤解を生み、その結果人間心理について誤解を招くと述べた。 しかもフロイトは、象徴は内的無意識的思考の歪んだ表現であり、そのために象徴は、それが象徴するものよりも少ない情動的負荷を負って、意識内に現れるものであると考えた。 彼の見解では、象徴は個人の経験や環境から作り出される。これをユングの象徴理解と比べてみると、両者が重要な点で全く異なった考えを持っていたことがわかる。 フロイトの考えを受け入れられなかったために、ユングはフロイトや他の人々から批判された。 ユングが公表した見解に対して、厳しい批判が加えられ、理性的で有意義な発展と思われたものを、フロイトが拒否したことは、ユングにとってショックだったが、その拒否は意外なことではなかった。 ユングがそれを出版すれば、フロイトとの友情を犠牲にするだろうことは、ユングにはあらかじめ分かっていた。 フロイトがユングの考えを受け入れないことは、初めから分かっていたからだ。 ユングによれば、フロイトのエディプス・コンプレックスは、(きんしんそうかん)的傾向を含んでおり、フロイトはこのコンプレックスについての見解を提示する際、その字義通りの解釈に執着し、象徴としての(きんしんそうかん)の霊的な意義を把握することができなかった。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.10

写真の花は「クリスマスローズ」 ことわざ「禍福は糾える縄の如し」 人の世の幸・不幸は互いに撚り合わせた縄のように転変するということ。明恵夢記 1 明恵(みょうえ)は、鎌倉時代の華厳宗高山寺の僧で、生涯不犯の高徳の人だった。 親鸞とは同じ年(1173年)に生まれたが、仏教者としての考え方は異なる立場にあり、対立的であった。 親鸞の教えは現在に至るまで日本中に広まり、多大な影響を及ぼしたが、明恵の教えは、その流れを継いだ者は極めて少なく、宗派として成立しなかった。 仏教史の中では高い位置は与えられなかったが、日本人の生活に結びついて、生きること全般を律する日本人の考え方の根本に大きな影響を与えたのは事実である。 明恵は、十九歳のころから自分が見た夢を記録していた。 明恵の夢には、女性像が登場し、それは次第に発展していった。 その頂点として、1220年の「善妙の夢」が存在する。 善妙は、明恵が編纂した「華厳宗祖師絵伝(高山寺現存)」に登場する女性である。この絵巻物は、新羅の華厳宗の祖師に関する物語で、原文は明恵によって作られた。 明恵の善妙に対する思い入れが深かったことは、承久の乱による戦争未亡人たちの救済のために、明恵が建てた尼寺を、善妙寺と名付けたことでも判る。善妙(善妙)の夢 十蔵房という僧侶が、明恵の許へ一つの香炉を持ってきた。 これは崎山三郎貞重が唐から持って来て、十蔵房に奉ったものだった。 その中には仕切りがあり、中に色々な唐物が入っていて、その中に二匹の亀が交合している形(豊穣を意味する)のものがあったので、明恵はこれらを縁起物だと思った。 五寸ばかりの唐の女人の形の茶碗があった。その女は、唐から渡ってきたことを歎いていると聞いた。 人形に、我が国に来たことを歎いているのかと問うと、頷いた。 悲しむ必要はないと言ったが、拒否して頭を振った。 その後、人形を取り出して見れば、肩を震わせ涙を流して泣いていた。 明恵は、自分はただの僧侶ではなく、この国では大聖人と人々から崇められているのだから、嘆くことはないと言うと、人形はそれを聞いて嬉しく思ったらしく、それならお愛しみくださいと答えた。 明恵が了承すると、人形はたちまち生身の女になった。 翌日、他所で仏事があるので、仏と縁を結ぶために、一緒に連れて行くと言った。 其処へ行くと、香炉をくれた十蔵房が居て、その女は蛇と通じたと言った。 明恵は、そうではなく、この女自身が蛇なのだと言うと、十蔵房は、女は蛇と人を兼ねていると言う。 明恵は目覚めて、この女は「華厳宗祖師絵伝」に登場する善妙だと考えた。 善妙は龍人でもあり、蛇身でもある。茶碗になっていたのは石身であると思った。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.09

写真の花は「白い寒椿」 お風呂に塩を入れたり、塩を溶かしたお湯で体を洗うと、血行が良くなり、芯から温まります。直江兼続 6 上杉謙信は家督相続について遺言しておらず、誰を後継者にしようと考えていたのか、誰も知らなかった。 景勝を越後の国主に、景虎を関東管領の座につけるつもりだったという説もあった。いずれにせよ、政繁、景国は後継者から外された。 有力候補は、景勝24歳と、景虎25歳の二人に絞られた。 兼続は、景勝を当主にしたいと発言した。景勝は謙信公の血を引いていたし、筋が通っていた。政繁が跡を継いだのでは、上杉家は北条家に乗っ取られてしまうかもしれないし、他国の者に名誉ある上杉家当主の座を譲るわけには行かないと主張した。 兼続の発言に、本庄繁長や、直江信綱は即座に賛成した。しかし彼らの胸中の懸念は拭いきれないらしく、「異存はござらぬが、政繁様に心を寄せている重臣も居りますし、ご実家の小田原に支援を仰がれるにちがいございますまい」「いかにも、そればかりか、北条氏は同盟を結んでいる甲州の武田氏に援助を求めるかと・・」 小田原の北条氏政は、越後との同盟が破綻した後、妹を甲斐国の武田勝頼に嫁がせていた。「北条・武田の連合軍を相手にするとなると、厳しい戦いは避けられませぬぞ」「一戦を覚悟できないとは、憶されたか、謙信公は連合軍といえども、一歩も譲ることはござらなんだ、まさか武門の名家たる上杉家が、北条の風下に立っても良いと言うのではござるまいな」 兼続には遠慮がなかった。年長者の宿老に対しても堂々と自論を主張した。「臆してなどおりませぬ、貴公の申すこと相分かった、それで、勝景様を御当主と仰ぐには、どうすればと考えておるのじゃ?」「先手必勝でござる」「具体的には?」「お墨付きを得るべく、御枕元に直江景綱の奥方をお付け申した、その上で・・」と、兼続はいくつかの策を口にした。 その四日目、謙信は意識不明のまま危篤状態に陥った。 謙信が臥せっている部屋には、直江景綱の未亡人の他は、誰もいなかった。 入り口に控えていた兼続は、未亡人に合図を送った。彼女はかねて指示されていた通り、謙信の耳元で囁いた。「御跡目相続は、いずれでございますか、景勝様でございましょうか」 分かったのかどうか、謙信が小さくうなずいたように見えた。そして絶命した。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.02.08

写真の花は「何の花?」 ユキヤナギのように見えますが、何でしょう? クローン、クローニングは、生殖細胞を操作して、ある個体のコピーを誕生させる技術です。生理学では「遺伝的に統一の個体や細胞」と定義され、その個体と同じ遺伝子を持った個体を人工的に作ることです。動物のクローンは、受精卵クローンと体細胞クローンの二種類があります。今では、人間のクローンも作れる技術があります。百人一首 38 夕されば門田の稲葉おとづれて 芦のまろやに秋風ぞ吹く 大納言経信 夕方になると、門の前の田んぼの稲が、そよそよと音を立てて、茅葺の小屋に秋風が吹き渡る。 大納言経信(だいなごんつねのぶ)は、源経信。和歌、漢詩、管弦などに秀でていて、多くの歌会に参加した。 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 祐子内親王家紀伊 高名な高師の浜の波を掛けないようにしましょう、波に袖が濡れると困るから。気が多いあなたの言葉も心に掛けないようにしましょう、涙で袖が濡れることになるから。 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)は、後朱雀天皇の皇女祐子に仕えた女房。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.07

写真の花は「梅?」 ことわざ「金持ち喧嘩せず」 喧嘩や戦争をすると、損はしても儲かることはない。有利な立場に居る者、金持ちや利口な人間はゆったり構えて、争いごとには加わらないし、小さいことにはこだわらず、つまらないことで怒らない、余計なことに手を出さない。C・G・ユングの心 13 フロイトは自分の体系が明確で一義的であることを望んでいたが、ユングはそうした制限を嫌っていた。 心についての知識は限られていて、さらに研究を進めるのは当然であり、その研究は新しい考えと、変化に対して開かれている時にのみ可能だったのだ。 フロイトの欲求は前進を妨害すものだった。先入観は発展を阻むものだ。 ユングは拡張に賛成であり、どのような制限も課せるべきではないと考えていた。 結局、二人の決裂の原因はフロイト独自の仕事が拡張され得るということを、ユングが納得しなかったことにあった。 ユングには自分の考えがあり、新しい科学の形式が、永遠不変であるかのように定められてしまうことは許せなかったのだ。 ユングが後に主張したことの一つは、象徴という言葉のより広い用法だった。 象徴とは、比較的知られていないにもかかわらず、その存在が認められている、あるいは存在が仮定されている事実の可能な限り最上の記述、ないし表現であった。 フロイトの場合は、物質的意義と呼ばれるものを象徴に与えた。あたかもそれが実際の対象、もしくは人物を指しているかのように扱い、それによって全ての非物質、抽象的な観念も締め出したのだった。 フロイトは象徴という言葉を記号的に使用していた。意識的には認められていないとしても、極めてよく知られているものの記号なのであった。 ユングの概念は、これとは全く異なっていた。象徴は特定されない、あるいは決定されていないもの、存在は知られていても、正確な知識はないものを示唆していた。 象徴という言葉の他の用法も、ユングには許し難い盲目と思えた。 それらは正確には定義できないが、その効果を通して観察し得るものを見る事の拒否なのである。 象徴は意味と含蓄の複雑な陰影を含み、強烈な情動を喚起して、行動を引き起こす。 ユングはフロイトの見解について、「無意識的背景への手がかりを与えてくれるような意識的内容を、フロイトは象徴と呼んでいる、しかしこれは不正確である」と延べている。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.06

写真の花は「ハナカンザシ」 地球温暖化の原因は、産業革命にあると私は考える。蒸気機関車などの発明により、人類は大量に化石燃料をエネルギーとしてきた。 皮肉にも、人類の目覚しい発展と経済活動が、地球温暖化をもたらしたのだ。女好きな僧 「比叡の山の僧、虚空蔵の助けによりて悟りを得たる語」 今は昔、比叡の山に若い僧がいた。 出家してから学問の志はあったが、遊び戯れることにばかり身を入れて、さっぱり勉強しなかった。 僅かに法華経だけは読めるようになっていた。学問の志はあったので、常に嵐山の法輪寺へ詣でて、虚空蔵菩薩に祈っていた。 しかし身を入れて勉強しなかったので、何事にも無知な僧だった。 自分が無知なことを嘆いた僧は、法輪寺に詣でて、顔見知りの僧たちと語り合う間に、夕方のなったので、急いで帰った。 西の京で日が暮れた。知り合いを訪ねると、その家の主人は田舎へ行っていた。 留守番の下女と親しく話していると、夜も更けて、僧が寝ると、下女は何も言わずに傍に寝た。僧は嬉しくなって添い寝した。 女は、「しばらくこのまま、こうしていて」と言うので、手を繋いだだけで、話しているうちに寝入ってしまった。 目が覚めて、「ああ、良く寝てしまった、思っていることも話せなかった」と、起き上がって見回すと、薄が生茂った野中で、ただ一人で寝ていた。 びっくり仰天して恐怖に震え、起き上がってみると、脱ぎ散らかした着物が傍にあった。 着物をかき集めて、茫然として良く見回すと、嵯峨野の東の野中に寝ていたことが分かった。有明の月が明るい三月の事で、寒くて体がぶるぶる震えた。 ここからだと法輪寺が近いので、あそこで朝を待とうと思って走って行った。 桂川を渡る時は、腰まで水に浸かって、震えながら法輪寺までたどり着き、御堂に入って御前に臥して言った。「お助けください」 その内、疲れていたので眠ってしまった。 夢に頭が青々した美しい小僧が現れて、僧の傍に来て言った。「あなたが今夜騙されたのは、狐狸の類ではありません、私が謀ったことです、あなたは頭は良いが、遊んでばっかりで学問をしない、それなのに、常に我が許に来て、才をくれ、悟りを得させろと責めるから、私はどうすべきかと考えた、あなたは女が好きだから、それにつけて悟りを得ることを勧めようと思って、謀ったのです、急いで本山へ帰り、仏法を学びなさい、ゆめゆめ怠ってはならぬ」 夢が覚めた。僧は、これは虚空蔵菩薩が私を助けるために、女に化けて謀り給うたと思うと、恥かしくて悲しいこと限りなし。 涙を流して悔い悲しみ、夜が明けると山へ帰り、一心に学問をして、立派な学生になり、やがて遣唐使にまでなった。おわり
2009.02.05

写真の花は「マーガレット」 ことわざ「火事の後の火の用心」 日本の政府や警察のように、何かが起きた後になって、その対策を考えること。何事も時機に間に合わなければ、何の役にも立たないこと。 スコティシュ・フォールド猫ですにゃん 5 スコティッシュ・フォールドっていう猫は、スコットランドの農場にいた猫の突然変異なんだって。 耳が折れた猫を発見したのは、農場の羊飼いで、こんな形の耳をした猫を見たのは初めてだったので、さっそく繁殖を始めたんだよ。 ちなみに私たちブス猫三姉妹のうち、グリちゃんの尻尾はぐるぐる巻きだけど、これは突然変異とは言わないのかな。 耳が折れた仔猫が生まれたのは、何か種として生き残るための理由があったのかなあ? 猫の体に変化が現れた場合は、それが生存に不利になることが多くて、スコティッシュ・フォールドも耳にダニがわきやすいらしいよ。 飼い主さんは、常に気をつけて耳掃除して上げないとだめだね。家の飼い主も、時々耳掃除してくれるよ。 耳が折れてるのが特徴だけど、生まれたばかりの時には、普通に立ってるんだって。三ヶ月くらいになると折れるんだけど、全ての猫の耳が折れるわけではなく、7割は折れないんだって。 アメリカン・カールは、反対に耳が後へ曲がるんだって。やはり突然変異だよ。人間です 私は、他人を批判したり、自分のことは棚に上げて他人をバカにしたり、悪口を言う人間は、言われている人以上のお馬鹿だと思っているのですが、そうすると、テレビでしゃべっている人はみんな馬鹿だということになってしまうんですよね。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.04

写真の花は「紅梅」 ダイオキシンの毒性は、青酸カリの2万倍以上。ダイオキシンとは、PCDDとPCDFの総称で、強い急性毒性の他発がん性や催奇形性も疑われている。物を燃やした時など、化学物質の不純物として環境に排出される。C・G・ユングの心 12 フロイトの、精神に対する態度は、ユングにとっては大いに疑問に思えた。フロイトは、何に関しても、すぐに抑圧された性欲であると言った。直接的に解釈できないものは、なんでも精神性欲だと言った。 ユングとフロイトが決別するかなり以前から、このように分裂の兆しはあった。 ユングが受けた印象では、フロイトは心理学思想の完璧な体系を構築し、彼独自の業績からの逸脱に対する防御壁としての権威的な知識体系を作り出そうとしているようだった。 世界は、フロイトの要求を受け入れる気などまったくなかった。フロイトは個人的経験から、それをいやというほど思い知らされていた。 医学界では、確立された治療法を変えることには強い抵抗があった。とりわけ精神病の治療では、それが顕著だった。 精神病は、危険な脅威的な何かがあるかのように、医者の間でも、一般からも恐れられてきた。 情動が喚起される時、常識などなんの役にも立たない。フロイトは自分の仕事を、偏見的敵対者から容易に崩されない基礎の上に確立しようと決心したのだった。 彼は長いこと孤独な研究を重ね、強力と忠誠を期待できる人たちの小さなサークルを結成した。そこでは彼は尊敬される指導者だった。 彼は、自分の意見に異議がとなえられると苛立った。誰の目にも、批判的なコメントは歓迎されないことが、すぐに分かった。 彼はユングに、「親愛なるユング、決して性理論を捨てないと約束してください、それは一番本質的なことです、私たちはそれを一つの教義、ゆるぎない砦にしなければなりません」と言った。 ユングは当惑して、「砦ですって、いったい何に対しての砦なんですか?」と聞き返した。フロイトはしばらく考えて、「神秘主義の」と付け加えた。 教義と砦、その言葉はユングを驚かせた。教義、すなわち疑問の余地を容れない信仰告白が打ち立てられるのは、有無を言わさず、一切の疑いを弾圧する時だけだからである。 ユングは、自分がそのような態度は決して受け入れることができないことを知っていた。 神秘主義によって意味していると思われることは、実質的には哲学や宗教が、心について考えてきた事柄だった。つづく今朝は車の上に、うっすらと浅間の灰が積もっていました。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.02.03

写真の花は「アネモネ」 菜箸やおたまは、筒状のケースにまとめて立てて、レンジ周りに置くと使いやすい。 シンク下の鍋などは、100円ショップで売っている書類ケースを使って、縦に収納するとシンク下のスペースを有効活用できる。とうめい人間 2 透明人間になった侍は、他の籠っている人の食べ物や、托鉢で寄進されたものを取って食べていたが、誰にも気づかれなかった。 そうして2×7=14日間過ぎた夜寝ると、暁の頃、夢に貴気な僧が出て来て、「そなた、明日の朝早くここから出て、最初に会う者の言うことに従いなさい」と言った。 夜明けとともに出かけると、門の所に牛飼童(童といっても子供ではなく、身分が低く一人前に扱われていない、冠もない男)の怖ろしい男が、大きな牛を引いているのに会った。 その童に、「おい、俺について来い」と言われて、侍は自分の姿が見えるのかなと思って、喜んで童の後について行った。 西に向かって行くと、大きな門があった。 門は閉じていて開かないので、童は牛を門に繋いで、扉の小さな隙間から入り、侍に「お前も入れ」と言った。 その隙間は、とても人が通れる大きさではなかった。「どうやってこんなところから入るんだ」「いいから入れ」と言いながら、童が侍の手をつかんで引っぱると、するっと入ってしまった。 家は大きく、人が大勢居た。 童が侍を連れて板の間に上がったが、誰も彼らに気づかなかった。童も侍と同じ透明人間だったのだ。 奥へ入ってみると、姫君が病気で寝ていて、足元と枕元に女房たちが居並んでいた。 童は侍をそこに連れて行き、病人を苦しめる呪物の小槌を持たせ、姫君の傍に座らせ、頭や腰を打てと言った。 侍が小槌で頭を打つと、姫君の悶え苦しむこと限りなかった。 父や母が、娘の命はもうお終いかと泣き合っていた。 身分の高い修験者が来て、病人の近くで般若心経を読んで祈った。 侍は感動して、身の毛が逆立つような感じがした。 牛飼童は、その尊い僧を見ると、逃げ出してしまった。 僧が不動明王の呪文を読み、患者を加持する時、侍の着物に火がついてしまった。侍は驚いて大声を挙げた。 その時、侍は顕れた。 家の人々は、賤し気な侍が姫君の傍に居るので、捕らえて引き出し、「一体誰か」と問うと、侍は事の次第を話した。 人々はそんな不思議なことがあるのかと驚いた。 侍の姿が顕れた時、姫君の病気が癒えてしまった。 皆が喜ぶこと限りなし。 僧は、「この男に罪があるとは判断できない、六角堂の観音様のご利益を蒙る者でしょう、しかれば即刻許すべきです」と言って逃がした。 侍が家に帰って、家族にこの話をすると、妻子は疑いながらも喜び合った。 牛飼童は疫病神の眷属で、姫君に憑いて苦しめていたのだった。おわりあちこちで火山が噴火すると、また小松左京の「日本沈没」を思い出してしまいます。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.02.02

写真の花は「梅」 ことわざ「駆け馬に鞭」 勢いづいているものに、さらに力を加えていっそう勢いづかせること。火に油をそそぐこと。直江兼続 5 上杉家の家老として、直江兼続は万事を一人で経営していた。まるで独裁者のようだが、混乱期にはそうした強力なリーダーシップが絶対に必要だった。 会津から米沢へ、家臣五千家族、3万人が移住した。混乱する筈であるが、兼続の指示で大移動は滞りなく成し遂げられた。誰も兼続に不満を持つ者はいなかった。 万事は痒いところに手が届くように行われたので、山城武勇の誉れであり、学問あるゆえ、諸事順路にて諸人悦ぶなりと言われた。万事がスピーディーに、公明正大に行われた。現在に生まれ変わって来てもらいたい。 兼続の行いの根底には、謙信から受け継いだ「愛」があった。減封された時にも、家臣の解雇をしなかった。家中に残りたいと望む者は全員受け入れた。また、自分の給料の大部分を家臣に与えた。現在の経営者とは大違いだ。 謙信から受け継いだもう一つ「義」の心を失うこともなかった。景勝が上杉家の当主になれたのも、兼続の働きがあったからに他ならない。しかし兼続は、生涯補佐役に徹し、上杉家への絶対的な忠誠を捧げ尽くした。 誇りと品格を失わなかったことは言うまでもなく、愛と義を貫き通したその清冽な生き方は、謀反や反逆が珍しくなかった戦国の乱世で、一際燦然と輝きを放っている。 1578年旧暦3月9日、雪国の人々が待ちに待った春が訪れ、桜の花が咲き始めた春日山城、しかし城内は重苦しい空気に包まれていた。 城主上杉謙信が倒れ、意識不明の重態になっていた。 報せを聞いた直江兼続(旧姓樋口)は、即座に動き、直江景綱の未亡人に、付きっきりの看病を命じ、彼女の婿である信綱や本庄繁長など数人を密かに呼び集めた。 謙信が跡継ぎについて遺言していなかったので、厄介なことになると考えたのだった。 謙信は妻を持たず、生涯不犯だったため、当然実子が無く、景勝の他に三人の養子がいたのだった。 一人は上条政繁で、能登国の畠山氏の出身。 一人は山浦景国、信濃から越後へ亡命した村上義清の息子。 一人は上杉景虎、相模国の北条氏の息子。人質として春日山城に入った。謙信はこれを養子にして、自分の幼名景虎を名乗らせ、景勝の姉妹と結婚させ、二の丸に住まわせた。北条氏との同盟は破綻したが、景虎はそのまま春日山に留めた。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.02.01
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