全25件 (25件中 1-25件目)
1
夏目漱石と幽体離脱 漱石は1867年、東京の新宿区喜久井町に生まれ、東京帝国大学卒業後、英語教師となり、イギリスに留学し、帰国後は朝日新聞社に入社、「三四郎」や「それから」などを連載した。 彼の「思い出すこと」という随筆集に、「余は一度死んだ」という奇妙な体験談が書かれている。 1910年、43歳だった漱石は、胃潰瘍の療養のために静岡県の修善寺温泉で湯治をしていた。 だが病状は悪化し、滞在先の菊屋旅館で吐血し、意識不明の重態に陥った。 その時、不可解な体験をしたのだった。 吐血から数日後、病状は安定していた。「床の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は己の宿る身体と共に、蒲団から浮き上がった」 漱石は元々、生死の境で起きる現象や、死後の世界のことに興味を持っていて、その種の本を海外から取り寄せて読んでいた。「霊妙なる心力」、「死後の生」などを読み耽っていた彼にとって、幽体離脱は、体験したいと望んでいた不思議な現象であった。 漱石のこの体験を科学的、医学的に解明しようとした研究者は少なくない。 幽体離脱は、臨死体験時の人間が陥る恍惚状態の一つであるという説がある。 しかし、漱石の記述には、手がかりとなる記録はなく、科学的な根拠は記されていない。 私が胃潰瘍で入院していた時、担当の医師が夏目漱石も胃潰瘍だったと言っていたが、100年前の大文豪漱石が、私と同じ病気で死去したことと、私と同じ心理学的ことに興味があったことは、なんとなく嬉しい。
2009.05.29
猫ですにゃん 20 盲導犬とか救助犬とか、犬は色々な分野で働いてるのに、「ウチのブス猫三姉妹はグータラ寝てばっかり」なんて言われちゃってるけど、猫にだって能力はあるんだよ。 昔は船で働いてたり、ほら、経典をネズミから守ったのだって猫だったでしょ。船には必ず猫が乗ってたんだよ。 それ以外にも、図書館や穀物庫、工場なんかでも活躍してたんだ。かつて日本では養蚕が盛んに行われてたでしょ。養蚕農家では、お蚕様をネズミから守るために、猫を大切にしてたんだよ。 ヨーロッパでも、ウィスキー・キャットという猫が、酒造場で働いてたんだ。大麦を狙うネズミを退治してたんだよ。その中には、正式に社員として登録されていた猫もいたんだって。 それから、キャビアの密輸を防止するために、魚探知猫もいるんだ。 2500年前、ペルシャとエジプトが戦争した時には、ペルシャ軍の兵士は猫を抱いて進軍したんだよ。するとエジプト軍は、なす術もなく降伏したんだ。どうしてかって、エジプトでは猫は神様だったからだよ。猫を抱いた兵士を攻撃するわけにはいかなかったんだ。 猫が大好きなマタタビは、どうしてマタタビって呼ばれるかというと、旅の途中で疲れた時、この実を食べると元気を回復して、また旅が出来るからなのです。実際にはそれほどの薬効はなくて、精神安定、熟睡、保温などに用いられていました。蔓性の樹木で、花期には葉に白い斑点がありますが、後になくなります。 昔は薪を使っていましたが、ある一つの束に飼い猫のミー公がスリスリしてるので、不思議に思って見ると、マタタビの木だったと、私の母が言っていました。。
2009.05.27
樹の話 3 今は昔、天王寺に道公という名の僧が居た。長年法華経を読誦し、仏道の修行に励み、常に熊野に籠って夏安居していた。 熊野からの帰り道、日が暮れたのでそこの大きな樹の下で野宿することにした。 夜中になって真っ暗になると、大勢の人が馬に乗って来る音がした。何者だろうと思っていると、樹の下に来て、その中の一人が、「樹の下の翁はいるか?」と言った。 すると、「はい、おります」と答える声がした。道公は驚いて、自分の他にも誰か居るのだろうかと思ったが、真っ暗で何も見えなかった。 馬に乗った人は、「罷り出て供をいたせ」と言った。 すると翁が、「今夜はお供はできません、駄馬が足を傷めまして乗れません、明日駄馬の足が治るか、それとも他の馬を探すことができましたら、参ります、もう年老いて歩くことはできません」と言った。 馬に乗った人々は、それを聞いて帰ったようだった。 夜が明けたので、昨夜の翁はどこに居るのだろうかと、樹の周りを探したが、誰もいなかった。ただ、男根の形をした木彫りの古びた道祖神だけがあった。 道祖神の前には絵馬があり、その馬の足が折れていた。道公はそれを見て、翁が言っていた駄馬とはこのことかと思い、絵馬の足の折れたのを繕って直した。 道公は、この事の結果を確かめたいと思って、急ぐ用事もないし、今夜もここで野宿することにした。 夜中になると、昨夜と同じように馬に乗った大勢の人の足音がした。 翁は馬に跨って供に立った。 夜明けに翁が帰ってきた。年老いた翁だった。 翁は、道公を拝みながら、「聖人さまが、駄馬の足を治療してくださったので、無事に勤めができました、このご恩にどうお礼を申し上げましょう、私はこの樹の下の道祖神でございます。あの馬に乗った多くの者は疫病神でございます。国内を巡る時には、いつも私を先導役にいたします。言うことを聞かないと、鞭で叩かれ、罵られます。それはこの下劣な姿形のためなのです。この姿を捨てて、功徳の身を得たいと望んでいます。聖人さま、どうか私の願いをお聞き届けくださいまし」と言った。 道公は、「あなたが仰ることは分かりますが、私では力が及びません」と言った。「聖人さま、あと三日、この樹の下にお留まりくださって、法華経を唱えてくださいまし。法華経の力で私は苦の身を捨てて、楽の所へ生まれ変われます」と言って、翁は消えてしまった。 道公は、道祖神の頼みを聞き入れて、三日三晩真心込めて法華経を唱え続けた。 四日目に翁が来て、道公に礼をし、「聖人さまの御慈悲で貴き身を得られました。今後は観音の従者となって、菩薩の位に昇ろうと存じます。このことが信じられなかったら、草木の枝で小さな舟を作って、男根の古い木彫りの道祖神を乗せて海に浮かべてみてください」と言った。 道公が、言われた通りにしてみると、舟は静かな海を、南(極楽)へ向かって走り去った。 道公は感動して見送った。 その土地に古老が居て、その人は、その樹の下の道祖神が、菩薩の形になって、光り輝き、音楽とともに南を指して飛び昇った夢を見た。
2009.05.26
その後 2 徳川家康が天下をとる手助けをしたのが、伊賀忍者の服部半蔵とその配下の人々だった。 服部一族は、甲斐の国の忍者と凄まじい謀略戦を展開した。本能寺の変の後、家康が伊賀越えをして難を逃れた時にも、半蔵たち忍者の働きで何度も危機を脱したのだった。 半蔵は忍者の中では知名度が高く、づっと家康と共にあって働いていた。 しかし、戦国時代が終わって、徳川の平和な世の中になった時、忍者たちはどうなったのだろう? 戦乱の世では目覚しい働きをしていた忍者達、平和な江戸時代は不遇だった。 半蔵は、江戸城に半蔵門という名を残したが、それも江戸城の裏門である。彼は槍の使い手だったので、武将として将来は大名にと希望していたかもしれないが、徳川幕府成立後に彼が得た地位は、一代限りの旗本で、江戸城の警備という仕事だった。 服部家は半蔵が55歳で没した後、その子正就の代で断絶した。 他の忍者達も、最高の地位でも同心にしかなれず、しかも伊賀同心は、住まいを半蔵門前から、四谷に移されてしまった。 彼らの仕事も、大奥の女たちが雪合戦する時に、二手に分かれた女たちの境に立たされるなど、冷遇された。 その後のお庭番というのは、伊賀忍者の子孫のように思われているが、実はまったく別系統の組織だった。
2009.05.24
伏見桃山城伏見城 豊臣秀吉が思い切り金をかけて築城した豪華絢爛の伏見城は、まさに天下人が住む城だったという。 家康も天下を取ってから、この城にこだわり、徳川幕府の開幕当時はここで政務を執っていたらしい。 現在聳えている城は、その伏見城ではなく、ある企業が遊園地の一角に建てた模擬の天守閣で、名を伏見桃山城という。 秀吉は朝鮮出兵の後、明国から講和使節団がやってくることになっていたので、大国の使節に自分の権勢を誇りたいばかりに、とてつもない大城郭を造りたいと願ったのだった。 こうして指月城が完成したが、完成後すぐに大地震に襲われ、城はあっけなく倒壊してしまった。 しかし秀吉は懲りることなく、すぐに第二の城郭建築に取り掛かった。 指月城より東北の地盤が強固な所を選び、再び大城郭の造営を始めた。 昼夜の突貫工事で、完成した伏見城は、五層の天守閣を中心とした壮麗な城で、晴れた日は大阪城の天守閣と通信ができるほど、ハイテク技術を駆使した城であった。 完成後すぐ、秀吉は病の倒れ、幼い秀頼の行く末を案じながらあの世へ旅立ってしまった。 その後の関が原の合戦で、伏見城は焼け落ちてしまった。 しかし伏見城は、天下人の住むところというイメージが確立されていた。 そこで家康は早速伏見城を再建したのだった。 三代将軍家光は、この城で将軍宣下を受けた。 ところが、家康の死後、徳川家は伏見城を跡形もなく取り壊してしまったのだ。 理由は、伏見城には淀君の怨念がこもっているとか、徳川が豊臣の城に入っていたのでは、おちおち眠ることもできまいとか、城下の噂話に花が咲いてしまい、それが意外と当たっていたりして・・・。 その城址には、桃の木が植えられ、春になると山一帯が桃色の花に包まれた。 桃山と呼ばれるようになったのは、そのため。
2009.05.23
樹の話 2 その時、四天王が天の薄絹で太子(釈迦)をとり上げ、宝の机に置いた。 帝釈は天蓋を取り、梵王は白い払子を取って左右に控えた。 難陀、跋難陀(仏法守護の竜王)は、虚空の中で清浄の水を出して太子の体に浴びせた。 太子の体は金色で、三十二の偉大な特徴を具えていた。大いなる光を放ち、全宇宙を照らした。 天竜は虚空で天の音楽を奏で、天人は乱れ落ちる雨のような数だった。 マハーマーナという大臣が、大王の御前に来て、太子が生まれたこと、その稀有の様子を報告した。 大王は驚いて、ルンビニーの庭園へ駆けつけた。 庭園にいた一人の女が、大王が来たのを見つけて、庭園に入って太子を抱いて、大王の御許へ行き、「太子、今父王を敬礼し給えり」と言った。 王は、「先ず我が師である婆羅門に見ていただいてから、私に会わせなさい」と言った。 女は、太子を抱いて婆羅門の許へ行った。 婆羅門は太子を見て、大王に、「この太子は必ず転輪聖王となるでしょう」と言った。 大王は、太子を連れてカビラ城に入った。 一人の天神があって、名を増長天(四天王の一)という。その社には諸々の釈種が常に詣で礼拝し、願をかけていた。 大王は、太子を連れてその社に詣で、「我今、太子にこの天神を拝ませた」と言った。 太子の乳母が、太子を抱いて天神の前に詣でると、無畏という女の天神が降りて、太子を迎え、手を合わせて敬い、足元にひれ伏し五体頭地(最高の敬礼)をして、乳母に、「この太子は人に優れている、ゆめゆめ軽々しく扱うなかれ、また太子に私を拝ませてはいけない、私が太子を拝みます」と言った。 その後、大王と太子は城に帰った。 摩耶夫人は、太子が生まれて七日目に亡くなった。大王はじめ国を挙げて嘆き悲しんだ。 太子が幼い間、誰に育てさせようかと大王は悩んだ。 摩耶夫人の父、善覚長者には八人の姫がいて、末の第八姫は、名をマハーパジャーパディといい、その姫に太子を育てさせることにした。 太子の名は、シッダールタとなり、亡くなった摩耶夫人は、須弥山の頂上にある帝釈天の住処に生まれ変わった。
2009.05.22

写真の花は「ヒレアザミ」 髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま(晶子)「こがねひぐるま」はひまわりのこと。「かくやく」は映え輝くさま 猫ですにゃん 19 招き猫のルーツといえば、やはり世田谷の豪徳寺だよね。 江戸時代の初め、豪徳寺はまだ小さくて貧しいお寺だったんだけど、和尚さんが猫を可愛がっていて、ある日、食べさせてやっている恩返しをしなさいと、猫に冗談を言ったんだって。ウチの飼い主も時々言うけどね。 それからしばらくして、一人の立派な武士が豪徳寺を訪ねてきました。「門前で猫が手招きしたから、寺で少し休ませてもらおうと思って入ってきた」 和尚さんが説法をしていると、急に空模様があやしくなり、雷が鳴ってひどい夕立になったんだって。「お陰で雨に濡れずに済み、おまけにありがたい説法を聞くことができた」と、武士はお礼を言って帰っていきました。 その武士は、彦根藩主の伊井直孝だったんだ。後日、伊井家から多額の寄進があり、豪徳寺は井伊家の菩提寺になって、立派なお寺になったんだ。 猫が手招きしたのはね、気圧が変化すると、猫の髭や毛がしっとりしてしまうから、顔を洗うんだけど、そのポーズが、武士には手招きに見えたんだよ。別に和尚さんに恩返しするつもりじゃなかったけど、結果的にそうなったんだ。 滝の城址の城山神社 先日の遠足は、埼玉と東京の境を流れる柳瀬川の辺りを散策し、滝の城址へ行きました。 滝の城とはいえ、現在では滝はありません。東所沢という新しい街が出来た時に、枯れてしまったそうです。 滝の城は大石氏が築城し、後に北条氏の支城となったこと以外はほとんど何も分からないそうです。というのは古文書が何も残っていないからです。滝の城保存会の会長さんのお話では、この辺りは昔はお茶の生産地で、会長さんも学校から帰って来ると稼業を手伝っていましたが、その時、何かに紙を大量に使っていて、その辺の紙という紙を手当たり次第に使ったそうです。今考えると、あれは古文書だったのではなきか。勿体ないことをしたとのことでした。知らないということは恐ろしいことですね。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.05.20

写真の花は「八重咲きドクダミ」 名言名句「あなたがあなた自身を信じなくては輝けるわけがありませんよ(ひろはまかずとし・詩人)」樹の話 1 今は昔、釈迦族の近隣コーリ族の王善覚長者と、その娘摩耶は、春の初めの八日に、ネパール南部タライにあったルンビニーという善覚長者が作った庭園へ行った。 お供には、大臣や公卿、百官など皆々従った。 摩耶は、その庭園に着くと、美しく飾られた車からおりて、無憂樹(むうじゅ)の下に行った。 その樹は、上から下まで真っ直ぐで、葉は茂り、枝は垂れ、半分は緑で、半分は青く、孔雀の頸のように光り輝いていた。 摩耶が、無憂樹の前に立って右手でその枝を取ろうとした時、右の脇から太子(釈迦)が生まれ、大いなる光を放った。 その時に、諸々の天人、魔、梵、沙門、婆羅門、皆ことごとく無憂樹の下に満ち満ちた。 太子が生まれると、天人が手を掛けて四方に七歩を歩かせた。足を挙げると、蓮華の花が生じて足を受けた。 南に七歩行って、無量の衆生のために上福田となることを示し、西に七歩行って、生を尽くして永く老死を断つ最後の身を示し、北に七歩行って、諸々の生死を渡ることを示し、東に七歩行って、衆生を導く頭となることを示した。 四つの維に七歩行って、種々の煩悩を断じて仏と成ることを示し、上に七歩行って、不浄の者のために穢れないことを示し、下に七歩行って、法の雨を降らし地獄の火を滅し、彼の衆生に安穏の楽を受けしむることを示した。 太子は各々に七歩行って、終わると次のように宣った。「私はこれまで輪廻転生を繰り返してきたが、今生まれたこの身が最後で、輪廻を終了する。私はあらゆる煩悩を断ち切って仏(如来)となり、すべての衆生を救済する」 七歩行くことは七覚の心を表し、蓮華が生じたのは、地神の化する所也。グロリオサ グロリオサは熱帯アジア及びアフリカ原産のユリ科グロリオサ属の植物の総称。球茎を持つ落葉性の多年生植物。乾季のないモンスーン気候に適している。別名、ユリグルマ、キツネユリ。日本では高知県などで観賞用の球根の商業栽培が行われている。グロリオサは、葉先が巻きひげになり、他の植物に巻きひげをからみつけることで、高さ3メートルにも達することがある。花の色は鮮やかな赤またはオレンジで、花びらは反っている。グロリオサの球根はヤマノイモやナガイモの担根体に似ているが、コルヒチンやグロリオシンという毒(アルカロイド)が含まれているため、食べると危険である。2007年10月21日、静岡県に住む男性が観賞用に栽培していたものをヤマイモと間違えて食べたところ、同月23日に死亡した。同様の事故は2006年9月に高知県で発生している。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.05.19
その後 1騎兵隊 江戸時代、戦は武士がするものだった。その常識を覆したのが、長州の高杉晋作だった。 彼は、文久3年(1863年)、町民でも農民でも参加できる実力主義の軍隊である騎兵隊を創設し、幕末維新の戦いで、幕府軍を相手に活躍し、維新の立役者となった。 奇兵隊は、その後どうなったのだろう? 維新政府が成立したが、奇兵隊に対して冷たかった。 明治2年、長州藩は騎兵隊はじめ軍隊を解散し、常備軍に再編成すると発表したのだが、常備軍に入れるのは約2千人で、残りの約3千人は、何の補償もなく放り出されることになった。 町民や農民で編成されていた奇兵隊だが、いつの間にか家柄や手柄によって幹部階級と、普通の兵士に階級的差がつけられていた。 伊藤博文、山県有朋などのように、政府の閣僚になった者もいるし、その他の幹部は常備軍に入れたが、一般の兵士はいきなり失業し、住まいを失い、夢も希望もなくなってしまった。 怒った兵士たちは、ついに明治新政府に対して反乱を起し、これが農民一揆と結びついて、次第に大々的な反乱へと走っていった。 高杉晋作の同志だった参議・木戸孝允は、鎮圧軍の指揮をとり、反乱を終結させた。 生き残っていた者は囚われ、123名が処刑された。処刑された兵士は、遺族が人目を憚ったため、墓さえ建ててもらえなかった。 逃亡した反乱軍兵士は、その後10年も指名手配され続けた。
2009.05.17

写真の花は「カラー」 ことわざ「前車の覆るは後車の戒め」 前を行く車がひっくり返るのを見て、後の車が戒めにすることから、昔の人の失敗は、今の人の戒めになること。百人一首 52 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえにもの思ふ身は 後鳥羽院 人を愛しく思ったり、うらめしく思ったり、世を面白くないと思ったり、あれこれ物思いするこの身。 後鳥羽院(ごとばのいん)は、第八十二代天皇、後鳥羽天皇。承久の乱で敗れ、隠岐へ流された。 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり 順徳院 宮中の古く荒れた軒に生えた忍ぶ草を見て、いくら偲んでも偲び尽くせない、かつての栄華の御世である。 順徳院(じゅんとくいん)は、第八十四代天皇、順徳天皇。後鳥羽天皇の皇子。承久の乱で敗れ、佐渡へ流された。百人一首おわりアルパカ 有蹄類ラクダ科の家畜動物の一種。家畜種であり、野生ではほとんど生息していない。ペルー、ボリビア北部、チリ北部の、海抜およそ3,500-5,000mのアンデス湿潤高原地帯で放牧されている。現在はアメリカ合衆国やヨーロッパ、ニュージーランドにもたくさんいる。時速40km前後の走力があり、姿形はリャマを小さくしたようなもので、防衛や威嚇のためにつばを吐きかけるという習性はそっくりである。群れをなして一年中放牧されており、草や苔を好んで食べる。品種改良された毛は今日でも広く利用されている。毛の長さは地面に届くほど長い。色は茶、黒、白、灰色の4種類で、染色のしやすい白毛のアルパカ以外の飼育はされにくく、有色のアルパカは絶滅のおそれを指摘されている。アリウム 「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.05.16

写真の花は「サツキ」 頬よすれば香る息はく石の獅子ふたつすむなる夏木立かな(晶子)猫ですにゃん 18 私たち黒猫には非常に失礼なことに、黒猫が前を横切ると不幸が起きるって人間は言ってるね。 その言い伝えはアメリカから来たんだって。アメリカでは白猫は縁起が良くて、黒猫は縁起が悪いっていうんだよ。単純だね。 イギリスでは逆で、黒猫が家に入って来ると、その家庭は幸福になるって言われてるんだ。 中性のヨーロッパでは、猫は魔女の手先だって言われてたんだ。それはペストの流行と関係があってね、ペストはネズミが媒介するんだけど、当時はペストの原因も治療法も分からなかったから、キリスト教会は社会不安を抑えるために、魔女をスケープゴートにして、異教徒や貧しい人を魔女に仕立て上げて、ペストを利用して公然と魔女狩りをし、何十万人も、何百万人も殺されたんだよ。 猫はそのとばっちりで、夜中に開かれるという魔女の集会と、夜中に行動する猫が結びつかされて、魔女の手先だと言われちゃって、一緒に処刑されたんだよ。 だから、イギリスでは、黒猫が前を横切っても無事なのは、強運の証拠だと思われ、黒猫が家に入って来ると、魔女を味方につけて不幸を回避できると考えたんだね。 根津神社 徳川六代将軍家宣の産土神として幕府から保護されていた。境内にある約2000坪のつつじ苑には、約50種3000株のツツジが咲く。甘酒茶屋、植木市、露天が並び、土日祭日には野点、箏曲、和太鼓、奉納演芸等、各種行事が執り行われる。 ハナグルマ ツツジの種類は多く、開花時期が違うため、早咲きから遅咲きへと花が移り変わり、長い期間様々なツツジを楽しむことができる。中には豆つぶほどの小さい花のフジツツジ、風車のような花弁のハナグルマ、黒ツツジと呼ばれるカラフネ等珍しいものも見ることができる。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.05.13

写真の花は「パンジーゼラニウム」 名言名句「早起きする鳥は餌にありつく」 早く活動を開始すれば、良いことがあるということ。呪いの青ダイヤ 3 ホープ家が破産後、青ダイヤはニューヨークの宝石商や、ロシアの大公、オスマン帝国皇帝などの手を経たが、それら所有者は事故死、殺人などの悲劇に見舞われた。 マリリン・モンローは、「紳士は金髪がお好き」という映画で、青ダイヤを身につけ話題になった。その後の彼女の死については謎が多く、今でも他殺説が囁かれている。 ダイヤモンドの不思議な魔力については、すでに紀元前1世紀頃、古代ローマの博物史家の大ブリニウスが気づいていた。 彼はダイヤモンドを表す言葉として、「征服されない」「無敵」を意味するギリシャ語「アダマス」を用いていた。 特に青いダイヤモンドは、マイナスのエネルギーを放出し、所有者の人生を大きく狂わすパワーを秘めていると言い、ストレスや健康不振などで人間を衰弱させ、破産や自殺へと追い込むと言われている。 しかし呪いの青ダイヤは、ウィンストン氏に所有されることで、ようやく安住の地を得たのかもしれない。 彼は各地で青ダイヤを無料公開した後、1958年ワシントンのスミソニアン博物館に寄贈した。 現在、この呪いを秘めた青ダイヤを見物するため、多くの観光客が訪れる。 現在ルーヴル博物館に飾られているザ・リージェント(摂政)というダイヤモンドは、ナポレオンを破滅へ追いやったとされている。 1701年、インドの鉱山で410カラットのダイヤが発見された。見つけた奴隷は、盗まれないようにふくらはぎを切り開いて隠したという。 彼はイギリスの船長に頼んで海外逃亡を図ったが、船長は彼を海に投げ込んで殺害し、ダイヤを我が物にした。 船長から、インド人宝石商を経て、1701年にルイ15世の摂政、オルレアン公の手に渡った。 ルイ王朝が滅びると、ナポレオンの手に入り、戴冠式の日に、そのダイヤで剣を飾った。 その後、ナポレオンは追放され、妻のマリー・ルイーズが、故郷オーストリアに持ち帰ったが、フランスに返還された。おわりチューリップ チューリップはユリ科で、和名は鬱金香(うこんこう、うっこんこう)。アナトリア、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯が原産。トルコ、ペルシャの伝説ある村にファルハドと言う青年がいた、彼は村長の娘シリンと恋をしていた。村の井戸が枯れたときファルハドは水を得るために穴を掘った。掘ることだけに必死になり、水を得る事が出来たが、その頃にはシリンは亡き人となっていた。恋人の死を悲しんだファルハドは崖から飛び降りて命を散らす。その砕けた体から出た血からやがて真っ赤な花が咲いた。それがチューリップである。 オランダの伝説ある美しい少女に3人の騎士が求婚をした。一人は黄金の王冠、もう一人は剣、最後の一人は財宝。しかし、誰も選べない少女は悩んだ末、王冠の花、剣の葉、財宝の球根をもつ花の精霊に姿を変えてもらった。少女の名からチューリップと名付けられた。 「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.05.09

写真の花は「テイカカズラ」 ことわざ「瀬を踏んで淵を知る」 用心深く先ず試してみて、どんな危険があるかを知ること。先ず浅瀬を渡ってみて、深いところがどこにあるか知ることから。百人一首 51 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに やくや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家 待てど暮らせど来ない人を待っている私は、海辺で焼く藻塩のように、身が恋焦がれてしまいます。 権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)は、藤原定家。新古今時代の代表的な歌人で、百人一首の撰者でもある。 風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける 従二位家隆 風がそよぐ奈良の小川の夕暮れは、秋のような趣があるが、お祓いの禊は夏の証である。 従二位家隆(じゅうにいいえたか)は、藤原家隆。新古今集の撰者の一人。一本桜 秀峰岩手山を背景に、小岩井農場の緑の大地に根を張る一本桜(エドヒガン)。詳しい樹齢は不明ですが、明治40年代に植えられたと言われています。一本桜があるこの草地は、今は農場の牛などの餌になる牧草を収穫する畑ですが、昔は牛の放牧地でした。牛は暑さが苦手なので、夏の強い日差しから牛を守る「日陰樹」として植えられたものです。 この桜を撮るために、大勢のカメラマンが群がっていました。シダレカツラ 盛岡市内の瀧源寺(りゅうげんじ)の境内にあるシダレカツラ。400年余り前に、瀧源寺の開祖が早池峰山ふもとで天然生のものを発見し、この地に移植したといわれています。現存するシダレカツラは、一度伐採された株から芽吹いて成長したもので、樹齢約170年、樹高約22m、幹囲約3.5mに達しています。元来、カツラの木は直立型の枝を生じますが、この木はしだれており、学術上珍奇な変種とみなされています。大正13年に国の天然記念物に指定されました。 シダレカツラは調布の深大寺にもあります。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.05.09

写真の花は「黄色いバラ」 名言名句「想像力は知識よりも重要である(アインシュタイン)」 知識の塊りのような科学者アインシュタインでも、科学的知識より、想像力の方が重要であると言う。C・G・ユングの心 38 青年期に多い回帰的夢は、どの年代にも起こり、何年も続くことがある。 回帰的夢とは、繰り返し起こってくる問題を指し示している。特に情動的色調が強く、夢がクライマックスに近づいたところで目が覚める場合がそうだ。 この夢はいつも本人が気づかない無意識の問題に関連がある。例えば、電車などに乗り遅れる夢、試験に落ちる夢、あるいは空を飛んだり、自分の家の中に見たことのない部屋を発見したりなどという典型的状況が繰り返される。 これは本人の無意識の中に、探し出されることを望んでいることが、悲鳴をあげているような心の活動があることを示唆している。 ある人の夢。これは、彼が銀行に勤めだした頃から、定期的に繰り返された夢。「夢の中の彼は、寝る前に家の鍵を全て掛けた。すると窓をこじ開けて入ろうとしている人影があった。彼はその窓の鍵を掛けるのに間に合ったが、侵入しかけていたその人物は、次に隣の窓へ行った。彼も急いでそこへ走り寄って、なんとか間に合った。こうして追いかけごっこをしながら、入り口まで来ると、侵入者は彼より早くドアから押し入ってきた。そこで驚いて目が覚めた」 彼はこの夢を面白がっていた。それが夢からの何か重要なメッセージだとは思わず、冗談話にしていた。 調べてみると、彼は非常に几帳面な人物で、銀行の仕事が好きだった。仕事は正確で、毎日帳尻がぴたりと合うことに満足していた。 彼は有能で、人生はすべて整然と上手く運んでいる完ぺき主義者のように見えていた。 しかし驚いたことに、私生活は不幸で、いつも不機嫌だった。独りぽっちを怖れていた。彼の生活は入念に計画され、庭の手入れも行き届いていた。 そして、この夢を眺めてみると、彼の完璧な家が、彼の性格を表している。夢の中で窓に鍵を掛けながら走り回る、彼は自分の家が思っていたよりづっと広いのに驚く、彼が現実に住んでいたのは、小さな質素な家だった。 夢の中では、本人も知らない人格の部分、無意識なので本人も知らない部分が描き出されている。 窓の外の人物は、彼自身のどの部分かを見つけ出す必要がある。本当は、彼は自分が思っているほど完璧なのか。現に彼の妻は、彼の別の面を見て、やりきれない人間だと思っていた。 何年も繰り返しされたこの夢は、彼の人格の別の面を見せようとする自然の作用なのだ。だが、彼自身は、何の意味もないただの夢だと思っていた。つづく角館 4
2009.05.08

写真の花は「ウツギ」 澪標 9 近くで水鶏が鳴いたので、 くいなだに驚かさずはいかにして 荒れたる宿に月を入れまし(水鶏が鳴いて知らせてくれなければ、この荒れた家の戸を開けて、あなたをお入れしなかったでしょう)と、懐かしそうに、逢えなかったうらめしさをも、何気なく言い消す心優しい様子を見ると、捨て難い趣のある人だ、こうだから自分も苦労することになるのだと思った。 おしなべてたたく水鶏に驚かば 上の空なる月もこそ入れ(誰でも戸を叩けば入れてしまうのなら、浮気な男も入り込んで来るでしょう) 須磨へ下向して以来、長年月ひたすらお帰りを待っていた気持ちを、君も決して疎かには思っていなかった。 京を離れる時、必ず帰京の日が来るので、それを楽しみに、あまり思い沈まないでくださいと言ったのを、女君は思い出して、「あの時は、こんな悲しみはまたとあるまいと考えて、堪えられないほど嘆きました、それなのにお帰りになっても、いっこうにお訪ねくださらない、私のような哀れな身の上では、遠くにいらっしゃっても、お帰りになっても同じ嘆かしさでございます」と言うが、言葉に似ず穏やかなのもあわれだった。 君はさまざまに限りもなく優しい言葉をならべて、女君の心を和ませ、訳もなく熔かしてしまうのだった。 そのような時でも、あの五節の君のことも忘れていなかった。いつももう一度逢いたいと思っていたが、今の身分ではお忍びで外出するのも難しく、人目を紛らすことなどできなかった。 女君のほうでも、源氏の君を慕い続けていたが、親たちは何かと考えて、縁付けようとしていた。 早く気兼ねのない邸を造って、このような女君たちを集めて住まわせ、思い通りに育てられる子供でもできたら、後見になろうと考えていた。 東の院の造りは、二条の院より華やかで、たしなみのある受領など選んで分担させ、急がせていた。つづく
2009.05.08

写真の花は「スズラン」 ことわざ「精神一到何事か成らざらん」 精神をその一点に集中させれば、難しいこともできないことはないという事。イスレンのバラ 第二章 16 足元には、タンポポやカラスのエンドウなど、小さな雑草の花々が咲き競っていた。「すっかり春ですねぇ」「良い季節だ。ピコは公開の議論で、魔術とカバラはキリスト教を補足するものだという論文を弁護したが、人々の反応は厳しいものだった。そのため、自身を守るためにイタリアから逃げ出した。しかし、魔術と占星術に関心が高かった法王アレキサンダー6世によって復職した。この時期、イタリアは秘伝主義の中心地になっていた。ベニスはカバラ、占星術、錬金術、数字の科学の普及に重要な役割を果たした。アラブ世界からもたらされた錬金術の集大成は、全て翻訳された」 イスレンのバラは、土手の草の上に腰を下ろし、私もその隣に座った。「14世紀から15世紀には、キリスト教の寓話を採用した錬金術の復活に伴い、神秘学的含蓄のあるものになったが、ある人々は疑問視した」「疑問視?」「それは、宗教的用語で表現されたプラクティカを含んでいたからか、それとも錬金術的用語で表現された神秘学的経験が述べられていたからか。1478年に、ミカエル・ペンセウスが、ベニスで錬金術の超越的側面を強調したヴォーアーカドゥミアという長い論文を出版した。伝説では、そのヴォーアーカドゥミアはベニスの秘密組織だった」「やはり、秘密結社なんじゃないですか?」「いずれにしろ、神秘学や哲学を勉強するために、多くの学者がイタリアへ留学した。そしてヨーロッパ中へ秘伝主義を普及させた」「日本人にもいたのかしら、イタリアへ行った人」「いたかもしれない、一方、スペインから追放され、イタリアに居住していた人々の中には、医者でありカバラ学者のイサーク・アブラバネルが居た。彼はカトリックへ改宗していたが、新プラトン主義に熱中していた。そして、カバラと新プラトン主義を結合させた、愛の対話という題の著作を出版した。ドイツのヨハン・ロイヒニンは、先駆者たちの偉業を統合した。彼はヘブライ語を学ぶためにローマへ旅立ち、フローレンスへも行った。帰国後、熱心にクリスチャン・カバラを広めた。言葉について研究し、出版した本は、ヨーロッパで初めてカバラに捧げられたものだった。そして、1517年に出版されたキリスト教カバラの基本的文献の一つ、デ・アーテ・カバスティカによって完成した。ヨハン・ロイヒニンが成し遂げた天使学の発展は、フィチーノの自然の魔法を汚していた鬼神学的不信感を払拭した」つづく 重要文化財・旧東京医学校本館東京大学現存最古の学校建築で、赤門とともに国の重要文化財に指定されている。明治9年に東京医学校本郷キャンパス(現在の本郷キャンパスの前身)の中心建築として創建された。本郷界隈のランドマークとしても親しまれ、教室・病室のほか総長のオフィスとしても使われた。明治44年に赤門のすぐ脇へ移され、耐火書庫として併設された煉瓦倉庫が、現在も赤門脇に残っている。1965年に本郷で解体、69年に小石川へ移築再建され、「標本館」と名づけられた。2001年11月に総合研究博物館小石川分館(学校建築デジタルミュージアム)として一般公開された。開館日:木・金・土・日・祝日開館時間:午前10時~午後4時30分交通:東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅徒歩8分「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.05.07

写真の花は「つゆ草」 チヴォー氏の最期 18 ジャックは、シャール氏と向き合っているのが嫌になった。どこへ行こうか、シャール氏はちょこんと座って、肩を丸め、両手を膝に置いて、ジャックが部屋から出て行こうとすると、嬉しそうに微笑した。 おばさんは、直角に曲がった腰で、鼻を床につけそうにして、部屋から部屋を歩き回って、誰彼の言葉に聞き耳を立てていた。 一つだけ、ドアが閉じている部屋があった。隠れるのに絶好の場所だった。ジゼールの部屋だ。ジゼールはロンドンへ行っている。 爪先立って歩きながら、ジャックはその部屋に入り、鍵をかけた。ほっとした。 丸一日続いた窮屈さから、やっと開放された。部屋は暗かった。電気はつかなかった。12月の朝日が鎧戸の隙間から差し込んでいた。 イスに腰をおろし、寒そうに体を丸め腕を組んた。何も考えなかった。 はっと気がついた時、鎧戸から差し込む光が強くなっていて、窓に掛かったカーテンの模様まで見えた。 そのカーテンの模様には見覚えがあった。パリ、ジゼール、彼は部屋中を眺めた。 忘れていた調度類、その中のひとつを思い出した。昔、まるで前世のような気がするほど昔、それに触れたことがあった自分の写真、あれが無い、アントワーヌの昔の写真と並んでいた、あれがなくなっている。さては、ジゼールがはずしたのか、怒ってなのか、いや違う、持って行ったんだ、ああ、また全てが、新規巻き直しに始まるのか! 網にかかった魚が飛び跳ねて、ますます網が体に巻きついてしまうような気分になった。 ジゼールはロンドン、そう思うと、彼女が憎くなった。彼女を思い出すと、力が失せていくように思われた。 思い出を踏みにじりたい衝動に駆られた。この部屋から逃れたいと思った。だが、すぐに父のこと、あの臨終の苦しみを思い出した。少なくとも、この部屋なら、一つの面影と戦いさえすれば済むのだ。彼は部屋の中央に戻って、机の脇に座った。 ジゼールの筆跡が紙に残っていた。その文字を読もうとした。そして、その目に涙が溢れた。 ああ、忘れよう。そして眠るのだ。 ローザンヌ、友人たち、一人ぽっちの暮らし、早く帰ろう、帰るんだ、早く帰りたい・・・。つづく
2009.05.07

写真は「たんぽぽの種」 我が恋は虹にもまして美しき いなづまとこそ似むと願いぬ(晶子)猫ですにゃん 17 十二支に動物の名前が当てはめられるようになったのは、後漢の時代らしいね。思想家の王充が十二支を動物で紹介したのが始まりなんだって。 王充は1世紀の人物で、猫が中国へやってきたのは仏教の伝来と一緒だから、その時代には、まだ中国に猫は居なかったわけだね。十二支に猫がいないのはそのせいなんだな。 十二支は中国から周辺諸国へ広まったんだけど、タイやベトナム、チベットなどでは、猫がウサギの代わりに十二支に加わってるんだって。十二支が伝わった頃、猫は一般的な存在になってたんだね。 昔話では、猫が十二支に加えられなかったのは、ネズミが嘘をついて騙したからだって言われてるけど、その他にも、お釈迦様が涅槃の際に、薬を運ぼうとしたネズミを、猫が襲ったから十二支に入れてもらえなかったという話もあるんだって。人間です 高速道路料金を安くする→渋滞が増えて低速道路になる→事故が増える→事故処理や道路の修理に金がかかる→CO2が増える→ガソリンが無駄使いされる→私のようにエコ旅行している者には何のメリットもない。吉野川 清く澄んだ水の美しさから、藍より青と謳われた四国の吉野川は、全長194kmを誇る日本有数の大河。遥かな昔から、流域に暮す人々に豊かな自然の恵みをもたらしてきました。初夏には新緑とゴツゴツした岩肌のコントラストが見事な渓谷、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)周辺は、ラフティングを楽しむ人たちで賑わう。地元では、観光客に自然の美しさや文化を体感してもらい、同時に清掃活動をして吉野川の保護に努めている。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.05.06

写真の花は「バラ バレリーナ」 澪標 8 源氏の君からの手紙を、御方と一緒に読んだ乳母は心の中で、同じ時期に子を生んだのに、こんなに思いがけない幸せな御運の方もいらっしゃるし、それに比べて自分はなどと君の細やかな優しさを羨ましく思ったが、「乳母の様子はいかがでしょう」と書いてあったので、勿体なくて心に湧いた愚痴も慰められた。 明石の御方からの返事の文を読んで、長い吐息といっしょに独り言を言うのを、紫の上が耳にして、「浦より遠きに漕ぐ舟の、我をばよそに隔てつるかな」と口ずさんで、他方を眺めていた。「気を回さないで下さい、差し当たって幼い人があわれだと言ったのです、明石の浦の風情など思い出すたび、あの時のことなど思い出して、独り言も出るのですが、聞き流してはいただけませんか」とうらみながら、明石からの文の包み紙を見せた。雅やかな手蹟は、貴い身分の姫君も恥かしくなりそうなのを見て、これだから、君が浅からず契ったのだと思った。 紫の上のご機嫌をとっているうちに、花散里の御方の方へはいっこうに通わなかった。 この頃では公の御用も繁多な上、重々しい身分になったので、なにかと控え目に暮らしているので、先方から驚くような手紙でも来ない限りは、外出もしなかった。 その日は五月雨に降り込められて、公私共に物静かだったので、ようやく思い出して、彼のお邸を訪ねた。 訪ねることがなくても、暮らし向きのことは何くれとなくお世話していたので、君だけを頼りに日を送っている御方なので、お通いが間遠でも、不機嫌な顔をしたり、拗ねたりうらんだりは一切しなかった。 しかし邸内はますます荒れ増さって、物凄い中に姉妹が暮らしていた。 まず、姉の女御の君に挨拶をして、西の妹の方へは夜更けてから立ち寄った。 月がおぼろに差し入って、君が立ち居する様子はひとしお優美で、言い尽くせないほど艶やかだった。 女君は、我が身が慎ましく思われるけれども、端近くで外を眺めていた姿そのままで、のどかに座っている様子が、まことに素直で無難に眺められた。つづく
2009.05.03

写真の花は「オダマキ」 チヴォー氏の最期 17 ジャックは、シャール氏の事務室で、アドリエンヌの声を聞いた。考える間もなく、父の部屋へ駆け出した。ドアは開け放されていた。ジャックはイスにつまずいた。 やがて、がっくりとベッドの上に倒れ、両手を激しく振り回す人影を見た。病人はベッドの端にすベリ出ていた。修道女が持ち上げようとしていたが、だめだった。ジャックは駆け寄り、父を抱き上げ、ようやく上半身を枕の上につかせた。 熱い肉体、苦しそうな息づかいを感じた。自分の下で仰向けになっているこの顔、白目だけの目、彼は痙攣を続ける父の体を抱えて動かさなかった。 神経発作は治まりかけていた。瞳が戻ってきて、じっと一点を凝視していた。そして、自分の顔の上にある青年の顔が、次第にはっきり見えるようになった。 意識が戻っても、まだ現実と錯乱の中に浮かぶ支離滅裂な夢との間に区別がなかった。 チヴォー氏の唇が震えた。瞳が大きくなった。どんより曇った父の目の中を見て、ジャックはある思い出をよみがえらせた。 そうだ昔、父は忘れた人の名前や、日付けを思い出そうとする時、この目の中に、今と同じ注意深い、中心を外したような、ばくとした表情が見られた。 ジャックは手首に力を入れて、体を起こした。そして呟くように、機械的に言った。「お父さん、お父さん、いかがですか?」 チヴォー氏は、ゆっくり瞼を下ろした。下唇とあごひげが微かに震えた。 震えは次第に激しくなり、顔、肩、そして上半身が揺れ始めた。父が咽び泣いている! 緩んだ口から音が漏れた。ジャックは身動きする気にもならず、目に涙をいっぱい浮かべ、「お父さん、お父さん」と繰り返した。 スールセリーヌとアントワーヌが入ってきた。ジャックを見て立ち止まったアントワーヌには、何が起きているのか判らなかった。判ろうとも思わなかった。 ジャックは立ち上がった。ベッドから遠ざけられた。病人は手当てされた。 ジャックに注意を向けている者はいなかった。ここで、父の苦しみを見ていなければならないのか。父の叫び声を聞いていなければならないのか。止めよう。彼はドアまで行った。そこから出ると、ホッとした。つづく
2009.05.02

写真の花は「牡丹」 澪標 7 紫の上は、明石の人が琴が上手だと聞いて妬ましく思い、君が琴を所望しても手も触れようとしなかった。 大様で可愛らしく、物柔らかに見えるが、けっこう粘り強いところがあって、うらみごとなど言うのもかえって愛嬌があり、怒る様子も可愛く、君はやはり見所があると思った。 明石の幼い姫君の五十日目が、五月五日の筈だと数えてみて、懐かしくそぞろに彼の地を思いやった。 もし都に生まれていれば、何もかも立派にまかなって、どんなにか心行くであろうに残念なこと、どうしてあんな辺鄙な田舎に、男親も居ない可哀相な有様で生まれてきたのであろうかと思った。 誕生したのが男の子であれば、これほどまでに心に掛からないが、行く末は后の位にと思えば、今の様子がいっそういたわしく思われて、自分の運も、この姫君が生まれてくるために、いったんは不幸な淵に沈んだのであろうと思った。 五十日の祝いのお使いを立てた。必ずその日に到着するようにと言い付けた。 お使いの者は、ちょうど五日に明石に着いた。配慮した品々は世にも稀な見事さであったが、中には実用のものもあった。 海松や時ぞともなき蔭にいて 何のあやめもいかに分くらむ(何の変化もない田舎では、祝いの日と平日とを、どう区別するのだろう)「心も空に彷徨い出そうなほど、行きたいです。しかしその地にそのままでは居られないでしょうから、上京の決心をしてください。あなたに心細い思いはさせません」 父入道は、君の手紙を読んで嬉し泣きしていた。生きていた甲斐があったと、顔を崩していた。 その日は、所狭しとお祝いの儀の設えをしたが、君からのお使いが来なければ、一日が闇夜のように栄えなく暮れたであろう。 乳母も、御方の人柄が良く、奥ゆかしく、自分もこうありたいと思うような立派な方なので、話し相手になって日々の憂さを慰めていた。 乳母と身分が劣らぬ女房も、縁をたどって都から迎えとって付き添わせているが、それらは落ちぶれた宮仕え人が、たまたまここに身を寄せたような者ばかりであった。 それに比べれば、宣旨の娘の乳母は、初々しく上品で、源氏の大臣が世にもてはやされている様子などを話すので、御方もそれを聞いて、本当にこの姫君を生んで良かった、運が強かったと思っていた。つづく角館 3
2009.05.02

写真の花は「姫リンゴ」 名言名句「利を共にするは小なりといえどもかえって大なり(角倉素庵)」 事業とは、自分にも他にも共に利益をもたらすものでなければならない。利益を共に得るなら、その時の利益が少なくても、後々は大きくなって還ってくる。江戸の豪商の言葉。呪いの青ダイヤ 2 そのダイヤは、ルイ14世がタヴェルニエという宝石商から、数十億円で購入したものだった。 それから間もなく、ルイ14世は病死してしまった。 愛人だったモンテスパン夫人が、青ダイヤを借り受けて身につけると、急に苦しみ出して倒れた。 こうして、この宝石は不吉だという噂が広まった。 宝石商のタヴェルニエは、この宝石をルイ14世に売りつける以前、インドのヒンドゥー教の寺院に祀られていたラマ・シッタの目に嵌められていた青いダイヤのうち、片方をくりぬいて盗んだのだった。 その古院から物を盗むと、恐ろしい不幸が起こるという伝説があった。 それからルイ15世を経て、16世に継承された青ダイヤは、王妃アントワネットが好んで身に着けていた。 アントワネットから時々ダイヤを借りていた寵臣のランバル公も、革命軍によって八つ裂きにされた。 ラマ・シッタ神の青ダイヤは、その呪力でフランス王朝を滅ぼし、国王を殺し、王妃を断頭台の露と消したのだった。 現在、コンコルド広場と呼ばれるルイ15世広場は、わずか一年の間に王族や官僚など計1130人の首が、革命政府によって切り落とされた。 フランス革命から約40年後、呪いの青ダイヤは、ロンドンにその姿を見せた。 英国では有数の資産家である銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープは、オークションで、1万8千ポンドの青ダイヤを購入した。 それ以後、呪いの宝石はホープ・ダイヤモンドと呼ばれることになった。 新しくカットし直され、姿は変わったが、専門家の間では、フランスから盗まれた呪いの青ダイヤに違いないと囁かれていた。 間もなくして、ホープは破産し、ダイヤは再び人手に渡った。つづく角館 2 「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.05.02

写真の花は「ライラック」 霊界からの遺言 27 スウェデンボルグを案内していた霊は、「天国での結婚は、知恵と愛の結びつきなのです」と言った。 たくさんのテントが続く平原の丘に、一つの大きな光が輝いた。案内の霊に、あの光のことを尋ねると、「あれは私たちが礼拝している寺院の聖所から発する光です。光が強いのは、聖所の中に天とエホバの契約の銘版があるからです」と答えた。 スウェデンボルグは丘へ行ってみた。寺院はイスラエルの子孫達によって、さらにシナイ山上でモーゼに示された様式で造られていた。 彼は、この美しい第三天国の中に、黄金時代の人々の霊がいるのだと改めて考えた。 人類にとって最も幸せだった黄金時代に翳りが生じ、やがて白銀時代になり、ノアの洪水が起きた。 それについての聖書の記述は的外れであり、その結果、世間に間違った解釈や考えが広まってしまった。 生命の樹と、知恵の樹に関するテーマは、人類にとって極めて重要なものなのである。「エホバの神は、人をエデンの園に置き、園を守らせた。エホバは人に命じて言った。園の樹の実は何でも食して良い。しかし善悪知る樹の実は食してはならぬ。食すと必ず死ぬ」 これは、創世記の後に続く文章だが、エホバはエデンの園をアダムに与え、そこの植物の実を自由に食べても良いが、善悪知る樹(知恵の木)の実だけは食べるなと命じたと書いてある。 この話を額面通りに受け取るのでは、子供向けのお伽噺に過ぎない。だが現代では、そうとしか受け取られなくなってしまった。 ちょっと考えれば、この話は奇妙であることに気づく。なぜ、人間を愛している筈のエホバが、食べると死ぬ木をエデンの園に生えさせたのか? 創世記のこの文章の前には、植物が何もなかったエデンの園に、エホバは人間のために、人間のために色々な木を生えさせたのではなかったか? 食べると死ぬような木を、どうして生えさせたのか。自分で生えさせておいて、食べてはいけない、食べると死ぬと言うのは、なんとも奇妙ではないか?つづく角館 1
2009.05.02

写真の花は「牡丹」 名言名句「それを夢見ることができれば、それは実現する(ウォルト・ディズニー)」 夢を持たなければ夢は実現しない。ディズニーランドという夢を実現させた人は、富や名声より夢を大切にしていた。百人一首 50 おほけなくうき世の民におほふかな わが立つそまに墨染の袖 前大僧正慈円 身の程もわきまえず、憂き世に生きる人々の上に、比叡に生きる私の衣を覆いかける。 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)は、藤原忠道の子で、幼くして出家し、天台座主となる。愚管抄という歴史書の作者。 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり 入道前太政大臣 桜を散らす嵐の庭には、花びらが吹雪のように降っているが、花吹雪ではなく私の昔が降っているのだ。 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)は、藤原公経。鎌倉の公家で、承久の乱の後栄進を遂げ、京都に西園寺を建立した。弘前城お堀と岩木山 弘前武家屋敷 「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.05.01

東北新幹線と観光バスで、北上展勝地、角館、弘前城を回ってきました。 角館 戦国時代には戸沢氏の本拠地で、関ヶ原の合戦後の1602年、戸沢氏が常陸多賀郡へ転封、佐竹氏が秋田へ入部し久保田藩領となる。翌年佐竹義宣の実弟にあたる蘆名義勝が所預(ところあずかり)として角館に入った。当時、角館の城下町は角館城が築かれていた小松山(現古城山)の北側の麓にあったが、水害や火災にしばしば見舞われたことから、1620年現在の位置である古城山の南麓へ移転させた。現在地は、西の檜木内川が自然の堀、北が丘陵地、東には小残丘が点在し、南西側は檜木内川と玉川の合流点があって天然の要害をなしている。一国一城令により、角館城は破却された。なお、蘆名義勝は、当初は小松山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を見たため居館を麓に移したという伝承がある。蘆名氏の支配は3代続いたが、1653年の蘆名千鶴丸の死により蘆名氏が断絶。代わって1656年に佐竹氏の分家である佐竹北家の佐竹義隣が角館に入り、以降明治まで11代続いた。
2009.05.01
全25件 (25件中 1-25件目)
1
![]()

![]()