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写真は「道」 サハラ砂漠は、毎年5キロメートルずつ南へ広がっている。中国内陸部も砂漠化が問題になっている。砂漠化の原因は、無理に作物を植えて多くの収穫を得ようとしたり、放置したり、森林伐採などで土地が侵蝕され、荒廃してしまうことだ。養分も水分も人間に取られてしまった土地は、やがて砂漠になってしまう。いったい、地球上に人間が登場する前、砂漠等存在したのだろうか?C・G・ユングの心 11 当時、フロイトは誰にとっても実に特異な存在だった。ユングにとっても、彼の物の見方がいかなるものか分からなかった。 それが面会した時、ユングにははっきりと分かったのだった。同時に加わりたくない部分を垣間見たのだった。 それでもフロイトは、ユングに強烈な印象を与えた。 後にユングは、「フロイトは私がこれまで出会った最初の重要な人物だ、これまでの経験では、彼に匹敵する人間は一人も居なかった、彼は極めて聡明で、鋭敏で、非凡である、それでも彼に対する第一印象は、どこか混乱していた、私は彼を理解できなかった」と書いている。 ユングが失望したのは、フロイトが小児性欲の中枢的重要性に固執することだった。フロイトの知的才能や、彼が成し遂げた業績に対する称賛の念が、その失望を多少は埋めていた。 小児性欲説は受け入れ難かったが、思想の多くを受け入れ、精神分析学はきっと発展するだろうと感じた。 それゆえフロイトと出会ったことを幸運に思い、彼らの協力は6年以上続いた。その間、ユングはチューリヒに住み、ブルグヘルツリ病院のスタッフだった。 フロイトはチューリヒへユングを訪ね、彼の家に滞在した。ユングもまた、フロイトの客となった。 二人が同じ所に住んでいたとしたら、もっと緊密になったかもしれない。しかし彼らは、時折の訪問と、文通、会議で顔を合せることで満足していた。 フロイトもユングを高く評価し、あらゆる機会をとらえて精神分析学の発展について話し合った。 この二人の開拓者は、手紙によって接触を保っていた。ユングは、フロイトの手紙の全てに答えることはできなかった。フロイトは返事を期待し、返事が来ないと、その理由を問質す電報を打つのが常だった。 20世紀初めの医学教育には、精神障害についての教えがなく、その分野について少しでも知識のある医者はいなかった。 フロイトは例外で、彼の著作は神経症の心理学についての独創的な思想を含んでいた。 だがユングによれば、フロイトは小児性欲を強調するあまり、もっと重要なことを無視する結果となった。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.31

写真は「水車」 北半球で、最も南まで流氷が来るのは知床半島のオホーツク海沿岸だ。二月には流氷が海面を覆い、一面真っ白になる。流氷は荘厳な冬の情景を描き出すばかりでなく、そこに付着した栄養分が海を豊かにし、漁師の生活を支える大切な資源となる。近年は地球温暖化の影響で、流氷が減りつつあり、流氷保護のため、地元では流氷との触れ合いを通して、その大切さを伝えたり、宿泊施設の室温設定を見直し、温室効果ガスの削減に取り組んでいる。 流氷透明人間 1「隠形の男、六角堂の観音の助けによりて身を顕はせる語」 今は昔、京に身分の低い一人の侍がいた。 いつも六角堂にお参りして、丁寧に拝んでいたが、ある年の大晦日の夜、知人の所へ行って、夜更けて帰る時、一条堀川の橋(戻り橋)を渡って西へ行くと、大勢の人たちが松明を持って歩いて来た。 戻り橋から一条大路を西へ行くと、一条東大宮に出る。その道を逆行してくる一行を、侍は内裏を退出してきた貴人と判断したのだった。 侍は橋の下に隠れて、そおっと覗いて見ると、人だと思ったのは、なんと驚いたことに人ではなく鬼だった。 一つ目の鬼や、角が生えた鬼、手が沢山生えている鬼、一本足で踊っている鬼もいた。 侍は生きた心地もなく、鬼どもが皆通り過ぎるのを待った。 最後の鬼が通り過ぎる時、「そこに人影が見えるぞ」と言い、他の鬼が、「何も見えないぞ」と言い、また他の鬼が、「早く来い」と言った。 すると、一人の鬼が走り寄って来て、侍を引っつかんで引きずり出した。 侍は、生きた心地もなく、もうだめだと思った。「その男は大した罪はない、許してやれ」と言って、鬼たちは侍に唾を吐きかけて行ってしまった。 その後、侍は命があることを喜んで、頭が痛かったが早く家に帰って、このことを家族に話そうと思って急いで帰った。 しかし家に入ると、妻も子も侍を見ているのに見えないらしく、お帰りなさいとも言わなかった。また、侍が何を言っても聞こえないらしく、返事もしなかった。 侍は変だと思って近づいてみたが、傍に誰か居ると気づかないらしかった。 侍は、鬼どもに唾を吐きかけられたので、我が身が見えなくなってしまったのだと思って、悲しくて堪らなかった。 しかし、家族が自分の噂をしているのを聞けるし、子が置いたものを盗って食っても気づかれなかった。 そのようにして夜が明けた。妻子は、侍が昨夜帰ってこなかったので、どこかで殺されてしまったのではないかと心配していた。 何日か経ったが、どうすることもできなかった。 侍は六角堂へ行って、籠り、観音様に助けを求め、どうか我が身を顕してくださいと祈った。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.30

写真の花は「プリムラ」 地球温暖化 地球が暖かくなると、水の循環のバランスが狂ってしまう。地球は水の惑星である。水は水蒸気となり、雲、雨、川、海と形を変え地球上を循環している。水蒸気は地表を暖め、雲は太陽エネルギーを反射し熱を宇宙空間へ逃がし、雨は地表の温度を冷やし、海流は赤道付近の熱を高緯度の海へ運ぶ。こうして地球上の水は地球の気候、気象にとって大切なもの。 平均気温が上昇すると、極の氷や、ヒマラヤの氷河、富士山の凍土まで溶け出す。南の島は近い将来海に沈み、海辺の文明都市もやがて海に飲み込まれる。生態系もすでに狂っていて、南国の植物が日本でも繁殖し、日本海には熱帯魚が泳いでいる。滅びてしまう動植物も多くなり、人類もこのままでは地球に住めなくなる。 パークトレイン(昭和記念公園)C・G・ユングの心 10 ユングはフロイトから出発したのではなく、直接の師であるオイゲン・ブロイラーとピエール・ジャネから出発したのだった。 フロイトの弁護に立ち上がった時、ユングはすでに言語連想検査と、コンプレックス理論で広く知られていた。 フロイトとの協力は、性欲理論に対する原理上の反対という条件付だったし、この協力はフロイトが原理において性欲理論を自分の方法と同一視した時に終わっていた。 1907年、ユングは妻とともにフロイトの招待を受け、ウィーン訪問してもてなされた。 この訪問によって、チューリヒの精神医学者たちがフロイトの理論に寄せた関心について、アーネスト・ジョーンズは、「フロイトが新しいスイスの支持者を大事にしたのは当然であった。彼らはフロイトにとって最初の外国の支持者であり、非ユダヤ教徒として最初の支持者であった。長い間冷遇され、嘲笑され罵られていたから、かなりのへそ曲がりでなければ、外国の有名な精神病院の名高い教授たちから、自分の仕事を支持されれば有頂天になっても当たり前だ」と言い、また精神分析へのユングの参加に関するフロイトの手紙を、次のように引用している。「ユングの参加は貴重なのだ。彼の登場によって、初めて精神分析が、ユダヤ民族だけのものになってしまう危険を免れた」 ユングがフロイトと知り合うきっかけになったのは、1906年の「早発性痴呆症の心理学」の出版だった。 この本の序文は、「私の研究を表面的にでも見れば、私がフロイトの天才的概念にどれほど多くを負っているかが分かるだろう。しかし、フロイトに対して公正であることは、人々が恐れているような、一つのドラマが無条件で屈服することを意味するわけではない。独立した判断を保持することは可能である。もし私が夢やヒステリーのコンプレックス機制を認めても、それはフロイトが外見上しているように、幼児の性的外傷に特権的な重要性を与えることを意味するわけではない」とある。 ユングにとって、フロイトとの出会いは、期待と失望の入り混じったものだった。 ユングは多くを期待したが、フロイトの狭いアプローチの限界、限られた視野、些細なことへのこだわり、理論的偏見を越えることはできそうもなかった。 ユングとフロイトの最初の会見は13時間も続いた。二人は語り合い、ユングはフロイトの特異な精神を理解しようと努力した。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.29

写真の花は「さくら草」 ことわざ「蝸牛、角上の争い」 極めて狭い世界での争い。つまらない小さなことで争うこと。百人一首 37 嵐吹く三室の山のもみじ葉は 竜田の川の錦なりけり 能因法師 激しい山風が吹き散らしたモミジの葉は、竜田川に流れ入って美しい錦になる。 能因法師(のういんほうし)は、歌枕を訪ねて奥州など諸国を旅して多くの歌を残した。 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ 良暹法師 寂しさに耐えかねて、庵を出て辺りを眺めてみたが、どこも同じように寂しい秋の夕暮れだった。 良暹法師(りょうぜんほうし)は、比叡山の僧であったこと以外に経歴などは不明。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.28

写真お花は「アネモネ」 オゾン層のオゾンとは、酸素原子が三つくっついてできた物質。地球の上空を取り巻くオゾン層は、生物に有害な紫外線の大部分を吸収している。人間が様々な便利なものを使用することによって、そのオゾン層を破戒する物質を放出している。オゾン層は、海の植物の光合成によって何十億年もかけて作られたもので、それによって我々地球上の生物は陸上で生活できるようになった。オゾン層がなくなれば、当然我々の細胞は破壊され、地上の生物は死滅する。 この素晴しいシステムは、神様(大自然)が我々のために作ってくれたのだ。C・G・ユングの心 9 ユングは、コンプレックスそのものがどうして生まれるのかを明らかにしようと考えた。 当時、神経症や神経衰弱がどのように説明されていたか。現在でも一部の人に受け入れられている理論は、悪魔が人間の中に入り込み、病を引き起こすという説である。 キリスト教やイスラム教には、この悪魔を追い払うための様々な悪魔祓いという方法がある。 フランスの精神病医であったジャネは、素質的弱さがヒステリーやその他の病気に見られる意識の解離をもたらすと主張していた。 解離がどのような仕組みで進行するのかは、全く分からなかった。 ユングに言わせれば、ジャネの理論は説明ではなく記述である。ジャネの理論では、意思や常識と無関係に作用するコンプレックスの大きな力を説明することはできない。 とはいえ、コンプレックスの神秘への解答は、もうすぐそこにあった。 フロイトの、無意識に関する理論は、まだ20世紀初頭には知られていなかった。フロイトを知っている人でさえ、その重要性を認められなかった。 ユングは、すでに何年か前にフロイトの「夢判断」を読み、フロイトの患者を扱う方法に注目していた。特に抑圧理論には感銘を受けた。「抑圧によって、本人が気づかないうちに葛藤が意識からこぼれ落ちてしまうことがある。抑圧は意識的状況に対する、本人が気づかない、つまり無意識的な反応なのである。しかし、葛藤は無くなったわけではない。それは意識の裏側では活発であり、場合によっては様々な症状を引き起こし、驚かせ、苦しめる」 これがフロイトの抑圧理論である。 ユングはこの理論が言語連想検査の反応の遅れに対して、満足のいく説明を与えると認識し、深く興味を持った。 彼はすぐに、フロイトに手紙を書いた。フロイトは、自分の理論の正しさを確信していたので、その手紙は嬉しかった。 ユングの手紙には、コンプレックスの自律性に触れる点があり、フロイトはそれに注目したが、この概念自体は用いなかった。 ユングは、フロイトの影響を受けて精神医学を志したと思っている人が多いが、実際はそうではない。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.27

写真は「暖かいにゃあ」 大根の使い分け 真ん中はおでんや煮物に最適。 首の方は甘味があるので生で食べると美味しい。 根の方は辛味があるので漬物や味噌汁の具に良い。猫ですにゃん 4 メイン・クーンという猫は、家の飼い主が私たちに内緒で憧れてる猫なんだ。 彼らは私たち普通のねこより、ずいぶん大きいらしいね。大人になるのも早いんだって。 メイン・クーンの体重は、オスだと7キロぐらいあるっていうから、クロちゃんがいくらデブでもかなわないね。 哺乳類は、大型になるほど生理的に成熟するのが遅くて、ハツカネズミが成熟するのは生後三ヶ月で、象は10歳なんだって。 それなのにメイン・クイーンは成長が早いって、どうしてだろう。 原産地はアメリカで、300年ぐらいの歴史があるんだって。詳しい起源は分からないらしいけど、北米大陸の厳しい自然環境で生き抜くために、大きくて強い身体を得たんだろうね。 苛酷な気候の中でも生活できる特徴を持ってるから、地球温暖化で色々な生物が絶滅した後でも生き残れるかもね。 でも人懐こい性格で、遊ぶのが大好きなんだって。会ってみたいな。 メイン・クーンより巨大な猫もいるらしいね。ラグドールっていう猫で、10キロもあるんだって。 世界最大のイエネコで、ペルシャとパーマンの雑種にパーミーズを交配して作ったんだって。 大人になるには4年以上かかるらしいよ。 さくら草人間です 私が香水嫌いで、香水臭い人が傍に来ると、くしゃみが出るって知ってるくせに、香水をくれる人って、何を考えてるのかしら。 それより、病院にビールを送ってくる人って、何考えてるのかしら。ビール飲みながら治療しろってか、病院で酒盛りでもしろってか。しかも、宛名の先生は、お酒は一滴も飲めないのに。看護婦は「始末しといて」なんて言われて、飲める先生に「持って帰ってください」とお願いすると、「重いから嫌だ」なんて断られ、「この人、お中元もビールで、やっと始末したのに、またビールだよ、バッカじゃないの」なんて、せっかくお金を使っても迷惑がられたり、「どうせ他から来たのを回したんでしょ」とか言われてしまいます。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.26

写真の花は「紅梅」 ことわざ「隗(かい)より始めよ」 大きな事業を始めようとする時は、まず手近なことから手をつけると良い。また、何事も言い出した人から実行すべきであるという時に用いる。直江兼続 4 直江兼続は家康追撃を強く主張したが、景勝はうなづかず、上杉軍は最上領へ侵攻した。 そこへ関が原の西軍敗戦の報が届き、上杉軍は兵を退いた。 兼続にとって、家康討滅の挙兵は、義を行動規範とする正義の戦であった。 家康に背いて挙兵した上杉景勝に対する処分は苛酷だった。しかしなおも、景勝、兼続の主従は、家康なにするものぞの気概は捨てなかった。 家老には、御家の家名を存続する責務があり、最優先で家名存続を考えなければならない。 軍議で多数の家臣が徹底抗戦を主張したが、景勝、兼続の主従は、上杉家存続のため、家康と和睦する道を選んだ。 兼続は秀吉から賜わった米沢三十万石を差し出し、改めて景勝に与えられるように巧みな政治工作を行った。 それは功を奏し、会津百二十万石から三十万石へと大幅な減封にはなったが、上杉家の取り潰しは免れ、兼続の思惑通り、景勝は米沢へ移った。 兼続と石田三成が共謀した家康討滅計画は、景勝も承知はしていたが、実質的には兼続と三成の主導だった。 敗戦降伏という屈辱を味わい、なおかつ減封にもなった戦争責任は兼続にあったが、景勝は一言も咎めず、兼続を執政軍師の地位に留めた。 信頼関係に加えて、様々な困難に対処し得る人物は、兼続意外に居ないことを景勝は承知していたのだ。 兼続は、景勝の温情に感謝しつつ、戦国乱世の終焉を自覚して、それ以後、上杉家の経営方針を転換し、殖産興業と街作りに一心を注いだ。 治水事業、農業振興、商工業の保護、鉱山開発など様々な分野で多大な治績を残した。 戦後、兼続は景勝に従って江戸へ上り、徳川家の重臣たちと対面した。本多上野介、酒井雅楽忠世、安藤帯刀直次たちは、兼続に「山城殿」と敬称をつけて鄭重に挨拶したが、兼続はその人たちを呼び捨てにした。 それは兼続が尊大なのではなく、徳川家に対する意地であって、上杉家家老としての誇りであった。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.01.25

写真の花は「レンギョウ」 最近はミカンの缶詰って食べなくなりましたね。あの缶詰のミカンは皮も筋も綺麗に取れているけど、不思議に思いませんか。どうやって取り除くのでしょうね。実はその方法は、昭和の初めに日本で開発されたんです。外の皮を剥く方法は何となく分かりますよね。内側の皮は、酸につけて剥がし、果肉と、セルロースやペクチンでできている皮の細胞構造の異いを利用して、アルカリ溶液に漬けると、果肉は溶けずに内皮だけが溶けるんです。 何だか栄養分が消えてしまいそうですね。生のミカンと全く異う味の缶詰ミカン、私は昔から好きじゃなかったけどね。C・G・ユングの心 8 我々の夢の中には、頻繁にコンプレックスが出てくる。 何度も繰り返して、見知らぬ人物が夢に現れたりするのは、コンプレックスが人格化したものである。 意識とその抑圧が眠っているため、そうした人格化の登場が可能になるのである。それは様々な形で現れ、歓迎されたり、されなかったりする。 夢が終わり覚醒すると、我々は夢に責任はないと考える。またコンプレックスは、ある種の精神障害では声として観察されることもある。耳に聞こえるわけだ。同様に幻覚では目にも見える。 ユングは、患者を深く知らなければならないと信じていたので、何が彼らをその病気へ追いやったかを探り出そうとして、何時間も病棟で話し込んでいた。 ユングが知りたかったのは、その患者がどうして病んでいるかということだった。個々の患者は、それぞれ一個人として研究する必要があった。ユングの考えでは、病気は身体の全ての器官が関係しているのであり、したがって身体だけではなく心も調べなくてはならなかった。 彼は、情動の影響は心理的だけではなく、生理学的にも現れることもあるということを示すことができた。 言語連想検査において、刺激語に対する反応を記録する際、被験者の脈拍、呼吸、精神電流計の数値を別個に記録した。 精神電流計は、情動の変化にともなう皮膚の伝導の量的変化を記録するために考案された機械である。 被験者は両手に電極を持ち、電流計が置かれた回路の中に居る。結果的に電流の変化は明確に現れる。 刺激語がコンプレックスを直撃すると、記録に変化が起きる。反応時間は長くなり、呼吸量が減り、脈拍数が増え、電流計の示度も変化する。 現在ではその種の結果には驚かないが、20世紀初めには事情は全く異なっていて、情動の心理的、病理的影響や、無意識の影響力は、全く気づかれていなかった。 ユングは、肉体と精神が決して別物ではないという事実を指摘し、利用したという点で時代に先んじていた。 デカルトが、肉体と精神は互いに独立して機能していると主張して以来、多くの人々はそれを信じていた。ユングは、それが事実に反していることを示したという点でも時代に先んじていた。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.24

写真は「冬の池」 ことわざ「泳ぎ上手は川で死ぬ」 自分が得意なことでも、過信し過ぎると逆に禍を招き、身を滅ぼすことがある。 わらしべ長者 3 その日も暮れたので、道端の小さな家に泊めてもらった。 翌朝出発すると、立派な馬に乗った人に行き合った。「本当に良い馬だ!」と思って見ていると、その馬が急に倒れて死んでしまった。 馬の持ち主は驚いて、「これは一体どうしたことか」と、馬を助けようとしたが、どうにもならず、ただ泣くばかりだった。 主人は仕方なく、他の馬に鞍を置き換えて乗り去り、従者が一人残されて、死んだ馬をどうしようと困っていた。 若侍は歩み寄って、「どうしてその馬は急に死んでしまったのでしょう」と言った。 従者は、「陸奥からこれを宝物にして京まで上って来ました、色々な人々がこの馬を欲しがって、いくらでも金を出すと言いましたが、売らずに持っていたのに、その甲斐もなく、せめて皮だけでもと思っても、旅の途中のことで・・・」と途方に暮れていた。 若侍は、「こんなに立派な馬なのに、命とは不思議なものですね、でも死んでしまってはどうしようもないですね、私はこの近くに住んでいますから、皮を剥いで差し上げましょう」と言って、布一段を従者に差し出した。 従者は、「これは思わぬ得をした」と言って、若侍の気が変わらぬうちにと、逃げるように走り去った。 若侍が死んだ馬を手に入れた理由は、「わらしべ一つがみかん三つになり、みかんが布三段になった、この馬は仮死状態で、生き返って我が馬になり、布三段がこの馬になるに違いない」と思ったのだった。 若侍は手を清めて、口をすすぎ、長谷の方角に向かって礼拝し、「もし、私を助けてくださるのなら、この馬を生き返らしてください」と念じた。 すると、馬が目を見開いて、頭を持ち上げ起きようとした。若侍は手を貸して馬を起こした。嬉しきこと限りなし。 人に見られないうちに、馬を隠して休ませた。元気になったので、残りの布一段で鞍を手に入れ、これに乗って京を目指した。 宇治で日が暮れて、もう一段の布で馬草と自分の食事と宿のかかりを済ませ、再び京を目指した。 しかし、「この馬を京の都の町中へつれて行ったら、盗んで来たと思われるだろう、しからばここで売ってしまおう、馬を欲しがっている人は居ないかな」と思った。 馬から降りて、「馬を買いませんか」と声をかけた人は、その馬を見て、まことに良い馬だと喜んで、「今は持ち合わせがないが、この南に持っている田と、米を少しと取り替えてくれませんか」と言った。 若侍は、「仰る通りにいたしましょう」と承知し、九条の田一町と米を手に入れた。 若侍は、土地所有の権利書を持って、京の知り合いの家へ行き、米を糧とした。 春の種蒔きの季節になったので、田を小作に出して、小作料として収穫の半分を徴収して暮らし始めた。 家も買って、楽しく暮らせたのも、長谷の観音様のお助けということを忘れず、常にお参りを欠かさなかった。おわり現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.23

写真の花は「木瓜」 ちょっとやってみたい実験 目の細かい茶漉しで、平らな皿に小麦粉を篩い、そこに雨粒を受けると、コロコロした球形になるので、少し時間を置いて、また小麦粉をかけると、球形の雨粒が残るので、その大きさを測るという簡単な実験。 その方法で調べると、雨粒の大きさはまばらだが、平均は1ミリぐらいで、大きくても2ミリ程度。又雨粒は、球形か楕円形であることがわかる。涙形になるのは、空気抵抗で潰れている状態なのである。C・G・ユングの心 7 連想テストは、簡単さゆえに一般の関心を呼び起こし、ある状況に対する人間の反応を正確に測定することができるという利点があった。 刺激語が用いられる時、それは単なる単語以上のもので、それは凝縮された行動となる。 対話では、質問と応答は相互補完的であるが、連想テストでは、被験者は孤立し、相手を当惑させるようなあいまいな刺激語と対し、一語で応答しなければならないと指示されているので、文章で答えるわけにはいかない。 ユングにとって主な関心の対象は反応の障害であったから、常に観察されていた。 普通なら回避されるような事実が明らかにされ、図表に記録されることが判った。テストでは突然、単語が予測できない形で提示されるからである。反応が遅れれば、その遅れが観察され、その意義を明らかにするため調査が続けられる。 二人の人間が会話している時、似たような状況が生じる場合がある。 議論が止まってしまうとか、話が逸れてしまうとか、本来の目的が失われるなど。 これは活性化されたコンプレックスが、一方の人、あるいは双方を裏切るからである。後で忘れられたり、否定されたりする意見や答えが飛び交う。 コンプレックスという言葉は、心理学的意味で、日常的に用いられる。 ユングは、「人間がコンプレックスを持っていることは、誰もが知っている、しかしコンプレックスが我々を持っているということは知られていない、冷静にコンプレックスの現象学を定式化しても、その自律性という事実を避けては通れない、その性質に深く踏み込めば、それは分裂した心の破片としての性質を示す」と言っている。 コンプレックスは、裂けた心の部分のように、自律的に行動する。 つまり、心のある一部分が、意識の主流とは別に独立して作用するということである。 さらに重要なことは、情緒障害の性質を発見することである。そうすれば原因が意識化され、理解される。この種の解離は、心が永久的に傷つけられる「人格の分裂」とは異なる。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.22

写真の花は「黄梅」 ことわざ「親の十七、子は知らぬ」 今は立派な親でも、未熟だった若い頃のことは子供は知らない。親が語ろうとしないので、子は知りようがない。偉そうに説教している親への皮肉。百人一首 36 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ 周防尚侍 短い春の夜の夢のような儚いたわむれに、手枕を借りたばかりに、浮名を立ててしまったことが残念です。 周防尚侍(すおうないしのかみ子)は、平仲。後冷泉天皇、後三条天皇、白河上皇、堀河天皇に仕え、多くの歌会に参加した。 紅梅 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな 三条院 心ならずも、悲しいことが多いこの世の中に生き永らえているなら、きっと恋しく思い出すだろう、今夜の月の美しさを。 三条院は第六十七代天皇。東宮時代が長く、病気がちで、即位しても藤原道真の圧迫に屈して退位した。 昨日、アネモネが咲いているのを見ました。今年は3月ごろの花が正月から咲き始めていますね。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.21

写真は「熟睡中にゃん」 牛乳パックを広げて、裏のビニールをはがし、ざらざらした面を油きりに使います。 牛乳パックを広げて、まな板の上に乗せて魚などを調理すると、まな板を汚しません。猫ですにゃん 3 ロシアンブルーって猫も居るんだってね。 私たちは雑種の元野良猫の娘だから、そんな高価な猫のことは知らないけどね。 原産地はロシア北西部のアーケンジェルっていう所なんだって。 17世紀にイギリス人が、青い毛並の密な猫を発見して、連れ帰ったんだって。だから、最初はアーケンジェル・ブルーって呼ばれてたんだ。 その当時は、今より身体が大きくて、黄色い瞳をしてたらしいよ。 ロシアンブルーって名前が定着したのは20世紀になってからで、その時点では、ずい分と改良が進んでいたんだ。 ロシア人のブリーダーが、イギリスで初めてその猫を見た時、これはロシアンではなく、イギリスの猫だろって言ったんだって。 そんなわけで、ロシアンブルーはロシア原産でも、イギリスの猫だね。 家の飼い主は、ロシアンブルーとか、スフィンクスなんていう高価な猫より、私たちの方がずっとずっと可愛いって言うよ。 ロシアンブルーっていう猫は、あまり鳴かないから、ボイスレスキャットの異名があるらしいよ。私たちだって、そんなに鳴かないよ。 警戒心が強いらしいけど、飼い主には良く懐くんだって。毛が密集してるけど、寒さに弱いんだって。私たちも全く同じだよ。 スノードロップと福寿草人間です 立川の駅前にはケヤキ並木があるのですが、昨日の夕方、娘が「あっ 鳥!」と頓狂な声で指差すので、見上げると、白い小鳥が何十羽も寝ていました。 テレビに出て「先生」などと呼ばれている人でも、いい加減なことを言いますね。この前も「お風呂に肩まで入ると内蔵が潰れるから半身浴をしなさい」などとのたまわっていました。お風呂で内蔵が潰れるなら、もう生きたダイバーなどいない筈。私なんぞは子供の頃から「肩まで入って百数えなさい」と言われて、今でも半身浴などしたら風邪をひいちゃうから、内蔵なんか今頃はぺっちゃんこでしょうね。内臓脂肪なんか、おへそから漏れ出てくるでしょう。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.20

写真の花は「紅梅」 20世紀の実業家の言葉「他人の利益を図らずして、自らの繁栄はありえない(吉田忠雄)」 現在は、自分の利益ばかり追求している人だらけなので、世の中が壊れかけている。相手があるからこそ仕事が回るのであって、お互いの利益がなければ回らなくなる。周囲に与えた分だけ、自分に還ってくる。直江兼続 3 兼続は少年時代、上杉謙信の姉である綾に非凡な才能を見出され、景勝の小姓として取り立てられた。 景勝の父長尾政影が不慮の事故で死んだ後、景勝は謙信に引き立てられて春日山へ移った。 兼続も随従し、謙信から戦術を学び、精神的な薫陶を受けた。兼続がその生涯で貫き通した「義」と「愛」の心である。 兼続が歴史の表面へ躍り出たのは、1578年、上杉謙信が急死し、養子である景勝と、影虎が家督争いをした時だった。 謙信には実子がなく、景勝派と影虎派の内乱が勃発した。 翌年、影虎が自刃し、景勝は勝利し、越後最大の危機は去った。 この御館の乱の時に軍事作戦を立案、指導したのが兼続だった。この時、兼続は弱冠二十歳だったが、それ以後、上杉家の政務、軍務、財務の全てを実質的に宰領する景勝を支えることになった。 乱に勝利したとはいえ、景勝と兼続の前途は多難だった。論功行賞のもつれから、景勝の後見、直江信綱が城内で殺されるという事件が起こり、樋口姓を名乗っていた兼続は、信綱の未亡人と結婚して、直江姓を継ぐように君命を受けた。 だが凶事は続発し、天下統一を目指す信長が、北陸への侵攻を再開し、その上、御館の乱の論功行賞に不満を持っていた新発田重家に謀反を起こさせた。 信長の万全な上杉家包囲網の前に、上杉家は絶体絶命の窮地に陥ったが、天運は景勝、兼続に味方し、信長が本能寺で横死した。 その後、兼続の勧めで景勝は羽柴秀吉の家臣として、従三位・参議となり、兼続は従五位下・山城守になった。 その間、兼続は石田三成と親交を深めた。 小田原の陣、文禄の役を経て、景勝が越後から会津へ移封された後、慶長の役の最中に秀吉が死んだ。 秀吉亡き後、徳川家康が天下の覇権に策動し始めた。 兼続は、家康の野望を粉砕すべく、石田三成と共謀して、家康討滅の策を練り上げた。 直江状と呼ばれる過激な内容の挑戦状を、兼続は家康に叩きつけ、そのため家康は上杉討伐軍を編成して東へ向かった。 その隙を狙った三成は、豊臣恩顧の大名たちを集めて、大阪城で兵を挙げたため、家康は急遽軍勢を西へ向けた。つづく フユアヤメ
2009.01.18

写真は「冬空」 地球を覆っている気体の分子は絶えず動き回っているが、宇宙へ飛び出してしまうことはない。引力によって地表に止まっている。風は気体の分子が一方向に移動する動きだ。その動きが起きる原因は、気圧の違いで、空気は暖められると軽くなり、低気圧となって上昇する。その後に冷たい空気の高気圧が流れ込む。その時の空気の流れが風だ。陸の空気は暖まりやすく、また冷めやすいが、海は暖まりにくく冷めにくい。夏は陸地が暖かく、海は冷たいので、海から陸へと風が吹く。C・G・ユングの心 6 コンプレックスの中身は、完全に無意識か、比較的無意識かのどちらかである。すなわち、コンプレックスはある環境、あるいは情動的状況では活性化し、他の場合には活性しない。 受験生などが、口頭試問されると、覚えていた答えが思い出せなくなるということがある。それは、個人的無意識のなかにある多くの観念が相対的に無意識的だからである。 それらは、別の環境あるいは別の情動的状況では意識内に入って来る。受験生が、試験場を出て戻ってくると、情動的雰囲気が変わるので、答えを思い出すことができる。 多くの観念は、もっと深く無意識的で、一時的な情動的状況には関わりなく無意識的なままでいる。 ユングはコンプレックス形成と、神経衰弱の場合に起きるような人格の分裂、あるいは部分的崩壊との類似性に目を向けた。 コンプレックスは、部分的人格のように振舞う。それは自立的に、時には意識的願望とは正反対に作用する。 無意識的心理作用について何も知らない人たちは、コンプレックスは患者が作り出すものだと決め付けている。 患者はなんらかの理由から、コンプレックスを表面に押し出したのであり、彼が分別を持って行動すれば、コンプレックスなど存在しない。 ユングは、そうした偏見に対して、コンプレックスは極めて高い自立性を持っていて、いわゆる想像上の痛みは、器官的には根拠がなくても、本当の痛みと同じだけ痛いものだと言っている。 そして、たとえ患者自身、医者、一般の用語法が一致団結して、その痛みは想像だと主張しても、痛みに対する恐怖は少しも消えないと確認されている。 分別に逆らって、説明のつかない非合理な恐怖に振り回されるのは、本人にとっても周囲の人々にとっても腹立たしいものだ。 そうしたことは現在でも同じように起きていて、神経症の患者は、例えば足の骨折は神経症よりましだと思うだろう。骨折が相手なら、現実的な行動をとることができるからだ。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.17

写真の花は「ジョーイセルリ」 ことわざ「思い立ったが吉日」 何かをしようと思い立ったら、日を選ばずすぐに取り掛かる方が良いということ。日の良し悪しは関係なく、思い立ったその日が実行に良い日なのである。わらしべ長者 2 若侍が藁しべを持って歩いていると、アブがきて顔の廻りを煩く飛び回るので、木の小枝を折って追い払うが、すぐに戻って来るので、捕らえて持っていた藁しべに繋いで腰にくくり付けて歩いていた。 アブは若侍の腰の周りで飛び続けていた。 京から長谷詣でに行く途中の女が、牛舎に乗って通りかかった。 一人の美しい稚児が、車の簾を担ぐように乗り出して、若侍とアブを見て、「あの男が持っているものは何だ、あれを貰ってきてくれ」と、馬に乗っている警護の侍に命じた。「お前が持っているものを、若君がご所望だ、奉れ」「これは観音様からの賜わりものですが、ご所望なら差し上げましょう、その代り、喉が渇いていますので、食べ物をくださいませんか」 すると、紙にくるんだミカンを三つ、車の中から差し出された。「わらしべ一つが、ミカン三つになった」と思って、それを木の枝に結び付けて、肩に担いで歩いていると、人品賤しからぬ人が、これも長谷へいく途中だったが、「喉がからからだ、水を持って来てくれ」とお供の人に言うが、生憎と水はなかった。「もし、この辺りに水がある所を知りませんか?」「水は無いですよ、どうしたんですか?」「長谷へお参りに行くのですが、歩き疲れて喉が渇いて、水を求めているのです」「では、私が持っているミカンを上げますよ」と言って、三つのミカンを差し出すと、主人は、「もう、死ぬかと思っていた、旅の空で死にたくはない、極めて嬉しいことだ、どうお礼をしたら良いだろう、食べ物があったらご馳走してあげなさい、それから、布を三段お礼に差し上げ、京の邸を教えて、必ず訪ねて参るように」と言った。 若侍は、布を三段小脇に挟んで、「わらしべがミカン三つになり、ミカンが布三段になった、これこそ観音様のお助けだ」と心の底で喜んだ。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.16

写真の花は「木瓜」 紙のサイズには、AとBがある。A-0判は841×1189ミリで面積は1平方メートルの長方形。縦横の比率はルート2対1となる。 半分にしたのがA―1判、その半分がA-2判となる。 B判は我が国独自のもので、江戸時代の障子紙に使われていた美濃紙の半紙サイズが、ドイツのB-4判と同じサイズだったので、このサイズをB-4判とした。 C・G・ユングの心 5 ユングはグラフを作った。それはある特定の言葉にまつわる反応時間と情動との間に相関関係があることを示していた。 この結果から、二つの特徴が重要だという結論が導き出された。 一つは情動が原因だということ。もう一つは、反応の遅れは自動的に、本人がしらない何らかの過程に応じて起きるということだった。 この記録から結論を引き出したり、重要性を判断したりするのは時機尚早であった。 反応を遅らせている活動は、意識的な意図と独立に作用し、これはさらに観察を必要とするものだった。 当時は心理学や、精神医学への心理学の応用において、意識が重要視されていた。 その根拠の上に立って、言語連想検査のような実験的心理研究が行われていた。 だがユングは、そこには意識や意志力の操作を超えた何かが関係していると考えていた。 何かとは、特殊な性質の、おそらく苦痛を伴う感情によって特徴付けられる無意識の中の一群の観念であり、それが反応時間を遅らせると考えられた。 ユングはそれを指す「感情に色付けられたコンプレックス」という用語を導入し、それは短縮されて単に「コンプレックス」と呼ばれるようになった。 無数の検査結果がこの結論を証明し、コンプレックスはユングの思想体系の中枢的な特徴となった。 彼の考えは、現在では分析心理学と呼ばれているが、初期はコンプレックス心理学と呼ばれた。 コンプレックスというユングの用語は、精神分析学のフロイトや、個人心理学のアードラー派を含め、全ての流派に取り入れられた。 日常会話でも、普通に用いられるようになり、英語辞典にも、「ある特定の問題と結びついた一群の観念を指すユングの用語」と出ている。 ユングにとって、自分に要求されていることを理解している被験者が、ほとんどの単語には即座に反応し答えるのに、ある単語だけには反応が遅れ答えを躊躇するというのは、まったく驚きであった。 普通の被験者は、自分が躊躇したことにどうして気づいていないのだろうか? それはその単語がコンプレックスを「撃った」からだとユングは考えた。「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.15

写真の花は「リーガーベゴニア」 松下幸之助の言葉「青春とは心の若さである」 年齢が若くても、心が精気を失っていれば青春ではない。年取っても、物事に立ち向かう勇気と信念を抱き、希望に満ちているかぎりは青春である。百人一首 35 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ 相模 あの人のつれなさを嘆き悲しんで、袖が朽ち落ちてしまうのも口惜しいが、浮名を流して我が名が朽ちることが惜しくてならない。 相模は、相模守大江公資の妻なので相模と呼ばれたが、離婚して一条天皇の娘脩子内親王に仕えた。 もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 前大僧正行尊 私があなたを懐かしく思うように、あなたも私を懐かしく思っておくれ山桜よ、山奥では花以外に私の心を知ってくれる人がいないのだから。前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)は、十二歳で出家し、修験者として名高い。 日本語が読めない、書けない日本人がなんと多いことか。「立山連峰」が「立山連邦」に誤変換されていても、誰も気づかない。もはや首相ばっかり責めてはいられないね。私もだけど・・・現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.14

写真の花は「紅梅」 富士山の頂上は寒い! 高地になるほど気温は下がる。しかし地上200キロの上空は大気の温度が1000度もある。太陽からのエネルギーの半分は地面が受けるので、地面に近いほど暖かい。それなのに、100メートル高くなるごとに、0,5~0,6度気温が下がる。それは上空1万メートルまでのことで、そこまでが対流圏だ。その上の成層圏は零下60度の世界で、上空200キロでは700度、その上は1000度を越え、そこは熱圏と呼ばれ、太陽からの風によって高温になる。ただし上空200キロでは地上の50億分の一の大気しかないので、大気の熱さは感じない。不思議だ!C・G・ユングの心 4 ユングの一家は田舎に住んでいたので、バーゼルに移る前には、田舎の人々から奇怪な物語や経験談を色々と聞いていた。 それらの話は、トランス状態で奇行を示した少女に対する彼の観察と同じカテゴリーに属していると思った。 両者の間には、明確な繋がりはなかったが、教科書を読んだ時、精神医学はそれらの不明瞭な事のいくつかに対する鍵を与えてくれると確信したのだった。 最終試験に合格したユングは、別の大学に転任する教授から、助手として一緒に来ないかと誘われた。 それは出世であり、他の学生たちが羨む誘いだった。ところが彼はそれを断り、精神医学で身を立てると宣言し、教授や同級生を驚かした。 それ以後、彼は二度と後ろは降り向かなかったし、後悔もしなかった。 1900年12月、ユングの精神医学者としての経歴がスタートした。 彼はチューリヒの大学病院、ブルグヘルツ病院で、ヨーロッパの精神医学界の指導者ブロイラー教授の助手になった。 研究に明け暮れる毎日だった。彼は指導を受けながら、精神病の一般的な形である早発性痴呆症(分裂病)の原因の研究に取り掛かった。 彼は分裂病患者の脳組織を、顕微鏡で調べる技術を学んだ。脳の障害が、彼が求めている鍵を与えてくれるのではないかと考えてのことだった。 新しい仕事は魅力的で、彼は夢中になって取り組んだ。 しかし、彼の望みは実現しなかった。数え切れないほどの症例を研究したが、分裂病の意味や起源について、なんら光を与えられなかった。 ユングは研究に専念しつつ、一方で別のタイプの研究にも目を向けた。原語連想検査である。 その広く知られている心理テストは、知性のタイプを分類するために、F・ゴールトン卿によって導入されたものだった。 このテストは複雑で、これによって得られる膨大な情報は、知能程度を評価するのにまったく役に立たなかった。 ユングはそのテストに、簡単で重要な修正を加えた。被験者の反応が遅れた時、ユングはどうして遅れたかを被験者に質問した。すると、被験者は、自分の反応が遅れたことに気づいておらず、したがって遅れた理由など説明できるわけがなかった。 ユングは、それには何らかの理由があるに違いないと思った。特殊な質問をしてみると、その理由が明らかになった。 ある例では、「馬」という単語に対する反応が遅かったので、詳しく調べると、馬の様々な物語や光景が明らかになった。患者はそれら全てを忘れていたのだった。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.13

写真は「みーちゃん」 肩こりで悩んでいる人は、お酒でマッサージすると良いですよ。入浴前に、日本酒を肩や腰などの患部に塗って、マッサージをしてからお風呂に入ると、頑固な凝りが楽になります。猫ですにゃん 2 アメリカンショートヘアっていう猫がいるんだってね。 1620年に、イギリスで迫害を受けた清教徒たちが、メイフラワー号でアメリカへ渡ったんだけど、その時、二匹のショートヘアが一緒だったらしいね。 船では、積み込んだ食料がネズミに食べられてしまっては大変だから、猫は重要な乗組員だったんだね。 船でネズミが繁殖したら、衛生環境が悪化するし、人間が病気になってしまうからね。 ダイタイね、神様が一月一日に十二支を決める時、ネズミは猫に一月二日だと嘘を言ったので、猫は十二支に入れなかったんだ。許せないにゃあ。 その後もヨーロッパから新大陸へ渡った大勢の人たちが、猫を一緒に連れて来て、そうした猫たちを「ネズミの狩人」と呼んでいたんだ。 アメリカに着いた猫たちは、ヨーロッパに住んでいた時より逞しくなったんだって。 当時のアメリカは苛酷な自然環境で、ハンティング能力が優れていて、体格が良い猫でないと生き残れなかったんだね。 飼い主の人間も、健康で大柄でそして人なつっこい猫を好んだんだ。そこから生まれたのが、ヨーロッパのショートヘアより大きいアメリカンショートヘアなんだよ。 アメリカンショートヘアといえば、縞模様が代表的だけど、それって山猫に多い柄で、原始的だよね。 そうしたことも、ネズミ捕り名人と言われた逞しさを感じるね。 ミニバラ現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.12

写真の花は「白梅」 ことわざ「同じ穴の狢」 一見別のように見えても、実は同類であること。利害関係が同じであることで、多くは悪い仲間を指す。ムジナはアナグマの異名で、狸のこと。直江兼続 2 徳川家康は、直江兼続の才能を高く買っていた。諸大名が大阪城で雑談していた時、家康が、「西国の諸将が大阪へ攻めてきたら、大軍の攻撃を支えながら、関東へその旨を告げて来る者は、どれほど居るだろうか」と問うので、福島正則が、「上杉家の直江山城の守(兼続)と、蒲生家の源左衛門の両人の他はございますまい」と答えた。「わしも、その両人だと思う」と、家康は即座に同意の声をあげた。諸侯も全員が首を縦にふった。 それほどの器量人だけに、その他の逸話も多い。 ある時、直江兼続は大阪城内で伊達政宗とすれ違ったが、素知らぬ素振りで通り過ぎようとした。「直江殿、挨拶もしないとは無礼であろう」と、政宗が怒った。大大名の政宗には、兼続の方から挨拶するのが当然だと正宗は思っていた。 兼続は振り返ると、「これは失礼いたしました。なるほど、後から拝見いたしますと、確かに伊達殿でござる。戦場で何度かお目に掛かり申したが、いつも後姿ばかり拝見いたしておりましたので、気がつきませんでした」と言った。後姿とは、逃げる姿である。 政宗が諸大名の前で、懐中から真鍮の大判を取り出して、自慢げに披露した時、金貨の鋳造が始まったばかりことであり、諸侯は次々と手にとって珍しがった。 やがて大判が兼続のところへ回されてくると、兼続は手で受けずに、扇の上に掬い取って、宙に跳ね上げて眺めた。政宗は、兼続が遠慮しているのかと思い、「手にとって見ても構わんぞ」と声を掛けると、「それがしは謙信公以来、上杉家の先陣を承る身、その采配を執る手で、賤しい物に触れると手が穢れますから、扇に乗せたのでござる」と言った。 兼続は、扇を跳ね上げて、大判を政宗の膝元へ投げ返した。政宗は大いに赤面したという。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.01.11

写真は「街角」 地球の自転は時速1千キロ。秒速380メートルという物凄いスピードです。そんな速さで回転しているのに、私たちはどうして振り落とされないのでしょう。ハンマー投げを見ていると、室伏選手が手を放すと、ハンマーはビューんと飛んでいきます。手を放さなければ飛んで行きません。それと同じで、飛んで行く力より、大きな力が我々を掴まえているんです。 引力。地球の引力は月さえ放さず掴まえて放さない強い力です。猛スピードなのに揺れないのも、地球の回転がスムースだからです。C・G・ユングの心 3 当時の精神病院では、管理者も患者と同じ建物に閉じ込められ、その建物も周囲から隔離されていて、まるで伝染病棟のようで、人々は、なるべくそちらを見ないようにしていた。 医者はほとんど素人同様の知識しかなく、気持ちも素人並だった。精神病は絶望的、宿命的なことであり、それが精神医学に影を投げかけ、したがって精神医学を志す者など変人とされていた。 現在日本の産婦人科は、長時間の重労働で、給料は安く、患者が死ねば殺人者扱いされ、これでは産婦人科医を目指す者など居なくなってしまう、この状況と似ていなくもない。 当時、パーセルの医学生は、エービングが書いた精神医学の教科書を使っていた。 ユングは、最終試験の準備をしていた時でも、最後までその教科書を読まなかった。彼はそれまで精神医学に興味がなく、賛意も反対意見も持たなかった。 彼が初めてこの教科書を読んだ時、精神医学がまだ未発達であることを知って驚き、またこの教科書には、著者の主観的な意見が表明されていることにも驚いた。客観的な情報を提供している他の教科の教科書とは、およそ対照的だった。 その時までユングは、「人格の病」についてまったく聞いたこともなかった。それは、彼にとって新しい世界であり、あの時、トランス状態になった少女のことを思い出させ、今までの無関心が、突然熱烈な関心へと変貌した。 エービングの教科書は、ユングの中に猛烈な感動を呼び起こし、直感的理解のようなものに圧倒されたのだった。その時は、それを明確に定式化しようとしても、多分できなかったが、自分が何か一つの焦点に触れたように感じたのだった。 彼はすぐにその場で、精神医学者になろうと決心した。この瞬間こそ、彼の医学者、心理学者としての人生の出発点になったのだった。 その決定は突然になされたが、それは彼の心の中にあった答えが得られない一連の疑問の到達点でもあったのだった。 その疑問とは、子供時代のことだった。古い記憶の中に、決して忘れる事のできない衝撃的な夢があった。 あの夢にはどんな意味があったのだろう、という疑問が湧き上がってきた。 いや、そもそも夢に意味などあるのだろうか?つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.10

写真は「冬晴れ」 ことわざ「鬼の居ぬ間に洗濯」 主人や上役が留守の間に、息抜きすること。わらしべ長者 1「長谷に参りし男、観音の助けによりて富を得たる語」 今は昔、京に父母も妻子も知人もいない若い侍がいた。(当時の侍とは武士のことではなく、貴族の家の警護や雑用など行っている身分の低いものだった) 若侍は長谷の観音に詣でて、「私は貧しくて、頼る人もいません、このままでは観音様の前で飢え死にしなければなりません、もし少しでも頼れるものを与えてくださるのなら、夢で示してくださいませ」と言って、観音の前で夢を見るために寝てしまった。 寺の僧たちがそれを見つけて、「これはいったい誰だろう、見れば食べ物もないらしい、もしここで飢え死にしてしまったら、寺に穢れがでる(当時の仏教寺院は、葬式宗教ではなかった)一体どなたを師とする人であろうか」と言った。若侍は、「私は貧しい者で、師もありません、只、観音様を崇敬しているだけです、食事をする所もありません」と言った。 僧たちはそれを聞いて、相談した。「あの男は、観音様を恐喝している、ここで死なせては寺の一大事だ、しからばあの男を我々で養わなければなるまい」と決めて、皆で交代で食物を与えた。 若侍はそれを食べながら、観音の前から去らず、昼夜念じ3×7の21日目になった。 その夜の夢に、観音様の御簾の奥から僧が現われ、若侍に告げた。「あなたは前世の罪報を知らず、強ちに責め申すこと、極めて不当ず、然れどもあなたを哀れむがゆえに、少しだけ教えよう、この寺を出て、最初に手に当たった物を捨てずに、あなたに賜ったものと思いなさい」 夢から覚めると、世話になった僧房を訪ね、食事をいただいて外へ出た。 大門の所で、石につまずいて転んでしまった。起き上がろうとすると、手に藁が当たった。「これが賜り物か?」と思ったが、夢のお告げを信じて捨てずに持ち去った。つづく現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.09

写真の花は「椿」 ダイエットとは、痩せることではなく、健康増進や体重調節のために制限を加えた食事法のこと。 シェイプアップは、美容や健康のために体型、体調を整えること。C・G・ユングの心 2 ユングは今までに見たどんなものとも異ったこの興味深い事態を、是非解明したいと思った。 彼の両親や周囲の人々が、あの少女は神経過敏症なのだという説明で納得していることが、彼にとっては驚きだった。 彼は、この難問の解明に体系的に取り組んだ。毎回、交霊術会の模様を詳細に記録し、覚醒時の少女の人格や行動を入念に調べた。 その記録は、心理学的な問題をいくつも提起していたが、その段階での学生ユングにはまだ理解できなかった。 少女の行動の説明になりそうな情報を求めて、彼は交霊術に関する本を読み漁ったが、何も納得できることは得られなかった。 大学の教師たちは、そんな馬鹿馬鹿しい問題にかかずらわって時間を浪費するなと言った。 しかしユングは、教師たちの言葉には耳を貸さず、精神病理学的劣性という広い領域に関する本を読んだ。 その中に、夢遊病、病的虚言など珍しい意識状態に関する論文があった。 ユングはそれを少女の状態の詳細な記録とともに、学位論文の土台にした。 この論文、「いわゆるオカルト現象の心理学と病理学のために」は、1902年に出版された。 最終学年になったユングは、型にはまった面白くもない精神医学の講義をわざわざとって、精神病院を見学し、一般的精神異常に苦しんでいる患者を見た。 ユングによると、当時精神医学は周囲からバカにされていた。精神医学を本当に知っている者は皆無で、人間を全体として見て、その人の病理学的特徴を全体像の中に包括しうるような心理学というものは、まだ無かった。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.08

写真は「雪吊り」 ことわざ「斧を掲げて淵に入る」 物にはそれ相応の用途があるのに、見当外れのことに使うこと。適材適所ではないこと。斧をかざして水中に入っても役立たないことから。百人一首 34 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな 左京大夫道雅 今となっては、ひたすらあなたを忘れてしまおうと、それだけを人伝でなく、直接あなたに言える方法があれば良いのに。 左京大夫道雅(さきょうにだいふみちまさ)は、藤原道雅。藤原道長の権勢に押されて、父伊周に死後は没落し、不遇の人生を送った。 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬瀬の網代木 権中納言定頼 夜がほのぼの明ける頃、宇治の川面に立ち込める霧がとぎれて、その絶え間から川瀬に仕掛けられた網代木が、あちらこちらに見えるようになる。 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)は、藤原定頼。和泉式部の娘の小式部をからかって、やりこめられたという逸話がある。現代語「源氏物語・須磨」はこの前にあります。
2009.01.07

写真は「クチナシの実」 フィットネスとエアロビクス フィットネスは健康を意味する言葉で、体力をつけるという意味のフィジカル・フィットネスからでた言葉。 エアロビクスは、体に酸素を十分に取り入れながら長時間行う全身運動のこと。日本では、激しい運動と静かな運動を組み合わせたエアロビクス・ダンスを指し、これは競技化され、世界選手権もある。 フィットネスは健康な体作りの全体を言い、その一つにエアロビクスがある。C・G・ユングの心 1 カール・グスタフ・ユングは1875年にスイスで生まれた。 彼の父はプロテスタントの牧師で、ラインの滝の近くの教会を任されていた。 後に一家はバーゼルに移り、少年ユングはそこで就学し、1895年には、バーゼル大学の医学生となった。 医学の最終試験が近づくと、専攻を決めようと様々な可能性を検討したが、なかなか決心がつかなかった。 外科も選びたかった。だがそれは卒業後も金を掛けて勉強する必要があり、それは父の援助を期待できなかった彼にとっては無理な相談だった。 彼はすぐにでも収入を得なくてはならず、どこかの総合病院にポストを見つけることが、医者としての第一歩として相応しいと思った。 ところが、事態の進展は、些細な出来事によって、予期せぬ方向へと彼を導いたのだった。 彼は親戚の子供たちに誘われて、こっくりさんの集いに顔を出した。 十五才の少女が、普段はドイツ訛りでしか話せず、引っ込み思案で恥かしがりやなのに、トランス状態になると大胆で、威厳さえ見せたのだった。 学生ユングは驚嘆した。普段の少女を良く知っていたが、こんな一面は今まで見たことがなかった。 一緒にいた子供たちは、これは遊びとしてすんなり受け入れていた。だが、ユングは異っていた。 これは驚くべきことだと思った。普段の十五才のあの少女が、教養豊かな大人の女性の態度と話し振りをしめすなんて。つづく「ラ・ソレリーナ」はこの前にあります
2009.01.06

写真は「猫たち」 食べ残した食パンは、冷蔵庫より冷凍庫で保存しましょう。空気に触れないようにラップで密封して冷凍しておくと、2~3週間は保存でき、冷蔵庫保存より新鮮さをキープできます。猫ですにゃん 人間の皆さん、良いお正月を過しましたか? 猫には正月もお盆も関係ないにゃん。 猫は環境が変わるのは嫌いです。新しい家に猫を連れて引っ越すと、押入れなどに隠れて数日間も出てこない場合があります。 なにしろ猫には事情が理解できないから、知らない世界へ突然連れて来られたように感じちゃうんだ。 マンション暮らしの猫でも、たまには外の世界を散歩してみたいなんて考えてはいません。 無理に外へ連れ出すと、パニックを起し、とんでもない方へ全速力で走り去ったりしちゃうよ。 室内で飼われている猫は、部屋の中だけが自分のテリトリーのすべてなんだ。外の様子が気になって、雪なんか降っていると不思議そうに眺めてるけど、散歩や旅行に行きたいなんて思ってにゃいからね。 風が吹いて木の葉が揺れてたり、小鳥や蝶々が庭を飛んでたりすると、傍へ寄って遊びたいと思うけど、繁殖期以外は外へ行きたいとは思ってないよ。 飼い主は、外出の経験をさせてあげたいなんて思うかもしれないけどね。 散歩に慣らすのは、生後2ヶ月までなら可能だよ。 路上猫は、母猫と一緒に行動して、餌を得る方法を学びます。その習性を利用して、生後2ヶ月までに散歩をさせて慣らすと、猫でも散歩が好きになるらしいよ。 菜の花人間です 娘たちの部屋へは、猫は入れないので、みんなが興味津々、空きあらば入ろうと狙っています。 去年の夏には、ミーちゃんが足元からするりと入ったのに気づかず、1時間以上閉じ込めてしまいました。 大晦日には、ベランダで洗濯物を取り込んでいる隙に、にゃんちゃんがそーッと入ったのに気づかず、2時間も閉じ込められて、「出してー!」と鳴くと、他の猫たちが騒ぐので、何事かと外まで見回ってしまいました。 娘がドアを開けると飛び出してきました。その後は、ベランダの窓を開けても、入ろうとしなくなりました。
2009.01.05

写真は「雪(去年)」 ことわざ「落ちれば同じ谷川の水」 雪や雨など、異う形で降っても、いつかは同じ水に返る事から、人の人生は様々でも、いつかは皆死に皆同じ土に返ってしまうという意味。 妻夫木聡の直江兼続直江兼続 1 戦国時代末期、越後の国で異彩を発揮した直江兼続(なおえかねつぐ)。 智将直江兼続が放つ豊かな才能と、ゆるぎない信念の光彩は、乱世を照らし、並みいる群雄の耳目を引き、荒ぶる武将たちの心を射抜いた。 その根幹を成したのは、神と崇拝していた上杉謙信の教え、愛・義であり、直江兼続は生涯、この教えを守り抜き、上杉家の忠臣、名宰相として敏腕を振るった。 しかし、その人生は苛酷だった。混濁した世を駆け抜けた直江兼続の、清冽で仁愛に満ちた公明正大な生き方は、当時の武士や庶民の心を惹いたばかりではなく、現代に生きる我々の心も捉えられるに違いあるまい。 謙信亡き後の上杉家を一身に引き受け、守り立て、私利私欲を捨てて忠節を尽くした直江兼続。 その人物評には、智勇兼備、勇猛果敢、純忠無比、公平無私、清廉潔白などの四字熟語が並ぶ。 その上大柄な美丈夫であり、義に厚く、家臣や領民を愛し、弁が立ち、文才もあった。 豊臣秀吉も、直江兼続の才知才腕に惚れ込み、自分の家来にしようと、かなり口説いたと言われるが、上杉家への義を重んじていた彼は、きっぱりと断った。 秀吉はとうとう諦めたが、豊臣姓を名乗ることを許し、出羽米沢三十万石を与えた。石田三成の所領は十九万四千石、加藤清正が二十五万石だった。 直江山城守兼続は、上杉謙信の跡を継いだ景勝の家老である。 秀吉は兼続を直臣にすることはできなかったが、「直江山城、小早川左衛門、堀監物などは、天下の仕置きするとも、仕りまじき者なり」と激賞している。 小早川は毛利元就の三男。兄の吉川元春とともに毛利両川と称された名将で、豊臣政権では五大老の一人だった。 堀監物は、上杉家が会津へ転封された後、越後春日山城へ入った堀秀治の補佐役だった。 天下の政治を任せられるのは、直江と、その二人以外に居ないと、秀吉は言うのだった。つづく「夢の話」はこの前にあります
2009.01.04

写真の花は「モクレンの蕾」 慣用句 「幸先が良い」 良い前兆があること。使い方 「ちょうど今日からバーゲンが始まる朝に来合わせるとは、幸先が良いね」夢の話 3 親鸞が、聖徳太子の化身である救世観音の夢見から悟りを得たように、夢は宗教の啓示として欠かせなかった。 古代や中世の説話などには、神仏のお告げの話題が数多く見られ、夢は信仰を育む貴重な手立てだった。 問答のやり取りで教義を深める論議では、事前に論議の課題を知らされるが、これを夢見といい、文章は夢文といった。夢の意義が法会の儀礼から浮き彫りにされる興味深い例である。 仏教の修行でも、夢は重視され記録された。「厳島奥院千日籠結願求聞持」と題された文書がある。 1587年12月25日、厳島に籠っていた寛海の夢に、美女が現れて赤子を差し出し、弟子にしてほしいと言った。赤子を膝に抱いた寛海は承知して、書付を書いたところで目覚めた。 その夢を思い合わせると、12年前、土佐で求聞持法を行っている時の夢に、美女が赤子を抱いて現れたことがあった。今度の夢も、あの時と同じ美女と赤子だったと、寛海は感嘆した。 千日籠の結願の夢と、修行時の夢との符号がうれしい奇跡とされた。 美女や子供の弟子入りなど、深層心理から様々に読み取ることができるが、夢をどう解くかが、修行の焦点でもあった。 若い僧が、京の地蔵堂に籠っていた女に恋をしてしまい、地蔵になりすまして、最初に出会った男と結婚するようにと託宣した。 ところが、履物を失くしてしまい、遅れて女に会えなかった。 女は、最初に出会った武士入道と結婚してしまった。 こんな滑稽な説話もあるが、何も知らない女から見れば、地蔵のお告げによる霊験譚にほかならない。 この話は失敗談のように見えていて、実は地蔵が仕組んだ話だったともいえる。 夢は異界からの信号、神仏や異類との交信の回路であり、果たせぬ願いを叶えたり、恋人との逢瀬がかなう通い路であった。 また、夢は売り買いされたり、横取りされたり、悪用されるほどの価値あるものだった。 精神分析学をはじめ、夢は重要な課題である。夢は神秘的で、不可思議な心の領域であり続け、物語の豊穣な源泉であり、夢判断や夢解きもまた、物語であると言える。おわり
2009.01.04

写真の花は「木瓜」 ラガービールとドラフトビールの違い 一般的には普通のビールをラガービール、生ビールをドラフトビールと区別している。 生ビールは発酵と貯酒の後、精密ろ過機でろ過して酵母や酵素を取り除くだけで、熱殺菌しないもの。欧米には生ビールはないらしい。ドラフトとは「引っ張り出す」という意味で、樽から注ぐビールのこと。熱処理したものでも、樽に詰めてあれば生ビールという国もある。 発泡酒は、麦芽比率と使用原料で区別される。夢の話 2 法隆寺の夢殿は、聖徳太子が死去した旧跡地とされ、太子信仰のメッカである。 現在の夢殿は、太子の死から100年後の、739年に創建されたといわれ、太子の忌日法要である聖霊会が開始され、太子信仰の中心的建物になり、その後何度か造営され、鎌倉時代に大掛かりな修復工事が行われたものである。 夢殿の形態は八角形であり、八角円堂という建築様式で、これは興福寺の北円堂など故人の遺徳を偲ぶものである。 夢殿の「礼盤の下に汗をかいている」とは、夢殿のお水取りと関係がある。 お水取りといえば東大寺が有名であるが、法隆寺にも同じ伝統行事がある。 夢殿の場合は、礼盤(寺僧が坐る畳の台座)を使用し、その台座の裏を毎年旧暦の1月12日の早朝、太陽に当てると奇妙なことに、その部分が水気を帯びてくるという。 その水気を汗にたとえて、礼盤の下に汗をかいているという。その水は、観音の水と称されている。 水の出方は毎年異なり、その出方が多いか少ないかでその年の作物の出来具合を占う神事が、現在でも行われている。 夢殿の地下には井戸があるといわれているので、湿気が多いのかもしれない。地下は未調査のため、どうなっているのか判らないらしい。井戸や池などの上に堂を建てる例は少なくない。 聖徳太子が観音の化身であるという信仰が定着した平安時代から、夢殿の本尊は救世(くぜ)観音と呼ばれるようになり、12世紀には秘仏とされ、厨子の中に封印された。秘仏を安置した厨子を開扉すれば、神罰によって大地震が起こり、全寺が崩壊するという伝承があった。 明治になって、フェノロサが封印を解いて、その姿が一般に知られるようになった。 救世観音の一見「呪いの人形」のような容貌は、太陽の光のもとでは慈愛に満ちた表情であり、光背を頭部に直接打ち付ける技法は、五胡十六国時代の仏像などにも見られる。 衆生救済のシンボルである宝珠を両手に捧げ持つ形式の救世観音像は、百済が起源とされるが、宝珠を火焔で包むという霊威を強調した表現は百済には見られない日本独自のものである。 この救世観音が、なぜ秘仏にされたかは、大きな謎のままである。
2009.01.03

写真の花は「梅」 ことわざ「驕る平家は久しからず」 栄華の絶頂を極めても、慢心する者はやがて必ず滅びるという戒め。夢の話 1 現代の我々は、夢と日常生活は切り離して考えるが、昔の人々にとって夢は生きる上で欠かせない大事なものだった。 夢に見た事は現実を左右するものであり、夢解きをする博士もいた。 現代でも夢占をする人は多いが、昔の唯識学のプロが優れていたのは、フロイトやユングの比ではなかったらしい。 正夢とか逆夢という言葉は、現代人も使っている。夢は今でも依然として神秘的な領域にあって、精神分析学では無意識の領域の現われとして深層心理の面から重要視されている。 夢で見る内容は一種の物語であり、絵画や文芸のネタとして、深く結びついている。 聖徳太子は、斑鳩の宮の傍らに夢殿を造り、一日に三度沐浴をして入った。 ある時、七日間も夢殿に籠って鍵を掛け、音も聞こえなかった。周囲の人々は心配したが、高麗の恵慈法師が、「太子は瞑想中なので、おこしてはならない、八日目には出ていらっしゃる」と言った。 傍らの机の上に一冊の経典があり、太子が恵慈に語ったところによると、「私が前世で衡山(こうざん)に居た時に奉じたお経がこれです。以前、小野妹子が持ち帰ったのは、私の弟子のお経でした。三人の老僧は私がお経を納めた場所を知らなかったので、間違ってしまったのです。それで私は自分の魂を送って取って来させました」というわけだった。 また、百済から十人の僧がやって来て、「太子が前世で、衡山において法華経を説き給いし時、私たちは盧岳の道士として、教えを受けました」と言った。 翌年、小野妹子は再び唐の衡山に行った。前に会った三人の老僧のうち、二人は亡くなっていて、残った一人が、「去年の秋、あなたの国の太子が、青龍の車に乗って、五百名を従え、東の方から空を踏んで来ました。そして古い室の中にあったお経を取り、雲を従えてお帰りになりました」と言った。 太子が夢殿に七日間籠っていたのは、そのせいだった。
2009.01.02

慎んで新年のお慶びを申し上げます 2009年は どん底から這い出す年 皆々様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします 本年もどうぞよろしくおねがいします 平成二十一年元旦 福寿草初日の出を拝んで、初詣に行ってきました。初夢 初夢で縁起が良いのは、「一富士 二鷹 三茄子」といわれています。 おめでたい初夢は、枕の下に七福神が乗った宝船の絵を置くと、良い初夢を見られると言い伝えられています。 また、「永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな」という歌を、宝船の絵に書いて枕の下に入れて寝ると、良い夢が見られるそうです。
2009.01.01
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