全41件 (41件中 1-41件目)
1

先週は雪が降ったり、私たちが15分で走りぬけた所が、二時間も掛かったりだったそうですが、天気もよく、一度も渋滞にも遭わず、日頃の行いが良かったんでしょうか。 展勝地の桜はもう葉桜になっていましたが、こいのぼりが泳ぐ空は良く晴れていました。 弘前城 陸奥の小京都と呼ばれる弘前市、日本最北の五重塔、最勝院をはじめ、23の寺が建ち並ぶ新寺町は風情のある通り。桜吹雪の中の散策はしっとりした情緒が漂いました。 寺町通りは、33の長勝寺構えの寺が建ち並び、津軽富士と呼ばれる岩木山を仰いで武家屋敷が残っています。 弘前城の築城は1603年、築城当時に築かれた天守閣は、1627年の落雷で消失してしまいました。現在の天守閣は、1810年に、本丸東南に築かれたもの。城内にある数千本の桜は、何ともいえない日本情緒が味わえます。 お堀に散った桜の花筏は、初めて見る見事さでした。 ところが、帰りの新幹線は大幅に遅れてしまいました。やはり日頃の行いは良くなかったようです。
2009.04.30

写真の花は「ブルーベリー」 名言名句「離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり(世阿弥)」 世阿弥(ぜあみ)は室町時代前期の能役者。自分が演じながら、それを見物席から見るように見ること。自分の行動を客観的に見て、地道な努力が必要。C・G・ユングの心 37 現実にも、ただ一つの事実だけをとって他人を判断することはできない。同じく、一つか二つだけの夢を分析して結論を出すのは賢明ではない。 強烈な内容の夢は、一つでも重要といえるが、その時でも、他の多くの夢を分析し、患者と医師が考察を続け、その夢の意味がハッキリしてくる。 夢は、先に見た夢と、後から見た夢が関連している場合がある。夢は記録し、折りにふれて読み返す必要がある。 夢は、自分が興味を持ち、評価することによって、まるで喜んでいるかのようにメッセージを送ってくる。 ユング自身、自分の夢を大いに重要視していた。 心の病で治療を受けようとする人は、最初に医師の許へ訪れることを重大なことと捉える。患者にとって精神科医との面接は、まるで勝手がわからないからだ。 患者は、夢分析のことを聞いたことがあるかもしれないし、それについて複雑な感情を抱いているかもしれない。 初めての不安な状況の中では、意識的な心ばかりか、無意識の心も活発に動き始める。 分析家に、「最近、何か夢を見ましたか?」と尋ねられると、昨夜夢を見たと答える人が多い。それを初回夢という。 単独の夢から結論を引き出すのは良くないが、初回夢には注目すべきだ。それは、特に重要な事に焦点が当てられていることが多いからだ。 ある女性は、夢の中で熱帯の国にいた。彼女は一人で囲いの中に居た。囲いは森の中にあり、何のためのものか判らなかった。一人ぼっちが堪らなかった。囲いはあきらかに何かからの防御のためのもので、外には色々な猛獣が一杯居るのだと思うと、囲いは必要だと思った。彼女が気づいたのは、一頭のライオンと、二頭のトラだった。河馬もいた。囲いの外を窺ってみると、猛獣達が皆彼女を見ていた。驚いて目が覚めた。 この女性の問題は、感情生活と関連していた。男性に会うのが怖ろしいのだった。夢について議論しているうち、彼女には次のことが判ってきた。本能、特に性本能や、彼女の人格の他の部分(夢の中の猛獣)がコントロールされていない、もしくは彼女が意識的にコントロールしていない状態にあった。だから、男性を危険なものと思って、囲いの外へ締め出しておかなければならなかったのである。つづくシラネアオイ 角館に咲いていた初めて見た花現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.04.28

写真の花は「シラン」 澪標 6 二条院の紫の上には、明石の人のことはあまり話さなかったが、もし他所から耳に入ったらと思って、「世の中は上手くいかないものですね、子があればと思うところには、その様子もなく、思いがけないところに生まれるのです、女の子だというから、張り合いもありません、構わなくてもよいかもしれませんが、捨てても置けず、呼び寄せて、お目にかけましょう、憎まないでやってください」と打ち明けた。女君は、「憎まないでなんて仰るのは変ですわ、私の心は自分でも可笑しいほど、人を憎むことなどできませんのに」と恨めしげに皮肉を言った。 この年月、離れ離れでお互いに心を通わせ、恋しく思い思われていたので、何もかも男君のなさることは、その時だけの浮気に過ぎないと、もう一度思い直した。「明石の人をあれこれ考えてやるのは、別に思うことがあるからなのです、思い違いしないでください」 などと話しながら、切なかった別れの宵の歌などを、また思い出した。仄かに見た女君の容貌、その折の言葉、琴の音、すべて心に留まっている様子なので、紫の上は、自分の方はこの上なく悲しい思いに嘆き焦がれていた時に、たとえお戯れにしろ、他の女に心を分けておいでだったのかと、穏やかならぬ気持ちになって、所詮、私は私と、庭を眺めていた。 思うどち靡く方にはあらずとも われぞ煙にさきだちなまし(二人が思い合う方角ではなしに、私は煙になって消えてしまいたいです)と、独りごとを言うのを、君は聞きとがめて、「何を言うのです、嫌になります」と言った。 誰により世を海山に行きめぐり 絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ(誰のためではなく、ただあなたのためだけに、私は海山を流離って苦労したのです)「どうしたら私の心をお見せすることができるでしょう、命だけは思い通りにいかないものです、つまらないことで人の恨みを追うまいと思うのも、あなたと一緒に長く生きていきたいと思えばこそなのに」つづく
2009.04.27

写真の花は「クレマチス」 チヴォー氏の最期 16 アントワーヌは、ドアを開けるとすぐチヴォー氏の顔を見た。目を閉じた父は、確かにまだ生きていた。 ベッドの周囲には、ドクトル・テリヴィエ、スールセリーヌ、アドリエンヌ、そしてもう一人、彼が知らない年寄りの修道女が立っていた。 テリヴィエは、アントワーヌを部屋の隅へ連れて行って、「間に合わないかと思ったよ」と、急き込んで言った。「腎臓不全だ、僕はづっとここに居た、君が帰ってこなかったら。看護人も呼ぼうと思っていた、昨夜は発作が三回あった、最後のは強かった」「腎臓はいつ止まったの?」「24時間前から、昨日の朝、セリーヌが気づいた、注射は止めている」「そうか」 アントワーヌは首を振った。二人は顔を見合わせた。テリヴィエには、アントワーヌの気持ちが解かった。「で、ジャックはどう?」 テリヴィエが言うと、アントワーヌの目が光り、それから瞼を伏せ、再び視線を上げた。「探し出して、連れ帰った、そこに来てるよ」 テリヴィエは、今は質問すべき時ではないと思った。「じゃあ、僕は帰るよ、今日は辛いだろう・・・」 アントワーヌは部屋を横切りながら、ジャックはどうしたかなと思った。だが今は、弟にかまっている暇はなかった。 アントワーヌとテリヴィエは、階段の下で握手をした。「率直に言ってくれないか、どうだろう?」「尿毒症が、おそらく早い・・・」 アントワーヌは、もはや時間の問題だと思った。 ベッドの枕元に座っているアドリエンヌと修道女は、チヴォー氏の発作が近いことに気付かなかった。 病人の息づかいが激しくなった時には、すでに痙攣を起し、首筋が硬直し、頭がのけぞっていた。 アドリエンヌは大急ぎで、玄関までアントワーヌを呼びに行った。つづく
2009.04.26

写真の花は「メタセコイヤ」 * 今朝は早く出かけて、一泊して明日の夜帰って来ます。澪標(みおつくし) 5 源氏の君が歌を詠むと、宣旨の娘は物慣れた様子で返歌をするので、君はなかなか心得があると思った。 乳母は車で京を立った。君は親しい召使をつけて、見送った。御守り刀の他、しかるべき品々は、置き所もないほど多く、心の届かぬ隙もなかった。 入道が、どんなに幼い姫君を大切に愛で慈しんでいるかと、その様子を想像すると、思わず微笑み、また一方では、しみじみ可哀相にも思った。 御方への手紙にも、ゆめゆめ粗略に扱ってはならぬと繰り返した。 いつしかも袖うちかけむ乙女子が 世をへて撫づる岩の生いさき(生い先長い子を、いつかは手元に引き取って、世話ができるように願ってます) 摂津の国までは船で、その先は馬で急いだ。 入道は待ち受けていて、君の気持ちを喜びながら、忝ながること限りなく、都の方を向いて拝み、世にも稀な君の思し召しを思うと、いよいよ幼い姫君が大切で、怖くさえあった。 幼子が、この世のものとも思えぬまで美しいのも、類いなく見えた。乳母も、なるほど源氏の大臣が、尊いお心遣いで大切に養育なさろうと思うのもご尤もと見受けられるにつけても、こんな片田舎に来てしまったと後悔も覚めてしまい、心から可愛らしいと思ってお世話した。 子持ちとなった女君は、づっと物思いに沈んでばかりいて、気力も衰え、生きているのも空しいように思っていたが、君の行き届いたご配慮に、いくらか心が慰められて、お使いの者にもできる限りのもてなしをした。 お使いの者は、早くこの様子を大臣にお報せしたくて、ひたすら帰りを急ぐので、女君は心に思っていることを手紙に書いた。 ひとりして撫づるは袖のほどなきに 覆うばかりの蔭をしぞまつ(一人では子供を育てられませんので、あなたのお世話を頼みにしています) 君は、不思議なほど姫君のことが気に掛かるので、早く顔を見たいと思っていた。つづく
2009.04.25

写真の花は「オギザリス」 名言名句「ものの事実は手でつかめ(豊田章一郎)」 現場に出向いて体を使って作り上げるのが、物作りの楽しいところだ。手でつかんで実感すること。C・G・ユングの心 36 夢を探求する場合は、偏見や先入観を捨てて、本当に理解したい未知の対象を扱うのと同じように、夢へアプローチすることである。 そして、常に開かれた心を持っていることが大切である。そうしないと、自分が勝手に考えたことに、夢を合わせて作り変えてしまう恐れがある。 夢の全てに意味があるわけではないが、多くの夢は理解され、それまで隠されていた情報が与えられることによって、価値あるものであることが判る場合がある。 ユングは、そうした意味ある夢を繰り返し見たことによって、どんな懐疑や批判も、夢が取るに足りないものだと証明することはできないと確信した。 夢は無意味に思えることが多いが、実は心の夜の領域から我々へ伝えられる謎のメッセージであり、それを読み取る判断力が必要なのである。 意識的経験は誰も疑わないのに、無意識的出来事の重要性を疑うのはなぜだろう。 神経症の治療をするテラピストにとって、患者がみた夢を理解する手助けをすることが目的である。 神経症は、説明のつかない病気だと思われている。患者は意味も理由もないのに、自分の意識的な意図をくじくような不安や恐怖心、強迫観念によって人生が台無しにされてしまう。 その時、夢は現実的な意義を持つ。意識的努力や、意志の力では病気は克服できないが、夢の意味を把握できれば、無力な意識に足りない部分を補うことができる。 夢は、訳のわからないものではなく、夢を見た個人の所有物である。セラピストの職務は、患者と協力して、病人自身と症状の意味するものを自覚させることにある。患者の人生や環境、家族状況について記録をとることが最初に一歩だ。 夢は、内面的状況を描写するものなので、生きている人間に即した考察がなされなければならない。 医師だけが納得したところで、患者には何の役にも立たない。患者を一緒に納得させなければならない。 医師と患者が力を合わせて努力することによって、患者自身の一部である無意識に対する責任が取れるようになるのである。 夢は意識的な心のコントロールが及ばない不随意的な無意識の心的過程の表現として生じる。 それは患者の内的心理と、現実をあるがままに示す。つまり医師が憶測したり、患者がそうありたいと願っているようにではなく、あるがままに表現するのである。つづく「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.25

写真の花は「コデマリ」 チヴォー氏の最期 15 アントワーヌは口数少なく、ジャックが別に返事をしなくても済むような話し振りだった。 こうしてジャックと一緒にパリへ帰ってきたことが、この上なく当たり前のことのように思われた。 二人はユニヴァルシティの歩道に降り立ち、階下の玄関に入った。 レオンが駆けつけてきてドアを開けたとき、アントワーヌは落ち着いた調子でテーブルの上にかがみこみ、「お早う、レオン、ジャックも帰って来たよ」と言った。「若旦那様、まだ上へはいらっしゃらないんですか?」 アントワーヌは、サッと顔色を変えた。「旦那様が、とてもお悪いんですよ、ドクトル・テリヴェエがづっといらして下さいます」 レオンが言い終わらないうち、もうアントワーヌはドアの向こうへ踏み出していた。 ジャックは玄関の真ん中に立ち尽くしたままだった。 現実ではないような、夢のような印象だった。そして兄の後を急いで追った。 階段は暗かった。「早く、急いで」と言いながら、アントワーヌはジャックをエレベーターの中へ押し込んだ。 エレベーターの動く音が、焼きつくような思い出をよみがえらせた。この檻の中、黙って乗せられた時のこと、マルセーユから帰って来た時のことだった。 おばさんは、廊下の端から端まで歩き回っていたが、エレベーターが止まる音を耳にした。丸くなった背が許す限りの速さで駆けつけた。 やれやれアントワーヌが帰ってきた。そこにジャックの姿を見たおばさんは、茫然と立ち尽くし、ジャックがキスしようとかがむと、「やれやあれ」と言った。 数日前から、おばさんはどんな突発的なことが起きようと、この上驚くことはあるまいと思うほど動転していた。 部屋の中は明々と照らされ、ドアは全て開け放たれていた。 シャール氏はおろおろしていた。彼はジャックの顔を不思議そうに眺め、目をしばたたいて、「あなたでしたか?」と言った。つづく
2009.04.24

写真は「花咲く道」 ことわざ「住めば都」 どんな不便な所でも、そこに住んでいれば愛着がわき、住み良くなるということ。イスレンのバラ 第二章 15 川の水は朝日を受けて光り輝き、触れてみなくても何故か温んでいることが判った。イスレンのバラと私は、並んで堤防の道を歩いた。「ヘルメス錬金術大全は、エジプト人の秘伝の知識であるが、その実行方法は不正確だった。ヘルメスは息子に、感覚を抑えることによって獲得することができ、星の影響を無効にし、人間の中に神性を生じさせると教えた。フィチーノは聖職者でもあり、医者でもあったので、現実的感覚の持ち主だった。彼は新プラトン学派で、この理論の適用を探求した。彼は、その理論とキリスト教の創造的な言葉と概念を結合させ、自然の魔法に到達した」「自然の魔法?」「自然の魔法は、創造の微妙なエネルギーであるスピリット・ムンディを獲得するために、諸要素、鉱物(ミネラル)植物、そして香水やワイン、詩や音楽などの中に刻まれている惑星の特徴、共鳴を利用した。西洋の秘伝主義の歴史の中で、古代の文献の翻訳者、解説者としての役割だけでなく、大きな影響を与えたフィチーノは、著作によっても顕著な存在だった。彼のお陰で、ルネッサンスの思想の一部として、欠くことのできないまでに、哲学の中にそれ自体を形成させたのだった。彼の最も著名な弟子は、ピコ・デラ・ミランドラで、彼は神童と言われ、23歳の時には、様々な宗教や哲学、秘伝の科学について当時の知識のすべてを学習していた」「まるで、イスレンのバラみたいですね」「フィチーノはカバラを軽蔑していたが、ピコはその伝承の中に、フィチーノの形式に加えることができる一つの補足を発見した。ピコは、火と光の世界、最高天のエネルギーに基づいたカバラ魔法を使うことによって、自然の法則を適切に強化できることを発見したのだった。この知識は天使や、大天使を、神の言語であるヘブライ語で呼び出すもので、彼にとって考慮するに足る効力を持っていた」「魔法使い!」「聖ジェロームと、ニコラス・クザーヌスの、イエスの名に関する理論を復活させることによって、カバラはキリストの神聖さを証明した。そうしてピコは、クリスチャン・カバラの基礎を築いた。彼の考え方は普遍的思想家であり、また全ての哲学体系が一つに集ることを論証しようとしていた」つづく 日野の空 日野の地名の由来は三説あります。1、飛火野説 上古武蔵国国府が府中にあったころ、日野台地の上に烽火(のろし)台を設置したという。当初は火野と書いたが、713年に日野に改めた。2、日奉宗頼(ひまつりのむねより)の日宮説 武蔵七党のうち、西党の祖日奉宗頼が、アメノミナカヌスノカミを勧請して、日野宮権現を祀ったという説。3、日野中納言の来住説 1425年、日野中納言資朝玄孫、宮内資忠が移住してきて、日野と称したという説。 私は 1の説が正しいと思います。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.04.24

写真の花は「オダマキ」 澪標 4 源氏の大臣自身は、自分が帝の位に就くことなど、まったく掛け離れたあるまじきことと考えていた。 亡き父院が、数多くの御子たちの中で、とりわけ光君を御寵愛くださったにもかかわらず、親王にはせず、臣下にと定め置いた気持ちを思うと、帝位を践むのは遠い運命だった。 今の帝が、実は我が御子であることは誰も知らないが、人相見の言ったことに間違いはなかった。 そして明石の幼い姫君の将来を思ってみると、住吉の神のお導きで、あの明石の女君とは、世に類ない宿縁があって、だからこそあの頑なな入道が、及びもつかない高い望みを持ったのであろう。 そうだとすれば、畏れ多い皇后の地位に上るべき人が、あの浦辺で生まれたとあっては、おいたわしくもあるし、勿体ないことであろう。 もう少し経ったら、京へ向かえようと思って、急いで東の院を修理するように言いつけた。 明石では、役に立つ乳母も見つかるまいと思って、亡き父院に仕えていた宣旨の娘が、先頃子を生んだが、父が亡くなって後は寄る辺ない暮らしをしていると聞いたので、乳母になる話を進め、取り決めた。 女はまだ若く、格別深い考えも持たない人で、誰も出入りしない荒れた家で、毎日ぼんやりしている心細さなので、深く思案もしてみずに、源氏の大臣の話を、一途に結構なことと思って、お勤めすると返事をした。 君は外出したついでに、お忍びで女の家を訪ねた。宣旨の娘は、明石へ行くと返事はしたが、いざとなるとどうしようかとまだ迷っていたが、君が訪ねてくださったありがたさに、何もかも慰められた。 御所の宮仕えも少しはした経験があるので、一度や二度は見かけたことも会ったが、その頃に比べて、めっきりやつれていた。 家の構えは、さすがに大きいが、ひどく荒れてしまって、庭の木立も鬱陶しく茂り、こんなの寂しい所で、どう暮らしていたかと思った。 女は若々しく器量も良いので、目を離さずに眺めいって、何やかやと緒戯れになり、「明石へ行かせるのをやめて、傍に置いておきたい気がする、どう思う」などと言うと、女は、本当に君のお傍でお仕えできたら、悲しい身の上も慰むであろうと思った。つづく
2009.04.23

写真の花は「アイリス」 名言名句「見せかけだけの和はいらない(河合滉二)」 波風立てずに表面だけ仲良くしていることはよくあること。しかし、切磋琢磨するところに信頼関係がうまれるもの。馴れ合いは良くない。呪いの青ダイヤ 1 マリー・アントワネットを刑場の露と消えさせたフランス革命は、その19年前、ルイ16世が即位し、アントワネットが王妃となった時から始まった。 飢えと重税に苦しむ国民をしりめに、アントワネットは国費を自分の装飾品や、賭け事に使い、国の経済を傾けさせた。 革命の火蓋が気って落とされたのは1789年で、パリ市民が武器をとってバスティーユ牢獄を襲撃した。 争乱はすぐにフランス全土へ拡大し、国民の怒りは影の薄いルイ16世を越えて、王妃マリー・アントワネットに集中した。 王妃としての公務も、国民のことも省みない彼女を、ギロチン台へと送り込んだのだった。 処刑は1793年10月16日だった。彼女は長い髪を切られ、まだ37歳の若さなのに、あまりにもやつれた姿で群衆の前に立たされた。 最期まで王妃としての誇りをもったまま死にたいという心を表すかのように、王妃としての喪服である白衣に、白い帽子をまとっていた。 アントワネットを見るため、広場に群集が集った。 その日、パリは小雨が降り、気温は15℃だった。 両手を後で縛られ、腰縄をつけられて、彼女は目を閉じ、階段を昇った。 片方の靴が脱げた時、集った群衆から嘲笑の嵐が巻き起こった。 12時15分死刑が執行された。 ギロチン台から転げ落ちた彼女の首は、高く掲げられ群集に曝された。喝采が起こった。 遺体は荷馬車に乗せられ、ルイ16世が眠るマドレーヌ墓地へ運ばれた。 墓地には穴も掘られていなかった。埋葬が行われたのは、その二週間も後だった。 革命の陰で、誰から言い出されたのか、ある一つの噂が広まっていた。 アントワネットを死へと導いたのは、ルイ14世の頃から王室に受け継がれていた「世界最大の青ダイヤ」と呼ばれる宝石だというのだ。 アントワネットの物欲は激しく、国庫から多額の公金が支給されていたにもかかわらず、彼女は多くの宝飾品を欲しいまま手に入れ、毎年170着のドレスを新調していた。 それらの宝飾品の中で、最も気に入っていたのが、その青ダイヤだった。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.04.23

写真の花は「シャクナゲ」 霊界からの遺言 26 ある時、スウェデンボルグが霊界で出会った霊たちは、霊的黄金時代の霊たちだった。 彼らは、スウェデンボルグの頭上はるか高い所に姿を見せたが、最上の幸福の中で、皆一緒に生きているように見えた。 彼らは、他の人々は滅多に宇宙からやって来ないと言った。彼らの天国、つまり最上の天国には、黄金時代以後、来る霊はほとんどないというのだ。 現在の最上の天国も、主な住民は彼らだけなのである。 彼らは地上で人間だった時にも、本当の意味での地上の楽園で幸福に暮らしていた。 そして、眠るように安らかな内に、霊界へ移った。その後、それ以上光り輝く永遠のパラダイスで、同じように幸福な生を享受しているのである。 最上の天国の美しさや、そこに住む霊たちの幸福な様子について、一つの観点から紹介しよう。 ある時スウェデンボルグは、天国での結婚について考え、それを知りたいと思った。 そこへ一人の霊が現れて、彼を黄金時代の霊が住む天国へ案内してくれた。 広い平原へ着くと、そこには数多くのテントが連なっていた。案内の霊は、「ここはキャンプです、エホバの信奉者の霊たちは、ここに住んでいます」と言った。 ある一つのテントの前に、少年と少女が立っていた。近づいてみると、彼らは子供ではなく、立派な成人だった。不思議に思って、案内の霊に理由を訊くと、「ここの住民は、遠くから見ると皆、子供のように見えます、それは彼らの心が無垢だからです」と言った。 一つのテントの住人が、彼をテントの中へ招じ入れてくれた。 その霊は夫婦で、顔や様子を眺めていると、二人は一人であることが判った。「我々は一人です、妻は私の中にあり、私の生命は妻の中にあります。霊体は二つでも、霊魂は一つなのです。我々の結びつきは胸の中にある心臓と肺という、二つの神の居所が一つに結びついているのと同じです。妻は私の心臓であり、私は妻の肺なのです」つづく
2009.04.22

写真の花は「牡丹」 ことわざ「杜撰(ずさん)」 間違いや不注意が多く、いいかげんなこと。杜は中国の詩人杜黙のこと。彼の詩は詩の規則に合わないものが多く、転じて規則に合わないものを杜撰というようになった。百人一首 49 世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも 鎌倉右大臣 この世の仲が永遠に変わらなければ良い。海人が漕ぐ小舟を眺めていると、しみじみと心が動く。 鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)は、源実朝。鎌倉幕府三代将軍。鶴岡八幡宮で、甥に殺された。 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり 参議雅経 吉野山に秋風が吹き渡り、夜が更ける。古都の里は寒々と、布を打つ砧の音が身に沁みる。 参議雅経(さんぎまさつね)は、藤原雅経。優れた歌人で新古今集の撰者。蹴鞠の飛島流の祖。 鳩山会館(はとやまかいかん) 内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の邸宅を記念館として一般に公開したものである。東京都文京区音羽にあることから音羽御殿(おとわごてん)の通称で知られ、戦後政治史の舞台の一つに数えられている。 洋館が誕生したのは大正13年のことで、大正時代の雰囲気をそのまま改装した大広間をはじめ、記念物が展示されている。 庭には季節の花々が咲くが、5月には手入れが行き届いたバラを、ゆっくり観賞できる。お酒は怖いですね 人はいろんな仮面をかぶって生きています。「好青年」 「優しそうな人」 「清潔そうな人」 「真面目な人」など様々ですが、仮面と実体のギャップが大きければ大きいほどフラストレーションも大きくなります。そのストレスを解消するのはお酒が一番だと思っている人は、お酒を甘く見ています。お酒は仮面を引っ剥がし、実体をさらけ出すのです。お酒好きな人は気をつけましょう。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.22

写真の花は「ツツジ」 チヴォー氏の最期 14 チヴォー氏は、自分の瞼が閉じたことにも気がつかなかった。彼はもはや夢と現実を区別しようという気持ちもなかった。 彼は今、安らいでいた。少しの苛立ちもなく、体を動かすこともなく、落ち着いて、心は上の空だった。ただドクトルに診察され、触られるままになっていた。 アントワーヌとジャックは、パリへ向かう列車の中で、長いこと別々の片隅に体を埋めながら、薄暗い車室の空気に麻痺したようになって、それぞれが少しでも長く一人で居たいと思って、寝た振りをしていた。 アントワーヌは父のことが心配だった。帰路に着いてからは余計に激しく心を占めていた。 何時間も列車に揺られながら、疲労と寝不足のために不吉な想像を描き続けていた。 病人へ近づくにつれて、そうした不安も薄れていった。もうすぐ帰り着き、再び自分が指図して手当てできるだろう。 だがその時、別の問題が頭をもたげた。家出していたジャックが帰宅したことを、父にどう報せようか。そしてジゼールには。今日にもロンドンへ手紙を書こうと思っていたが、それも易しいことではない。ジャックが生きていたこと、見つけて連れ帰ったことを報せなければならない。その上、彼女がすぐに駆けつけて来ないようにしなければならない。 乗客たちがざわついてきたので、二人は目を開けた。 兄弟は目を合わせた。諦めと不安に駆られていたジャックの、おずおずした顔を見ると、アントワーヌは可哀相になった。「寝られなかったか?」 ジャックは、無感覚な様子で肩をそびやかし、額を窓ガラスにつけて、沈黙の中に身を置いた。 朝食は食堂車で済ました。列車は、まだ闇から抜け出していないパリの郊外を走っていた。 やがて列車が止まると、そろそろ明けかけた寒さの中で、プラットフォームに降り立った。 タクシーを探すアントワーヌに引きずられるように、ジャックは停車場の外へ出た。 その行為は、朝霧に溺れて、ほとんど現実のものとは思えない、なんら同意を必要としない、まったく必然の行為のように行われた。つづく
2009.04.21

写真の花は「スイカズラ」 名言名句「変化こそ機会の母である(中内功)」 日々大きく変化している社会の中で、常に先を見通していくことが必要だ。変化にはあらゆるチャンスが潜んでいる。C・G・ユングの心 35 我々が「夢を見る」という事実は、無意識が存在するという強力な根拠となる。 夢が主観的なできごとかどうか、ちょっと考えてみれば判る。ところが、これを疑問視する人がいる。もしも夢が、見ている人自身の中から生じる主観的できごとだと言うなら、夢の中で驚いたり、怖がったりすることをどう説明するのかというのだ。そして夢を見ている人が、自分の心が作り出した芝居の作家と俳優と観客を全て一度にこなすことなどどうしてできようかと。 こうした疑問には、意識外の精神活動が存在するという仮定にたって、初めて納得のいく説明を与えることができる。 この仮説を認めることができなければ、夢はただの記憶の無意味な塊りとして無視しなければならず、夢を探求する可能性さえなくなる。 夢は、一見しただけでは思索的探求にとって有望なテーマには思えない。そこにはナンセンスなものが数限りなく登場する。 他の多くの自然現象も、その真価が判るまではそのような印象を受けやすい。実際、くだらないものだと思われていたものが、調査すると貴重なものだったことは多い。 夢を自然現象の一つと考えれば、夢というものは意識的に見られるものではなく、意志の力が及び範囲の外にある。 客観的証拠があるわけではなく、本当に夢を見たのかどうか証明する手立てはない。 しかし、夢を見た本人にとって、検証など問題外の、疑いの余地のない事実なのだ。 普通は、夢はまともには受け取られない。第一に夢は、はなはだ曖昧であるし、ハッキリした夢でも意味が解らない、理解を超えたものだという感じがする。 科学的精神の持ち主にとって、夢は腹立たしいものでさえある。その謎を知的な観点から判断するのは不可能に見える。 だが夢は現実に見ているのである。それは無意識の産物であり、だからこそ、精神症には無意識が一役かっている。 あるいはその可能性があると考える人にとって、どうしても興味深いテーマとなってくるのである。つづく現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.04.21

写真の花は「クレマチス」 澪標 3 若君の可愛らしい姿を見るにつけても、祖父太政大臣も祖母大宮も、また娘を亡くした悲しみを新たにしていた。 それにしても、葵上が亡くなった後も、大臣家は源氏の大臣の威光に引き立てられ、この年月嘆き埋もれていた跡形もないまでに栄えていた。 源氏の大臣は、昔と少しも変わらない心遣いで、折りあるごとに訪ねて来て、若君の乳母や、暇を取らずにこの邸に仕え続けた女房たちには、良くしてやろうと心づもりをしているので、思わぬ幸いを得る人も多かった。 二条の院でも、帰京を待ちわびていた人々をあわれと思って、長年塞がっていた胸を晴らしてやろうと思い、中将の君や中務の君のような恋人には、それ相応の情をかけるので、好色歩きをする暇などなかった。 亡き父院の遺産として持っていた二条院の東にある御殿を、美しく改装して、花散里のお方や、その他頼りにする人が居ない女君たちを住まわせることにした。 明石の女君は、その後どうしているかと忘れる折もなく、公私共に忙しいのに取り紛れて、思い通り便りさえできなかったものの、三月の初めには産み月であろうと、一人あわれに思いやって、お使いを遣わした。 間もなく帰ってきたお使いの者は、「十六日でございました。姫君で、後安産でいらっしゃいました」と報告した。 姫君が生まれたのは初めてなので、素晴しいことと喜びは一通りではない。どうして京へ迎えて出産させなかったのかと残念にも思った。 いつか占い師が、「源氏の君には御子がお三方あらわれて、帝と妃が並んでお生まれになりましょう。お一方は太政大臣として、臣下として位を極めましょう」と予言し、また、「身分の低い女君との間に姫君がお生まれになるでしょう」と言ったことが、一つ一つ当たっているようだと思った。 まだ幼く、光君と呼ばれていた頃も、「無上の位に上り、世を治めることになる」と、大勢の優れた人相見が予言していたが、それも虚しくなったと考えていた。しかし、今の帝がこうして即位してみると、念願が叶ったと嬉しかった。つづく
2009.04.21

写真の花は「ヒトリシズカ」 ことわざ「末の露、元の雫」 早いか遅いかの差はあっても、遠からず消えてしまうもの。人の命の儚さのたとえ。イスレンのバラ 第二章 14 その日はコースを変えて、川辺を歩くことにした。堤防に植えられた桜が満開だった。「フローレンスを統治していたメディチは、プラトン学派のアカデミーを創設し、フィチーノにプラトンの翻訳を要請した。その後すぐ、ヘルメス錬金術大全が姿を消してしまい、残った文献はアスクレピウスだけになってしまった。メディチ家に関係していた修道士が、ヘルメスの写本を手に入れ、フィチーノにプラトンを後回しにして、その新たに入手した写本を翻訳するように依頼した。フィチーノは錬金術大全を出版し、広く行き渡り、16世紀までに6回も再版された」「メディチもだったんですね」「フィチーノは、その原本がエジプト語で書かれていたものと確信していたので、ヘルメスは、全ての秘密の叡智を創造して伝えたエジプト人として記述された。ヘルメスから継承され、ゾロアスター、オルフェウス、アグラオフェーメ、ピタゴラス、プラトンなどの哲学者に繋がる系図を考案した」「原初からの伝承?」「そう、最初の啓示が時代から時代へ、入門者から入門者へ永続されてきたという概念が誕生した。それが永遠の哲学なのだ。ヘルメス・トリスメジストはノアと同一人と考えられていたから、大洪水の後、ノアはエトルリアに12の都市を建設し、彼の死後、遺体はローマの近くに埋葬されたと考えられていた。リビアのヘラクレスが、フローレンスの創設者だとも言われていた」「ちょっと待って、日本の神話には、大洪水の後、24人の皇子が世界各国に新たな都市を築いたとあるけれど、何か関連があるのかしら」「今は判らない。ともかう、そのことがタスカナ言語優越感をもたらした。つまり、エトルリア語を通して、アラム人から来たものであると」「12種族のうち、一種族が行方不明で、それが日本人だという説もあり、沖縄の海中には、エジプトと同じピラミッド・コンプレックスがあって、シュメール語も彫られていると聞きましたが?」「はっきりは判らない。エジプト人はノアの末裔だと考えられていたので、フローレンスを文明の源泉であると関連付けるのにも、大した努力はいらなかった。その考え方は、コジモ・ディ・メディチに高く買われ、フローレンスのプラトン・アカデミーではたいへんもてはやされた」つづく オオデマリ 白い紫陽花と間違える人が多い花です。枝先に白い花が集って咲き、手毬のように見えることから、大手毬と名付けられました。母種のヤブテマリには、中央に実をつける両性花がありますが、オオデマリの花は中性の装飾花なので、実はつけません。テマリの大きさは10センチ前後で、挿し木でも増やせます。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.20

写真の花は「白いつゆ草」 鎌倉や 御仏なれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな(晶子)猫ですにゃん 16 奈良時代に猫が日本に来てから、平安時代には猫ブームになったんだって。 宇多天皇は、宮中で飼っていた黒猫をとても大事にしていたという古い記録が残ってるらしいよ。 清少納言の枕草子や、藤原実資の小右記には、一条天皇が猫を溺愛していた様子が書かれているよ。 一条天皇は、宮中で生まれた子猫のために、産養の儀という誕生祝の宴を催し、当時権力者であった左大臣の藤原道長などの、そうそうたるメンバーが列席したんだって。 天皇は、その子猫に「命婦のおとど」という名前をつけたんだ。命婦っていうのは中級の女官で、おとどは女官の敬称で、その子猫は従五位という高い官位を与えられたんだよ。羨ましいにゃん。 命婦のおとどはね、乳母も居たんだ、人間のだよ。 ある時、おとどが縁先で寝ていると、女官が中へ入りなさいと言ったけど、いうことを聞かなかったんだ。 女官は、ちょっと脅かしてやろうと思って、犬の翁丸をけしかけたんだ。翁丸がおとどに向かっていくと、おとどは驚いてパニクっちゃって、朝食中の一条天皇の許へ逃げ込んだんだ。 天皇は怒って、その女官を解任し、宮中への出入りまで禁じてしまったんだよ。翁丸は打ちのめして、追放しちゃったんだ。ちょっと度を越してるよね。翁丸が可哀相だよ。 根川緑道 立川市の南に位置する憩いの水辺。柴崎町六丁目の琴帯橋バス停近くから柴崎体育館の南側を流れ、立川公園内の野球場と陸上競技場の北側を抜けて多摩川にそそいでいます。四季折々の自然を楽しみながらの歌碑めぐりができます。緑道沿いに立川にゆかりのある文学者の詩碑・歌碑・句碑があります。根川緑道周辺には、この他にも「日野の渡し碑」「上岡芳市歌碑」「山中坂悲歌歌碑」もあり、文化の香りにふれながら散策できる道となっています。多摩都市モノレール 柴崎体育館駅下車 徒歩すぐ。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.04.19

写真の花は「花水木」 澪標 2 翌年の二月に、東宮の元服の儀式が行われた。十一才になったが、歳よりも背が高く大人びて美しかった。 源氏の大納言と瓜二つで、眩しいまでに輝かしく、二人が並んでいると、人々は結構なことと喜び合ったが、母尼宮は後ろめたく思いながら、どうにもならないと胸を痛めていた。 帝も、東宮の成人を結構なここと思って、帝の位を譲る時のことなど、優しく話して聞かせた。 その月の二十五日に、急に譲位の儀があったので、大后などは驚き慌てた。「帝の位を降りて、世を捨てた姿になっても、ともかく健やかで、少しでも長く、長閑にお目通りなどできるようにと思いまして」と、帝は母大后を慰めた。 新しい東宮には、承香殿の女御が生んだ御子が立った。 世の中の一切が改まって、より明るい時代になった。 源氏の大納言は、内大臣になった。左大臣も右大臣も揃っていたので、定めの外の内大臣として加えられたのである。 そして摂政として天下の政治を執り行なうが、本人はそのような繁忙な職には耐えられぬと言い、穏退していた左大臣に摂政を譲った。 左大臣は、「官職はお返し申し上げました上、ますます老齢に及び、お役には立てまいと存じます」と言って、容易には承知しなかったが、朝廷でも、世間でも、源氏の右大臣に賛成する意見が大勢を占めたので、辞退もなりきれず、太政大臣に就任した。 太政大臣は、源氏の君が明石へ行ってからは、世の中が面白くないと陋居していたが、今は万事を取り返し華やいで、埋もれていた御子息方も皆浮かび上がった。 とりわけ宰相の中将は権中納言に出世し、右大臣家の四の君が生んだ姫君が十二歳になったので、御所へ入内させようと、大切にしていた。 以前良い声で謡った若君も元服し、思うに叶う有様だった。その他にも、何人もの女君に、次々とお子がたくさん生まれて賑やかなので、源氏の大臣はそれを見て常に羨んでいた。 太政大臣の姫君が遺した、源氏の若君は、誰よりも一際美しく、御所や東宮御所の童殿上になって、作法を見習っていた。つづく
2009.04.19

写真の花は「藤」 名言名句「人よりもほんの少し多くの苦労をし、人よりもほんの少し多くの努力をすることで、結果は大きく異ってくる(鈴木三郎助)」 凡人は人と同じことをしていては凡人のままである。苦労と努力を惜しまないことで人を超えられる。味の素開発者の言葉。C・G・ユングの心 34 ユングが12歳になるまで、彼の父はスイスのラインの滝の上流にある教会で牧師をしていた。住まいは教会の隣にあった。 ある時、ユングは夢を見た。夢の中の彼は、いつも遊んでいる家の近くの野原にいた。すると驚いたことに、地面に四角い穴が開いていた。中を覗き込むと、石段が見えたので、彼は恐る恐る降りてみた。下には緑色のカーテンが掛かった引き戸があり、開けると石の壁の大きな長方形の部屋だった。真紅の絨毯が、戸口から向こうの端まで敷かれていた。一段高いところに、赤いクッションの大きな黄金の玉座が置かれていた。だがよく見ると、それは頭のようなものを持っていて、魔人の目のような穴が一つあいていた。今までそんなものは見たことがなかった。いったい何なのか、見当もつかないが、激しい恐怖に襲われた。その時、母親が呼ぶ声が聞こえた。その声は、さっきの野原の入り口から呼んでいるように鮮明だった。しかし彼は夢の中で、母親は家の中に居ることを知っていた。母親は、見てご覧、あれが人食いよと言った。彼は一層脅えた。人食いと聞いて、数日前に家の近くで見た黒い衣のイエズス会士を連想したからだった。彼にとっては、イエズス会士という言葉は、死者を連れて行くものだと思った。 彼はこの夢の意味が全く判らなかったが、ふと、あの部屋が地面の下にあったように、人生にも通常の経験とは別に、なにか神秘的なものがあるのではないかと思った。 こうした夢は、非個人的な性格で、自分自身のそれまでの経験とはなんの関わりもなく、子供が無意識の世界と親密な関係にあるということを示している。 こうした印象深い夢は、人生の重要な段階に現れる。我々がそのような時期に、自分が属する人類一般の経験に頼ろうとするかのように。 ユングは、死の一週間ほど前、こんな夢を見た。ある高いところで、地面がむき出しになっていて、大きな丸い岩のようなものがあり、そこには「これは汝の全体性と単一性の徴とならん」と刻まれていた。 同じ夜、別の夢を見た。木々が生茂った四角い場所、地面からひげのような根が無数に生えて、彼を取囲んだ。根と根の間には、金色の糸がきらめいていた。 無意識は未知なものであるから、我々は関心の対象にアプローチする場合、常に意識的な手段に、心的機能によらなければならない。 夢を理解しようとすると、まず最初にそれを意識的視点に立って考えるが、そのためには、心が意識の表面だけでなく、識閾下でも活動しているという仮説を受け入れる必要がある。つづく「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.19

写真の花は「オオヤマレンゲ」 ことわざ「辛抱する木に金がなる」 忍耐してこつこつ励めばいつかは成功し財産がもてるという意。イスレンのバラ 第二章 13 麦畑は、一面に青々と麦が育っていた。「12世紀にアラブ文献がラテン語に翻訳され、ヨーロッパでも占星術が発達した」「占星術は、その前からヨーロッパにあったんでは?」「6世紀からあったが、それまでは未完成な科学だった。キタバル・ウルフという著書は、ヘルメスの伝説を伝え直し、ペルシャ、インド、ギリシャの占星術を要約し、占星術をさらに発達へと導いた。これによって、暦、年鑑、予報、そして惑星の象徴を使用したイメージが成長した」「それが現在まで伝わっているんですね」「しかし、占星術の重要文献であるトレミーのテトラビブルスは、14世紀になってからやっと翻訳された。13世紀に、スペインは奪還され、その後回教徒によって確立されていた宗教的寛容は放棄された」「その頃、ユダヤ人は国外追放されたんですね」「国外追放か、改宗するか、それとも死か、選択を迫られ、大虐殺を避けるためには、キリスト教の洗礼を受けることを余儀なくされた」「でも、本当に改宗したんじゃないでしょう」「マラノスのように、表向きは改宗し、秘密裏ではそれまでの自分の宗教を続けていた人が多かった。その後、キリスト教は異教徒追放を始め、アンダルシアのユダヤ人は、国王フェルディナンドと、女王イザベラによって追放された。その一部はイタリアへ行き、定住し、秘伝の叡智を再度繁栄させた」「秘密の叡智の遺産は、イタリアに蓄積されていた秘伝に加えられたということですね」「実際、イスラム教の拡大に脅威を感じていた東洋のキリスト教は、西洋のキリスト教と接触しようと試みていた。東方の叡智の研究者たちが、新プラトン派の哲学者プレトーのように、フローレンスへ行った。彼らは、ギリシャの哲学者の著作をイタリアに持ち込んだ。トルコによるコンスタンチノーブルの奪取は、ビザンチン教会を圧倒したが、その前にこの大異変を防ぐため、調整を試みたが、遅すぎた」「トルコによるコンスタンチノーブル征服は、ギリシャ文化をイタリアに浸透させることになったんですね」「特に、抜粋されたプラトンの教義を」つづく アマドコロ 地味な花ですが、自然の妙味が感じられませんか。甘野老と書き、根がトコロ(山芋)に似て甘味があるそうです。高さは50センチぐらいで、葉の長さは10センチほどです。葉の脇から緑色の花が茎に沿って並びます。現代語「源氏物語・澪標」はこの前にあります。
2009.04.18

写真の花は「モッコウバラ」 澪標(みおつくし) 1 亡き父院が、まざまざと夢に現れてから、忘れることなく思い続けて、何とかして苦しみに沈んでいる罪業から救い出して差し上げるような回向を営みたいと、心を砕いていたが、こうして帰京できた上は、まずその準備を急いだ。 世にある人々は、誰彼となく君に靡き従って、御用を承ろうとひしめき合う様子は、昔と少しも変わらなかった。 大后の病気は捗捗しくなく、とうとう源氏の君を退けることができなかったと、快からず思っていたが、帝は父院の遺言が常に心から離れず、この弟君を遠ざけたことに、必ず報いがあるに違いないと思っていたのを、こうして君を元の地位に戻したので、心が爽やかになり、そのためか、悩んでいた眼病も治ったが、何となく自分は長生きできないような気がして、心細くばかり思っていて、帝の地位にも長くは留まれまいと思っていた。 源氏の君は、始終お召しがあって参内していた。政治のことも、帝は隔てなくこの弟君に相談するのを、亡き院の本意が叶ったように見えるので、世の人々もただただ満足して喜んでいた。 帝は譲位の心づもりが近づくにつけ、尚侍の君が頼りなげな様子で、身の上を嘆いているのを、たいそう不憫に思った。「父大臣も亡くなり、大后のご病気も重くなるばかり、その上私の命も長くはないような気がする、あなたのことばかり気になって、可哀相でならない、その後は、今まで栄えていたのとは打って変わって、あわれな有様で取り残されるのでしょう、前々から、源氏の君より私を思い貶めておいでだったが、私のあなたへの愛は、他に類なく深いものと思っている、私よりも立ち優っている、あなたが気に入っている彼の人と、もし将来思い通り結ばれることがあっても、私の志とは比べ物にならないであろうと思うだけでも、辛くて仕方がない」 と言って涙を拭った。女君は顔を赤くして、愛嬌がこぼれるばかりに匂い満ち、涙が落ちるままに聞いているので、帝は全ての過ちを忘れて、愛しくばかり思うのだった。「あなたが、どうして御子を生んでくださらなかったのか、残念でならない、源氏の君となら、すぐにでもお子ができるだろうと思うと口惜しい、それにしても、身分には定まりがあるから、彼の人の子なら臣下としてお育てになるよりほかはない」などと仰せ出すので、女君は身に沁みて恥ずかしく、悲しかった。 帝の顔形は優しく清らかで、この上ない御寵愛も、年月とともにいよいよ深まるばかりであるが、源氏の君の方は、確かに帝より立ち優っておいでになるが、自分をこれほど深く愛してくださるとは思えなかった。 尚侍の君も、分別のつく歳になるにつけて、だんだん判るようになった。あの頃は心が若く、考えが浅かったので、騒動を引き起こし、我が名ばかりか、源氏の君に思いがけない災厄を負わせてしまったなどと考えるにつけても、まことに辛い身の上である。つづく
2009.04.18

写真の花は「ウコン桜」 ことわざ「人生、朝露の如し」 人の一生は、朝日を受けて儚く消えてしまう朝露のように、短く儚いものだという意。百人一首 48 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣 こおろぎの鳴き声が聞こえる寒い夜、霜が降りた敷物の上で、衣の片袖を敷いて一人寂しく寝る。 後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)は、藤原良経。 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかはく間もなし 二条院讃岐 恋人を思って私の袖は泣き濡れ、引き潮でも波に隠れて見えない岩のように、人は知らないが乾く暇もない。 二条院讃岐(にじょういんのさぬき)は、源頼政の娘で、二条天皇と後鳥羽天皇の中宮に仕え、後に出家した。 高幡不動 関東三大不動の一つ、日野の高幡不動は、多摩モノレールが開通して便利になった。これから初夏になると、境内も裏山の不動ヶ丘も一面に紫陽花が咲く。 紫陽花の「花」と思われている部分は装飾花で、真花は装飾花の陰に隠れていることが多く、咲く時期も二週間ぐらい遅れる。 不動ヶ丘の紫陽花は、原種に近い山紫陽花や、玉紫陽花を含めて、7500株が集められている。 また、不動が丘には八十八体の弘法大師像が祀られていて、紫陽花を見物しながら八十八ヶ所めぐりができる。
2009.04.18

写真の花は「姫ウツギ」 霊界からの遺言 25 エマニュエル・スウェデンボルグが、しばしば強調する「無垢の知恵」とは、幼児的な知恵ではなく、ストレートに真実や善を認識し、その認識と意思の間に分裂がなく、両者が一つになっている状態のことである。 そこには余計なものが入り込める余地はなく、その認識の方も優れた知覚能力によって、霊的、天国的で、かつ人間の心と体にも繋がった四つのレベルの観点からバランスをとって、ものごとの本質を認識している。 無垢の知恵は、ヘブライ語で「天」であり、アダム時代の人間はそういう意味で、ストレートに天に通じていたのである。 彼らには、自己愛や物質界への愛はなかった。彼らは優れた知覚によって、ものごとの霊的、天国的意義を知り、それによって生きていた。意義を生きていたのである。 霊的、天国的意義の最も根本的なものは、すべて天の理によって創造され、すべての生命も、霊的な心も、また人間的な心も、体も、その創造のたまものなのである。 ここで、人間全ての生命も、心も、天の理によって与えられているという認識が生じる。 その場合、自己が自分を創ったと考える自己愛は生まれない。そのため、彼らには自己愛がなかったのである。 また彼らはすべての物事の本質的価値は、霊的、天国的なことを出発点と決められいるという認識を持っていた。 そのため霊的、天国的な生命が最終的に形となって現れた物質的世界は、価値が低い世界であり、単なる表面的世界に過ぎなかった。 彼ら自身がそのように認識していたのであるから、物質界にこだわることはなかったのだ。 アダム時代の人間たちが、物質界での滞在を終えて、霊界へ行くようになるにしたがって、天国には霊たちが増加し、色々なレベルの天国や地獄ができ始めた。 最上の世界として第三天国があるが、そこの霊たちの多くは、エデンの楽園時代に人間界で生きていた者たちである。 彼らの時代以降、人類は次第に堕落し始めたため、人間だった時の生き方が反映されて、最上の天国へ行ける霊は少なくなった。 人間の変化が、霊の世界にも変化を起こしたのであるが、そのことをみても、この世とあの世が密接に結びついていることが判る。つづく
2009.04.18

写真は「昭和記念公園」 ポピー 名言名句「人は良心に従って行動するほど快きはなし(武藤山冶)」 利益や有利のために、良心にもとるような行いをするのは不愉快になる。直江兼続 14 最上・伊達勢は上杉に襲いかかったが、上杉の抵抗は凄まじく、兼続の采配は水際立っていた。 上杉勢は、夕刻までに畑谷城に入り、翌日からは撤退し、無傷の状態で米沢城へ帰還した。 後に家康が絶賛するほど、兼続の采配は見事だった。しかし臨戦態勢は崩さなかった。家康が再び上杉討伐を起こすと予想したからだった。 10月20日、今後の方針を決めるための軍議を会津若松城で開いた。 強硬を唱える武将が多かったが、景勝・兼続は和平に傾いていた。「武門の意地も大事だが、今は御家存続を第一に考えるべきだ。家康の懐刀の本多正信が、戦を止めれば仲介役を務めると申し入れてきた」「しかし、上杉の領土が没収されるか、あるいは大幅に削られると存ずる」「もし、没収されるようなら、私の領地である米沢三十万石を差し出し、そのまま上杉家へ賜わるよう願い出るつもりだ」「そうなると、我ら家臣はどうなるのでしょう」「人間より大切なものはない。去る者は追わぬが、残りたい者は一人残らず連れて行く」 兼続の断固たる発言に、景勝は黙したまま首を縦に振っていた。 12月、景勝・兼続は、本庄繁長を上洛させ、事前交渉をさせ、家康の老臣本多正信、本多忠勝、榊原康政にとりなしを依頼する書状を送った。 1601年7月1日、景勝・兼続は会津を出発し、24日に伏見屋敷へ入った。 大阪城で家康に謁見したのは8月16日で、会津百二十万石から、米沢三十万石への滅移封を申し渡された。 関が原合戦の後、兼続の情勢判断に誤りはなく、政治工作も見事に功を奏し、上杉取り潰しは免れた。 今ならリストラは避けられない状況だったが、兼続は上杉家に残りたい者の全てを受け入れた。 兼続は六万石を与えられたが、その内の五万五千石を家臣に与え、自分は五千石だけを受け取った。 主家を見限った者はほとんどなく、不満を言う家臣もいなかった。 当時の米沢の住宅は約八百戸、そこへ五千家族、三万人が移住した。兼続は二度に分けて移住させたが、全員を城下町に住まわせることはできなかった。多くは郊外の荒地に配し、自給自足を奨励した。 入植当時は掘っ立て小屋で、共同生活をしながら、田畑を開墾した。 兼続は、彼らが開墾した田畑については、年貢を免除した。おわり「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.04.18

写真の花は「しだれざくら」 名言名句「誰でも種々様々な能力を持っているものだが、自分が優れた能力を持っていることに気づいていない場合が多い(盛田昭夫)」 一生懸命取り組んだ時、自分が優れていることに気づく。それを磨き上げていくことで、優れた能力となる。C・G・ユングの心 33 集合的無意識と呼ばれる心の深層での活動を具体的に示すため、ユングはある妄想を持った患者の診察記録の一部を、著書の中に引用した。 ユングは最初の頃、その患者の言動がさっぱり理解できなかった。その後、古代のパピルスの翻訳が出版された時、ユングは驚嘆した。その内容は、患者が話していたことと酷似していたからだった。 これは他の誰かの仮説によって説明できるかもしれないが、実際にその仮説が登場するまでは、ユングの仮説が信憑性を持ち続けるのである。 そうした様々な体験は、ユングに解明の糸口を与えるに充分だった。それは一民族に特有の文化遺産というより、人類全体に普遍的な特性の問題だった。 また観念の遺伝ではなく、同一の、あるいは酷似した観念を生むような、ある機能上の素因なのである。その素因を、ユングは元型と呼んだのであった。 ユングが考えたことは、これら元型的パターンのあるものは、伝統とか人間の移住によって伝播されることは可能であるが、これら元型的イメージは、自然発生的、つまり伝統や移住とは無関係に産出されるのである。 心の構造の探求の背景をなしていたのは、主に患者を治療するという日々の活動であり、特に患者の夢の分析だった。 ユングはその中で、患者の個人的体験や生活に関するものと思われる夢の他に、非個人的特質や内容を持った夢を観察することが多かった。 その夢は、個人的レベルでは説明がつかず、集合的無意識という点から考えることによって、はじめて説明がついた。 夢分析は、ユングの治療法において、最も重要な役割を果たしていた。 特に子供の夢には、興味深いものがあった。子供は、自分がそこから来た世界(無意識の原初世界)に極めて近い存在だからだった。 ユング自身、4歳の頃に見た夢に強い印象を受けた。その時点では、もちろんその夢の意味などまったく理解できなかった。しかし忘れることができないほど印象が深く、それは重要な出来事だった。子供心に、それは他言してはならないと思った。つづく現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.17

写真の花は「ツツジ」 ことわざ「けちん坊の柿の種」 けちな人間はどんなつまらないものでも惜しがって手放さないという意。イスレンのバラ 第二章 12 その日は大地の上に広がる麦畑まで足を延ばした。青空からひばりの囀る声が聞こえた。「錬金術が発展した12世紀には、魔術も刷新された。中世の魔術は、異教の名残りと繋がっていて、他の起源とは関係がなかった。カトリックのラテン語の公認聖書は、セビリアのイシドールの語源学に含まれていたこの主題に関連する部分に基づいていた。12世紀から13世紀には、アラブとユダヤの文書によって、基本的文献が西洋に現れた。その後魔術は学問の形態をとり、宮廷の王族に到来したが、これによってキリスト教からの弾劾を逃れることができた」 大きな切り株に、イスレンのバラが腰を下ろした。「あなたもここにお座りなさい」 私の大きなお尻がそこに乗れるのか不安だったが、イスレンのバラは実体がなく、私にしか見えない存在なので、一人で座るのと同じだった。「博識だったスペインの王アルフォンソ10世は、ユダヤの魔術の論文を翻訳したが、この論文には、植物と鉱物と動物、そして惑星の間に存在する共鳴を扱っていて、魔術的目的のため使用する方法が書かれていた。その論文の中で、ヘルメスによって考案された像の力について論じている。ヘルメスは大洪水以前のエジプトに存在した理想郷、アドセンティンの創設者であった。この都市は、太陽信仰を中心とした組織で、神官はヘルメス自身だった」「やっぱり、ヘルメスはアトランティス人だと思います」「ユダヤ人がスペインに存在したことは、カバラの普及に重要な役割を演じたが、しかしこの学問は、12世紀に近くの南フランスで光の書を中心に発展したのだった。カバラ研究者の多くはその地方に住んでいたが、その中にアブラハム・ペン・イサークなどが居た。スペインで発展したカバラは、南フランスのカバラの熱慮的な側面は、ギリシャ、アラブから伝承されてきたユダヤ思想によっても栄えた。サラゴサでは、法悦のカバラの偉大な人物、アブラハム・アブラフィアがヘブライ文字についての瞑想で、呼吸法を伴った方法を完成させた。13世紀に秘伝主義の世界で、注目すべき成功を達成したゾーハルが現れた。1305年には、スペインのバリャドリードで、レオンのモーゼがこの論文の原本を保存していると述べた」つづく 松本城 長野県松本市にある松本城は、国の史跡に指定されている。松本城となる以前は深志城(ふかしじょう)と呼ばれていた。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。日本国内に12基しか現存していない安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つである。天守群は国宝に指定されている。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.16

写真の花は「ナルコユリ」 海恋し 潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家(晶子)猫ですにゃん 15 インドや中国でも、私たち猫は崇められてたんだよ。大事な書物をネズミから守ってたからね。 仏教は1世紀にインドから中国へ、6世紀に中国から日本へ伝わったんだけど、その仏教伝播に、猫は大切な役割を果たしていたんだよ。 インドから経典を持ち帰る時、あの三蔵法師は、ネズミに経典を齧られないように、いつも猫を一緒に連れ歩いてたんだって。 中国には、それまで猫はいなかったんだよ。経典と共にやってきたから、猫様なんだね。 インドでは、穀物や書物をネズミから守るため、大昔から猫が飼われていたらしいよ。 イエネコの発祥地であるエジプトでは、猫は神様だったので、輸出は禁じられてたから、インドへは密輸されたと考えられてるんだよ。 船でも猫は大事にされてたんだ。ネズミ退治を仕事にして、世界中へ広まり、仕事振りが認められて大切にされてたんだよ。 日本にも経典と一緒に伝わったんだ。有名な猫は、鎌倉時代に横浜のお寺で飼われていた「かな」っていう名前の猫だよ。 かなちゃんは、鎌倉幕府が南宋から経典を取り寄せた時に、船の中でネズミ退治するために連れて来られ、日本に来てからはお寺に住んで、地元の人々に可愛がられたんだって。 お寺でもネズミ退治の仕事で大活躍し、大切な経典を守ったんだね。 源氏物語にも、猫が登場するよ。 口紅シラン シランは、日本の暖かい地方に自生するランの仲間で、紫紅の花を咲かせ、江戸時代から栽培されていました。美しさと丈夫さで、欧米でも人気があります。花言葉は「お互いに忘れない」。 他に白花と、この口紅シランがあります。口紅シランは、近くのお寺の庭に咲いていたのを見て、可愛さに一目ぼれして、すぐに園芸店へ行って見つけました。花期は通常5月ですが、今年は早く咲きました。現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.15

写真は「昭和記念公園」 チューリップ名言名句「誰でも、機会さえ与えられれば、無限に能力を発揮する(吉野作造)」 機会はどこにでもあるが、それを見逃さずにどう生かすかが能力だ。自分の未知の力に気づき、やる気を起こすことも能力だ。C・G・ユングの心 32 子供の夢や空想に、元型的な主題が出て来ても、連想が得られることはない。子供には提供すべき観念がないからだ。夢の素材が意識から引き出されることがない以上は、驚くことではない。 子供は、覚醒時に夢の話をしたり、夜中に目を覚まして夢を語ったりして、また眠ってしまう。だが、翌朝になれば記憶から消え失せてしまうかもしれない。 その持つ意味は、他の子供の夢や、神話などと比較することによって解明できることもある。 そこで分析家の経験と知識がものをいうことになる。一般にお伽噺は元型的素材からできていて、それらが子供を惹きつけるのは、発達段階の子供の心が、無意識の深い集合的層、意識の母胎であるこの層に近いからである。 ユングは観察した分裂病患者の妄想も、元型的素材の宝庫であることに気づいた。 妄想の内容は了解不能であることが多かったが、ユングは妄想と、ある種の神話的、歴史的素材との類似性に気づいた。 彼はその両者の間に、並行が認められる事例を見出した。そうした妄想の究明はいつも成功するとは限らず、依然として謎であったが、成功例は彼を勇気付けた。 成功は、病気の内容がユングにとって理解不能になったという点で価値があった。病気を理解することによってのみ、ユングは治療の基礎を見出すことができたのだった。 ユングが神話的並行例を手がかりにしたことは、神話を超自然的物語、虚構とみなしている人にとっては驚きだった。 だが、神話は決して単純なものではない。それは科学や小説よりづっと前から存在し、科学の客観的評価より正確であり、見たまま、体験したままの人生を表現しているのである。 その重要性は広く認められている。それゆえ、現存する人間社会が、なぜ、文化的にまちまちなのかを解明するために、科学が古臭い説明をするのにも役立たない。 ユングの臨床的活動は、集合的無意識の仮説を裏付けたが、確証がなかった。つまり、科学的研究でいわれる証拠がなかった。 それでも妄想と神話の類似性には、なんらかの説明をつけなければならなかった。時として、妄想の内容には患者が知る筈のないような元型的モチーフが含まれていた。つづく「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.14

写真の花は「梨」 ことわざ「小人閑居して不善を為す」 品性が劣っている人間は、暇があるとろくなことはしないということ。イスレンのバラ 第二章 11 日当たりの良い、小さな公園の桜はちらほら咲き始めていた。「トートは、アレキサンドリアで繁栄していたヘルメス学を携えて、エジプトからギリシャへ旅行した。その遺産は、6世紀にアラビア人によって価値が高められた。そしてヘルメスは西洋のキリスト教世界へと旅した。後日、スペイン、イタリアがヘルメスの叡智を保護し、再開発した。その神秘主義の歴史の新たな段階で、バラ十字の宣言書が出来上がった」「宣言書って?」「711年、アラビアがスペインを征服した。コルドバはウマイヤド王子の権威の下、回教の中心地となった。スペイン国内にはキリスト教徒とユダヤ教徒が数多く存在していて、文化的交換を許したので、建設的な影響を及ぼした。当時は、ヨーロッパよりアラブ文化が進歩していたので、スペインは到来した遺産のすべてを行き渡らせることに成功した。アラビア人によって保存された膨大なギリシャの文献が、スペインの学者によってラテン語に翻訳された。秘伝の教えも、スペインを通して西洋世界に浸透した。多くの錬金術、魔術、天文学がトレドで翻訳され、トレドは神秘学の中心地になった」「トレドって知ってる、トレドの泉・・・」「9世紀の初頭、コンポステラで聖ヤコブの墓が発見され、それは何世紀か後に、キリスト教徒のスペイン国土回復運動を刺激することになった。11世紀から12世紀までは、ヨーロッパから夥しい数の巡礼者が、コンポステラに集まり、スペインはヨーロッパにおける他のキリスト教国と接触するようになった。それは秘伝主義の集大成資料を広めるのに貢献した」「どんどん広まっていったんですね」「アラブ錬金術文献の翻訳は、西洋の錬金術発展の道を開いた。錬金術は、1144年に西洋に登場したと考えられている。その文献の序文は、三人のヘルメスの伝説を回想している。スペインの作家サンターラは、創造の秘密という文献を翻訳したが、その著作では、ティアナのアポロニウスが、ヘルメス・トリスメジストスの墓と、エメラルド・タブレットを発見したことについて述べている。トレドのジェラルドは、アラビア語を学び、膨大な文献を翻訳した」つづく 多摩湖 多摩湖(村山貯水池)は、東京都水道局の水源のひとつ。都内の他県にまたがらない湖の中では最大。村山貯水池というのは付近の旧地名である「村山郷」から来ているため。貯水池の堤防は、太平洋戦争中に爆撃対策としてコンクリートで強化された。現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.13

写真の花は「ハナミズキ」 名言名句「光っているナイフは、草原の中に投げ出されていても、いつかは人に見出される(清沢満之)」 有能な人材は、いつかは認められるということ。今は埋もれていても、地道に実力を磨いていれば、きっと誰かが気づいてくれる。努力を惜しまないで、その時のために準備していることが大切。直江兼続 15 徳川家康は、直江兼続からの書状が届いた日、大阪城西の丸の大広間に諸将を集め、上杉討伐を宣言した。 翌月初め、関東の諸将に、会津出征の準備を命じ、諸大名を大阪に召集した。 軍議を開き、会津遠征の部署を策定し、大阪城を出発したのは、6月16日だった。 豊臣秀頼からは、黄金一万枚、米二万石が下賜された。 家康の思惑は、その後の行動で明らかになった。 7月2日、途中で鷹狩などを楽しみながら江戸城に到着した。 会津出兵は7月21日と定めて、ゆったりと待っていた。 上杉討伐は名目で、石田三成挙兵の知らせを聞きたかったのだった。 家康は、豊臣恩顧の諸大名を、いつの間にか三成討伐軍に仕立て直していたのだった。 景勝・兼続は長期戦を目論んでいた。伊達、最上、堀などに背後を攻められる危険はあったが、家康の主力軍と正面から交戦するつもりだった。 戦闘地に選んだのは、白河だった。ここで家康軍の攻撃を支えている間に、三成が挙兵し、両者で家康軍を挟み撃ちして討ち果たすか、家康が不用意に攻め寄せれば、玉砕を覚悟で上杉軍が家康の首を取る計略だった。 兼続の意気込みは揺るぎないものだった。しかしこの戦略も、三成らの西軍が、関が原でわずか一日の戦闘で敗れ去ったため、幻の白河口合戦となってしまった。 三成蜂起の報せを受けた家康は、軍を返したのであった。 追撃を主張する兼続に、景勝は、「背中を見せた敵を追撃するような卑怯な軍法は、上杉家には無い」と言い、やむなく最上攻めに方針転換した。 戦争では、敵地からの撤退戦ほど難しいものはなく、しかも2万4千の兵を率い、撤退路の地形は複雑だった。 兼続は、最も困難な役目を自ら引き受けた。30日夜、本陣を引き払い、退路となる狐越街道を整備させ、道の両側に鉄砲隊を配した。 10月1日から撤兵が開始された。それを知った最上勢は、伊達勢を援軍に加え、街道の入り口で上杉勢に襲いかかった。つづく 「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.04.12

写真の花は「れんげそう」 ことわざ「沙弥から長老にはなれぬ」 沙弥(しゃみ)は新入りの僧。物事には順序があり、新入りの僧が一足飛に高僧(長老)にはなれないことの意から、段階を踏まなければ上には進めないということ。 百人一首 46 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王 我が命、絶えるなら絶えてしまえ、このまま生きていると、隠している恋心が外へ表れてしまう。 式子内親王(しょくしないしんのう)は、後白河天皇の皇女。賀茂神社の斎院を務め、晩年に出家した。 見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず 殷富門院大輔 血の涙で色変わりした私の袖を見ていただきたい。漁師の袖も波に洗われて濡れているが、こんなに色まで変わりはしないでしょう。 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)は後白河法皇の皇女の殷富門院に仕えた大輔。 ハシビロコウ(嘴広のコウノトリ) 上野動物園で、キモカワイイと人気のハシビロコウは、体長約1.2メートル、体重約5キロの大型鳥類。巨大な嘴を持ち、獲物を狙うときは数時間にわたってほとんど動かないのが特徴。大型のハイギョ等を好み、ハイギョが空気を吸いに水面に浮かび上がる隙を見て素早く嘴で捉え丸呑みする。消化には数時間を要し、その作業に1日に消費するエネルギーの30%を費やす。空を飛ぶのも得意で、両羽を広げた時の長さは約2メートルにもなる。基本的には単独行動を好み、近種のコウノトリと同じく滅多に鳴かない。嘴を叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動でディスプレイや仲間との合図をする。また、首を振りお辞儀をする様は相手に対し親愛を意味しているという。実際の寿命は解明されていないが、高齢になるに従い瞳の色が金から青に変化する。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.11

写真の花は「パンダスミレ」 名言名句「働くとは、周囲(はた)を楽にすることだ(山本有三)」 それぞれが自分の務めを果たすことで、他人が楽になれば、全体が楽になり、効率が上り人間関係も円滑になる。C・G・ユングの心 31 ユングは、多くの芸術家や哲学者、そして科学者さえ、彼らの一世一代のアイディアは、無意識から不意に現れるインスピレーションによって得られたものだと言った。 その事実の証拠は、科学の歴史にも見られる。たとえば、フランスの数学者ボワンカレや、化学者ケキュレが学問上の重大な発見をしたのは、突然啓示が現れたお陰だと彼ら自身が言っている。 またフランスの哲学者デカルトは、一瞬の閃きのうちにあらゆる学問の秩序を見たと言った。 神秘体験にも、同じように突然の啓示ということがある。イギリスの作家、スティーヴンスンは、何年間も感じ取っていた人間の二重性という強烈な感覚を、上手く表現するストーリーを探していたが、ある時突然、夢の中にジキルとハイドの構想が現れたと言っている。 ユングの集合的無意識についての考えは、1912年に刊行されたリピドーの変容と象徴の中で表明された。 フロイトは、晩年の著書で、古代からの遺産や、先祖代々の記憶の痕跡に触れている。 彼も自分が人類学に興味を持つようになったのは、ユングの影響だと認めている。 ユングが神経症患者と、未開民族というかけ離れたものについて、それぞれの精神的所産の間に類似性が認められることを明示したので、私はこのテーマに関心を向けるようになったと言っている。 心理学に、はじめて無意識という概念が導入された時、学界の反応は冷たかった。 集合的無意識の仮説が冷遇されたことは、別に驚くことではなかった。 ユング自身、この概念を裏付ける科学的証拠を提示するのは困難だと承知していた。 だからこそ彼は、観察可能な事実についての満足のいく説明をしてくれる仮設として論じていたのだった。 集合的無意識と言い出したからといって、私は一つの原理だと仮定しているわけではない、ただ注目すべき事実の、つまり元型の全体に名前を付けただけだと言った。つづく現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.10

写真の花は「ハナズオウ」 ことわざ「霜をふんで堅氷至る」 霜が降りると、やがて堅い氷が張り、厳しい冬が来る。 物事は最初小さな兆しがあって、徐々に大きくなるというたとえ。小さな禍の兆しが見えたら、やがて大きな災いがやって来ると思って、用心すると良い。イスレンのバラ 第二章 10 いつもの朝の散歩は、一時間の予定でも45分ぐらいで終わってしまうのが、イスレンのバラと一緒だと、一時間半ぐらいになった。 その日も、いつもの散歩コースより遠くの雑木林まで行った。「イビン・ワシヤという9世紀の人の論文に、ヘルメスから伝わったとされる神秘学的アルファベットが紹介されている。また、ヘルメスの子孫のエジプトの僧侶のことにも言及している。ヘルメスの姉妹の子供たちを、彼はイシュラギュンと呼んだ」「ウフッ、怪獣の名前みたい」「ペルシャの偉大なイスラム神秘家であるソーラヴァルディは、東方の神秘学者という用語によって、啓示を体験した達人のことを描写する時、その怪獣的名前を再現した。さらに彼は、東洋の知恵の書という書物で、入門儀式を通過した人たち、つまり東洋の神秘学者について述べた」「東洋って、日本かしら、それとも古代中国?」「そこまで東ではなさそうだ。哲学と神秘体験は精神的には分離できないものであり、この体験は賢者たちの父であるヘルメスと結ばれていた。それら哲学者たちが叡智の柱と呼んでいた人々は、プラトン、エンペドクレス、ピタゴラス、ゾロアスター、マホメッドである。 ソーラヴァルディはそれまで論じられていた作者たちとは対照的で、ヘルメスと異なる伝統の賢者たちとの間に歴史的、人間的な関係を成立させようとはせず、内的諸体験に基づいた天上の入門儀式的関係を成立させようとした。 ヘルメスが残した遺産は多種多様で、錬金術、魔術、占星術は伝承の秘伝主義の本質的要素を構成し、多くの文明に浸透してきた。それでも諸文明は常にエジプトが全ての伝承の母体であると考えていた。中世には、その古代の遺産は西洋世界に浸透し、ルネッサンスまで一般には東洋の秘伝主義と呼ばれる新しい見方がなされた。 次にそれは、バラ十字宣言書の出版への決定的な入り口に到達する特殊な方法で発展した」つづく 滝山城址 滝山公園は、多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵にあり、都立滝山自然公園の一部です。標高200mの公園の北側は、多摩川の景観を望むことができます。またここは、古くからのハイキングコースとして親しまれています。 道「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.09

写真の花は「白詰草(クローバー)」 ああ野の道 君と別れて三十歩 また見ぬ顔に似る秋の花(晶子)猫ですにゃん 14 私たち猫はね、不思議な力を持つとして古来から崇められてたんだよ。最初に猫を奉ったのは、リビア猫を家畜化してイエネコを生み出したエジプト人なんだ。 その前のエジプトでは、百獣の王ライオンが信仰の対象で、スフィンクスもライオンだよ。日本では狛犬っていうから、犬だと思ってるけど、あれもスフィンクスなんだって。 ライオンは神殿でも飼われていたらしいけど、あれを飼いならすのは大変だよね。だからライオンに替わる新しい信仰の対象として猫を選んだんだ。紀元前2000年頃のことだよ。ライオンと同じネコ科だし、ずっと小さくて飼い慣らせるからね。 イエネコはライオンのような強さはないけど、ネコの瞳は暗いと丸くなり、明るいと細くなるから、不思議だったんだろうね。自然を信仰していた当時の人にとっては、月の満ち欠けのように感じたらしいよ。 その上、ネコの瞳は真っ暗だと光を発するのがまた神秘的にとられたんじゃないかな。 エジプトの神の中には、パステトっていう女神がいて、その女神の頭はネコなんだよ。豊穣と踊りの神様なんだって。 古代エジプトでは、飼い猫が死ぬと、人間たちは皆、眉を剃ってネコの死を悼んだんだ。しかも、ネコを殺した人間は厳罰に処せられたんだって。 ミイラにしてもらった猫も多いらしいよ。王様と同じように防腐処置をして棺に納められ、一緒にネズミのミイラも入れてもらったんだって。 19世紀の末にヨーロッパの考古学者が、30万体ものネコのミイラを遺跡から発掘したんだけど、酷いことに、ほとんどが粉砕されて肥料にされちゃったんで、今は100体程度しか残ってないんだ。 深大寺 藁葺き屋根の山門 奈良時代に、満功上人によって創建された深大寺は、浅草寺に次ぐ古い歴史を持ち、境内のいたるところに水路や池がある水に囲まれた名刹です。厄除け、商売繁盛、縁結びの寺としても名高く、4月下旬には境内の巨大なナンジャモンジャの木(ヒトツバタゴ)に、白い花が咲きます。本尊:恵心僧都作の阿弥陀如来像寺宝:釈迦如来像(白鳳時代・重要文化財) なんじゃもんじゃ現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.08

写真の花は「さくら 10」 名言名句「伸びる時は必ず抵抗がある(本多宗一郎)」 麦が踏まれて育つように、人間も抵抗に遭わなければ伸びない。困難が立ちはだかったら、それはチャンスだと思って、思い切り向かって行けば、自信が持て、得るものがあり、活力が湧く。C・G・ユングの心 30 夢はユングの人生に重要な位置を占め、彼の研究の新しい発展を先取りしていた。 実際、集合的無意識という概念を打ち立てる直前にも、ある夢がそれを予告していた。 それは1909年、フロイトとユングがアメリカの講演に招かれ、一緒に旅行した時のことだった。 ブレーメンから始まったアメリカ旅行は、7週間続いた。彼らは毎日一緒に居て、互いの夢を分析し合った。 二人は分析の価値を信じていた。フロイトは一身上の問題で困っていることがあったので、それをユングに打ち明け、夢分析を頼んだ。 二人が相互に夢分析を続けている時、ユングはある夢を見て、フロイトに意見を求めた。「私は自宅に居た。それは複雑な大きな家で、城壁の上に建てられた伯父の家に似ていた。私は二階に居たが、そこには豪華な調度類があり、現在の私の書斎に似ていた。部屋の造りは18世紀風で、素敵な家具があった。見事な階段があり、階下はどうなっているのか見たくなった。一階に下りると、そこの調度は16世紀以前のもので、家具は古めかしくどっしりしていて、すごいぞと思った。こんな部屋があるなんて知らなかった、この下には地下室があるのだろうと思った。実際に地下室があった。大変に古いローマ時代のものに思われた。誇りだらけの摩り減った階段、むき出しの壁、漆喰が剥げ落ちたところから古い煉瓦が見えていた。灯りを手に階段を降りて行くと気味が悪くなった。下へ着くと、部屋の隅に四角い石が見えた。輪が付いていたので、持ち上げてみると、真っ暗な洞穴か、墓穴のような所だった。石を持ち上げたので、光りが差し込んだ。穴には先史時代の土器や人骨や頭蓋骨などがゴロゴロしていた。びっくり仰天した。埃がおさまると、一大発見したように感じた。そこで目を覚ました」 ユングはその夢に戸惑ったが、なんとなく虫の知らせのようなものを感じた。 フロイトは、その夢に思索を巡らし、何を言おうか考えあぐねていた。 フロイトは、土器や頭蓋骨にばかり注目し、夢の他の部分を無視してしまった。 そして、ユングは自分と関わりのある誰かの死を願っていると解釈した。「誰か心当たりはありませんか?」「いいえ、全く」 だがフロイトは、この点を主張して譲らなかった。つづく「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.07

写真の花は「さくら 9」 ことわざ「自慢は知恵の行き止まり」 自慢するようになると、向上心がなくなり、進歩が望めないということ。イスレンのバラ 第二章 9 その朝、ウグイスの声を聞いた。そして、桜の蕾が大きく膨らんで、もう今にも咲きそうな光景を、イスレンのバラと一緒に感動的に眺めた。「中世の西洋へ、錬金術を伝える役目を果たしたのが、アラブ人だった。彼らは独特な語彙を残したが、イスラムの役目はそれだけではなく、アラビア人は錬金術が、至るところでそれ自体を強調する形態の概念を形作った。アラビア人の錬金術は、たんなる実験室的術ではなく、隠された創造の法則を明らかにした。神秘学と哲学の領域を含んでいた。アラブの錬金術は、エジプト起源を主張していたが、実践は639年にアラブがエジプトを征服した後に起こった」「アラビア人は、錬金術をどこから受け取ったんでしょうか」「シリアを通してギリシャの錬金術を受け取った。しかし最初の師たちは、メソポタミアの秘伝の伝承を受け継いだペルシャ人だった。アラブの初期の錬金術師、ウマヤドの王子クハリッドは、アレキサンドリアのモリエヌスによって入門儀式を授けられた。錬金術は短期間でイスラムの世界へ広がった。そしてギリシャ語の論文は速やかに翻訳された」「有名な人物は?」「アラブ錬金術の中でも、最も輝かしい人物は、ヤビル・イビン・ハヤンであり、彼は偉大な仕事の根本的な概念を推し進めた。壮大なスケールで熟考し、精神的錬金術を明らかにし、非常に多くの発見をした。彼の教えを中心に形成された学派の論文は3000以上あった。その他多くの師がいたが、彼らの文献はスペインを通してヨーロッパに渡り、西洋ラテン世界に多大な影響を与えた」「すべてがエジプトから始まったんですね」「錬金術とともに、魔法もアラブの精神世界では中心的位置を占めていた。イスラムはコーランの秘密に浸透するため、ヘブライのカバラのように魔法の文字を使った」「魔法って、ちょっと解らない」「アラブの魔法は、占星術、医術、魔除けなど広い範囲を含んだものだった。占星術はイスラム世界には常に存在していた。異教由来であるため疑わしくもあったが、アラビア語に翻訳された後、8世紀から盛んになって発展した。ギリシャ人に依存していただけでなく、ヒンドゥー教、シリアのキリスト教、ユダヤ人、そしてエッセネ派の人々の影響も受けていた」「やっと、エッセネが登場しました」「そのことは、クリスチャン・ローゼンクロイツがバラ十字会を創設する時、どうしてアラブへ行ったか、その理由が理解できる」つづく 神代植物公園のばら園 4月3日の金曜日に、友人と神代植物園へ桜を愛でに行きました。前日は強風で寒く、翌日はドンヨリで、その日だけ桜から私たちへのプレゼントのような好天でした。 神代植物園へは、京王線「つつじヶ丘」「調布」、JR「三鷹」「吉祥寺」からバスで、「神代植物公園前」下車。車では、中央高速の調布インターから甲州街道に降り、「下石原交差点」を左折します。「神代植物公園北」の信号を右折すると左側に『神代植物公園駐車場(有料)』があります。混雑していなければ調布インターから5分程度です。現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.06

写真の花は「レッドハッピー」 名言名句「人間には人間らしい仕事をさせよ。そのために機械がある(土光敏夫)」 人間が機械に振り回されてはいけない。人間には、機械にできないような仕事がある。防衛省もコンピューターにばかり頼っていてはいけませんね。直江兼続 14 兼続は、会津に不穏な動きがあるという文面に対して、景勝が上洛していて、会津を留守にしていた期間は長く、その間の庶政は山積みになっていると反論した。 景勝に異心がなければ誓紙を出せとのことについては、家康自身が大老や奉行が出した誓紙をことごとく反故にしているではないかと痛烈に皮肉った。 景勝は、秀吉から律儀な人として信用されていた。秀吉の死後、態度を豹変させた人は多かったが、景勝をそのような人と同じに考えてもらっては迷惑千万だと書いた。 家康は、律儀な内府と言われていたが、秀吉の死後、覇権奪取の野望を露にして策謀したことを激しく痛罵したのだった。 武具の大量調達の弾劾については、 「上方の武士は茶器などを所持するが、田舎武士は槍や鉄砲や弓矢などを支度する。国によって風俗が異うのであり、それを不審に思うのは可笑しい。」と揶揄するように反論した。 道路や橋梁の普請に関する詰問に対しては、国主の務めであり、もし景勝に逆心の企てがあるのなら、国境を封鎖し、道路を閉ざして籠城の準備をする筈。しかし景勝は十万に道を開いている。十万に攻められたら攻防もままならない。道路や橋の普請は逆意なきことの証拠だと書いた。 兼続の筆はなおも止まらず、「朝鮮再征とはお笑いだ。逆心なければ上洛せよとは子供だましだ。太閤様に背いて挙兵したとあっては、上杉家の恥、景勝がそんなことをする筈がない。よって誓紙は出さぬし、上洛もしない」と、家康の矛盾を衝き、翻弄しつつ、反論を展開し、最後に、「家康様、または秀忠様、御下向の由に候間、万端、御下向次第に仕るべく候」と書いた。家康か秀忠が会津討伐に下向するとのことだが、すべてはその時に決着をつけましょうというのだ。 家康相手にこれだけの啖呵を切ったのは、後にも先にも兼続だけだった。 怒れ家康! 怒り狂って出てくるが良い! 上杉家の総力を結集して受けて立とう! 筆を置いて、兼続は心の中でそう叫んでいた。 これが「直江状」と言われる書状で、これを読んだ家康は、「この年になるまで、こんな無礼な書状は見たことも聞いたこともない」と激怒した。つづく「霊界からの遺言」はこの前にあります
2009.04.05

写真の花は「白花たんぽぽ」 ことわざ「疾風にけいそうを知る」 困難や試練に遭った時、その人の意思の強さや値打ちが分かるということ。けいそうは激しい風にも耐える強い草。百人一首 46 村雨の露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮れ 寂蓮法師 急な雨が通り過ぎて、まだ乾きもしない槙の葉に、静かに霧が立ち上る寂しい秋の夕暮れである。 寂蓮法師(じゃくれんほうし)は藤原定長。30歳で出家し、新古今集の撰者となったが、完成前に没した。 難波江の芦のかり寝のひと夜ゆえ みをつくしてや恋ひわたるべき 皇嘉門院別当 難波の入り江に生える芦のように儚い一夜の仮寝のために、我が身を尽くしてあなたを恋することになるのでしょうか。 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)は、源俊隆の子で、皇后聖子に仕えた。 旧岩崎邸 旧岩崎邸は明治29年に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた英国人のジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で、近代日本を代表する西洋木造建築の住宅で、館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施され、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。 別棟として建つコンドル設計のビリヤード場は、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風造りの木造建築で、洋館から地下道でつながっています。洋館と結合された和館は書院造りが基調で、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。 大名庭園の広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、芝庭をもつ近代庭園の初期の形を残しています。 1961年に洋館と撞球室が重要文化財に指定され、1969年に和館大広間と、洋館東脇にある袖塀が、1999年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.04

写真の花は「枝垂桜」 名言名句「どんな事態にも第三の道がある(城山三郎)」 困難に突き当たって前進できなくなった時、気分や発想を変えると、予想しなかった第三の道が開ける。C・G・ユングの心 29 本能と同じように、元型は生得的な理解の様式を与えてくれる。 集合的無意識の仮説は、最初は一風変わった奇異なものと思われたが、すぐに理解され、昔からの概念のような観念の一つになった。 元型という言葉は、集合的無意識の内容に関する限り、古代的な、原初的な型であり、昔から存在してきた普遍的なイメージである。 ユングは集合的無意識を論じる時、精神の歴史を身体に喩え、世界中のどこでも、解剖学的にみると皆同じであると言っている。 歴史や気候風土、生活様式、習慣、宗教などは千差万別でも、人間の身体は極僅かな差異があっても、ほとんどが同じであり、したがって、精神もまた同じである。 人間の精神は、世界中ほとんどが同じであり、夢の心理学を探求するにしたがって、比較解剖学の分野で数々の発見がなされるように、精神の発達や仕組みについて色々発見できるだろうと、ユングは確信していた。 集合的無意識という概念によって、個性は抹殺されない。本能は個人的な形で現れ、個人の所有物として受け入れられる。 その本能が、民族や種族に共通するからといって、我々が本能を自分自身のものと感じることが妨げられることはない。 同じように集合的無意識も、個人的なものとして体験されるのである。 ユングは、客観的無意識という言葉を、集合的無意識と同義語として使うことがあった。 彼は集合的無意識に関する研究こそ、自分が心理学に対して果たした、最も重要な貢献であると考えていた。 個人的神話、つまり人生に意味を与えるものは、それは集合的無意識なのである。 この仮説について語る時、ユングは遺伝について言及した。ある人は、元型とは獲得形質の遺伝だと誤解した。 ユングは、その誤解を解くために苦労した。彼が主張するのは、心の無意識的構造が生得的だということで、生まれたばかりの新生児は、すでに一つの個的実体なのだ。複雑な構造を持ち、明瞭に個として規定された存在なのである。 最初は観察できないが、目に見える最初の心的生活の表現が生じた時、疑問の余地なく、個体的な性格が見てとれる。その表現の背後にある独自の人格に気づくのだ。 生まれたての子の精神は、何も描かれていない真っ白なキャンバスで、そこに経験が書き込まれる。何が書かれるかは親次第だ。つづく現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.03

写真の花は「ニリンソウ」 ことわざ「死中に活を求める」 絶望的な状況の中で、必死で活路を探し求めること。切羽詰った状況を打開するため、危険の中へ決死の覚悟で飛び込んでいくこと。イスレンのバラ 第二章 8 またあの小さい公園のベンチで一休みした。「サビアン人は、自分たちはヘルメスと同じ源から発したのだと主張していた。彼らはいくつかの書物を作製していたが、その内容は、ヘルメスによって明らかにされたと言っていた」「どんな書物?」「『魂の書』や、サビアン学派のダビデ、イビン、クラーによる『ヘルメスの典礼』など」「残ってたら良かったのに」「7世紀にはイスラム文化が始まった、コーランはヘルメスを参照していなかったが、作者はコーランの予言者イドリスと、ヘルメスとエノクを同一視している。この同一化は、イスラムとエジプト、ギリシャの伝承を繋げた。イスラムでのイドリス、つまりヘルメスは、非現実的人物として記述されている。彼はモーゼに入門儀式を与えた賢人であり、スーフィー教の指導者と比較された」「古代も色々な宗教があったんですね」「8世紀のペルシャの占星術師アルブマザーは、ヘルメスの家系図を作製した。それはイスラム世界に多大な影響を与えた。ヘルメスは三代になっていて、一代目は大ヘルメスで、大洪水の前に生きていて、トート神と同一視されていた」「大洪水の前なら、やはりアトランティス人でしょうか?」「そう考えられる、彼は人類に文明を与えた。最初のピラミッドを建設させ、聖なるヒエログリフを刻んだ」」「スフィンクスは大ピラミッドより前からありましたが、大洪水の前に造られたんでしょうか」「そう考えられる。二代目ヘルメスは、大洪水の後、バビロニアに生まれ、医学、哲学、数学の達人だった。彼はピタゴラスに入門儀式を授けた。三代目ヘルメスは、人類明文化を継承し、錬金術を伝承した」「やはりアトランティス人ですよ、非文明人は彼らを神と呼んでいたんだと思います」「エメラルド・タブレットというのを聞いたことがありますか?」「いいえ」「一世紀の哲学者アポロニウスの作とされている」「あ、イスレンのバラを歓待してくれた人ですね」「アラビア語版が最も古いものだが、キリスト教司祭サジュスが翻訳して現代に伝わった。アポロニウスは、ヘルメスの墓を発見したことを述べている。墓の中では、一人の老人が王座に座って、エメラルド色のタブレットを持っていた」「それがエメラルド・タブレットですか?」「そこに刻まれていた文がです。そこには、天地創造の秘密と、万物の原因を説明する一冊の本があった」つづく 浜離宮 特別名勝及び特別史跡に指定されている徳川将軍家ゆかりの庭園。大規模な再開発が続く汐留の高層ビル群に隣接し、四季の花が咲く都会のオアシス。東京湾の海水を引き入れた『汐入の池』と2つの『鴨場』をもつ、江戸時代を代表する大名庭園。汐の干満によって池の趣を変える様式で、池にはボラやセイゴ、ハゼ、ウナギなどの海水魚がいる。入口から左手すぐの『三百年の松』は、六代将軍家宣が、庭園を改修した際に植えられた都内最大の黒松で、太い枝が低く張り出し、威風堂々とした様は圧巻。その先は、春には30万本の『菜の花』、秋には一面に『コスモス』が咲き誇るお花畑。「チヴォー氏の最期」はこの前にあります
2009.04.02

写真の花は「ブラックキャット」 名言名句「チャンスは強いられて与えられるものではなく、不安な心を抑えて奪い取るものである(関本忠広)」 チャンスは何かが変化する時であり、不安がつきまとうものだが、二の足を踏んでないで意を決して掴み取ることで前進できる。猫ですにゃん 13 私たち猫も、犬も元をただせば同じ動物にたどり着いちゃうんだよ。 それは人間が誕生するより、500万年以上も前、今から5千万年ほど昔、ミアキスっていう動物が居て、それが全ての肉食哺乳類の祖先になったんだ。 ミアキスは体長が20センチぐらいで、木の上で小動物を食べて暮らしていたらしいよ。 猫も犬もそのミアキスから分かれて、それぞれ独自に進化してきたんだ。 犬の祖先になったのは、森の木から離れて平原で暮らし始め、平原の草食動物を捕獲するために群れを作り、狩をするために長い距離を走れる能力を身に着けたんだ。 猫の祖先になったのは、森に残って色々な種類に枝分かれし、2千万年前に今の猫科が誕生したんだよ。 虎やライオンのような大型の猫科も、ヤマネコやイエネコなどの小型猫科も、祖先はみんな、2千万年前アフリカで誕生したプセウダエルルスという動物で、ヨーロッパからアジア、北アメリカまで分布していたんだ。 イエネコが登場したのは、ずっと後になってからで、祖先はリビア猫という現存するヤマネコの一種で、紀元前7500年頃、古代エジプト人が家畜化したのが、イエネコの始まりなんだよ。 羊山公園 秩父の武甲山をバックに芝桜が広がります。見頃は4月中旬~5月初旬で、ゴールデンウィークは色鮮やかな芝桜を見るのも良いですね。かわいい羊たちがいるほか、アスレチック広場もあるのでお子様も楽しめます。(この写真は秩父市シルバー・カメラ部会員の作品です)現代語「源氏物語・明石」はこの前にあります。
2009.04.01
全41件 (41件中 1-41件目)
1


![]()