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李さんの論文(4)3.市場分析1996年の我が国の果実国内消費は総生産量の99%だった。我が国の果樹産業の生産力を先進生産国と比べると、優良品種の統一、経営の集約化、果実加工業等商品化への取り組みにおいてまだまだ大きな較差がある。果実の輸出入量は今後一挙に拡大するのは不可能である。しかし中国は12.2億人の人口を持ち、消費大国でもある。従って果実の将来にとって国内消費の拡大が大切である。福建省の1997年の果実生産量は330万トンで、1人あたり約100kgだった。これは全国平均の40kg、世界平均の70kgよりも高い。同期の1人あたり純収入から間接計算してみると、福建省の1人あたり果実消費量は55kg。その中から北方のリンゴやナシの消費を除くと、福建省の地産果実の消費量は1人あたり40kgになる。すなわち、生産量の約60%、200万トンの果実が省外の国内市場で消費されている。我が国の人口統計資料によれば、東北(遼寧省、吉林省、黒龍江省)、華北平原(北京、天津、河北、山東、河南)、華中(上海、浙江、江蘇、安徽、江西、湖北、湖南)、華南(広東、広西、福建)、四川盆地が人口密度が高く、人口の77%を占めている。四川盆地を除けば、1人あたりの収入は全国平均より高く、果実の大量消費地域である。また、東北と華中地域の1人あたり果実生産量は全国平均の50~60%であり、果実の重点消費市場である。全国の大市場に着眼した品種構成の調整は、資源の優勢に基づき「非生産地域市場」を開拓するだけでなく、同時に積極的に「生産地域市場」へ進出することも必要である。すなわち、「非生産地域市場」へは優勢果実の品種を速やかに調整し、「品質で銘柄を取って」市場を開拓する。省南部のポンカンはそのうちでも典型的な成功例である。一方「生産地域市場」に対しては、早熟、中熟、晩熟の品種構成を調整して、「季節で銘柄を取って」市場に進出する。たとえば晩熟竜眼や晩熟レイシのような品種は、華南の生産地域市場へ進出するだけでなく、同時に全国の季節性市場へも進出できるはずだ。果汁は葡萄酒に僅かに負けるものの、果実加工量では世界第2位であり、その生産量の3分の2は柑橘ジュースである。柑橘の果実の90%以上は加工用として使われている。80年代初め、我が国はアメリカの柑橘産業の経験を導入して、甜橙を増産しようという計画の下に果汁加工設備を造った。しかし今日にいたるまで我が国の柑橘加工量は僅かに能力の4分の1に過ぎない。我が国の加工業が発展しない主な原因は、生産規模と経営化の程度が低いことである。加工業を運営するには、たとえばブラジルの場合、加工用原料価格は1kg0.4元(6円)で、果実生産コストは0.18元(2.7円)であるが、管理効率は1人あたり20ヘクタールになる。これを我が国の柑橘生産地域と比較してみると、生産コストは3分の1、労働生産性は20~30倍である。また、伝統的な飲食文化の影響もあり、我が国ではまだまだ果実ジュースを飲む習慣が行き渡っていない。加工品種の発展は国情と今後の加工業の発展に待つところが大きいために、その進歩は緩やかになるだろう。まずは加工にも仕向けられる生食果実用品種の調整を行うべきである。
2003年05月31日
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李さんの論文(3)2.福建省のそれぞれの果樹生産地域資源の特徴経済発展学の理論に基づけば、国家(地域)の生産要素の優勢部門は出口(輸出)され、劣った部門は進口(輸入)される。農業部門では生産規模、気象と土壌、品種、この農業生産の3大自然要素が最も重要である。福建省の果樹生産は、気候条件をいかに生かすかが将来の発展のために必要である。中国の国土面積の中で、中・南亜熱帯は約13.9%を占めるが、そのうち4%を福建省が占めている。広東省の7.9%、広西壮族自治区の5%には及ばないものの、福建省が中・南亜熱帯地域内では自然条件と生産条件に恵まれている。従ってこれは長期発展的に優位を確立する基本である。2-1福建省南部の南亜熱帯気候地域福州以南で、載雲山、博平峰以東の南部沿岸地方は、我が国の南亜熱帯気候の北限である。この地域の面積は福建省の約6分の1で、果樹栽培面積は省の45%、生産量は51%を占める主要な亜熱帯常緑果樹栽培地域である。その特徴は、①緯度と海洋性気候がもたらすもので、温度条件は、摂氏10度以上の積算温度が年間6350~7600度になる。春の平均気温が17度~20度で、我が国の南亜熱帯地域の中では著しく低い。又越冬条件も良好で、平均最低気温は0度より高い。従って、亜熱帯果樹の竜眼やレイシの成熟期、夏橙のような晩熟柑橘の回青時期は広東省や広西壮族自治区に比べて10~30日遅い。晩熟竜眼、レイシは8月上旬まで収穫可能だし、夏橙は11月上旬から翌年5月上旬まで収穫できる。これと同時に、福州以北の海岸線では竜眼やレイシの収穫をさらに1~2ヶ月延期できる地帯が南から北に延びている。②台湾山脈の影響で、夏と秋(7月~11月)には太平洋の湿った気候から隔離され、【蒲のさんずいがない】田以南の南部地域では、我が国の平均気温が同じ条件の地域に比べて日照量が100時間以上多く、雨量が200ミリ前後少ない。気温、日照、雨量の条件によって、ポンカンの着色、糖度の上昇など高品質になるために、他の地域に比べて優勢である。2-2省西北及び省東部の中亜熱帯気候地域載雲山脈、博平峰以北で、武夷山脈以南の海抜400m以下の地域と、鷲峰山以東の海抜700m以下の地域は、面積が全省の3分の2を占めている。この地域は福建甜橙、温州ミカン、及び落葉果樹の主産地域である。北にある武夷山脈が屏風の役割を果たし、温度条件は、摂氏10度以上の積算温度が年間5500~6500度である。これは我が国の同じ緯度の地域に比べて最も高い。また揚子江以南の地域の中で、一日の気温較差(10度以上)が一番大きい。海抜、緯度、地形条件が相互に影響して、他に類を見ない複雑な気候類型である。①【門がまえに虫】江、九竜江北渓、汀江の中・上流地域の盆地は海抜が低く温度条件が10度以上の積算温度5800~6500度と恵まれているので、早生温州ミカン、ネーブルの栽培に適している。南部の竜岩盆地と中部を東西に走る沙渓の流域が典型的な代表地域である。地形が盆地で内陸性気候であるために、春の温度回復が早く3月の平均気温が15.5度以上になる。秋は温度が下がるのが早く、9月の平均気温は25.5度以下である。従って柑橘の果実は早熟になるために竜岩盆地は早生柑橘品種の栽培に非常に適した地域である。②省東沿海地方と①【門がまえに虫】江下流域の低山丘陵地方は、海洋性気候の影響が顕著で年平均気温と最低気温差が2度であり、我が国の同じ気温の地域に比べて越冬条件に恵まれた地域である。気候特性は竜岩盆地と反対に春の温度回復が遅く4月の平均気温が17.5度。従って夏橙の回青は我が国の経済栽培地域の中で一番遅い。その気象条件によっては夏橙が回青しないこともあり、品質低下が少なく、理想的な晩熟柑橘品種栽培地域である。その他、内海湾地域では晩熟竜眼や晩熟レイシの栽培も有利である。③載雲山、武夷山、両山系の間にある海抜700m以下の地域と低海抜盆地を除く内陸山間地域(博平峰は含む)は、温度条件が10度以上の積算温度5500~6000度であり、最も温度が低い月の平均気温が6度以上で、我が国の同じ緯度の地域と比べて温度条件、春の平均気温、夏の気温日較差条件では最も優れている。そのため、ナシ、モモ、スモモ、【木のしたに示】等の夏に成熟する落葉果樹の熟期が同緯度の他の地方に比べて早い。従って早熟で高品質な落葉果樹の適地である。2-3 高海抜中熱帯山地農業気候地域載雲山、武夷山の海抜700m以上の高山地域は積算温度が5500度以下で、年平均気温と最低気温差が6度、年間降水量は1800ミリ以上と多い。ただし日照量は少ないので他の地域と比較して晩熟の落葉果樹の品種に適している。
2003年05月30日
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李さんの論文(2)1.福建省果樹類品種分布の現状及び果樹産業が直面する問題1-1果樹類品種分布の現状福建省は我が国の南亜、中亜両気候地域にあり、東南は海で内陸部は山脈が東西に連なっている。その特殊な地理的環境が、福建省の果樹類の多様性(主に常緑、落葉果樹14品種)を作り出していて、我が国南方果樹の主要産地の一つである。1997年の果樹栽培面積は57.6万ヘクタール、生産量は334万トン、主要品種は、柑橘(柚)、バナナ、竜眼、レイシ等の常緑果樹で、面積の70%、生産量の80%を占める。スモモ、モモ、ナシなどの落葉果樹は補完的な品種であり、およそ「4帯3地域」の果樹類の品種分布に分類できる。福州以南:南亜熱帯の竜眼帯、レイシ帯、バナナ帯、ポンカン(柚)栽培地域省西北で、海抜の低い地帯:温州ミカンを主力とする寛皮柑類、甜橙栽培地域博平峰、戴雲山、鷲峰山系:モモ、スモモ、柿などの落葉果樹を中心とした、常緑・落葉果樹混栽地域武夷山系:ナシ、【木のしたに示】を中心とする落葉果樹帯福建省の果樹類の品種分布は建国後4つの発展段階に区分できる。①回復発展段階(1950~1959年)南部の歴史のある果樹生産地域から生産の回復が始まった。「果樹上山」の方針を策定し、柑橘など「6大名果」を確定した。②緩慢発展段階(1960~1978年)農村経済の停滞、農産品の需給体制の制約を受けて生産発展は緩慢だった。しかし農業部門の努力によって、柑橘栽培の模範園が推進された。省西北地域は特に推進に対して適応が早く、豊産性の温州ミカンが多く植えられた。③迅速発展段階(1979~1989年)国家が農村経済改革に着手し、果樹生産は迅速に発展した。発展の最初の速度は低かったが、市場の需要拡大が生産を強力に推し進める要因となった。発展は「量」の面で迅速に拡張した。80年代に福建省は果樹栽培の区域を策定していたが、市場の更なる需要のために経済栽培の分布は不適な地域までに広がった。④調整維持段階(1990年~)1991年の周期的な大凍寒害の影響で、果実市場は需給バランスに変調を起こした。優秀な品質の生産が重視し始められ、適地優勢、季節、等級などによる価格差が次第に拡大し、市場の「優勢淘汰」はますます強くなった。優品と劣品の品種発展と淘汰も同時に加速され、果樹類の発展はもはや「6大名果」ではなく、多様化の様相を示している。発展の速度は前年比+10%~-5%で推移し、「量」より「質」に重点が置かれる傾向にある。1-2果樹産業が直面する問題果物の価格が下がってきたことで、果樹産業に潜在していた問題点が顕著に現れている。その①果樹の品種構成の偏り80年代以降、国家の農業経済政策及び地方政府から促進されて、我が国の果樹産業は10数年間で急速に発展した。その後、国内果実市場への供給が速やかに整備されるに伴い、我が国は世界最大の果実生産国になった(1997年全国の果樹面積800万ヘクタール、生産量5200万トン)、しかし、1978年我が国1人あたり果実消費量は5.5kg以下という経済状況下では、市場は売り手主導で、生産は単一志向、果樹の品種は盲目的に植えられ、同一性が拡大した。それによって、当然起こるべきことなのだが、品種構成に極めてバランスを欠く結果になっている。柑橘を例にとれば、我が国の寛皮柑類のうち柑橘の占める割合は70%以上で、そのうち50%以上を中・晩熟の温州ミカンが占めている。また、柑橘の品種構成は11月~12月に成熟するものに集中している。福建省でも寛皮柑類のうち柑橘の占める割合は80%(ポンカン42%、中・晩熟温州ミカン33%、福桔5%)で、甜橙8%、柚類10%等の比率は低い。福建省はポンカンの品質は優れ、温州ミカンの栽培も我が国の主力産地となっているが、成熟期が集中している。また、省西北地域では中・晩熟温州ミカンの生産に偏りすぎて、甜橙が極めて少ないために問題はもっと深刻である。その②市場需給バランスの崩壊現在、果樹生産の生育期であることや資本循環の周期から見て、果樹面積の増加は飽和点に達している。80年代我が国の果実生産は年率17.6%で成長し、その間の地方農民の生活費は7.7%、1人あたり純年収は4.5%増加した。1979年~1996年の福建7大主要農産品の中で、果実生産量だけが年率20.3%という急成長を遂げ、1人あたり年収は平均17.0%増加した。その③加工業の発展の遅れ1997年我が国の1人あたり果実消費量は約42kgであるが、世界の平均は約70kgであり、まだまだその差は大きい。我が国の果実は50~60%を加工にまわせる能力があるのだが、加工業の発展は10%以下と停滞している。果実は生鮮消費が基本であるが、市場の季節的な需給調整余地が少ないために、市場では季節的な生果の過剰が発生している。果樹産業の発展は、まだ40%の園地が成園になっていないことを考えると、まだしばらく生産量は増加しつづけ、2000年には我が国の果実生産量は6200~6500万トンに達すると予想だれている。1人あたりにすれば50kgである。品種構成の調整がなかなか進まず、加工業の発展が停滞している中で、どうやったら我が国の果樹生産における過剰問題を解決し、将来へと繋げることができるのだろう。
2003年05月29日
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李さんの論文(1)一体いつになったら終わりが来るのかtetywest自身も予想がつかなかった「果樹部会中国へ行く」も、ようやく終盤に到達した。書き始めてから何と90日以上の月日が流れていたのには今更ながら驚いている。よくここまで続いたものだ・・・やれやれ・・・・この旅行から帰って程なくSARSのニュースが流れたのだが、その時はこれほどまでに大騒ぎになるとは予想だにしなかった。あの時中国へ行けたのはつくづく運が良かったと思う。今回の旅行で、福建省農業庁果樹科の李さんには4日間ずっと我々に同行してもらった。そして天馬柑橘場の視察の段取りを始め、cjjさんが帰った後の我々の世話も一手に面倒を見ていただいたのだ。本当に何とお礼を言ったらいいのかわからない。まさに『天時、地利、人和』が揃っていなければこんな素晴らしい旅行は出来なかっただろう。最近になって、tetywestはインターネットで李さんの論文を発見した。もちろん全部中国語で書かれている。ざっと目を通すと、今回の旅行目的の核心に迫る素晴らしい内容だった。李さんにお世話になったお返しの気持ちも込めて、tetywestは無謀にもこの論文を日本に紹介したいと思ったのだ。中国語をまったく知らないtetywestが李さんの論文を正確に和訳できるはずはないのだが、大まかなところは伝えられるだろうと思う。実はこれもまた旅行の楽しみの一つだったりするのだ。----------------------------福建省果実類は品種構成の調整がまず必要李さん 他2名福建省農業庁果樹科果樹生産においては品種構成が重要な要素となる。それが合理的に配分されているかどうかは、国家的な、及び地域の果樹生産力を測る尺度の一つであり、市場能力の一種の表現方法でもある。1997年、我が国の南方柑橘など主要な果実は北方のリンゴ、梨に続いて生産過剰になっている。前年と比較すると、優れた品種のごく僅かの例外を除いて、福建省の主要果実の平均価格は3分の1~2分の1だった。同期の福建省果実市場で3つの主な要素を調査したところ、「品種差>季節差>等級差」の順であったことが明らかになった。つまり、果樹の品種構成が過剰生産をもたらし、果樹産業の発展を制約している。地域資源の優勢を生かして市場への安定供給を確保し、速やかな優良品種への更新を行って果樹産業の持続可能で健全な発展を進めなければならない。
2003年05月28日
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お別れ食事会(2)おそらく、中国の官僚といえば「人治主義」、そして「賄賂」が日常茶飯事に行われると思っている日本人は多いだろう。「中国共産党は、自らの腐敗によって滅びるだろう」と予言した学者もいたくらいだ。ところが「中国4000年の体質」である「賄賂」・「腐敗」についても、21世紀になって劇的な変化が起こっているのだ。新華社のネットにアクセスしても、●受賄14万、済南一国資局長被判刑(2003-05-07)●両副省級高官到階下囚--【藩の草冠がない】広田受賄案的警示(2003-05-07)●河北省原常務副省長及福奎囚受賄巨額被判処死緩(2003-04-30)と、賄賂を受け取った官僚の処罰の記事が並んでいるし、時事通信を拾ってみても、元省長に猶予付き死刑判決=中国 【北京10日時事】1994年~2000年に職権を利用して計1810万元(約2億7000万円)の賄賂を受け取ったとして収賄罪に問われた中華の元雲南省長・李 嘉廷(元中国共産党雲南省委副書記)に、北京市第2中級人民法院(地裁)が9日、死刑 執行猶予2年、政治権利終身剥奪、全財産没収の判決を言い渡した。李は党中央委員候補だったが、01年9月に党籍剥奪処分を受けた。 2003年5月10日貴州省委元書記を汚職で党籍剥奪中国共産党中央紀律検査委員会は25日、貴州省委元書記・劉 方仁を規律違反で党籍剥奪処分にした。貴州省の不動産開発で便宜を図った見返りに企業から多額の現金や高級腕時計を受け取っていた他、長期に渡り既婚女性と不倫関係を続けていたとされた。 2003年4月26日とネタには不自由しない。確かにまだ日本と比べると公務員特権は多いのだが、若い世代を中心にして「賄賂」・「腐敗」は「悪」という意識は着実に浸透している。どこかの国もこれくらい劇的に改革を推進してもらいたいと期待するのはtetywestだけだろうか・・・すっかり話が横道に逸れてしまった。テーブルに運ばれてきた前菜料理は、きれいな皿に盛り付けられている。ウェイトレスが一度テーブルの真中に並べて皆に見せた後、テーブルの端へ移動させる。せっかくの料理を一枚の写真に撮りたかったtetywestは、お願いしてもう一度真中に戻してもらった。下の写真はその苦労の成果だ(笑)。きれいに盛り付けられた前菜豚、春巻き、くらげ、タコ、タケノコ、鴨の腎臓、豆腐、フライドポテトと色とりどりの前菜は、それぞれに美味しい。続いて、舟形の容器に盛られたうどん状の料理が登場する。これはカマボコの押し出しだった。tetywestはこんな形のカマボコを見たことがなかったのだが、味はやっぱりカマボコだった(笑)。カマボコうどん(?)料理は次々と運ばれてくる。焼きソバ、豚足、野菜の入った饅頭、牡蠣の入ったお好み焼き、葉子魚の煮付け・・・園芸部長が、「ん?この魚は日本でも見たことがあるよ」しかし名前を思い出せない。孫さんが漢字で「葉子魚」、英語で「leaf fish」と書いてくれる。体長5~7センチの平べったい魚で、厦門の名物料理なのだそうだ。「ううっ、・・・そのまんまやんか・・・」これでは日本語で何と言う名前なのかtetywestには見当もつかない。ところがどっこい、その道に通じた人材はいるもので、「日本にもおるおる。え~とな・・・釣りしよったら餌ばっかり食う『外道』じゃがな・・・そうや、『ヒイラギ』じゃ。ヌルヌルしとるやつな」と販売課長。園芸部長も納得して、「日本では普通は食べんけど、オレは好きなんよ。これとまったく同じ様に甘辛うに煮付けたら美味しいんやて・・・。鱗を取ったりして料理するのが面倒くさいけどな」好物の「ヒイラギ」が厦門の名物料理だと知って感激ひとしおの園芸部長だった。次々に運ばれてくる料理マオタイ酒での乾杯の嵐が繰り返されたことは書くまでもない。--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(89)(5/26) cjjさん >5年ほど前まで、中国の地方政府にはやたらと人がいた。cjjさんをして、「私の課は200人いますが・・・-----200人は私の課の人だけではなくて、下の県(市、区)で果樹、お茶、野菜などの技術普及をしていた技術者も含めて。市は8人、県(市、区)は3ー5人、郷(鎮)は1ー2人。最近数年、行政機関、技術部門、国公立学校に老齢化の傾向があり、人数を減少しなければならないから、若者の入るのが大変難しいです。1996年まで、政府は大学卒業生に仕事を配り、1997年から、大学卒業生は自分で仕事を探します。公務員になるには、必ず公務員採用試験に合格します。私が大学を卒業した時(1991年)は、大学卒業生が公務員になるとか、技術者になるとか、或いは会社員になるとか、全部は政府の人事局によって決まりました。 --------------------------------
2003年05月27日
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お別れ食事会(1)厦門大学を出て、南普陀寺の横を北に向かって走るとまたトンネルがある。先ほどのトンネルよりはずっと狭くて曲がりくねっている。【金中】鼓山隧道と呼ばれるこのトンネルは戦争中に日本軍の地下要塞として掘られたものだそうで、あちこちに入り口を塞がれた側道がある。車は一方通行だった。トンネルを抜けると、今朝通った文園路に出る。そのまま湖濱中路との交差点まで走り、嘉禾公園の入り口にある「好清香大酒楼」へ到着した。時間は10時30だ。文園路今回の中国旅行もいよいよ大詰めになってしまった。1時間半後には旅行社の車でホテルから空港へ向かわなければならない。cjjさんの予定ではここでcjjさん主催の「送別会」だったのだが、代わりに厦門市農業技術推広中心の孫副主任(副所長)が主催してくれることになっている。今回の旅行で厦門市農業技術推広中心には市内の視察や食事の手配等すっかりお世話になっている。その上に「送別会」までとは、我々は本当に何と感謝したらいいのかわからない。孫さんは、cjjさんと同じように台湾で1年間の農業研修を経験していて、厦門市農学会の副理事長兼秘書長でもある。日本語は話さないものの、英語はtetywestより上手い。好清香大酒楼店内に入ると、海鮮料理に使う魚を陳列しているところだった。台の上の氷を敷き詰めた容器に魚をきれいに並べている。目が黒々としていかにも新鮮そうだ。魚の種類は日本とよく似ていて、ヤリイカ、タコ、クラゲ、アワビもあった。海鮮料理の食材案内された2階の個室は湖濱路に面していて、大きな窓からは行き交う車が眺められる。孫さんに「こちらにどうぞ」と呼ばれて、tetywestは隣の席に座ることになった。こうなったら英語で話すより仕方がないと覚悟を決める。「厦門市農業技術推広中心」を日本の組織に当てはめると「農業改良普及センター」だろう。日本の場合は県農政部の職員だが、中国の場合も市農業局の職員だ。厦門市の場合は職員は20名で、仕事は主に農民への農業技術の普及活動、市農業局が運営する農場の管理を行う。指導のためには管轄下の鎮を回らなければならないのだ。厦門市の農業は、野菜、果樹、花卉、米、ラッカセイと広範囲にわたる。それらを全部引き受けているのだから仕事は忙しいだろう。5年ほど前まで、中国の地方政府にはやたらと人がいた。cjjさんをして、「私の課は200人いますが、日本の公務員くらい仕事をすれば20人で出来ます」と言わしめたくらい能率の悪い仕事振りだったのだ。しかしその頃、中央政府では思い切ったリストラが断行され、行政の効率化とスリム化が行われていた。21世紀になると行政改革は省に対して行われ、そして今は市や県の地方政府が改革の真っ最中なのだ。中国の発展の早さに驚いているtetywestなのだが、この思い切った行政改革の素早さにはもっと驚かされる。
2003年05月26日
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厦門大学(3)中国では、難関大学であればあるほど就職や留学等に有利なのは日本の比ではない。清華大学や北京大学を頂点に厳然とした大学間格差のピラミッドが存在する。従って学生は少しでも良い大学へ入るためにしのぎを削ることになる。また、この学校間格差は小学校から高校までも存在し、いわゆる良い学校は大学同様、重点小学校・中学校・高校と呼ばれて、入学することは非常に難しくなっている。中国の受験戦争は良い幼稚園に入ることから始まるのだ。(※さすがに「重点幼稚園」はないそうです・・・笑)。 中国の大学進学率は、最近どんどん高くなっている。1980年代まではわずか3%程度だったものが、2001年の統計では、高校の卒業者約2430万人のうち、大学への進学者は4年制の本科大学と2~3年制の専科大学を合わせ約270万人となっており、大学進学率は11%にまで増加している。この背景には、大学の定員増と日本の私立大学に相当する「民弁大学」の設置がある。大学の定員は最近3年間で2倍になっているそうだ。一方、日本の大学(短大を含む)進学率は、平成13年度で女性48.5%、男性46.9%で、ほぼ2人に1人が大学生だ。人数は約90万人になる。中国の進学率が増えたといっても日本の4分の1以下しかなく、まだまだ大学は狭き門だ。しかも「重点大学」にはそのうち3分の1程度しか入れないのだから、大学受験がものすごい競争だというのは容易に想像できる。この受験戦争の厳しさは、「全国統一試験」が1979年から毎年7月7~9日の3日間に行われてきたために「黒色的7月」と呼ばれている。資料によると、「2000年度の大学入学試験受験者は約360万人である。この内61%にあたる約220万人が入学を許可された。受験者の男女の比率は6:4であり、現役と浪人の比率は約7:3であった。2001年度の受験者は約380万人、入学許可者は約250万人、大都市東部出身者がその内70%以上を占めている。」引用URL:韓国と中国の大学入試制度について(石川祥一・松蔭女子大)http://www.jacet.org/jacet132.htm 中国の大学入試は、日本の「センター試験」のような「全国統一試験」方式だ。しかし日本の国公立大学で行われる「二次試験」のようなものはない。まさに「一発勝負」なのだ。「全国統一試験」の科目は、国語、数学、外国語(英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、日本語)が必須科目で、物理、化学、生物、政治、歴史、地理、6科総合、文科総合(政治、歴史、地理)、理科総合(物理、化学、生物)のうちから1または2科を選択する。一般的には理系は物理と化学、文系は政治と歴史の2科目を受験するようだ。日本との大きな違いは、文系でも「数学」が必須科目だということだ。昨日書いた日中の文系大学生の数学問題の学力差は、このような入試制度の影響があるのも否めない。受験生は、出願にあたって志望するいくつかの大学と専攻(1大学あたり3専攻まで)を届け出、入試成績によって上位者から順に入学大学が決定する仕組みになっている。北京大学や清華大学のような一流校には全国から志願者が殺到し、競争は熾烈を極めて、最低合格点が8割を超えるそうだ。しかし、日本ではちょっと考えられないような制度もある。それは各省・直轄市ごとに合格者数が割り当てられていることだ。例えば北京大学の湖北省出身者の枠は何人とあらかじめ決まっていて、湖北省の受験生で成績の良い人がどんなに多くても、枠以上の人数は合格できない仕組みになっているのだ。湖北省出身のtetywestの友人は、「この制度は北京に住んでいる学生に有利です。重点大学に入学するためには武漢では750点満点で550点くらい必要ですが、北京では450点でも合格します」と教えてくれた。「清華大学では約3000人の学生の中で、北京には400~500人が割り当てられていますが、湖北省は70人くらい、甘粛省は40人くらいしか割り当てられていません。上海の復旦大学では半分が上海に割り当てられています」自由に戸籍が移動できない中国では、この制度は北京や上海に住んでいる受験生に絶対有利だ。これを聞いて思い出したことがある。tetywestの母校の先生が生徒にこんな話をしたのだそうだ。「世界中で、日本ぐらい誰でも平等に一流大学へ行ける国はないんだぞ。おまえたちは恵まれているんだから、それを自覚してしっかり頑張れ!」それを聞いた生徒たちがどこまで理解したかは疑問だが、確かにその点では日本は平等だ。だがそのために、みんなが「あわよくば我が子を東大に」と、競争を煽り立てる結果になっているのかもしれない。それはともかく、中国で一流大学を目指すことは日本よりも数段厳しいのだ。中国教育部(日本の文部科学省)は今年から「全国統一試験」を1ヶ月早めて6月7~9日に実施すると決めた。これは、真夏の高温や自然災害による受験生の負担を軽減し、受験生の健康に配慮したからだという。しかし、だからといって本当に受験生の負担が減るわけではない。「黒色的7月」が「黒色的6月」に変わるくらいのものだろう。それよりtetywestにはもっと気にかかることがある。重点大学の合格者数が約90万人だとすると、中国では毎年日本の全部の大学生と同じ数だけのエリート大学生を創り出していることになるのだ。やっぱり「中国、恐るべし!」--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(87)(5/24) cjjさん>中国教育部は1995年に「21世紀初頭までに国際社会に通用するおよそ100前後の重点大学を決定する」という方針を決定している。これは「211工程」と呼ばれるのだが、この方針に基づいて2000年になって「重点大学」が決められた-----「重点大学」は1950年代決められたのですが、「211工程」は新しい基準でもっといい大学を選抜しました。もちろん、殆どは元の「重点大学」。 Re:果樹部会中国へ行く(87)(5/24) cjjさん >すっかり産業が空洞化して目的意識もなく虚ろな日本の学生と、自国の未来を見据えながら発展を信じ「自強不息止于至善」で勉学に励む中国の学生。-----中国では、こんなものは見えません。まったく逆の情報がいっぱいです。だから、みんな海外へ留学行きたいです。 --------------------------------
2003年05月25日
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厦門大学(2)--------------------------------厦門大学は1921年4月、かつて毛沢東氏に「華僑の旗織、民族の光輝」と称された著名な華僑の指導者である陳嘉庚氏によって創立された大学であり、中国近代教育史において華僑が寄付して作った一番目の大学としてよく知られている。厦門大学は当面、中国の経済特別開発区の中で国家教育部に直轄する唯一の重点大学であり、又世紀の境目に跨っている国家政府が、多大な力を入れて着実に建設を推し進めようとするハイレベルの大学の一つでもある。厦門大学の校舎は厦門島の南端に位置し、敷地面積は2188畝(14ヘクタール)に達している。山を後ろにして海が見え、静かで綺麗なキャンパスは、中国で数少ないすばらしい環境に恵まれていると言われている。さらに、2568畝(17ヘクタール)の敷地面積を有する【さんずいに章】州校舎は、今のキャンパスと海を隔てて相対していて、すでに2001年に定礎式が終わって、2003年9月に開かれると言われている。80年ぐらいの沿革を経てきた厦門大学は、独自の特色を持ち、数多くの優秀人材を育成してきた。目前、在学人数はすでに20000人に達している。厦門大学は広範な国際学術交流を行い、世界の50ぐらいの大学と国際交流や学術合作を進めている。引用URL:厦門大学海外教育学院http://oec.xmu.edu.cn/japanese/oec/ --------------------------------これを読んだとき、tetywestは重点大学の意味がよくわからなかった。調べてみると、中国教育部は1995年に「21世紀初頭までに国際社会に通用するおよそ100前後の重点大学を決定する」という方針を決定している。これは「211工程」と呼ばれるのだが、この方針に基づいて2000年になって「重点大学」が決められた。現在全国に591ある4年制大学のランクが毎年公表されている。「2003中国大学100強」によれば、1.清華大学2.北京大学3.浙江大学4.復旦大学5.華中科技大学6.南京大学7.武漢大学8.吉林大学9.上海交通大学10.中山大学11.哈尓濱(ハルピン)工業大学12.西安交通大学13.四川大学厦門大学は24位だった。これを見たときtetywestには、「なぜ、こんなに露骨に大学同士の競争を煽り立てるのだろう?」という疑問が沸いてきた。そうなるともう止まらない。2日間も日記が書けなかった原因の一つはこれだった(汗)。中国は「科教興国(科学と教育で国を興していく)」という基本理念を持っているのだ。科学技術により中国経済を発展させ、教育により国際社会の第一線で活躍できる人材を養成し、それを国力の基礎に置くという国家戦略だ。「教育を制覇する者が21世紀を制覇する」「しかし、これは・・・まるで明治維新の日本じゃないか!」さらに、こんなものも見つかった。西村和雄京都大学教授らは、日中の文系の大学生に同じ数学の問題を解かせて、興味深い結果を報告している。満点を取った人の割合が、北京の大学では95.6%であったのに対し、日本の著名な国立大学は45.0%と22.9%、一流私立大学では4.7%と1.8%と、惨憺たるものであったらしい。OH! まるで絵に描いたようなステレオ・タイプ・・・すっかり産業が空洞化して目的意識もなく虚ろな日本の学生と、自国の未来を見据えながら発展を信じ「自強不息止于至善」で勉学に励む中国の学生(涙)。
2003年05月24日
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厦門大学(1)南普陀寺からほんの少し走ると厦門大学の校門に到着する。校門は鉄柵で閉じられていて警備員が常駐しているのだが、ここでも「Kナンバー特権」なのか、箱バンのドアに書かれた「農業技術推広中心」の威力なのか、我々のために門を開けてくれる。校内に入ると、広い並木道の両側に建物がずらっと建っている。しばらく走ると何とキャンパスの中に大きな湖がある。驚いたことにキャンパス内はゴミ一つ落ちていなくて、とても綺麗だ。厦門大学厦門大学湖の手前の赤い御影石には、金文字で「自強不息止于至善」という字が一字ずつ刻まれている。厦門大学の校訓だそうだ。tetywestはこれも意味がわからなかったので帰国後調べてみた。「自強不息」とは「絶えずみずから勉め励む」ことで、「止于至善」とは、四書「大学」の中にある、「大学ノ道ハ、明徳ヲ明ラカニスルニ在リ、民ヲ新ニスルニ在リ、至善ニ止マルニ在リ」からの言葉で、「完全(完璧)への努力」ということらしい。 厦門大学湖を過ぎると、一変して落ち着いた雰囲気が漂う区画になる。厦門大学はいろいろ雰囲気の違う建物がたくさんある。厦門大学湖のほとりにはビックリするほど高い建物が建っている。陳嘉庚氏の寄付によるものだそうだ。日本式に呼ぶのなら、さしずめ「陳講堂」と言うところだろうか。厦門大学その隣には餐庁もある。厦門大学この辺りの区画は学生の寮が並んでいる。学生は全員寮生活だそうだ。1980年代には1年間1000元以下で大学へ行けたのだが、今は10000~12000元(15~18万円)も必要なのだそうだ。そういえば日本でも1970年代初めまでの国立大学の授業料は1ヶ月たった1000円だった。厦門大学キャンパス内のどこにいても、やっぱり目立つ「陳講堂」(笑)厦門大学厦門大学は車窓から眺めただけだったので、ほとんど書くことがない。--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(85)(5/20) cjjさん >時間がなかったので、我々は門柵の隙間から中の様子を見ただけで寺の境内には入らなかった。-----残念でした。有名な寺で、とても広いです。それに、「ミン南佛学院」がこの寺にあります。「佛学院」は和尚の大学です。 Re:果樹部会中国へ行く(85)(5/20) cjjさん >一戸建て高級住宅地という雰囲気だ。分譲価格を訊いた時その値段の高さに驚いたのは覚えているのだが、いくらだったのかは忘れてしまった。-----公務員の年間収入の100倍以上です。 Re:果樹部会中国へ行く(85)(5/20) cjjさん >広場の前には大きな人工の池があり、池の向こうには厦門大学の高い建物が見える。-----厦門大学は福建省の一番いい大学です。魯迅は厦門大学に務めたことがあります。古い建物は集美のとよく似ています。 Re:果樹部会中国へ行く(85)(5/20) cjjさん >南普陀寺の門の前は広場になっていて、たくさんの人で賑わっている。広場の前には大きな人工の池があり-----寺の前の池は「放生池」と言います。「生きている動物を放す池」の意味です。 --------------------------------
2003年05月23日
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昨日に引き続き「果樹部会中国へ行く」が書けていないtetywest、自分の専門分野で日記を誤魔化してしまおうという魂胆です。「灰色カビ」の防除に使う農薬は「殺菌剤」です。「無登録農薬問題」以後、農薬についての規制がものすごく厳しくなりました。香川県でも作物別に使用できる農薬を一覧表にして農家に配布しています。そして、園地ごとに「いつ、どんな農薬を散布した」という防除履歴を作成しなければなりません。tetywestの地域では、ミカンの花はだいたい5月15日に満開になります。今年も満開は平年並みでした。しかし、実際には園地の向きや、標高差によって1週間程度の差があります。また、同じ園地でも花数の多い樹は早くから咲き、少ない樹は遅く咲きます。同じ樹でも外側にある花は早く、樹の内側にある花は遅いのです。ですから、どのタイミングで防除をするのかを決めるのは本当に難しいのです。もしベストタイミングがわかっても、防除作業は日数がかかりますから、その時期にぴったり合わせて防除ができるとは限りません。実際の防除は、ベストタイミングの少し早目から始めて少し遅めに終わります。ミカンに使える「灰色カビ」の殺菌剤はたくさんあるのですが、農家にとって問題なのはどの殺菌剤が効くかということです。「灰色カビ」は糸状菌の仲間で、同じ農薬を続けて使っていると「耐性菌」といって、その薬では死なない菌に変化してしまうのです。従って農家の方も効果が悪くなると次々と農薬を変えていくことになります。tetywestがちょっと思い出すだけでも、「ラビライト水和剤」、「ロブラール水和剤」、「ロニラン水和剤」、「スミレックス水和剤」、「ジマンレックス水和剤」、「マネージM水和剤」、「スイッチ顆粒水和剤」・・・・これでは永遠のイタチゴッコですね(涙)ところが5年程前、ある農薬メーカーがめちゃ面白い発想をしました。「灰色カビは萎れた花びらに発生する→花びらが無ければ灰色カビは繁殖しない→花びらを落とす薬を開発しよう」こうして登場したのが「トルキャップ」です。しかし「花びらを落とす薬」とは一体何だったと思います?それは「ニッキ(肉桂)」なのです。「ニッキ」は「桂皮」とも呼ばれ、漢方薬にも使われています。「シナモン」もニッキの仲間です。ミカンの花びらに「ニッキ」を散布すると、花びらから水分が蒸発して早く乾燥するのです。そして、乾いた花びらは風が吹けば落ちてしまうのです。tetywestはこのような発想が大好きなので、早速試してみました。しかし、最初に使ったときは果たして本当に効果があるのだろうかと半信半疑でした。で、結果は70点~80点というところでしょうか・・・完全に灰色カビの被害を食い止めることは出来ないのですが、「殺菌剤」でも天候によって効果は似たり寄ったりなのです。そして、それ以来tetywestが「トルキャップ」を使い続けている理由がもう一つあります。「トルキャップ」を散布したミカン園に行くと、特有の甘い香りが漂って何とも言えない良い気分なのです。同じ仕事をするのなら、職場環境が良い方がいいに決まってます(笑)しかし、今年になって「無登録農薬」がらみの問題が発生しました。営農課長が、「実は・・・『トルキャップ』は農薬登録が取れてないんじゃ」「えっ、ほんだら使うたらいかんの?」「農薬と違うきん、『灰色カビ』に効果があるとは書けんのよ。『花びら落とし』やったらかまんのやけどな(笑)」「な~んや、ビックリさせんといてよ」と言うわけで、今年のJAの「防除暦」にも「トルキャップ」が入っています。※tetywestは決して「トルキャップ」のメーカーの回し者ではありませんし、PR料も貰ってません(笑)。
2003年05月22日
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天気が良いのはとても嬉しいのです。なぜかと言うと、この時期のミカンにとって湿気は大敵。あっという間に、それこそたった1日で「灰色カビ」が広がってしまうのです。この「灰色カビ」、花びらが萎れてミカンの幼果とくっついた場所に繁殖して果実に傷をつけるのです。ミカンの上半分、特にのヘタの周りに白いキズがついたミカンを見かけたことがあると思います。それが「灰色カビ」が繁殖した名残なのです。もちろん、だからと言ってミカンの美味しさは変わらないのです。しかし、日本人にとって「果実」はまだまだ「嗜好品」。「美味しくて、かつ、綺麗」なミカンじゃないとだめなんです。この「灰色カビ」の防除は純粋に「外観」を綺麗にするためだけの目的で行われます。そこで、「晴天で乾燥した天気が続くのなら灰色カビは出ないのでしょう?」という疑問をもたれる方もいらっしゃると思います。答えは、「その通りです」「それじゃ、今年はやる必要がないんじゃないの?」「もし、あと1週間雨が降らずに晴天が続けば、防除は必要ないのです。しかし、雨が降って24時間以内に全部のミカン園に殺菌剤を散布することは不可能です。ですから、もし雨が降っても大丈夫なように先に防除をするのです」でも、もし日本の消費者が、「外観なんて問題じゃない。大切なのは中身の美味しさだ」と、どんなに外観の良いミカンも悪いミカンも同じ値段で買ってくださるのなら、こんな防除は必要ないんですけどね・・・・「中国紀行」の日記が書けていない言い訳でした(汗)
2003年05月21日
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南普陀寺へ福建省亜熱帯植物研究所を後にして、再びホテルの方へ引き返す。今度は嘉禾路よりもう一本東側のメインストリートである金尚路を南下する。道路の左側はベッドタウンで、マンションやアパートが建ち並んでいる。厦門はどこを走ってもきれいな街だ。金尚路が蓮前西路にT字型にぶつかると、左折してしばらく蓮前西路を走り、今度は右折して再び南下する。この辺りまで来ると高層建築はほとんどなくなり、郊外型の平屋が多くなる。福建省亜熱帯植物研究所の経営する「厦門亜熱帯植物科技開発公司」の看板を発見した。チラッと見えた店内には熱帯植物の苗木が売られていた。車が進んでいく正面には高い山が見えている。松と花崗岩の岩肌は日本とよく似た風景だ。車はどんどん山の中へ入って行く。どこへ行くのだろうと思ったら、トンネルがあった。厦門島はそれほど大きい島ではない。ぐるっと一周するのに車で1時間程度だ。そんな小さな島にトンネルがあるのはちょっとした驚きだった。この道路は最近出来たようで、トンネルを抜けた所は宅地開発中だった。南向き斜面を、まるで日本の分譲住宅みたいに区画整理している。一戸建て高級住宅地という雰囲気だ。分譲価格を訊いた時その値段の高さに驚いたのは覚えているのだが、いくらだったのかは忘れてしまった。まだほとんど家はなく、茶色い地面が剥き出しで、区画内の道路舗装もされていない。しかし、おそらく数年後にはここにも住宅が建ち並ぶのだろう。そんなことを考えているうちに島の最南端に到着して、2日目の夜にドライブした環島路にT字型にぶつかる。そこを右折してホテルの方へ向かう。途中でごちゃごちゃした通りに入ったと思ったら、程なくお寺の前に到着した。南普陀寺だった。南普陀寺南普陀寺の門の前は広場になっていて、たくさんの人で賑わっている。広場の前には大きな人工の池があり、池の向こうには厦門大学の高い建物が見える。寺の境内は背後に聳える高い山へと続いているようで、かなり広そうだ。南普陀寺から見た厦門大学時間がなかったので、我々は門柵の隙間から中の様子を見ただけで寺の境内には入らなかった。南普陀寺の境内tetywestは、中国でそれほどたくさんの寺を見たわけではないのであくまでも推測なのだが、中国の寺のロケーションには一つのパターンがあるように思える。①南向き②背後に山③前面に水おそらく、これらの条件が満たされる場所に寺を造ったのだろう。所謂「風水」というやつだ。話は逸れるが、「風水」とは古来中国に伝わる学問で、一言でいうと「環境学」のようなものだ。「気は風に乗ずれば散じ、水に界てられれば即ち止まる。故人はこれをあつめて散ぜしめず、これを行いて止めるあり。ゆえに、この術を風と水、すなわち風水という。」(葬書)本来、「風水」は国を興す土地を見つけるための術で、皇帝だけが学ぶべき学問だったものが、いつしか庶民の間にも広まったものだ。「三国志」や「水滸伝」には「風水」に纏わる逸話がいくつも登場する。そして、中国4千年の歴史の中で培われた「風水」は、現在も中国の人々の生活の中で脈々と生きているのだ。こんな言葉もある。「一命、二運、三風水、四積陰徳、五読書」これは風水を信じている人々による人生の指針なので、21世紀の日本に住んでいるtetywestなどは、「そこまで言う?」と突っ込みたくなる。しかし、この言葉を「非合理的だ」と笑い飛ばす自信もない。--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(83)(5/18) cjjさん >それにこのサボテンのことを漢字で「石頭花」と書くのだそうだが、tetywestはそれを「いしあたま・はな」と読んで一人で可笑しがっていた。-----中国語では、「石頭」は「石」と大体同じ意味です。「竹子」も「竹」の意味で、「筍」(竹の子)ではないのです。中国語には、このような表現がたくさんあります。 --------------------------------
2003年05月20日
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福建省亜熱帯植物研究所(3)昨日も書いたように、tetywestは熱帯果樹についてほとんど知識が無い。せっかく福建省でトップクラスの研究所を視察させていただきながら、自分が何を見たのか解らないのでは福建省亜熱帯植物研究所の皆さんにも、視察を段取りしてもらったcjjさんや李さんにも申し訳がない。そこで、せめてtetywestが見たのが何だったのか位は解っておこうと、インターネットで調べてみた。ところがどっこい、「木菠【夢のワが無い】」の日本名がわからないのだ。「菠【夢のワが無い】」なら「パイナップル」だとすぐに検索できたのだが、「木」がくっついただけでもうお手上げ状態。それでも「雅虎(Yahoo!)中国」を駆使して調べること1時間、ようやく「菠【夢のワが無い】蜜」とも呼ばれることがわかった。開いたHPの写真を見て、「な~んだ・・・ジャックフルーツだったの」中国では海南省で多く栽培されていて、6月~7月に熟する。※参照URL:海南旅遊网(中国・簡体字)http://www.hitravel.net/dujia/dongzhiwu/g-sg-ll.html 福抜農場(中国・簡体字)http://fubao.chinafarms.net/produck/cp_blm.htm 「火竜果」は簡単に検索できた。「火竜果」は「ドラゴンフルーツ」と呼ばれ、日本では沖縄で栽培されている。「月下美人」の仲間で、赤い果実が成る。参考URL:ドラゴンフルーツhttp://www.mypjs.com/gakusyu/tropical%20fruits/dragonfruit2/dragonfruit.html 「人心果」も簡単に検索できた。「人心果」は「サポジラ」のことで(と言ってもtetywestはこの名前を知らない)、繊維質が多く、ブドウ糖が多く含まれている。心臓病や肺病、血管の硬化を防ぐ。中国では海南省が有名な産地。果実の形が人間の心臓に似ているところからこの名前がついた。原産はアメリカ又は西インド諸島。果実酒や干果にする。樹液も香りが良く甘いのだそうだ。参考URL:ベトナムの美味しい果物http://www.studios-jp.com/food/fruit/fruit3.html せっかくだから、熱帯果樹の中国名を日本語に訳したものも掲載しておこう。榴蓮 ドリアン 芒果 マンゴー番木瓜 パパイア楊桃 スターフルーツ茘枝 レイシ又はライチ山竹 マンゴスチン 赤毛丹 ランブータン香蕉 バナナ蕃石榴 グァバ火竜果 ドラゴンフルーツ菠【夢のワが無い】 パイナップル木菠【夢のワが無い】又は菠【夢のワが無い】蜜 波羅密又はジャック・フルーツこれで一挙に熱帯果樹の専門家になった気分だ(笑)しかし、「牛心」の検索結果は思わしくなかった。牛心梨、牛心李、牛心柿といろいろあるようだ。おまけに牛心石、牛心山、牛心肉、牛心鎮まである。「牛心梨」は「蕃茘枝(バンレイシ)」とも呼ばれ、日本では表面のでこぼこが仏像の頭に似ているため「釈迦頭(しゃかとう)」と呼ばれている。また、「牛心柿」は「柿花」とも呼ばれ、果肉が極めて細いかくて柔らかい。干し柿に適した品種。痰を切り、肺を潤し、暑さを凌ぎ、熱さましなどの効能もある。そこで、「牛心果」で調べてみたところ、イチゴの品種の中にようやく見つけることが出来た。円錐形で、深い紅色、ガクが少し反り上がって巻いている。果肉は粉紅色で味は糖酸のバランスが取れて美味しいのだそうだ。しかし探している「牛心果」がイチゴでないのは明らかだ。結局「厦門華僑亜熱帯引種園」で見つけた「牛心梨」は解ったものの、「牛心」は未だに謎のままだ。その後、「広西薬用植物園」のHPに「熱帯常緑闊葉林の中に『牛心果(Annona glabra)』があり、形は傘のようだ」とだけ書かれていた。また、「中国校園网」のHPには、キューバのカストロ少尉が1959年の4月18日に「牛心果」を食べたと書かれてあった。謎はますます深まるばかりだ。※参照URL:中国校園网(中国・簡体字)http://www.54youth.com.cn/gb/paper3/4/class000300003/hwz12766.htm またまたその後、今度は「Annona glabra」で検索してみたところ、富山県中央植物園のサイトに「イケリンゴ(池林檎)」という和名でついに発見。ここには「牛心梨」の写真も掲載されている。「牛心果」の花は薄クリーム色で香りが強いものの、果実は悪臭があって生食には向かないのだそうだ。参考URL: 植物園へようこそ! http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/ikeringo.html やれやれ、やっと謎が解けた。
2003年05月19日
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福建省亜熱帯植物研究所(2)劉所長の案内で、試験園を見せてもらう。この試験場で栽培されている果樹にはもちろん柑橘類も含まれていて、主に品種の適応試験をやっているそうだ。日本は柑橘類の経済栽培が出来る北限なので、いくら地球の温暖化が進んだところでtetywestが生きている間に日本が亜熱帯気候になることはないだろう。そういう訳・・・だけでもないのだが、tetywestは熱帯果樹についてはほとんど知識がない(汗)。「ここでは木菠【夢のワが無い】の試験をしています」shmさんが手帳に漢字を書いてくれるのだが、あたりを見回しても果実が実っている木は全然ないので、何のことやらさっぱり解らない。shmさんも日本語でなんと呼ばれているのか知らないので、せっかく所長が説明してくれてもチンプンカンプンだ。「この果実は大きいですよ。1個10kgから15kgあります」次に所長が指差したのは、金網のフェンスの向こうにあるサボテンのような植物だった。shmさんが「火竜果」と書いてくれるのだが、これも果実がないのでさっぱり解らない。今度は大きな木の下で、「人心果」について説明を受ける。ようやく果実が成っている品種に遭遇した。それに「人心果」は、初日に鼓波嶼の「厦門華僑亜熱帯引種園」でK原さんと見つけた名前だったので、tetywestもどんなものなのかちょっと興味があった。一緒に歩いていた研究所の職員がわざわざ枝を折って見せてくれる。この果実は香りが高く、樹液は肺結核の薬になるのだそうだ。そう聞いてよく見ると、枝の折れた所から白い樹液が出ている。しかし果実はまだ硬くて美味しそうではない。人心果次に所長は我々をビニールハウスへと案内する。そこには大きなサボテンが栽培されていた。副部会長が、「これくらい大(おっ)きょにするんやったら、何年ぐらいかかるんやろか?」と言うのを、shmさんが通訳している。shmさんの讃岐弁の理解力は凄い。「30年以上かかります」ということは、代々所長が替わってもこのサボテンだけは温室の中で大切に育てられているわけだ。これからもずっとそうなのだろう。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と、まったく関係のないことを考えているtetywestだった。それにこのサボテンのことを漢字で「石頭花」と書くのだそうだが、tetywestはそれを「いしあたま・はな」と読んで一人で可笑しがっていた。30年生以上の石頭花ビニールハウスを出ると、建物からかなり離れた所まで歩いて行く。生垣で囲まれた門をくぐってグァバの試験園に案内される。ようやく聞き慣れた品種に出会えたのでホッとする。中国語で「蕃石榴」と書くグァバは、沖縄では「バンジロウ」と呼ばれている。何だか幕末に活躍した高知県出身の「ジョン・万次郎」や、コメディアンの「伴淳三郎」(めちゃ古い・・・汗)を連想させる名前だが、中国音の「バンシルウ」が訛ったのだろう。日本では主に糖尿病に効果があると言うので葉っぱが漢方薬として飲まれているし、某飲料メーカーがそのものズバリの「グァバ茶」を販売している。しかし、この研究所では樹高を抑える栽培技術(矮〔わい〕化栽培)の試験をしているそうだ。木には紙袋がぶら下がったまま残っていたので、品質向上のために「袋かけ栽培」をしているに違いない。 グァバの矮化栽培グァバ園の隣には桃が満開に咲いている。これは果実を採る桃ではなく「花」として売る桃なのだそうで、台木の親和性を研究しているとのことだった。研究所ではこの他に、竜眼の盆栽化(矮化栽培のことだろう)、無農薬栽培のためのマニュアル作り、台湾の技術を導入した栽培体系の確立などの試験研究を行っているのだそうだ。しかし、やっぱりtetywestには熱帯果樹は今ひとつピンと来ない。
2003年05月18日
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福建省亜熱帯植物研究所(1)昨日、cjjさんから福建省の人口と華僑の人数について訂正の書き込みがあった。しかし「5人に1人」が「6人に1人」になったとしても、華僑の比率はtetywestが想像していたよりずっと多い。--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(81)(5/16) cjjさん >cjjさんにもらった資料によれば福建省の総人口は3200万人なので、700万人の華僑と言えば全人口の2割を超えている。つまり、5人に1人は海外で生活しているのだ。-----3200万人の福建省の総人口の中、長年海外で生活している華僑は含まれていないです。国勢調査の時、戸籍によって、統計します。-------------------------------- 今回の旅行ではまた、福建省と台湾の関係も新たな発見だった。地図で見ると福建省と台湾は同じ緯度で向かい合わせの位置にあるのだが、これまでtetywestは、「中華人民共和国」と「中華民国」は政治体制のまったく異なる2つの国だという認識しか持っていなかった。帰国後台湾の歴史を調べてみると、その成り立ちは鄭成功にまで遡ることができる。台湾に元々住んでいる所謂「本省人」のほとんどは、鄭成功親子によって福建省から呼び寄せられた移民だったのだ。もちろんこれは450年も前の話なので、「USAはイギリスからの移民で始まった国だ」というのと同じかもしれない。しかしcjjさんの資料によれば、現在中国に住んでいる台湾出身者の3分の1は福建省に住んでいる。また旅行中にいろいろな所で、福建省と台湾は現在でも人の交流や資金の交流が盛んで極めて緊密な関係にあるということを実感した。日本の近くには、同じような状況に置かれている「韓国」と「朝鮮民主主義人民共和国」がある。そして国民の視線が今はそちらに注がれている。しかし、基本的には南北朝鮮の関係と、中国・台湾の関係は同じであり、どちらも第二次世界大戦後の東西冷戦構造がもたらしたものなのだ。tetywestは、もともと宗教や文化が同じ民族が2つの国家に分かれていることは異常だと思う。東西ドイツが統一され、ソ連が崩壊した今、おそらく南北朝鮮は統一されるだろう。イラク戦争が終わったとたんに、日本のマスコミは一斉に「北朝鮮は悪だ」という報道を開始したが、tetywestはこれも南北統一のための下準備に思えてならない。そして、もし北朝鮮問題が「南北統一」という形で決着するのなら、その次は確実に「中国」と「台湾」だろう。嘉禾路を北上し続けて空港のすぐ傍までやって来たとき、車は突然右折して福建省亜熱帯植物研究所の門の中に入った。車がやっと1台通れるくらいの細い道を通って研究所の建物へ向かう。周りには名前も知らない熱帯の木々が繁っている。建物の前に到着すると研究所の人たちが出迎えてくれた。亜熱帯植物研究所の前庭2階にある会客室で、劉所長から研究所の概要説明を受ける。福建省亜熱帯植物研究所は1959年に中国科学院華東亜熱帯植物研究所として創られ、1971年に福建省経済植物研究所と改名され、1978年からは現在の名前になった国立の研究機関で、45年の歴史がある。研究所の広さは200畝(13ha)。1985年からは厦門亜熱帯植物科技開発公司を併設して、香料植物、果実、花卉の販売も行っている。この辺の事情はちょっと日本とはシステムが違っている。中国の植物研究所は国立といえども政府からの予算だけで運営されているのではない。政府の予算だけでは職員の給料が賄えないので、自分たちで公司を創って金儲けをしているのだ。日本では農水省の試験研究機関も去年から独立行政法人へと移行したが、その目的は「より農家に役立つ試験研究をする」ためだそうだ。そういう面は中国の方がより進んでいると言えるのかもしれない。
2003年05月17日
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市内ドライブK-1の運転するサンタナと、厦門市農業技術推広中心の準備してくれた箱バンに乗ってホテルを出発したのは8時過ぎだった。我々は午後には厦門市を離れるので、今日は島内だけを巡る予定になっている。最初の目的地は福建省亜熱帯植物研究所だ。3日前に厦門に到着したとき、cjjさんから「亜熱帯植物研究所は空港の近くにあります」と教えられていた。結局我々は毎日空港の傍を通ることになったわけだ。車は厦禾路を北に走って、厦門駅前を通り、嘉禾路に入る。嘉禾路嘉禾路に入ると、そのままひたすら北へ向かって走る。昨日までは飛行場へ向かうには島の西側の海沿いの道路を通っていたのだが、今朝は島の真中を通っている。これも農業技術推広中心の心配りなのだ。嘉禾路は厦門島の真中を南北に縦断する、まさにメイン・ストリートだった。嘉禾路東西方向の主要な道路との交差点はロータリーになっている。中央分離帯やロータリーには花や緑化木が植えられていて、とても綺麗な道路だ。厦門は建築ラッシュで、沿道のそこかしこに建築中の高層ビルが見える。嘉禾路嘉禾路中心街を抜けて郊外に出たところで、前方の山の中腹に建設中の大きな寺院が見える。その手前には、これも建設中の高い塔が立っている。面白いことに、その塔は最上部の屋根だけが出来上がっていて、後は足場で囲まれていた。案内してくれている農業技術推広中心の職員に尋ねると、台湾で成功した華僑が寺を造っているのだそうだ。嘉禾路今回の旅行を通してtetywestは「華僑」という言葉に何度も出会った。「福建省」を理解するためには「華僑」について知らなければ片手落ちなのかもしれないと思い、帰国後tetywestなりに「華僑」と「福建省」の関係を調べてみた。---------------------------福建省の場合、元代以降大規模移民が始まっている。もともと山がちで耕地が少なく、多くの人口を抱えていたという事情に加えて、自然災害の発生、海外貿易の発展といったことが、そうした大量移民を出現させる背景であった。福建ゆかりの民族的英雄鄭成功が清朝に抵抗して台湾へ渡ったときには、彼の兵士やその家族たち3万人が同行したという。また太平天国の人々も、滅亡後海外へと逃れていった例もあり、政治的原因から出国を余儀なくされた人々も少なくない。日清戦争から1949年まで福建省の人口はさまざまな原因によって減少したが、その1つは東南アジア等への大量出国現象である。海外製品の大量流入、軍閥混戦、自然災害等によって、特産のお茶の葉等の手工業が大打撃を受けた。その結果、1933年までに全体で800万人へと増加した華僑のうち、福建出身華僑はその40%、320万人を占めたという。大量の華僑を生み出した福建省の中でも、泉州は特に僑郷として知られた町である。海上貿易によって栄えた港町泉州も、南宋から元代にかけて多くの移民を輩出した。武夷山脈が内陸部との往来を困難にしたこともあってか、当時世界の90余りの国や地域に泉州出身華僑の足跡をたどることができる。泉州と並んで福建省の僑郷として有名なのがアモイである。福建華僑が国を離れるとき、そして再び帰ってくるときの表玄関として、長い間にぎわった町である。現在、華僑総人口は2800万人、そのうち90%の2500万人はアジアに居住している。世界160か国余りに大分散・小集中しており、インドネシア(650万人)、タイ(610万人)、マレーシア(520万人)、シンガポール(209万人)、フィリピン(120万人)、ベトナム(100万人)等、東南アジア各国は、特に多くの華僑を抱えている。華僑の祖籍は、広東(1500万人、54%)、福建(700万人、25%)、海南(170万人、6%)の3つで85%を占めるが、アジア地域以外では広東籍が多い。そのため言葉もいわゆる4大方言といわれる【門がまえに虫(みん)】南語、広州語、潮州語、客家語が大半を占め、先の3つを話す人々が各々500万人以上、客家語は300万人いるといわれる。福建出身700万華僑の90%以上は、東南アジア各国に居住しており、とりわけフィリピン、インドネシアを中心に、東南アジア6か国で630万人を数える。華僑の大きな経済力は中国にとって魅力であり、積極的に華僑の資本を導入して合弁企業の誘致等を実現した。華僑送金も相変わらず重要である。また建国後帰国した華僑の国家建設への貢献も大きい。福建省の場合も、農場や工場建設の他、学校や病院、道路、橋等の公共事業にも、多くの華僑の資本が投下されている。引用:福建省 『華僑のゆくえ』 http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu1/habagishi.htm---------------------------cjjさんにもらった資料によれば福建省の総人口は3200万人なので、700万人の華僑と言えば全人口の2割を超えている。つまり、5人に1人は海外で生活しているのだ。これほど華僑の割合が多いということをtetywestは今まで考えたこともなかった。福建省では「海外で一旗揚げる」という感覚はあたりまえなのだろう。日本への密入国で入管に検挙される中国人は福建省出身者が多いのも解るような気がする。
2003年05月16日
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ホテルの朝食2月28日(金)朝6時半に起床。どうも寝覚めがスッキリしない。次第に疲労が蓄積しているのがわかる。営農課長は既に起きていたが、やっぱり疲れているそうだ。今回くらいハードスケジュールの旅行は3泊4日が限界かもしれない。昨夜はTVをつけっ放しで寝てしまったようだ。寝る前には台湾の放送局が「搶救貧窮大作戦」という番組をやっていた。何の事はない「愛の貧乏脱出大作戦」をそのまま放送しているのだ。当然日本語なので何の苦労もなく理解できる。字幕スーパーが出るので中国語の勉強にもなる。台湾の番組なので繁体字だった。ホテルのTVではNHKの衛星放送やCNNも視ることができる。しかし一般の家庭で台湾や日本の番組を視るためには許可が必要だそうで、実際はかなり難しいようだ。頭がはっきりしてきたところで、一番に気になったのは天気だった。窓から外を見ると、太陽は出ていないものの雨は降っていない。最後まで天気に恵まれたことに感謝する。1313号室の窓から7時過ぎに、ホテルの1階にあるバイキング形式のレストランへ朝食を食べに行く。3日も同じ場所で食べれば、どこにどんな料理が置いてあるのかはすっかり覚えてしまう。このレストランは中国料理、日本料理、アメリカンスタイルが全部揃っているので、朝からかなり豪華な食事ができる。おまけに24時間営業ときている。普通のツアーで来たのなら、おそらくtetywestはホテルのレストランでしっかり食べて後の食費を倹約するだろう。しかし今回の旅行は他の食事が超豪華版だったために、朝食は軽め、軽めを心がけている。初日は前夜の歓迎会の余韻が胃の中に残っていたので、コーヒーとフルーツだけにした。しかしフルーツだけでもスイカ、ポンカン、パイナップル、バナナ、リンゴと種類は多い。特にスイカは甘くて美味しかった。2日目はアメリカンスタイルにした。コーヒーにパン、ベーコンエッグにフルーツ。中国のホテルはパンが美味しい。ロールパン、食パン、クロワッサン、少し甘い味のパンと、こちらも種類が多い。コーヒーは何杯でもお代わりができる。中国で淹れたコーヒーを飲めるのはホテルだけと考えておいたほうがいいだろう。最終日は、今回の旅行で一度も食べる機会のなかった点心にした。蓋をした蒸篭の中に何が入っているのだろうと、一個ずつ開けて見るのも楽しいものだ。肉まん、あんまん、ゴマのついた饅頭、餃子、春巻き・・・こちらもバラエティに富んでいる。営農課長は和食を食べている。貝の入った味噌汁まである。ただしご飯はジャポニカではなく細長いインディカ米だったそうだ。朝食が済んでロビーで休憩していると、デリカの運転手がお別れの挨拶に来た。デリカはcjjさんが用意してくれたもので、cjjさんが帰った後も我々のために運転手だけ残ってくれていたのだ。しかし修理に時間がかかるので、一旦汽車で故郷へ帰るのだそうだ。「ありがとう」「ご苦労様でした」運転手にとっても今回の厦門出張は忘れられない出来事になることだろう。良い思い出なのか、悪い思い出なのかは知る由もないのだが・・・
2003年05月15日
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再び夜の街へハイエースで厦門のホテルまで送り届けてもらったのは8時30分だった。まだ時間が早いので、部屋に荷物を置いてすぐにshmさんと街へ買い物に行くことになった。ところが、1313号室のドアが開かない。磁気カード式のキーをドアの差し込み口に入れるのだが、まったく反応しない。「どれどれ・・・」と、今度は営農課長が自分のカードを差し込む。ところがこちらもまったく反応がない。何度やっても赤いランプは緑にならない。そのうち、同じ階のS根さんもドアが開かないとtetywestのところにやって来た。仕方がないので部会長の部屋からホテルのフロントに電話する。しばらく待っていると、制服を着た女性がやって来て別のカードを差し込み、ようやくドアが開いた。その開いたドアにtetywestのカードを差し込んで渡してくれる。営農課長のカードも同様だった。こんなことで果たしてカードが復活するのか半信半疑だったのだが、試してみるとドアはちゃんと開いた。思わぬタイム・ロスのために、shmさんと部会長、副部会長、K原さん、営農課長、S根さん、A野さん、tetywestの総勢8人で思明南路へ出かけたのは9時を回っていた。副部会長がマオタイ酒を買いたいと言うので、まずそれを買おうとまっすぐ中山路へ向かう。お茶を売っている店があったので、そこで今回旅行に来ていない役員さんへの土産の烏龍茶を調達する。shmさんはどの店で買ったらいいのかを事前に予習していたようで、どんどん歩いて「第一百貨店」へ入った。酒のコーナーは1階にあり、副部会長は昨日部会長が買ったのと同じマオタイ酒を3本買っていた。みんなよっぽど初日の歓迎会の印象が強烈だったようだ。値段は10元くらいこちらの方が高い。「第一百貨店」は閉店が9時半だったらしく、副部会長が酒を買っているうちに店のシャッターが全部閉まってしまった。すると、tetywestのすぐ後ろに若い女性がどんどん集まってくる。一体何事だろうと注目していると、閉店後の店員の点呼と持ち物検査のようだった。それにしても人数が半端じゃない。これだけの店員が雇えるのは、まだまだ人件費が安いからだろう。一ヶ所だけ半分降りたシャッターをくぐって店の外の出ると、まだまだ人通りは多いのに中山路の店はほとんど閉まっている。仕方がないので、10時半まで開いている「誠達購物広場」へ行くことにする。中山路と思明南路の交差点で、オバサンがランブータンを売っている。shmさんが、「これはタイからの輸入です。食べますか?」と訊くので、「ぜひ、食べてみたい」と頷くと、オバサンは丸い束にしたランブータンを天秤にかけて、「14元」と言う。shmさんが20元札を出すと、お釣りの代わりに束にしていないランブータンを袋の中に放り込んで、「これでOK」みたいなジェスチャーをしている。このシチュエーションはどっかで遭遇したことがあるぞ・・・そうだ、北京で偽物のトンボの化石を売っていたオバサンだ。どうも中国の露店ではお釣りを渡さないのが常識のようだ。tetywestは「誠達購物広場」のシステムは気に入らないので、みんなの荷物を預かってK原さんと店の外で待つことにした。待っている間に写真を撮る。「誠達購物広場」の前から(思明南路)「誠達購物広場」の前から(思明南路)その後、ホテルへ帰って食べたランブータンはホンモノで、とても美味しかったことを付け加えておこう。ランブータン--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(78)(5/13) cjjさん>中国の漢字は文化大革命以後、簡体字が使われている-----中国の漢字は文化大革命(1966ー1976)の前(大体1950年代の末)から、簡体字が使われている。私の父が中学生の時。だから、私は繁体字を読むことができますが、書くのが苦手です。 --------------------------------
2003年05月14日
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喫煙・天国昨日、久しぶりにcjjさんの書き込みがあった。ちゃんとtetywestの日記を読んでくれて、間違いをチェックしてくれるのは本当に心強い。忙しい筈なのに・・・--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(77)(5/12) cjjさん >靴は全国的に有名で、『富貴馬』が一番有名です。洋服メーカーでは『利郎』が有名です。-----『富貴馬』ではなく、『富貴鳥』です。アモイで、私の洋服は『利郎』です、tetywestさんは、これが何の服なのかと聞きましたね。 --------------------------------もちろん、tetywestはそのときcjjさんが何と答えたのかはすっかり忘れていた。しかし、どうしてそう訊いたのかは覚えている。cjjさんのスーツは思わずメーカーを訊きたくなるほど高級だったのだ。生地といい仕立てといい、tetywestが夏冬それぞれ1着ずつしか持っていない「♪洋服の○山」製のスーツとは桁違いだった。そういえば、今回の旅行中に「国民服」を着ている人はほとんど見かけなかった。中国の改革・開放は服装の部門でも進んでいるようだ。ついでに、「馬」と「鳥」の取り違えについて言訳しておこう。今回の旅行から帰ってもう2ヶ月が過ぎてしまった。日が経つにつれて記憶はどんどん薄れていく。tetywestはそうなるという自信があったので(?)常に筆記用具を携帯してメモを取りまくっていた。この日記はそのときのメモを見て、頭の中に状況を再現しながら書いている。ところが、tetywestは昔から悪筆なので自分の書いた字が読めない個所がある。唯一の頼りであるメモがこんな状態では、正確な再現は難しい。メモにはcjjさんやshmさんが書いてくれた字も一緒に残っている。「富貴鳥」もおそらくshmさんが書いてくれたのだろう、tetywestの筆跡ではない。それは日記に書く場合「キーワード」になる重要な言葉が多いので、今回もその言葉を使ったのだが・・・中国の漢字は文化大革命以後、簡体字が使われている。「鳥」の【、、、、】は【一】だし、【旦】の部分はほとんど【勺】に見えるくらい簡略化されている。一方「馬」も【、、、、】は【一】だし、字の上部は【ア】なのだ。くどくどと説明してしまったが、結局「よく似ている」ということが言いたかったのだ。さて、夕食会に戻ろう。今夜もメインディッシュは「龍海老」だった。海鮮料理の中で何が美味しいですかと訊かれたら、tetywestは迷わず「龍海老」と答える。1回の旅行で2回もその「龍海老」が食べられるなど誰が予想できただろう。硬く締まった海老の身の歯ざわりとふわ~っと口の中に広がる甘さは、まさに中国料理の絶品と言えるだろう。すっかり夕食会を堪能して1階へ下りていくと、ここのロビーにも花嫁さんがいるではないか!二晩も続けて結婚式に遭遇するとは、中国では今がハネムーン・シーズンなのだろうか。早速写真を撮らせてもらった。泉州の新郎・新婦この写真を見ていて思い出したことがある。新郎と友人が互いにタバコの箱を取り出しているところが写っている。中国の習慣では、自分がタバコを吸いたいときにはまず隣の人に「如何ですか?」と勧める。シャッターを押したのはちょうどその瞬間だったようだ。もちろん吸わない人は断ってもかまわない。中国は日本以上に喫煙天国だ。室内でも車の中でも何処でもタバコが吸える。tetywestにとっては嬉しい国なのだが、メンバー9人のうちタバコを吸うのはtetywest1人だけだった。ところが・・・今回の旅行中にせっかく5年間続けた禁煙をギブアップしたメンバーがいた。誰あろう販売課長だ。販売課長とK原さんはずっとサンタナの後部座席に乗っていたのだが、李さんもK-1もタバコを吸う人だった。中国の習慣によって、自分が吸いたくなる度に、「如何ですか?」とタバコの箱を差し出されるのだ。「あんまり何べんも断るのは、失礼なような気がしてなあ」と、ついつい勧められるままに吸ってしまったのだそうだ。これは最終日に販売課長がtetywestに、「タバコあるかな?」と訊いたときに判ったことなのだが・・・中国で5本もタバコを吸ってしまったのだそうだ。もちろん現在は強い意志によって再び禁煙を継続している・・・はずだ。駐車場には「永結同心」のナンバープレートをつけて、花を飾った「花嫁車」が駐車している。そういえばデリカが故障したとき、道路の向こう側に同じような「花嫁車」が停まっていたのを思い出したのでshmさんに確認した。「今日は2回目だよね。昼前にも結婚式を見たでしょう?」「先生は花嫁さんを見ましたか?」「ううん、車だけ」「私も車を見ました。でもあれは葬式です」「そ、葬式だったの・・・」中国では「007は二度死ぬ(YOU ONLY LIVE TWICE) 」ではなく、「人生は2度車に乗る(YOU ONLY RIDE TWICE)」なのだ。
2003年05月13日
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またまた豪華な夕食会開元寺から車で5分ほど走り、泉州市人民政府の建物に近い「悦来酒家海鮮閣」に到着したのは5時半頃だった。3階の個室へ案内される。みんなもかなり中国の食事作法に慣れてきたようで、自分が丸いテーブルのどの場所へ座ればいいかもわかっている。今回はメインテーブルの椅子の数が少なかったのだが、K-1とすっかり仲良しになった販売課長とK原さんは、さっさと第二テーブルの方へ座っている。夕食会の主催はcjjさんの同級生の庄さんだった。みんなは、「ビールでいい」と声を揃えたのだが、庄さんが、「いやいや、それではいけません」と、運転手にマオタイ酒を買ってくるように言いつけていた。全員が揃うと、庄さんが、「今日は、遠い所をわざわざ泉州までようこそいらっしゃいました。十分なおもてなしは出来ませんがどうか召し上がってください」と挨拶して、とりあえずビールで乾杯する。tetywestは缶入りスプライト(雪碧)だ。テーブルには、今夜も豪華な料理がどんどん運ばれてくる。茹でたエビ、鴨肉、昼食べた牡蠣と小麦粉の揚げ物、昨日の昼に食べた餅、苦菜という野菜、そして魚のスープ・・・中国に来てからというもの、本当に美味しいものばかり食べている。夕食の料理tetywestは、中国の「海鮮料理」は日本の「懐石料理」に相当するのではないかと思う。中国でも新鮮な海の幸は肉料理より美味しいのだろう。海が近い厦門や泉州は海産物がとても豊富なのだ。しかし、海から遠い北京や西安でも「海鮮料理」は高級料理として人気がある。西安へ行ったとき、ホテルのレストランに大きな水槽があって、その中に海の魚が泳いでいた理由がようやくわかった。園芸部長が庄さんに質問している。「泉州の主な農産物は何ですか?」「米です。果樹では竜眼が多いです。茶も多く栽培されています。アスパラガスは日本へ輸出しています」「そのアスパラガスはハウス栽培ですか、それとも露地栽培ですか?」「露地栽培です」「泉州地方に独特の特別な野菜はありますか?」「特別な野菜はありません。多く栽培されているのはトウモロコシです。これも日本の資本で冷凍して日本に輸出しています。サツマイモの栽培も多いです」さすが園芸部長、美味しいものを食べて観光地を巡るだけでなく、しっかり農業情報も入手している。「本日はまったく観光モード」のtetywestとは大違いだ。「泉州で有名な産業は何ですか?」「靴、洋服、石です。靴は全国的に有名で、『富貴馬』が一番有名です。洋服メーカーでは『利郎』が有名です。今、泉州市の総生産額は1000億元を超えています。1995年には516億元でした」7年で2倍ということは年率10%の成長になる。何故すぐに10%だと計算来たのかというと、「貯金が複利で2倍になる年数を計算するためには『70』を利率で割る」という法則に偶然当てはまったからだった。tetywestが知っている範囲では、中国の公務員は数字に強い人が多い。こうして数字を示されると、中国の沿岸部がどんどん発展していることがよくわかる。しかし、700万人の人口1人当りで計算すると、まだ15000元(22.5万円)にしかならない。程なくマオタイ酒が到着すると、例によって「乾杯」の嵐になる。庄さんはcjjさんの同級生だけあって、めちゃ酒が強い。誰からの乾杯でも一人で受けている。隣のテーブルでは販売課長が運転手を相手にして「乾杯」をやろうとしている。デリカの運転手もいつの間にか同じテーブルに座っている。運転手は飲まないだろう・・・と思ったら、販売課長の「乾杯」を受けている(汗)。日本では考えられないことだ。しかしさすがにプロ、自分の仕事に支障をきたす限界以上は絶対に飲まない。それでもハイエースの運転手は販売課長に勧められると何回も「乾杯」している。「・・・・課長、ほどほどにしとかな。あんたはK-1のサンタナに乗るきんええかも知れんけど、ハイエースに乗るんは我々なんやで・・・」と心の中で一人つぶやくtetywestだった。
2003年05月12日
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開元寺(6)帰国後、「開元寺」について調べていると、インターネットの関連サイトに中国語で「日本黄檗宗的第二世偉人」という言葉を発見した。そこでキーワード検索をしてみたところ、いろいろ興味深い話が見つかったので紹介しておこう。開元寺で得度した僧に木庵性【滔のさんずいが王】(しょうとう)という人物がいる。「日本黄檗宗的第二世偉人」とは、この木庵性【滔のさんずいが王】(しょうとう)のことを指す。しかし、tetywestにしてみれば「黄檗宗」が何のことやらさっぱりわからなかった。---------------------------黄檗宗 (おうばくしゅう)江戸初期、明の禅僧隠元隆琦を始祖とする禅宗の一派。 寛文元年(1661)宇治に万福寺を創建したのに始まる。 黄檗禅は基本的には臨済宗と変わらないが、明の念仏禅の影響が加わる。 隠元は住山三年にして弟子木庵性【滔のさんずいが王】(しょうとう)にその職を譲った。 現在の万福寺は木庵の門下の俊英たちの努力によるところが大きい。 鉄牛・潮音・慧極などが江戸に下がり、黄檗宗の教勢が関東・東北に伸展する基礎を築いた。 また木庵門下の鉄眼道光が一切経を刊行したことは有名。 万福寺は隠元以降十三世竺庵に至るまで、代々中国僧が住職。 元文五年(1740)龍統が日本人として初めて住持となる。 臨在の一派として取り扱われていたが、明治九年黄檗宗として独立。 京都市内にある同宗寺院は十四カ寺(昭和五十四年現在)。 黄檗の三筆 黄檗宗の僧で能書家として知られるた隠元隆琦・木庵性【滔のさんずいが王】(しょうとう)・即日如一をさす。 黄檗流の書風は寛文元年(1661)宇治万福寺の創建前後、隠元らが明から将来。 この黄檗宗文化の影響をうけ、わが国でも煎茶の流行とともに、黄檗禅僧の墨蹟を尊重するようになり、特に前三者は「隠・木・即」と称し、文人の書に禅味を加えた書風が喜ばれた。 このほか、独立性易・高泉性トン(サンズイに敦)・千呆性侒・悦山道宗などもすぐれた墨蹟をのこす。 引用:京都辞典http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/jiten.htm木庵 もくあん【316-389】 万暦39年(慶長16年・1611)~天和4年(1684)。 中国福建省泉州晋江の人。姓は呉、名は性【滔のさんずいが王】(しょうとう)。 19才のとき、開元寺の印明和によって得度し、修行ののち、隠元より法衣をうける。明暦元年、招かれて来朝する。黄檗山にあって隠元を助けるなどして、その山主2代を継承する。また、江戸において瑞聖寺を開山するなど活躍した。禅余の書画は、黄檗三筆の1人として優作を残し、多くの影響を後世に与えた。引用:隠・木・即黄檗三筆http://www.sala.or.jp/~matu/matu43.htm---------------------------というのを読んで、黄檗宗については一応わかったものの、今度はその中の「わが国でも煎茶の流行とともに」が気になった。---------------------------煎茶道の始まり中国の明の時代になると、抹茶が姿を消し煎茶が盛んになってきました。煎茶を味わいながら詩作にふけり、絵を描き、音楽や書を楽しむ、文人趣味といわれる独特の世界を創り出されました。日本では江戸時代の初期、承応三年(1654年)に来朝した高僧隠元が宇治に黄檗山万福寺を建立し、共に多くの門弟や文化人が入り、影響を与えたといわれています。すでにあった日本の茶の湯文化とは違う新しいスタイルの煎茶とそれに伴う煎茶趣味は日本の文人たちの間に伝播していきました。引用:「一煎さしあげます」の「お茶ものがたり」http://homepage2.nifty.com/mow2/monogatari.htm---------------------------こんなときインターネットはとても便利だ。ここまでわかったところでちょっと意外だったのは、日本は中国の文化を結構近世まで取り入れていたという事実だった。鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止されたのは1639年だから、黄檗宗の始祖隠元が日本へ来たのは鎖国後のことだ。今までtetywestは中国文化が日本に影響を与えたのはせいぜい元までで、元寇以後は逆に倭寇が中国へ行ったり、基本的に鎖国政策をとった明との勘合貿易が行われていた程度だろうと思っていた。ところが、完全に日本人の生活習慣になりきった「煎茶」を飲むという風習は江戸時代初期に伝わったものだったのだ。今後tetywestはお茶を飲む度に「開元寺」の東西塔を思い出すことだろう。これだから旅行は面白い。※写真で開元寺を紹介しているオフィシャルHPもありました。興味のある方はこちらからどうぞ。開元寺HP
2003年05月11日
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開元寺(5)塔の入り口は鉄格子の扉で閉されていた。ガイド嬢はさっき「千年古桑」のときに使った鍵の束を取り出して、扉を開けてくれる。ひょっとしたらわざわざ訊かなくても最初から塔に登らせてくれる予定だったのかもしれないが、そんなことはどっちでもかまわない。塔の中は冷やりとして暗い。窓が小さいのでまるでトーチカの中に入ったような雰囲気だった。中心にある石柱は想像していたよりずっと太い。塔の直径の3分の1はありそうだった。所々に凹んだ祭壇があって、仏像を安置できるようになっている。外側の石壁もかなり厚く、1mはありそうだ。「どうぞ、ご自由にご覧下さい」というガイド嬢のお言葉に甘えて、高い所が好きなtetywestは先頭になって2階へ上がる階段を上り始めた。階段は狭くて一人がやっと通れるくらいだ。その上、急に塔の中に入ったので目が慣れるまではほとんど真っ暗だった。手探り足探りで上っていくと、階段が途中で曲がっている。危うく天井の梁に頭をぶつけるところだった。何とか2階にたどり着くと、すぐに3階へ向かう。今度はまっすぐな階段だった。ガイド嬢から「3階まで行ける」と聞いてはいたのだが、3階には4階へあがる階段もある。ひょっとして行けるかもしれないと上ってみると、4階に到達した所で金網が張ってあり、それ以上は進めなかった。3階に戻って小さな窓から塔の外に出る。泉州の市街が眼下に広がっている風景は感動ものだった。塔の外側は回廊になっていて、ぐるっと泉州の街並みが見渡せるのだ。鬱蒼とした寺の木々のむこうに聳えている「仁寿塔」も美しい。泉州の街並(東)泉州の街並(西)仁寿塔tetywestは今日ここに来るまで、泉州については宋・元代に栄えた貿易港だということ以外ほとんど何も知らなかった。洛陽橋、恵安県、崇武古城、清源山、そして開元寺を見て周った今、tetywestにとって泉州は石の街だということが強く印象付けられている。しかし一般的に中国文化は決して石の文化ではない。これは泉州に特有の文化なのだ。では、何故泉州で石の文化がこれほど栄えたのだろう?それはもちろん、良質の石を産出するという天然資源に恵まれていることが一番の条件なのだろうが、それ以外の要因に宋・元の時代を通して国際貿易港だったことが考えられる。「石の文化」はギリシャやヘレニズム、つまりヨーロッパ文化の影響ではないだろうか。木造だった東西塔をわざわざ石を使って建て直したのも、浮き橋だった洛陽橋を石にしたのも「永遠なるもの」を追求した結果なのだ。そうすると、今朝高速道路で泉州に入ったとき感じた「白い」というイメージは、或いは「石の白さ」だったのかもしれない。鎮国塔の上から泉州の街並みを見下ろしながらそんなことを想うtetywestだった。
2003年05月10日
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開元寺(4)ガイド嬢は甘露戒壇の前を東に引き返すと、そのままさらに東へ歩いていく。ようやく塔が見れるのだ。こちら側の塀は途中で切れていて、東側の広い庭に出れるようになっている。庭に出たすぐの場所に、枯れ木にモクレンのような真っ赤な花がちらほら咲いている木がある。ガイド嬢が、「This is cherry blossom of Quanzhou city.(これは泉州市のサクラです)」と教えてくれる。おお、これが刺桐(しどう)なのか・・・ぶら下がっている枯れた実が巨大なサヤエンドウのようだ。マメ科の木だと言うことは一目でわかる。マルコポーロは「東方見聞録」に泉州のことを「ザイトン」(刺桐)と書いている。当時は街中に刺桐が咲き乱れていたのだろう。中国といえば赤、そして赤といえばここ泉州では刺桐だったに違いない。刺桐は葉が出るより先に花だけが咲くのだ。「泉州のサクラ」と言う表現はいかにも的を得ていると感心する。しかし、刺桐は泉州特有の木ではない。沖縄ではデイゴ(梯姑)と呼ばれ、県花に指定されている。さあ、ついに塔が見える場所までやって来た。広い庭には木々の植え込みがあって塔の一番下は見えないものの、ここからの東塔はめちゃ美しい。ガイド嬢は塔から遠ざかる位置にある一段高い所へみんなを案内して、今度は石塔について説明し始めた。shmさんは何処?・・・・近くには見当たらない(涙)「Here is the best position to take a look the tower.」ううっ、仕方がない・・・「ここが塔を見るのに一番いい場所です」この塔は、西安の大雁塔、蘇州の虎丘塔、開封市の鉄塔と共に中国4大古塔と言われている。西安は土、蘇州はレンガ、開封は鉄、そしてここは石と、それぞれ違った材料を用いて建てられているのだ。二つの塔は開元寺の拝庭を挟んで対称に200mの距離で建てられている。こちら側が東塔で「鎮国塔」と呼ばれている。西暦865年に5層の木造建築で建てられたのだが、西暦1238年から10年の歳月をかけて石を使って再建された。塔の高さは48.24mで、元の塔と同じ8角5層である。塔の中心は8角の石柱があり、その構造も木造と同じだそうだ。西の塔は「仁寿塔」と呼ばれ、これも西暦917年に木造で建てられたものを、西暦1228年から1237年に東塔に先立って10年の歳月をかけて石を使って再建された。塔の高さは44.06mで東塔より少し低い。どうやって石を積み重ねたのかというと、エジプトのピラミッドと同じで、1層目が完成すると周りに砂山を造り、完全に埋めてしまう。その上に2層目を載せて、同じように砂山を盛り上げる。こうして3層、4層、5層と積み上げていったのだそうだ。最後に砂を取り除いて今のような五重塔が完成したのだ。鎮国塔(東塔)通訳をしながら塔を眺めていたtetywestは、参拝客が誰も塔の中へ入っていないのが見えていたので、その塔は立ち入り禁止になっているのがわかっていた。しかし、せっかく泉州まで来たのだから塔の上に登りたかった。そこで、みんなが塔を背景にして記念写真を撮っているとき、思い切ってダメモトで訊いてみた。「Can we climb the tower?」「Yes」思わず我が耳を疑ってしまった。えっ、ホント?これはめちゃラッキー♪ガイド嬢がますます美人に見えてしまうtetywestだった。
2003年05月09日
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開元寺(3)塀で囲まれた庭にあったのは根元から3本に分かれた古木だった。株元は丸い井戸のように石で囲まれていて、「千年古桑」と書かれた看板が立っている。これが桑だとはとても信じられないような大木だ。ここで、とんでもないことが起こった。shmさんが突然「先生、このお嬢さんは英語が話せますから、先生が通訳をお願いします」と、tetywestに振ってきたのだ。shmさんも仏教の専門用語が多い通訳に疲れたのだろう。しかし・・・急に言われてもtetywestの頭はそう簡単に英語モードに切り替わる筈がない。ガイド嬢はにっこりと微笑んで、英語でしゃべり始める。「There is one legend about Kaiyuan temple. Once upon a time, ....」ううっ、困った。こうなったら仕方がない。最悪、看板に書いてある中国語の説明書きを適当にしゃべればいいだろうと腹を決める。幸い彼女の英語は非常に聞き取り易い。「One monk....the monk.....」ううっ。い、いかん。monkはこのセンテンスのキーワードなのに、早速何のことやらさっぱり理解不能。頭の中にはジャズピアニストのThelonious Monkが浮かんでくる。「Just a moment, excuse me but, whait is mean "monk"?」ガイド嬢はtetywestの手帳に「僧」と書いてくれる。あ~、漢字の国中国でよかった。そのときのtetywestが通訳した言葉を書き並べてもおそらく意味不明だろうと思われるので、もう少し筋の通った文章に書き直して掲載することにしよう(大汗)その昔、この寺の生い立ちには一つの伝説がある。唐代の初期、泉州地方は絹の生産が盛んに行われ、この地も大きな桑園だった。その所有者である黄守恭はあるとき夢を見た。夢の中で一人の僧が寺を建てる場所を探している。僧は「桑の木が白い蓮の花を咲かせる所がその場所だ」と説いた。数日後、この地の桑の木には全部白い蓮の花が咲いたのだ。黄守恭は「これは仏のなせる所に違いない」と、桑園を寄進しここに寺を建てた。だから開元寺は「桑蓮法界」とも呼ばれている。この桑の木は「桑蓬古迹」と呼ばれ、そのとき以来1300年以上生き続けている。1925年に落雷があり、木が三つに裂けた。その一つは地上に落ちたのだが、寺の人たちが花崗岩の支柱でこれを起こし、二年後に奇跡的に復活させた。この「三樹同根」の桑の木は一枝は北、一枝は東、そしてもう一枝は南に伸び、まるで一つの花の塊のように一斉に花を咲かせるのだそうだ。そして四季を通じて一年中青々と葉が繁っている。千年古桑ああ、疲れた・・・・鉄の扉を出ると、ガイド嬢は鍵をかけている。通りすがりの観光客はこの庭には入れてくれないようだ。やっぱり我々はVIPなのだと再認識する。さあ、今度こそ塔だろう・・・
2003年05月08日
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開元寺(2)「伝説によりますと、この大雄宝殿は建物を建てているとき紫の雲がこの地を覆ったことから別名『紫雲大殿』とも呼ばれています」ガイドさんは二十歳代だろう。薄茶色のジャンバースカートに濃い茶色のハイネックセーター、茶色のブーツを履き、髪まで茶色に染めて完璧にコーディネートしている。中国語の解説をshmさんが通訳してくれる。大雄宝殿は西暦686年に建立されたのだが、唐、南宋、元、明の時代に火災で再建されている。現在の建物は西暦1637年、明の末期に建てられたもので、高さは20m、間口45m、奥行き30m、面積は1388㎡と、とても大きい。正面に安置されているのは大日如来で、大日如来を中心として、両横に 東の阿しゅく如来、南の宝生如来、西の阿弥陀如来、北の不空成就如来が並んでいて、合わせて 「五方仏」と呼ばれている。大雄宝殿は、100本の柱があることから「百柱殿」とも呼ばれている。が、実際には86本しかないのだそうだ。元々は木の柱だったものを、明の末期に再建したとき全部石の柱に換えた。その柱はさまざまな形をしていて、四角いのもあれば丸いのもある。また竜を彫ったものも、16角形のものもあるのだそうだ。また人面獅子や人面鳥などの彫刻もあるのだが、これらはインドやスリランカに特有のもので、泉州が宋・元の時代に海外との貿易で繁栄していたことを物語っている。ようやく大雄宝殿が終わった。次は予想通り甘露戒壇へ向かう。ううっ、やっぱり塔を見るのは当分「お預け」になってしまいそう・・・「この建物は西暦1019年に建てられました。この地方はいつも甘露が降りていて、甘露井と呼ばれる井戸がありました。その上に建てられたので甘露戒壇と呼ばれています。この戒壇は、北京の戒台寺、杭州の昭慶寺とともに中国三大戒壇の一つです」戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべき事を確かに履行しますと仏前に誓う儀式だ。従って最も厳粛なものであり、戒壇は神聖な場所なのだ。戒壇といえばtetywestは東大寺と鑑真和上を思い出してしまう。754年、当時唐に於いて戒律の第―人者だった鑑真が、5度に及ぶ渡航失敗を克服して来朝し、大仏殿の前に戒壇を築いて聖武天皇を始め百官公卿400人に戒を授けたのだ。現在の建物は西暦1666年に再建されたもので、8角の尖った屋根を持つ4層の櫓構造になっている。建物の梁には24体の「飛天楽技」が彫られていて、それぞれ手に琵琶、二弦、洞 簫 (どうしょう・尺八の元祖)など南方風の楽器を持っている。次は蔵経閣かと思ったが、違っていた。今度は甘露戒壇と大雄宝殿の間を通って西の方に向かい、建物を周る通路に出た。ここから西塔へ向かうのかと期待したのだが、高い塀が南北に続いているのでその先へは行けそうもない。しかし、みやげ物を売っている店の横に鉄の扉がある。ガイド嬢は鍵の束を取り出すとその扉を開け、中に入るように促す。おお、これは特別の通路を通って案内してくれるのか・・・と胸を躍らせて入ってみると、その先は行き止まりの小さな庭だった。ガイド嬢はみんなが入ってしまうと扉を閉めてしまう。ううっ、いつになったら塔を見れるんやろ・・・
2003年05月07日
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開元寺(1)次に案内されたのは開元寺だった。寺は泉州市の西街と呼ばれる道路に面している。西街はいわゆる門前町なのだが、その古い佇まいが何とも言えず中国っぽい。行き交う人々まで現代とは違った世界にいるような錯覚に陥る。開元寺前の西街(東方向)開元寺前の西街(西方向)庄さんに案内されて開元寺の中に入る。門の内側は広い石畳になっていて、いかにも古いガジュマル(榕樹)の樹の向こうに本堂が見える。時計は4時半を回っていたので参拝客はまばらだった。開元寺は何といっても「東西塔」が有名なのだ。ニューヨークの貿易センタービルが崩壊した今、開元寺の東西塔は世界で一番有名なツインタワーかもしれない。門を入ったときから、左右の塀越しに上半分は見えている。tetywestは一刻も早くもっと間近でそれを見たかった。しかしお寺へ来て本堂にお参りしないうちに塔に向かうのはエチケット違反だろうと庄さんの後に従って歩いていくと、案の定まっすぐ本堂へ向かう。この本堂は「大雄宝殿」と呼ばれ、大きな「桑蓮法界」の額が懸かっている。中には金ピカの仏像が安置されていて、写真撮影は禁止されていた。大雄宝殿大雄宝殿に並ぶ仏像を見ながら、そのまま裏手へ抜ける。そこにはまた建物があった。「甘露戒壇」と呼ばれ、坊さんが受戒をする所らしい。その建物の後ろにはさらにもう一つの建物がある。「蔵経閣」という額が懸かっている。甘露戒壇蔵経閣これで建物は終わりのようだ。さあ、いよいよ塔が見れるぞと期待が高まる。その時、いつのまにか居なくなっていた庄さんが、若い女性を伴って戻ってきた。その女性は我々に開元寺のガイドをしてくれるのだそうだ。彼女は再び大雄宝殿へと引き返す。ううっ、塔を見るのは当分「お預け」になってしまいそう・・・
2003年05月06日
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いや~、今日はホントに暑かったです。世間では黄金週間連休の最終日だったのですが、tetywestにはまったく関係なし。せっせと枇杷の袋をかけていました。お天気が良かったおかげで順調に仕事もはかどり、もう3~4日で袋かけも終了というところまで漕ぎ着けました。tetywestの地方は枇杷の産地でもあります。明治36年にこの地で枇杷栽培が始まって今年はちょうど100年目。記念すべき年には記念すべき価格になって欲しいという願いを込めながら袋をかけているのですが・・・この不景気ですから、「有史以来の低価格」になる可能性も十分あります(恐)。袋がかかって花が咲いたような枇杷の木枇杷の袋かけは三脚を使うのですが、三脚が届かない大木もあります。そんなときは木に登っての作業です。枝の先の方の果実は、太い針金にロープを付けた特殊アイテムを駆使して手前に引き寄せ、1房に5個~10個ある果実のうち、きれいで大きいのを2個残して、それに袋をかけるのです。袋をかけるのは両手を使いますから、樹上で両足をうまく木の枝にからめながらバランスを保つのに苦労します。1日8時間、まるでサルになったような気分ですね。大きな木ではそれでもまだ終わりません。そんな袋かけ作業中、鳩の巣を発見しました。枇杷の木の分岐点に木の枝を寄せ集めただけの実に雑な巣を作って、卵を温めています。鳩にしてみれば怖くてしょうがない筈ですが、人間が近づいても逃げません。母性本能というのは凄いですね。発見したのは昨日なのですが、tetywestもその枇杷の木に袋をかけなくてはなりません。なるべく巣に近づかないように周りからかけていきました。今日になって、残りをかけてしまわなくてはなりません。どうしても巣にかなり近いところまで寄って行かないと作業が出来ないのです。tetywestが悩んだのは、危害を加えようという気持ちがないことをどうやって鳩に伝えるかでした。「鳩と目を合わせなければ、ただの動く物体と認識するかも」という仮説を立てて、なるべく鳩の方を見ないように袋かけ作業をしました。ほんの1mの所まで近づいたこともあったのですが、鳩は巣から動きませんでした。やれやれ・・・・さて、午後も同じ園での作業です。こんなに近くで鳩を撮影できるチャンスはめったにないだろうとデジカメを持って行きました。鳩の巣に近づくと・・・母親はどこかへお出かけでした。卵は2個、しっかり近づいて撮影できました。鳩の卵1時間ほど袋かけをしながら待っていると、母親が帰ってきました。直接巣のある木には止まりません。3本くらい隣の木に下りて、そこからは歩いて巣のある木に移動し、木の下から巣のある枝に飛び上がりました。少しずつ巣に近づいて卵の上に座ります。帰宅直後に訪問するのは失礼ですので、約15分ほど経過した後でカメラを持って近づきます。これはまさに「危害を加える」と勘違いされる行為ですので、tetywestは正面から撮影するのは避けて、巣の少し上まで登って斜め上から撮ることにしました。少々ピンぼけですが、ここまで近寄るのが精一杯でした。卵を抱く母親とその時、tetywestのすぐ後ろで「バタバタバタ・・・」という羽音がしました。母親に危険が迫っていることを察知した父親が、わざと注意を逸らす為に行う囮行動です。鳥類は一般的には夫婦で子育てをするのです。これ以上ずうずうしく写真撮影することも出来ませんから、再び袋かけ作業に戻ったtetywestでした。この様子を隣の木から見ていた家内が、「最近、人間の子育ては鳩に負けてるね」と、しみじみ・・・・
2003年05月05日
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清源山泉州市を北側に少し外れた清源山に到着する。今朝泉州に入ったときに見た「清源ビール」はこの山の名前に由来している。ここには「老君岩」があることで有名なのだ。入場券に書かれた説明をそのまま引用すると、---------------------------老君岩は清源山36岩洞の一つで、春秋時代の著名な哲学家、思想家である老子の宋代の石像です。これは我が国最大の道教の石像で、全国重点文物保護単位に指定されています。老子は姓を李、名を耳、また重耳といい、生まれたときから白髪だったので老子と号されました。道教などの教主で、「道徳経」が主要な経典です。「泉州府志」によれば、「石像は元々あったものに、職人がちょっと手を加えてこのようになった」と書かれています。石像の高さは5.63m、厚さは6.85m、幅は8.01mで、敷地面積は55㎡です。左手を膝に置き、右手は肘掛に置いて、造形は端正で荘厳、慈悲と吉祥にあふれ、のびやかで親しみやすく、耳が垂れ、髭がなびき、神々しさに満ちています。これは宋代の石像芸術の至宝といえるでしょう。昔は道教の寺院がありましたが、やがて廃止されました。ただし、石の老君は依然として温かな光を放っており、魅力にあふれていますので、中国内外からの観光客に帰るのを忘れさせるのです。老君像の前、東西の両側には18個の、我が国元代の著名な書法家である趙孟【兆頁】による5千字の「道徳経」が刻まれた碑があります。「経」「書」「刻」の三つの絶品が広く観光客の賞賛を受けています。(※tetywest和訳)---------------------------老君岩tetywestは老子について、ほとんど知識がない。知っているのは「大器晩成」くらいのものだ。道教についての知識も乏しい。ただ、北宋時代に書かれた「水滸伝」はかなり道教の影響を受けているというのは知っている。たとえば「時遷」は雲に乗ったり1日で何100kmも移動できたりと仙人に近い。しかし、「三国志演義」は史実にかなり忠実で「史実5:創作5」であるのに対して「水滸伝」はほんの小さな史実を何倍にも水増しして「史実1:創作9」だと言われている。そうすると、道教の実体は「水滸伝」ではわからないだろう。庄さんが、「この老子の鼻まで手が届けば120歳まで生きられます。眉まで届けば160歳です」と教えてくれる。しかし老君岩は生垣で仕切られた向こう側にあるので、誰もチャレンジしようとはしなかった。まあ、そこまで長生きできなくてもtetywestは全然かまわないのだが・・・老君岩の周りは竜眼の園が多い。竜眼の樹はレイシ(茘枝)とよく似ているのでtetywestは見分けがつかない。まだ花も咲いていないので教えてもらわなければ竜眼園だとは気づかなかっただろう。確か果実がつるつるしているレイシの木肌はざらざらで、果実が毛に覆われている竜眼の木肌がつるつるだと教わったような気がするのだが、まったく反対かもしれない。まだ新植されて間もない園で、珍しく草生栽培だった。竜眼園清源山は老君岩だけでなく、山の頂上までいろいろな所に石像や洞窟があり、ハイキングコースになっているのだそうだ。しかし、時間がない我々は老君岩だけを見て駐車場に引き返した。
2003年05月04日
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予定変更こうなると、本日のスケジュールは大幅に変更せざるを得ない。これから泉州市に引き返して、泉州市農業科学技術研究所と泉州農業局の訪問をカットし、観光だけをすることになった。最初から「お任せ」状態の我々はそれでも一向に構わない。代車のハイエースも、デリカと同じように後部に9人乗れる。このような箱バンタイプの自動車を造っているのはおそらく日本だけだろう。このタイプの車は室内スペースは広く取れるのだが、前部にクラッシュスペースがないので、もしぶつかった場合運転席や助手席はもろにダメージを受ける。そのためにUSA製でこのようなタイプの車はエンジンを一番前に配置して、衝突の衝撃を吸収出来るように必ずボンネットがある。それに、この箱バンタイプは運転手にとっては決して快適ではない。運転席の視点が高いのはいいのだが、カーブを曲がるときなどのローリング角度が大きくなるので、トータルすれば運転していて疲労が大きい。tetywestも子供たちが小さいときにこのタイプの車に乗ったことがある。しかし後ろは広々、ゆったり、快適なのに、何で運転手だけ一番危険なところにシートベルトで縛り付けられなきゃいけないのかと不満だった。今回の旅行ではtetywestたちは快適な側に座っているのだから、箱バンに不満があるわけはない。後部座席用のドアには、「愛惜車輌」「小心関門」と書かれたステッカーが貼ってある。「車を大切に」「ドア開閉注意」なのだそうだが、中国語の表現がちょっと大げさに感じられるのはtetywestだけだろうか。車はもと来た道を引き返して、泉州市までの1区間は高速道路を走る。この高速道路で、tetywestは今回の旅行中一番印象に残った光景に出会うことになる。高速道路の路肩を、天秤棒を担いだオバサンが車と同じ方向に歩いている。それは突然に現れ、あっという間に通り過ぎたので写真を撮る暇がなかったのが残念でたまらない。高速道路はちょうど高架になっていて、下は谷だった。オバサンにしてみれば、隣の村まで行くのには高速道路を通った方がずっと楽なのだ。おそらく洛陽橋を渡っていたオバサンとまったく同じ感覚で高速道路の路肩を歩いているに違いない。オバサンにとって高速道路は自動車専用道路だという認識は皆無なのだ。この光景は、都市部で急速なインフラの整備が行われてはいるものの、依然として農村の貧しい暮らしが存在する中国を象徴しているように思える。古いものと新しいもの、ハイテクとローテク、現代と過去がごちゃ混ぜになっている中国。tetywestにとってはそれがまた、たまらない魅力なのだ。高速を下りて泉州市内に入ると、ここでもバイクが多い。2人乗りで走っているバイクも結構ある。たまに3人乗りで走っているのもいる。「3人乗りは見つかると罰金です」と、shmさんが教えてくれる。それはそうだろう。・・・と、前方にちょうど3人乗りのバイクが走っている。追い越すときに、「ほら、ここにもいる・・・いち、に、さん?・・・・し・・・」そのバイクは4人乗りだった。しかし1台にどうやって4人が乗るのかは未だに謎のままだ。--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(68)(5/2) cjjさん >公務員の「運転手」という仕事は日本にも存在する。しかし中国ではちょっと特殊な職業なのだ。・・・よっぽど身元のしっかりした人間でなくては務まらない筈だ。これはtetywestの想像なのだが。-----tetywestさんのこの想像は100%正しいです。>「K-1」は福建省農業庁果樹科長の李さんの専属運転手で、運転する車はサンタナと決まっている。-----科長は専用車がないです。このサンタナは李さんの上司林副局長の専用車です。 --------------------------------
2003年05月03日
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代車手配昼食が終わると、鄭氏と庄さんは壊れたデリカの修理の手配や、代わりの車の手配に出かけた。食事の準備をしてくれたオバサンやお姐さんは後片付けが終わると帰ってしまう。我々は鎮政府の食堂でまったりとした時間を過ごす。サンタナの運転手がパックに個装されたお茶を取り出して入れてくれる。銘柄は「観音王」だった。李さんが、「このお茶は安渓県の『鉄観音』の中でも一番高い烏龍茶です。500gが1000元(1万5千円)します」と言うだけあって、黄金色に輝くお茶の味わいは格別だった。サンタナの運転手はお茶がなくなると素早く注ぎ足してくれる。その気配りは彼の意外な一面だった。実は昨日からサンタナに専属で乗車している販売課長とK原さんによって、サンタナの運転手には既にあだ名が付けられていたのだ。それは、「K-1(ケーワン)」だった。これを聞いたときtetywestは思わず笑ってしまったのだが、同時に販売課長のセンスに感心してしまった。これほど彼を表現するのに絶妙のあだ名はないだろう。「K-1」はまるでボブ・サップのようながっちりした体格をしている。ヘアスタイルはスポーツ刈りで顔も怖い。しかも運転している車は福建省の「Kナンバー」だし、その特権を行使しまくって常にぶっ飛ばしているのだ。「K-1」がお茶を注いでくれるという意外な気配りにみんなが感心している様子を見て、tetywestなりにその理由を考えてみた。公務員の「運転手」という仕事は日本にも存在する。しかし中国ではちょっと特殊な職業なのだ。「K-1」は福建省農業庁果樹科長の李さんの専属運転手で、運転する車はサンタナと決まっている。そして、李さんの行くところは何処へでも一緒に行く。たとえば食事も毎回同席して同じ料理を食べるのだ。従って、そのときにどんな人と会って、どんな会話が交わされたのかも全部知っていることになる。また、原則的には公用以外では使えないのだが、李さんが休日などにプライベートで車を使いたい場合、その運転をするのもやっぱり「K-1」なのだ。よっぽど身元のしっかりした人間でなくては務まらない筈だ。これはtetywestの想像なのだが、おそらく「K-1」は李さんの親戚なのだろう。あのごつい顔でお茶を入れてくれる「K-1」は、「気は優しくて力持ち」のなかなか信用できる良い人なのだ。食堂の周りは車の騒音も聞こえない。静かだ。何処からか「ホ~ホケキョ」とウグイスの鳴き声がする。我々は美味しいお茶を飲みながら、テーブルに座っている。他に何もすることがない。shmさんは李さんと何か話している。連日の強行スケジュールでだいぶ疲労も蓄積している。販売課長はテーブルに突っ伏して眠っている。tetywestも椅子にもたれてうとうとしていたようだ。「車の準備が出来ました」shmさんの掛け声で、みんな食堂から出る。鎮政府の中庭には代車のトヨタ・ハイエースが停車している。鄭氏は他の用事があるのでここでお別れとなる。お礼を言ってハイエースに乗り込む。庄さんが助手席に座り、shmさんは我々と一緒に後部座席に座る。鎮政府を出発したのは3時5分だった。崇武古城を出てから3時間が経過している。代車のトヨタ・ハイエース--------------------------------Re:果樹部会中国へ行く(67)(5/1) cjjさん >行政改革がどんどん実行されている中国では、公務員専用食堂というのも廃止されたのだろう。-----費用問題を考えたうえで、食堂を廃止したのです。専用食堂があっても、個人請負で、レストランとあまり変わらないです。 --------------------------------
2003年05月02日
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急遽変更・昼食場所パトカーとサンタナでピストン輸送されて着いた所は【さんずいに余】【塞の土が小】鎮人民政府のビルの裏手にある政府(役場)食堂だった。以前は職員がここで朝食、昼食、夕食を食べていたのだろうが、今はがらんとしている。行政改革がどんどん実行されている中国では、公務員専用食堂というのも廃止されたのだろう。【さんずいに余】【塞の土が小】鎮人民政府の食堂(右側の建物)しかし、我々の乗ったデリカに緊急事態が発生し、予約していた昼食会場までは行けそうにない事がわかったとき、おそらく鄭氏が急遽この場所を提供してくれるように頼んだに違いない。食堂内にある区切られた個室へ案内されると、そこには食器が並べられていたが、料理はまだ運ばれて来ていなかった。食堂内の個室全員が揃ってしばらくすると、まずホーローの容器に入った麺が出てくる。名古屋のキシメンみたいに平べったい麺で、讃岐うどんほどのコシはないが薄味のスープはなかなか美味しい。みんなもどんどんお代わりをしている。しかしやっぱり讃岐人、うどんがスープに隠れていないと納得できないのかスープの方が先になくなって麺ばかりが残ってしまうのには笑ってしまう。中国風うどんうどんをほぼ食べ終わった頃、次々に料理が運ばれてきた。◆小さな牡蠣を小麦粉でからめて揚げたフライ◆骨付き豚肉の甘煮◆魚の煮付け◆チンゲンサイのラッカセイ油炒め◆かまぼこと大根のスープ◆鶏のスープと、品数は豊富だ。料理の入っている容器はホーローのシンプルなものだし、決して手の込んだ料理ではないのだが、いかにも「中国の人が普通に食べている食事」という雰囲気で、これがまた美味しい。昼食のメニューtetywestは中国でカマボコを食べるのは初めてだった。これは泉州地方の名物なのだそうだ。大根のあっさりした素材の特徴をうまく生かした薄味のスープは我々全員に好評だった。しかし魚肉の練りものも日本のオリジナルではなく中国から伝わったものだったのか・・・鶏のスープの方はちょっとピリッとした香辛料の味付けなのだが、これがまた他の料理の味を引き立てている。よく見るとトサカの付いた頭がそのまま入っている。足もちゃんと2本入っている。tetywestは今まで食べたことがないものには挑戦してみたい性格なのだが、さすがに鶏の頭はちょっと遠慮したい。足の方を選ぶことにする。箸で持ち上げてみると外観は鳥の足そのもので、指が3本に分かれていて、細かいブツブツした皮膚で覆われている。ちょっと後悔したのだが、覚悟を決めてそのままかじりつくと意外に簡単に皮が剥がれる。しかしほとんど骨と腱で、食べれるところはほんの僅かだった。味は他の部位と変わりない。鶏の頭は誰も挑戦する人がいなかったので最後まで容器の底に残ったままだった。頭の入った鶏のスープ
2003年05月01日
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