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「自由都市」のコーナーには「住吉祭礼図屏風」があり、江戸時代初期の堺の街が描かれている。屏風は金箔が施され、いかにも安土・桃山文化という派手なものなのでtetywestの好みではないのだが、そこに描かれている風景や人々は興味深いものがある。街は縦横に碁盤の目のような道路で区切られている。そして、どの区画にも白壁二階建ての蔵があるのだ。銀行などがなかったこの時代、おそらく自分の財産は自分で守るのが常識だったために、お金持ちの家には蔵があった。堺は相当のお金持ち集団が住んでいた街なのだ。突然話は飛躍するが、「売り家と唐様で書く三代目」という川柳がある。初代は家を興すために必死に頑張る。それを見ながら育ってきた二代目も、さらに頑張って初代を上回る業績を残す。当然お金も出来て暮らしは豊かになる。そして、生まれたときから何不自由なく育ってきた三代目は、もはや初代の苦労など知らない世代になっている。努力しなくてもそこそこ暮らしていけるのだが、世の中はそれほど甘くはない。やがて、家業は傾き、「FOR SALE」の看板を掲げることになる。この川柳で面白いのは、「唐様で」という部分だ。三代目は家業では失敗するものの、文化的な方面には大いなる興味を持っているのだ。確かに毎日汗にまみれて働いてそれでも生活にゆとりのない人生では、ゆっくり茶の湯をたしなもうという気分は起きないだろう。能、狂言、茶の湯などが堺で発展するのは豊かな経済力に裏付けられていたからなのだ。・・・と、ここまで書いて、ふと今の日本の国を振り返ってみると・・・・まさしく「三代目」なのかも知れない(汗)「住吉祭礼図屏風」には、南蛮人も描かれている。おそらくオランダ人なのだろうが、その背丈は日本人とほとんど変わらない。この屏風絵だけでなく色々な文献や絵画から判断すると、当時のオランダ人の平均身長は日本人と同じくらいだったと言われている。ところが、今やオランダといえば巨人国なのだ。オランダ人の平均身長は男性=184cm、女性=174cm、2mを超える人もざらにいる。従ってtetywestがオランダの女性と向き合えば、ちょうど目の前にそそり立つバストが存在するという状況になってしまう(笑)。トイレに行った時も、そのまま立ったのでは届かないくらい便器の取り付け位置が高い。そっと背伸びをしてようやく用を足すことが出来たtetywestだった。400年間でオランダ人が何故巨人になったのかという原因は、いろいろな学者によって調べられている。それは乳製品を大量に摂取したからだそうだ。最近の日本人も乳製品の摂取量はかなり増えているので、あと300年もすればオランダ人並の身長になるのかも知れない。しかし、それより先に食糧危機がやって来そうなので、小柄なままの方がエネルギー消費量が少なくて生き残る可能性は高いかも知れない(笑)。
2003年07月31日
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「自由都市」のコーナーに大きな堺の地図が展示されている。堺の戦国時代の街並みだった。それを見たとき、堺が自由都市と呼ばれていた理由が少しわかったような気がした。当時の堺は西に港があり、あとの3方、東、北、南はぐるっと堀で囲まれていたのだ。つまり堺の街全体が大きな要塞都市だったといえる。町全体を要塞化するという発想は中国やヨーロッパでは常識なのだが、日本ではほとんど見当たらない。tetywestは、このことは日本文化の大きな特徴だと思っている。日本に要塞都市が発達しなかった原因はいろいろ考えられるだろうが、一番にあげられるのは、「日本が平和だった」ということだろう。歴史を見ても、徹底的な殺戮や奴隷化が行われた様子がない。余談になるが、tetywestは「将棋」はいかにも日本的なゲームだと思う。取った駒を味方として再利用できるなどというのは、西洋のチェスの世界にはありえないことだ。先ほど訪れたのが仁徳天皇陵だったためか、その原因をついつい古代の大和朝廷成立の過程へと遡ってしまう。大和朝廷は、騎馬を巧みに操る朝鮮からの渡来人によって成立したのだろうと言われているが、もっと大ざっぱに分類すれば、縄文人と弥生人の戦いだった。もちろん弥生人が日本を制覇するわけだが、その過程で徹底的な殺戮や奴隷化はおこなわれず、かえって縄文人の土着文化との融合が積極的に行われたのだ。前方後円墳にしても、中国や朝鮮にはない日本独自の形であり、それは縄文人の墓の形に由来していると言われている。そんな日本の風土の中で堺が「要塞都市」を造っていたのは、やはり中国や西洋との貿易が大きな要因なのだろう。戦国大名たちからの影響を受けずに「自由都市」として「自治」をするためには、「防衛」がなければ成り立たないというのは世界の常識なのだ。スイスが「永世中立国」だと宣言した背景には「国民皆兵」の軍隊があるのだ。だからと言って、ここでtetywestは日本の「自衛隊」や「防衛権」について書きたいわけではない。どちらかと言うと、「要塞都市のない日本特有の文化」が世界の常識になれば、世の中はもっと住みやすくなるのではないかと考えたりしている。堺の地図によると、街の一番外周部、つまり堀に近い所には農民が住み、その内側に寺社を配置し、その内側に商業街や鉄砲鍛冶街が密集していた。外部からの攻撃による火災を防ぐための配慮だったそうだが、一番外側にいる農民のことが気になって仕方がないtetywestだった。
2003年07月30日
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ところが、「自由都市」のコーナーで一番目に付く場所に展示されていたのは、「鉄砲」だった。「1543年、ポルトガル人によって種子島へ鉄砲が伝来する」は中学生でも知っている日本史上の重要な出来事なのだが、その後、鉄砲がどこで造られていたのかについてはあまり関心がなかった。しかし今年の3月にtetywestは、たまたま琵琶湖のほとりの長浜市を訪れたのだ(中国旅行記を掲載中だったので日記には書きませんでした)。そして、そこに「国友鉄砲の里」と呼ばれる火縄銃の一大産地があったことを知ったばかりだった。※偶然とはいえ、一年のうちで国友と堺という鉄砲の二大産地を訪れるというのも何かの縁だろうと、旅行から帰った後鉄砲の製造についていろいろ調べてみました。すると、これがまた面白いんです。以下は旅行記からはちょっとずれるのですが、鉄砲についての話です。種子島の領主であった種子島時尭(ときたか)はポルトガル人から買った火縄銃1挺を、薩摩藩主島津義久に贈り、島津義久はこれをそのまま将軍足利義晴に献上しました。将軍義晴は、その火縄銃をすぐに江州国友(ごうしゅうくにとも、現在の滋賀県長浜市国友町)の鉄匠に貸して、複製を造るように命じたのです。当時の国友には、畿内随一の優秀な刀鍛冶たちが集まっていたためでした。もうひとつのルートは、紀州の根来寺でした。杉坊(すぎのぼう)という僧侶が、種子島から火縄銃と火薬の製法を郷里の紀州根来寺(現在の和歌山県那賀郡根来町)へ持ち帰りました。のちに根来寺では鉄砲を巧妙にあつかう僧兵が猛威をふるい、信長や秀吉を脅かすようになったのです。後に江戸城の守衛をつとめた鉄砲百人組の根来衆もこの地の末裔たちです。そして、もう一つのルートが堺だったのです。泉州堺の商人、橘屋又三郎が琉球貿易の途中で種子島に漂着し、偶然にも1543年の鉄砲伝来に立ち合いました。その後一年間火縄銃の製作を勉強して、これを堺に持ち帰ったのです。この3つのルートの中で堺はやっぱり特別でした。当時商業都市として栄えていた堺は、鉄砲製造の大産地だったばかりか、鉄砲になくてはならない火薬の原料である硝石(しょうせき)の輸入港でもあったのです。長篠の戦以後、鉄砲は戦国時代の戦になくてはならない必須アイテムになりました。特に信長は鉄砲の重要性を早くから見抜いていましたが、ただお金を出して鉄砲を揃えるだけではなく、堺を支配下に置くことを熱心にやったようです。千利休や今井宗久が歴史に登場するのもそのためです。信長は堺だけでなく国友や根来もその勢力下に組み入れていきました。まさしく、「鉄砲を支配するものが天下を支配する時代」だったと言っても過言ではないでしょう。そして信長の戦略を熟知している家康は、大阪城を攻撃するために大量の鉄砲や大砲を造らせます。その集中砲火によって「夏の陣」で大阪城が炎上してしまうのは有名な話です。しかし家康は天下を取ってしまうと、あれほどお世話になった鉄砲を禁止してしまいます。それ以後幕末まで日本史に鉄砲が登場することはほとんどなくなりました。家康は鉄砲が「両刃の剣」だということを一番よく知っていたのでしょう。ここでちょっとおさらいなのですが、長篠の戦は1575年ですから、鉄砲伝来から32年です。この時信長が使った鉄砲は3千5百挺だと言われています。つまり鉄砲製造は30年で日本の一大産業に成長していたわけです。これがどのくらい凄いことなのかを理解するために、現代の日本を代表する自動車産業と比べてみました。初めて国産のガソリン自動車が走ったのは明治38年(1904年)です。それから30年後の1934年(昭和9年)の自動車産業はどうだったでしょう?まだまだ日本の代表産業には育っていませんでした。ちょうどその年に、戦前の国産トラックの代名詞になったDATSUN(ダットサン)を造った「日産」が誕生しています。DATSUN(ダットサン17T型) が発売されたのはその4年後の1938年です。鉄砲という全く新しい産業がこんなに早く成長できたのは、当時の日本の製造業の技術レベルが世界と比べても負けないくらい高かったからなのです。堺が「自由都市」として発展したキーワードは「商業」と「貿易」だけではなく「工業」も重要なファクターだということを発見したtetywestです。
2003年07月28日
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次は、いよいよtetywestの一番興味のある「自由都市」のコーナーだ。何をそんなに期待しているのかは、実は自分でもよく解ってはいない。強いて理由をあげれば、tetywestの職業が農業なので、それ以外の文化に惹かれるのかも知れない。「士農工商」と身分制度を固定した江戸時代は、ピラミッドの頂点に武士が存在していた。しかし、どう考えても一番底辺は農民だったはずだ。これは今も昔も変わらないだろう。それを敢えて「士農工商」の順番にした裏には、武士が農民以外の、特に商人の力を恐れたからではないだろうか。司馬遼太郎は江戸時代の終焉を、「海外の脅威から自国を守るため」だったと捉えている。もちろんtetywestはそれに反論するものではないのだが、経済の側面から見れば、「禄高制を基礎とする経済システムの破綻」だったのでははないだろうか。たとえば、江戸時代の「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」にしても、武士の「禄高制」のシステムと商品経済の発展との間に生じた矛盾をチャラにするために行われたとも言えるのだ。世界史の上では、イギリスの東インド会社の成立が1600年だし、中国ではそれより前の宋・元の時代(12世紀後半~14世紀)に泉州が世界的な貿易港として栄えていた。江戸時代が始まる頃には世界は既に商品経済へと移行していたのだ。それを江戸幕府が敢えて「禄高制」という極めて商品経済が発展しにくい固定的なシステムにこだわった背景には、平安時代から続いてきた「租庸調」の考え方が根強く残っていたからだろう。そう考えると、中国の清も、日本の江戸幕府も、ほぼ同じ時期に鎖国をしていることは偶然ではないように思える。世界の商品経済の発展から、自国のシステムを護るためには鎖国という手段が一番手っ取り早い。そのような江戸時代に突入するちょっと手前、つまり戦国時代は、日本の歴史の中でも「商業」が大きく発展した時代だったと思う。この時代に近江商人、伏見商人、堺商人、平野商人等という独特の気質を持った商人が各地に現れている。信長や秀吉は「楽市・楽座」を設けて積極的に商業を奨励したが、なぜかと言えばそこから上がる利益が大きかったからなのだ。武士を中心として成り立つ江戸幕府は、その社会を維持するために、これら商人の台頭が一番怖かったに違いない。だから「士農工商」という身分制度で、商業を最下位にしたのだ。話がややこしくなってしまったが、tetywestは以前から、戦国時代に堺が「町民の自治都市」として栄えたのは、「貿易」・「商業」がキーワードだろうと考えていた。
2003年07月27日
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堺市博物館は仁徳天皇陵から歩いて3分のところにある。常設展は「仁徳陵と自由都市」だということはあらかじめインターネットで調べてあった。堺市博物館常設展「堺ー仁徳陵と自由都市ー」館内に入ると他に誰も見学者がなく、貸切状態だった。土曜日の入場者がこれでは完全に赤字だろうと思うが、ゆっくりと時間を気にせずに見ることが出来るのでtetywestにはありがたい。最初のコーナーは仁徳天皇陵を始めとする百舌鳥(もず)古墳群についての展示だった。壁いっぱいの大きさの堺市の航空写真が展示されている。それを見ると、改めて仁徳天皇陵の大きさを実感することが出来る。「堺市にはせっかくこんな有名な観光資源があるのに、全然それを宣伝する気が無いんだよね。仁徳天皇陵だって、上から見ることが出来たら絶対みんなが見に来てくれると思うんだけど、天皇のお墓を見下ろすことは出来ないんだそうだよ」「へ~、だってこの写真があるということは、飛行機からなら構わないってことじゃないの」「堺市も、そのつもりで展望台を造ったんだけど、その建物の下に戦没者の慰霊碑か何かがあったんだって。それで、慰霊碑を踏みつけるのはダメと言うことになって上がれないんだよ」「何だか変な理屈だなあ」「それで、どこか上から見れるところがないかと調べたら、市役所の一番上からなら見れるらしいよ。ちょっと遠いんだけど」「それならいいよ。ここでこの写真を見た方がよくわかるかも・・・」「展望台があれば、USJへ来た人たちも堺へ来てくれるかも知れないのになあ」I江君は、堺市に展望台が無いことがよほど気になるらしい。そういえばI江君の故郷は七宝山の麓にある。当然子供の頃からしょっちゅう山に登っていたために、高い所から見下ろしたときの風景の素晴らしさをよく知っているのだろう。実はtetywestとI江君は、お互いに七宝山の反対側で育ったのだ。tetywestは山の上から瀬戸内海を見て育ち、I江君は三豊平野を見て育ったわけだ。今では七宝山にトンネルが抜けたので、I江君の故郷はtetywestの住んでいる地区から一番近い場所になってしまった。そしてこれも全くの偶然なのだが、みかんの収穫時期になるとtetywestの家にアルバイトに来てくれている女性がI江君のお義姉さんだったのだ。それを知ったとき、tetywestは「まったく世間は狭いものだ」と感じたことを覚えている。このコーナーで目を引くのは、先ほどボランティアのおじさんから聞いた石櫃だった。縦2m、横3m、高さ1.5mくらいの大きさで、周りに直径30cm位の円筒形の出っ張りがある。その櫃を見ていると何となくUFOを連想してしまう。そんなことは起こるはずがないのだが、いかにも空中に浮かびそうなのだ。そういえば古墳から出土した埴輪の人形も、大きな頭と大きな目をしていてスピルバーグ映画に出てくる宇宙人に見えなくもない。それに、完成した当時の古墳は表面にタイルのように葺き石が並べられていたのだ。「ひょっとしたら、古代の前方後円墳はナスカの地上絵やストーン・ヘンジと同じように、宇宙人のための標識だったのかも知れない」などと想像するのも楽しいものだ。
2003年07月26日
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仁徳天皇陵は5世紀中ごろに造られたのだそうだ。3重の堀で囲まれ、お墓としては世界一の面積を誇っている。駐車場は、前方後円墳の前端の外堀に隣接しているので、すぐに陵を見ることが出来る。いや、正確には陵の一番外周の堀と2番目の環状になった島が見える。外堀の外周はきれいに石畳で舗装された歩道がまっすぐに延びている。その長さは資料によると656mあるのだそうだ。・・・と書いてしまうと何でもないのだが、実際にその距離を歩いてみると相当長い。時速4kmで10分かかる計算になる。もし陵の周りを一周しようとすれば、2718mだそうだから、40分かかることになる。2番目の環状になった島には、木々が繁っていて、その隙間からもう一つ内側の環状になった島の木々が少しだけ見える。だから、何となく間にもう一つ堀がありそうだという雰囲気だけがわかる。陵の本体である前方後円墳は全く見えない。天守閣のない城の周りを歩いているような気分だ。掘に沿って歩道を陵の真中まで歩いていくと、そこだけ島が繋がっていて、木々が生えていない場所がある。そこは一番外堀を渡って、2番目の堀の手前まで行くことが出来る唯一の場所だった。そこに一人の初老の男性が立っていて、「どこから来られました?」と声をかけられた。「香川県です」と答えると、「遠くから、よくいらしゃいました」と、パンフレットを渡してくれて、「仁徳天皇陵について説明しましょうか?」と尋ねられた。tetywestはそんな話を聞くのが大好きなので、喜んでお願いした。以下はその方の話の中で印象に残っている事を書くことにしよう。仁徳天皇陵を始めとして、この地方には100を超える古墳があったのだが、現在残っているのは48個だそうだ。反正天皇陵だと言われている「田出井山古墳」は、その規模の大きさからしても天皇陵ではないようだ。どうも「ニサンザイ古墳」が反正天皇陵らしい。「田出井山古墳」は仁徳天皇に位を譲るために自殺した弟の莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の可能性が高いらしい。今は木々が生い茂っているが、完成した当時の前方後円墳は葺き石が並べられ、それが太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。仁徳天皇陵は、海から良く見えるように配置され、ニサンザイ古墳は海から奈良への街道沿いに配置された。ある大手建設会社が試算したところ、仁徳天皇陵を造るには毎日2000人が仕事をして15年8ヶ月かかるのだそうだ。石棺は前方後円墳の後円に埋められるのだが、江戸時代にはかなり荒廃していて、盗掘されている。しかし、明治5年に前方部正面が崩れたとき、そこから立派な竪穴式石室が出てきた。その石室は調査された後に埋め戻されたが、そのコピーは博物館に展示されている。仁徳天皇の奥さんの磐之媛命(いわのひめのみこと)は、めちゃ嫉妬深かった。天皇が八田皇女(やたひめ)を側室に迎えると、山城の国に行き、二度とこちらへは戻らなかった。またその原因となった八田皇女は仁徳天皇とは異母兄妹にあたる。当時はこのような婚姻はあたりまえに行われていたようだ。しかし、磐之媛命は優れた歌人として万葉集にも詠まれている。「ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに」いつまでも聞いていたいような興味の尽きない話だったのだが、あいにく雨が降ってきた。ボランティアのおじさんに御礼を言って堺市博物館へと向かうことにする。
2003年07月25日
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「なかもず」駅の地上に出ると、ロータリーに車を停めてI江君が待っていてくれた。実は新大阪で地下鉄に乗るとき携帯電話で連絡してあったのだ。tetywestから「仁徳天皇陵が見たい」と電話を受けたとき、I江君は「何と物好きな」と呆れたのだが、よく考えてみると本人も堺市に住んでいながらゆっくりと眺めたことがなかったのに気づいたそうだ。その後tetywestのために色々と予習をしてくれたらしい。まず案内されたのは、「ニサンザイ古墳」だった。それは大阪府立大学の近くの閑静な住宅街にあった。しかし、ただ土手があるだけで古墳は見えない。「じゃ、上がってみる?」と車を降りて土手に上がると、向こう側は池で、その真中には島があった。土手の上は犬の散歩をするのにちょうどいいくらいの細いあぜ道で、雑草が踏み分けられている。池の水は緑色で、土手から30mくらい向こうにある島には木々がうっそうと生い繁っている。よく見ると、島の中央部分がくびれていて、前方後円墳だと判別できる。「なんだか、ほとんど池という感じやなあ」「そうやろ・・・」「島へは渡れるんやろか?」「さあ・・・」どこかに橋があるだろうかと、前方後円墳の丸い部分の方へ歩いていくと、ちょうど島の真後ろに石の橋が架かっている。しかし、渡りきった島の入り口には鉄の柵があり、古墳の中へは入れない。「これが墓ねぇ・・・・」見れば見るほど奇妙な気分になってしまう。一体何のためにこんな大きな墓を造ったのだろう?その上、古墳を仕切る特別なフェンスも無いので、付近の人は古墳の一部であるこの土手を毎日犬を連れて歩いているというのも変な感覚だった。「じゃ、次へ行きますか」再び車に乗り込むと、今度は「仁徳天皇陵」へ向かう。「堺市にはものすごくたくさんの古墳があって、いつの間にか壊されて無くなった古墳も多いんだって」「へ~、何でここが天皇家の墓場になったんやろ?中国の風水の影響やったら北に山、南に水がある場所なんやけど、堺はそうなん?」「ううん、山は東やし、大和川は北側にあるし・・・」そんなことを話しているうちに、仁徳天皇陵のすぐ傍にある市営駐車場に到着した。※帰宅後、調べてみると風水が日本に伝えられたのは飛鳥時代でした。仁徳天皇の時代には風水の影響は無いようです。ついでに、初代から33代の天皇陵の場所を調べてみました(もちろん異論も多いのです)。14代~19代までは、大阪南部に集中しています。そして、その後も結構奈良と大阪を行ったり来たりしているんですね。この時代の大阪南部って、かなり重要な地域だったことが初めてわかりました。初代 神武天皇 奈良県橿原市大字洞2代 綏靖天皇 奈良県橿原市四条町 3代 安寧天皇 奈良県橿原市吉田町4代 懿徳天皇 奈良県橿原市西池尻町5代 孝昭天皇 奈良県御所市三室6代 孝安天皇 奈良県御所市玉手7代 孝霊天皇 奈良県北葛城郡王子町8代 孝元天皇 奈良県橿原市9代 開化天皇 奈良県橿原市10代 崇神天皇 奈良県天理市柳本町11代 垂仁天皇 奈良市尼辻町12代 景行天皇 奈良県天理市渋谷町13代 成務天皇 奈良市山陵町14代 仲哀天皇 大阪府藤井寺藤井寺415代 応神天皇 大阪府羽曳野市誉田16代 仁徳天皇 大阪府堺市大仙町17代 履中天皇 大阪府堺市石津が丘町18代 反正天皇 大阪府堺市北三国ヶ丘町19代 允恭天皇 大阪府藤井寺市国府20代 安康天皇 奈良県奈良市宝来町 21代 雄略天皇 大阪府羽曳野市島泉22代 清寧天皇 大阪府羽曳野市西浦 23代 顕宗天皇 奈良県香芝町大字北今市 24代 仁賢天皇 大阪府藤井寺市青山 25代 武烈天皇 奈良県北葛城郡香芝町 26代 継体天皇 大阪府茨木市大字太田 27代 安閑天皇 大阪府羽曳野市 28代 宣化天皇 奈良県橿原市鳥屋町 29代 欽明天皇 奈良県明日香村大字平田 (539~571)30代 敏達天皇 大阪府南河内郡太子町 (572~585)31代 用命天皇 大阪府南河内郡太子町(585~587)32代 崇峻天皇 奈良県桜井市大字倉梯 (587~592)33代 推古天皇 大阪府南河内郡太子町 (592~628)さらに詳しく調べてみると、朝鮮半島を攻めたとされている神功皇后が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのが15代の応神天皇なのです。「九州生まれの応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)は瀬戸内海を東進して、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して天皇となり王権を打ち立てた」と日本書記には書かれています。何だか話が「神武東征」とダブっていると思いませんか?名前にも同じ「神」が使われていますし・・・・仁徳天皇はその皇子です。想像力を飛躍させるとtetywestには、日本の大和朝廷は朝鮮半島からやって来た騎馬民族によって、3世紀の終わりから4世紀始め頃、大阪南部に最初に創られたんじゃないかと思えるのです。
2003年07月24日
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今朝は急に雨が降り出してミカンの摘果の仕事はできません。そこで中国へ行く段取りをすることにしました。まず、中国の友人に電話をかけます。「ブー・・・ブー・・・ブー・・・(呼び出し音)」「ウェイ」「ジスイズ フロム ジャパン。 イズ wh(友人の名前) イン?」おお!居るみたいだ。呼んでいる・・・「もしもしwhさん、おはようございます。元気ですか?」「おはようございます。はい、元気です」その後、「9月の初旬に一週間そちらへ旅行したいのですが、仕事を休めますか?」と訊いたところ、いとも簡単に「OKです」という返事をもらいました。「ああ良かった」whさんの都合が悪ければこの計画は全部お流れなのです。詳しいことは具体的な日程が決まってから再度連絡するということで、携帯電話の番号を教えてもらって電話を切ります。次は、旅行代理店に電話です。日程は9月上旬出発で、飛行機とホテルの予約です。ホテルは到着日と帰国前日の2泊だけ。できるだけ空港に近いところという注文を出しました。飛行機のルートは関空からです。岡山発インチョン経由も調べてもらったのですが、帰りの便が夜中のフライトになるために諦めました。JALだと毎週水曜日運行の便がありました。でも関空出発が午前になるのと値段が高いので、お安い中国南方航空(だと思うのですが)にしました。行き先ですが、「雲南省・昆明」日程は9月2日(火)~9日(火)です。あっ、一番大事なことを書き忘れてました。今回の旅行は家内と一緒に行きます(笑)
2003年07月23日
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7月12日(土)夜のうちに雨が降ったようで窓の外はすっかり濡れていたが、朝起きたときには止んでいた。8時半にホテルの1階のロビーに下りると、M君とSY君がいた。一緒にホテルのカフェで朝食をとることにして携帯電話で連絡をとり、間もなく全員が集合した。今やお百姓さんもtetywest以外は全員携帯電話を持っているという凄い時代なのだ。実はtetywestも、皆と連絡を取り合うのとは別の目的で家内の携帯電話を借りて来ていた。しかし、そんなことをわざわざ教える必要もないので黙っている。朝食は揃ってアメリカン・ブレックファスト。飲み物はホットコーヒー、アメリカンコーヒー、アイスコーヒー、ミルクティとそれぞれ個性豊かなメンバーたちだ。話題は自然と、これからどうするかと昨夜のその後のことになる。プライバシー厳守を旨としている果樹研究同志会なので、昨夜の事はここでは一切書かない(笑)。今日は完全なフリータイムなので、これから単独行動を予定している者、一緒に行動してくれる相手を探す者、いろいろな計画があるようだ。これもプライバシー厳守を旨としている果樹研究同志会なので他の人の事は一切書かない(笑)1時間後、カフェの前で解散となった。旅行計画では、新大阪発午後5時5分の新幹線に乗ればJA出張所まで自動的に帰れることになっている。しかし、JRの乗車券は6日間有効だし特急券も2日間有効なので、いつ帰ってもかまわない。tetywestはここからは単独行動に出た。新大阪駅へ向かい、地下鉄御堂筋線に乗り込む。目的地は終点の「なかもず」だ。果樹研究同志会の旅が大阪泊に決まったとき、tetywestはフリータイムに堺市へ行きたくなった。その一番の理由は今年2月に中国福建省の泉州市へ行ったことだった。堺市から南の地方は「和泉」とか「泉州」と呼ばれているが、これは日本と中国の交流が元になっているらしい。その中でも堺市は戦国時代に「自由都市」として町人文化が栄え、千利休や小西行長を輩出している。tetywestは、歴史に名を残した場所はそうなる要素をどこかに持っているはずだと思う。実際に堺の町へ行けば、なんとなくその雰囲気がわかるような気がしたのだ。もっと歴史を遡れば、堺市には世界最大の古墳である「仁徳天皇陵」がある。歴史の教科書で何度もお目にかかっているにもかかわらず、tetywestはその実物を見たことがなかった。そして最も好都合なことに、去年の「高校の同窓会」で久しぶりに再会し、「こっちへ来ることがあったら、いつでも連絡してよ」と言われていた同級生が堺市に住んでいるのだ。事前に連絡をとったところ、ちょうど土曜日なので時間が取れるという返事をもらっていた。
2003年07月22日
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果樹研究同志会の旅では、プライバシーを守るために(?)一人部屋に泊るのが恒例になっている。tetywestの部屋は14階の一番非常階段に近い部屋だった。窓からは新大阪駅の正面玄関が見える。部屋に備え付けてあるTVではもう阪神vs巨人戦を放送していた。7時にホテルのロビーに集合する。今回の旅行を段取りしたM君の予定では、十三まで繰り出して夕食は「ザ・ロックアップ」でということになっていた。しかし、レンタカーでの移動で疲れたメンバーが多く、チェックインのときには「近場で済まそう」という意見が優勢になった。そこで、急遽ホテルのフロントの紹介で近くの居酒屋を予約してもらったのだ。それは、ホテルから梅田方面に5分ほど歩いた、高速道路傍の雑居ビルの地下一階にある「甘太郎」だった。店に入ると左手にある靴箱に靴を入れるようになっている。まるで銭湯みたいなシステムだ。案内された場所は、衝立で仕切られた個室状の空間で、真中に焼肉が出来るコンロがセットされたテーブルがあり、周りは掘り炬燵みたいに足を下ろして座れるようになっている。やっぱり日本人が落ち着いて酒を飲むためには、素足を投げ出すのが一番なのだろう。この「くつろぎ」感覚は、ソファーで生活している西洋人には理解できないものかもしれない。駅前にチェーン展開している居酒屋とあって、店はほぼ満席状態だった。メニューを見ると、刺身の盛り合わせ、焼き鳥、焼肉、豆腐料理に焼き魚、フレンチフライにお好み焼き、それにたこ焼きまで揃っている。かなり適当に銘々が好きなものを注文して、とりあえず生ビールと烏龍茶で乾杯する。そのあとは、運ばれてきた料理を中華料理形式で適当に取りながら、話に花が咲く。こういう場所で硬い話はあまり出ない。しかし、それはほとんど記憶に残らない話題でもある。覚えている話と言えば・・・6人揃うと1人くらいは阪神タイガーズのファンがいるものだ。H君はこの前阪神が優勝したのが18年前だと知っていた。SY君はその時中学生だったそうだ。tetywestにしてみれば、あれから早くも18年の歳月が流れてしまったのかという驚きの方が大きかった。「桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十八年」という諺があるが、実の成らない野球チームを18年間も待ち続ける阪神ファンというのは、きっと「歪んでる」に違いない(笑)珍しく硬い話でも盛り上がった。それは、「最近何かと話題の『トレーサビリティ』は決して生産者のためのものではなく、小売が消費者に言い訳するためのものだ。これは情報が生産者から消費者へと一方通行でしか流れていないが、本当の『トレーサビリティ』は双方向に情報が流れなくてはならない。つまり、生産者も自分の作った農産物が市場でいくらの値段になり、小売段階ではいくらで売られたかがチェックできなくてはならない」というものだったのだが、全員「その通り!」と意見が一致した。そうなれば、今はマスコミの影響が大きいために、あまりに理不尽な利益を追求しているスーパーなどはマスコミの槍玉に挙げられるだろう。現在の流通システムを改革するにはそうやって世論を盛り上げるのが一番だという結論になった。さて、各自勝手に飲み物や料理を注文していたのだが、最後にSK君が「お好み焼き」「たこ焼き」「チヂミ」を2皿ずつ注文してしまった。粉系でお腹に溜まるものばかりの大量注文だったので、さすがに皆から非難の声があがった。案の定、「お好み焼き」は何とか食べきったものの、「チヂミ」は大量に余った。ただ幸いなことに、いくら待っても「たこ焼き」が運ばれてこなかったので、H君が店員さんに注文を取り消してもらった。すっかり満腹になって、店を出たところで「解散」となる。これも恒例のことだが、ここからはプライベートタイムだ。夜はまだまだ長い・・・・・・で、ホテルに帰って「永遠のラブストーリー・ベスト500」などという番組を観ていたtetywestだった。ちなみに2位は「風と共に去りぬ」で、1位が「カサブランカ」だったのは覚えているのだが、後は忘れてしまった。
2003年07月21日
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和歌山県は果実生産額全国2位の果物王国だ(1位は確か長野県だったと思う)。ミカンの生産量でも愛媛県に次いで全国で2位を誇っている。特に有田川流域と和歌山市、海南市を中心にした海草地域はそれこそ江戸時代からミカンが栽培されている。しかしその和歌山でも、近年のミカン不況で栽培面積は減り続けている。現在はミカン価格が暴落する以前の昭和40年よりも少ない8,000ha以下の面積しかない。U田さんの話では、紀北地域はカキやモモへ、紀南地域ではウメへとミカンが更新されているそうだ。ただ、有田を中心とした昔からのミカン産地では、デコポン、清見などの中晩柑への更新が行われている。最近和歌山県で注目されている品種は春見(はるみ)と瀬戸香(せとか)だそうだ。意地の悪い質問だとわかっていたのだが、「これからのミカン産業はどうなると思われますか?」と訊いてみた。困ったような顔をしながらも、U田さんは次のように答えてくれた。「う~ん、高齢化と後継者不足でミカンの生産量は次第に減ると思います」そこで、さらに追い討ちをかけるtetywest。「生産量が減れば、ミカン農家は豊かになりますか?」「う~ん、我々もそうなって欲しいと願ってるんですけれど・・・・」やはり、どこの産地へ行っても状況は似たり寄ったりのようだ。その後、U田さんの案内で場内の試験園を見て回る。和歌山は極早生の「宮本」の大産地なのだが、近年これを「由良早生」に、そして晩生品種を「田口早生」に更新しているそうだ。最近では、各ミカン産地はそれぞれの特徴を出すために、その県独自の奨励品種を作る傾向にある。たとえば愛媛の「南柑20号」、「「愛媛中生」や、熊本の「肥のあけぼの」、広島の「石地」などだ。ただ、特徴を出すと言っても所詮は「ミカン」なのだ。消費者に品種の区別はつかないだろう。中晩柑の品種展示圃では「かいよう病」に冒された樹がかなり目立った。U田さんの話では、ここ半月で急に広がったのだそうで、こんなに「かいよう病」が出たのは近年珍しいことだそうだ。実はtetywestの作っているネーブルにも今年は「かいよう病」が出ていた。防除を失敗したなぁと落ち込んでいたところだったので、この試験場の「かいよう病」を見て元気が出た。ここに比べればtetywestの園の被害程度など極々軽いものだ。やっぱり他産地への視察に来れば何かの収穫はあるものだ。試験場を後にしたのはジャスト4時だった。もと来た道を引き返す。今度はK君が運転することになったので、私は後部座席へ引っ込んだ。岸和田サービスエリアで休憩をとって、新大阪を目指す。ここからドライバーはSK君に交代した。松原JCT付近で料金所を通過するために若干の渋滞があったものの、まずまず順調に環状線まで戻ってきた。ところがまたもや、賢くないカーナビのおかげでJR大阪駅の手前で高速道路から下ろされてしまった。しかし、ここまで来たら一般道を走っても新大阪まではたいした距離ではない。十三を経由して、ちょうど道路脇にあったガソリンスタンドで満タンに給油を済ませ、6時20分に「駅レンタカー」の事務所に到着した。続いてすぐ後から、もう一台も到着したが、松原JCTの渋滞を避けるために我々とはぜんぜん違うコースを帰ってきたのだそうだ。何はともあれ、本日の研修は無事終了したわけだ。新大阪駅から徒歩3分の「ワシントン・プラザホテル」へと向かう。ホテルの建物は駅レンタカーの事務所からも見えているのだから、これは間違いようがない。
2003年07月20日
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U田さんはこのレジメに従って「GIS」について説明してくれた。しかし、tetywestの産地はもう「GIS」を導入済みなのだ。この程度のことは説明を受けるまでもなく理解できる。現在tetywestの産地で問題となっているのは、一筆圃場診断のカルテをどんな形式にすれば農家に一番わかりやすく、かつ「頑張らなくっちゃ」という生産意欲が湧くだろうかと言うことだった。和歌山県果樹試験場へ来たら、その「雛型」くらいは実際に見れるのではないかと期待していたのだ。ところが・・・GISを専門に研究している研究員の方が2名とも出張で不在だった。我々の応対をしてくれたU田さんは専門外のために、詳しいことは良くわからないのだ。「光センサー選果機のデータを農家にどのような形で知らせるのか、実際の書式を見せてもらえませんか」と頼んでみた。「実は、このシステムはある企業と共同開発していまして、完成したら市販する予定になっているんです。ですから、詳しいことはお教えできません」「ガ、ガーン・・・」「それでは、気象条件や栽培管理履歴をどのような形で園地評価に生かすのかは、教えていただけますか?」「それは難しい問題でして、まだ我々も実際に何をどういう形でインプットするのかは現在研究中なのです」再び「ガ、ガーン・・・」「そ、それでは実際のシステムはまだ出来ていないんですか?」「はい。後3年で完成させる予定です。しかし完成しても、どのデータを使用するかは実際に使う各農協の判断になると思います」つまり結論を言ってしまえば、和歌山県果樹試験場もtetywestの産地と同じ程度しか開発が進んでいないのだ。これは驚くべき事実だった。考えようによっては、tetywestの産地も最先端を走っていると言うことなのだ。そしてもう一つ解ったことは、「GIS」を導入しても、その運用は結局それぞれのJAの能力次第だと言うことだった。こうなると、多少(・・・いや、本当はかなり)大変でも、自力で「GIS」を利用するノウハウを創り出さなければならないということになる。ふぅ・・・・・・・(深い溜息)これがはるばる和歌山まで研修に来た成果とは・・・・ただし転んでも只では起きないtetywest。帰宅後、レジメに小さく印刷された「一筆圃場カルテ」の図を拡大鏡を使って必死に解読した。その結果、ある程度の項目は判読できた。これを下敷きにした方が、全くのゼロから創造するよりずっと良いものが出来るのは間違いない。
2003年07月19日
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U田さんは、カラー印刷されたA4の用紙を一枚づつ、みんなに配ってくれる。それは「GISによる一筆圃場診断システムの開発」のレジメで、7つの画像と細かい字がびっしり並んでいるものだった。あまりに細かい字なので裸眼ではとても読めそうにない。tetywestは急いで老眼鏡を取り出す。それでも、印刷された字が小さすぎて所々判読できない。帰宅して、拡大鏡を使ってようやく全部が解った。-------------------------------GISとは何か?GISとは地図情報システムの略称で、解り易く言えばカーナビゲーションの高度化したようなものをイメージしていただいて結構でしょう。簡単にその構造を下図に紹介しています。つまり、電子地図(デジタルデータ地図)上に任意の情報(住宅、水道、商圏、生息圏などの属性データ)を重ね合わせたものであります。地図に重ねることで、視覚的に情報を捉えることが可能になり、わかりやすく表示、検索できるようになります。さらに、複雑な情報を何階層にも重ねることができることから、各種情報をリレーションでき、複雑なデータの分析や抽出が地図上から検索・抽出が可能となります。電子地図データ←←←←目的の情報(任意の属性データ)写真は、光センサー選果機からの荷口ごとの測定データ電子地図上での一筆毎に、園地コード(共通キー)でリンクさせることで、膨大な情報が圃場毎に管理できる。一筆圃場カルテの作成近年、消費者のカンキツに対する嗜好(特に味)は、より高度なものとなり、生産者はより高品質な果実の生産を要求されています。常緑果樹であるカンキツでは、他の果実以上に各種の環境・栽培要因が複雑に絡み合うため、安定した高品質化は容易ではありません。現在、各選果場に導入されつつあります光センサー選果機は、味保証された均一な商品を消費者に提供し、消費拡大に役立っています。この光センサー選果機からは、膨大な果実1個1個のデータが蓄積されます。このデータを、園地ごとに集計し、園地の条件(土壌・気象など)や栽培管理方法と併せて地図上で管理し、圃場一筆ごとの診断カルテを作成します。これを使って、園地ごとのきめ細かい生産指導と経営支援を行うことにより、生産者個々のより一層の所得向上に繋げていきます。このようなミカン産地における情報インフラの整備は、産地全体の産地保証にも寄与できると考えています。光センサー選果機→→→→栽培情報台帳(平成○年度)光センサー選果機からの果実1個毎の品質情報を基に、一筆毎に情報の集計・分析を行う栽培情報台帳(平成○年度)→→→→一筆圃場カルテ(平成○年度)園地一筆毎(且つ品種ごと)のカルテの提示GISに取り込む各種データ→→→→GISを活用した園地カルテシステム気象条件・土壌条件・栽培管理履歴・生育診断・農地貸借希望・作業受委託一筆圃場カルテ(平成○年度)→→→→GISを活用した園地カルテシステム光センサー選果データおよび各種データを全てGISでリンクさせることにより、ミカン園を総合的に情報管理できるGISを活用した園地カルテシステム→→→→現地の圃場一筆ごとの処方箋の作成・提示○処方箋に基づく生産指導への活用 JA営農指導員、農業改良普及センターなど○高品質果実生産園地の要因分析○低位生産園に対する集中した生産指導○生産者の高齢化対策 優良園地の有効活用(農地流動化促進) 作業受委託システムの構築現地の圃場→→→→光センサー選果機生産技術へフィードバック農家の所得向上-------------------------------
2003年07月18日
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JR藤並駅近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいる間に、もう一方の車から試験場に着いたと連絡が入る。喫茶店のおばさんに道順を訊いて、我々も2時5分前に試験場へ到着した。和歌山県果樹試験場は今年の6月に再編整備が完了したばかりで、建物もめちゃ新しい。本館は白い壁、銀色の屋根のかまぼこ型の二階建てで、建物の前は広い駐車場になっている。玄関を入ると、靴箱とスリッパがある。土足厳禁だった。案内されたのは「応接室」で、テーブルの周りに座り心地の良い椅子が10脚ほど並んでいる。すぐに担当の方が現れて、研修が始まった。研究員のU田さんが、まず試験場の概要を説明してくれる。和歌山県果樹試験場は明治43年に発足している。同じ年に香川県も柑橘の試験を始めているので、おそらく国の方針でこの頃に各地に柑橘の試験場が造られたのだろう。現在は、「栽培部」と「環境部・農作物病害虫防除所」の2部制で、職員は研究職員17名、現業職員4名、事務職員1名の22名だそうだ。今回は、主に「栽培部」の、それも「GISを用いたカンキツ園地診断システムの開発」について研修するのが主な目的だった。いきなり横文字が出てきて、「おおっ!」と思われるかもしれないが、「GIS」とは「地理情報システム geographical information system」の頭文字を並べたもので、平たく言えば「地図上に各種情報を載せる方法」のことだ。それは解ったとして、何故ミカン農家が「GIS」なのだろうと訝る方もいらっしゃることだろう。この説明は少し長くなるかもしれない。tetywestが「熊本への旅」で書いたように、現在日本のミカン産地では「ハイテク選果機」による選果が主流になっている。あの時は消費者側から見たメリットについて書いたのだが、生産者側にもメリットがある。それは、ミカン一個一個の品質が数値で測定できるということだ。そのデータを園地ごとに集計すれば、どの園地のミカンが美味しくて、どの園地のミカンが美味しくないか、また、どの園地が隔年結果が少なくて、収穫量が安定しているか等を数値で表すことができる。そのように数値化した園地ごとの評価を地図上に表示できれば、産地全体の品質や収量の情報が一目瞭然でわかるわけだ。この情報を上手く活用すれば、産地全体のミカンをレベルアップすることができる。たとえば、地形や標高による品質の格差を予測して出荷時期を決めることができれば、その園地のミカンが最高の品質の時に消費者まで届けることができる。また、隣り合った園地のミカンに比べて極端に品質が悪ければ、その生産者の栽培管理に問題があるわけだし、逆に優秀な栽培管理をしている生産者も見つけることができるわけだ。今まで、いろいろなところで書いてきたように、tetywestはこれからの日本のミカン産地は中国との競争になるだろうと思っている。おそらくそれは日本側にとって厳しい競争になるだろう。しかし、その競争に打ち勝って残れる産地になるためには、もっと生産者の「QC(品質管理)」に対する意識を高めなければならない。tetywestの産地も「ハイテク選果機」を使っている。そして、そのときに「GIS」も同時に導入している。しかしデータの蓄積がまだ2年分しかないという理由もあるのだが、実際にそのデータを栽培管理にフィードバックさせるノウハウは、はっきり言ってかなりお粗末なのだ。tetywestたちが今年の研修を和歌山に決めたのは、現在この分野で一番進んでいるのが和歌山県果樹試験場だからだった。
2003年07月17日
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和歌山県果樹試験場へは2時に行けばいいのに、カーナビによると後30分もしないうちに到着してしまう。たっぷり1時間のゆとりが生まれたわけだ。その余った時間を使って、どこかのミカン産地を見ようということになった。なんと真面目なメンバーなのだろう(笑)。そこでtetywest、「途中にある下津やったらビワも作っとるし、ミカンも有名なんやけど、行ったことあるな?」と提案してみた。tetywestはもちろん、後の二人も行ったことがなかったので、すぐに下津に行くことに決まった。後から来るメンバーに携帯電話で、「こっちは今から下津へ行くきん、落ち合うのは2時に試験場な」と報告して、サービスエリアを出発する。あちらは、もう少しで岸和田サービスエリアに到着するところだそうだ。海南インターで国道42号線へ降りると、トンネルの多い道を海の方へ向かって走る。すぐに、道路の両側にはミカン畑が現れる。ミカン園は手入れがよく行き届いていて、廃園はほとんどない。さすがに一流産地だ。しかし、てっきりすぐに海岸線が見えるだろうと思っていたのに、一向に海が見えない。国道と海の間に小高い山が連なっているのだ。「確か、紀伊国屋文左衛門がミカン船を出したのは下津港やったよな?」しばらく走ると町並みが途切れ、西に伸びた半島に包み込まれるように港が現れた。こちら側も半島なので、港は一番奥まった場所になる。この地形なら風や波は半島にさえぎられるために昔から天然の良港として栄えたのも頷ける。下津のミカン山は、想像していたよりもずっと複雑な地形をしている。ミカン園は、南向きあり、東向きあり、北向きありと様々な方向を向いている。そして標高300m位までミカン園が連なっている。当然、同じミカンの品種でも熟期が違ってくる。このような産地ではミカンの品質をどのように揃えるのかが一番問題になるだろう。もう一つ気づいたことは、ミカン園の傾斜が急なことだった。この産地もtetywestの産地と同じように、国際化に対応した省力化のために大規模な基盤整備をするのはかなり難しいだろう。防風林はほとんど見えないが、一段ごとに防風ネットを張ってある園がちらほら見える。どちらかと言うと東向きの園に多いようだ。ミカンの実が小さい時期の東風の被害を防ぐためだろう。下津はビワの産地でもある。tetywestの産地とちょうど同じ時期に東果大阪へ出荷されるため、いわばライバル産地なのだ。しかし、車窓から見た限りではビワの樹はほとんど見当たらなかった。やがて国道42号線は、下津町から有田市に入る。ここは和歌山で一番有名なミカンの銘柄産地だ。有田川に沿った急斜面には見渡す限りミカン園が連なっている。ここも本当に廃園が少ない。日本のミカン農家は、こんな悪条件の土地を最大限に利用して日本人の食べ物を生産している。しかし後継者不足と高齢化が進む日本で、この立派に手入れされたミカン園が連なる風景をいつまで見ることができるのだろう。「ミカン山 ミカンがなければ ただの山」と捻ってみたところで、どうなるものでもないのだが・・・
2003年07月16日
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松原インターを過ぎた頃から交通量が極端に少なくなったと思ったら、SK君は快調にぶっ飛ばしている。ファミリアのスピードメーターは140km/hだった。さすが元暴走族(笑)、これでは厦門のK-1といい勝負だ。カーナビには、目的地までの距離と到着予定時刻が表示されるようになっている。環状線に上がったときには確か110kmで12時39分だったと思う。その数字がどんどん減っていく。37分、35分、34分・・・「絶対、到着時刻を12時30分にしようと思とるやろ?」「いや・・・そういうわけではないよ」と言いつつもスピードは緩めない。ここまで来れば、後は一本道なので間違いようがない。気持ちにゆとりができると、もう一台の方がどこを走っているのかが気になりだした。おそらく、順調に高速に乗っていれば我々より先行しているはずだ。SK君がぶっ飛ばしているのも、少しでも追いつきたいという気持ちの表れだろう。岸和田を越えて、関西空港へ分かれる泉佐野JCTにさしかかる頃になっても先行している筈のもう一台には追いつかない。到着予定時刻は12時30分を切っている。「これは、たぶんまだ後ろにおるで」と話が出たとき、ちょうどK君の携帯電話が鳴った。「え~、そうですか・・・はい」「こちらは関空へ分かれるジャンクションを過ぎた辺りです。紀ノ川サービスエリアで昼食の予定です」「・・・はい、わかりました」「どうやった?」「なかなか高速に乗れなくて、難波まで下を走ったそうです。今ようやく乗ったみたいですね」「ほんだら、こっちは予定通り紀ノ川でご飯にしよ」紀ノ川サービスエリアに到着したのはちょうど12時だった。レストラン「紀州てまり」は満席でしばらく待たされた。SK君とK君は、「和歌山に来たら、やっぱりラーメンやろ」とチャーハンとラーメンのセットメニューの「ハンチャン・セット」(なぜこの名前なのかは不明)。tetywestは、「和歌山に来たら、やっぱり茶粥やろ」と「茶粥セット」を注文する。しかし、tetywestにとっては初体験の食べ物だった。しばらくすると運ばれてきた「茶粥セット」は、陶器の釜に蓋がしてあり中身が見えない。蓋を取ると茶色の液体だった。傍らにある蓮華でかき混ぜると、底に沈んだご飯が浮かんでくる。お盆の上に小鉢があるので、おそらくそれに取り分けて食べるのだろうと、2~3匙すくって、そのまま食べてみた。《ううっ・・・・何じゃこりゃ》「茶粥」というだけあって、番茶(和歌山出身のshilfy1さんに「それは焙じ茶」と教えていただきました)で米を炊いたままの味だった。tetywestにとっては決して美味しいものではない。お盆の上には小皿がもう一つあって、梅干と味噌が載っている。おそらく、これらで好みの味付けにするのだろう。試しに味噌を少々加えてみた。《うん、これなら食べれそう》それを平らげて、今度は梅干を少しまぶしてみた。《おお、こっちもいけそう》それなら、いっそのこと両方を混ぜてしまえ。そのほうが面倒が少ないだろう・・・と、釜の中に味噌と梅干を全部入れてかき混ぜる。ふと気づくと、二人が心配そうに覗き込んでいる。「美味いん?」「味噌と梅干の絶妙のハーモニーでしょう、これは」と言いながら、さも美味そうに口に運ぶ。・・・・しかし、実際は期待したほど絶妙な調和ではなかった。どちらかと言えば別々に味わったほうが正解だろう。「そもそも、茶粥は質素倹約を奨励した徳川吉宗が広めたものやから、ラーメンよりはずっと歴史が古いんやで」と、いい加減な薀蓄で誤魔化すtetywestだった。ただ、お盆には「筑前煮」も添えられていて、これは文句なく美味しかった。で、「初体験の感想は?」と言うと、「茶粥セットはダイエット指向の健康メニューだ」ということだけは太鼓判が押せるのだが、正直な話、どうしてももう一度食べたいとは思わない。
2003年07月15日
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7月11日(金)tetywestは仁尾町果樹研究同志会に所属していて、同志会では1年に一度「研修旅行」に出かけることになっている。いつもの集合場所であるJA出張所に集まったのは6人だった。今回の旅行は3役であるM君とSY君が段取りをしてくれるので、tetywestはついて行くだけのお気楽旅行なのだ。10時14分に「ひかり」が新大阪駅に到着した。tetywestたちはこれから和歌山県果樹試験場へ研修に行くのだが、新大阪駅で改札を抜け階段を下りて、「駅レンタカー」の事務所に向かう。JRの「レール&レンタカーきっぷ」を使えば、駅レンタカーが1割引になった上に、全員のJR線の運賃が2割引になるのだそうだ。これはM君が経費を節約するために、インターネットを駆使して研究した行程だった。レンタカーはカーナビ付の白い「ファミリア」2台だった。3人ずつだと一体どのようにメンバーが分かれるのだろうと新幹線の中で話題になった。おそらく1台は「確実に試験場へ行くメンバー」で、もう一台は「ひょっとしたら試験場へ行くメンバー」だろうと言う結論だった。最初の車の運転席にドライバーをやる気十分のSK君が座ったので、tetywestはナビゲーターとしてお付き合いすることにして助手席に座った。後部座席に乗り込んだのはK君だった。さて、この組み合わせはどっちのメンバーなのだろう?係りの人からカーナビの使い方のレクチャーを受ける。電話番号による行き先設定はできなかった。仕方がないので目的地に一番近そうなインターを地図から選んで入力する。・・・と、SK君はすぐに走り出した。K君が、「後ろの車はまだ準備ができてませんよ」と注意を促すのだが、SK君は、「いや、知らん道を走る時は一緒に行動せんほうが安全なんじゃ」と、どんどん走っていく。「何ぞあったら、携帯で連絡してくるやろ」なるほど、それも一理ある。新大阪の駅前広場を出ると、カーナビが、「現在位置を検索しています」と、まともに動いていない間に、すぐに地下鉄御堂筋線に沿った高速に上がる。このまま南下すれば梅田付近で環状線に合流するはずだ。SK君は片道4車線の右から2番目のレーンを快調に飛ばしている。「あれ、道路に何か書いてあるぞ」と確認しようとした時既に遅く、車線変更禁止区域に入っていた。そこは下の道路に降りるレーンだった。信号待ちをしている間にようやくカーナビが働き出した。幸いに高速の真下の道路なので、しばらく走ればまた上に上がれるだろう。その時、カーナビの画面に別ウィンドウが開き、赤い矢印が左車線へ移動せよと教えてくれる。「コノ先、左方向デス」と音声ガイドまである。「この先、左らしいで」「ほんだら、あの信号やな」「たぶん・・・な」画面の地図と実際の道路の状況が若干違っているのが気になったtetywestだったが、ここはカーナビの言うことを聞いた方がいいだろうと思ったのだ。しかし、それが間違いだった。左折した途端、道路は地図とはぜんぜん違う方向に向かっている。「あ~、早速ミスコースや」「どうする?」「しばらくそのまま走って、どっかで右折しよ」「おお、曽根崎いう看板がある。大阪のど真ん中やないか」カーナビは、「コースを外れました。再度検索しています」しばらくして、新しいコースが画面に現れた。「こいつ、あんまり賢くないぞ」「カーナビに頼らんほうがええみたいやな。環状線の看板を探すわ」目視によって環状線の入り口の看板を発見し、何とか再度高速道路へ上がることができた。この間のロスタイム約10分・・・・ドライバーのSK君には余計な神経を使わせてしまって申し訳ないが、ミスコースのおかげで大阪の街の賑わいを感じることができたわけだ。お天気は梅雨の合間の青空で、エアコンが効いた車内はすこぶる快適だ。
2003年07月14日
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「マトリックス」の屋上で弾丸を避けるシーン。おそらく映画史に残る名場面でしょう。tetywestは「風と共に去りぬ」の家が焼け落ちるシーン、そして「地獄の黙示録」の地平線からヘリコプターが現れるシーンと共にベスト3にリストアップしたいです。「マトリックス」の凄いのは映像だけではありません。その発想そのものが凄いです。「マトリックス」を観てからというもの、時々、「今の世の中、もう既にマトリックス化してるんじゃないの?」と思うことがあります。たとえば、日本人が日本にいながら美味しいイタリア料理が食べれることに何の不思議も感じないのはマトリックスなのです。昨日のニュースなどもそうです。子供たちにとって仮想世界と現実の区別がつきにくくなっているのでしょうか。おっと、ホントはそういう話題を書きたかったのではありません。1作目の「マトリックス」で、モーフィアスがネオに「人間は電池なんだ」と説明するシーンがありました。人工知能を持った機械が人間をエネルギー源として栽培するという発想に思わず唸ったtetywestでしたが、時間が経つにつれて一つの疑問が頭から離れなくなりました。それは「なぜ、機械はエネルギー源として効率の悪い『人間』を使うのだろう?」ということでした。tetywestが機械なら、エネルギー源としてあのような莫大なコストをかけて人間に仮想世界を見せるようなシステムは造りません。火山活動でも、地中のマグマでも、核分裂でも核融合でも、もっとコストの安いエネルギー源はいっぱいあるはずです。「マトリクス・リローデッド」を観るとき、tetywestは特にこのことに注目していました。そして、その謎を解く鍵を一つ見つけたのです。マトリックスのシステムを造ったプログラマーが、確か「人類を滅亡させるのは今度が4回目だ」と言ったのです。これを聞いてtetywestは、機械文明は人間の文明に寄生する寄生虫のようなものじゃないかと考えました。つまり、人間がいなければ機械文明そのものが存続できないのです。莫大なコストをかけて人間を飼育しているのも、おそらく人間の体内で働く酵素のような役割として、人間の脳の働きを使わなければならないからでしょう。もう一つの疑問は、はたして機械が「種の保存本能」を持ち得るのだろうかということでした。しかし2作目になると、機械文明の裏側に一部の特権階級化した人間が見え隠れし始めましたので、「マトリックス」の世界はおそらく純粋の機械文明ではないだろうと思うのです。少数の人類が独裁を維持する手段として機械文明を使っている世界なのではないでしょうか。まあ、これはtetywest得意の「藪睨み」ですから・・・・当て外れかもね(笑)すべては「マトリックス・レボリューションズ」で明らかになることですし、「たかが映画に、それほど熱くなってどうするの?」と言われればそれまでなんですけど・・・・
2003年07月10日
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昨日に引き続き、「ふ~ん、それがど~したん?」という話題です(笑)毎日ミカンの木を相手に仕事をしていると、ミカンの木も生命体ですから、いつの間にかミカンの木がtetywestの人生の相棒のような気分になってきます。そして、動物と植物という全く違った生命体の共通性を考えたりするわけです。動物、植物だけでなく、地球上の生命体はタンパク質でできています。そして、ウイルスやバクテリアから人間まで、同じ構造のDNAで遺伝情報を伝えています。つまり植物も動物もバクテリアも元は同じものから別れて行ったのです。それでは現在の地球上で、植物、動物、バクテリアはどのような役割を果たしているのでしょう。いろいろなアプローチの方法があるでしょうが、エネルギーのサイクルから捉えると「生産者」「消費者」「分解者」という役割があります。植物は、太陽と水と土から「デンプン」や「糖」を作り、動物はそれを食べて生きています。バクテリアは、植物や動物の死骸を分解して再利用できるものにリサイクルするのです。別のアプローチでは、植物が酸素を作り、動物やバクテリアがそれを消費しています。太古の地球の大気には二酸化炭素が多くありました。そこに植物が繁殖して、二酸化炭素を使って酸素を増やしていったのです。しかし、酸素が多くなりすぎると、今度は植物自身にとって困ることが起こります。酸素が多い大気中では、たとえば風で木と木がこすれただけで山火事が起こるでしょうし、第一、酸素を作る原料の二酸化炭素が不足するわけです。そこで登場するのが、酸素を使って二酸化炭素を作る動物やバクテリアです。それからもう一つ、なぜ生命体が陸に上がって来れたのかというと、遺伝子にとって有害な紫外線を遮断できるオゾン層が形成されたからなのですが、これも植物がどんどん酸素を作ったおかげなのです。どちらにしても、植物がなければ動物もバクテリアも存在意義がないわけです。そうすると、地球上の生命体の中で一番偉いのは植物なのじゃないかと思えてくるのです。今われわれ人類は、地球上を支配しているのは人間だと考えています。しかし植物にしてみれば、動物やバクテリアなら別に人間でなくても一向に構わないのです。ただ、人間は「文明」とやらを駆使して、どんどん二酸化炭素を増やしてくれていますから、植物にとっては一番ありがたい存在なのかもしれません。人間の文明の歴史はせいぜい4000年です。地球の生命体の歴史の中でそれがどのくらいの長さなのかをわかりやすくするために、初めて植物が陸に上がった5億年前から現在までを1年とすると、人間の文明は大晦日の除夜の鐘が鳴る4分12秒前にようやく始まるのです。そう考えると、地球を支配しているのはtetywestたち人間ではなくて、植物であるミカンの木なのか・・・・
2003年07月09日
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昨日で「ルーヂャ第5号」も終わってしまいました。すっかり手抜きに慣れてしまったtetywest、今日からいったい何を書いたらいいのかちょっと悩んでいます。★ ★ ★ ★ ★自分では凄いことを思いついたと意気込んで話終えたとき、聞いていた相手に、「ふ~ん、それがど~したん?」と言われて、二の句が継げなくなるということがtetywestにはよくあります。今日の話題はその類です(笑)ビワの収穫は木に登っての作業です。しかし、ただ木に登ってビワを収穫しているだけでは面白くも何ともありません。そこで、「この労働にはどんなポジティブな意味があるのだろう?」と考えることにしました。以下はそのときに浮かんだ「木に登る意義」です。--------------------------「木に登るということは、普段の自分の視点と違ったところから世の中を見ることである」「物理的に一段高い視点は、人間の思考の更なる飛躍を引き起こす要因になるかもしれない」「したがって、木に登って考えたことは、普段考えることより素晴らしいのだ」「・・・・・・・・・・・・・・・」「それなら山に登っても効果は同じだろう」「しかし、標高が3000mを超えるような山はいかんだろう。なぜなら酸素不足で脳が働かない」「ただ、芸術家にとってはそのほうがいいかも知れない。幻想を形にするのが仕事なのだから」「そうすると、アーティストは富士山に登るべきである」--------------------------tetywestがそのとき到達したのは、「木登りという作業は究極の『3K』である」という結論でした。
2003年07月08日
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《編集後記》中国では小麦の不作、北朝鮮では食糧不足、ブラジルの干ばつ等でシカゴの穀物相場は高騰。平成米騒動では「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の食糧問題がここにきて俄然グローバルになってきた。さあ、いよいよ世紀末。しっかりと成行きを見届けようではありませんか。 (Y・T)昨年の暮れ、猪熊美術館でマーク・ロスコ展をみた。作品から迫ってくる空気に二日酔いにかかってしまった。久々に良い美術展だった。 (鎖骨)恥多き人生を振り返ると 冷汗たらたら雨降りぼうず見えず聞こえず伝わらず進むことより止(とど)まりて後向きにて歩むなりよって断筆あいなり候 (河井継之介)昨年はオウムと地震の年であったがわが地区は平和な1年であった。トンネルも順調に貫通し隣の町の風が吹き込んでくる。わが町からは潮風が吹き込むのでサビに気をつけて貰いたい。ここからトンネルを掘り進んだのかとふ~と上を見上げると何と領空侵犯?山の頂上に道があるではないか。隣町からわが町に攻めてきている?山上の地権者を集めての説明会・・・なーんだ森林公園みたいなのを作るらしい。アホらしいけど一応平和な風景である。こんなに平和でいいのだろうか。隣近所のケンカくらいでは事件にもならない。児童対策・農業対策、何もしないということはそのまま平和につながるの???この平和を守っていこうとする風潮こそ大事件であるような気がするゾー。その昔「何もしないでー生きてゆくなら、それはたやすいことだけれどー」という歌があった。反戦歌で発売禁止となった。児童対策は若者対策だ。子供はたぶん親が産んでいるのであるからツガイの♂と♀が巣を作り易い環境にしなければいけないんとちがう?農業対策、当地は果樹産業をどうするべー。何を目標にしようか。明治からの百年余りの歴史があるそうな。歴史だけではメシは食えねーぞ。とにかく若返るべき。樹も人も(心が若返るということ)土も若返らなければ。国や県や町が事業を準備して税金を使えやと金を差し出してくれている(6兆円)。これを最大限かつ有効に使わせて頂かなければ、これこそ大事件だ。ここ数年のみんなの動きが将来に向かって生きていけるかどうかの瀬戸際なのだ。だからみんな一緒に考えよーっ。本誌は色々な意見を待っている。建設的であれば問題があってもいいし、大切なのは堂々と問題を提起することなのだ。よって原稿募集、致します。 (YY・ガヤガヤ) ☆ ☆ ☆1996年1月5日発行通巻第5号企画・編集 世紀末農民倶楽部(香川県仁尾町曽保)
2003年07月07日
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アヴァンギャルドの方法 (第一回) 勅使河原 銀之丞 実はこの連載、はじめは「農のダンディズム」というタイトルでいこうと思っていたのだが、先日『地上』という雑誌を見ていたら、山下惣一(註1)という斜陽農民が「農のダンディズム考」という似たようなタイトルでエッセイをやっている。で、同じタイトルというのも面白くないし、特に山下さん(さんづけで呼べと本人が言ってた)と同じというのが気になる。そこでなにかいい題名はないかと考えようとしたのだが、それも面倒くさいので、もうこれでええわ、と妥協したのが「アヴァンギャルド農民の方法」。原稿用紙に書いてみるとちょっと長ったらしい。「農民」をとって「アヴァンギャルドの方法」にした。 で、どういうことを書くかということはまたの機会にして、今回一言だけ言わせて貰えるなら、最近流行りの農業のイメージがタフでワイルドな印象を与えているのに対して、もっとスレンダーでヴィヴィッドな感覚でせまってみようかと考えているのでR。 いきなり、今年の一月の話。 友人のR子(四十二才くらい ♀ 独身)は、正月休みを利用して兵庫県のM市へ大学時代の友人W山F子を訪ねた。F子は三人の子持ちで、夫と二人で居酒屋を経営している・・・と書くと平和で平凡な家庭を誰もが想像してしまうが、なかなかそううまくはいかないらしい。居酒屋のビルの借金に追われながら、そのビルの所有をめぐっての裁判で、暫く前から家の中はごたごたと取り込んでいるのだった(詳しいことは省略)。 あらかじめ事情を知っていたR子は、少しおじゃまをして帰るつもりだったが「是非泊まってって」と繰り返すF子の強い言葉に、ついに甘えることになったのである。 その日は一段と寒かった。居酒屋を早めに閉め、電車を乗り継いでM市の郊外へ。都会の喧騒とは裏に、無数の人々の生活の匂いが夜の冷気の中でひっそりと漂う、そんな空気にひたりながらR子はW山夫妻の後を引かれるようにして歩いていった。 アパートの玄関をくぐると、いきなり子どもたちの騒々しい声が聞こえてきた。悪ガキ三人いれば家の中はパニックみたい。叫び声がする。物が飛ぶ。そのうち泣き出す。まるで戦場だわ。そんなことを考えながら、飛び交う弾丸を避けるような思いで夕食をごちそうになるR子。 やっとのことで夕食も終わり、そのうち子どもたちも疲れて眠りにつくと、学生時代の懐かしい話などする間もなく、今度は大人たちの深刻な話が始まる。案の定、話題は借金と裁判の話。時折訴えるような口調になるF子、顔をひきつらせながら笑顔をつくろうF子の夫に、R子はすっかり同情してしまうのである。幸福はここにもない。どこにでもありそうで、どこにもない、ありふれた幸福・・・と、こんなことをR子が考えたかどうか知らないが、二人の話を聞きながら漠然と眺める視界の中に、R子は一つのことに気づいたのである。 この時期の日本なら、とりわけ東京から西の地域であれば、どこの家庭にでもおいてあるみかんがこの家にはない。寒い外から帰って来て、やれやれと思いながら炬燵に入った時、目の前にあるのは炬燵の上のざるに盛られたみかん。日本の家庭なら当り前のようなこの光景がここにはないことにR子は気づいた。そうだ、あの紅い、暖かな色をした物体が、この厳しい状況の家庭の、冷たいコンクリートのアパートの一室に、せめて二個でも三個でもあれば、家族の心をどんなになごましてくれるだろう。 そして次の日、夜九時過ぎに観音寺に帰ってきたR子は、すぐに知合いのアヴァンギャルド農民にTELした。 「いやあー、銀ちゃん、・・・かくかく・・・しかじか・・・というわけで兵庫県にみかん一箱送ってくれんの。銀ちゃんとこで、いっちゃんええやつな。」 あくる朝一番に私は、ヨハン・セバスチャン・バッハのマタイ受難曲が鳴り響くみかん貯蔵庫で、かの有名な(ん?)、知る人ぞ知る(えっ?)、ミス・ユニバースも食べている(おっとー!)、志度音楽ホールの監督も狂喜した(どひゃーっっ)というスーパー・アーティスティック温州みかん「エウリディーチェ」(註2)を、一個一個厳選して荷作りを始めた。 偏平形の物体を一つづつ触りながら、私は「ナルホド」と昨夜のR子のTELを思い起こしていた。ナルホド、寒々とした灰色の冬の空の下で、この物体は独特の色彩を放っている。オレンヂ色ともだいだい色とも違う、あえて「みかん色」と書こう。で、そのみかん色のみかんが放つみかん色の光は、今までそんなに気にもとめなかったけれど、日本人の心を、とりわけ凍えてちじかんでしまいそうな時にこそ、人の心をほっとさせてくれる。そんなことを考えていると、この偏平形の鮮やかな色の物体が妙に神々しく見えてきたりもする。 ペリカン便で送られたみかんは、翌日には兵庫県のM市に着いたことだろう。おそらく都会の冷やかな、薄汚れたアパートの一室で、あのみかんたちはしかるべくして存在しているに違いない。 このことがあってから何日か後に、大地震が兵庫県を襲った。M市は大きな被害はなかったものの、何日もの間電気も水もストップしたらしい。停電した真っ暗闇のアパートの中で、あのみかんたちがどんな風に輝いていたのかは、自由な想像の領域としておこう。註1: 山下惣一氏には九○年の秋に仁尾へ来て講演をして頂いたが、九三年の『農業香川』九月号に載せた彼の文章は多くの読者を落胆させた。註2: 現存する最古のオペラ「エウリディーチェ」(一六○○年初演、フィレンツェ)より名を拝借した。〔追〕 独特の感覚で果実を捉えた短編を二つ紹介しよう。 芥川龍之介 『蜜柑』 梶井基次郎 『檸檬』
2003年07月06日
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【連載エッセイ】誰が為に金は成る (第五回)平 民永 以前に、旅をする目的はカルチャーショックを感じるためだと書いた事があるが、今回は実際にカルチャーショックを体験した話を書こうと思う。先日二十年ぶりにUSAへ出かけた。UA航空は行きも帰りもオーバーブッキングで超満席。行きはそのおかげでビジネスクラスへ回されて美味しい食事とゆったりした席を与えられるという幸運に恵まれたが、帰りは300ドルのフリー切符をあげるからと5時間遅れのソウル廻りに替わってくれるお客さんを1時間以上捜していた。これが日常茶飯事のお国柄だというのをすっかり忘れていた。ロスアンゼルスのダウンタウンは5時を過ぎるとゴーストタウンになる。ホテルや銀行が立ち並ぶ地区からほんの500メートル先はもう治安が悪くて旅行者は行かない方がいいという。そんなバカな。昔は賑やかだったのにと、夜中にレンタカーで走ってみたが、やはり異様な雰囲気だった。商店は全部閉まっていて人通りは全く無いし、車もろくに走っていない。黒人が4~5人かたまってたむろしている。建物の壁はそこらじゅう落書きで汚れ、窓ガラスも割れたまま放置されていて、人が住んでいる気配もない。白人はロスアンゼルスのダウンタウンを捨てて、郊外へ新しい街を作っている。土地がいくらでもあるUSAだから出来ることだろうが、実際に目にすると相当ショックだった。そういえばロスアンゼルスのダウンタウンの高層ビルは日本資本の所有が多いそうだが、これでは儲からないのではと心配になった。泊まったホテルもかつては「ヒルトン&タワーズ」と呼ばれていたが、今年から「オムニ」と名前を変え、泊まっているのは日本人と韓国人ばかり。ロビーが2フロアある格調高いホテルなのに、会議室やカルチャーセンターは閉鎖されていて何となく寂しそうな雰囲気だった。ロスアンゼルスと対照的に活発な雰囲気を感じたのはサンディエゴ郡だった。ロスから南へ200キロ下ったサンディエゴを中心に、リゾート開発がものすごい勢いで進んでいた。国道5号線を走っていると、オレンジ色の瓦屋根にクリーム色の壁のメキシコ風の宅地が丘一面に建てられているのを、あちこちで見かける。昔は茶色い岩肌が露出した荒れ地だったところが開発されたのだ。またトレーラーハウスばかりの街も各所に作られていた。これらの街はリタイヤした人たちが住むためのもので、私のいた町も人口は二十年前と比べて2倍に増えていた。それにつれて、二十年前よりもっと大規模なショッピングセンターが建てられ、買い物はそこへ車で出かけて済ませる生活様式がすっかり定着している。やがて日本もこうなるのだろうか。買い物と言えば、今度の旅行での最大のショックは「日本の物価は世界一」だった。USAのレストランでキリンの中ビンが1$90¢(輸入品ですよ)スーパーではビールが350㏄で1缶72¢(消費税込み)レンタカー1日トーラス・クラスで7000円(保険込み)ニューヨークステーキ+コーヒー+サラダで3000円(一流レストランでチップ込み)タクシーで22キロ走って3500円マクドナルドでハンバーガーとコークで185円板チョコ20cm×10cmが178円ジーンズ2000円から2200円Tシャツ1200円から2000円・・などなど。数え上げればきりがない程だ。賃金の方もそれに伴って安く、最低料金は1時間当たり4$29¢。かつて私が働いていた当時は3$10¢だったから、20年間で1$しか上がっていない。当時の為替レートでは1$が300円だったから、日本から見れば逆に賃金が半分になっている事になる。20年前のアメリカの農業を体験して感じた事は、将来の問題として賃金の高騰のために国際競争力を失うだろうと言う事だった。しかし為替レートというマジックを使うと、そのまま現在の日本に当てはまるようになってしまった。基盤整備が不十分で、自給率が少ない分だけ日本の方が深刻な問題だという気がする。USAの賃金の値下がりは10年後の日本の姿を見ているようで、おみやげの安さを素直に喜べなかったのは私だけだろうか。
2003年07月05日
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2003年07月04日
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大江健三郎に捧ぐ バランスシート ノーベル文学賞おめでとう。マスコミがフィーバーし、書店に貴方の本がずらりと並びベストセラーになった事まことに喜ばしい。また今度は貴方の息子光君を描く映画が巨匠伊丹十三で映画化されたとか、正に飛ぶ鳥を落とす勢いで甲子園の応援歌「ああ栄光は君に輝く」であります。すごい作家がいるものだなあ(名前は知っていたが難解な文章を書くそうで読んだことはない)とマスコミ同様同じ日本人として嬉しく思いましたが、その後に文化勲章を拒否したと聞き、なぜだろうと思い新聞を読むと「戦後民主主義に育った者であり国家と結びついた文化勲章は似合わない」と言ったそうな。国家と結びついたとおっしゃっても、それを決めた内閣は国会で選ばれ、国会議員は国民が選んだものでしょう。その国民が与える賞は拒み外国で出される賞は受ける、貴方いったい何人と聞きたくなった。 それに貴方のストックホルムでの受賞講演を読み二度ビックリ。全文日本をおぞましく愚かで残虐な国と語り、反対に西洋を輝く素晴らしい国とほめ讃えている。多くの国の人が読み聞くであろう講演にかくも自分の母国を辱める人間が他にいるのだろうか。「破壊の狂信から戦争を始めアジアを侵略して人間の正気を踏みにじった。日本の軍隊の犯した非人間的な行為を苦痛とともに償いその上で和解を心貧しく求める」要約すればその様な事を(まわりくどい言い方なので訳りにくい)彼は言ったらしい。何もかも全て日本が悪うございました、私が心優しい文化的な私が愚かな国民にかわっておわびいたしましょう。こういう論調なのである。それも西洋はその点素晴らしいと西洋崇拝をちらつかせながら。なぜこの男がノーベル文学賞を貰えたのか、すごく疑問に思った。ノーベル賞そのものに対しても。
2003年07月03日
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まんだら 糞味噌 一緒○夏の寝苦しい夜、東空にぽっかり浮かぶ満月を見ていると、何の為に俺は生きているのだろうという無常観。青臭い事を考える。あれこれ考えた挙げ句、死ぬ理由がないからだという消極的理由に至ってしまった。しかし今から五十年前の若者の多くには死ぬ理由がありました。自分が死ぬ事によって家族、戦友を助ける事が出来る。そう信じて死んでいった。自ら望み身辺の整理をし、最後の別れをし、あっさりと気抜けするほど静かに死ぬ為に出かけていった。○彼らの滅私奉公、滅私報国のおかげで世界に誇る平和憲法を有する、まだまだ住みやすい日本になれたのだと考えます。ところが戦後五十年の記念すべき年に(以前からあったが)一国の代表たる総理大臣が「あの戦争は侵略でアジア諸国に多大の苦しみを与えた。謝罪する」との追悼の言葉あり。それでは国のために戦って日本の礎となった人たちは戦犯なのでしょうか。誰が好き好んで家族や恋人や友人と別れ、遠い他国で、何の恨みもない人たちと殺し合いをするのか。夢も希望もいっぱいあったのに、愛する国のために戦場へ行ったのか。そんな人達に侵略であり無意味な戦争だったと言えるのか。 戦争が悪い事は子供にも訳かる。戦争を肯定するのではなく、戦争を二度と起こさない為に、単に謝罪するのではなく、戦争の本質を見抜くことが必要かと思います。○国と国との争いの因はいろいろだし、双方に相当の大義名分があるでしょう。それはひとまず置き、戦争とはどういうものか考えましょう。他国を攻めて占領(陣地の奪い合い)する、その為には敵兵を一人でも多く殺す、味方の損失は最小限にしたい、その為に兵器を駆使する、長期化すれば消耗戦となり、とうとう一般市民を巻き込み泥沼化し、国土を焦土と化す。広島と長崎に投下された原爆により殺戮と破壊の嵐はおさまった。敵も味方も幾万の兵を失い、家族は悲嘆にくれ、影も形もなくなった自分の家のあたりをさまよう。何年か経ち「あの戦に勝者も敗者もなかった、どちらも敗者だった」と気付く。戦争経験のない戦後派の無責任な想像はこの程度ですが、要はどこの国がどんな素晴らしい(そんなものはないが)大義名分を持ち出して始めたところで、侵略であり、破壊であり、殺戮であるという事です。一人一人の国民が反省と不戦決意を持てばいいので(現に持っていますが)五十年経った今、あえて各国に出向き謝罪する事が本当に必要なのでしょうか。おまけに憲法に戦争の放棄、不戦の誓いを明記しているにも拘わらず、国会で不戦決議をしようと総理はおっしゃる。それ程国民を信用できないのか、それ程日本国民は愚かなのか。五十年前死に傷ついた者達のおかげで生き残り、経済大国となった日本丸のかじをしっかり取っていただきたいと思う。
2003年07月02日
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※明日と明後日の「ルーヂャ第5号」は、袋とじの中に書かれてあります。「袋とじ読者心得」をよくお読みになって、自己責任でアクセスをお願いいたします(笑)
2003年07月01日
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