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母が亡くなった。86歳だった。4人きょうだいの末っ子の私はやっぱり甘えん坊だった。わがまま言って父に怒られると、いつもかばってくれた。小学校1年生まで日曜日の朝だけ母の布団にもぐりこみ、おっぱいをねだった。病気がちの父、頑固な父。ワンマンな父。苦労続きの人生であった。しかし子育てがひと段落すると車好きの父に付き合ってあちこちドライブしていた。沖縄やら東京やら方々に旅行に出かけていた。趣味は短歌だった。地元の短歌会に所属しいつもペンを離さなかった。就職したての私に詠んでくれた歌、「赤となる シグナル多き道程を 子よ急ぐなかれ 旅は遥けし」事あるごとに私は口ずさんでいた。にもかかわらず私はいつも走り続けていたような気がする。色紙に短歌を書き、ちょこっと絵を添え始めた。だんだん夢中になっていつのまにか趣味の中心は水彩画になっていった。絵の先生のことを心から尊敬していた。友達づきあいが好きで大正琴も習い始めたが、こちらは長続きしなかった。晩年、認知症の進行によるものだろう。何に対しても興味を失っていった。あんなに好きだった短歌も絵も「ボケ予防に」と勧めても、「めんどくさい・・」と向かおうとしなくなった。特に父が亡くなってからというもの気力は失せ、食欲がひどく落ちた。認知症が進行し、疑心暗鬼に陥り、母を責め続けた父を文句一つ言わず介護し続けた母。その張りが一気になくなったからであろうか。あんなに苦労をさせられ続けた父であったのに、すべてをゆだねる昔ながらの母だった。子孫が認識できなくなる直前「ばあちゃんは幸せだった。父ちゃんはいろんなところに連れて行ってくれたし、4人の子どもは立派になったし、孫もこんなにできたし。ありがとうね・・」と言ってくれたこと。昨晩通夜、今日午前11時自宅出棺、午後1時30分から葬祭センターで葬儀、2時30分出棺、3時には「骨」になってしまう母。覚悟をしていたとはいえ、「その時」がくるのが辛い。さようなら、かあちゃん。
2011.05.13
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T君とは駅前広場で再会した。そのときに同席していたのは3人。「親友」のH君、同級生のA君、O君である。心配になったのは、T君ではなく、むしろこの3人であった。中学校時代の「荒れ」についてたびたび耳にしていたが、小学校の教師としての関わりは難しかった。この3人がN中学校の「ワースト3」だと生徒指導から聞かされていた。勉強がからっきしダメで学校は苦痛の場でしかなかった。学校の教師にも逆らったが、むしろ学校から逃げ出し、家にも帰らず、たまり場を求めて徘徊していた。3人ともいちおう受験はした。しかし県立高校も私立高校もすべてアウト。学力だけなら拾ってくれる高校もあったが、あまりの素行の悪さが受け入れ拒否の理由となった。H君はそれでも夜間にすべりこみ、昼間は左官をしている。A君は高校をあきらめ、鉄筋工をしている。問題はO君。働く気も何もなく、ぷー太朗を続けている。お母さんとは何度も話をしてきた。悩みの種だった。H君はまだ高校にひっかかったため、ちょっぴり「高校生らしい」格好をしていたが、A君とO君はぶっ飛んでいた。髪も服装も。でも・・・話をすると小学校時代のまま・・。敬語だってちゃんと使える。見た目で判断してしまう大人の一人が私自身だった。気がつくと、再会したT君より、むしろA君とC君に近況や将来の展望を聞く私がいた。なにしろT君は温かい家庭に引き取られ、全日制の普通科高校にまじめに通っているのだから。途中、朝から酒が離せない酔っ払いの中年二人に絡まれたが、私が間に入るまでもなく、少年たちはうまくあしらっていた。T君と話していたとき、C君が警官二人を連れて戻ってきた。駅前の交番に通報したらしい。「酔っ払いに絡まれて困っています」とかなんとか言ったらしく、確かに酔っ払っている中年は、警官に説教され、しょんぼりしていた。何度も警察のお世話になってきたというH君、そのたびにT君の居場所を尋ねていたという。心に何か満たされない空洞がある3人。T君よりも心配になった。私にできることは限られているが、T君とともに、連絡を取り合おうと思う。
2011.05.08
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ずっと以前、2009年の初め頃から数回に分けてアップした、教員30年の私にとって最も衝撃だった出会いと別れのレポート。3年、4年と2年間担任したその男の子T君と再会した。今高校1年生。彼の父親は、内縁の妻を殺害し、遺棄した罪で刑務所に収監され、数年後に亡くなった。酒の飲みすぎで、肝臓を患っていた。その後T君は、1年生の妹とともに県内の児童養護施設で過ごすことになり、転校していった。元担任の私にも所在は明かにされなかった。今回の出会いのきっかけを作ってくれたのは、彼の親友とも言うべきH君。彼は中学時代ずっと荒れていた。担任ではなかったが、何度か母親に相談され、話をしてきた。その中で彼の心の傷となっていたのがT君との突然の別れであった。荒れると母に叫んだという。T君に会わせろ!困った母は私にT君の居場所を教えてほしいと言った。しかし私には何の情報もない。確かに県内児童養護施設は数箇所しかなく、探せないこともなかったが、今会わせることはお互いにとって良くないとの判断もあった。そして今年転勤。ばたばたしている私のところへその母親から電話が入る。T君の居場所がわかり、今度息子に会いに帰ってくるというのだ。今いるところは県内ではあるが、100Kmほど離れていた。担任だった私にも会いたいという。そして昨日、わずかな時間であったがH君とともにT君と再会。ちょっぴり太っていたT君はすっと背が伸び、好青年になっていた。敬語だってちゃんと使える。あれからしばらくして、事情あって大阪に一時期いたが、自分を引き取ってくれる人が見つかり、地元に帰ることになる。それから猛勉強して希望する高校に入ったという。それは、県内でもまずまずの偏差値がなければ入れない高校だった。はにかみながら、優しくからるその口調は、引っ込み時間で、何にも自信がなさそうなその当時の面影そのままだった。彼とは連絡先を交換し合った。別れたあと、早速メールが入った。「今日は来てくださって、ありがとうございました。またメールします」。予想だにしなかった再会。私にまで会いたいといってくれたことが無性にうれしい。時期を考え、彼の心情を思いながら少しずつ父親のことを語ろうと思う。彼の父親はひどいやつだった。でも、いつでもT君のことを大切に思っていた。私に対するクレームは、目に入れても痛くないといった「バカ親」だからこそのものばかりだった。一人も身寄りのない彼にとって、犯罪者であっても父親は父親。記憶をたどり、編みなおし、未来に進むことがとても大切な時期に入ったと思う。
2011.05.04
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