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2005.09.20
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テーマ: お勧めの本(8159)
カテゴリ: 村上春樹
『ブルータス』に「僕」の名前と写真が載ったことで、
中学や高校の同級生たちがジャズ・クラブ『ロビンズ・
ネスト』にやってきました。そして11月初めの月曜日の
夜、「僕」は、綺麗な女の客が来ていることに気がつき
ます。彼女は、青い絹のワンピースの上に、淡いベージ
ュのカシミアのカーディガンをかけて、ワンピースの色
に似たバッグをカウンターの上に置いていました。とて
も自然に寛いでいて、まわりの空気によく馴染んでいま
した。カウンターに頬杖をつき、ピアノ・トリオの演奏

少しずつ飲んでいました。9時すぎから激しい雨が降り
始め、客足がとまると、彼女は「僕」のほうにさりげな
くやってきて、隣のスツールに腰をかけて、「僕」に話
しかけます。

「素敵なお店ね」

そのとき何かが「僕」を打つのが感じられました。胸の
中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がして、
「僕」は、「これはあの吸引力なのだろうか?」と考え
、しばらく彼女と会話をかわすうちに、彼女が島本さん
であることに気づいて、混乱します。

「ねえ、ハジメくん。正直に言うと、私はここに来るこ

迷って、悩んでいたの。でもせっかくあなたの住所がわ
かったんだから、ちらっと姿を見るだけでもいいからこ
こに来てみようと思ったの。もしあなたが私のことにず
っと気がつかなかったら、そのまま黙って帰ってしまお
うと思っていたのよ。でもどうしても我慢できなかった

」

「あなたのことをあそこからずっと見ていたの。最初の
うちはなんだか別の人みたいに見えたの。すごく大きく
なっていたし、スーツも着ていたし。でもよく見ている
と、ちゃんと昔のハジメくんだった。ねえ、知ってる?
あなたの動作って、十二のときからほとんど変っていな
いみたいよ。手の動かし方とか、爪先でこつこつ何かを
叩く癖とか、気むずかしそうに眉をひそめるところとか
、昔からぜんぜん変ってないんだもの」

「僕」は、島本さんに「ずっと会いたかった」と告白し
、彼女も「私もあなたに会いたかったのよ」と応えます
。

「本当のことをいうと、私は中学校に上がっても、高校
に上がっても、大学に行っても、友だちというものが一
人もできなかったの。どこにいてもいつも一人だった。
だから私はいつもそばにあなたがいてくれたらどんなに
いいだろうって思っていたの」

島本さんは、「僕」のこれまでの人生について聞いたあ
と、バッグを手に取り、「僕」に送られて、店を出ます
。

「おやすみなさい。あなたに会えてよかった」

それから毎晩「僕」は『ロビンズ・ネスト』のカウンタ
ーに座って、本を読みながら、島本さんが来るのを待っ
ていました。でも、彼女はやってきませんでした。クリ
スマスが過ぎ、一月が終わり、「僕」は彼女を待つのを
やめます。ニ月の初めの、音のない、凍てついた雨の降
る夜に、彼女はやってきました。彼女は、「僕」から、
お店の経営の話を聞いていましたが、ずいぶんあとで、
こう切り出します。

「ねえ、ハジメくん。あなたどこか川を知らない? 綺
麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、川原が
あって、あまり淀んだりせずに、すぐに海に流れ込む川
。流れは早い方がいいんだけれど」

「僕」は驚きますが、しばらく考えたあとで、学生時代
に行った石川県の川を思い出します。島本さんが「私を
そこへ連れていくことはできる?」とお願いすると、
「僕」は、少し考えてから承諾し、有紀子に嘘をついて
、次の日曜日の早朝、羽田空港から石川県へ向います。

川に着くと、二人は上流に向けてゆっくりと道を歩いて
いき、静かな場所を見つけます。島本さんは、ショルダ
ー・バッグから小さな壷を取り出し、中の灰をゆっくり
と左の手のひらの上に落とし、灰を人差し指の先につけ
て、そっと嘗めてから、川辺にしゃがんで、その灰を水
に流し、その水の行方をじっと眺めます。

「「雨になるかしら?」と島本さんは言った。僕は空を
見上げた。「まだしばらくはもつだろう」と僕は言った
。「ちがうのよ。私が言っているのは、あの子の灰が海
に流れついて、それが水に混じって蒸発して、それが雲
になって、そして雨になって地上に降るのかしらという
こと」僕はもう一度空を見上げた。そして川の流れに目
をやった。「あるいはそうなるかもしれないね」と僕は
言った」

レンタカーで空港に向う途中、「僕」は島本さんの様子
がおかしいことに気づきます。顔は紙のように真っ白で
、何かを塗られたみたいに不自然にこわばっていました
。目には表情がなく、瞳の奥は死そのもののように暗く
冷たく感じられます。「僕」は、島本さんのバッグの内
ポケットから薬の紙袋を見つけ、雪を自分の口で溶かし
て、その水を口移しにして薬を呑み込ませると、十分ほ
どで、彼女の頬に赤みがさしてきました。

「「あなたは誰にでもこんなに親切なの?」「誰にでも
じゃない」と僕は言った。「君だからだよ。誰にでも親
切にするには僕の人生は限られすぎている。君ひとりに
対して親切にするにも、僕の人生は限られているんだ。
もし限られていなかったら、僕はもっといろんなことを
君にしてあげられると思う。でもそうじゃない」島本さ
んは僕をじっと見た。「ハジメくん、私はあなたを飛行
機の時間に遅らせるためにわざとこんなことをしたわけ
じゃないのよ」と島本さんは小さな声で言った」

空港に着いたときには、飛行機の搭乗時間はもうとっく
に過ぎていましたが、エンジン整備の関係で、飛行機は
、まだ乗客を乗せていませんでした。やがて雪が激しく
降りはじめ、飛行機が飛ばない可能性が出てくると、島
本さんは自分に言い聞かせるように静かな声で言います
。

「こんなことが起こるだろうというのはわかっていたの
よ。私がいると、そのまわりでは決まってろくでもない
ことばかり起こるの。いつものことなの。私が関わるだ
けで、何もかも駄目になっていくの。それまでは何の問
題もなく運んでいたものが、突然みんなうまくいかなく
なるの」

そのうちに「僕」は、自分が本心では飛行機が飛ばない
ことを期待していることに気づきます。「僕」は心の底
で、「僕」と島本さんが二人でここに来たことが妻にば
れてしまい、ここに島本さんと二人で残り、流れのまま
に身をまかせてしまうことを望んでいました。

飛行機は1時間半遅れて離陸し、「僕」は、飛行機の中
で島本さんの肩に腕をまわして抱いていました。「今日
のことは本当にありがとう」と言った島本さんの唇は、
もう一度あらためて「僕」を求めているように見えまし
たが、「僕」はなんとか踏みとどまります。青山一丁目
の角で彼女が車から下りてしまうと、「僕」は世界が一
瞬がらんどうになってしまったような気がします。

春が来るまでの二ヶ月間、「僕」は島本さんと毎週のよ
うに会っていました。東京の街の中では、島本さんは以
前のクールで魅力的な笑顔を取り戻していました。島本
さんの中には彼女だけが引き受けている孤立した小世界
があって、「僕」は、そこに入っていくことはできませ
んでした。その世界への扉は一度だけ僕に向けて開きか
けましたが、今では閉じてしまっていました。

四月の半ばに島本さんがまた姿を消すと、「僕」は、ひ
どく手持ち無沙汰な気持ちになり、家の中を意味もなく
歩きまわり、街を歩きまわります。落ち着かない日々が
何週間かつづいたあとで、神経を仕事に集中させます。
頻繁にプールに通い、休みなしで二千メートル近くを泳
ぎ、そのあとに階上のジムでウェイトリフティングをや
りました。夏になると、週末は箱根の別荘に行って子供
たちと過ごし、夜になると有紀子を抱きました。これ以
上快適な生活は「僕」には思いつけませんでした。

「でも島本さんが姿を見せなくなってしまうと、ときど
きそこはまるで空気のない月の表面のように感じられた
。眠れない夜には、僕はベッドの中でじっと横になった
まま、雪の降りしきるあの小松空港のことを何度も何度
も何度も思い出した。島本さんはベンチの上で、自分の
両肘をしっかりと抱え込むようにしてじっと座っていた
。彼女はネイヴィー・ブルーのピーコートを着て、マフ
ラーを首に巻いていた。その体には涙と哀しみの匂いが
漂っていた。僕は今でもその匂いを嗅ぐことができた」

秋がやってきたときには、「僕」の心はもうほとんど定
まっていました。こんな生活をこのままずっと続けてい
くことはできない、と「僕」は最終的な結論を出します
。

その日は午後七時には雨が降り始めていました。ひそや
かに、でもしっかりと腰を据えて、長く降り続きそうな
秋の雨でした。「僕」が九時過ぎに店の傘をさして『ロ
ビンズ・ネスト』に移ると、九時半に島本さんがやって
きました。「僕」は、島本さんに切り出します。

「君を見ていると、ときどき遠い星を見ているような気
がすることがある。それはとても明るく見える。でもそ
の光は何万年か前に送りだされた光なんだ。それはもう
今では存在しない天体の光かもしれないんだ。でもそれ
はあるときには、どんなのよりリアルに見える。君はそ
こにいる。そこにいるように見える。でも君はそこにい
ないかもしれない。本当の君はどこか余所にいるのかも
しれない。あるいはもうずっと昔に消えてなくなってし
まっているのかもしれない。僕が手を伸ばしてたしかめ
ようとしても、いつも君はすっと体を隠してしまうんだ
。ねぇ、いつまでこういうのが続くんだろう」

「おそらく、当分」と言って、島本さんは微笑み、綺麗
な包装紙にくるんで赤いリボンをつけたプレゼントを
「僕」に手渡します。それは、昔二人でよく一緒に聴い
たナット・キング・コールのレコードでした。「僕」は
、島本さんに、今から箱根の別荘に行って、二人でこれ
を聴かないかと誘い、箱根の別荘へBMWを飛ばします
。

「ハジメくん、あなたが運転しているのをこうして横で
見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思
い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら
死んじゃうでしょうね。私と一緒にここで死ぬのは嫌?
」

別荘に着くと、ガス・ストーブで部屋を暖め、二人は昔
のようにソファーに並んで座って、ナット・キング・コ
ールのレコードを聴きます。「僕」は、島本さんに「君
がいなくてはやっていけない。もう二度と君の姿を失い
たくない」と告白すると、島本さんは、こう応えます。

「私には中間というものが存在しないのよ。だからあな
たが、二度と私にどこにも行ってほしくないというので
あれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私
がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全
部。そして私もたぶんあなたの全部をとってしまうわよ
。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味
しているかもわかっているの? それでもあなたは本当
に私と一緒になりたいの? あなたの奥さんと二人の娘
さんはどうするの? あなたはその人たちをとても大事
にしているはずよ。あなたは私のために何もかもを捨て
てしまっていいの?」

「僕」は、「それでいい。もう決めたことなんだ」と応
えます。それから二人は、長い時間をかけて、お互いの
体を舐めあい、やがて何度か交わりました。途中で一度
、「僕」が中に入っているときに、島本さんは感情の糸
が切れてしまったみたいに激しく泣き、拳で僕の背中や
肩を強く叩きました。そのあいだ「僕」は彼女がばらば
らにほどけてしまわないように、彼女の体を強く抱きし
めていました。長い年月、彼女の心の奥底で硬く凍てつ
いていたものが少しずつ溶けて表面に姿を見せ始めてい
るように、「僕」は感じました。しかし、翌朝、「僕」
が目覚めたとき、島本さんの姿はありませんでした。





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Last updated  2019.05.16 02:49:37
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