2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
全8件 (8件中 1-8件目)
1
先日、とある下半身に節操のない変態色魔のような男と話をしていたとき「もし自分の子供が性同一性障害になったらどうするか?」という話になった。ちょっと話は飛ぶわけだけれども、おそらく皆さんご存知ないかと思いますが、人間には、二つの性があるんです。男性と女性。この二種類あるんです。で、この性別と言うのは、もちろん表層上にはチンコの有無や、遺伝子にも違いがあり、またホルモンの多少など、いろいろと違いがあるわけなんですが、「男性的であること」と「女性的であること」言い換えれば、「男性的なふるまい」と「女性的なふるまい」というのがありまして、例えば、男は勇ましく、女はお淑やか、などという悪い意味での過去の遺物から、男は論理的で女は感情的という、これまた悪い意味での過去の遺物ですが、そういう「男性的な性質」や「女性的な性質」が、社会的にあるわけです。で、男性と女性という二つの性差が、いつできるのか? ということですが、まぁ、皆さんご存知ないかとは思いますが、二種類の説あるんです。で、一つは、「セックス」説です。いやいや、あの行為の最中に、女が逝ったら男で、アクメに未達なら女、とかそんな都市伝説な産み分けの話ではなく、生まれつきの身体的な、まぁ、早い話がチンコの有無などと同様に、男の身体に生まれたときに、性意識も「男」として生まれてくる、というもの。これが「セックス」説です。で、もう一つが、「ジェンダー」説です。こちらは、生まれてから、家族や社会が、それぞれの性らしく振舞うように、「男は斯く在るべし」とか「女らしくしなさい」などと振舞うように刷り込むことにより、性意識が出来上がるというもの。これが「ジェンダー」説です。つまり、生まれつきの「先天性」である「セックス」と育ちで養われる「後天性」である「ジェンダー」の二種類です。で、今のところ、この二つの説以外は、他に説がないんですね。さて、性同一性障害ですが、肉体的にはチンコがあり、周囲からも男として扱われるが、本人の意識は女。あるいは、その真逆ということになるわけですが、性同一性障害では、「先天的」にチンコが生えている以上、「先天的」に男の意識を持っているはずで、「セックス」説では説明できません。また、周囲から男として扱われている以上、「ジェンダー」説でも説明できません。つまり、二つしかない説の、両方とも説明が不可能なんですね。それで、性同一性障害の説明をするときに「神様が間違えた」という言い方をする人がいるんですよ。それが嫌いでね。神に失礼ではないか。少なくとも、神が間違える可能性よりは、人間が間違える可能性のほうが高いはずだ。性同一性障害と認識している人間の間違いの可能性は考えないのか?これは「ジェンダー」の考え方に近いんですけどね。「後天性」という意味で。つまり「後天性」である以上、その逆の「後天性」を与えれば、戻るのではないか?そのように考えて、下半身に節操のない変態色魔のような男に、そのように答えたのだが、たまたま手元にあった本に、性同一性障害について書いてあった。主旨はおおよそ以下の通り。・性同一性障害は、ホモセクシャルやバイセクシャルと勘違いされやすいが、別物である。はいはい、わかってますがな。そんなことは。・性的自己認識は、母語と同じように、変更をするのは困難である。なるほど。それはそうかもしれん。・自分が女の身体を持つと想像せよ。男のチンポを舐めれるか?す、すみません。無理です。できません。私は、「後天性」である以上、戻せるのではないか? と答えた。私は、自分が絶対にできないことを、他人に強要するところであった。私が間違っておりました。
2004年07月08日
コメント(15)
織姫と彦星が7月7日に、年に一度だけ会えるという七夕ですが、織姫と彦星という名前のほかに、織女星と牽牛星という名前もあります。まぁ、おそらく支那か何処かからの言い伝えで、支那での名称が「織女」と「牽牛」なのでしょうね。織姫が、機を織る女性ということで、織女星から来ているわけでしょうが、彦星という名称は、おそらく「彦」は、単に男を意味する名前ではなかろうか、と。牽牛というのは、牛を牽く仕事の人間、だわな。なんだか随分とブルーカラーなイメージを与えるこの名称が、織「姫」には相応しくないことから、男の神様の名前などに使われる「彦」の字を使い、織「姫」と「彦」星という、まぁ、御内裏チックなメルヘンへと変わったのではないか、と思われるわけです。ともあれ、まぁ、おそらく現在確認されている中においては、最長不倒の超長距離恋愛であり、事実、私と同じうする遠距離恋愛でラヴラヴでピースなバイブスどもは、自分達の遠距離恋愛と、機織りと牛牽きの遠距離恋愛をレイヤーで重ね合わせ、安上がりなロマンチックを堪能して、脳内薬物をドバドバと噴出させて飛んでいるのでしょう。I can fly!!ところで、織女星と牽牛星というところから考えるに、コイツら、支那の神か人か、なんですよね?ということは、おそらく、旧暦、即ち、太陰暦で約束しているのでしょうね。随分と古い方達のようですし。万が一、日本の織姫と彦星であるとしても、コイツらは、明治五年十二月三日に、それまでの大陰暦から太陽暦に変えるという律儀なことをしたのだろうか?とまれかくまれ、早い話が、コイツら、今日、会ってないですよ。霊が帰るお盆や七夕など、神や霊、過去の人物に関わるイベントは、太陰暦でやるべきだ。太陽暦でやるぐらいなら、やらないほうがいい。私は、七夕であろうがクリスマスだろうが誕生日でも、それに合わせては逢いに行きません。そういう奴なんです。この場を借りてお詫びしておきます。よく五年も耐えた。そしてこれからも……
2004年07月07日
コメント(0)
裁判員制度が導入されることになった。まぁ、陪審員制度ですよね。これは、どういう意味があるかというと「司法の民主化」です。国家権力の、三権というのが「立法」「行政」「司法」ですね。「立法」というのは、国会のことですから、国会議員は代議制ですが、国会議員を選択する部分において「民主化」はなされているわけです。そして、このたび、「司法」つまりは、裁判所の「民主化」です。今までは、最高裁判所の裁判官を十年に一回、信任・非信任で投票できましたが、更に大幅に二歩三歩と進んで民主化がなされたわけです。民主主義に懐疑的な私は、陪審員制度に呼ばれたら、堪らないと思います。裁判所に通うことぐらいは、我慢すればまだ我慢できます。裁判官並みに法律の勉強をするのが嫌なんですよ。陪審員になるということは、他者の罪を判断し、その結果、他者の人生を大きく左右する役割になるわけです。他人の人生を大きく左右する。当然、被害者のことを考えれば、無罪にすればいいというものでもないし、なんとも考えられないほど嫌であり、重大な任務である。そんな重大な任務に、法律もわからず参加して良いはずがない。「司法の民主化」というのは、どういうものであるのか?裁判官は、法律と判例だけをひたすら勉強した専門分野に非常に優秀な人間である。その裁判官が、専門莫迦であるがゆえに、「世間の感覚」との間に乖離が生まれる。それ故に、「世間の感覚」を入れるため、「司法」を「民主化」する。まぁ、その大きな一つが陪審員制度、となるわけです。つまりこれはどういうことかというと、時代に逆行してるんですね。現在、日本国家は法治国家、ということになっている。法治国家ですよ。人が人を支配する、金正日が国民を支配するのではなく、憲法が、刑法が、民法が、法律が人を統治するのが法治国家です。法治国家こそ、近代国家が目指す、政治体系といえるでしょう。それが、法律ではなく、「世間の感覚」で人を裁くとなると、これはもう「魔女狩り」ですよ。イラク人質事件の際、人質家族は、その言動により世間から大いに批判され、大バッシングを受けました。それが「世間の感覚」です。で、私は「世間の感覚」は大切で、バッシングも適正な行動であると判断しています。例えば、かく地域で行われているであろうオウム真理教バッシングも、理解できます。しかし、それは飽くまでも、世間で行われる行為に限ります。松本智津夫の三女が、その周辺住民に嫌がらせを受けるというのは、嫌がらせをする側が、ある一面では可哀想だと感じられる正常の感情を持っていれば、嫌がらせをする側の感情も理解できるし、適正な行動であると判断できます。しかし、自治体が、三女の就学手続きを拒否した。これは明らかに不正であり、大問題ですよ。これに対して、裁判所は、就学を認めるように指示したわけですが、当然です。義務教育であるならば、なおさら当然でしょう。法治国家というのは、そういうものなのです。しかし、同級生になるかもしれない親達の「世間の感覚」ならば、絶対に反対するでしょう。反対はすればいい。法治国家がまともに機能しているならば。しかし、「民主化」され「世間の感覚」が取り入れられた裁判所で、「世間の感覚」が取り入れられた判決が出たときには、それは「魔女狩り」です。本人が、犯罪を犯したわけでもないのに、親の行為により未就学児童になる。これは、近代国家では起こり得ない出来事です。つまり、世間は、世間の感覚で、世間を守る権利がある。しかし、国家は、法律によって「人権」を守る義務があるのです。よって、世間の感覚を持ち込むと「人権」侵害が発生する。ならば、それでも陪審員制度を実行するにはどうしたらいいか?魔女狩りにならぬように、そして、他人の人生を大きく左右するのであるからには、全ての国民が、裁判官と同等の知識を持ち、世間の感覚ではなく、法律と判例によって、被疑者の罪状の有無を判断しなくてはならない。法治国家たるためには、須く国民は法律知識を身につけなくてはならない。いやだよ。でも、恐ろしいことに拒否権はない。つまり、「死刑」であれ「無罪」であれ、殺人に加担することを強制されているわけだ。人の生き死にを左右するのに、不勉強であって良いはずがない。だから、「司法」の知識を身に付けなくてはいけないのならば、ならば、ならば、ならば、人間一人の生き死にの左右どころか、国や自治体の運命を左右しかねない選挙は、当然ながら「立法」の知識を身に付けなくてはいけない。選挙に逝くのも良いでしょう。でも、国や自治体の運命を左右するのに、人間一人の人生を左右するほどの意識もないでしょう。国民にとって選挙は娯楽に過ぎません。そして、被選挙民にとっては、選挙は自らの正当性を受ける儀式にしか過ぎないのです。古代、シャーマンが神に憑依されることで正当性を得たような儀式と同じです。人間一人の人生を左右するほどの意識も覚悟もないまま娯楽で選挙に逝った人間が、横山ノック知事を生み出したりしながら、選挙に逝かないものを高圧的に批判する。選挙なんか、選挙民にとって大した意味も力もないんですよ。自己満足以外は。影響力も、消しカスほどもないかわりに、リスクもない。憲法の無記名投票の項に、投票結果によって「責任は問われない」と書いてあります。つまり、選挙に逝く人間は、微弱な権利を行使しても、無責任である、ということ。選挙に逝く人間って、無責任で選挙に逝ってるんですよ。無責任で選挙に逝っている無力の人間が、選挙に逝かない人間に、何を偉そうに。ということで、選挙に逝く人間なんて、何にも偉くないんですよ。選挙に逝かないことも、当たり前ながら、何にも悪くない。時間と労力を使って無意味な行動しないという点では、逆に自信を持って良い。選挙なんか、全然逝かなくていいんですよ。しかし、「立法」と「司法」が民主化されても、「行政」=官僚だけは、民主化されないんでしょうね。してもらったら困るし。国防の民主化=国民皆兵=義務兵役=徴兵とかもね。これだけ民主化が叫ばれていながら不徹底な。
2004年07月06日
コメント(0)
選挙に逝かない奴は政治に文句を言う資格がないと、未だに言う莫迦がいる。「棄権する奴は政治に関心を持とう」というが、本当に政治に関心を持って勉強する人間は、そんな莫迦なことは言わない。言う人間こそ政治に関心がないか、関心があっても考えていない。今週末に参議院選挙があるわけだが、当たり前ながら選挙に逝く必要などない。「選挙に逝って白票を投じよう」という主張もある。阿呆か。そもそも、一票の価値自体が、1/90000000の価値しかない無意味なものであるのに、白票なんか、そのカスのような1/90000000の価値すらないのに、何をしたくてわざわざ時間を使って、暑い中とぼとぼ歩いたり、あるいは、ガソリン使って温暖化に貢献しながら選挙に逝ったりするのだろうか?全くの無駄な行為だと認識できないのだろうか?自己満足以外に何か自分の得になることがあるとでも言うのだろうか?無駄と認識して敢えて行きたい人は逝けばいいんですよ。勝手に自分だけ。他者に「選挙に逝け」「選挙に逝くべき」という人間は、何を根拠にいうのだろう?で、最初の「選挙に逝かない奴は政治に文句を言う資格がない」というお莫迦なお題目で折伏できると勘違いしている阿呆の多いこと多いこと。おめでたいことですよ。どちらかと言えば、選挙に逝った奴こそ、政治に文句を言う筋合いはない。選挙に投票する以上、選挙というシステムに乗かったわけだ。そのルールに参加した以上、そのルールに従って決まった決定には、そのルールの参加者全員が、ルールに従うべきであって、その責任は全うするべきである。ルールに参加して、勝ったら相手にそれを認めさせるし、負けたらルールには従わないなんて、こんな甘えた考え方で、他者に「文句を言う資格がない」とは、一体なんだろうか?確かに、現政権の正当性を認めたうえで、個別政策に反対意見を出すことはできるでしょう。しかし、それなら、選挙に逝かずに正当性を認めなかった人間は、もっと堂々と言えるでしょう。そもそも、「選挙に逝かなければ何も変わらない」などという。これでよく「選挙に逝こう」などと言えるものだ。変えなきゃいけない、という前提である以上、現政権の自民党に入れないわけだ。そして、「投票率が低いと共産党や創価学会の組織票が云々」などともいう。共産党や公明党にも入れないわけだ。だったら最初から「民主党に入れてください」と言えばいい。選挙に逝って欲しいのではなく、民主党に入れて欲しいんだろ?その意図を隠して「選挙に逝け」などという奴は、全く信用できない奴と断定して差し支えない。投票を義務付けるという話も出たりする。総一郎とか。阿呆ですか?民主主義が「思想の自由」を標榜する以上、「投票しない選択」は認められるのは自明だ。それを正義面して「選挙に逝かない奴は云々」などと投票を強要し、脅迫する奴が、民主主義の大事な建前である選挙を大切にしていても、根幹の民主主義が死んでいる。行動や思想を強制する社会で、投票率が高いのが好きなら、北朝鮮に逝けばいいよ。選挙なんぞ、意思表示のための、最も簡易だが最も弱小なチャンネルの一つに過ぎず、そんな軽微な、そして安易な、屁のような行動をとっただけで、何を得意気に、逝かない人間に非難ができるというのだろうか?投票率の低下が、これだけ大きく社会問題かのように言われているのは、投票率の低下が、そこそこ大きな社会問題だからだ。それは、国民に政治への関心がないからではなく、投票率が、選ばれた政権の正当性に関わってくるから、社会問題なのだ。つまり、選ばれるであろう政権に、正当性を貶めたい人間は、棄権するのが、一番、自分の意思表示が功を奏するわけであり、また、代議制度への批判票もまた、棄権をすることで可能である。そして、民主主義に批判的な人間も、当然、選挙に逝かない。政治に関して、少しでも興味を持ち、少しでも考えれば、選挙に逝かない選択や、選挙に逝くよういう愚かさなど、わかるはずである。それでも選挙に逝きたい奴だけが、無力を感じながら投票に逝けばいいんですよ。
2004年07月05日
コメント(4)
先日、ある女性から電話がありました。まぁ、長崎佐世保小六美少女カッター首切り殺害事件の影響もあって、小中学生のネット利用について調べていたら、面白くて面白くて、と。事件の加害者被害者その友人とカフェスタを使っていたわけですが、カフェスタが「小学生でも使える出会い系サイト」という役割だったのは、事件があってから知りました。なるほど、ここ楽天でも同様の使い方はできるわけです。よね?ぱど厨と呼ばれる人たちがいるとの事で、その話でした。早い話が、小中学生のネットのルールは、大人のルールと違う世界だ、と。そんで、「素通り禁止サイト」というのがあるという話を、今頃になって知ったんですよ。必ず足跡(書き込み)をしなきゃいけない。しないと荒らされたり、ブラックリストなんぞに載せられて、シベリヤかアウシュビッツに送られる。楽天でもあるというではないですか。ランダム機能で飛びまくりましたよ。なかなか当たりませんでした。ホントにあるんかいな、というぐらい。ずっとヒットしなくて、やっとひとつ、当たりました。高校生らしいんですけどね。「素通り禁止」とともに「しないと押しかけてくからぁ(ぇ・・・ぅざぃょ・」とのこと。もうね、やっと見つかってね、嬉しくてね。もちろん素通りするつもりですが、素通りするなりの仁義で日記を読んでみたんですよ。読んでるとね、なんだかわからないけど、面白いんですよ。いや、面白がる話ではなくて、大好きな彼に実は女がいて、貢がせ屋の酷い男だったり、おばあさんが亡くなられた話だったり、なんか、読まされてしまったんですよね。あぁ、負けたなぁ。と、素直に認めて、やっと見つけた「素通り禁止」サイトに足跡を残してしまいました。で、楽天の日記の「テーマ」に、「素通り禁止サイトについて」というのがあったんです。読んでみると、素通り禁止サイトは、叩かれて、減少傾向にあるのだそうです。道理で探してもなかなか見つからないわけだ。やっと見つけた「素通り禁止サイト」の高校生、時代に流されず頑張り通せ。応援します。
2004年07月04日
コメント(0)
6/20の日記に対するコメントへの返答です。在る助平さんまず、人権についてですが、私も、いわゆる『人権』については、否定しますし、いわゆる『人権』=基本的人権は、必要ないとの認識でおります。そして、憲法によって保障される「人権」ですが、これについて、簡単に概要を。憲法とは、権力を規制するために、国に対して義務を負わせるものであり、その拘束により、国民に対して生まれるものが自由であり人権である。ここまでは賛同いただけると思います。では以後は、人が生まれながらに有するという基本的人権を『人権』日本国憲法が規定する人権を「人権」と、分けて記入いたします。国家権力に拘束されている加害者に「人権」が認められるのは当然ですよね。では、被害者のほうに「人権」はないのか?言うまでもありませんが、『人権』については、どっちもありませんよ。私は「人権」については、どっちにもあると考えております。というのも、マスメディアは、第四の権力と呼ばれて久しいですよね。実質的に、マスメディアの報道被害は「人権」侵害と認められているといって差し支えないでしょう。誤解なきように言うと、ネヴァダがお手洗いさんを殺害した行為は、「人権」侵害ではありません。メディアが、加害者及び被害者の報道をすることは「人権」侵害と成り得る、ということです。今のところ、判例においては、事件に関係あると思われること、の報道は、「人権」侵害とは認められておりませんが、事件に関係なく不当にプライバシーを侵害される、即ち、植草教授の場合などの検察側証拠は一部、かなりグレーゾーンであるわけです。まぁ、判例とて、国民への娯楽提供のためなら、一定範囲で「人権」侵害を認める、という話ですが、そもそも憲法や刑法の定める「人権」なのですから、恣意的であって当然です。最近、メディアリテラシーという言葉を聞いたり、うっかり使っちゃったりしますが、情報の取捨や情報の裏を読む能力だけではなく、山口母子殺人事件とか北朝鮮拉致事件、イラク人質事件を見ると、メディアに如何に報道させるかという緊急時の能力も、必要なのかもしれません。
2004年07月03日
コメント(0)
まあ衝撃の初公判も過ぎて、何なんだが、植草先生の件である。未だに2chでは、冤罪説が流れていて、政治的謀略に嵌められた、ということなのだが、なんというか、冤罪を主張するという気はないのだけれども、政治的謀略と言うのは、強ち的外れとばかりは言い切れないのではないか、と。まぁ、本人が否認しているので、冤罪の可能性もなくはないのかもしれないが、個人的には、やっているような気がするので、やってる前提にて書く。今更ながら事件の概要であるが、横浜駅でエロ眼をした植草教授を、テロ対策で横浜駅にいた神奈川県警の警察官が発見し、後を尾けてみた。一時間ほどウロウロした植草教授は電車に乗り、品川駅で降りた。品川駅のエスカレーターで手鏡をかざしたところを現行犯で逮捕。という具合である。その被害者の女子高生というのが現在は存在していないので、なんともかんともだし、まぁ、被害者の女性がメディアに名乗り出ても、後ろから鏡で見られては、被害状況など自分ではわからないだろうから、まぁ、それはおいておく。まず最初に、神奈川県警である。あの「神奈川県警」である。あの神奈川県警が、やけに熱心だ。一時間以上も尾行を続けている。しかも、テロ対策で配備された神奈川県警が、何故か警視庁管内の品川駅という、越境してから二駅目まで追いかけ、東京都の迷惑防止条例で現行犯逮捕。あの「神奈川県警」が、越境するほど頑張って、東京都迷惑防止条例で逮捕。エロ眼した植草教授が、テロでもすると思ったのだろうか?まぁ、テロ対策で配備された警官が、持ち場を離れて有名人を追いかけていた、という意味においては、非常に「神奈川県警」っぽいので、それはいいとして、鉄道警察隊なき今、大好きな警視庁管内で、越境して逮捕するとは、縄張り意識、縦割り行政と批判を受ける桜代紋も、随分と風通しが良くなりました。まぁ、良くなったことなので、それはいいとして。植草教授というのは、まぁ、民主党にとって、自民党の竹中大臣のような、そんな位置付けにいる人物で、自民党の金融改革に批判的な人です。まぁ、だからなんだという話ですが、小泉首相には、靖国神社のご利益、という話があります。小泉に楯突く者は、靖国神社のご利益で、次々と失脚する、という話です。田中真紀子、鈴木宗男、辻本清美が政界から消えていきました。まぁ、ゾンビ化して帰ってきますが。そして、小泉の盟友である山拓を選挙で落選させたペパーダイン古賀も学歴詐称疑惑であぼーん。小泉内閣閣僚の年金未納問題を追及していた管直人も年金未納自爆。そして小泉の幽霊社員疑惑を追及した岡田も、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの所だってそうでしょ?」という、まぁ、明らかにイオングループを意図した発言をされた翌日、岡田の通産省時代に、イオン子会社の役員を務めるという「公務員法違反」が発覚。そして、民主党の経済知恵袋の東京都迷惑防止条例での逮捕と、斯様に小泉の神通力、いや、靖国神社のご利益は効果覿面である。これまで、野中のやり方は「こういう情報があるんだぞ」と、相手のとげを抜いてきたのだろう。しかし、小泉は、情報公開の方式をとっているのではないか?まぁ、情報公開というのは、正しいと世間では言われているようなので、それはいいとして。小泉は、ミニプーチンという可愛い呼称をプレゼントしたい。
2004年07月02日
コメント(0)
また、二日前の日記からなんですが、物事を二分法でしか見られない、という部分に関してですが、「左派」=反戦 平和主義 非武装という等式が、日本においてはかなりの割合で成り立つのですが、少なからぬ「右派」の莫迦どもは、逆もまた真なりと思い込んでるんですね。私は、民族自決という、極めて右翼的wな観点から、アメリカによるイラク攻撃にまぁ、当初からですが、批判的であったわけです。つまり、イラクの石油がほしいからイラクを攻撃したのであれば、イラクによるクエートの侵攻となんらかわるところはなく、また、人道や人権のためにイラク解放を目的としてイラクを攻撃したのであれば、キリスト教を布教するために南米をはじめ、世界中を席巻したのと、一体全体、何処に違いがあるのかがわからない。少なくとも、キリスト教であれ人権思想であれ、イデオロギーを理由にあげて戦争を始めてしまった場合、それは戦争の無限拡散を意味する。尤も、無限拡散をするほどのお金はないわけで、実際には無限拡散にはならない。代わりに、イラクの石油のように、儲かるならば、恣意的に選んで拡散できるわけで、即ち、人道であろうが人権であろうが、イデオロギーを根拠にすれば、侵略戦争はやり放題という時代に『逆戻り』してしまったわけだ。その中身の「イデオロギー」が入れ替わっただけで。早い話が、イラク人がフセインの独裁に我慢がならないなら、イラク人が命を賭して革命をやればいいのであって、アメリカ人が地球の裏側まで出しゃばって、人道を回復する必要もなければ、その権利もないわけで、さらに言えば、植民地化する権利もないわけですよ。極めて簡単な民族自決の原則です。つまり、この度のアメリカによるイラク攻撃は、アメリカに何の大義もなく、不正義なイラク侵攻であるが故に、イラク攻撃に批判的なのですが、民族自決という右翼wな理由で、攻撃に反対していようとも、何故か返ってくるレッテルは、「言ってることはサヨクと同じじゃないか。なんでも戦争反対と言えば良いと思ってる」いやいやいやいや。どう読んだ?まぁ、確かに民族自決を言う左翼もいるけどね。少なくとも、「対侵略戦争」や場合によっては独立戦争など、民族自決のための戦争には、全く反対するはずもなく、明らかにこと今回のアメリカの「イラク攻撃」に限定して、反対しているのは、読めば充分にわかると思うのだけれども、という反応が返ってくる。少なからぬ「右派」の莫迦どもというのは、よく社民党などに対して「なんでも自民党に反対すれば良いと思っている」という物言いで批判するわけなんだけれども、なんのことはない、自身も、「なんでもサヨクに反対すれば良いと思っている」に過ぎない状況なのです。なので、サヨクが「なんでも戦争反対」と言えば、少なからぬウヨクの莫迦どもは、「なんでも戦争賛成」と言いさえすれば、正しいと思い込んでいる。主体性がないんですね。サヨクがなければ、自分の意見を決められない。個別に吟味する能力もないわけです。全ての戦争に反対か全ての戦争に賛成、どちらかしかないんです。そうでも思わなきゃ、理由を限定して反対しているのに「なんでも戦争反対」と誤読できないでしょ?
2004年07月01日
コメント(3)
全8件 (8件中 1-8件目)
1