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「つながるこころ」の活動をあたたかく見守ってくださり、ありがとうございます。この活動が始まってから、多くのメッセージを個人的にまた、このHPのコメントとして、送ってくださり、ありがとうございます。先週は、栃木県のアジア学院を訪問していました。30数年にわたり、アジア・アフリカの農村の指導者養成を行ってきた学院は、2004年度の研修を終え、来年度の準備に忙しくしていました。被災地の近隣に住む卒業生から、多くの手紙が寄せられていました。それらの情報は、アジア学院のホームページ英語版に掲載されています。(http://www.ari-edu.org)明日、30日には学院にて被災地への救援金の為に、フリーマーケットを開催します!(お手伝いして下さっている皆様、本当にありがとう!!買ってくださるあなた!ありがとう)栃木滞在中は、那須地域の知り合いにも会う事ができ、様々なアイディアを交換する事ができました今、寄せられているアイディアは、「被災地の子供たちに手紙を送ろう!」「祈りのつながりづくり」「フリーマーケットでチャリティーバザー」などなど。「つながるこころ」の資金援助は2月末までですが、その後も、情報交換をベースに、自分たちにできる事を続けていきたいと考えています。皆様も何かアイディアがありましたら是非お知らせ下さい。今日は、沢知恵さんのコンサートが千葉県で行われ、行ってきました。彼女の歌は、とてもあたたかく、また力強いものが多いのですが、その中でも「The Line」という歌が私は大好きです。私たちの周りにある様々な「線」について。様々なことを隔てる線、北と南、大人と子供、愛と憎しみ、平和と戦争・・・でも、もしかしたらその線を作っているのは自分かもしれないと。そして、それらの線をなくしていくのは私であり、あなたなのだと。「つながるこころ」も、隔てる線ではなく、つなげる線を創る活動になればと願っています。
2005.01.29
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被災地に想いを寄せてくださり、ありがとう。「私たちは一人ではないのだ」と感じる事ができます。日本での地震被害がない事を祈っています。アジア学院にも、私たちの状況を伝えました。津波は、私たちの全てを奪いましたが、私たちには、復興する力が残っています。現在、私たちの団体(DEWASARANA)は、家の建設プロジェクトの企画をしています。被災者の方の家の建設を助ける活動です。これからも、私たちの状況を皆様にお伝えしていきたいと考えています。***************彼女は、2000年度の卒業生で、Kurunegaraというスリランカ内陸部で活動をしています。彼女の出身地は、Chillawという西海岸沿いにあります。
2005.01.25
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(お便りの一部を掲載)こちらで生活を始めて4月で5年になりますが、まあ日本人の感覚とは相当違います。自分でもずいぶん慣れたと思います。新聞では毎日大見出しで地震津波の被害状況を伝えています。でも私の感覚としては、多分日本で報道されているであろう悲惨さよりも、それを乗り越えて生活してゆこうという逞しさが感じられます。津波の様子を撮影したCD-ROMが販売されて外貨獲得を目指したりとか、なんかいかにもインドネシアって感じです。確かに今回は大惨事でしたが、もう起こってしまったものは仕方が無いという感じでしょう。いつまでも悲しみに浸る間もなく、多くの人が復興を強く意識していることを感じています。被災した人たちと援助する人たちの意識に高低が出てくるのはどうしようもないと思います。援助する側が「ああせい、こうせい」と考えを押し付けるのも仕方ないでしょう。受ける側も「こっちは大変な状況だから、どんどん援助してくれ」という意識も生まれるでしょう。 どこでバランスするかを見極めるのが大切だと思っています。長期支援結構、ボランティア結構、多くの人の良心に呼びかけるのも結構、でも見極めが無いなら単に甘やかすだけに終わってしまうのではないでしょうか。被災者キャンプのすぐ隣では被災しなかった人たちが今までと変わりない生活を送っているように感じています。また食糧事情が被災前より良くなったという声もニアスで耳にしました。今回は我々だったけれども今度は今支援しているあなたたちの国かもしれない、そう考えるとお互い様ですよね。ニアス島で衛星電話の開設を計画しているわかちあいプロジェクトですけれど、これが本当に無くてはならないものかと聞かれると、まあ今までも通信手段はバスの運転手に言付けるとか(日本では考えられないような手間をかけて)、それが普通の生活だったんだからなー、ウームとなってしまいます。電話が無くっちゃ、コンピュータが無くっちゃ、何て考えるのはやっぱり先進国と呼ばれる国の弱点ですよね。明日はアメリカから宣教師が浄水器を持ってメダン到着。ひょっとするとまたニアス島行きです。
2005.01.20
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津波の後、私たちの子供は、被災地マータラ市の我が家に住むことをおそれています。日中は家にいますが、夜になると安全な場所に移動します。いまだに十分な水がありません。今、私たちは全てのことを「いち」から始めなければなりません。もう一度立ち上がりたいです。かおりやアジア学院にもよろしく。神の祝福がありますようにヘム
2005.01.16
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今朝、ニアス島から戻りました。私の住んでいるタルトゥンから海沿いのシボルガまで山道を2時間(予想通り居眠り運転で路肩走行20m)。シボルガから一晩フェリーに揺られ、ニアス島のグヌンシトリに上陸。更に山道を車で4時間。山道で車がすれ違う際には最徐行が必要です。途中何箇所か橋が掛かっていますが、全て木製で、この先荷物運搬車両が増えると長持ちしないような気がしました。そして海沿いのシロンブという場所へ古着150箱、医療品3箱、飲料水100箱を届けました。翌12日はちょうどユドヨノ大統領が視察に訪れました。日本でニアス島の状況がどの程度報道されているかどうか分かりませんが、死者は全島で150名ほど、そのほとんどがシロンブ周辺です。しかし交通の便が悪く、空輸される物資がほとんどのようです。食料品にはバラエティーが無く、通信状況も皆無と言ってよいでしょう。ケータイも通じません。湿地に囲まれたマンドレヘという場所の被害が大きいのですが、湿地に囲まれており、車でも入れず、徒歩しか頼れない状況でした。徒歩でもクロコダイル(わに)が生息していて非常に危険だとの情報を地元の警察から聞きました。インドネシア赤十字がその手前にキャンプを張って活動していました。多くの関心がアチェに集中しており、その他の被災地が手薄になっている感じがしました。カトリック、プロテスタント教会、イスラムが協力していますが建設資材、米、バイク、農耕具が不足しているということですが、実際に役立つのはお金のように思います。1週間ほど滞在しようと思っていましたが、例えば廃材の整理や掃除、建設関係の手伝いといったワークキャンプ的な仕事が無く、あちこち被災場所を見て回り、インタビューし、3日居たのみでした。しかし、私が抱いた感想としては、日本の災害に比べると被害は大きくても人々は皆前向きに物事を捉えているようです。学校など、日本だったら休校になるところでしょうが、礼拝堂に全学年が集まって学年ごとの仕切りもなしにそれぞれの教師が大声で授業を進めていましたし、結婚式なども変更無しに行なわれていました。被災者に何が必要かと尋ねたところ、ある婦人は「ペスタ(冠婚葬祭)に着てゆく晴れ着が欲しい」と答えていました。また農民の一人は畑が海沿いにあり、津波で農機具が全て無くなってしまいましたが、被災前に比べると食糧事情も生活家財も良くなったとのことでした。3食ラーメンとのことでしたが。インドネシアでは(こうした状況に関係なく)親族の家に突然転がり込んで何ヶ月も生活することが決して珍しいことではないので、日本で避難先でプライベートが確保できないといったようなストレスは無いように感じます。
2005.01.15
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思いやりと行動、そして支援をありがとう。津波の被災者を想って下さり、ありがとう。私の家はガレ市から1マイル離れています。この災害で私自身は深刻な被害にはあいませんでした。しかし、近隣の人々、友人、親戚たちは、大きな助けを必要としています。マータラ市にある姉の家と、ガレ市の兄の家の半分が浸水しました。私の妻は彼女の両親の家にいましたので無事でした。あの日、私は両親のいるタウラマ市からガレ市へ戻る途中でした。その道中、多くの被災者に会い、それは救いようのないほど悲惨なものでした。ガレ市は高波で海へ洗い流されてしまいました。あなたが訪れた町はもうありません。何も残っていません。バス停、ガレ市の市場、全てのものが消えてしまいました。恐ろしい高波が放出したエネルギーは、広島の原爆の100万倍に等しいのだったそうです。スリランカでは3万1千人が亡くなり、1万7千人もが負傷しました。ガレでは5千人が亡くなりました。そのほとんどが子供や女性です。また。スリランカでは、およそ50の学校が高波で完全に破壊され、101の学校が一部破壊されてしまいました。南部沿岸地帯が津波により激しく破壊されています。愛する人また、彼らの財産をいっさい津波がさらってしまったのです。サルボダヤ(所属NGO団体)はガレ地区の津波被災者に必要物資を配布しました。サルボダヤ事務局は被災者の生活を回復させることに優先をおいています。南部沿岸地帯は破壊的な津波の瓦礫状態から立ち上がろうとしていますが、復活は簡単な事ではありません。あべさん(00年日本人学生)が電話をくれ、ゆきさん(02年ボランティア)とアジア学院から手紙を受け取りました。ありがとう、あなたのあたたかな努力に感謝します。どうぞ、まみこさんや他のアジア学院の友人によろしくお伝えください。
2005.01.13
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メールをありがとう。私たちはみんな無事です。私たちが住んでいる町を想像できますか?海水浴に行った海辺を想像できますか?あの波は私たちの家を超え、もっと先の地域まで到達しました。今日まで私たちは我が家ではなく、別の場所に避難していました。今日、私たちは我が家に帰ってきました。今は、津波の被害の片付けで忙しくしています。神の祝福がありますように。ヘム(スリランカ・マータラ)
2005.01.10
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世界中の人々が、今回の被災地に関心を向け、被災者への支援に力を貸してくれていることに感謝します。私たちの状況に思いを寄せてくれて、ありがとう。現在、地震と津波による被害者の救援活動に悪戦苦闘しています。すべての人が協力し、被災者の救援に力を注いでいます。多くの緊急支援の支援先は、短期の救援活動ですが、私たちは緊急支援にとどまらず、長期的に人々の復興のための活動をしようと考えています。私たちの教会HKBPは、多くの救援センターを立ち上げました。すでに何人かのボランティアを被災地に送りました。彼らからの報告によると、HKBPは食料や医薬品の配給に力を注いでいますが、空港から被災地へ救援物資を届ける道が寸断されていたり、多くの残骸が道をふさいでいるので、困難を要しているということです。アチェ州の教会メンバーの話より 「12/25 2000人以上の人とクリスマスを祝った。12/26 朝8時 日曜学校に子どもたちが集まり始めていたとき、地震が起こった。10分ほど続き、多くの建物が崩壊する。人々がパニック状態に陥る。津波が押し寄せる。大きな船も車も木も流される。みなが神に祈っていた。夕方になっても救援部隊が来ず・・・夜7時 またもや津波がやってきた。人々は逃げまわっていた。」このように、状況は悲惨なもので、生き残った人々も困難に直面しています。これからもっと多くのボランティアを送る予定です。
2005.01.03
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(レイン)メールありがとう。アジア学院の卒業生が無事であるとの情報を知り、ほっとしています。私たちはアチェ州の被害情報を受け、すぐに救援活動を始めました。救援センターを立ち上げ、支援金や食料、医薬品などを被災者に送っています。12月30日、ボランティアを送り、救援活動に携わってもらっています。私も1月8日までアチェで食料や医薬品、お米の配給をしてきました。私たちの団体はみなさんからの支援を待っています。逐一、私たちの状況をお伝えしていきます。
2005.01.02
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