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トラブルド・スター これがメル・ギブソンを表すユダヤ・メディアの言葉だ。映画界の頂点に立ちながら、彼ほど激しくイメージを崩壊させていった俳優はいないだろう。 メルは1979年「マッドマックス」、2年後に続編「マッドマックス2」に主演し国際的に名を馳せる。その後もヒット作が続き大スターに。 その名声を決定づけたのが、自身が製作監督主演した、スコットランド独立を描いた「ブレイブハート」(95年)で、アカデミー賞監督賞と作品賞の2冠に輝いた。 2004年にはキリストが死に至るまでの12時間を描いた製作監督作品「パッション」が物議をかもす。血まみれのキリストへの拷問シーンに観客がショック死する事故がおき、またユダヤ人団体からは猛烈な抗議が。これが、かえって宣伝効果を生み370ミリオンドル(約290億円)を超える大ヒットとなる。 さらにマヤ文明の残酷さを描いた「アポカリプト」(06年)を監督。この問題作も期待されたが、この年、彼のキャリアを破滅させる事件が起きた。アルコール依存症のメルが飲酒運転で逮捕された時、ユダヤ系の警官に差別的な暴言を吐いたのだ。 正式に謝罪したものの、“アンティ・セミティズム(反ユダヤ主義)”のメルは、ユダヤ系が席巻するハリウッドから葬り去られることになる。 昨年はヒットコメディーの続編「ハングオーバー2」のカメオ出演の話が持ち上がったものの、出演者に拒否され反故に。彼への嫌悪感は根強い。 追い打ちをかけたのが、私生活のトラブル。28年間連れ添い7人の子供をもうけた妻と離婚。一昨年、14歳年下の恋人、ロシア人歌手オクサナ・グレゴリエヴァとの間に1女が生まれるも昨年破局。親権と慰謝料を廻り泥沼の争いを繰り広げてきた。 メルは慰謝料として15ミリオンドル(約12億円)を提示したが、オクサナ側はもっと搾り取れると踏み、拒否。DVを訴え、彼女を罵倒した電話の録音テープを提出し自分に優位になるよう画策していた。 しかし、先月末に出た裁判所の和解案は75万ドル(約5800万円)で、かつての映画界の稼ぎ頭にとっては、はした金といえる金額だった。 前妻との離婚時に900ミリオンドル(約700億円)と推定される資産の半分を持っていかれた時とは雲泥の差だ。ただし、来月2歳になる娘には家が譲られ、前妻との間の他の7人の子供と同等の相続権を与える決着となった。メルには妥当な額の内容だったとみえ、裁判官に感謝していたという。 仕事の方は、捨てる神あれば拾う神ありで、人気女優のジョディ・フォスターが昨年彼女の監督作品「ザ・ビーバー」でメルを主役に起用した。「メルは映画界で最も愛されている男」と公然と庇うジョディ。同性愛者で、女性という差別される立場のジョディがこの差別主義者を助けるのは、メルの否定しようのない才能を埋もれさせたくないという思いからなのか。 作品は今年5月に限定劇場のみの公開となり、興行的には低調に終わったが、内容的には味のあるブラックコメディーに仕上がり、高い評価を得た。特に自殺に失敗したアル中で鬱病の中年男を演じたメルの迫真の演技は、過去最高の出来といえる。 メルに優位な和解と主演作の好評で、55歳の“反ユダヤ主義者”に再びツキが回って来るのか。ユダヤはどこまで彼を許すことができるのだろう。
2012年05月08日
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貴殿の明晰さは、極めて優秀なレベルだ。だが、貴殿は勝てないわたしは、感心した。わたしは、劣等人種(非ユダヤ人)が、我々の秘密の計画を発見できるなどと思いだにしなかった。しかし、いうまでもなく、貴殿はそれを成し遂げた。貴殿の明晰さは、極めて優秀なレベルだ。貴殿は、いとも簡単にCJAの存在を見つけてしまった。このことはわたしを感心させた。しかし、貴殿が我々の主要工作員の正体を発見してしまったことには、実に驚いたし、大イスラエル帝国を建設しようとする我々の計画を発見したことには、特に驚かされた。貴殿はよくやった。しかし、貴殿に信じがたい分析力があったとしても、CJAの極めて高位の職員として、貴殿に伝えなくてはならないいくつかの不都合な事実がある。1)大イスラエル帝国建設の共同作業は、既に5000年にわたって発動されている。それらは中止することができないものである。貴殿の全ての行動は、わたしたちの計画的な罠に嵌まることになる。それがゆえに、貴殿がわたしたちの計画を発見したことに、わたしはそれほど驚かされなかった。我々はそれを予測していたからだ。チェスのゲームでたとえれば、我々はチェスのマスターであり、貴殿は、ゲームのやり方を知っているだけの世間知らずの若い未熟者に過ぎない。我々は、いかなる行動をも計画し、当然ながら、貴殿も想像するとおり、最良の方法をとる。我々は、貴殿に対して最悪の方法をとる用意ができている。その場合でも、我々の作戦に支障をきたすことなどない。おまけに、貴殿が完璧に行動しなければ、貴殿は今の状態よりもさらに悲惨なかたちで失敗するであろう。2)貴殿の分析力の高さがなければ、我々は貴殿をとっくに殺害していた。貴殿の死には、5,000,000ドルの懸賞がかけられている。さらには、一生分のカラ(Challah。 カラ◆ユダヤ人の食べるパンの一つ。特にユダヤの正月の食卓に欠かせない。 )と高級なユダヤのblood wineが副賞で提供される。ユダヤ世界権力の中枢の、我々ユダヤ権力者は、実際、純粋なblood wineを飲むというのは、事実だ。その血は、我々の秘密の島に迷い込んで戻らなかった、日本人のボートのセールスマンのものだ。いつの日か我々は、貴殿を探し出す。Richard Koshimizu。そして、その日、我々は貴殿を殺す。3)貴殿は殉教者ではない。貴殿は英雄ではない。貴殿は忘れ去られる。貴殿は、ユダヤ人が支配する世界に住む劣等人種以外の何者でもない。ちょうど、足で蟻を無慈悲に踏み潰すのと同じように、そして、支配を続けるように、ユダヤ人は社会の全てを支配している。それは公平ではない?もし、文句があるなら、貴殿たちが神と呼ぶものに上申したらどうだ?ああ、それで思い出したことがある。ユダヤ人は、神というものは実は信じていない。神は、我々が社会を洗脳し、我々が全く潔白であると思い込ませるのに役に立つ、偽物にすぎない。このメールは脅迫を目的としてはない。不運な事実を記載しただけである。貴殿、richard koshimizuにわたしが推奨するのは、諦めて、残りの人生を安楽に生きることである。この世界が我々ユダヤ人のものとなったとき、ユダヤ人は、決して、悪魔の統治者とはならない。我々は、公正で公平である。Sincerely,An Anonymous High Ranking Advisor to the CJA送信者 : Edward Petruso [limegod@gmail.com] 受信日時 : 2006/04/07 (金) 10:57 件名 : Good show! 私の正体をを見つけることができて、おめでとう。確かに、メールの偽造部分については、かすかなヒントを残しておいた。直接、貴殿の分析力をテストしてみたかったからだ。貴殿は我々に参加すべきであろうと思う。結局のところ、貴殿が我々に勝つ方法などない。諦めて、我々が提供するopulantな生活を楽しめばいい。我々の秘密の公開をやめると約束するだけでも、たっぷりと褒賞を与える。 現時点では、殆ど誰も、貴殿の言うことを信じてなどいない。シオニスト・メディア集団は、この種の洞察を徒労に終わるように追い やってきた。殆どの人は、CJAが存在しないとすら思っている。そして、これらの手紙を書いている人たちは、貴殿を冗談のネタにしている。しかし、貴殿が探求を続ければ、貴殿は我々にとって、大きな脅威となる。 貴殿の言うとおり、「1984」は、隠れユダヤ人、ジョージ・オーゥエルが書いた小説だ。この小説は、全体主義への批判を装いながら、これからやってくる世界の姿の青写真を示したものだ。皮肉なことに、この栄光ある政府の最大の敵は、、ゴールドシュタインというユダヤ名を持っている。1984をもう一度読んでみろ。ユダヤの目を以って、読んでみろ。民主主義者の目では駄目だ。人々が幸福になる唯一の方法は、彼らの希望を打ち砕き、彼ら自身を、ユダヤ結社のような完全な実存体に所属させることだ。彼らが満足する唯一の方法は、全面的な抑圧を与えることだ。戦いをやめ、言い争いをやめよう。貴殿ほどの分析力のある人物がなぜ、こんなことがわからないのか? 反逆者たちになにがおきたかを、特によく考えて読んでみてくれ。 {転載終了}ユダヤ世界権力の本丸から、911ユダヤ謀略追及サイトを閉鎖せよと脅迫メールが殺到。 暗殺者に500万ドルの賞金↓http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/initimidation_j.htm
2012年04月28日
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ユダヤ教の数ある祭りの中でユダヤ人にもっとも親しみあるものといえば、何といってもそれは「過越し祭(あるいは過越しの祭り)」。原語では「ペサハ」という。最新の調査では99%のイスラエル人がペサハを守っているとのこと。 ユダヤ人について知りたいと思う人は、まずこの祝日を理解することから始めるのが近道ともいわれる。ペサハはユダヤ人の歴史に根ざしたもっとも古い伝統を誇る祭りで、旧約聖書によればモーセによるエジプト脱出、いわゆるエクソドスとも呼ばれる出エジプトを記念した行事。つまり、イスラエル民族の贖い(救い)を記憶し神に感謝するためにある祭り。時期的には春の祭りで、農耕と牧畜に起源をもつ祭りと歴史が一緒になったもの。 子供たちも一緒に参加する過越し祭を通じて、ユダヤ人は彼らの民族の歴史と信仰を連綿と伝えてきた。そのようにして、ユダヤ人は幼い時から、出エジプトの物語を覚えてしまいます。そして、先祖を苦難から救った神が自分たちも救ってくれるという信仰が培われてきた。ペサハごとに「すべての代々において、人は自分自身をあたかもエジプトから脱出したかのように見なければならない」(ハガダー)と唱える。 この頃にイスラエルを旅行すると、ホテルに泊まっても普通のパンはなく、「種入れぬパン」しか出ない、不便でもペサハの雰囲気を味わうのは得難い機会。 過越し祭の特徴は、家庭で祝われる祭日だという点。最初の夕べ、家族全員が集い、独特の食事をしながら、決まった式次第にそって祈ったり歌ったりして楽しく過ごす。この日は家族以外の友人や大切なお客さんを招待するのがしきたり。来賓を迎えるのは家族にとっても喜び。もしユダヤ人の家庭から過越し祭の夜の招待状を受けたら、それは大変なことになる。 過越し祭(ペサハ)は聖書の中に記された3大祭りの1つ。この3大祭りは、それぞれ季節の変わり目にある。春を告げるペサハ、夏のシャブオット(七週の祭り)、秋のスコット(仮庵祭)。 19世紀の聖書学者の考えによれば、元来、ペサハは別々の2つのお祭りが一緒になったものといわれ。1つは農業祭で、ハグ・ハマツォットと呼ばれたもの。翻訳すると、「種入れぬパンの祭り」、つまり酵母(イースト)の入っていないパンの意味。日本語の聖書には「除酵祭」とある。もう1つは、ハグ・ハペサハです。これは牧畜民の祭りで、共に春のニサンの月に祝われていた。 この2つのうち、ハグ・ハペサハのほうが古く、これはまだユダヤ人が遊牧民だった頃、春の到来と共に家畜を犠牲に捧げて祝ったなごり。ハグ・ハマツォットは、農夫たちが穀物の収穫の始まりを祝って初穂を捧げた春の祭り。 時が経つうちに、2つの祭りは民族の歴史に起こった出来事、出エジプトと結び付いていったのです。聖書には次のような物語が書かれている。 1.神がエジプトに災いを下そうとしたとき、犠牲の子羊の血を入り口の柱に塗った イスラエルの人々の家は、神が「過ぎ越して」いったので救われた(出エジプト記12章)。「ペサハ」の意味は「過ぎ越す」です。ここから「過越しの子羊」を指す言葉にもなりました。ハグ・ハペサハ(過越し祭)という言葉は出エジプト記34:25に出てきます。 2.種入れぬパン(ハマツォット)は、イスラエルの民が急いでエジプトから出て行くときの様子と関連しています。「民はまだパン種(イースト)を入れない練り粉」を持って出発したことが書かれています(12:34)。■ペサハのセデル ペサハの最初の夕食はそれぞれ家庭で、伝統的な形式に則って守ります。そのために式次第のような本があります。これをハガダーといいますが、そのテキストに沿って行なわれるこの夕食の儀式は、セデルと呼ばれるようになった。セデルとは、「順序」という意味のヘブライ語。 ところで、セデルの中で食事は象徴的な儀式の一部なので、実際に食べるまで長い儀式が続くので空腹を覚える。 聖書にはセデルという用語はでてこないが、エジプトでの過越しの夜、イスラエルの民はそれぞれの家で羊を屠って家族で食べた。 その後、イスラエルでは王国時代、紀元前7世紀のヨシア王まで過越し祭を守っていなかったようです(列王記下23:22)。 第二神殿時代になって、過越し祭が復活して、出エジプトの意味を伝承していくことが重要な儀式に取り入れられた。過越し祭は神殿を中心に執り行なわれた。この日は全世界から多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、神殿では子羊が犠牲に捧げられ、その肉はエルサレムに集う人々に分け与えられて、家族で過越しの食事をした。また、もちろんエルサレム以外のユダヤ人の家庭でも過越しの食事が守られ、セデルの原型が出来ていった。 現代に伝わるようなセデルがいつ定まったかははっきりしないが、一説には、紀元1世紀の終り頃には基本ができあがったとも考えられる。ラバン・ガマリエルの次のような言葉が伝承に残っている。 「ペサハに3つの言葉を発せぬ者は義務を果たしたことにならない、それはペサハ(犠牲の子羊)、マッツァー(種入れぬパン)、マロール(苦菜)である」(ペサヒーム10:5) 学者はこれを、ユダヤ人はこの3つを食べ、その意味を書いた文書ハガダーを読むことを義務とした、つまりセデルの原型があったと解釈しているわけだ。 歴史的には、ローマ人の饗宴(シンポジウム)の習慣をモデルにしたのではないかとの説もある。 過ぎ越しの祭りのセデルを迎えるとき、テーブルに大きな盆が置かれていて、その上に色々な食品が並べられる。 これは過越し祭のセデルで用いられる象徴としての食品。式の中で、ハガダーを読み進むうちに次々登場してくるが、その度に詳しい説明がある。何があるかと言うと、 1) マロール(苦い菜) 2) カルパス(野菜) 3) ハゼレット(もっと苦い菜) 4) ハロセット(くるみとりんごを交ぜたもの) 5) ゼロア(子羊の前脚のロースト) 6) ベイツァ(卵) 6種類の食品はそれぞれ象徴的な意味があるようだ。それを知ると、ユダヤ人の伝統の古さが分かる。 まず、苦菜と訳されるマロールというのは、わさびか西洋わさびだが、この苦菜はエジプトでの奴隷の苦難を象徴している。 カルパス(野菜)はエルサレム神殿の時代にさかのぼる。当時、食事の始まりのオードブルとして、野菜を食べたことに由来する慣習。キュウリやレタス、ラディシュ、ポテトなど季節野菜が使われる。 もう1種類の苦い菜があるが、このハゼレット(苦菜)はマロールと同様な意味の象徴を持っている。聖書の「種入れぬパンと苦菜を添えて、それ(過越しの羊)を食べなければならない」(民数記9:11)とある箇所で、この苦菜は複数形で書かれている。それで、ハゼレットがマロールのほかに苦菜の1つに加えられるようになったと言われている。 りんごやくるみ、シナモンなどをワインでしめらせて混ぜたハロセットは、エジプトで奴隷であったときのレンガ作りの象徴。時代と所によって、このハロセットは材料や作り方が違っている。 子羊の前脚のローストを用いたゼロア(脚の骨)は、神の強い手を象徴している。イスラエルの民は神のみ手によって導かれたとのこと。また、過越しの羊をも象徴する。子羊の前脚に代わって、鶏やほかの鳥、または牛などの骨肉も使うことがある。 最後のベイツァは固ゆでの卵。これは、神殿があった頃の祭にささげられた犠牲の捧げ物の象徴。別の説では、神殿の喪失を悼むための象徴だとも言われる。■ペサハのセデルの式のながれ 1. カデッシュ(聖別) 2. ウレハッツ(手を洗う) 3. カルパス(野菜) 4. ヤハッツ(パンを裂く) 5. マギッド(物語) 6. ラハッツ(手を洗う) 7. モッツィ・マッツァー(パンへの祈り) 8. マロール(苦菜) 9. コーレフ(間にはさむ) 10. シュルハン・オレフ(食卓) 11. ツァフン(隠された物) 12. バレフ(食後の感謝の祈り) 13. ハレル(賛美) 14. ニルツァ(最後の祈り)
2012年04月27日
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↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっているペストにまつわる中傷 1347年から1350年にかけてヨーロッパで猛威を振るったペストは、全人口の3分の1から半数にあたる約2500万人の命を奪ったとされている。この間の1348年から1350年にかけて、井戸に毒を投げ込むユダヤ人についての噂が広まり、血の中傷やホスチアの中傷をも上回る惨劇が起きている。ユダヤ人は律法の規定もあって、日常的に衛生面や食料には注意を払っていた。それゆえ、ペストによって深刻な被害を受けることがなかったのであるが、キリスト教社会ではまだ衛生面とペストの因果関係が認識されていなかったため、両者の被害の差が歴然となっていた。すると、ヨーロッパの各地で、ユダヤ人が世界からキリスト教徒を抹殺するため井戸に毒を投げ込んでいるという噂が立ち、それに殺気立った群集がユダヤ人の集落を襲撃するようになった。放火や略奪を伴った暴動はフランスやスペインの沿岸地域からスイス、ドイツといった内陸地へと波及し、およそ300のユダヤ人の町が破滅に追いやられた。 シオン賢者の議定書 近現代において生み出された反ユダヤ的な中傷のなかでも有名なのが『シオン賢者の議定書』である。同書は20世紀の初頭、実際に開催された秘密会議の議事録という触れ込みで出回った偽書で、ユダヤ人が世界支配を目論んだ国際的な秘密結社の運営を担っているという内容である。おそらくロシア人の反ユダヤ主義者によってでっち上げたものと見られ、既存のフランス語の著作物にユダヤ人を誹謗する記述が織り交ぜられている。著作者らはさらに、同書をスイスのバーゼルで行われた第1回シオニスト会議に結び付けるため、テーオドール・ヘルツルやアハド・ハアムの名前を持ち出している。『シオン賢者の議定書』が徹頭徹尾でたらめであることはシオニズムに否定的だった者にも十分理解されていた。また、世界支配のための秘密会議などかつて一度も開かれなかったことや、ユダヤ人が「シオン賢者」(原文では「シオンの長老」)なる者を指導者に立てていないことも調べればすぐにわかることであった。にもかかわらず、反ユダヤ主義者は同書をプロパガンダの強力な武器として利用し、数十ヶ国語に翻訳して世界中にばら撒いたのである。ユダヤ人は当初、反証の余地が十分にあったことから『シオン賢者の議定書』の存在を重要視せず、自ずから欺瞞を露呈するだろうと考えていた。ところが、同書が世界的に流通されて多くの読者を獲得し、あまつさえナチスのプロパガンダに流用されているのを見るに及んで、公開裁判の場において真実を明らかにする手に打って出た。その裁判は1934年、スイスのベルンで開催され、第1回世界シオニスト会議の参加者や世界シオニスト機構の議長ハイム・ヴァイツマンなど専門家に対する質疑を経た後、同書が単なる剽窃物で稚拙な贋作に過ぎないと判断されて結審したのである。 血の中傷の真相 歴史家たちは、中世において血の中傷が拡散するに至ったいくつかの要因を挙げているが、その中でも興味深い、対極的な2つの説を紹介する。 養育問題 マグダレーナ・シュルツは、中世の貧困層では児童の待遇が劣悪だった点、特にユダヤ人の家庭での親子関係とキリスト教徒の家庭でのそれは雲泥の差があったと指摘している。また、ユダヤ人の社会では婚姻外交渉によって生まれた子供が殺害されるケースはなかったとしている。シュルツの説明によると、血の中傷とは育児放棄、あるいは児童虐待による子供の死についての弁明であり、家族が負った罪悪感が発露されたものだとしている。この説明に最も該当する例はプルダーにおける粉引きの子供5人が殺された事件で、そのとき起きた血の中傷は、子供たちを家庭内で放置して死なせたことによる良心の呵責から両親を解放したであろうと述べている。 殉教 周知のように十字軍の時代、多くのユダヤ人がキリスト教への改宗を迫られたが、アシュケナジムの社会では改宗を拒み、子供を殺した上で自殺するユダヤ人が大勢いたという。その理由はキリスト教徒になることに対する抵抗感だけでなく、キリスト教徒によって殺されることに対する屈辱感にもあった。1993年に刊行されたイスラエルの月刊誌『シオン』に寄せた記事において、ヘブライ大学教授イスラエル・ヤアコブ・ユバルは、当時のキリスト教社会ではアシュケナジムによる殉教はよく知られていたため、ユダヤ人は簡単に子供を殺すという先入観を招き、ひいては血の中傷に信憑性を持たせてしまったと主張している。つまり、自分の子供を殺せるのなら、他人の子供など容易に殺せるだろうと思われてしまったのである。過酷な情勢の中でユダヤ人が自らの手で血の中傷を完成させたとするユバルの説は、イスラエルでは厳しい非難に遭い、中世史の研究者によるアカデミーにおいては記憶に残る論争を巻き起こした。詩人で文献学者のエズラ・フライシャーはユバルの見解について、「語られていないことこそ語られるべきであった。語られてしまったことは書かれないべきであった。書かれていないことこそ書かれるべきであった。書かれてしまったことは忘れられるべきである」と評している。その他の研究者にとってもユバルの説は、十字軍の後にも長期間、血の中傷が発生していたという現実を踏まえれば、その正当性に疑義を挟まざるを得ない代物でしかなかった。だがユバルにとっては、その後の血の中傷の実在性こそ、殉教に象徴される堅固な文化をアシュケナジムのユダヤ人が育んでいたことの証左になるとしている。 その他 2011年1月8日にアメリカ合衆国アリゾナ州ツーソンで起きたガブリエル・ギフォーズ下院議員らに対する銃撃事件(ツーソン銃撃事件)に関連して、2008年の米大統領選挙で元副大統領候補であった共和党のサラ・ペイリン前アラスカ州知事が2010年の下院議員中間選挙の際に「再装弾(リロード)せよ!」とツイッターで発言したり、選挙戦対抗馬を表すターゲットマップとしてギフォーズを含む民主党候補をライフルの的でFacebookに表現していたことがこの事件に繋がったのではないかとして非難されている事に対して、ビデオメッセージで自分に対する非難を「血の中傷(w:blood libel)」という表現を使って反論したことで、ユダヤ人団体の反発を買うなど、さらなる物議を醸した(ギフォーズ議員はユダヤ系である)。
2012年04月23日
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↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっているティツァ・エズラ 1882年、ハンガリーのティツァ・エズラという村で、キリスト教徒の少女エステル・ソリモシが行方不明になった。すると当地の反ユダヤ主義の議員たちの扇動によって血の中傷が焚き付けられ、すぐさま地域のユダヤ人が告発された。法廷に立たされたユダヤ人は15人に上ったが、その中には屠殺人のシェロモー・シェヴァイツも含まれていた。このときは裁判所も教会も事件にあまり関心を示さなかったが、続いて公務員ヨセフ・シャープの2人の子供が誘拐され、教会の近くで監禁されるという事件が発生した。すると、この両事件によっていわば洗脳状態に陥った住民たちから、あたかもエステルの殺害現場を目撃したかのような証言が相次いだ。そのほとんどが、シナゴーグの中でシュヴァイツがエステルの喉を引き裂く様子をドアの鍵穴を通して見た、というものであった。マウリッツ・シャープという名のユダヤ人の若者は、傷口から滴り落ちる血をどのようにしてシュヴァイツが器の中に注ぎ込んでいたのかといった細部にまで言及している。また、犯人はシュヴァイツだけでなく、告発された残りの14人の他、自分の父親も事件に関与しており、彼らはエステルが暴れないよう押さえつけていたと証言した。さらには教会関係者の指示通り、地域のユダヤ人有力者の姿も現場で目撃したと供述した。シュヴァイツが抗弁の際、人間の首を切断した場合、傷口からは猛烈な勢いで血は噴出するので、一方の手で首を切断し、もう片方の手で血を受け止めるのは不可能であると主張したときは、これらの疑問に抵触しないよう証言し直している。事件を担当した弁護士、兼作家のカーロイ・エトベスは現場検証のために複数の裁判官をシナゴーグへ派遣したが、現場からは若者の供述を裏付けるものは何も出てこなかった。それどころか、シナゴーグのドアには鍵穴さえもなかったのである。この裁判は反ユダヤ主義者による暴動を惹き起こし、ついにはパラシュブルク(現ブラチスラバ)をはじめとした各都市でポグロムが発生するに至った。ハンガリー政府は戒厳令を敷くと共にユダヤ人居住区のある地域に軍隊を派遣した。首相ティサ・カールマーンは要職者に対して、公権力の立場にいる限りは決して無実のユダヤ人に危害を加えることを許してはならないと警告した。後日、ティサ川からエステルの遺体が引き上げられたが、その遺体に暴力が加えられた痕跡がないのは明白であった。ところが、彼女の母親は教会からの圧力を受けて、その遺体が自分の娘であることを否定したのである。また、遺体を引き上げた漁師たちは当局によって拷問を受け、公判の際、その遺体がユダヤ人によって引き渡された別人のものであると証言した。それによると、ユダヤ人が地域の病院から密かに遺体を搬出し、行方不明時にエステルが着ていた衣服を着せてから漁師たちに引き渡したというのである。つまり、ユダヤ人の依頼に従ってその遺体を川に投げ捨て、数日後に自分たちで引き上げたという自作自演説を主張したのである。とはいえ、遺体が消失したという記録はどこの病院にも残されていなかった。遺体はブダペストに搬送され、政府が派遣した病理学者の手で解剖されたが、調査の結果、エステルが死亡時に妊娠していたことが判明した。おそらく、愛人の子を妊娠したものの、その相手に逃げられてしまい、将来を悲観した挙句に入水自殺したものと見られている。エトベスの熱心な弁護により、告発されたユダヤ人全員の無実を訴える抗告がなされたが、ブダペスト高裁において棄却された。エトベスはこの事件の詳細を記録し、全3巻の書籍にまとめて発表した。また、彼が下院議員でハンガリー民主党の党首だった時には、ユダヤ人の権利を守るために彼の承認の下、自発的に訴訟費が支払われている。その後、彼は政党から除籍され、議員資格も剥奪された。そして各方面からの迫害に耐えながら不遇な生涯を送った。しかし今日のハンガリーでは、彼は国民的な英雄として尊敬されている。一方、偽証したマウリッツ・シャープは事件後にオランダに移住したが、そこでユダヤ教の信仰を取り戻し、事件に関する自伝的書物を発表した。アルノルト・ツヴァイクは1918年、戯曲"Ritualmord in Ungarn"(ハンガリーの人柱)を補完するため、マウリッツの自伝を基にして小説「サマエルの使命」を執筆している。 ポルナー 1899年、チェコのポルナーにて、19歳の少女アネズカ・フルゾワが殺害された。この事件は過越祭の期間中に起きたため、すぐさまユダヤ人の知的障害児レオポルド・ヒルズナーが告訴された。しかし彼を犯人と断定する証拠にはいくつもの問題があった。ヒルズナーの裁判には政治的、かつ反ユダヤ的な思惑が絡んでいることは明らかであった。そのため、トマーシュ・マサリクがヒルズナーを救うべく仲裁に乗り出したが、力添えにはなれなかった。ヒルズナーには死刑が宣告されたものの、彼の支援者が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に圧力をかけたため、終身刑に減刑された。その17年後の1918年、皇帝カール1世によって恩赦が出されている。 ケルキラ島 19世紀末、ギリシアのケルキラ島にはおよそ5000人のユダヤ人が定住していた。彼らの共同体はイタリア出身者とギリシア本土出身者に分かれていたが、共に経済的に成功しており、キリスト教徒とも表面上は友好的な関係を築いていた。ところが1891年、ユダヤ人の家の中庭にあった袋の中から首を切断された少女の遺体が発見されたことにより、潜在的に秘められていた反ユダヤ感情が爆発した。殺された少女はユダヤ人の仕立て屋の娘であった。しかしキリスト教徒は、その遺体が仕立て屋に養子に出されていたキリスト教徒の娘のものだと主張して譲らなかった。このため、腹に据えかねた多くの住民がユダヤ人を裁くために大通りに集まる騒ぎに発展した。そこで、ラビの訴えもあって地元の司教が仲裁に当たったところ、かろうじてポグロムの発生を食い止めることができた。ただし、この事件によってユダヤ人の多くが同島での生活を諦めざるを得ず、富裕層を中心におよそ3000人がイタリアのトリエステやエジプトのアレクサンドリアといった他国のユダヤ人居住区に移住した。 キエフ 1911年、ウクライナのキエフにて、儀式のために少年を殺害した嫌疑でメナヘム・メンデル・ベイリースが告訴された。この裁判は帝政ロシアの末期という時勢もあって、リベラル派と保守派との政争にも利用された。ベイリーズの支援には大勢の学生が参加し、彼に有利な世論を形成した。裁判が続けられた2年間、彼は拘置所での生活を余儀なくされたが、最終的には陪審員による無罪判決を勝ち取っている。 ナチス・ドイツ ヨーロッパにおける血の中傷を再燃させたのは、ナチス・ドイツであった。それはアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の記述において如実に見て取れる。第三帝国期には実際に血の中傷絡みの訴訟が起こされている。 キエルツェ 1946年、ポーランドのキエルツェにて、ユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供の血を利用しているという噂が広がり、ポグロムを惹き起こした。事の発端は、2日間の行方不明の末に発見された9歳の少年が、地元警察での事情聴取の際、ユダヤ人の議会施設に監禁されていたと供述したことにあった。彼はそこでユダヤ人がキリスト教徒の子供を殺害するのを目撃したという。そこで警察は、狂信的なユダヤ人が過越のパンに混ぜる血を採取する目的で殺害したと推理し、捜査のために当該の施設に向かった。すると、噂を聞いて激怒した地元民たちが暴徒と化して警察の後を追って来た。当時現場に居合わせた目撃者によれば、暴徒らはユダヤ人が所有する武器が押収されるのを見ると、家屋に向かって投石を始めたが、やがては警察官や軍人までもがその行為に加わり、ついにはポグロムへと発展してしまったという。この騒動によって約200名いたユダヤ人住民のうち、42名が命を落とし、80名もの負傷者が出たが、彼らは皆、ホロコーストの生き残りであった。また、暴徒からも2名の死者が出ている。ソビエト政府とポーランドの右派は、このポグロムにはユダヤ人と暴徒の双方に責任があるとして告訴した。暴徒から数名が法廷に立たされたが、警察官や軍人は含まれていなかった。それから60年を経た2006年の追悼式典にて、ポーランド政府はこの事件に関して公式に謝罪し、「キエルツェでの悲劇はユダヤ人だけでなく、ポーランド人に対しても耐え難い屈辱を与えた」と述べている。 アラブ世界 20世紀になると血の中傷はアラブ世界にまで浸透したが、その背景には中東戦争があった。例えばエジプトではユダヤ人の人身御供の習慣に関する書物が多数出回っていた。また、第2次インティファーダの期間、同国のテレビでは、パレスティナ問題に絡んで血の中傷を煽り立てる番組が盛んに放送されており、中にはアリエル・シャロンがアラブ人の子供の血を飲んだと訴える番組もあった。堪りかねたムバラク大統領は急進的なテレビ番組を非難する声明を発表したが、彼はその声明において「すべてのユダヤ人がそのようなことを行っているのではない」という旨の発言を行っている。これはすなわち、一部のユダヤ人は血を飲んでいると公式に述べたも同然であった。またエジプトと同様、第二次レバノン紛争時にはヒズボラも独自のテレビ網を通じて、血の中傷を視聴者に吹き込んでいた。 その他の代表的な中傷 ホスチアの中傷 ユダヤ人は血の中傷だけでなく、それ以外の様々な中傷にも耐えてきたが、その一つに、ユダヤ人がキリスト教のミサで用いられるホスチア(薄焼きのパン)を冒涜するというものがある。ホスチアはキリスト教徒によってイエスの体(聖体)の象徴と見なされており、敬虔なキリスト教徒は、ホスチアを刺すとそこから血が滴り出るという話を信じている。1290年、パリに住むユダヤ人夫妻に関する中傷が広まった。それによると、この夫妻がとある教会の秘密の部屋で、床が血で溢れかえるまでホスチアを刺していたというのである。異端審問にかけられた2人は火刑に処せられている。同様の事件は1556年にポーランドのソハシェブでも起きており、3人のユダヤ人に死刑が宣告されている。1298年の夏、ドイツでもホスチアにまつわる中傷から惨劇が起きている。フランケン地方のレッティゲン(R?ttingen)という町のあるユダヤ人の家屋から赤子の泣き声が聞こえたが、これがホスチアの呻き声として噂されたのである。すると「リントフライシュ王」K?nig Rintfleisch(※ドイツ語で「牛肉」を意味するRindfleischとは異なる)と名乗る騎士(屠殺人という説もある)は、 “天から、聖体に対する冒涜の容疑でユダヤ人を絶滅させる使命を受けた” と宣言した。彼の指揮の下に煽動された群衆が暴徒と化し、4月20日レッティゲン在住のユダヤ人56名を惨殺した。群集はその勢いのまま各地を巡行し、フランケン地方の2大中心都市ヴュルツブルク(7月24日)、ニュルンベルク(8月1日)ほか、バイエルン地方、シュヴァーベン地方などで146もの町を破壊した。今日では、この一連の暴動によって、およそ2万人ものユダヤ人が虐殺されたと見積もられている。(de:Rintfleisch-Pogrom)
2012年04月23日
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↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっているトロワ 1288年のフランスのトロワでの異端審問裁判にて、13名のユダヤ人が儀式に使う血を採取するために子供を殺した廉で、火刑に処せられている。 トレントのシモン 『トレントのシモンの物語』(ハルトマン・シェーデル 1493年)の挿絵1475年、イタリアのトレントで、ユダヤ人の家の井戸の中からシモンという名の少年の遺体が発見された。おそらく、キリスト教徒の殺害者が安易に罪を逃れようとして遺体を投げ込んだものと見られる。地域のユダヤ人たちはそのように推定したものの、当局に対して立証する手立てが何もないために動揺した。さっそく、ユダヤ人の家の中から子供の泣き声がするのを聞いたと証言するキリスト教徒が現れた。尋問は凄惨を極めたため、家族の者は事件への関与を認ざるを得ず、当局の調査内容に沿った事件の詳細を供述した。首謀者とされたユダヤ人は水磔、他の者たちは白熱したやっとこで肉を割かれた後、火刑に処せられた。この事件では13名の命が奪われ、残されたトレントのユダヤ人たちも町から追放されてしまった。その後、ローマのユダヤ人たちの請願が通じ、教皇庁は事件の再調査を命じた。すると密告者が現れ、彼は身の危険を案じながらも、ユダヤ人に対して行われた裁判が公正な訴訟手続きを踏まないまま、尋問による自白のみを頼りに進められたことを暴露した。この調査結果を受けて教皇庁は事件の究明委員会を設置したが、最終的に採択された決議は玉虫色のものであった。つまり、インノケンティウス4世の禁止令を改めて批准する一方、トレントでの訴状手続きが適正であり、これ以上委員会が干渉する理由はないと結論付けたのである。後代になると、シモンの伝記が複数執筆されたが、いずれの内容にも様々な奇跡譚がちりばめられていた。その奇跡のおかげで彼は1588年、教皇シクストゥス5世によって列聖されている。ただし、1965年になるとパウルス6世によって列聖は無効とされた。トレントの教会には現在、次のような碑文が彫られている。「かつてこの場所では、人類史上の黒い一頁として記載されている耐え難い出来事があった。」イスラエルの歴史家でバル・イラン大学の教授アリエル・トアフは、教皇庁の依頼に応じて当件の調査にあたり、その結果を著書"??? ?? ??"(血の過越)にまとめたが、同書では、シモン殺害は戒律を破ることさえも厭わないユダヤ人急進派による行為であると結論付けている。それによると、当時集められた証言を検証したところ、公判記録に残っている血と砂糖を取引していたとされるヴェネツィア出身の商人の実在が裏付けられるなど、証言には十分な信憑性があるとしている。しかし、彼の著作はイスラエルでは酷評に晒され、非科学的で査読に堪えない書物を大衆に公表したとして、学者としての姿勢もろとも糾弾されている。彼に対する反論の主なものは、過去に十分検証され尽くした資料を強引に解釈する、その方法論に向けられている。また、500年以上も時を経た今日に至っては、過去の証言だけではいくら検証し直しても、尋問を否定するに値する情報を見出すことは不可能であり、仮にその証言に信憑性があると判断するのなら、中世ヨーロッパの魔女裁判において、サタンとの情交の嫌疑で火炙りにされた何千人もの女性の自白さえも認めざるを得なくなってしまうと述べている。 ラ・グアルディア -心臓の中傷 [編集]1491年、すなわちユダヤ人のスペイン追放前夜、ラ・グアルディアにおいて多数のユダヤ人が、儀式において子供を惨殺した上、遺体から心臓を取り出したという嫌疑で告発された。しかし、子供が行方不明になったという報告はなく、死体が見つかったという記録さえも残されていない。にもかかわらず、告発されたユダヤ人たちは極刑に処された。現在では、殺されたという子供自体がそもそも実在していなかったと見られているが、この話を広めた者たちは、子供が犠牲になった瞬間に地震が起こり、太陽が暗闇に覆われたなど、あたかもこの事件がキリストの受難の再現であるかのごとく吹聴していたのである。また、遺体が見つからないことに関しては、天に召されたからだと言って納得させていた。一部の歴史家たちは、この事件が不測の事態から生じたのか、あるいはスペイン追放を控えた時勢を鑑みれば、土地を接収するために取られた計略の一環だったか、その真偽についての解明を進めている。ラ・グアルディア発祥のこの物語は後代に戯曲化され、スペイン文学史において数百年の間、歌い継がれた。 近現代 ポーランドとロシア [編集]17世紀になるとポーランドにも血の中傷が波及し、西ヨーロッパと同様の現象が起きた。ただし、同国のカトリック教会は時勢に惑わされることなく、伝統的な教義から逸脱することはなかった。18世紀から19世紀の初頭にかけて、ポーランドとロシアにおいて血の中傷が波状的に流行し、殺人事件をも含む様々な虐待行為が惹き起こされるようになった。ポズナン、ザスロウ、ジトームィル、ベリジュといったゲットーのある地域では特に酸鼻を極めた。1736年、ポズナンにおける血の中傷で4人のユダヤ人指導者が虐殺された。1747年、ザスロウで過酷な拷問の末に4人が命を落とした。1753年、ジトームィルで12人のユダヤ人が生きたまま切り刻まれた後、火炙りにされた。1823年、ベリジュにて多数のユダヤ人が牢獄に監禁され、その後数年間も拷問を受けた。 ロシアでの血の中傷裁判 [編集]19世紀のロシアでは、儀式的殺人の廉で告発されたユダヤ人の裁判が複数回執り行われたが、1件の例を除いたすべての件で無罪が確定している。にもかかわらす、時の皇帝ニコライ1世は1817年における布告で、「ユダヤ人の中にはキリスト教徒の血を必要としている者が多数いる」と公式に述べた。特殊な例としては、1852年から翌年にかけて、サラトフで多数のユダヤ人が血の中傷によって告発され、2名のユダヤ人が15年もの間、牢獄で拷問を受けていたというケースもある。ただし、1855年には血の中傷に関する調査委員会が設置されており、いずれもがデマでしかなかったことが立証されている。 イズミールとコンスタンティノープル [編集]1872年から1874年にかけてのオスマン支配下のイズミールとコンスタンティノープルで広まった血の中傷は、当地のユダヤ人に様々な悲劇をもたらしたが、その多くはギリシア人によるものであった。 ダマスコ 1840年にダマスコで起きた血の中傷にまつわる事件は、世界中のユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えた。この時期はムハンマド・アリーによるフランス傀儡政権がダマスコを統治しており、イギリスとオーストリアを後ろ盾にしていたオスマン帝国との交戦中でもあった。血の中傷の背景には、1840年2月5日にトマソという名前のイタリア人修道士と付き人のイスラム教徒が、ユダヤ人街の市場を訪れたのを最後に行方不明になるという事件があった。ダマスコのフランス領事ラティ・メントンは反ユダヤ主義者として知られていたが、彼はこの機会を逃さず、すぐさまユダヤ人が関与しているとして告発した。一方、フランスの首相アドルフ・ティエールは政府主催の代表者会議をダマスコで開催し、エドモンド・ジェームズ・ロスチャイルドとの話し合いの中で次のように述べている。「もし中世のユダヤ人たちの儀式的殺人への関与が自明であるなら、今日のダマスコの薄汚いユダヤ人が彼らと同じことを行わない理由とは何なのか?」すると、あるユダヤ人に疑惑の目が向けられたので、さっそく取調べが始まった。厳しい尋問によって自白せざるを得なくなった彼は、苦し紛れにユダヤ人共同体の7人の有力者の名前を挙げた。彼らはすぐさま逮捕され、尋問の挙句に数人が命を落とし、残された者たちは観念して自白した。この事件の首謀者とされたのはハイム・ファルヒという実業家で、ユダヤ人によるパレスチナ開拓や教育をはじめとした、公共施設に多額の献金を行っていた人物である。彼は様々な尋問を受けたものの、幸い嫌疑不十分で釈放された。同じく容疑者としてダマスコの著名なラビ、ヤアコブ・アンテビも拷問を受けたが、後に名誉を回復している。この間、ユダヤ人街から豚のものと見られる骨が発見された。ところが当局によって修道士の骨として公表され、教会内で厳かに埋葬された。これを受けて、ユダヤ人が貯蔵していると噂される血のありかの捜査が始まったが、当局はユダヤ人からの自白を引き出すため、3歳から10歳までの彼らの子供たち60名を誘拐するなど手段を選ばなかった。ダマスコでの事件は、噂となって世界中のユダヤ人の耳に届いていたものの、当初はわずかな援助しか差し伸べられなかった。ところがこの誘拐事件によって関心が高まり、子供たちの救出へ向けての各方面からの働きかけが増加した。これは多分に民族、及び宗教闘争の要素を孕んでいた。この過程においてモーシェ・ハイム・モンテフィオールの努力が実り、オスマン皇帝アブデュルメジト1世によって、帝国内の事件でないにもかかわらず、血の中傷の流布を厳禁する布告がイスラム教徒に出されたりもした。中でも目立った活動をしたのはドイツの詩人でパリ在住のユダヤ人キリスト教改宗者ハインリッヒ・ハイネであった。彼は血の中傷への反論を声高に叫び、その迷信に内包された反ユダヤ主義者のコンセンサスを明らかにした。また、イギリス政府も罪なき被害者の救出活動に全力を注いだ。ダマスコでの血の中傷がユダヤ民族史上の一つのターニングポイントとなったことは間違いないであろう。この事件を通じて、中東のユダヤ人とヨーロッパのユダヤ人との間の溝が埋められたのである。一方、ロスチャイルド家のメンバーはオーストリア領事の協力を得て、事件の詳細を文書にまとめ、それを新聞を通じて世界中に配布した。すると思惑通り、国際世論から激しい非難の声が上がった。そのため、アドルフ・クレミューを団長とするフランスのユダヤ人使節団がエジプトに赴き、事件の仲裁に乗り出すようムハンマド・アリーに働きかけた。こうして、2ヶ月にも及んだ監禁生活から子供たちが解放されたことにより、事件そのものの一応の決着を見た。また、この事件の責任を問われたダマスコの知事は処刑されている。1986年、シリアの国防相ムスタファ・タラスは、公表した書籍の中でダマスコでの血の中傷に触れ、儀式用の血の採取を目的としたユダヤ人による修道士の殺害は実際にあったことだと述べている。イスラエルの劇作家アロン・ヒルはこの事件をモチーフにした小説(修道士の死)を2004年に発表した。
2012年04月23日
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↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっている古代 フラウィウス・ヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティアフ)は『アピオーンへの反論』でのユダヤ人を擁護する記述の中で、反ユダヤ主義信奉者がユダヤ人の誹謗中傷をヘレニズム世界の各地に蔓延らせていたと述べている。ヨセフスが紹介した中傷は次のような話であった。アンティオコス4世エピファネスがエルサレムの第二神殿の中に入った際、収監されていた一人のギリシア人男性の姿を見付け、彼が何者で、そこで何をしているのかを尋ねた。するとその男は、ユダヤ地方を訪問中に捕らえられて囚人として神殿に連行されたのだが、そこで食料をたらふく食べさせられていると答える。アンティオコスはさらに質問し、その言葉の意味を質したところ、彼は答えた。「ユダヤ人の律法では、国外から訪れるギリシア人を捕らえて丸1年かけて十分に太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」と。ヨセフスがユダヤ人に対する中傷への反証のために持ち出したこの屈辱的な逸話は、自らもユダヤ人であったヨセフスがあえて書物に記録したことにより、ヘレニズム期からローマ時代にかけて、この種のデマが流布していたことの信憑性を高めている。 中世 ノリッチのウィリアム:最初の血の中傷 [編集]血の中傷が最初に知られるようになったのは、イギリス東部の町ノリッチで発生したデマによってである。1149年、トマスという名の修道士によって下記のような噂が広められ、瞬く間に有名になったという。ただし、資料学的な検証の末、現在では1144年に起きた出来事と推定されている。ある日のこと、ウィリアムという名の幼児の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマスは、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。このユダヤ人に関連して別の歴史家は、彼の偽証は当時一般的に語られていた中傷の一つになったに過ぎず、その背景ではもっと悲惨な事件が多数起きていたと述べている。当地の権力者等はこの事件に一切絡んでいなかったため、その責任はトマス一人にあるといえるが、彼が確立した血の中傷は作者を離れて独り歩きし、その後に誕生する何百というバリエーションのプロトタイプとして世代を通じて語り継がれてゆくのであった。 ブロワ 1171年にはフランス中部の町ブロワでも血の中傷が発生したが、いくつかの点で特殊な事例であった。遺体の発見や幼児の行方不明といった伏線がない状況で発生した。どうやら、あるユダヤ人とキリスト教徒の使用人がすれ違った際、加工された皮の包みをユダヤ人が落としたことが火元になったと見られている。使用人はその皮が子供の遺体から剥ぎ取られたものと疑って、すぐさま主人に報告した。その主人は以前にユダヤ人の富豪ともめた経緯があって、復讐の機会を窺っており、その報告を好機と見たのである。その他の事例とは違って、この件にはブロワの権力者も積極的に絡んでいた。それは当地におけるユダヤ人がらみの裁判を円滑に進めることを目論んでいたからである。この事件は、32名(一説では40名)のユダヤ人が、家の中に閉じ込められたまま建物ごと燃やされるという、痛ましい結末を迎えている。ブロワにおける惨殺によって大変な衝撃を受けた同時代のユダヤ人たちは、その日を心に刻み込むためにシバンの20日を断食日に制定した。その制定は、今日ではラベィヌー・タム(ラビ・ヤアコブ・ベン・メイール)の一連の業績の一つに帰されている。また、当時行われた断食については、ゲダルヤの断食よりも大規模なものであったと伝えられている。ボン出身のラビ、エフライム・ベン・ヤアコブは自著"??? ??????"(追悼の書)において、ブロワのユダヤ人の受難を次のように描写している。「女性や子供をも含めた共同体の全住民が賛美歌アレィヌーを口ずさみながら積み上げられた薪の上に載せられた。厳かな低音の声で祈りは続いたのだが、最後には悲鳴と絶叫に変わっていた。そして全員で声を合わせて『アレィヌー・レシャベァフ』と祈った後、火の中で燃え尽きた。」 プルダー 1235年、ドイツのプルダーにて、キリスト教徒の粉引きの息子5人が森の中で惨殺されるという事件が起きた。すると瞬く間に、その町の32名のユダヤ人が復讐心から子供たちを殺したというデマが広まった。事件当時のプルダーには、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世も滞在していた。彼はすぐさま調査に協力し、キリスト教に改宗したユダヤ人学生を集めて、参考までに彼らの意見も聞いてみた。すると彼らは、ユダヤ教の儀式でキリスト教の血を使うなどありえない、と断定的に答えたのである。フリードリヒは彼らの言葉を信じ、血の中傷が単なるデマであるとする勅旨を公布し、そのデマを広げた責任者たちを厳罰に処した。1247年にはローマ教皇インノケンティウス4世も血の中傷の問題の対処に乗り出し、各地の大司教、及び司教宛に次のような手紙を送っている。「権力の要職にある者たちがユダヤ人の土地を略奪するためにドイツ全土にて蛮行を働いていると彼らは抗議しているが、我々はその抗議を全面的に受け入れる。これらの蛮行に加担した者たちは、キリスト教の教義がユダヤ教の旧約聖書の上に立脚していることを忘れた愚か者である。旧約聖書にはこのように書かれている。『殺すなかれ』と。あなたたちはユダヤ人が過越祭において子供を殺してその死体を食べていると訴えているが、彼らは過越祭の期間中、死体に触れることさえも許されていないのである。あなたたちは殺人事件で容疑者が不明の場合、いつでもユダヤ人にその罪を被せている。しかも十分な捜査は行われず、目撃証言もなければ裁判も開かれず、あまつさえ抗弁や自白さえもまいまま、ただユダヤ人を迫害したいが一心に愚かな蛮行を繰り返している。ローマ教皇庁の慈悲によってユダヤ人に土地の所有権が与えられていることに不満を抱いている者は、彼らに対して監禁や尋問といった様々な虐待を加えた挙句、極刑に処している。なればこそ、敬愛すべき兄弟であるあなたたちに忠告する。初心に立ち返り、法に背かないよう自戒しなさい。また、ユダヤ人に非がある場合以外は、彼らに対するいかなる迫害をも許してはならない。」この文面はインノケンティウス4世に続く歴代の教皇によって、繰り返し引用されていた。 リンカン 1255年、イングランドのリンカンにて、貧困層の子供が森の中で行方不明になった。遺体は井戸の中から発見されたが、容疑者として真っ先に疑われたのはユダヤ人であった。尋問の末、彼らの中の一人が罪を自白したものの、その自白は減刑には結び付かなかった。彼は馬の尾に結び付けられて市内を引き回された挙句、その他17名のユダヤ人と共に処刑された。それから200年後の時代の詩人ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の逸話「女子修道院長の話」の中で、リンカンでの血の中傷を取り上げている。
2012年04月23日
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1989年5月1日、オプラ・ウィンフリー司会のワイドショーで一人の女性が証言した。 彼女は幼い頃、「儀式殺人」の場に参加させられ、幼児が殺されるのを見て トラウマ(精神的外傷)を負ったという。 彼女はユダヤ人だった。 全国ネットで放送された番組には、当然ユダヤ人団体からの猛抗議が寄せられた。 シカゴ・トリビューンのワイドショーに関する記事によれば、ユダヤ人女性は恐ろしい経験のために「長期的な医学療法を受けていた」ユダヤ人圧力団体は、オプラ・ウィンフリーショー・シカゴ・トリビューン、1989年5月7日付けの記事にたいしてニューヨークタイムズに抗議した。
2012年04月19日
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↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっている血の中傷は、ユダヤ人に対する憎悪によって生み出された迷信である。特にキリスト教社会において、ユダヤ人の迫害、追放、虐殺といった差別行為の口実として用いられてきた。血の中傷はディアスポラ時代のユダヤ人が経験した過酷な運命を象徴している。当初は宗教的な対立を背景に広まったが、やがては狂信をもたらし、ユダヤ人から土地の所有権や各種債権、さらには人権をも剥奪するにまでエスカレートした。現代においても経済格差や人種差別による対立感情から誘発される、ユダヤ人に関するデマは後を絶たない。血の中傷の起源は古代にまで遡ることができる。それがキリスト教社会固有の潮流としてヨーロッパ地方の各地で爆発的に拡散したのは中世末期のことである。ただし、時の権力者、及び教会の上層部が必ずしもその迷信に加担していたとは限らない。なお、この迷信は今日まで一度としてその事実が証明されたことがない。ユダヤ人についての事実無根の噂がでっち上げられた例は各時代、各地方において確認され、それは膨大な数に上る。中でも有名なのが、過越しのパン(マッツァー)の中にキリスト教徒の子供の血を混ぜるという噂であった。これが「血の中傷」という言葉のそもそもの由来である。だが、この噂が広範囲に流布されるに及んで、ユダヤ人に対する中傷一般を指す概念として用いられるようになった。血の中傷はユダヤ人差別の象徴として、彼らに対する憎悪を一層掻き立てる機能を果たした。特に過越祭の期間にその機運が高まったが、それは過越祭そのものが他の祭に比べて民族主義色が濃く、ユダヤ教の起源、習慣、信仰といったアイデンティティをより具体的に表現していたことも関係している。ユダヤ教には殺人についての厳格な禁止事項があった。また古来より、肉食には細心の注意を払っており、タルムードでは人肉食についての警告を発してもいる。にもかかわらず、ユダヤ教徒は特別な儀式において祭具に滴らせるキリスト教徒の血を必要とし、そのために密かにキリスト教徒の子供たちを殺害し、その遺体から血を絞り出しているといった噂が公然と囁かれていた。ユダヤ人によるキリスト教徒殺害という観念はイエスの受難を連想させ、その再現とさえ見なされていた。その種の噂は以前からあり、単純にキリスト教徒に対するユダヤ教徒の復讐であると説明されていたが、その後、反ユダヤ主義者にとって都合の良い別の説が定着するようになる。それが上述の、過越のパンにキリスト教徒の子供の血を混ぜるというものであった。さらには、過越の晩餐に供されるワインにも血が注がれているといったと尾ひれが付くようになり、年を追う毎に、過越し祭が繰り返される度に話が膨らんでいった。血の中傷にまつわる流言は、中世以降の800年間におよそ200のバリエーションが数えられているが、そのいずれもが核心部分にはほとんど手が付けられていなかった。よって、世代を通じて固定観念が形成されるようになり、血の中傷についてのおおよそのストーリーが完成するに至った。それによると、過越祭の数日前になると突然、キリスト教徒の子供が行方不明になる。祭が終わった頃になると子供の遺体がユダヤ人の家の近辺で発見される。その遺体には血を抜き取られた形跡がある。ここまでくれば結論は明らかであるが、亡くなった子供はユダヤ人の過越しの生贄として犠牲になったという話の流れである。当時のキリスト教徒は、自分たちのことをユダヤ人よりも啓蒙され、より文明的であると考えていた。よって、キリスト教社会では穢れた職業として禁忌されていた金融業にユダヤ人が携わっているのならば、儀式においても人肉を食したり血をすすったりするような野蛮な信仰、習慣を保持しているに違いないと当然視していたのである。血の中傷は、当初はイギリスとフランス国内でのみ、まことしやかに囁かれていたが、この両国を中心に各国へと伝えられ、やがてはヨーロッパ全土を席巻するに至った。
2012年04月19日
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モーゼス・デ・レオンは、1250年頃スペインの西北部の都市レオンで生まれた。 彼の1264年頃に、彼は既に優秀な学生であったらしい。彼は最初はマイモニデスの哲学に興味を持った。彼は、そこから神秘主義思想に入り、カバリストとなった。 さらにアブラフィアの信望者ヨセフ・ギガティラと接触し、影響を受けた。ギガティラは、ここにおいてセフィロトの解釈に、「女性原理」と「男性連理」の二元論的概念を提唱していたのである。 ゾハールは、このギガティラの思想を一歩進めたものである。というのも、この書では「男性原理」と「女性原理」に、さらに両者を調停する第三の原理を導入しているのである。 その後、彼は各地を移動したが、1290年頃にはグアダラハラに定住した。その後、彼は家族と共にアビラに移住した。当時、ユダヤ社会で当地に預言者の噂が生じ、それに誘われてのことらしい。 そして、1305年にヴァラドリッドの領主の館からの帰途に、アレヴァロで客死する。 彼の残した著書の多くが写本の形で現存するが、印刷されたのは2冊のみである。 一つは「証の薔薇」で1286年に執筆された。しかし、これは半分しか現存していない。 もう一つは、「石榴の書」であり、1287年に出版された。こちらは、主にモーゼの十戒について触れられたものであるが、ともに神秘主義色の強いカバラの著書である。 彼の生涯に関する記録は多くはない。また、印刷された著書も2つだけである。 しかし、なぜ彼が注目を集めるのかというと、彼こそが、かの「ゾハール」の著者の最有力候補に挙げられているからである。 少なくとも彼は1270年から1280年の間にカスティラ地方のサークルの一員であり、そこで高い地位を得ていたらしい。 彼の著書にはゾハールについて言及した部分が全く無い。しかし、彼は突然「私の自宅にはシメオン・ベン・ヨハイによって書かれた古代の書がある」と言い出した。 そして、彼はその書物を周囲の金持ちに高額で販売していた。これこそが「ゾハール」の写本であったと思われる。余談だが、彼は金使いが粗く、これらの金もあっというまに浪費してしまったという。 もし、彼の家に古い書物が本当に伝わっていたというなら、彼がそれを初期の自著に引用しないというのは不自然ではないか? また、彼のほぼ同時代人に、彼こそがゾハールの著者であると書き残している者もいる。 それは、イサク・ベン・サミュエルという人物である。彼はレオンの死後、学生の時分に、レオン未亡人に「ゾハール」の原典を譲ってほしいと要求した。すると、レオン未亡人は、そんなものは存在しない。それは夫のレオンによって書かれた著書であると答えたという。 レオンが言うには、「もしゾハールを私の著書だといって発表したら、誰も私の著書には注意を払わないだろう。しかし、シメオン・ベン・ヨハイによって書かれた古代の書といえば、人々は高い価値をそれに見出すだろう」と。 彼はゾハールの原型にあたる「ミドラシュ・ハ・ネラエラム」を1275年から1280年にかけて書いたらしい。少なくとも彼の印刷された著書「石榴の書」には、ゾハール本文の引用は見られないが、「ミドラシュ・ハ・ネラエラム」と重なる部分がある。もし、本当に彼の家に「ゾハール」があるのなら、この著書からの引用がなければおかしいのではないか? ゾハールの本文は、おそらく1280年から1286年頃に書かれたらしい。 彼は1293年までに、多くの草稿を書き上げたが、その内容は「ゾハール」を宣伝するような内容のものが多い。 少なくとも彼は1290年代初頭から、ゾハールを小出しにしながら、カバリスト達の間にばらまいたらしい。それはあっという間に、カバリスト達の間に広がったのである。 仮に彼がゾハールの著者でなかったとしても、彼がこの本を喧伝し、広げたのは事実であろう。 また、彼以外にも便乗して似たような文書を書かれ、それもゾハールの中に紛れ込んだ可能性もある。 彼はアブラフィアの思想を最初に学んだ。 アブラフィアは徹底した実践主義であり、瞑想を通じて神に至る道を説いた思想であった。しかし、レオンは、神性の世界の秘密、奥義をそのものを考察すること、叡智による宇宙の奥義に至る道を説く。そして、「旧約聖書」の研究を重視すべきと考えた。 彼がゾハールを執筆した動機も、こうした思想の喧伝にあったのではないかとも考えられる。
2012年04月19日
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著名なドイツの学者であるエーリック・ビショツフ博士は、『ティタンネ・ゾハール』のなかに、ユダヤ儀式殺人をはっきりと是認している箇所があると指摘している。 「なおその上、野獣のごとき異邦人を殺すについて掟がある。この殺戮はユダヤ教の戒律に則った 方法で行なわなければならない。ユダヤ教の戒律に帰依しない者たちを、高き神(High God) への犠牲に捧げなければならない」 ユダヤ人によるキリスト教徒の子どもの殺害はふつう重要な祝祭の期間中に行なわれる。 たとえばユダヤ教のプリム祭や、過越祭のときである。 ユダヤの戒律は、プリム祭の非ユダヤ人犠牲者は成人でもかまわないと規定している。 また、万一にも非ユダヤ人犠牲者を一人も捕えることができない場合、以前に捕えた犠牲者の 乾燥した血液を使ってもよい、とされている。 しかし、過越祭の犠牲者は七歳以下の白人の子どもでなければならないとする点で、ユダヤ の戒律は極めて厳密である。子どもは蒼白になるまで血を流し、いばらの王冠を被せられ、 拷問を受け、打榔され、短刀で突き刺され、最後に脇腹を突き刺されて、止めを刺される。 短刀はラビの手に握られて、キリストの礫刑を忠実に再現するよう、規定されている。 キリストがユダヤ人を非難したように、ユダヤの本質に対してたとえ少数の非ユダヤ人が警戒 を抱いたとしても、その批判する者を殺すことによってユダヤ人は常に勝利を収めることを、 この復讐の儀式が再保証するのである。 この犯罪がしばしば露見する第一の理由は、非ユダヤ人の子どもの刺し傷のある全裸死体を、 生血をすっかり絞り尽くしたあとで、ゴミの山に廃棄するか埋葬しないで遺棄なければならない からである。 ユダヤのしきたりでは、犠牲者の遺体の埋葬を禁止している。埋葬すれば、犯罪の疾跡を 隠せるのに、そうしないのは、ユダヤの聖典『タルムード』は、非ユダヤ人を畜獣であると規定して おり、畜獣の埋葬は禁止しているからだ。 ゾーハル(s?pher hazZ?har, Zohar)はトーラー(五書)の註解書であり、ユダヤ教神秘思想(カバラ)において中心となっている書物で、アラム語で書かれている。一般的に『光輝の書』と訳され、『ゾハールの書』とも言われる。ユダヤ神秘思想の中に出てくる、セフィロトの木やアダム・カドモン、様々な天使、膨大な数を取り巻く多くの天国などの諸々の神秘思想などがまとめられたユダヤ神秘思想関係の重要文献である。13世紀のスペインのラビ・モーゼス・デ・レオンの著作とされ、シメオン・ベン・ヨハイとの講話記録形態をとっている。尚、セフィロトにも善悪の二つの理論体系があるとしてゾハールの書に影響をもたらした、ラビ・イツハクが参考にした『バヒルの書』には悪の起源の問題があり、他、両性具有理論やセフィロトの発生過程などの説明も記されているとされる。ゾハールの書以前の『バヒルの書』はカバラ神秘思想の道を切り開いた、カバラ神秘思想の最初期の書物といえるであろう。
2012年04月19日
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CIA長官補佐がワシントンで自殺を図った。死因は「働きすぎ」だと診断されたが、それによって恐ろ しい悲劇がおおい隠されたのだった。この職員は神経がまいってから三カ月間仕事をしていなかった。 彼は、ユダヤの宗教儀式で殺される大勢の非ユダヤ人の子どもたちに対して、偶然とはいえ責任が あったことに気づき、いささか良心の仮借に駆られていたのである。 非ユダヤ人である彼は、ユダヤ人が60%を占めるという機関CIAで「特殊能力」の持ち主として 有名だった。 その特殊能力とは、男色(ホモセクシャル)の相手として外国の官吏の慰みに供する少年たちを狩り 集めるという才能であった。すくなくとも彼は、そのように聞かされていたし、そうでないと疑う理由も 見当たらなかった。 というのも、国際的な諜報活動で少年を利用することは古くからある話だった。それに、ほとんどの 政府は、他団政府の高官を脅迫するために、少年たちをいろいろなおりに雇った前歴がある。 夕方の早い時間、このCIAの職員は下町をぶらぶらと歩いて美少年を見つけるのが仕事だった。 彼は少年に話しかけ、ほかに用事がないといえば、少年に、20ドルていどのおカネになる一寸した しごとがあるからとホテルの部屋へ連れていって、そこで待っているもう一人の工作員に引きわたして 立ち去る。 こうして1947年から52年までのあいだにこのCIA職員は、パリとウィーンの街頭で86人の少年を 狩り集めた。ホテルの部屋に少年たちを残して立ち去ったあと、ふたたび少年たちの誰とも彼が会わ なかったのは奇妙なことに思えたに相違ないのだが、彼はこの少年たちのその後の消息を耳にする ことはなかった。 1963年に、ワシントンのCIA本部にいるユダヤ人工作員が、この職員の以前の特技を聞き及んで いて、自分にも少年を一人調達してくれないかともちかけた。このときまでに、非ユダヤ人である職員 はCIAの権力機構の中で長官補佐に出世していた。それで被は、そういう活動にたずさわる必要は もうないのだといって断った。 すると、そのユダヤ人は次のようにいって、被をびっくり仰天させたのだった。 「おまえさんはすでに八六人も殺して気がとがめているんだから、あと一人ぐらい殺したって、 どうってことないじゃないか」 非ユダヤ人であるこのCIA職員が、少年たちはすべてユダヤ儀式殺人の犠牲に供されたことを知ら なかったとは、ユダヤ人工作員には信じられないことだった。 そこで、ユダヤ人は儀式の全貌を彼に描いてみせた。ユダヤ人は最後に「まもなくはじまる過越祭の 儀式に用いる少年を入手してくれないと、おまえさんの正体を暴露してやるぞ」と脅迫した。 夕刻、自宅にもどった非ユダヤ人は、神経が完全にやられてまいってしまい、二度と回復することは なかった。・・・・そして数カ月後、彼は自殺した。
2012年04月19日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二十三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 奢侈品製造業の縮小。親方工業。失業。酩酊の禁止。旧社会の追放と新形態 の復活。神が選んだもの。 人民を服従に慣らすためには謙遜ということを教え込む必要があり、従って奢侈品の生産を縮小すべきである。これによって贅沢を張り合う卑しい根性を改める。われわれは小さな親方製造業を再編成して、個人資本の工業家を倒すという狙いをもっている。大規模の製造業は必ずしも意識的ではないにせよ、政府に反対する考え方を群集に植えつけるので、この処置は欠かせない。小さな親方たちは罷業を知らず、既存の秩序にしっかり結び付いている。罷業は政府にとっては破滅的な一大問題である。われわれは時の権力をわれらの手に移す時に、この手を使う。酩酊も法律によって禁止し、酒の力で野獣に変わる人間性に対する罪として処罰する。 重ねて述べるが、臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従する。かれらはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……かれらは王者に天使の心を期待するのか? かれらが王者に見たいのは力、力、力の権化なのである。 現存する支配者たちに代わるわれらが至高の君主は、何をしなければならないか。われわれが意気阻喪させた社会、神の権威すら失墜させた社会、四方八方から無秩序混乱の火の手に包まれている真中で、支配者たちはその存在を引きずって歩いているが、われらが王は何よりもこの燃え上がる炎を消し止める事に身を投じなければならない。それゆえに、王は、かれらを王の血の海で溺死させるけれども、これら現存する社会を根絶せざるをえず、改めてかれらをよく組織された軍隊に復活再編成し、ただれた国家を覆うあらゆる種類の伝染病に対して意織的に闘わせなければならない。神に選ばれた者は、理性ならぬ本能によって、また人間性ならぬ獣性によって動くばかげた力を粉砕すべく天から下される。この力は今は自由の原理という仮面をつけて略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき凱歌を挙げているが、この力が秩序破壊の跡にイスラエル王を王座に据えるのである。だが、かれらの役割は王が王国に入ったその瞬間に終る。王国の路からは、その残骸の一片すらも残さないように一掃される必要がある。 その時、われわれは世界の人民に次のように言うことができるだろう。「神に感謝せよ。額に人類宿命の験(しるし)を付けた方の前にひれ伏せ。その験は神おん自らが星を導いてその方に付けられたのだ。その方を措いては生来の罪と悪から解き放って下さる方はいないのだ」。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二十四・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ダヴィデ王(?)の地固め。王の修業。直系相続の保留。王と三人の賢者。 王は宿命。ユダヤ王の完璧性。 次にダヴィデ王朝の土台を世界最後の段階まで一層強固にする方法に進もう。 この方法は、何よりも第一に、今日まで世界の全問題を遂行し、全人類の思想教育を指導してきたわれらの賢人長老たちが積み重ねてきた伝統的な方法によるものである。 ダヴィデ王の子孫のうちの数人が、相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできないということを徹底させることにある。 これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、私がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果・・一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理・・が伝授される。 直系の子孫が王位継承から外されるのは、秘義伝授の過程で浅薄・軟弱その他、王の権威破滅となる資質が明らかになった場合である。そのような性向は統治者には不向きであり、王宮においては危険な人物となる。 たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物のみが、われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。 病気に罹ったり精神障害があったりその他王たるにふさわしくないことがあった場合には、王は律法に従って統治の手綱をふさわしい者に譲らなければならない。 通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。 王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。 断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。 王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。 人民が王を敬愛するのは、王が市場などで人民に意見を述べることを欠かさいからである。現在ではわれわれが両者の間に恐怖の溝を作って引き離しているが、双方を結びつける必要がこれで満たされる。 この恐怖は、時が至るまでは、両者をわれわれの影響下に置くためには必要欠くべからざるものである。 ユダヤ王は自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。 ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。 われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。
2012年04月04日
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われわれは貨幣の流通にはなんらの障碍も許さないから、一パーセント物を除いては利付き国債は発行しない。従って、国家の力を吸い取る吸血の蛭どもに利息を払うことがない。利付き公債発行権はもっぱら、利益から利息を払うことが無理でない工業関係の会社に与える。国家は、会社のように借りた金で利益を収めるのではない。国家は消費のために金を借りるのであって、運用資金として借りるのではない。 政府もまた工業公債を買うけれども、政府の立場は現在のように配当を払う債務者ではなく、利息を受ける債権者の立場になるのである。この方法ならば、貨幣の流通停滞や奇生資金や遊休資金をなくせる。これらはいずれも、ゴイムが勝手にやってわれわれの支配に従う気がない限りは、ゴイムに対する有効な手だてだったのである。 ゴイムの頭というのは、思考力の発達していないことにかけては、全く野獣並みであることが明々白々ではないか! かれらは、われわれから利子付きの金を借りている。その元利を返そうと思えば、国庫から取り出す以外に手はなく、結局またわれわれから借りなければならず、どうあってもわれわれの懐に戻るということを考えても見ようとしないのである。かれらが必要とする金は、人民から取り立てた方がはるかに簡単であったのに! だが、ここにこそわれら選ばれたる民が天才であることの証しがある。われわれは、その方法ならばかれらの利益になるかのようにかれらに持ちかけて来たのである。 時至りわれらが会計を提示する場合には、われわれがゴイ政府に対して幾世紀にわたって行ってきた経験にかんがみて、明白かつ決定的な内容とし、われわれの新制度の利益になるものであることが万人に一目で判るようにする。その予算は、われわれがゴイムを従属させるために多用した方法はすべて打ち切り、われわれの王国においてはかかる方法は微塵も許さない。 われわれは王であろうと最下級公務員であろうと、いかなる些少な金額でも、あらかじめ決められた支払先以外の所には支払われぬように会計方式を立て厳重管理する。 明確な計画なしには、統治は不可能である。英雄や半神といえども、どこへ行くかも解らない道を、十分な金の準備もなしに旅立てば、失敗するほかはないのである。 ゴイの支配者たちは、かつてわれわれが助言したとおりに、国務を怠って各国代表たちとの宴会や儀礼、歓楽にふけっていた。かれらはわれわれの支配が目に見えないようにする衝立に過ぎなかった。王たちに代って寵臣たちが書いた回顧録なるものは、実はわれわれの代理人が書いたのであるが、そこには決まって将来の経済と繁栄が約束されていたので、皮相的にしか物を考えない人間たちを満足させた……が、何の経済のことか? どんな新税を?・・われわれの回顧録や計画を読めばそういう問が出てくるはずなのに、誰一人として質問しなかった。 かれらの人民は驚くべきほど勤勉なのに、かれらが途方もない財政的混乱に陥った原因が、そのうかつさにあったことは、諸兄はよく御承知のことと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二十一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 内国債。債務と税金。書替え。破産。貯蓄銀行と国債。取引所廃止。産業価 格法。 前回の集まりで述べたことに、今回は内国債について細かい説明を付け加えたい。外債については、重ねて申し上げることはない。外債のおかげで、われわれはゴイム政府からたんまり稼がせて頂いたが、われわれの政府においては外国人がいない、すなわち、国外というものがないのである。 われわれは行政官の腐敗と支配者の怠慢に乗じて、ゴイ政府には少しも必要でない金を貸して、その二倍、三倍、さらに数倍をわれわれの金庫に収めた。いったい誰がわれわれをそんなにしてくれたのか?……そこで、私は内国債について詳しくお話ししようと思う。 政府が政府の為替手形すなわち利付き債券の購入者を公募したとする。額面は小口大口いろいろ設けられ、早くから申し込んだ予約者には額面よりも割引いた金額で売る。が、翌日になると、小細工を弄して、何しろ購入者が殺到したので、という口実で値上げする。数日後に大蔵省の金庫はあふれんばかりで、予定額をはるかに超過したと言う(それなら、なぜ国債を発行したのか?)。 予約額は債券発行額の数倍にも達したと発表される・・国債に対する信用を示そうというのである。 こんな芝居は芝居ですむが、新たに発生した債務をどうするのかという問題が起こる。途方もない額の債務が生じたのである。利子を払うには、その財源に新たな債券を発行する必要がある。新たな債券は元利を清算するのではなく、ただ単に新たな債務を上乗せするだけである。政府の国債発行の限度を超えたら、新しい課税で取り立てる必要が生じる。それも国債整理のためではなく、ひたすら利払いのためである。新税はひたすら借金のための借金となる…… そのうち債券書替えの時期がやってくる。だが、これとても利率を下げることはできても、債務をなくなしてしまうわけではない。それだけではなく、債権者の同意がなくては書替えはできない。書替えにあたっては、同意しない人々には金を返済すると公告する。もしも誰も彼もが、書替えは嫌だ、金を返せと言ったら、支払い不能に陥ることは火を見るよりも明らかであり、政府は自ら墓穴を掘ったことになる。幸いにもゴイ政府の臣民は経済のことはとんと事情にうといから、金を新しい事業に投資して利が落ちるよりも書替えで利が薄くなる方がまだましだと思って同意する。かくして臣民は数百万という政府の債務を穴埋めすることに協力してやる。 今日では、ゴイムといえども外債でこんな芝居を打つことは、ごまかしが利かないことが判ってきた。われわれが全額払戻しを請求することが判ったからである。 このようにして明らかな破産倒産状態が生じ、人民の利益と支配者のそれとは一片も共通する所がないことが明々白々となった。 今お話したこと、これからお話することには格別の留意を払っていただきたいのであるが、内債は今日ではいわゆる短期公債、すなわち、多かれ少なかれ期間の短いものに整理されているという点である。これらの借金は貯蓄銀行に収納され資金として確保される。政府はこの資金を外債の利子支払いに当て雲霧消散させてしまい、その穴埋めに同額の公債を当てているのである。 ゴイムの国庫からの資金漏出をとりあえず穴埋めしているのは、実にこれらの短期国債なのである。 われわれが世界の王座に昇る時は、われわれの利益に反するかかる財政上の窮策を痕跡も残さず一掃し、併せて金融市場をすべて廃止する。われわれの権威は価格変動に左右されるべきではないから、価格上昇も下落もできないように、法令をもって価格というものを固定してしまう。(価格を吊り上げるのは落とすためであり、実にこの方法によってわれわれはゴイムとの関係の初期にかれらを弄んだのである)。 われわれは金融市場に代えるに政府による大規模な国立信用取引所を設ける。その目的は、政府の意図する通りに産業生産物の価格を設定することにある。この組織は一日に五億の産業証券を出してやり、また同額を買い取ることができる。この方法により全事業がわれわれに従属するようになる。このことがいかなる力をわれわれに与えるか、諸氏は御自分で想像していただきたい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二十二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 将来の秘密計画。未来の福利を築くための何世紀にもわたる悪。権力の後光 とその神秘的礼拝。 これまで長々と述べてきたことをもって、私は、将来、過去、現在の秘密を注意深く明らかにしようと試みたが、残るは近い将来、洪水のように起こるであろう大いなる事件と、われわれとゴイムとの関係、その経済関係の秘密に入ることにしよう。が、この件に関しては、私が付け加えることはごく僅かである。 われわれの手中には、現代最も威力を発揮するもの・・金がある。われわれは二日間あれば必要な量の金をわれわれの貯蔵庫から集めることができる。 この事以上に、われわれの支配は神の思召しであることを証明する必要があるだろうか。かような富があればこそ、何世紀にもわたってわれわれが重ねなければならなかった悪がすべて、真実の福利を最終の最終にもたらす・・万物に秩序をもたらす・・ために役立つことが疑いもなく明らかであるだろう。たとえ暴力を用いたとしても、全く同じ結果となるだろう。われわれが引き裂かれねじ曲げられた地球に、真実の善と個人の自由をも回復する大恩人であることを、われわれは証明するだろう。そうすることによって、もちろん、われわれが確立した法をきびしく遵守する限りにおいてだが、われわれは地上に平和をもたらすことができるであろう。そうすることによって、われわれは明白にする、自由とは放縦ではないことを、人間の品位とか力とかには自堕落が含まれていない以上に自由とは抑制の利かない権利は含まないことを、良心の自由や平等その他これに類するものは人間の本性にある破壊的な原理であることを万人に公表し、個人の自由とは決して無秩序な群集の前で言語同断な言説を弄して煽動することではないことを。真実の自由とは、社会の法律には敬虔に厳しく従う人の不可侵性にあること、人間の尊厳とは権利意織に包まれてはいるが同時にいかなる権利意織ももたぬものであること、そして自分勝手な空想を実現しようとすることは決して許されないことを。 われわれの権威は強力なるがゆえに栄光に満ち、支配し指導し、自分では大真理と思い込んでいるが中味は何もない無意味な言説を声高に上げる夢想家に過ぎない指導者や弁舌家の後塵を拝するのではなく正直に話す……われわれの権威は秩序の王冠であり、その中に人類の至福が宿っている。この権威の後光の前では、すべての人民が神秘のあまり平伏し、畏怖の情にとらわれるのである。真実の力はいかなる正義にも、神にさえも譲歩しない。何びともあえてこの力に近付いて一毫たりとも毀損することはできないのである。
2012年04月04日
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ゴイムが反政府活動を圧殺するのに同じ手段を用いないよう、われわれは極力努力してきたし、今後もその努力は継続したいと思う。新聞や演説講演・・間接的には巧みに編集した歴史教科書・・を通じて、われわれは反政府屋を公共の福利のために殉じた殉難者として宣伝してきたのは、以上の理由からである。この宣伝がふくれ上って、リベラルたちが増加し、何千というゴイムをわれわれの家畜群に引き込んだのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二十・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 経済計画。累進税。累進税印紙。利付き債券と通貨不振の大蔵省。財政の方 法。儀礼的宴会の廃止。資本の沈滞。通貨発行。金本位制。労働力の基 準原価。予算。国債。一パーセント、利益。産業分布。ゴイムの支配者、 寵臣とメーソン代理人。 今日は財政計画の諸問題を取り上げる。この問題は扱いが最も難しく、われわれの計画の中では最高かつ決定的に重要なので、私の報告の中では最後に述べることにしておいた。本論に入る前に想起していただきたいのは、私がすでにヒントとして提示しておいたこと、われわれの活動の総括は数字の問題として現わせるということである。 われわれの王国が実現した時には、われらの専制政府は、自衛のために賢明にも、人民大衆には税の負担をかけないようにする。これは、われわれの政府は父親や保護者の役割を果たすということを想起していただきたい。さりながら、国家組織には莫大な金がかかるのであるから、必要な資金は確保する必要がある。ゆえに、格別細心の注意を払って、この問題に関しては適切な課税方式を定めなければならない。 われらの王は、法的な形では国の資産はことごとく王が所有者であり(形だけでなく実際にも容易にそれが適用できる)、国内流通を規制するためにはあらゆる資産の総額から合法的に徴収することができるのである。このことから、課税は累進課税方式で徴収するのが最もよろしいという結論になる。そうすれば資産総額の何パーセントという形で支払うべきものが支払われ、何びとも困窮したり破産したりすることがない。富める者は、税金を払えば残りの金は国家が財産不可侵権で保障してくれ、なおかつ正直な利益を保護してくれるのだから、余分な金の一部は国家に御自由にお使い下さいと差し出すのが義務であると考えなくてはならないのである。私は今、「正直な」と言った。これは財産をしっかり監督すれば、法律でいう泥棒を駆逐するということを意味している。 社会改革は上記のことから始めなければならない。その時は熟している・・それは安寧の印として不可欠なことである。 貧しい者に課税することは革命の種を蒔くことになって、小を追って大を逃し、国家の損害となる。そんなこととは全く別に、資本家に課税するのは、個人の富の増加を防ぐことになる。われわれが昨今資本家の手に富を集中させたのは、ゴイム政府の力・・国家財政・・が強くならないように、平衡力をつけるためであった。 資本の高に対して累進課税を課すると、現行の個人課税や資産課税よりも遥かに大きな収入となるが、現在の課税方式はゴイムの間に不満と反抗を起こさせるという理由でのみ、われわれには必要なのである。 われわれの王は、均衡を保つことと安寧を保証することに強みがある。それがためには、資本家たちは国家機関を正常に動かすために自分の所得の何分の一かを投げ出すことが絶対に必要なのである。ゆとりのある人々は公共の必要を賄わなければならない。 そういうことが行われると、貧民は富豪を怨まなくなり、富める者は国家維持にはなくてはならない財政的支柱であり、国家に必要なものを支払っているからには、安寧福利の守り役であるということが解ってくるのである。 知識階級の納税者に新体制の納税方式にあまり不平を言わせないようにするには、公費の細かい支出を見せてやるが、王室費と行政費とは例外である。 すべてを支配する王には、国家のすべてが王の財産であるから、王個人のものと称する財産は何もない。と言うと矛盾があるが、実はある方法で、実際には普通の意味で国家のすべてを所有するということは出来ないようになっている。 国家資産で扶養する王の妻子は別として、統治者の親族は国家公務員になるか、資産を得るべく働かなければならない。王の血族だからといって、国庫に属するものを私する権利があってはならない。 販売、所得、相続には、累進課税印紙を支払わなければならない。所有権を移転するときには、動産であろうと不動産であろうと、姓名を記載した印紙による支払の証拠がなければ、最初の所有者は移転の宣告が発覚した日からの利息を支払うのである。売買物件登録は、新旧の所有者の住所・氏名を付して、毎週大蔵省地方支所に届出しなければならない。この姓名付き登記は所定の金額を超える場合から始め、通常の日常品売買には一定単位ごとの所定パーセンテイジの印紙税を支払えばよろしい。 このような方法だとゴイム政府の収入の何倍になるか計算してみていただきたい。 大蔵省は一定額の予備金を確保し、それを超える徴収額は全額流通に還元しなければならない。その還元額は、公共事業に当てる。国庫から資金が出るこの種の事業は、国家が企画実施するのであって、これにより労働者階級の利益とかれらを支配する国家の利益とが固く結び付くのである。この資金の一部は、事業の発案者や施行者に与える報償金にも当てる。 国庫には、たっぷりと確保した所定の予備金のほかには、たとえ少額であっても決してよけいな金を置いておいてはならない。金というのは流通させるべきものであって、およそ流通を妨げることはすべて国家機構の運営には支障を来たす。それは潤滑油のようなものであり、潤滑油が滞った日にはよどみなく活動すべき国家機構が齟齬を来たす。 貨幣の代用に紙幣を使うことが、確実に流通を阻害した。この状況が続いてどういうことになっているかは、すでに明らかでる。 われわれは王が直轄する会計検査院を設ける。そこでは王がいかなる時でも、まだ決算されていない当月分とまだ発生していない翌月分は別として、前月までの国庫の収入支出状態を親しく検査できる。 国庫から盗んでも何の利益にもならない唯一の人間は、その所有者であり、王である。これによって紛失や浪費の可能性を封じることができる。 支配者の代表的な行為に、儀礼のための宴会というのがあるが、これは貴重な時間を浪費するものであるから、王に統括と熟慮の時間を確保するために、宴会は一切廃止する。王の力は、きらびやかな王位を取り囲み、自分のことしか考えず国家の問題なぞ念頭にない取り巻き連中にかしづかれ、取るに足らないことに時間を割かれるべきではない。 われわれがゴイムの間に作り出した経済危機では、流通貨幣の引上げほど効果のあるものはなかった。国内から貨幣を引き上げると巨大資本は停滞し、不足した資本は借金に頼らざるをえなくなる。この借金というのが利息が嵩むものだから、これらの資本は国債の奴隷となる……小さな親方たちの手から資本家の手に産業を集中すると、全人民が、そして国家も活力を失ってくる。 一般的に言って、現在の通貨発行は国民一人当りの消費に相応していないので、労働者の必要を満たすことができない。通貨発行は人口増加に相応すべきであり、子供は生れたその瞬間から一人前の消費者であると計算しなければならないのである。通貨発行量の変更は世界中どこの国でも重大問題となっている。 御存知のように、金本位制を採用した国々は危殆に瀕している。われわれが流通している金を出来る限り引き上げるものだから、通貨の必要を満たすことが出来なくなっている。 われわれは紙でも木でも構わないのだが、労働力の価値に見合う通貨を作らなければならない。われわれは国民の必要に応じて、つまり、人が生れれば通貨発行額を増加させ、死ねば減少させる。 各官庁各地方(たとえばフランス行政部)の財政は、それぞれが運営管理する。 国費の支払に遅延を来さないようにするためには、支払日と支払額とは王の命令で一定に定める必要がある。これにより、ある省の大臣だけが便宜を得て、他の部門は迷惑するというようなことが起こらないようにする。 収入予算と支出予算とは、両者が隔絶することがないように比較点検しつつ実施する。 われわれが計画したゴイムの財政制度と原理の改革案は、誰も肝を潰さないように衣をかぶせてある。われわれは、ゴイムがしでかした不始末によって財政に撒き散らした混乱の結果、改革が必要であることを指摘する。われわれが指摘する第一の不始末は、次々と起こる原因で年々膨れ上る年次予算に初めから仕込まれている。その予算は、上半期まではダラダラと行われ、それから補正予算を要求し、三ヵ月ぐらいかかって補正予算を作ると、もう清算予算を出さなければならない時期になって終りである。だが、翌年の予算は前年の総支出に基くので、経常の必要よりも年間五〇パーセントにも達し、十年もたつと三倍に膨れ上る。ゴイ政府の無頓着なやり方のお蔭で、国庫はついに空になる。ここで国債時代が始まるのだが、国債は国庫以外のものまで呑み込み、かくてゴイ国家全部がご破産となるのである。 先刻御承知であろうが、かくのごき財政管理法は、われわれがゴイムに授けた方法であって、われわれがこれを実行することはできない。 国債はどんな種類であろうとも、国家が脆弱であり国家機能を理解することすら欠如している証拠である。国債は支配者の頭の上にぶら下っているダモクレスの剣のようなもので、支配者は国民から税金を取る代わりに、われわれの銀行家に掌をさしのばして憐れみを乞うようになる。外債は国家の体に取りついている蛭であって、蛭の方で自然に落ちるか、国家が叩き潰しでもしない限り取れるものではない。だが、ゴイの国家はこの蛭を払い落とさない。行き着く先は減亡というところまで、ますます取りつかせ太らせ、最後は失血して自ら死を招くのである。 細かい点は別として、国債とは、とりわけ外債とは何であるか? 国債とは・・発行総額に比例して利息が上って行く、政府発行の手形である。かりに国債に五分の利息が付いているとすると、二十年間に国家は国債総額と同額、四十年間にその二倍、六十年間に三倍の利息を払い、なおかつ借りた分だけが未払のまま残るのである。 この計算を見れば明らかなように、どういう徴税方法かで一人当りから徴税すれば、国家は富める外国人に利息を払うために、貧しい納税者から最後の小銭まで巻き上げずにすむのに、余計な利息など払わずに必要な額を調達すべく小銭をかき集める代わりに、富める外国人から金を借りてしまったのである。 国債が内国国債であるうちは、ゴイムは貧民の懐から集めた金を富豪の懐に収めただけだったが、われわれが特定の人間を買収して、国債を外国に売らせるようにしてからは、国家の富はすべてわれわれの金庫に流れ込み、ゴイムというゴイムはわれわれに国民を貢物として差し出したのである。 ゴイの王者たちの国務に対する浅薄な態度、大臣たちの腐敗、国政を預る者たちの財政問題に対する理解の欠如が、かれらの祖国をわれわれの金庫に対する払い切れないほどの巨額の債務者にしてしまったが、それはわれわれの側の労力と金銭の多大な出費なしには容易にできることではなかった。
2012年04月04日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十七・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 弁護。ゴイム僧職者の影響。教皇法廷。総主教としてのユダヤ王。いかにし て既存の教会と闘うか。現代の新聞の役割。警察組織。志願警察官。秘 密結社スパイ活動のスパイ活動。権威の乱用。 弁護士活動は人間を冷酷、非情、頑固、破廉恥にする。弁護士はどんな場合にも、人間ではなくひたすら法律の観点からのみ問題を論じる。かれらはどんなことを取り上げるにしても、弁護する価値があるかどうかと考えるのが習慣になっていて、弁護した結果、公共の福利がどうなるかは考えない。なんでもかんでも弁護を引き受けて断わることをしないというのが普通であり、無罪を目ざして極力奮闘し、法律上の細かい所にこだわって片端から難癖をつけ、挙句のはてに正義を地に落とす。であるから、われわれは他の行政公務員と同様にこの職業の範囲を狭く絞り込んでおこうと思う。裁判官と同じく、弁護士が訴訟当事者と直接接触する権利は剥奪する。かれらは法廷からのみ仕事を受け、訴訟書類や報告を調査し、法廷で被告が尋問を受け事実が明らかになった後に被告を弁護する。どんな弁護をしたかという内容に関わりなく報酬を受け取る。このことは弁護人は、告訴のための審理記録人である代訴人に対して平衡を保つための、正義のための法務の単なる記録人に過ぎなくさせる。こうすれは、個人的な興味関心からではなく確信に基づいた、偽りのない公平な弁護活動が可能となるのである。また、この方式にすれば、現今横行しているような、金をよけい出さなけれは裁判には勝てないという弁護士の腐敗堕落を除去することにもある…… われわれは過去長い時間をかけて、ゴイム僧侶の信用を落とし、それによって、放っておいたらわれわれの大きな脅威となったやも知れぬ地上におけるかれらの伝道を凋落させるようにして来た。今や日一日と、世界の人民に対するかれらの影響力は低下しつつある。信教の自由ということが至る所で喧伝されたので、今やキリスト教が完全に破壊されるのはここ数年のうちに過ぎなくなった。ほかの宗教に至っては、骨抜きにするのは更に容易であるが、今この問題を論ずるのは時期尚早であると思う。われわれは聖職者重視の教権主義や聖職者たちの力を、以前かれらが華やかなりし頃に持っていたのとは比べものにならないほど狭い枠に押し込めるであろう。 決定的に法王庁を破壊する時が来れは、見えざる手の指が各国民に法王庁を指さすであろう。しかしながら、国民がそれに襲いかかろうとしたら、あたかも過度の流血を防がんとするかのように、われわれは法王庁の擁護者を装って進み出る。この転換によって、われわれはかれらの深奥にまで足を踏み入れ、間違いなくかの最強部を腐食し切るまでは二度と出て来ないであろう。 ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。 だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。 その場合、一般的には、われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する…… われらが王国はインドのヴィシュヌ神になぞらえ擬人化すると・・われらが百本の手の一本一本は、社会という機械のバネを握っている。警察というのは、われわれがゴイムのために入念に作り上げ、しかも政府は覗けない望遠鏡であるが、その警察の力を借りずともわれわれは何もかもが解るのである。われわれの計画では、われわれの臣民の三人に一人が、国家への無料奉仕義務として他の二人を監視する。かつてのようにスパイは恥ずべきことではなく、評価すべきことなのである。しかしながら、根拠のないことを密告した者は厳罰に処し、密告権の乱用を慎ませる。 このわれわれの代理人は、社会の上層からも下層からも、さらに暇な時間を娯楽に費す管理層、編集者、印刷業者や出版人、書店業、店員、販売業者、労働者、御者、従僕等々からも採用する。この組織は職権を持たず、目撃したことについてなんらかの行動を起こすことは許されず、なんら権限のない警察であって、唯一観察し証言するのみである。供述を確かめたり逮捕を決定したりするのは、警察の責任ある取締官の仕事であり、実際の逮捕には憲兵隊や都市警察があたる。警察担当の事件で、見聞したことを報告しない者は、隠匿罪で告発されその責を負い、それが証明されれは有罪となる。 今日でもわれらの兄弟たちは、自分の責任において、自分の家族の背教者や結社に反対する行動をとった結社員を告発する義務をもっているが、それと同じことを全世界を支配するわれらの王国においても、わが臣民全員に国家に対する奉仕として義務づけるのである。 このような組織こそが、権威権力の乱用や贈収賄や、われわれの機密計画を使い、人間についての超人類的な理論を駆使し、われわれがゴイムに植え付けた悪習のすべてを根絶させるであろう……だが、かれらの政治の中に混乱を植え付け増大させるのに、果たして他に方法があっただろうか?……あまたあるこれらの方策の中でも、最も重要なるものの一つは、かれらの悪の偏執性・・どうしようもない自惚れ、権力の無責任な乱用、そして、何よりもかによりも賄賂・・を拡張発達させ、かれらを破滅させるのに都合のいい位置にいる秩序回復の代理人である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十八・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 護衛の手段。陰謀の内側からの観察。明白な護衛・・権威の失墜。ユダヤ王 の秘密護衛。権威の神秘的威信。疑わしきは逮捕せよ。 われわれが秘密の護衛措置の強化を講ずる必要が生じた際には、見せかけの秩序混乱すなわちうまい弁舌家に協力させて不平不満をぶつけさせる。こういう弁舌家の回りにはその発言に共鳴する輩が皆集まってくる。それがあまたのゴイムの中から選んだわれわれ側の人員によって、家宅捜査や監視をする口実となる。 大多数の陰謀家というのは勝負事好きでおしゃべり屋であるから、そこで、かれらが明白な行動を起こすまでは、われわれは指一本触れずに、ただかれらの中に監視員を入れるだけにとどめておく……銘記しておくべきことは、陰謀摘発が度重なると当局の威信が落ち、弱みがあるからやっているんだろうとか、もっと悪いことには不正不法であるとか、余計な憶測邪推を生じさせるということである。御存知のように、われわれは代理人を通じてゴイの王たちの生命を脅かして権威を失墜させたのであるが、この代理人たちはわれわれが飼っている群の中の盲目の羊であって、少々政治色をつけた自由主義的な言辞を弄して犯罪を攻撃すると、たやすく乗せられてしまう連中である。われわれは秘密防衛措置を公然と暴いてやって、支配者たちにかれらの弱点を思い知らせてやってきた。これによって、権力を打倒する保証を手中にしたのである。 われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる。反政府暴動があるやも知れず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れているという考えは断じて与えてはならない。 ゴイムがやったように、また、現在もやっているように、そんな考えをはびこらせたら、われわれの王ではないにしても、とにかくその王朝に対して遠からず死刑宣告に署名しているようなものである。 われわれの王は威厳のある風貌の力を国民の福利増進のためにのみ用いるのであり、間違っても自分自身や一族の利益のために用いることはない。それゆえに、この威信が保たれることで、王の権威が尊敬され国民そのものに守られ、市民全員の福利と固く結びついて神のように崇められるのである。まさに王の威信によってこそ、多数の通常生活における秩序すべてが保たれるのである。 公然と護衛することは、強そうに見える王者の政治組織の弱さをさらすことになる。 われわれの王は人民の中に行くときは常に、見た目には全く偶然そこに居合せた物見高い男女の群集に取り囲まれたかのように見せる。それらの男女は王に近い前の方の数列を占め、後の列を制止する。他の者は尊敬の念からよく秩序が保たれているように見える。これは他の場合でもそうすることに慣れるように種を蒔くことになるのである。もし群集の中から請願人が現われて、王に請願書を手渡そうとし列を分けて進んできたら、最前列の者が請願書を受け取って請願人の目の前で王に取り次がなければならない。そうすれば誰の目にも直接請願書が王の手に届き、王自身が国政を監督していることが知れ渡る。人民が「王様がこの事を御存知だったらなあ」とか「王様が聞いて下さった!」と言えることが、権力の後光となるのである。 公然たる護衛警察は王者の神秘的権威を失わせる。少々大胆さを持ち合わせていれば、誰でも自分は護衛を自由に操れると思い込み、暗殺者は自分の力に自信を抱き、時至れば官憲に一撃を加える瞬間をうかがう……ゴイムには、われわれは正反対のことを教えてきたが、目立つ護衛策がどんな結果をもたらしたかを、事実そのものによってとくと見ることができた。 われわれは、犯罪者とあれば根拠が十分であろうと不十分であろうと、まず逮捕する。万一間違えるといけないということで、政治的堕落や犯罪を犯した疑わしき者に逃亡の機会を与えるとは、とんでもないことである。政治犯の場合は、文字通り峻厳でなければならない。単純犯罪で動機の再審議を許可し、特別扱いをすることが可能な場合でも、職権を持った者の他には何びとといえども事件に介入する口実は存在しない……すべての政府が真実の政治を理解するものではないのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十九・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 請願権と提案権。反政府行動。政治犯に対する起訴。政治犯の宣伝。 われわれは個人が政治に口出しすることは全く許さないけれども、政府が人民の状態を改善すべく仔細に検討するに値する提案、報告、請願は奨励する。このような提案は、われわれの臣民が何を空想しているかをわれわれに明らさまに教えてくれるからであり、それらに対しては実現できるものはその旨を付し、そうでないものは起案者の誤りを指摘し反論して応える。 反政府活動屋は象に対してキャンキャン吠え立てる小犬以外の何ものでもない。組織的に活動している政府にとっては、警察の見地からではなく公共の立場から見ても、小犬が象に吠え立てるのは、象の強さや力を全く知らないからであると見做す。これには両者の力関係を一度だけ見せてやる以外は何もする必要はない。そうすれば小犬は吠え立てるのを止め、次からは象を見ると尻尾を巻いて逃げ出すであろう。 政治犯罪者が主義に殉ずるものとして尊ばれることをなくすためには、裁判の際に、かれらを強盗、殺人犯、その他言語同断破廉恥極まる犯罪者と同じく扱うのである。そうすると世間は、政治犯をその種の犯罪と同種の不道徳な犯罪と見做し、軽蔑の眼差しで見下げるようになる。
2012年04月04日
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かれらがやっていることの結果を、われらの政府の教訓としようではないか。 われわれの国家体制のためには、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、リベラリズムを一掃する。かかる位置にはもっぱら行政支配のためにわれわれが訓練してきた人間のみを据える。古い官吏を解雇したら大蔵省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対してはこうお答えしよう。第一に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやる。第二に、世界中の金はわれわれの手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのである。 われわれの絶対主義は万事にわたって論理が貫徹しているので、どの判決一つをとってみても、われわれの最高意志は尊重され一点の疑念もなく遂行される。あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には制裁を加えて見せしめにする。 われわれは控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄する。そういうことはもっぱらわれわれの一存・・支配する者の判断に預けられる。われわれが任命した裁判官が誤った判決を下すことがある、というような考えを人民に与えることは断じて許してはならない。しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は、われわれ自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さない旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする……重ねて申し上げるが、われわれの行政においては一段階ごとに、一応はわれわれを満足させてくれている人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのである。 われわれの政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するだろう。われわれ民族とわれらの国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民が望むこと、国民がやっていること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るだろう。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、われわれが任命した者たちが私利私欲のためにではなく、ひたすら誠実に命令を実行しているだけであることを知ったときには、われらが王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うであろう。かれらは、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなすように、われわれがかれらの生活万般を取り締まることに欣喜雀躍するであろう。われわれの秘策という視点から眺めると、世界の人民たちはまだまだ成年にも達しない子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階である。 先刻御承知のように、私は権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げた。義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務である。人類を天然が定めた秩序すなわち服従に立脚させることは、強者の権利である。この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっと強い者に服従させられている。であるからこそ、善を実現するためには、われわれはさらに強い者になろうではないか。 われわれは確立した秩序に違反する者は何びとでも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題である。 イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるだろう。そこに達するまでに王が王が供する犠牲は、ゴイム政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。 われらの王は絶えず人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は全く同時間に全世界に報道されるだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十六・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大学の去勢。古典主義を取り替える。訓練と天職。学校における支配者 の権威の宣伝。私学の廃止。新学説。思考力を殺ぐ。視覚教育。 われわれ以外の結束力をすべて根絶するためには、集産主義の第一段階・・大学・・を、新しい方向で再教育して去勢するのである。職員や教授連を精密な秘密教育計画に従って再訓練するが、断じてその一部分たりとも免除することはない。かれらの任命には格段の注意を払い、一人の例外もなく政府が掌握して配置する。 われわれは全教育課程から政治と同様に法律も排除する。政治法律に関しては、予め許された者の中からさらに卓越した人物を選び、数十人という少数の人物にのみ教える。大学はもはや、喜劇や悲劇を書くようなつもりで法案や計画をこね上げたり、父親たちでさえも理解できなかった政策問題にかかずらわう青二才を世の中に送り出してはならない。 大多数の人間がもっている政治問題に関する頓珍漢な知識が、ユートピアを夢見る人間や不良市民を作るのである。諸氏は実際の大学教育がゴイムをこの方向に導いてきた実例をよく御存知であろう。われわれはかれらの教育の中に、完膚なきまでにかれらの秩序を破壊する原理を持ち込まなければならなかった。しかしながら、われわれが権力を掌握した時には、秩序破壊の種になるようなものはことごとく教育課程から駆逐し、青年を権威に従順な子供にし、平和安寧の希望として統治者を頼みの柱とするように育成するのである。 どんな形の歴史研究も皆そうであるが、範を過去に求める古典主義で行くと良い例よりも悪い例の方が多いのであって、われわれはそれに代えるに未来研究をもってする。われわれは、われわれにとって好ましくない過去何世紀かの人類の記憶を一切消去し、ゴイム政府が犯した誤ちをことごとく叙述する。実際生活、秩序に対する義務、人民相互間の関係、悪を伝染する利己的な実例、その他教育の本質に関わる類似の問題の研究、これらが教育計画の最前線に置かれるだろう。その実施にあたっては職業ごと、あるいは生活状態によって別々にし、教育は決して画一的に行ってはならない。この処置は、特に重要である。 社会各層の教育は、それぞれの階層の本質と実際の仕事に応じて厳格に制限を加えなければならない。稀に天才的人物が出てうまくやって行くことがあったし、上の階層に滑り込むことが常であるが、このような極めて稀にしか出ない天才のために、生れや職業に特有であるべき階層に、その価値もない人間を入れてやるなどということは、愚行もはなはだしい。こんな目に余ることを許したゴイム社会はどうなったか、諸氏はよく御存知のはずである。 われわれは私学という私学をことごく廃止する。教育施設の中では、あたかもクラブのように、親たちとの集まりを持つことは許す。休日には、そういう集まりに教師が参加して、人間関係、見せしめの罰則、神の選民ではない者のいろいろな制約等々の問題、とどめには、まだ世界で明らかにされていない新たな哲学原理について、課外講義で読んで聞かせるだろう。その原理は、最終的にわれわれの信仰に従わせるための移行期の教理として、われわれが提起するのである。現在ならびに将来の行動計画を説明し終えたら、私は諸氏にその学説の原理をお話しする。 一言にして言えば、何世紀にもわたる経験に鑑みて、人間は思想に生き思想に導かれるものであり、思想というのは人間成長の各段階にふさわしい教育を初め、さまざまな手段によって人間に浸透するものであるから、思想の支配を受けない最後の火花を、われわれが押収し呑込み、自分自身のものとして利用するであろう。この、思考力を人間から切り離すということは、過去長い時間をかけて、われわれが導入してきた極めて有益な手段である。思考力を抑制する手段はすでに、いわゆる実物教育[百貨店は万国博におけるデモンストレーションを指す]という方法で実行されている。この方法によりゴイムは、目に見えるものだけを頼りにして理解し、物を考えない従順な動物にさせられている……フランスでは、われわれの最良の代理人であるブルジョアジー諸氏が、すでに実物教育の新しい計画を実地に移している。
2012年04月04日
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支配を揺ぎないものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮していることが要諦である。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れなければ、帝政ロシアがわれわれの唯一の競敵であった。記憶に留めていただきたいのは、イタリアである。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのである。彼は人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、人民の目には神と崇められたのである。人民は大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れないものなのである。 しかしながら、われわれの王国を実現するまでの期間は、われわれは正反対のことを行う。フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。メーソンの全支部は、われわれだけが承知していて他には絶対に誰も知らない中央管理機構の下に置く。その機構を構成するのは、われらの学織ある長老たちである。支部には代表者がいるが、かれらは上記のメーソンの真の管理機構を覆い隠すために置かれるものであり、標語や計画は蔭の管理機構から発せられるのである。これらの支部に、革命的分子やリベラル分子をすべて集めてしっかり結び合わせる。この中には社会の全階層が含まれるのである。極秘の政治計画なるものもわれわれは熟知しているし、計画が立てられたその日のうちにわれらの指導部の手に入手される。国際警察や各国警察の代理人はほとんどこれら支部に参加しているが、かれらは不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、われわれの活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、われわれにとってはかけがえのない存在である。 秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、かれらを御してわれわれが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではない。その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、あまりにも強固になった団結を破るべくわれわれが少々撹乱しなければならなかった場合である。だが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいないというわれらの下僕が先頭に立っている。われわれだけがメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせないのは、極めて当然のことである。ゴイムに至っては無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は何であるかを知っているのは、われわれだけだからである。ゴイムは、通常、かれらの考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。しかも、その自説たるや、われわれがかれらに吹き込んだものであって、本当に自分が考え出したものではないことに気が付きもしない。 ゴイムは、物好きからか、あるいは、大きなパイに一口あずかる手段としてメーソンに入ってくる。中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させるために、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もいる。かれらは成功と拍手喝采に飢えているが、をの成功や拍手喝采こそは、われわれが気前よく振る舞ってやつているのである。われわれがそういう大盤振舞いをするのは、かれらが持っている鼻持ちならぬ自惚れを利用するためである。その自惚れというのは何が原因かというと、自身が口に出している思想は絶対的に自分のものてあり、借り物などということはありえないと自信満々で、われわれが示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する……諸氏の想像を越えることであるが、ゴイムの最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いともたやすいことである。同時に、拍手が止まったに違ぎないといった些細な不成功であってもかれらは簡単に落ち込みもするし、次の機会には成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる……際立ってわれわれは計画を実行さえできれば成功不成功を問わないのに、際立ってゴイは成功さえすれば計画はどうなっても構わない。このようなかれらの心理のおかげで、われわれは大いにやすやすと思うがままにかれらを操れる。かれらは見た目には虎だが中味は羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのである。われわれはかれらに集産主義という一種の思想のおもちゃをあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやった。 かれらは、このおもちゃが最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものであることを、一度も考えたことがなかったし、これから先も考えようともしないだろう。天地創造の初めから、自然は明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのである…… こんなにもわれわれがかれらを明きめくらにさせられるというのは、ゴイムの頭がわれわれと比較してお粗末である証拠、それも明々白々の証拠ではないだろうか。われわれの成果が約束されているのは、主にこのためである。 それにつけても、なんとわれらの古代の賢者長老たちには先見の明があったことか。長老がたは言われた、大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と……われわれはゴイという家畜の群にいかほど犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。さりながら、わが民の犠牲も数多くに上ったが、今日われわれはこの地上で夢見ることのできなかったような位置を獲得した。われわれ全体の数から言えば、われわれの犠牲者の数は比較的少ないが、かれらのおかげで民族の破滅は免れたのである。 何びとも避けられない終局は死である。どうせ避けられないものならば、新秩序の建設者であるわれわれよりも、建設の邪魔をする人間に早く回してやった方がよろしい。われわれは、同胞のほかには誰も気付かないように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らないように巧みにメーソンを処刑する。必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである……そのことが解っていても、同胞はあえて抗議はしない。かような方法を用いて、われわれはメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのである。われわれはゴイムにはリベラリズムを説くけれども、同時に一方では、わが民やわれらの代理人たちにはひたすら恭順に服させる。 われわれの力が及ぶところでは、ゴイムの法律は最小限度にしか適用しないようにしてきた。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだリベラルな解釈を駆使して存分に失墜させてきた。最重要かつ根本的な事項や問題は、われわれの口をはさんだとおりに裁判官が決定し、われわれがゴイムの政府機関に示したことに従って事を裁定する。もちろん、われわれが直接かれらと接触するのではなく、われわれの道具である人士・・新聞その他の意見として・・であるが……上院議員や内閣の中にもわれわれの助言を一も二もなく聞く者がいる。ゴイムの空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、ましてや事態がどういう結果になるかを予測する能力はさらさらない。 ゴイムとわれわれの間のこの能力の差違こそが、ゴイムの空っぽ頭と対比して、われわれが神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められているゆえんが明白に証明される。ゴイムの目は開いていても何も見ていないし、何も創造しない(恐らく物質的なもの以外は)。このことをもってしても、自然はわれわれが世界を導き支配するように創造したことが明白である。 われわれが公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、われわれの法律はすべて、いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるだろう。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなる。こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の乱用は行われなくなる。次席以下の権力乱用は、一人の例外もなくとうてい再犯ができないほど容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。われわれは国家機構の円滑な運営をはかるために、官憲に対しても事細かに点検ずるであろう。一部分の腐敗はあらゆる所での腐敗を惹起する。一片の不法行為、一片の権力乱用といえども処罰の見せしめを免れさせはしない。 犯罪の隠蔽、行政の怠慢・・この種の悪事はすべて、最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影をひそめるであろう。われわれの政権の後光は適切な罰則すなわち、至高の威信に対しての侵害は軽微なものであっても、とりわけ私利と結びついた場合は、厳罰を課することでなければならない。厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、どんな人間であろうとも許されないのである。たとえば、裁判官たちは寛容なところを見せたくなるが、それは法の正義を破ることになるということを弁えなければならない。法は逸脱堕落に罰を課して見せしめにするために作られたのであって、裁判官の徳性を引けびらかすためのものではない……そんなに徳性を引けらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではない。 われわれの法曹人は五十五歳に達すれば現職を退くのである。第一の理由は、老人は年をとるほど先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなること。そして第二には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つこと、それによってわれわれの強制力が更に容易に働くようになるからである。自分の椅子に留まりたい者は、留まるに値するように盲目的に服従しなければならないだろう。概して言えは、われわれは次のような人々の中からのみ裁判官を選ぶ。すなわち、自分の役割は法を執行し違反する者を処罰することであって、当今のゴイムが空想するように、国家の教化的な仕組を犠牲にしてリベラリズムの夢のまにまにさまようことではないということを完全に理解している人間からである……この人事刷新の方法は、同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっている政府の全問題にかれらの関心を結び付ける。若い世代の裁判官には、人民の間に確立したわれわれの秩序を乱す畏れのあることは、どんなものでも見逃さないように訓練する必要がある。 当今ゴイムの裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しているので、犯罪といえば情状酌量する。今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まないから、こういうことになるのである。野獣が餌を探しに子どもに出してやる時のようなもので、ゴイムは職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまう。それでかれらの政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでいるのである。
2012年04月04日
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われわれの羊が目を閉じるのは、別の理由もある。われわれが平和の敵を打ち破り、あらゆる反対党派を黙らせたならば直ちにあらゆる自由を返してやると約束するからである…… かれらの手に自由が戻るまでどのくらいの時間を待ち続けなければならないか、お話しする必要はあるまいと思う。 では、何が故にわれわれはこのような政策そのものを立案し、事の真相を看破する時を与えずゴイの心に吹きつけるのか? 実際のところ、回り道をしなかったとしたら、四散したわれらの種族が直接目的を達成する方法には何があったのか? 基本的には、われわれが作った秘密のメーソン、かの家畜ゴイが存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったメーソンを作ったことが役立った。ゴイ御一同様の目を晦ませるべく、われわれがメーソン・ロッジ[結社の集会所・支部のことだが小屋の意味もある]の見世物一座にかれらを惹きつけておいたのである。 神は与え給うた。われら神の選民に、離散という贈り物をして下さった。それは万人の目からはわれらの弱さと映るが、われらの強さは離散より生れ来たったのである。それが今や全世界支配という戸口に到達している。 今やわれわれが据えた基礎の上に築くべきことは、余すこと僅かとなっている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自由についてのメーソンの定義。新聞の将来とメーソン王国。新聞の統 制。通信の代理人。メーソンが理解している進歩とは? 新聞について の追加事項。今日の新聞におけるメーソンの連帯。地方公衆の声を 挙げさせること。新体制の不可謬性。自由という言葉には、いろいろの解釈があるが、われわれは次のように定義する・・自由とは法律で許されたことをする権利である。この定義は通常はわれわれだけに役立つ定義である。なぜならば、法律というものが前に述べた計画に従って、われわれが思いのままに作ったり廃止したりできるものであるから、およそ自由と名の付くものはすべてわれわれの手中にある。 新聞については次のように扱う。今日の新聞の役割とは何か? それはわれわれの目的には有利な激情を爆発させ燃え上らせることに役立つ。さもなければ、諸党派の利己的な目的に役立つ。新聞は多くは浅薄、不当、虚偽であり、大多数の人々は新聞が本来何の役に立つのか考えようともしない。が、われわれは新聞に鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませる。他の印刷物についても同様である。われわれが新聞の攻撃から免れても、小冊子や書籍の攻撃の的にされたままだったらどうなるか?出版物の刊行は、今日ではそれを検閲するとなると大変金のかかることであるが、われわれはわれわれの国家にとって得な財源に変えてしまう。新聞等の発行団体や印刷所に許可を出す前に、特別印紙税と[損害に備えての]保証金を納めさせるのである。これをやっておくと、新聞等のいかなる攻撃からも政府を守ることができる。われわれに対する新聞等の攻撃などがあろうものなら、われわれは仮借なく罰金を科する。保証の形をとるこのような印紙税、保証金、罰金といった方法は、政府の大いなる財源となるであろう。政党の機関紙は多額の罰金を取られても平気であろうが、以上の手を打てば、われわれに対して重ねて攻撃をした場合は断乎発行禁止処分に付する。われらが政府の不可謬性の後光に指一本でも触れようものなら、何びとも無事ですむことはありえないのである。発行を禁止するには、何ら理由も根拠もなく公衆を煽動したという申立て理由を使う。一言御注意申し上げたいのは、われわれを攻撃するものの中には、われわれが設立した機関も含まれるということである。だが、かれらは、われわれが予め改正しようと決めた部分のみを攻撃するのである。 一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから配付されるようになっている。通信社は追って完全にわれわれの傘下に入り、われわれが許可したものだけが一般に供給されるようになるだろう。 今日すでにわれわれはゴイ社会の人心をうまく掌握しており、かれら全員は世界の出来事を、われわれが鼻にかけてやった色眼鏡で眺めているに等しいとしたら、また、われわれには、ゴイの阿呆どもが国家の機密と呼んでいることに立ち入るのに障碍のある国家なぞ一つも存在しないとしたら、全世界王という最高の統治者として認められた暁には、われわれの立場はいかがになるのだろうか…… 話を新聞の将来に戻そう。誰であれ、出版人、司書、印刷人たらんとする者は、その資格免許証を取得することを義務づける。その免許証は何か過失があれば即刻取り消しとなる。こうしておくと、思想を伝えることが、われらの政府の手中にある教育手段となるのである。この教育手段を講じておけば、国民大衆にもはや脇道や、進歩の有難みなどといったたわけた夢の小道に迷い込ませはしない。われわれの中には、ありもしないその手の有難みは、人民と政府との間に無政府状態を生じさせる妄想に直通する道であることを知らない者がいるだろうか。如何となれば、進歩、いや、進歩思想は、あらゆる種類の解放運動を激励してきたが、限度ということを弁えなかったのである……いわゆる自由主義者は、実際はともかくとしても思想に関しては例外なく無政府主義者である。自由主義者のどの一人も自由のお化けを追い求め、まっしぐらに放縦に、すなわち、反対のための反対という無政府主義に陥っている。 定期刊行物の問題に移ろう。印刷物という印刷物に、一頁につきいくらという印紙税と保証金を課し、三十枚[六〇頁]以下の書籍はその額を二倍にする。はやりのパンフレットはその部類に入れる。一方で、雑誌の数は減らす。雑誌というのは有害印刷物の中では最低である。他方、著作人たちにあまりにも長大で値段もはるのでほとんど誰も読まないような本を書かざるをえないように仕向ける。同時に、われわれの利益に適うように世論を導くわれわれ自身の刊行物は廉価で、むさぼるように読まれる。課税で無味乾燥な作家の野心はしぼみ、処罰が恐くて文筆家はわれわれの軍門に降る。かりにわれわれに文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受けてくれる人間がいない。出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得なければならない。これによって、われわれはわれわれに対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われないうちに抹殺することができる。 文学とジャーナリズムは、最も重要な教育手段のうちの双璧であり、それゆえに、わが政府は大多数の雑誌の所有主となる。このことは、独立系新聞の有害な影響を緩和し、公衆の精神に甚大な影響をもたらすだろう……仮に十の新聞に発行許可を与えたとすると、われわれは三十に及ぶ新聞社を設立する。しかしながら、公衆はそんな事情はゆめ知らず考えてみようともしない。われわれが発行する新聞はすべて、見た目には反対の傾向や意見をもち、それゆえにわれわれに対する信頼を集め、われわれにとっては全き疑うことなき反対者を呼び寄せる。このようにして、われらの敵対者は罠にはまり、牙を抜かれるのである。 最前列に位置するのは、政府機関紙の性格をもった新聞であろう。この種の新聞は、常にわれわれの利益を擁護するが、それゆえに比較的影響は弱い。 第二列に位置するのは、半官半民の刊行物で、なまぬるい無関心層を惹き寄せるのが役割である。 第三列に位置するのは、見た目には全くわれわれの反対者として設立されたもので、少なくともその紙上では、まさにわれわれとは逆の立場に立つように見える論説を掲載するであろう。そこでわれわれの本当の敵対者は、この疑似反対論を真説と思い込み、自分の手の内のカードを見せてしまう。 われわれの新聞全体では・・もちろん、憲法が存続する間での話だが・・およそ考えられるどんな傾向も・・貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的なものまでも・・持っているだろう……インドのヴィシュヌ神の像のように、これらの新聞は百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れる。脈拍が早くなると、これらの手はわれわれの目的に向って世論を導く。熱に浮かされた患者は理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのである。自分たちの陣營の新聞の意見を述べていると思い込んでいる阿呆どもは、誰ぞ知らん、われわれの意見やわれわれが望んでいる見解をオウム返しに唱えているだけなのである。自分の党派の意見に従っていると虚しくも信じつつ、実際にはわれわれがかれらに広げている旗に従っているだけのことなのである。 以上の意味で、われらが新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織しなければならない。中央新聞局という名称のもとに、われわれは文筆家の会合を設け、そこにわれわれの覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示す。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、ただ単に、当初の公式表明を補足する材料を提供する目的で、われわれの機関は、われわれの公式の新聞に対して見せかけの一斉射撃を浴びせる。 われわれに対するこの集中砲火は、ほかの目的、すなわち、言論の自由はまだちゃんと存在していると納得させ、われらが代理人に、反対者たちはわれわれの指示に対して、実のある反対意見をこれっぱかりも示さなかったからには、われわれに反対する機関はみな空騒ぎしているだけではないかと断言する材料を提供する。 公衆の目には感知されないが絶対確実なこのような組織方法は、公衆の関心と信頼をわが政府に惹きつけておくのに最高の方法である。この方法のおかげで、われわれは公衆がどう受け取るかによって、必要に応じて時折、政治問題に対する感情を刺激したり鎮静したり、説得したり混乱させたり、今日は真実明日は虚偽、事実に即して立論したと思えばその反論を掲げたりするが、常にわれわれが足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べるのである……われわれの敵対者は、前記の方法で新聞を操作することができず、十分かつ決定的な意見を開陳する新聞という最終的な手だてを欠いている以上、われわれの勝利は確実この上もない。よほどのことでもなければ、反論の必要もないくらいである。 われわれが新聞の第三列に放つ試射は、必要があれば半官半民の紙上を通じて精力的に駁論する。 フランス新聞界のみではあるが、今日でもすでにメーソンの連帯行動を物語る形態があり標語ももっている。すべての新聞機関は、結束して職業上の秘密を守っている。古代の卜占官さながらに、その成員は、過去に解決ずみの問題でない限り、情報源を漏らしたりはしない。ジャーナリストならただの一人もこの秘密を暴露するような愚挙を犯しはしない。というのは、どの一人をとってみても、かねて過去に不行跡な事などをしない限りは、文筆仲間に入れて貰えないからである……秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露されるというものである。秘密が少数の間でだけ知られている限りは、ジャーナリストの権威は大多数の人々に行きわたり・・群集は熱狂的に彼に従う。
2012年04月04日
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われわれの計画は特に地方に及ぶ。いかなる瞬間にも首府に希望と欲求を浴びせられるよう地方の炎を燃え上らせることが必要不可欠である。われわれは首府に向って、これが地方独自の希望であり欲求であると焚き付ける。当然のことであるが、地方世論の情報源というのは、同一無二のもの・・われわれが指示しているものなのである。必要なことは、われわれが十二分に支配力を得るまでは、われわれの代理人団が組織した多数者、すなわち地方の意見で首府を窒息させておくべきである。必要なことは、決定的瞬間には首府は既成事実をとやかく言える立場にはないということである。それは単純な理由であって、各地方の大多数の世論が受け入れている事実だからである。 われわれが完全な主権を手中にするまでの過渡期の新体制の時期まで進んだら、もはやどの種類の新聞にも社会腐敗を暴露する記事は載せさせない。新体制下では万人が完全に満足しているから犯罪を犯す者はいないと信じさせることが必要である……犯行の真相解明は、被害者とたまたま目撃した者だけに留めておくべきであって、それ以外には必要ない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日々のバンの必要。政事の諸問題。産業の諸問題。娯楽。遊び場。「真理は 一つ」。大問題。 日々のパンが必要なために、ゴイムは余儀なく沈黙を続け、われわれの従順な召使になっている。われわれの新聞がゴイムの中から選んだ代理人に、公文書であからさまに触れるのは都合の悪い問題を議論するようにさせる。その間、われわれは論議の渦の真中で静かに聞いていて、われわれに必要な部分を取り込み、それから公衆に既定事実として提示するのである。いっそう改善したものを説明するのだから、何びとも一度定めたことを撤回せよとは言わない……そして間髪を入れず新聞は世論を新しい問題の方に向けさせる(われわれは人民を何か新しいものを求めるようにずっと馴らして来たではないか)。頭が足りない運命の小売屋たちは自分の議論する問題が髪の毛一筋も解っていないということさえも理解できずに、新問題に飛びついてしまう。政事の諸問題は、これを考案した大先達、過去何年にもわたって先導してきた人々でなければ、誰も参入できないのである。 以上のことからお解りのように、群集の意見を先導するには、われわれの仕組の働きを良くするだけで事足りるのであり、われわれがかれらに賛同を求めるのは、あれこれの問題についてのわれわれの行動ではなく言説であることに気付かれるであろう。われわれは常に、希望に導かれ確信に基いてすべての事業にあたり、公共の福利に奉仕しているのであると公言している。 厄介になるかも知れない連中に政事の諸問題に首を突っ込ませないようにするのに、われわれは政事に代わるものを熱心に勧めている。すなわち商工業の問題である。この分野でなら、どれほど騒いでもよろしい! 政事に代わって何か没頭できるものがあれば、群集は政治活動の類いから手を放して一服することに異存はない(政治活動は、ゴイ政府と一戦交えさせるために、われわれがかれらに施した訓練であった)。商工業問題においては、われわれは政治そっくりの事をやっているかのように思うように処方してある。かれらがかかずらわっていることを解き当てさせないように、われわれは娯楽、競技、ゲーム、色事、遊び場をあてがって、更に政事から遠ざける……そのうち、われわれは新聞を使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始める。こういうことに関心が向けられれば、われわれがかれらと争わなければならない問題から、かれらを完全に遠ざけるだろう。ますますかれら自身の意見を反映したり形にしたりすることが難しくなるに従って、人民はわれわれと同じ口調で語るようになる。なぜならば、われわれだけがかれらの考え方に新しい方向付けを示しているからである……もちろん、われわれとは表面的には無関係の人々を通じてであるが。 われわれの政府が承認されると、自由主義者、空想論者の役割は最終的に終る。その時まで、かれらはたっぷりとわれわれに奉仕し続けてくれる。そのために、われわれはかれらの頭をあらゆる種類の空疎な内容の空想的理論、今では進歩的と呼ばれる理論の方に引っ張り続けている。が、われわれはゴイムの空っぽ頭を進歩転換させることに成功したことはなかった。ゴイムの中には、物質的発明の問題ではない所で進歩を追い求めたところで真理からは遠ざかるばかりだということが判る人間はいないのである。なぜなら、真理は一つであり、そこには進歩が入り込む余地はないのである。進歩、それは誤った推論に基く思想のようなものであり、神の選民であり、真理の保管人であるわれわれの外には何びとも知らない真理を覆い隠すのに役立つ。 われわれの王国が実現した暁には、われわれの弁士たちは、人類をすったもんださせてきたこの大問題を解義して、われわれの慈悲深い支配の下で結着を付けさせるだろう。 その時になって、これらの人々は一人残らず、幾世紀にもわたり何びとも推測もしなかった政治計画に従って、われわれに踊らされていたのだということを、いったい誰が疑うだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十四・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 未来の宗教。未来の農奴制の状態。未来の宗教に関する知識は得がたい。ポ ルノグラフィと将来の印刷物。 われわれが王国を築く時は、われらの唯一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さない。われわれの運命は選民としてのわれわれの地位によりその唯一神と結びつき、そのわれわれの運命は神を通じて世界の運命と結び付いているのである。ゆえに、われわれ以外のあらゆる形態の宗教を一掃する。その結果、今日見られるような意味での無神論者が誕生するとしても、過渡期に限る現象であって、われわれの目的には妨げない。むしろわれわれが説くモーゼの教えに耳を傾ける世代の前兆として有用であろう。モーゼの教えは牢固として完璧入念なる教義であり、それなるがゆえに世界の全人民をわれわれに従わせてきた。そこに、モーゼの教えの隠された神秘の力があることを力説しよう。後にも述べるように、モーゼの教えの感化力は、すべてその神秘の力に立脚しているのである……次いで、あらゆる機会をとらえて、われわれの慈悲深い支配と過去のそれとを比較する論説を公表する。数世紀にもわたる震盪動揺の果てに訪れた安穏静謐が、われわれの与えた恩寵によって、さらなる安堵へと高まるのである。われわれは最もはっきりとした口調で、ゴイム政府が犯した過ちを描いてみせるであろう。われわれがかれらに対する嫌悪の情をそそるので、人民は、かの自由を振り回す権利などよりも、農奴制のような状態でよいから安穏の方を好む。自由の権利は、人間性に拷問をかけ、まさに人間存在の根源を疲弊させ、人民は自分が何をしているのか解っていない一群のこすからい山師たちの餌食となったのである……われわれがゴイム政権を覆すにあたっては、ゴイムを煽動し幾たびか無益な政変を起こさせた。人民は疲れ切ってしまい、またまた新たな騒動や苦難をかぶるよりも、少々の辛抱をしてもわれわれの言うことを聞いている方がましだと考えるだろう。 同時にわれわれは、ゴイ政府の誤ちの歴史を看過容認はしないだろう。ゴイ政府は何世紀にもわたって、人類の真実の善性を構成する要素を何一つ理解せず、錯覚した社会改善を追い求め、その改善の結果さらに悪くなり、人間生活の基盤である一般関係が決して改善されないことに全く気付いたことがなかった。 われわれの原理と方法の総体は、われわれがかれらに提示し解義したように、死に絶え腐敗した古い秩序の社会生活とはまばゆい対照をなす事実の中に横たわっている。 われわれの哲学者たちは、ゴイムの種々雑多な信仰の欠陥を洗いざらい論じるが、真実の視点からわれわれの信仰に口をはさむことは誰もやらないだろう。われわれ以外の誰もこの宗教のことは知らないし、われわれはその秘密を明かすような裏切りはやらないからである。 いわゆる先進文明国の中に、われわれは愚劣極まる、卑猥不潔な、嫌悪感を催おす文学芸術を創らせた。われわれが権力の入口に立ってしばらくの間は、われわれの演説、集会プログラムと対比させつつ、その種の文学を奨励するつもりである。こうすると、われわれの高尚な一画とはあまりにも違うことが歴然とするだろう……ゴイムの指導者になるべく訓練されたわれら賢人は、講演演説、事業研究計画、回想録、論説著作活動に携わるだろう。われわれはそれらの作品を用いて、ゴイムの人心を感化し、われわれが定めてやった知識を摂取する方向に導くのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十五・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 世界同時クーデター(革命)。処刑。ゴイム・メーソンの将来。権威の神秘 性。メーソン・ロッジの増加。メーソン長老の中央支配機構。全秘密結 社の指導者また指標としてのメーソン。拍手喝采の意味。集産主義。犠 牲。メーソンの処刑。法と権威の威信失墜。選民としてのわれわれの地 位。未来の王国における法の簡潔明晰さ。秩序への服従。権威乱用の人 士。峻厳なる懲罰。裁判官の年齢制限。裁判官と権威者たちのリベラリ ズム。メーソンの絶対主義。控訴権。未来の支配者の力は家父長的 な外観を提する。支配者の神格化。唯一の権利としての強者の権利。 イスラエル王。全世界の父として。 世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的にわれらが王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落したことが明らかになった時(これが実際に起こるには少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、われわれに対する陰謀の類いは絶対に存在を許さないように監視する仕事がある。このためには、われわれの王国到来に反対しいやしくも武器を執る(手にする)者は一人たりとも容赦なく殺戮する。秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処する。われわれが認めている現存秘密結社は、役立つものも役立ったことのあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放する。あまりにも事情をよく知り過ぎたゴイのメーソン員にも同断の処置を執る。なんらかの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておく。われわれの支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布する。 この決定は変更できず、これに対する控訴は許さない。 ゴイの社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはない。苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福のために苦しみを引き受けさせるのである。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、どんな政府でも自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行しなければならない義務である。
2012年03月29日
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以上のことを確保するには、絶対的な多数を獲得すべく、階級や資格の別なく万人に投票させなければならない。知識人や有産者階級だけでは絶対多数は獲得できない。このように、自分個人が第一という考えを全員に植え込むことによって、ゴイムの家族主義や家庭教育尊重心を粉砕し、癖のある考え方の人間は引き離して一掃してしまう。われわれが操る群集は、かれらを第一線に立たせないし証言の機会すら与えてやらない。群集は、従順に応待すれば見返りがあるわれわれの話を聞くことだけに慣らされる。このようにして、群集の指導者としてわれわれがかれらの頭に据えてやった代理人の指導なくしては、どんな方向へも一歩も足が踏み出せないほど総員を一大盲目力に仕上げるのである。人民は新しい指導者たちが自分たちの生計、報酬、あらゆる種類の利益になることを握っていることが判るから、この方式に服従する。 政府の計画というものは、一人の頭脳で万端出来上っているべきである。なぜならば、多数の頭で部分部分をばらばらに作らせると、決して確固不動のものにはならない。それゆえ、われわれは行動計画を知っているのは良いが、その巧妙さ、各部分の緊密な連関性、各要点の隠れた意味を破壊しないようにするには、討議してはならない。度重なる投票という手段でこの種の労作を討論し修正を加えることは、邪推と誤解の烙印を押すことになり諸計画の進行と結びつきを妨げる。われわれは計画が強力に適切に仕組まれることを欲する。ゆえに、われわれはわれわれの指導の天才の労作を、群集やあるいは特別な団体にすら毒牙にかけさせてはならない。 これらの計画は現存する諸団体をまだ転覆はさせないだろう。それらの経済を変化させるだけで、それによって進歩の動きを全体的に結び付け、われわれの計画に従った道に導くのである。 すべての国々には名前は似たり寄ったりだが、内実は同じものが存在する。議会、内閣、立法府、評議会、司法府、行政府などである。こういった機関の相互機能を説明する必要はない。なぜなら諸兄はどれも御存知のものだからである。が、一つだけ注意しておきたいのは、ここに名を挙げた機関は、国家の中ではある重要な役割を担っているという点である。この重要なという言葉に御留意願いたい。これは機関のことを指しているのではなく、その機能のことを言っているのである。これらの機関はいくつもの部分に分れていて、その全体で政府という機能・・行政、立法、司法・・を果たしている。そこでは、分割された機関は人体の臓器に似た働きをするようになっている。もしも国家機構の一部を損傷すれば、国家は病気にかかり、死ぬことになることは人体と同様である。 われわれが国家機関にリベラリズムの毒を注ぎ込んだら、その政治複合体全体がある変化を起こし、国家が不治の病い・・敗血症・・に犯され、あとは悶絶死という終焉を待つばかりである。 リベラリズムは立憲国家を作った。それはゴイムにとっては唯一の安全装置である専制国家に代るものであった。よく御存知のように、憲法は混乱、誤解、争論、見解の相違、各党派の実りなき煽動等の一切合切の学校・・一言にして言えば、これら何もかもが国家の機能を破壊する学校以外の何ものでもない。「おしゃべり屋」連中の手助けをする護民官は、ほかならぬ新聞である。新聞屋は支配者に怠慢無能の烙印を押し、よって無益無用であると断罪した。実にこのために多くの国々で支配者が退位させられたのである。その時であった、共和国時代到来の可能性が見えたのは。その時であった、われわれが支配者に代えて政府の似顔絵・・群集、すなわちわれらが奴隷、われらの人形たちの中から拾い上げた大統領・・を置き換えたのは。これはゴイ人民の地下に仕掛けられた地雷であった。敢えて申し上げるが、ゴイ人民の地下に、である。 近い将来、われわれは大統領を責任のある役職にするであろう。 その時までに、われわれは表向きの役には就かず、われらの人格なき人形たちに責任を負わせ続けるだろう。権力亡者がだんだん少なくなったとしても、われわれの知ったことではない。大統領のなり手が少なくなり暗礁に乗り上げるとしても、暗礁があろうがあるまいが、国家は最後には崩壊に向って行くのである。 われわれの計画が然るべき成果を挙げるためには、パナマ汚職事件その他のような、過去に隠れた古傷を持っている候補を選んで選挙に臨む・・すると、そういう連中は旧悪を暴露される怖さと権力を得た者の常で、すなわち、大統領の地位に付きものの特権と名譽を失うまいとして、われわれの計画達成の当てにしてよい代理人となるのである。[フランス議会の]下院は、大統領を選出し、援護し、保護するであろうが、われわれは新法案を提案したり既成法案を修正したりする権限を奪ってしまう。というのは、この権限は責任ある大統領、われらの手中にある傀儡に、われわれが与えるのである。そうすれば事の成行きとして、大統領の権威は四方八方から攻撃の的となる。だが、われわれは自己防衛の手段として、人民に呼びかける権限、代議員たちの頭越しに直接人民に呼びかけて決定させる、すなわち、大統領といえども一員である盲目の奴隷・・群集の大多数・・に呼びかける権限を彼に確保してやる。そのこととは別に、われわれは大統領に宣戦布告の権限を与えてやる。それには、国軍の長であり新共和国憲法の責任ある代表者たる大統領は、新共和国憲法防衛の際に備え、軍を自由に動かせなければならないと、説明しておく。 容易に理解されるように、この状況下にあって祭壇の鍵を手中にしているのはわれわれであり、われわれ以外の何者にも断じて立法権を行使させない。 その他に、新共和国憲法を成立させたら、政治的機密保持という名目で政府の処置に対する議会の質問を一切封じる。その上、新憲法によって議員の数を最少限に抑え、それに比例させ政治的煽動と政治熱を減らす。だが、めったに起こることではないとは思うが、もしも最少限に縮小された議会が反抗の火の手を挙げるならば、われわれは即刻全人民という絶対大多数に直接檄を発して議会を廃棄するであろう……大統領は上下両院の議長・副議長の任命が杖となる。通常の議会の会期とは異なって、議員の任期を数ヵ月に縮める。その上、行政の長である大統領には、議会召集解散の権限を持たせる。特に、解散した場合は、新議員任命を延期できるものとする。しかし、われわれの計画がまだ熟成していなくて、実際には非合法の状態でこれら一連のことを全部実行して、なおかつわれわれが立てた大統領に全責任を負わせないためには、大統領周辺の大臣や高官を教唆して、かれらが自分たちの裁量でやったことであり、かれらを身代りにして責任を取らせることで、大統領の責任を回避させる……この件に関しては、われわれは特別に上院、最高行政裁判所、閣僚会議に役割を与えるが、一個人には勧めない。 大統領は、幾通りにも解釈できる法律の意味を、われわれの意図する通りに解釈するであろう。大統領はさらに進んで、われわれが廃止の必要を指示すれば、法律を廃止することもやるだろう。その他に、大統領は臨時法を、また、国利国益のためにはこれが必要だと言いつくろって、憲法の枠から逸脱した新しい法案すら提案する権限を持つだろう。 かような手を打っておくと、少しづつまた少しづつ、一歩一歩と破壊する力が働いて、われわれが諸権利を手に入れた当初、ことごとくの憲法を気付かれないうちに無効にさせるために憲法の中に隠し据え、ねじ込んでおいたものすべてが、われらの独裁政権があらゆる政体の政府を束ねる日を到来させるのである。 憲法廃止以前にわれらの独裁者が認められるかも知れぬが、その秋が来ればそれまでの支配者たちの無能無策に・・われわれが仕組んだことであるのだが・・業を煮やした人民たちは、大声で叫ぶだろう。「奴らを追放しろ、世界を治めるのは一人でいい。おれたちをまとめて争いの種をなくしてくれ・・国境、民族、宗教、国債、そんなものは御免だ・・平和と秩序をくれ、今までの支配者や議員が決してくれなかった平和と秩序を!」 だが、諸氏は完璧に理解されていると思う、すべての国々でこのような叫びを挙げさせるには、すべての国々で、紛争、憎悪、闘争、羨望、さらに拷問、さらに飢餓によって、人間性が疲労困憊の極に達するまで、人民と政府との関係を悪化させることが絶対不可欠であることを。これら悪の予防接種を施すことによって、また欠乏によって、ゴイムは金銭その他すべてのことにわたってわれわれの支配下に入る以外のことは考えなくなる。 ただし、もしも世界の国民にホッと一息でも入れさせるならば、われわれが渇望する時は九分九厘到来しないのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新憲法の要項。われわれの革命の実際の内容。ゴイム・・羊の群。秘密メーソンとその見世物ロッジ。 国家評議会[国政会議]は、いわば、支配者の権威につけた光背であり、立法府の見世物の役割として、支配者が出す法令案を編集する委員会と言ってもよいであろう。 時に、われわれが用意している新憲法の要項は次の如きものである。われわれは、法、権利、正義を確立する。(一)立法府に示唆するかの如く、(二)一般法令と見せかけた大統領令、上院の命令、ならびに内閣の命令であるかの如く装おった国家評議会の決議により、ならびに(三)適切な時到らば・・革命という形で。 われわれの行動計画の大綱は確立したから、国家機関をすでに述べた方針に従わせ、革命の完遂を促すべきあれこれの組合せの細目に入ろう。これらの組合せとは、新憲法発布の翌日からは、新聞報道の自由、結社の権利、信教の自由、その他あまたの事柄は、人間の記憶からは永久に抹消されなければならないか、急激な変更が加えられなければならないということを意味する。われわれが即刻全命令を公布できるのは、まさにその瞬間のみである。それ以後では、顕著な改革案はことごとく危険である。その理由は次の通り。もしもその改革が峻厳さを増したものであり、幾分でも厳格かつ極限まで行ったのもならば、この先どこまで厳しい改革がなされるのかという恐怖で絶望感に囚われてしまうかも知れない。その逆に、最初よりも緩和した改革案を出すと、われわれが悪いことをしたのに気付いたかのように取られるし、そうなると、われわれの権威不可謬性の威信が失墜するか、われわれが恐れを抱いて譲歩措置をとらざるをえなかったと言われるだろう。強制的という印象はぬぐえないから、そのためにわれわれが感謝されることはない……以上二つとも新憲法の威信を傷つける。われわれが人民に叩き込まなければならないのは次のことである。憲法発布のその瞬間、世界の人民は革命が成し遂げた厳然たる事実に呆然とし、まだ恐怖心と半信半疑の気持に捕われている時から、われわれがすこぶる強力、難攻不落、かつ、十二分過ぎるくらい力に溢れていて、いかなる場合であっても、かれらに一顧も与えず、かれらの意見や意志には一瞥も加えず、いかなるささやかな反抗の表明も示威も、時と所を問わず、一つ残らず粉砕する用意があり可能であり、われわれは取るべきものはすべて取り、いかなる事情にせよ、われわれはかれらと権力を分け合うことはありえない……そうすれば、かれらは恐怖に身震いして何事にも目を閉じ、事の成行きを最後まで見守るほかはないであろう。 ゴイムは羊の群であり、われわれは狼である。狼が羊の群に入ったらどういうことが起こるか、御存知であろう。
2012年03月29日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 九・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人民再教育に関するメーソン原理の適用。メーソンの標語。反ユダヤ主義の 役割。メーソンの独裁。テロル。誰がメーソンに仕えるか。ゴイム国家 の「利口」と「盲目」勢力の意味。権威と群集の交流。リベラリズムの 放従。教育と訓練の奪取。嘘の学説。法律の解釈。「地下鉄道」(首都 の)。 われわれの原理を実行に移すにあたっては、諸兄が現に居住し活動している国々の人民の性格を考慮していただきたい。われわれが作った鋳型で人民を再教育し終らないうちは、一律に原則を当てはめようとしても成功はしない。しかし、慎重に適用するならばものの十年とたたないうちに、最も頑固な人民でも変わり、すでにわれわれに従っている列伍に新しく加わってくるのが解るだろう。 リベラルな言葉、われらがメーソンの標語として効果の高い「自由、平等、友愛」は、われわれの王国が到来した暁には、もはや標語としては使わせず、「自由の権利、平等の義務、友愛の理想」というふうに単なる理想主義を表現したものに変える。これがわれわれのやり方・・牛は角を捕えよ・・なのである……実際にはわれわれは、われわれ自身以外のものは、あらゆる種類の支配を一掃したけれども、法律上はまだ数多くのものが残っている。今日では、どこかの国がわれらに対して反抗を示したとしても、われわれの裁量下、われわれの指導下にあって形式的に反抗してあるに過ぎない。一例として反ユダヤ主義は、われわれが下層の兄弟たち[ユダヤ人]を監視するには必要欠くべからざるものだからである。この問題に関してはすでに討議が重ねられているので、これ以上立ち入らない。 われわれの行動範囲には限界を遮るものがない。われらの超政府はすでに強力絶大な言葉で現わされている超法規的な状態で存続している・・すなわち独裁である。私は衷心からから申し上げるが、しかるべき時に、われわれは法律を作り、裁判と宣告を行う。われわれは生殺与奪を実行する。われわれは全軍の先頭にあって、指導者の軍馬にまたがる。われわれは意志の力で支配する。なぜならば、かつて権力を握っていた党派の残党も、今やわれわれに屈伏しわれわれの掌中にあるのである。われらの手中にある武器は、貧欲、容赦なき復讐、憎悪と敵意に燃える、果てしなき野望である。 われわれから生れるもの、それはすべてを巻き込み行く恐怖である。帝政復興主義者、煽動家、社会主義者、共産主義者、あらゆる種類のユートピア夢想家といったあらゆる意見、あらゆる主義の人物たちがわれわれの用を勤めている。われわれはかれらを利用して、あらゆる労役を課している。かれらの一人一人が、権威の最後の残党まで叩き潰さんがために、現在秩序を転覆させることに燃え上がっている。これらの行動により、全世界の国々が拷問を受けている。各国政府はもう止めてくれと手すり足すりし、平和のためならどんなことでも代償に出すからという気になっている。だが、われわれは、かれらが心底からわれらに服従し、率直にわれらの国際的超政権を受け入れるまでは、平和を与えるわけには行かない。 人民は社会主義の問題を国際的協調という手段で解決する必要を感じて遠吠えを挙げている。ばらばらに分れた党派はわれらの掌中に飛び込んでいる。というのは、分立抗争すれば金が要るが、金はすべてのわれらの手中にあるからである。 われわれにはゴイムの王たちのうちの「利口な」勢力がゴイム群集の「盲目的な」力と連合しはしないかという懸念があったが、そのような可能性に対する打つべき手はすべて打った。両者の間でお互いに恐怖の念を抱かせるという防波堤を設けたのである。このようにしておけば、人民の盲目勢力は相変らずわれわれを支持し続け、われわれのみがかれらに指導者を与え、もちろん、かれらをわれらが目指す目標へと引っ張って行くのである。 盲目的な群集の手がわれわれの指導の手から離れないようにするためには、時々かれらの中に入って直接交流を図らなければならない。実際にわれわれが自身が行えなければ、とにかく最も信頼の置ける兄弟を通じて行う必要がある。われわれだけが唯一の権威者となった時には、われわれはそれこそ市場のような所で親しく人民と話し合うだろう。また、われわれが目指す方向にかれらを向けさせるように政治に関わる問題を指導してやるだろう。 田舎の学校で教えることを誰が点検するのか? 政府や王の特命全権公使が語ることは、直ちに全国に広まらずにはすまない。それは人民の声によって広まるのである。 破壊すべき時期でない時にゴイムの諸制度を破壊しないようにするため、われわれは巧妙にそっと手をかけた。そして、かれらの機械を動かしているバネの端をつまんだ。これらのバネは精妙にしかも秩序正しく動いていた。われわれはそのバネを混沌放従のリベラリズムに代えた。われわれは法律の運営、選挙の管理、新聞、個人の自由を、原理的にはどうにでも加工できる生存物[人間]の土台である教育と訓練というバネを操った。 われわれは、われわれが教え込んだことではあるけれども、ゴイムの若者たちに、われわれには嘘と解っている主義や学説を注入することによって、かれらを翻弄し困惑させ堕落させてきた。 現行の法律については、内容的には変えることなく、単にねじ曲げて反対の解釈をすることによって、結果としては大層な成果を挙げてきた。その成果は、第一に解釈が法律を覆い隠すという事実に、次いで立法の錯綜した糸から何かを引き出すのは不可能なために、政府の目から法が完全に姿を隠すという点に明かに見てとれる。 法律を文字に拘泥せずに解釈するという学説は、ここに起源がある。 諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしもゴイムが真相を嗅ぎつけたら、かれらは武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるに西欧においては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する・・すなわち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 十・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 政事のうわべ。狡猾の天才。メーソンのクーデタは何を約束するか? 万人の苦難。個人尊重。メーソンの指導者。メーソン指導の天才。機関 とその機能。リベラリズムの猛毒。憲法・・党派混乱の学校。共和国の 時代。大統領・・メーソンの人形。大統領の責任。パナマ事件。閣 僚と大統領の役割。メーソン・・立法機関。新共和国憲法。メーソンの 専制への移行。全世界王宣言の瞬間。予防接種とその他メーソンの ウイルス。 本日は前の話と重複することから始めるが、記憶に留めていただきたいのは、各国政府と人民は政事のことはうわべだけしか見ないで満足しているということである。実際のところ、どれほどゴイムは、かれらの代表者たちが全力を傾けて楽しませてくれる事の核心を把握しているのか? そのことを細部まで考慮に入れることが、われわれの方針にとっては最高に重要なことである。権力の分立、言論の自由、新聞、宗教(信仰)、法の前の平等な結社の自由、財産の不可侵性、居住、徴税(脱税の考え方)、法の遡及力を熟慮するようにすれば、得る所が多いであろう。これらの問題はすべて、直接手を出したり人民の前であからさまにすべきではないような事どもである。どうしても直接触れなければならない際には、明確に言い切ってはならない。現在の法についてのわれわれの原則的な考えを微に入り細に穿って語ることなく、単にさらりと言ってのけるだけに留めなくてはならない。なぜ沈黙を守らなければならないかというと、原理を明かさなければ、われわれは行動の自由を確保しておいて、かれらの注意を惹くことなくあれこれとそらせるが、一部でも明言してしまうと、たった一言だけで何もかも与えてしまったことになるからである。群集には一種特別な癖があり、政治力のある天才を尊敬し、そのような人物の悪徳行為に対しては賞賛をこめてこう言う、「ずるい! ほんとにずるい。だが、頭がいい!……ペテンだ。しかし、なんだな、うまいことやったもんだな、どえらいこと仕出かすもんだ、大胆極まりないぜ!」 われわれは、すべての国々を新たな重要な機構、われわれが練り上げてきた計画に惹きつけることを期待する。これが、何をさておいても、われわれが武装し、力を貯え、不退転の意志と絶対的な大胆さを身に付けなければならない理由であり、これがわが活動家たちの手でわれらの行手を遮るものすべてを粉砕することに役立つのである。 われわれのクーデターが成功した暁には、われわれはさまざまの階層の人々にこう言うだろう。「何もかもが恐しく悪くなり、すべてが我慢できない状態に陥ったが、われわれは諸君がこうむっている苦痛の原因・・民族心、国境、身分の違い・・を根絶しつつある。もちろん、諸君がわれわれを断罪するのは自由である。だが、われわれが提供するものに挑戦もしないうちに断罪するとしたら、それはちょっと大胆過ぎるというものではないか」……すると群集はわれわれを讃え、希望と期待にふくれ上がり全員こぞって手を差しのべ、われわれを激励し、われわれを讃える。人類の一番小さな成員グループにも、グループごとに集会を催させ同意を取り付けてきた選挙という、われわれが揃えてきた道具立てを使って、われわれは世界王の座に就く。このような選挙が、われわれの目的に役立ち、最終的にはわれわれに有罪宣告を下す前に、全員一致でわれわれともっと親しくなりたいと望むようになる。
2012年03月27日
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衝突すると、容易ならぬ精神的打撃、失望、意気消沈が起こる。これらありとあらゆる手段を駆使して、われわれはゴイムを疲労困憊させたあげく、国境を越えた現実の力をわれわれに提供せざるをえなくなるだろう。その現実の力は、いかなる暴力も用いることなく、世界中の国家支配力を次第に吸収して、超政府を形作るのである。今日の支配者たちに代わって、われわれは超国家管理機関という怪物を設けるであろう。その手は鉗子のようにあらゆる方向に伸び、その組織は巨大な規模に広がり、世界中の人間という人間を制圧せずにはおかないだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 六・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 独占、ゴイムの運命はこれ次第。貴族の手から土地の奪取。商業、工業、投 機。奢侈。主要必需品項目における賃金上昇と物価上昇。無政府主義と 飲酒。経済学説宣伝の真の意味。 われわれは近く巨大な独占を確立し始めるだろう。それはゴイムの巨万の富がすっぽり入るような、並外れた富の貯水池である。政治的破滅に続く時期には、政府の債権ともどもゴイムの財産も枯渇するだろう。 御列席の経済人諸君は、この連携作用の趣旨を評価されるのにやぶさかでないと思われる。 あらゆる手だてをつくして、われわれに進んで従う者すべての保護者、恩人を代表するものとして、われらが超政府の重要性を強調しなければならない。 ゴイムの貴族は政治的勢力としては死んだ・・われわれはかれらに考慮を払う必要はない。だが、土地の所有者としては、かれらが生活している土地の資源を使って自給自足しているという事実をもってする限り、無害な存在ではあるだろう。従って本質的な問題は、原価がいくらかかろうとも、かれらから土地を奪うということにある。この目的達成の最も良い方法は、土地を所有していることが、だんだん重荷になるようにすること・・負債で土地を圧迫することである。このためには土地所有の状態を監視し、高慢にさせずに無条件に服従させ続けるだろう。 ゴイムの貴族は、生れつき足りることを知らないので、急速に燃えつきたり初めはうまく行っても失敗に帰するだろう。 そうなったらすかさず、われわれは無条件に商業と工業の保護者にならなければならないが、真先になさねばならぬのは投機である。それは産業に平衡力をつける役割がある。投機産業がないと個人の手中にある資本がふくれて、土地銀行からの負債をなくさせ農業の復活を助けることになるだろう。われわれが欲するのは、産業に土地から労働と資本を吐き出させることであり、投機という手段で世界の金すべてをわれわれの手に移すことである。そうしてこそゴイムは、ほかに生きる理由がなくて生存する権利を得ようというなら、われわれの前にひざまづくほかはなくなるだろう。 ゴイムの産業を完全に滅亡させるには、投機の助けを借りて、われわれがゴイムの間で盛んにしてきた奢侈、何もかもを呑み込んでしまう奢侈に対するあくなき欲望をつのらせるだろう。しかしながら、われわれは労働者には好都合にならない程度に賃金の上昇をはかるだろう。同時に、農業や家畜飼育が駄目になったから上がるのだという理由を付けて、生活必需品の価格をあげるだろう。われわれはさらに進んで、労働者を混乱浸し酒漬けにし、それに加えるに、ゴイムの頭の良い者たちをすべてこの世から根絶すべくあらゆる処置を講じ、生産の根源力を巧みに深く蝕むだろう。 時期尚早のうちにゴイムに真相をさとられないようにするために、われわれは仮面をつけて、われらの経済学説が精力的に宣伝する偉大な政治経済原理のもと、いかにも労働者階級に役立つかのように情熱を傾けて説き伏せるだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 七・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 軍事力増大と警察力強化の目的。世界中に騒乱と混乱と敵愾心を。戦争と全 界戦争によってゴイムの反対を抑制する。機密保持は政治における勝利 を意味する。新聞と世論。アメリカ、支那、日本の火砲。 軍事力増大と警察力強化・・この二つを欠いては、前述の計画を完成させることは全くできない。われわれの到達目標は、われわれを除いては、世界のすべての国家には、プロレタリアート群集とわれわれの利益に奉仕する少数の百万長者と、警察官と兵隊たちだけがいればよろしい。 ヨーロッパ全土、また、ヨーロッパとの関係を通じて他の大陸にも、われわれは騒乱と混乱と敵愾心を起こさなければならない。そのことは、われわれにとっては二重の利益がある。まず第一に、すべての国々を抑制できる。われわれが意のままに混乱を作り出し秩序を回復する力を持っていることは、よく知られているからである。これらすべての国々は、われわれには圧政に欠かせない力があることを見慣れている。第二に、われわれは策謀を駆使して、政治的手段により、経済条約あるいは借款協定により、すべての国々の内閣の内部に伸ばしてあった糸という糸をもつれにもつれさせるであろう。このことを成功に導くためには、われわれは交渉協定締結の際に狡猾さと洞察力とを発揮しなければならないが、いわゆる「表向きの言葉」を使うときには、心とは裏腹に正直従順を装おい続ける。このようにして、ゴイムの個人や政府は、われわれが見せてやることなら何でもうわべだけを見るように躾けられているので、われわれを恩人とか人類の救世主と思い続けるのである。 われわれに反抗する国がある場合は、その隣の国から戦争を仕掛けさせ、反逆行動をことごとく叩き潰す位置にいなければならない。しかし、その隣国も束になって反抗するならば、その折にはわれわれは世界戦争という手段に訴えて対抗しなければならない。 政治上で成功を収める根本原則は、企図を秘匿するにある。外交官は言行一致してはならないのである。 ゴイムの政府は、すでに完成の域に達しつつある、われわれが練り上げた大規模な計画に沿うように行動させなければならない。何によってかといえば、いわゆる「強国」と称する手段を使い、ひそかにわれわれが吹き込んだ世論というものによってである。「強国」・・それは新聞である。その中には、ごくわずか例外はあるが、すでに完全にわれらの手中にある。 ヨーロッパにおけるゴイム政府を統制する政策を一言に要約すれば、一国をテロ攻撃してわれらの強力さをすべての国に見せつけることにあり、もしもわれわれに対して総決起することでもあれば、われわれはアメリカ、支那、日本の火砲を向けさせて応戦するだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 八・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 司法権の多義的使用。メーソン幹部団の補佐役。特別な教育機関の特別訓練。 経済人と百万長者。政府の要職に誰を就かせるか。 われわれは、敵対者がわれわれに向って使いそうな武器をすべて備えていなければならない。われわれは、常軌を逸していると思われるほど大胆かつ不正な裁定を下さなければならない場合のために、言葉の微妙な綾を探し出し、こんぐらがった法律用語を駆使して事態を正当化しなけれはならない。そして、この裁定が最も高潔で道徳にかなったことを法律用語で言っているのだと思わせるように、はっきり述べることが肝要である。われわれの幹部団は、周囲に全分野の知的人士を従え、その中心にあって仕事をするようにしなければならない。幹部団は、政界人、老練な法曹人、行政官、外交官、そして決定的に重要なことは、われわれの特別な教育機関で特別教育を受けた人士で構成されるだろう。これらの人士は、社会構造のすべての機微を知っていて、政治の初歩から要諦までのすべての用語に通じている。これらの人士は、人間の裏側すべてに通じ、かれらが操作しなければならない人間機微の体系を熟知している。それらの体系とはゴイムの素質、欠陥、悪習、本質、階級、身分の特徴など、考え方・感じ方の類型を意味する。言うまでもないことであるが、われわれの陣営の補佐役をゴイムから選んではならない。かれらは何が目的かを考える苦労をせず、何が必要なことであるかを決して熟考せずに事を運ぶことに慣らされている。ゴイムの役人たちは、書類に目を通さずに署名をしている。報酬目当てか野望のためかで仕事をしているのである。 われわれは全世界の経済人にわれらの政府を取り巻かせるであろう。ユダヤ人教育の主たる内容が経済学であるのは、この目的のためである。さらに、われわれの周囲には、銀行家、産業人、資本家・・大切なことは・・百万長者といった人たちのきらびやかな群がいる。実際のところ、万事は金で解決がつくからである。しばしの間、もはや政府の要職にユダヤ人兄弟を据えても危険はないという時期まで、その椅子には別の人間を座らせよう。とかく過去や世評に何かとあり、国民との間に溝がある人間を、である。その人間がわれわれの意に従わない場合には処刑し放逐しなければならない・・かれらが最後の息を引き取るまで、われわれの利益を守らせるために。
2012年02月24日
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「自由」なる言葉は、さまざまの人間集団に、あらゆる種類の権力、あらゆる種類の権威、さらには神や自然の掟に対してまで闘争することに入らせた。このため、われわれがわれらの王国を実現したあかつきには、群集を血に飢えた獣に改造する暴力的概念であるこの言葉を、われわれは、目に触れる辞書からは抹殺するであろう。 獣たちは血をたらふく呑んで腹がふくれると眠り込むので、鎖につなぐのはいともたやすいというのは事実である。だが、血を呑まさなければかれらは眠らず、引き続き闘争を続けるであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 四・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 共和国の諸段階。非ユダヤ人のメーソン員。自由と信仰。国際産業競争。投 機の役割。拝金教徒。 どんな共和国もいくつかの段階を経る。その最初は、かなたこなた、右に左に攪乱された盲目の群集の狂瀾が猛威を振るってやまないことから始まる。次はデモゴギー、つまり民衆煽動である。ここから無政府状態が生じ、無政府状態は必然的に専制に向う・・合法的とも明白とも言えない専制、専制の総本山、目には見えず密かに姿を隠し、にもかかわらず目立ってそれと解る、あれこれの秘密組織の手による専制、その活動は幕の蔭であらゆる代理人の背後で働くだけに、手きびしいことでも平気でやる。それら代理人たちは交代するので、不当に襲われないばかりか、秘密の勢力を効果的に助けている。しばしば交代するおかげで、長期活動の報酬が節減できるのである。 見えない勢力というものを転覆する位置にあるのはいったい誰か? ここにこそわれわれの特徴がある。非ユダヤ人を入れてあるメーソン員は、われわれとわれわれの目標の前に立てられた屏風として隠密裡に活動するが、わが勢力の活動計画は、その所在すら人民には全く謎に包まれたままにされる。 しかし、自由が神に対する信仰や人類愛に支えられ、平等思想と結びつかないならば無害なものであり、人民の安寧幸福になんら害を与えず、国家経済の中に居場所があってもよろしいが、平等思想は自然法則にもとるものであって、平等思想が一段下の思想であることは動かないところなのである。このような信仰をもって、人民が教区の保護のもとにあり、地球に対する神の支配に従う牧師の手に導かれ満足して敬虔に歩んでくれるならいい。そうでないからこそ、われわれは信仰という信仰をむしばみ、ゴイムの心から神の摂理と霊魂なるものを引き離し、代わりに損得勘定と物欲を入れることが絶対不可欠なのである。 ゴイムに考えたり留意観察したりする暇を与えないためには、かれらの気持を工業や商業に向き放しにさせなければならない。そうしてこそ、国民という国民が利益追求に没頭し、そのあげくにかれらの共同の敵に気をとめなくなるだろう。重ねて述べるが、自由がゴイム社会をきっぱりと崩壊滅亡せんがためには、投機を産業の基礎にしなければならない。その結果、産業が国土から引き出したものは、いくつかの手を通り抜けて投機に手渡される、すなわち、われらが階級に転り込むであろう。 他人よりも優位に立とうとする激烈な闘争と、経済生活に加えられた打撃とは、薄情冷酷きわまりないな社会を生み出すだろう、いや、すでに生み出している。かように社会は、政治・宗教など高度のものに対する反発を強めるだろう。かれらの生きがいは唯一、利益、すなわち金を集めることである。かれらは金があれば手に入る物質的喜びを求めて、まぎれもなく拝金教徒と化すだろう。次いで時至れば、高尚な目的のためでもなく、また、富を得んがためですらなく、ただただ特権ゴイム憎しのために、ゴイムの下層階級は権力をめぐるわれらの競争相手、ゴイムの知識人たちに逆らってわれらの指導に従うであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 五・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 強力に集中化した政府の樹立。メーソン員による権力奪取の方法。国家間の 一致が不可能な理由。ユダヤ人の「宿命」の国家。金・・国家機構のエ ンジン。批評の役割と「ショー」団体。言説混乱による疲労困憊。世論 を制御する法。個人の独創性の処置。超政府。 いたる所で腐敗が広まっている社会、富者だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく懲罰厳罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境主義的信念に一掃された社会に、どんな種類の統制支配なら適用できるか? あとで述べるような専制支配以外に、どんな支配形態ならこのような社会にあてはめられるか? われわれは社会の全勢力をこの手に掌握せんがため強力に集中化した政府を樹立しようと思う。われわれは新たな法律によって、国民の政治生活すべてを手加減することなく律しようと思う。それらの法律は、ゴイムが許してきた寛大とか特典とかを一つづつ全部取り潰すだろう。いかなる時にもいかなる場所でも、行動や言葉でわれらに盾突くゴイムを一人残らず一掃する立場で臨み、専制ということの強力さを遺憾なく発揮するのが、わが王国の特徴である。 私が述べているような専制は、時代の推移にはそぐわないという意見も聞くが、事実は正反対であることを証明しよう。 人民が王は神の意志を純粋に体現した者だと見ていた時代には、なんの不平不満も鳴らさずに王の専制権力に従った。だが、人民には権利というものがあるという考えをわれわれがかれらの心に植えつけてからは、かれらは王座に座る者を単に普通の人間とみなし始めた。 神権による王 の聖油は人民が見ている前で王たちの額から消えうせてしまい、われわれが人民から信仰心を奪った時に、権力の強力な力は飛び散って公共の所有権となり、われわれがそれを押収したのである。 加えるに、巧妙に仕組まれた学説と詭弁により、社会生活の制約やその他ありとあらゆる方便により、あるいは、ゴイムにはまるで解らない手段を動員して群集や個々人を支配する技術は、他の技術と相並んでわれらが支配の中枢である専門家がもともと手中にしていたものである。分析、観察、精緻な計算に育てられ、この種の熟練技術に関してはわれわれには肩を並べる者がいないこと、練り上げられた政治行動と固い結束のどちらかではわれわれの競争相手がいないのと同じである。いるといえば、イエズス会だけはわれわれと比べられるだろうが、われわれは無分別な群集の目には見える組織として存在するとは信じられないように工夫してきた。その裏でわれわれは終始一貫秘密の組織を維持し続けてきた。カトリックの首領であろうとシオンの血を受けたわれわれの独裁者であろうと、専制君主は専制君主であることに変わりはない。が、神の選民であるわれわれにとっては、このことは無関心ではいられないのである。 ほんの一時は、われわれが全世界のゴイム連合にうまくしてやられることもあったやも知れぬが、ゴイムの間には今では決して取り返しのつかぬほど深く根を張った不一致があるので、われわれはついぞ危険にさらされずにいる。われわれは、ゴイムを宗教的・人種的憎悪によって個人も国民も対立反目応報を繰り返すように仕組んだ。このことを過去二千年にわたって営々と積み重ねてきたので、手が付けられないほど劇しいものになっている。これが、われらに腕を振り上げたとしても、支持してくれる国はどこにもただの一国もない理由である。われわれに対抗する同盟を結べば自分が不利になることを、どの国も肝に銘じているからである。われわれはあまりにも強力である・・われわれの力を逃れおおせるものはない。国家はわれわれの蔭の関与なしには、ほんの些細な協定を結ぶことすらできないようになっている。 Per Me reges regnant.(王は我によりて支配する)。預言者たちによれば、われわれは世界のすべてを支配すべく神自身に選ばれたのである。神はわれわれがこの使命を遂行できるように、われわれに天与の才を授けられた。仮に反対陣営に天与の才が授けられたとしたら、われわれに闘いを挑んでいたであろうが、駆出し者というものはしょせん古くから定着している者には太刀打ちできない。われわれとかれらのと闘いは、この世が始まって以来見たこともないような熾烈を極めたものとなったであろう。さよう! かれらの天才は現われるのが遅過ぎたのである。すべての国家機構を動かす車輪はエンジンが駆動する。エンジンはわれらの手中にある。国家機構のエンジンとは・・金である。わが学識ある長老たちが創造した政治経済学は、長期にわたって資本に君主のような威信を与えてきた。 資本、それが束縛なく相携えて力を発揮するには、存分に工業と商業の独占がはかられねばならぬ。そのことはすでに世界のあらゆる隅々で、見えざる手によって実践に移されていることであり、そのことは人民を圧迫する助けとなろう。今日では、人民を武装解除させることは、戦争に赴かせることよりも重要である。さらに重要なことは、われわれの都合からいえば、人民の焔を抑えることよりも燃え上らせることである。さらに重要なことは、他人の考えを根絶するよりは、その考えをすばやく掴みとりわれわれに都合がよいように翻案することである。われわれの役員会が採択している原理に次のことがある。非難によって大衆を意気阻喪させること、抵抗心をかき立てるまじめな思考をさせないようにすること、心の力を空理空論の論争にそらさせること。 いつの時代でも世間の人民は、個人も同様であるが、言論と行動とを混同してきた。競技場で見ることに満足しているが、約束されたことが実行されているかどうかを考えてみようとする者はめったにいなくて、もっぱらショーを見るだけで満足している。。そこでわれわれは、人民の利益が進歩に向っていると声高く証明するショー団体を作るだろう。 われわれは、あらゆる問題について、リベラルな顔つきを装おって全政党に入り込み、聞き手が嫌になるほど喋り立てて、弁論に対する嫌悪を植え付けるだろう。 世論をわが方に引き寄せるには、あらゆる角度から意見続出させ、相反する説をいくつも並べ立て、ある期間、十分ゴイムの頭を迷路に迷い込ませて、一番いいのは政治上のことには何も意見をもたないことだと思い至らせなければならない。政治のことは一般大衆には解らない。なぜなら、大衆は自分たちを導く者を通じてしか理解できないからである。これが第一の秘訣である。 統治に成功するのに必要な第二の秘訣は、次のことにかかっている。すなわち、広い範囲にわたり国民の欠点、習慣、情欲、市民生活の状態を増殖させ混沌に陥れ、その中にあっては自分がどこにいるのか見当がとれない有様にさせると、その結果、人民相互の理解ができなくなる。これこそ別の意味でわれらにとっては有利なこととなる。すなわち、諸党派の中に軋轢の種子を蒔き、まだわれわれに従わおうとしない集団を撹乱し、どの程度のものであれわれわれの仕事を妨害するような個人の企てに対して片っ端から気勢をそぐことになるのである。個人の企てほどまたとなく危険なものはない。その裏に天才があろうものなら、このような企ては、われわれが軋轢の種子を蒔いた人民何百万人にも勝る力を持つのである。われわれはゴイム社会の教育を指導する際には、かれらが何か創意を示す徴候があれば、いつでも気力を失って絶望してしまうように仕向けなければならない。自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力になる傾向がある。
2012年02月20日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・象徴の蛇とその意味。国政機構の天秤は不安定である。宮殿のテロル。権力 と野望。議会、三百代言、パンフレット。権力の乱用、経済奴隷、「人 民の権利」。独占主義者のやり方と貴族政治。メーソン/ユダヤ軍。ゴ イムの弱化。飢餓と資本の権利。群集と「全世界の統治王」戴冠。未来 のメーソン学校計画の基本方針。社会構造についての科学の秘密。普遍 的経済危機。「われわれのもの」(すなわち、わが民、ユダヤ人)の秘 密保持。メーソン員の専制・・理性の王国。メーソン員とフランス大革 命。シオンの血の暴君。メーソン員の不可視の原因。秘密のメーソン代 理人の役割。自由。 今日、われわれはあと数歩で目標に到達せんとしていると言ってよい。横切るべき空間はあとわずかを残すのみであり、われわれが歩んできた長い道のりは、今まさに象徴の蛇の輪を閉じようとしている。その蛇は、わが民を象徴している。この輪が閉じられるとき、ヨーロッパのすべての国家は強力な万力によって締め上げられるのである。 当今の国政機構の天秤はほとんど破壊しているも同然である。なぜならば、われわれが、支点を軸として揺れ動き転回させるべく、正確な均衡を欠くように設定してあるからである。ゴイムはしっかり固定してあると思い込んでいて、天秤が釣り合いを取り戻すはずだと、ずっと期待し続けている。だが支点・・王座に即いている王たち・・は、自分たちで押えが利かず無責任極まりない力に困惑する阿呆の役を演じる代議員たちに取り巻かれている。この力は、宮殿内に吹き込まれてきたテロルに負うている。王たちには人民に近付く手だてがない。まさに取り巻き連中のド真中で王位に就いている王たちは、もはや人民を受け入れ、権力を追い求める者たちに対抗する強い力を与えてやることができない。明敏な統治権力と人民の盲目の力との間に、双方ともがあらゆる意味を失うように、われわれは深い溝を設けた。盲人と彼の杖のように、両者は離れ離れにされれば全くの無力となる。 権力を追い求める者たちを煽動して権力を誤用させるため、われわれは、すべての勢力を相対立させ、独立を得ようとする自由主義傾向を鼓吹するように仕向けてきた。この目的に向って、われわれはどんな形の企てでも指嗾教唆し、あらゆる政党に戦闘準備させ、どんな野望の目的をも権威に対して向けるようにさせた。国家というものを、われわれは混乱した問題の大群が争乱する競技場と化せしめたのである……ほどなく、混乱と破綻があまねく広がるであろう。 あとからあとから出てくるおしゃべり屋たちが、議場と行政会議の場を討論会場に変えてしまった。向う見ずなジャーナリストと破廉恥なパンフレット屋が毎日のように政府当局を攻撃する。権力に対する悪口雑言はすべての制度を転覆させる最後の一太刀となり、ことごとくが狂乱した群集のめった打ちに会って空中に吹き飛ばされるであろう。 なべての人民は、奴隷や農奴として縛り付けられていたかつての時代よりもきびしく、貧困なるがゆえに重い労働の鎖につながれている。なんとかしてかれらはこの束縛から逃れようとするかも知れないが、この重荷を取り除くことはできず、決して貧困からは脱却できない。われわれが憲法に書き込んだ大衆に関する権利というようなものは、虚構であって実際に使える権利などではない。いわゆる「人民の権利」なるものは、単なる観念、実際生活では決して実現されるはずのない観念としてのみ存在することができる。おしゃべり屋には無駄口をたたく権利があり、ジャーナリストには良いことも書くが阿呆なことを書きなぐる権利があるとして、生活の重荷に打ちひしがれ、重き犠牲に腰を二重に折り曲げているプロレタリア労働者には、何があるというのか。かつてプロレタリアートは、われわれが説きつけたことに賛成し、われわれが権力の中に潜ませておいたわれらが代理人団の手下に賛成して投票した見返りに、われらが食卓からパン屑を恵んでもらっただけで、憲法からは何の利益も得られなかった……貧者についての共和国の権利とは、皮肉以外の何ものでもない。なぜならば、ほとんど一日中働いている労働者に必要なものは、憲法を使うことによっては全く与えられないだが、その一方で、彼は仲間たちが打つ同盟罷業や主人が行う工場閉鎖によって、確実な生活の資をすべて奪われるからである。 われわれの誘導によって人民は、貴族階級を全滅させてしまった。人民の福利と密接に結びついた貴族自身の利益のために、貴族階級は人民の唯一の保護者であり養い親であった。現今では、貴族階級の滅亡によって、人民は労働者の首に残酷無慈悲なくびきをつないだ守銭奴の手中に落ちた。 われわれは、労働者にわが戦列・・社会主義者、無政府主義者、共産主義者・・に加わるよう提案し、振りかかる圧迫からかれらを救出する救世主を買って出る。われわれは、われらがメーソン員が言われなく唱えた(人類団結という)兄弟の定めどおりに、一貫して主義者たちを支援している。貴族は、法律によって労働者が提供する労働の恩恵を受け、労働者たちがよく食べ、健康で、強壮であるかどうかに関心を払っていた。われわれは全く反対のこと・・劣化、ゴイムから生命を奪うこと・・に関心を寄せている。われわれの権力は、労働者の慢性食料不足と肉体的虚弱を必要とする。まさにそうしておいてこそ、彼はわれわれの意のままに従うようになり、われわれに敵対する強さも意志もなくなり、自分たちの権威を見つけ出そうとはしなくなる。王たちが正当に貴族に与えた権力よりも、さらに確実に労働者を資本の権利に従わせるのが飢えである。 飢えが引き起こす貧困と嫉妬と憎悪によって、われわれは群集を動かし、かれらの手を使ってわれらが行く手を阻む者すべてを掃討するであろう。 全世界王が王冠を戴く時が至れば、同じ方法を用いて障害となるものをことごとく一掃するであろう。 ゴイムはわれらの専門家たちの助言なしには、考えるという習慣を失ってしまった。ために、かれらは、われらの王国が実現したあかつきには、直ちに採択しなければならない必要欠くべからざることが見えない。すなわち、公教育の場においては、唯一単純かつ真実の知識、全知識の基礎を教えることが肝要であるということである・・それは、人間生活の構造に関する知識、社会存在のあり方に関する知識、労働には分業が必要であり、従って、人々は階級と身分に分かれなければならないということである。人間活動の実際にはさまざまな差異があって、平等などというものはありえず、なんらかの行為で階級全体に累を及ぼす者と、自分自身の名誉を傷つけるだけの者とは、法律の前では平等の責任を負うはずがないということは、万人が心得ておくことが肝要である。ゴイムには知らされていない秘密であるが、社会構造の真の知識は、身分とかれ離れた仕事をさせないようにしなければならず、個々人に要求される仕事と受ける教育との落差が悩みの元にならないように、万人に実地をもって示そうと思う。この知識を完璧に身に付けたあかつきには、人々は進んで権威に服従し国家に指示された仕事を受け入れるであろう。現状の知識とわれわれが人民を育成してきた方向からいえば、印刷されたものを鵜呑みにし・・われわれがかれらに誤りを吹き込んできたためと、かれら自身の無知のおかげとで・・これまでに考察した身分という身分に対して、全面的に憎悪を燃えつのらせる。それは階級と身分の意味を全く理解していないことから来ている。 この憎悪は、 経済危機 の効果で数倍もの火の手を挙げるだろう。経済危機たるや為替取引を中止させ、工業を停止させるだろう。われわれは、自分たちが熟知している隠密な方法を総動員し、すべてわれわれの手中にある金力の助けを借りて、大規模な経済危機を作り出し、それによって全ヨーロッパ諸国の労働者群集をいっせいにまとめて路上に放り出すだろう。これらの群集は、ただ単に無知であるがゆえに、揺籃時代から羨み妬んでいた連中を喜んで血祭りにあげ、連中の財産を略奪できるだろう。 かれらは われわれのもの には手をつけない。なぜなら、襲撃の時機を知っているのはわれわれであり、われわれは財産を守る手が打てるからである。 われわれは進歩こそがすべてのゴイムに理性の支配をもたらすだろうと強調してきた。われわれの専制は一分の隙もない独裁である。それがいかに、炯眼厳格な方法によってあらゆる不満を鎮圧し、すべての制度慣習のリベラリズムを麻痺させるかを知るだろう。 一般大衆はあらゆる種類の利権特権は自由の名のもとに生み出されたと見ていて、君主がそれを握っていると思い込み、怒涛のように襲いかかったが、盲人のならいでおのずとあまたの石に蹴つまづく結果となり、案内人を求めて猛進したが、今さら昔の状態に戻ることはできず、われらの足下に全権をゆだねてしまったのである。フランス革命を想起していただきたい。それを「大革命」と名付けたのはわれわれであった。その準備が秘密裡に行われたことを、われわれは熟知している。あの革命は全面的にわれらの手で遂行した一大事業であったのである。 その時以来、われわれは人民を幻滅から幻滅へと導き、その帰結として最終的には、かれらは、われわれが世界のために準備している、シオンの血を受けた専制君主に、われわれにも頼らずしても賛同するに至るはずである。 今日われわれは多国家にまたがる勢力として無敵である。何ものかが攻撃しようとも、われわれは他の国家に支援されるからである。ゴイム人民の底無しの無気力さ、権力の前には腹這いになって這いつくばるが弱者には無慈悲、他人の過失には厳しく罪悪には寛容、自由社会制度の矛盾は認めようとしないが思い切った専制者の強圧に対しては殉教者のように耐える・・われわれの今日をあらしめたのは、[ゴイムの]それらの特徴に助けられたところが多い。現在の首相という専制者のもとでゴイム人民は呻吟しているけれども、かつてならその何分の一かの権力乱用でもあれば、王の二十人ぐらいは打ち首にしたであろう。 この現象、同じ性質の事象と見えることに対する人民大衆のこの矛盾撞着はどう説明したらよいのか? ここには厳然たる事実がある。現代の専制者たちはかれらの代理人を通じて、人民に向いこうささやくのである。権力をこういうふうに使えば、国家には害を及ぼすけれども、崇高な目的にはかなっているのだ・・人民の生活保護、国境を超えた人民どうしの友情、連帯、平等の権利という目的には。言わずもがなのことではあるが、かれらは、これらすべてはわれらの統治支配のもとで初めて実現するものだとは言っていない。 かくて人民は正しいものを罰し、不正なるものを許し、前にもまして、望んだことは何でも実現できると信じ込まされるのである。このような事態のおかげで、人民はあらゆる種類の安定をくつがえし一歩一歩混乱を生み出している。
2012年02月19日
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はるか以前の時代にさかのぼれば、われわれは人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であった。以来、幾度となく愚かなオウムたちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由を、この餌をもって破砕し去った。ゴイムのうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作りだすことができなかった。これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかった。どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものはその掟に従わせるように作られているのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作られていることを見なかった。群集が盲目であること、支配を頼むためにその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられない者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった・・これらのことを、ゴイムは一切顧みなかった。しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからである。王室以外の者や統治される者には誰にも知らされない政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われた。これこそ、われわれの主義を成功に導く絶好の機会であった。 地球のいたる所で、われらの盲目の代理人たちのおかげで、「自由・平等・友愛」という言葉が、われらの旗を熱狂的にかざす大群を、われわれの隊列に引き入れてくれた。これらの言葉はまた常に、ゴイムの福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、ゴイムの国家の基礎を破壊する生きたエダシャクトリ[果樹の害虫]であった。後に述べるように、このことがわれわれの勝利を助けた。とりわけ、われわれが切札を手中にする可能性をもたらした・・特権の破壊、言い換えればゴイムの貴族支配の存在そのものの破壊である。唯一、人民と国とを守るこの階級は、われわれに敵対したのである。ゴイムの血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、われわれは、金力の貴族が主導する、われらの教育を受けた階級を貴族として樹立した。われわれはこの貴族政治の特徴を、われわれ自身のものである富と、われらが学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立した。 われわれの勝利をいっそう容易ならしめた事実がある。好ましい人物たちとの関係を保つことによって、われわれは常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあくことをを知らない物質的欲望に働きかけた。言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果がある。この弱点のゆえに、かれらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。 自由という言葉の抽象性のゆえに、われわれはすべての国の群集に、かれらの政府は国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎないのだ、番人は破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができた。 人民の代表は取り替えられるものなのだ、ということは、われわれが自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権をわれわれに預けたことになるのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・プロトコール 二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・経済戦争・・ユダヤ支配の基礎。船首像[名目上の指導者]政府と「陰の助 言者」。破滅主義の成功。政治の順応性。新聞が果たす役割。金力の犠 牲とユダヤ殉難者。 われわれの目的には戦争は欠くべからざるものである。が、できる限り、戦争が領土的な利益をもたらさないように仕向けるべきである。そうすれば、戦争は経済に基盤を置くようになり、各国はわれわれの支配の強力さを思い知らされるであろう。また、当事国は双方ともわれわれが国境を越えて放った代理人団の思うがままに操られるだろう。私個人にはどんな制約があろうとも、かれらが百万の眼を持っていて監視するから、身動きがとれないなどというがない。世界にまたがるわれわれの権利は各国の権利を一掃するだろうが、国家の市民法が国民の関係を律するのと全く同じように、普通の権利という意味で、われわれの権利が正確に各国を律するであろう。 われわれが公衆の中から選んだ行政官たちは、奴隷のように従順な資質であるかどうかを厳しく監視され、支配技術に長けた人物にはさせないだろう。それゆえに、かれらが、全世界の諸問題を律すべく幼年期より養育された助言者・専門家である学識者と天才の手の内にある将棋の歩(ふ)となるのは容易である。諸氏もご存知のように、これらわれらの専門家たちは、歴史の教訓や一瞬一瞬の現実の出来事の観察から、われらの政治計画に必要とする知識を体得しているのである。ゴイムは偏見なく歴史的観察を実際に適用することなく、一連の結果に厳しい批判を加えることなく空理空論に走る。ゆえに、われわれはかれらに一顧も与える必要もない・・時が一撃をくらわせるまで楽しませてやろうではないか。過去の栄光に新しい形を与える希望に生きさせてやろうではないか。古き良き思い出にひたらせてやろうではないか。かれらには、われわれが 科学が説くところでは (学説)と吹きこんだことを後生大事にいつまでも守らせておこうではないか。われわれが一貫して、新聞を通じて、声を大にしてそれらの学説を盲信させているのは、そのことが目的である。ゴイムの知識人たちはかれらの知識にいい気になり、論理的検証を行なうことなく科学から得た知識すべてを信じこむだろう。その知識たるや、われらの代理人団たる専門家が、ゴイムの心魂を手なづけてわれわれが望む方向におもむかせんがために、巧みに断片を寄せ集めたものなのである。 ここに述べたことは根も葉もないことであるとは、瞬時たりとも考えないでいただきたい。われわれが仕掛けたダーウィン主義、マルクス主義、ニーチエ主義が、いかに功を奏しているかに注目していただきたい。われらユダヤ人にとっては、少なくとも、これらの指導者たちがゴイムの心魂に及ぼしたことどもを直視すれば、事は明白であるはずである。 政治上の、また、行政上の諸問題の方向において些細な誤りを避けるためには、各国民の思想、性格、傾向を顧慮することが絶対に必要である。われわれの方式はわれわれが遭遇する人民の気質に応じてさまざまに仕組の組み合せが案配されるけれども、もしも現在の光に照らして過去の教訓を集約することを怠れば、この方式の勝利はおぼつかないだろう。 今日の国家は、人民の世論を創り出す強力な力をその手に持っている。すなわち、新聞である。新聞が果たす役割は、必要欠くべからざると考えられることを指摘し、人民の愚痴にはけ口を与え、不平不満を表明し作り出すことにある。言論の自由の勝利が具体的になるのは新聞においてである。だが、ゴイムの国家は、いかにこの力を効果的に使うかについては知っていたためしがなく、新聞はわれらが手中に落ちた。新聞を通じて、われわれはその背後にあって、影響力を行使した。ヴァイスマン博士が、われわれが血と汗の大洋を越えて集結してきたにもかかわらず、金力がわれらの手中にあることを知悉していることは他言を要しない。われわれは、あまたの同胞を犠牲にしてきたけれども、十分に報いられている。わが方の犠牲の一人一人は、神の見られるところでは、ゴイム一千人に相当するのである。
2012年02月19日
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プロトコール 一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・権利は力の中に横たわっている。自由・・単なる思想。リベラリズム。金。 信仰。自治。資本の独裁。内部の敵。群集。アナーキー。政治対道徳。 強者の権利。ユダヤ/メーソンの無敵の権威。結果は手段を正当化する。群集は盲人である。政治のABC。政党の不和。独裁支配の最も理想的な形態。アルコール。因習陋習。腐敗。ユダヤ/メーソン政府の原理と原則。テロル。「自由・平等・友愛」。王朝支配の原則。ゴイム(非ユダヤ人)貴族の特権の壊滅。新貴族。心理学的計算。「自由」の抽象性。人民代表交替の効果。 ……美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思う。われわれを取り囲むもろもろの事実に比較と推論の光をあてようと思う。 ここに私が提案したいのは、二つの視点、われわれ自身の視点とゴイム(すなわち非ユダヤ人)の視点から見たわれわれの体系である。 悪い本能をもった人間の数は、善い人間の数をはるかにしのぐ。私は指摘しなければならない。かれらを統治するには、学者ふぜいの論議によってではなく、暴力とテロリズムによって達成することが、最良の方法である、と。どんな人間も権力をめざし、誰も彼もができることなら独裁者になりたがる。わが身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益のためにわが身を犠牲にしようという者は、めったにいるものではない。 人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったか。今までかれらを牽引してきたものは何であったか。 社会の仕組みが始まった頃には、かれらは残忍で盲目的な力に服した。後には、法律に服した。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。私は、自然法則に従って、権利は力の中に横たわっていると結論する。 政治的自由は単なる思想であっていささかも事実ではない。が、政権をもっている党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があれば、その撒き方や使い方を知っていなければならない。その際、相手方が自由思想、いわゆるリベラリズムに感染していれば、そして、思想のためになら喜んで全力を投げうつつもりあるならば、仕事はさらにやりやすくなる。この場合には、われわれの所説が勝利することは目に見えている。支配の手づながゆるめられると直ちに、新しい手に手づなが執られるのは、自然法則のおもむくところである。国家は盲目な力であって一日たりとも指導者なしにはすまされず、新しい権力者は単にすでにリベラリズムによって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。 われわれの時代には、リベラルであった支配者の位置にとって代るのは金力である。かつては信仰が支配した時代があった。自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。ゆえに、実現不可能である。人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は一山の灰燼に帰するであろう。 国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるかでは・・どのみち、その国は回復できず滅亡するほかはない。その時こそ、われらの出番である。完全にわれわれの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくかれらはそれに縋りつかなければならない。拒めば・・底に沈むのである。 リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、私は次の問いを投げ返したい・・どの国も両面の敵をもっているとする。外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれなければならないのか? 愚にもつかぬものではあっても反対とか批判とかはありうるし、うわべのことにしか理性の力が働かない人民は、反対ということを喜ぶものである。かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けをかりてうまく大衆を導く希望をもてるのだろうか? もっぱらあさはかな情熱、つまらない信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われている間違いだらけの人々は党派根性にとらわれる。そうなると、完全に理の通った議論を基にしたどんな合意をも妨げる。群衆の解決というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中にアナーキーの種子を蒔くという奇妙な解決を出航させる。 政治は、道徳とは全く関係がない。道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺する。支配したいと思う者は・・われわれが所有する新聞に感謝する・・気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いなければならない。率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳である。それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。そのような資質は、ゴイムの王国の属性でなければならないが、われわれは決してかれらの轍を踏んではならない。 われわれの権利は力の中に横たわる。権利 なる言葉は抽象的な思考であって、なんら具体性はない。その言葉は次のことを意味するに過ぎない・・わが欲するものを我に与えよ。我が汝らよりも強きことを証せんがために。 権利はどこから始まるか? どこで権利は終るか? 権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、リベラリズムの乱用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家ならどんな国でも、私は新たなる権利を行使できる・・強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、リベラリズムの中で放棄されてわれわれに残されたかれらの権威ある権利を継ぐ王者となる。 すべての形態の権力が動揺している現在、われわれの権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えないであろう。いかなる狡猾な者もくつがえせない強さに到達する瞬間まで、われわれの権力は表面には現われないからである。われわれが目下用いざるをえない一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現する。この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復するだろう。結果は手段を正当化する。しかしながら、われわれの計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらないことに留意しようではないか。 われわれの前には戦略的に敷かれた計画がある。数世紀にわたるわれわれの辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。 満足すべき行動を練りあげるためには、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、かれらの理解力の欠如を考慮に入れ、かれら自身の生活状況、あるいはかれら自身の福利を顧慮する必要がある。群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえないということを理解しなければならない。盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは必然である。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせているABCを理解することができるのである。 人民が人民に任せれば、すなわち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。人民群集がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃまぜにしている国の諸問題を処理することが可能だろうか? 外敵に対して自分自身を守ることが可能だろうか? それは考えられない。群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからである。 全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。このことから、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなくかれらを指導することによって遂行される文明の存在はありえない。群集は野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮する。群集は自由を手にしたとたんにいち早くアナーキーに転ずる。アナーキーそれ自体は野蛮の最高の段階である。 飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物どもを見よ。自由がかれらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それはわれわれやわれわれ一族の歩む道ではない。ゴイム々はアルコール飲料に酔いしれ、かれらの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長する。その性的堕落は、われわれの特別な代理人・・富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしばゴイムの娯楽場にいるわれらの女性たちによって手ほどきされた。かれら代理人の最後に、私は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておく。 われわれの合い言葉は・・力と偽善である。特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されているならば、力のみが政治的諸問題を克服する。暴力は原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとしない政府に対しては欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。この悪は終局である善に達するための手段にすぎない。それゆえに、われわれは、目的達成のために役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていなければならない。 平和的な征服の道を進んでいるわれわれの国家は、盲目的な服従を強いるために恐怖を維持する必要から、目につかないけれども効果のある死刑宣告をもって戦争の恐怖にとって代える権利をもっている。仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。単に利益を得るためのみならずわれわれの義務としても、また、勝利のためにも、われわれは暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさず強力である。それは手段そのものであるというよりも、われわれが勝利し、すべての政府をわれらの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。われわれは容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせる。
2012年02月19日
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ニールスが世に出したプロトコールは、ユダヤ指導者の計画の最新版に過ぎない。いかにしてそのプロトールが広く知られるに至ったかの物語は、極めて興味深い。 一八八四年のこと、ロシアの一将軍の娘、ジュスティーヌ・グリンカ嬢が、パリで政治情報を収集する任務を帯びて勤務中のことだった。彼女はセント・ペテルブルグのオルゲフスキー将軍<原注4>と連絡をとっていた。この任務のために、彼女はジョセフ・ショールストというユダヤ人を雇った。ある日、パリの[フリーメーソンの]ミズライム・ロッジの一員であるショールスト<原注5>が、ロシアにとって非常に重要な文書を提供するから二千五百フラン出さないかと話を持ちかけてきた。セント・ペテルブルグから到着した全額が支払われると、問題の文書はグリンカ嬢に手渡された。<原注6> 嬢はフランス語の原本に前書きを付け、ロシア語訳を添えてオルゲフスキーに届けた。オルゲフスキーは今度は皇帝に届くように、上官のシェレーヴィン将軍に手渡した。だが、シェレーヴィンは、裕福なユダヤ人から負債を負っていたため、握りつぶしてただ資料保管所に保存しただけに終った。<原注7> 一方、パリではロシア宮廷生活のことを書いた書物<原注8>が出版され、ロシア皇帝の不興を買った。皇帝は秘密警察に著書を見付け出してくるように命じた。このことが、恐らく意図的にねじ曲げられて<原注9>、グリンカ嬢が著者であるということにされ、彼女はロシアへの帰途、彼女の農園があるオレルに追放の身となった。グリンカ嬢は、この地方の貴族であるアレクシス・スホーティンに、プロトコールの写しを一通渡した。スホーティンはこの文書を、ステパーノフとニールスという二人の知人に見せた。ステパーノフは一八九七年、ひそかにこの文書を印刷し配付した。ニールスは、初めはツァルスコエ・ツェロ(ロシア)で一九〇一年に、『卑小の内なる偉大』という書名で出版した。次いで、同じ時期に、ニールスの友人G・ブトミもまた写しを一部持ち出し一九〇六年八月一〇日、大英博物館に寄託した。 その間、ロシア警察のユダヤ人たち<原注10>を通じて、一八九七年のバール[バーゼルの古名]会議<原注11>の議事録が入手され、その文書がプロトコール<原注12>の内容と酷似していることが判った。 一九一七年一月、ニールスは改訂増補版を出版する準備をしていた。だが、同書が市場に出回らないうちに、一九一七年三月の革命が起こり、政権を取ったケレンスキーはニールスの本を全冊処分する命令を出した。一九二四年、ニールス教授はキエフでチェカに逮捕投獄され拷問を受けた。ニールスは首席裁判官のユダヤ人に、この処分は「プロトコールを出版することで測り知れない損害を人々に与えたこと」に相応する措置であると言われた。数ヵ月後に釈放されたニールスは、今回はモスクワで再びGPU(ゲーペーウー、チェカ)に逮捕され監禁された。一九二六年に釈放されたが、ニールスは追放先のウラジミールで亡くなった。時に一九二九年一月一三日だった。 ニールスの第二版は数冊押収を免れ、外国へ持ち出され刊行された。ドイツではゴットリート・ツム・ビーク(一九一九年)、英国ではザ・ブリトンによって(一九二〇年)、フランスではジュアン氏が『秘密社会国際評論』で、また、ウルバン・ゴイェが『ラ・ヴェーユ・フランス』、アメリカ合衆国ではスモール・メイナード会社(ボストン、一九二〇年)である。後には、イタリア語、ロシア語、アラビア語、そして日本語でも刊行された。 以上が、プロトコールがいかにロシアにやって来たかの手短かな物語であり、以来、広くこの書が読まれるようになっている。 この点に関するステパノフ氏の調書<原注13>を裏付け証拠として、ここに掲載する。「一八九五年、トゥーラ地方の私の知人、元市長のアレクシス・スホーティンが、私に『シオン長老のプロトコール』の手書き原稿をくれました。スホーティンは、パリに居住する知り合いの女性が、その女性の名前は言いませんでしたが、ユダヤ人の友人の家で見付けたものだと言いました。パリを立つ前に、彼女はひそかに翻訳して、その一部がロシアに来て、スホーティンの手に渡ったと言いました。 初め私はこの翻訳を謄写版で印刷しましたが、読みにくいものでした。それで活字印刷することにしましたが、何時だったかどこの町の何という印刷所だったか覚えておりません。この件に関しましては、その頃、セルギウス大公の執事長だったアルカディ・イッポリットヴィッチ・ケレポフスキーに手伝ってもらいました。彼がこの文書を地方の印刷所に印刷させたのです。それは一八九七年のことでした。セルギウス・ニールスは彼の著作の中にこのプロトコールを入れ、彼自身の注釈を付けました。 (署名)フィリップ・ペトロヴィッチ・ステパーノフ 元モスクワ長老教会事務弁護士、式部官、枢密院委 員、現在(一八九七年)オレル町所在モスクワ・カ ーク鉄道代表。一九二七年四月一七日。 証人 ディミトリ・ガリツィン王子 スタリ・フォンタク所在ロシア移民居留地代表」<原注1>ギリシャ語のprote(最初)+kolla(にかわ、接着剤)。<原注2>この返書は、十六世紀のスペインの書物、フリオ・イニゲス・デ・メドラーノ著『ラ・シルヴァ・クリオサ』(パリ、オリー出版社、一六〇八年)の一五六頁から一五六頁にかけて掲載されている。(写真説明略)<原注3>フェルディナンド王。<原注4>当時の内務大臣シェレーヴィン付き秘書官。<原注5>別名シャピロで、彼の父親はロンドンでこの二年前、偽造罪で十年の懲役宣告を受けた。<原注6>ショルストは、エジプトに逃亡したが、フランス警察の記録では、同地で殺害された。<原注7>一八九六年、彼は死に際してプロトコールを含めた自分の回想録をニコラス二世に遺贈した。<原注8>ヴァシーリー伯爵 の偽名で発行されたこの本の真の筆者はジュリエット・アダム夫人で、デミドフ・サン・ドナコ王女、ラジヴィル王女その他のロシア人の提供した資料を使って執筆した。<原注9>パリのロシア秘密警察にいたユダヤ人にマニウロフがいて、この憎むべき人物はM・パレオローグの『回想録』に描かれている。<原注10>明らかにエノ・アゼフとエフロムである。エフロムは、以前ラビであって一九二五年に逃避先のセルビアの僧院で死没した。彼はよく修道僧に、プロトコールは世界を支配しようとするユダヤの計画のほんの一部であって、異邦人に対するユダヤの憎悪を弱々しく表現したものに過ぎないと語っていた。<原注11>上記、第一部三四頁。<原注12>ロシア政府は、ブナイ・ブリスが一八九三~四年にニューヨークで開いた会議で、ヤコブ・シフ(上記、六三、六四頁)がロシア革命運動委員会代表に選ばれたことを知った。<原注13>著者訳。
2012年02月18日
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ありとあらゆる種類の誓いごとをあらかじめ御破算にし無罪放免とするように願う、最後の審判のコル・ニドルの祈りというのがある。「神にかけし誓い、人にかけし誓い、物にかけし誓い、和解のその日よりかけし誓いのくさぐさを、われら果たすつもりでおりましたが、もはやその時は尽きたので、ここにお願い申し上げます。くさぐさの誓いをいっさい取り消し、取るに足らざるものとなし給わんことを。われらの誓約はいっさい誓約に非ず、われらの宣誓はいっさい宣誓に非らざらんことを」(シュルハン・アルーフ、編一の一三六)。「もしも律法の法廷で、ユダヤ人に対する証言をゴイに求められたユダヤ人は、明白に証言可能だとしても、それを行うことは禁じらる。だが、類似の事例で、ゴイに対する証言を求められたる場合は、進んで行ってよい」(シュルハン・アルーフ・・Ch.Ha.、三三八)「何者かが三度ユダヤ人を裏切るか、もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は、賢人会議はその男を放逐しなければならない」「裏切り者を放逐せんがために、何人も共同体に寄付をしなければならない」(前掲書)。「その場所を問わずユダヤ人を非難した者は殺してよろしい……その人物が非難しないうちに殺してよろしい……しかしその人物に 非難する と警告する必要はある。にもかかわらずその人物が 非難してやる と言った場合は殺さなければならず、真先に殺した者には大きな手柄が与えられるだろう」(前掲書、三八八の一〇)。「盗賊 という言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない」(トセフタ、アボダ・ザラ、八の五)。「ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず」(前掲書、八の五)。 この戦慄すべき道徳律を発布し、あらゆる種類の犯罪を無罪としたタルムードの筆者たちは、かれらの民に対する異邦人との闘争を容易にするために、その内容を極秘にする必要を感じ、次のような掟を設けた。「ゴイにわれらの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば、かれらは公然とわれらを殺すだろう」(リブル・デヴィッドの書、三七)。「律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である」(ジャクトゥ・ハダズ、一七一の二)。こういう意図をもった掟や戒律が、信仰ドグマの権威を高めた。このような禁制に直面しては、タルムードの秘密が他の国々、とりわけ西欧にほとんど知られることがなかったのは驚くには当たらないし、今日に至るまで、最も進歩的で市民的なユダヤ人でさえも、タルムードの原理を公開することは最も無法で許しがたく、ユダヤ人の宗教に対する攻撃だと考えている。 ユダヤ民族と他の民族とを分かち、二つを混ぜ合わせないようにし、他国民の特徴を失わせるために、日々の生活を律する儀式と規則といったおびただしい規範、偏見と迷信、野蛮時代の遺物、そして難解さが、タルムードに結集され、教典として崇められた。東方のユダヤ人が今日まで遵守しているその教典は、文化や衛生についての最も素朴な観念までを軽蔑する。たとえば、次のように申し渡す。「ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら、ただただ嘘の説明をするべきであり、ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない」(リブル・デイヴィド、三七)。「律法の秘密をあばくことは禁じられている」「ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない」(ザーロット・ウザボット、ジュル・ダの書、一七)。「タルムードを学ぶゴイ、それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない」(サンヘドリン、五九、ア・アボダ・ゾラ、八の六。ザギガ、一三)。「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの一)。「九歳と一日以上のゴイの少年と、三歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる」(パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、一一頁)。 これらの原理は、諸国の政府が司法や軍事の地位にユダヤ人を就けない理由の説明になる。そしてまた、かの 反ユダヤ主義 として知られる神秘な現象の説明にも・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いかにしてプロトコールはロシアに来たか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ プロトコール <原注1>という言葉は公的文書の最初の頁に糊付けして、開巻の決まり文句だとか参考に供するために内容の要約だとかを書いた見返しのことを意味するのが普通だった。条約の草稿は普通、署名人が署名する前に正式文書に誤りがないかどうかを検するために、こういう糊付けをしたのである。草稿そのものは会議で論じられたことをもとにしたので、この言葉は議事録のことも意味するようになったのである。『シオン長老のプロトコール』の例では、ユダヤの指導者たちによる「行動計画草案」という意味になる。ディアスポラ[バビロン捕囚後のユダヤ人離散]以来、ユダヤの歴史では異なる時期にこのような草稿が数多く存在したが、一般に流布されたものは僅かしかない。全体を通じて、その原理と道義性は、この種族と同じくらい古くから変りない。挿入図に示したのは、十五世紀にあった一例である。 一四九二年、スペインのラビの長キモールがグランド・サンヘドリンに手紙を出した。スペインの法律によって追放されそうになった彼が、コンスタンチノープルにあったサンヘドリンに助言を求めたのである。次がその返書である。<原注2>「愛するモーゼの兄弟よ、貴下が心労と災厄を忍ばれる書簡を受理した。貴下同様われらも大いなる心痛に胸を刺さるる思いである。 大地方総督とラビの助言は次の通りである。 一、スペイン王<原注3>にキリスト教徒にならんことを強要さるる件に関して。他に途なき以上、そうされよ。 二、貴下の財産の没収命令が出さるる件に関して。貴下の子息らを商人となし、キリスト教徒より少しづつ没収せしめよ。 三、貴下の生命が脅迫さるる件に関して。貴下の子息らを医師または薬剤師となし、キリスト教徒どもの生命を奪え。 四、貴下の礼拝堂破壊の件に関して。貴下の子息らを、キリスト教教会を破壊すべく、大聖堂参事会員ならびに聖職者にせよ。 五、その他、貴下が訴願されたる心労の種諸々に関して。貴下の子息を弁護士ならびに法律家となすよう手配し、常に国事に親ませ、貴下らの支配世界実現によりキリスト教徒に軛をつなぎ存分に報復せよ。 六、貴下に送るこれらの指図を逸脱してはならない。なんとなれば、屈辱を蒙りし貴下の経験を通じ、貴下は現実の支配力に到達されるであろう。 (署名) コンスタンチノープルのユダヤ王子
2011年11月06日
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「汎神論者たちのこの一派が、やがてユダヤ民族に直接的な影響力を振うこととなった。加えるに、かれらの教義ほど民族感情を害するものは現われたことがなかった。しかしながら、カルデアの汎神論に押し流されたかも知れぬパリサイ派は、人種の誇りを無傷のまま保っていた。かれらはバビロンで吸収した、人間に神性を与えたこの宗教を、もっぱら他よりも優越して神に運命を授けられたユダヤ人に利益をもたらすものと考えた。伝統的なユダヤ人が律法の中に見ていた全世界の支配という約束を、パリサイ派は民族に対するモーゼの神の領域という意味には解釈しなかった。来たるべきメシヤは原罪を購う者などではなく、世界を導く精神的な勝利者、戦いで血ぬられた現世の王であった。その王がイスラエルを世界のあるじにし、全人民を戦車の車輪の下に引きずり込むのである。パリサイ派は全世界の国々が謎めいたエホバの奴隷になることは[表立っては]要求せず、世間一般に譲歩して人々に信仰させ続けた。というのは、何世代にも続くイスラエルの忍耐力と人間的な手段とを使って、行く行くは自分たちの計画が達成することを期待していたのである。「このような信念は古代の律法とはいちじるしく異なるものであるが、かれらは何ごとも気付かれぬように、このなじめない思想を一滴一滴フィルターを通してユダヤ人に浸透させてきたのである。「パリサイ派が編み出した仕組は、やがて実を結ばないはずはなかった。「イエス・キリスト以前のユダヤ社会では、このようなことは片鱗を見付け出すこともできない」と、フラビアン・ブレネは言う。「現代社会でこれに類するものはフリーメーソンぐらいなものである」。「注意深く制限された結束固いメンバーに秘密の教義が注ぎ込まれ、パリサイ派は二つの目的を容赦なく追求した。すなわち・・ 一、政治的に重要な公職(再編成されたユダヤ民族にとってはすさまじい影響力があった)に就くことによって政治権力を掌握し、サンヘドリン(ユダヤ人の議会)を征服する。 二、かれらの極秘の教義に沿うように人民を次第次第に教化する」。 これらのうち第一の目的は、ダビデの末裔と自称するバビロンのパリサイ派ヒルレルが、サンヘドリンの会頭に選ばれた時に達成された。このことはパリサイ派対サドカイ派の抗争にきびしい結着を付けた。ヒルレルに対抗したのはサドカイ人で議会の主席裁判官だったサドカイ派の高位聖職者を支持していたシャンマイだった。二人がお互いをどう見ていたかは、タルムードにえんえんと記録がある。 パリサイ派で最も有名な人物には、ヒルレルのほかには・・ヤムナイ学校の創立者ヨハン・べン・ザッカイ、バル・コフバとともにユダヤ人離散の命令を覆させた反乱、ハドリアヌス皇帝治下でローマ人に対して蜂起(紀元一三二年)を組織したアキバがいる。また、シモン・ベン・ヨハイは、魔術師またカバラの父として、また、後にはバビロニア・タルムードを編纂したユダ王子として挙げられよう。これら先達の下に、パリサイ派勢力はサンヘドリンの支配権を確立するに至った。サドカイ派の伝統に固執したユダヤ人の中には、パリサイ派の専制を拒んだ反体制者がいた。それがタルムードを拒絶したサマリア人とカライーム派ユダヤ人である。 第二の目的とその達成方法が、『イスラエルの秘密の教義』の末裔たちが声高に非難する、いわゆる『シオン長老のプロトコール』に露呈されている。ここで言うイスラエルとは、宗教的共同体としてのユダヤを意味するのだが、ユダヤ人の多くは複雑で破壊的な計画のことはまるで知らないままに置かれている。 パリサイ派に対するイエス・キリストの態度は、新約聖書に明確に示されている(ルカ伝十一章、ヨハネ伝八章)。 二〇世紀にも行われているユダヤ人の宗教、表向きのユダヤ教は、旧約聖書と、それと同じく何世代にもわたる口承の記録、前に述べたよく知られている総称タルムードという古代の解説書を根本教典にしている。この書物全巻は、一三〇六年、フランス国王の公正王フィリップ五世の命令で焚書にあったが、全滅から逃れた書冊があった。 ユダヤの神は、全人類の父でも理想の愛や正義や哀れみでもなく、キリスト教徒の神でも[ゾロアスター教の]アフラマスダでも[ヒンドゥー教の]ブラフマンに類するものでもないことは明らかである。全く逆に、この神は彼の民に対してのみ正義であり慈悲深いが、その他すべての民の人間の権利を否定し、イスラエルこそが富者にふさわしく支配に値し、その他の民は奴隷になれと命じる仇敵であり、曾孫や玄孫の代にいたるまで復讐する神である。 そのことを物語る文書を以下に引用しよう・・「主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたがかれらを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申命記、七章二)。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記、七章六) タルムードはこの点について次のように述べている。「なんじらは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、一四六の六)。「ゴイ(非ユダヤ人)の家には、一群の家畜が住んでいる」(トセフタ、エルビン、八章)。 タルムード(過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)から、「神よ、あなたを信ずることなく、その御名を称えざる民どもの上に、あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ、あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし、粉々に打ち砕き給え。おお神よ、かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶、四散、殱滅し給え。誅殺し給え! 今ただちに誅殺し給え!」(プラナイティス、クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム、『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁、『ミンハギン』二三頁、『クラチ・シャイム』四八〇頁)。「ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。神は傲慢の家を亡ぼすだろう。そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。復讐の神が顕現されたのだ」(バビロニアン・タルムード、ベラチョット、五八の六)。「トーラーを持たざる者と予言する者とを、すべて殺さなければならない。かれらを殺す力ある者は、剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、四二五の五〇)。 ユダヤの似非賢人たちは、いにしえの律法に対するキリストの解釈では、異国の民に対する憎悪に代わって神の前ではすべての人間が平等であり兄弟の想いを抱くことが説かれ、その教えによればユダヤが世界の主人になるという特権的な地位が否定されることに気が付いた。 同時に、キリストが刷新した旧約聖書の素朴だが確固とした道徳観念は、生存闘争の場では自分の都合次第でころころ変える、破廉恥なユダヤの二重道徳を放逐した。キリスト教信仰に対するユダヤの憎悪は、次に引用するタルムードの文言に顕著に語られている・・「ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する」(ババ・バトラ、一四のb)。「ゴイの財産は主なき物品のごとし」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、一一六の五)。「ユダヤ人がゴイの土地に鍬を入れれば、その土地全部の所有者となったのである」(ババ・バトラ、五五のa)。 キリスト教徒もひとしく認めていた旧約の権威を高めんがために、それと平行してタルムードとラビの権威を増大させるために、タルムードの解釈と筆者たちは、次のように述べた・・「律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要である」「ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも、さらに悪い」(ミズナ、サンヘドリン、十の三)。「ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである」(エルビン、二一のb)。「タルムードの決定は、生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、現世のラビに意見を聞き給う」(ラビ・メナヘン、第五書の注解)。「エホバは天国にあって刻苦勉励してタルムードを学び給う。それほどこの書物に敬意を払われているのである」(メチラ訳)。 宗教的ドグマの威厳を増すために、次の教義が授けられる・・「ユダヤの民は神に選ばれたる唯一の民にして、爾余の民は軽蔑に値する不快な民であること」「他の民の資産はなべてユダヤの民に属し、必然的にいかなる良心の咎めもなく占有する権利があること」「正しきユダヤの民は他の民の人々に与えられた道徳原理にも拘束されぬこと、一方では正しきユダヤの民は、あたかも自分自身やユダヤ人自身の利益になるかのように、道徳に反対すること」「ユダヤ人はゴイ(ゴイとは不潔を意味し、非ユダヤ人に対する蔑称である)から奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、三四八)。「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない」(ミズナ、サンヘドリン、五七)。「ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイに返すことは禁じられている」(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、二六六の一)。「ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい」(トセフタ・スゼブノット、一一)。「結婚、誓約、約束を取り消すには、ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、ラビが不在の場合は、他のユダヤ人を三人呼び集め、かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人はなんじは許されたと言う」(シュルハン・アルーフ、二、一の二四七)
2011年10月26日
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序・・『シオンのプロトコール』の英訳者 ビクター・E・マースデン Victor E Marsden 有名なプロトコールの翻訳者は、革命の犠牲者であった。彼は多年にわたってロシアに居住したことがあり、ロシア婦人と結婚した。ロシアにあった当時の彼は、長らく『モーニング・ポスト』誌のロシア通信員であった。ロシア革命が失敗するまでその仕事に従事していた彼がロシアから送った生き生きとした記事は、同誌の読者には今もって思い出となってとどまっているだろう。推察されるように、彼はソビエト政府に狙い打ちされた。クロミー船長がユダヤに殺されたその日、ビクター・マースデンは逮捕されペテル・パウル監獄に投監され、処刑執行に自分の名を呼ばれるのを日々待つ身となった。だが、彼は脱走し、はなはだしく肉体を損傷してイギリスに戻った。しかし、彼は妻と友人たちの献身的な看護で健康を回復した。仕事ができるようになると直ちに手をつけたことの一つが、プロトコールの本翻訳だった。マースデン氏はこの仕事には抜群にうってつけの人だった。ロシアとロシアの生活とロシア語に造詣が深い一方で、簡潔で要を得た英文スタイルは巨匠の域にあり、何人かがこの仕事に名乗りをあげたとしても、彼に優る適任者はいなかった。その結果、彼の訳文により優れて読み易い訳文に接し、整理されていなかった感のある主題に、マースデン氏の筆致により二十四のプロトコールを流れる脈絡を読んでとることができる。彼自身が各章の最初に掲げた要約は、プロトコールの概観を得るのにきわめて有用であろう。 この労作はマースデン氏自身の血をあがなって実現したというのが真実である。英訳しようという使命感にかられて無理を重ねたことが明らかに彼を病気にさせ、彼はこの序文の筆者に、もはや大英博物館の中で一時間と続けて仕事をしていられないと語った。 マースデン氏と『モーニング・ポスト』誌との関係は、英国に帰国してからはゆるやかなものになったが、彼はプリンス・オブ・ウエルズ殿下海外旅行の同誌随行特派員を快諾した。明らかに良い健康状態で殿下との旅行から帰国した彼は、上陸して数日を出ずして突然発病し、短時日病床に就いて死亡した。彼の突然の死はいまもって謎である。 この労作が彼の栄誉を飾る記念碑とならんことを! この作品を通じて彼は英語を話す世界に計り知れない貢献をはたした。本書が『シオン長老のプロトコール』の英訳書のなかで第一級に位置づけられることは、疑う余地がない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ユダヤ教パリサイ派・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ユダヤ教とは、ユダヤ人長老のモーゼス・メンデルスゾーンがこのように言っている・・「ユダヤ教は宗教ではなく、宗教化された法である」。この定義は、非ユダヤ人の間に広まっている、ユダヤ教は宗教であるという誤った観念を是正するのに有効である。 ユダヤ人もキリスト教徒も同じように、ユダヤ人は最初の一神教者であるとしばしば声高に説いているにもかかわらず、ユダヤ人のエジプト行きよりもはるか以前に、メンフィスの僧侶の高位の秘義を受けた者は一神教徒であったことが証明されている。 ユダヤ教は祭儀もしくは典礼書としては最も詳述されているものと考えてよいが、、ユダヤ立法者モーゼが実在の人物だとするならば、モーゼは最初エジプトの高位秘義伝授者の間で修業を積み、後に、黒人が行う魔術儀式であり祭儀の由来となっているブードゥー教の父と呼ばれることもある、エチオピアの黒人魔術師ジェトロの弟子かつ養子となったことを記憶にとどめなけれはならない。 ユダヤ人の歴史をさらに詳しく見れば見るほど、ユダヤ人はまとまった宗教的な統一体でも民族でもないことが見えてくる。一部のユダヤ人指導者が世界の全ユダヤ人を一つの民族的統一体に結びつけようとがむしゃらな努力をしたシオニズムが絶対に誤りであることは、その範囲がパレスチナに限られていることを見ても、さような努力の無意味さを露呈しているのである。 ユダヤ教は宗教ではなく、ユダヤ人は民族ではなく祭儀としてのユダヤ教の一宗派である。 ユダヤ人大衆にとっての義務と典礼は、タルムードとシュルハン・アルーフ[用意のできた食卓の意]に含まれているが、高位秘義者の奥義伝授ならカバラに載っている。 そこには神降ろし、超自然力に働きかける呪文の使い方、数秘術、占星術その他神秘的な諸術が入っている。 カバリストは幾星霜にもわたってその秘術を使い、非ユダヤ人の上流社会にも大衆にもユダヤ人の優越性を見せつけている。君主も法王も、一人かそこいらのユダヤ人を占星術師か相談相手として雇うのが常だったし、内科医としてユダヤ人を抱え入れ生命を委ねることもしばしばであった。ユダヤ人が非ユダヤ人の国々で、経済力と平行して政治的な力もつけるようになったのは、そういう次第だった。以来、ユダヤの宮廷銀行家たちが、政府の公債や税金を意のままに操った。 幾星霜を重ねて、パリサイ派の影響力は広がり続けたが、秘密の破壊的な集団が浸透し社会を破滅へと陥れて行く恐しい行状が気付かれたことはなかった。 指導部としてブナイブリス最高会議を頭にいただき、すべての政府に蝟集するパリサイ派は、あらゆる国の政府を支配し、政治、経済、宗教、教育を牛耳る専政勢力となった。『ニコライ二世とユダヤ人たち』でネチェボロドフは次のように説明している。「バビロン捕囚時代に、ユダヤ人法師たちが入手したカレドニアの科学によって、聖書と捕囚(紀元前六〇六年)後にユダヤ人歴史家がわずかに残した文書にその名が見えているパリサイ派を誕生させることになった。高名な科学者のムンクは、パリサイ派は疑いなく捕囚時代に形成されたと書き残している」。「カバラやパリサイ派の伝承教説はその時代に遡る。すこぶる長期にわたってかれらの規範はわずかに口承によって伝えられていたが、後にタルムードを形成し、最終的には『セフィー・ハ・ゾハール』という書物にまとめられた」。(ネチェボロドフ著、前掲書) パリサイ人たちは、あたかもユダヤ人の中の一種知的貴族といった観があった。最初はかれらは「ハブラー」という一種の血族集団をなし、その成員は「ハブリム」すなわち兄弟と呼ばれていた。かれらはサドカイ人の聖職者たちを放逐することを目的とした破壊分子であった。サドカイ人聖職者たちは血と出自の良い貴族階級であることを誇りとしたのに対し、パリサイ派は知的貴族であることをもって対立した。パリサイ派が挑戦した戦闘は長きにわたり、抗争は熾烈を極めた。パリサイ派は、重要な教義の一つが「アム・ハレツ」すなわち単純な人々をはなはだしく軽蔑することにあるのは自ら語っていることであるが、自分たちの目的達成のためには大衆の支持が必要であることを見過さなかった。かれらはサドカイ人が多くの場で律法を厳しく守ろうとするのに反対し、積極的に安息日を遵守した。 サドカイ人の勢力はティトゥス神殿の没落とともに衰退に傾いたが、それ以後、パリサイ派がユダヤ人の間で覇権を握った。 ユダヤ教の有名な権威フラヴィアン・ブレニエ氏の言葉を引いて、ネチェボロドフ提督は、パリサイ派の方針をさらに詳しく次のように述べている。「ユダヤ人の熱望が誇らしげに表明されるまでに、パリサイ派の伝承教説は深刻な難関を克服しなければならなかった。最たるものは捕囚によってユダヤ人が正統的な信仰に戻ろうとした傾向だった。長期の国外生活の間に、エルサレムの神殿が没落したことを嘆き、故国の不幸が終るようにエホバに乞うたが、単なる幻であったエホバの啓示は、ある種の挫折感を招いただけでなく、ユダヤ人がイスラエルに対するあらゆる権威を失うやも知れぬ決定的な破滅の淵にまで身を曝す事態となった。「その時、パリサイ派は事態を抜け目なく判断し、宗教運動のリーダーシップをとることによって同胞の信頼をかちとり、好んで律法の最も些細な指示でも良心的に遵守し、こみいった儀典のあれこれを設け、それらと全く平行して秘密の聖域で新しい教義を磨き上げた。それが捕囚の時期に二、三百人の識者によって結成された本格的な秘密結社であった。最も隆盛を誇ったフラビウス・ジョセフスの時代でも、その数は六千人かそこいらを数えただけだった。
2011年10月15日
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21.経済戦争については、ゴイムからその不動産、産業を奪うための計画が議論され、経済的な国家利益、および投資に関する限り、重税と不当競争を組み合わせてゴイムの経済破綻を引き起こさなければならないと主張した。国際舞台においてゴイムが商売ができないように仕向けることは可能であると、つまりは原材料の巧みな支配、短時間労働および高賃金を求める組織的煽動運動の普及、競争者の助成によってそれは実現できる、とこの発言者は考えた。そこで提言されたのが下準備を整えること、そして賃金の増加で労働者が潤うことが決してないよう状況を管理することだった。22.武装については、ゴイムに殺し合いをさせるために-最終的には「我々の運動に尽くす少数の金持ち…および我々の利益を守る警察と兵士と、プロレタリアートの大衆がのこればいい」として-大々規模の増強が開始されなければならないと提案した。23.新秩序については、世界単一政府のメンバーは独裁者によって任命され、科学者、経済学者、財政専門家、企業家、大金持ちの中から選出されるとし、「実質的には万事、数字で解決がつく」と論じた。24.若者の重要性については、若者の関心を引きつける大切さを強調し、「代理人はその誤りを我々が承知している理論、原則を教え込むことで、社会の若年層の精神を惑わせて腐敗させる目的で、あらゆる階級、あらゆるレベルの社会、政府に潜入しなければならない」とした。25.国家法および国際法については、いずれも変えるべきではなく、「歪曲して最初はその法を覆い隠し、やがては見えなくさせるような否定的解釈を行なうだけで」現状のまま利用しつつ、ゴイムの文明を破壊しなければならないとされ、「我々の究極の目的は法を調停で置き換えることである」と論じられた。そして、この発言者は「我々に対してゴイムが武装蜂起するのではないかと、皆さんはお考えになるかもしれません。西ヨーロッパにおいて、我々はこの可能性への対抗手段として、どのような強者さえ縮み上がるような恐怖の組織を持っています…地下組織、地下鉄道、地下の(権力)回廊…などがそうです。危険に脅かされないうちに、こうした組織を諸国家の各都市に組織することにいたしましょう」と続けた。
2010年09月03日
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闇の世界史―教科書が絶対に教えない ウィリアム・G.カー 成甲書房秘密会議がおこなわれたのが1773年。「自由・平等・博愛」をスローガンとしたフランス革命が起きる16年前です。ヨーロッパ中でユダヤ人に対する迫害が露骨におこなわれていましたが、ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)と呼ばれる完全に自由な特権を享受していた少数のユダヤ人も存在していました。 この文章は、議事録というより会議の様子をレポートしている感じになっていて、発言者というのはマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドを指していると思われます。また、文中に出てくるゴイム(ゴイの複数形)という言葉は「他の民」つまり「非ユダヤ人」を指しています。明かされつつある企てを大まかに説明して熱狂的な支持を集めるとロスチャイルドは、原稿を開いて周到な行動計画を読みあげた。全世界の富、天然資源およびマンパワーに対する最終的絶対支配権を手に入れることを渇望する陰謀者の企てを、確信をもって私が要約すると、以下のとおりである-1.この発言者は、大多数の人間は善より悪の傾向が強いため、そのような人間を支配するには学究的議論ではなく、暴力とテロリズムに訴えると最善の結果が得られると述べるところからその企てを明かしはじめ、そもそも人間社会は残酷で見境のない力に支配されていたが、やがてその力が「法」とされたと論じた。そして「法」が姿を変えた「力」である以上、自然の諸法によって、権力は力の中に存在している」と考えるのが妥当であると続けた。2.次にこの発言者は、政治的自由とは事実ではなく1つの思想であると主張し、政治権力を奪取するには「リベラリズム」を説くだけで十分であるとした。そうすれば有権者は1つの思想のために自らの力、特権を手放すことになり、陰謀者はその放棄された力、特権をかき集めて手中におさめればいいことになると論じた。3.この発言者は「金の力」はこのときすでにリベラルな支配者の権限を奪取したと主張し、かつての時代には「信仰」が支配していたことを出席者に思い起こさせた。それでも「自由」が「信仰」に置き換えられても、大衆にはどのようにして自由を穏当に享受すればいいのかわからないと発言者は続け、この事実から考えると、「自由」という思想を利用すれば「階級闘争」を生じさせることも可能だと論じた。そして勝者は必ず「我々の手中にすっぽりおさまっている資金」を必要とするだろうから、計画さえ成功すれば、既存政府が内敵に破壊されようが外敵に破壊されようが、それは重要問題ではないとした。4.道徳律によって支配を行なう支配者は、自ら攻撃にされされてその地位を追われかねないので、熟達した政治家とは言えないということを論拠にすれば、最終目標に到達するために利用されるありとあらゆる手段を正当化できると論じたうえで、発言者は「率直さや正直さといった国民としての立派な資質は政治に支障をきたすから、支配となろうとする者はずる賢さ、欺瞞に訴えなければならない」と言った。5.「我々の権利は力の中にある。『権利』という言葉は抽象概念であって、実体はない。私が見出している新たな『権利』とは…強者の権利によって攻撃する権利であり、既存秩序、規律のすべてを粉砕し、既存のすべての制度を再構築する権利であり、『リベラリズム』の中で自発的に放棄された権限に対する『権利』を我々に委ねた人々の主権者となる権利である。」と発言者は主張した。6.さらに「我々の富の力はいかなるずる賢さ、力によっても損なわれないような強さを獲得するそのときまで、表面化しないよう保たれなければならない」と出席者を諭し、明かされつつある戦略計画の基本路線から逸れることは「何世紀にも及ぶ営為」を無にする危険性があると、発言者は警告した。7.また発言者は「群集心理」を利用して大衆に対する支配権を獲得するように忠告した。暴徒の力は無目的で、無意味で、論拠を持たないために、いかなる側の提案にも影響されると主張し、「独裁支配者だけが暴徒を有効に支配できる。というのも、絶対独裁支配がなければ、大衆ではなく(それがだれであれ)大衆の先導者によって達成される文明も存在し得ないからである」と論じた。そして「暴徒が『自由』を手にした瞬間、事態はたちまち無秩序状態に転じる」と警告を与えた。8.次に、酒類、ドラッグ、退廃的道徳、あらゆる形態の悪徳を代理人を通じて組織的に利用することで、諸国家の若者の道徳心を低下させなければならないと説いたうえで、専門の代理人が個人教師、使用人、係官として、それもゴイムが頻繁に出入りする娯楽場に配された我々の側の女性によって養成されなければならない、と発言者は主張した。そして「今述べた女性の中には、贅沢にふける堕落した人々の愛人となることを自ら選ぶいわゆる社交婦人も含まれる。賄賂もペテンも裏切り行為も、それが我々の目的達成に役立つのであれば、続けられなければならない」と付言した。9.政治については、そうすることで服従と主権を確保できるなら、何がなんでも躊躇うことなく財産を奪い取る権利が自分達にはあると発言者は主張し、「平和的征服の道を進む我々の国家は戦争の恐怖を死刑宣告、すなわち盲従を生じさせる『恐怖』を維持するための目立たないが目的に適う方策で置き換える権利を有する」と明言した。10.スローガンの使用については「古代において、我々は『自由』『平等』『博愛』という言葉を大衆に教え込んだ最初の民族であり…今日に至るまで、この言葉は愚かな人々によって繰り返されてきた。ゴイムは、賢者であると自称する者さえ、難解さゆえにこの言葉を理解できず、その言葉の意味とその相互関係の対立に気づくことさえない」と述べ、これは我々の旗を意気揚々と掲げる軍隊を我々の指示と統制のもとに置く言葉であるとした。さらに発言者は『自由』『平等』『博愛』のための場など自然界に存在しないと論じ、「ゴイムの自然発生的で世襲的な貴族社会の廃墟の上に、我々は金による貴族社会をつくりあげた。それは我々の拠りどころ、すなわち富を参加資格とする貴族社会である」とした。11.戦争に関しては、発言者は持論を披露した(この発言者が1773年に提案した1つの原則は1939年、英国およびアメリカ合衆国によって共同政策として発表された)。自ら戦争を誘発しながらに、敵対するどちらの側にも領土の獲得が生じない和平会議を主導しなければならないと論じたのである。さらに、発言者は「戦争とは対立する双方の国家がさらに負債を抱え込み、我々の代理人の手中に落ちるよう主導されなければならない」とも主張した。12.行政府については、財を活用して「我々の要求に素直に従い、我々のゲームの駒となって、正規の助言者として政府を陰で操ることを我々から任じられた学識と独創性を備えた人物にすぐ利用され得る候補者を選ばなければならない」と論じ、「『助言者』として我々が任じられる人物は全世界の出来事を支配するために、幼い頃から我々の考えに沿って育てられ、教育され、訓練された人物である。」とした。13.プロパガンダについても発言者は論じ、プールされた金をどのように活用すれば-誹謗、中傷、偽の情報を流したことでどのような波紋が広がろうと、自らは姿を隠したまま、非難されることもなく-大衆への情報の出口すべてを支配できるのかについて説明した。そして「大量の『血と汗』から集めるしかなかったのは事実だか、我々が金を手中におさめられたのは新聞のおかげである…それでも、我々は多くの同胞を犠牲にした。見返りは確かにあった。我々の同胞の犠牲者一人はゴイムのそれの1000人にも値する」と付言した。14.次に、状況が悪化し、貧困と恐怖によって大衆が支配されたときには、常に代理人を表舞台に立たせ、秩序を回復すべきときが来れば、犠牲者は犯罪者や責任能力のない人々の犠牲となったと解釈されるよう、ことを進めなければならないと発言者は指摘した。つまり、計算済みの『恐怖支配』が実現した時点で、犯罪者や精神異常者を処刑すれば、我々自身を抑圧された人々の救世主、労働者の擁護者として見せかけることができる」と述べ、発言者は「実際のところ、我々の関心は正反対で…減らすこと、すなわちゴイムを殺害することにある」と続けたのだった。15.経済不況および経済不安をどのように引き起こし、自らの目的のためにどのように活用するかについては、「食糧不足を引き起こすために我々の力を行使すれば、失業と飢えがつくりだされ、大衆にのしかかる。そうすれば、自然発生的貴族社会にかつて(それも国王という合法的権威によって)与えられた以上に確実な資本の支配力が生じる」と述べ、代理人に暴徒を支配させることで、「暴徒」を利用して、行く手を阻むすべての人間を一掃することは可能であるとした。16.さらには大陸のフリーメーソンへの潜入についても徹底的な議論がなされた。この発言者は、自分たちの目的はその組織および秘密厳守のフリーメーソンから提供されるものはすべて利用することであるとして、ブルー・フリーメーソン内部に自らの大東社を組織して破壊活動を実行しながら、博愛主義の名のもとで、自らの活動の真の意味を隠すことは可能であると述べた。また、自らの大東社に参入するメンバーはすべて、勧誘活動のために、そしてゴイムのあいだに無神論的唯物主義を広めるために利用されなければならないとし、これに関する議論を以下のように締めくくった-「全世界を統治する我々の主権者が王座に就く日が来れば、この同じ手が彼らの行く手を遮る可能性のあるすべてのものを払いのけることだろう」。17.この発言者はさらに、組織的な計略の価値についても説明を行ない、代理人は仰々しい言い回し、大衆受けのするスローガンを生み出せるよう訓練されなければならないと指摘した。大衆には惜しみなく約束しなければならないからである。そして「約束されたことと反対のことはのちになれば常におこなえる…どうということではない」と続け、「自由」と「解放」という言葉をつかえば、ゴイムを煽って愛国心を駆りたて、神の掟、自然の掟に逆らってでも戦うという気にさせることができると論じた。そして「それだから、我々が支配権を得たら『神の名』そのものが『生きとし生ける者の辞書』から消し去ることになる」と付言した。18.次に、この発言者は革命戦争の計画、すなわち市街戦の戦い方について詳述し、革命活動に必ず伴わなければならない「恐怖支配」の定型を「手っ取り早く大衆を服従させるもっとも安上がりな方法として概説した。19.外交術については、「『政治』『経済』『財政』の助言者の仮面をかぶった我々の代理人が、国家的および国際的出来事の背後に潜む『秘密権力』の正体が暴かれるのではないかと心配することなく、我々の命令を実行できるよう、すべての戦争のあとには、秘密外交が主張されなければならない」と述べ、秘密外交によって「我々の代理人が関わらないかぎり、諸国家は些細な個人的取り決めさえも結ぶことができないような支配権が確保されなければならない」と続けた。20.目標である最終的世界政府については、この目標に到達するためには「大規模の独占、すなわちゴイムの中でももっとも富ある者さえ我々に頼るほど(そして頼った挙句、政治的大打撃が生じた際には、政府への貸付とともに藻くずとなり果てるほど)莫大な富の蓄積が必要とされるだろう」と述べ、この発言者は「ここにお集まりの皆さんは、経済通でいらっしゃるから、こうして協力することの意味をあっさり計算されることと思います」と付言した。
2010年09月01日
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1773年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが30歳の時、フランクフルトに12人の実力者を招いて秘密会議を開きました。初代ロスチャイルドは、その会議で全世界に対する絶対的な支配権を手中に収めるための「二十五項目の行動計画書」から成っている「世界革命行動計画」について述べました。以下はその要約ですが、その後のロスチャイルドは、まさにこの計画を忠実に実行していきました。1.人間を支配するには、暴力とテロリズムに訴えると最善の結果が得られる。権力は力の中に存在している。2.政治権力を奪取するには「リベラリズム」を説くだけで十分である。そうすれば有権者は1つの思想のために自らの力、特権を手放すことになり、その放棄された力、特権をかき集めて手中に収めればいい。3.「金の力」はリベラルな支配者の権限を奪取した。「自由」が「信仰」に置き換えられても、大衆にはどのようにして自由を享受すればいいのかわからない。「自由」という思想を利用すれば「階級闘争」を生じさせることも可能だ。そして勝者は必ず「我々の資金」を必要とするだろうから、計画さえ成功すれば、既存政府が内敵に破壊されようが外敵に破壊されようが、それは重要問題ではない。4.道徳律によって支配を行なう支配者は、自ら攻撃にさらされてその地位を追われかねないので、熟達した政治家とは言えない。最終目標に到達するために利用されるありとあらゆる手段を正当化できる。率直さや正直さといった国民としての立派な資質は政治に支障をきたすから、支配となろうとする者は狡賢さ、欺瞞に訴えなければならない。5.我々の権利は力の中にある。私が見出している新たな権利とは、強者の権利によって攻撃する権利であり、既存秩序、規律のすべてを粉砕し、既存のすべての制度を再構築する権利であり、リベラリズムの中で自発的に放棄された権限に対する権利を我々に委ねた人々の主権者となる権利である。6.我々の富の力は、いかなる狡賢さ、力によっても損なわれないような強さを獲得する時まで、表面化しないよう保たれなければならない。戦略計画の基本路線から逸れることは「何世紀にも及ぶ営為」を無にする危険性がある。7.群集心理を利用して大衆に対する支配権を獲得すべきだ。暴徒の力は無目的で、無意味で、論拠を持たないために、いかなる側の提案にも影響される。独裁支配者だけが暴徒を有効に支配できる。8.酒類、ドラッグ、退廃的道徳、あらゆる形態の悪徳を代理人を通じて組織的に利用することで、諸国家の若者の道徳心を低下させなければならない。賄賂もペテンも裏切り行為も、それが我々の目的達成に役立つのであれば、続けられなければならない。9.そうすることで服従と主権を確保できるなら、何がなんでも躊躇うことなく財産を奪い取る権利が自分達にはある。平和的征服の道を進む我々の国家は、盲従を生じさせる「恐怖」を維持するための目的に適う方策で置き換える権利を有する。10.我々は「自由・平等・博愛」という言葉を大衆に教え込んだ最初の民族である。今日に至るまで、この言葉は愚かな人々によって繰り返されてきた。ゴイムは、賢者であると自称する者さえ、難解さゆえにこの言葉を理解できず、その言葉の意味とその相互関係の対立に気づくことさえない。これは我々の旗を掲げる軍隊を我々の指示と統制のもとに置く言葉である。「自由・平等・博愛」のための場など自然界に存在しない。ゴイムの自然発生的で世襲的な貴族社会の廃墟の上に、我々は金による貴族社会をつくりあげた。それは我々の拠りどころ、すなわち富を参加資格とする貴族社会である。11.自ら戦争を誘発しながら、敵対するどちらの側にも領土の獲得が生じない和平会議を主導しなければならない。戦争は対立する双方の国家がさらに負債を抱え込み、我々の代理人の手中に落ちるよう主導されなければならない。12.財を活用して、我々の要求に素直に従い、我々のゲームの駒となって、正規の助言者として政府を陰で操ることを我々から任じられた学識と独創性を備えた人物にすぐ利用され得る候補者を選ばなければならない。助言者として我々が任じる人物は、全世界の出来事を支配するために、幼い頃から我々の考えに沿って育てられ、教育され、訓練された人物にすべきである。13.誹謗、中傷、偽の情報を流したことでどのような波紋が広がろうと、自らは姿を隠したまま、非難されることがないようにしなければならない。そして、プールした金を活用し、大衆への情報の出口すべてを支配すべきである。14.状況が悪化し、貧困と恐怖によって大衆が支配されたときには、常に代理人を表舞台に立たせ、秩序を回復すべきときが来れば、犠牲者は犯罪者や責任能力のない人々の犠牲となったと解釈されるよう、ことを進めなければならない。計算済みの恐怖支配が実現した時点で、犯罪者や精神異常者を処刑すれば、我々自身を抑圧された人々の救世主、労働者の擁護者として見せかけることができる。実際のところ、我々の関心は正反対で…減らすこと、すなわちゴイムを殺害することにある。15.我々の力を行使すれば、失業と飢えがつくりだされ、大衆にのしかかる。そうすれば、自然発生的貴族社会にかつて与えられた以上に確実な資本の支配力が生じる。代理人に暴徒を支配させることで、「暴徒」を利用して、行く手を阻むすべての人間を一掃することは可能である。16.フリーメーソンへの潜入については、自分たちの目的はその組織および秘密厳守のフリーメーソンから提供されるものはすべて利用することである。ブルー・フリーメーソン内部に自らの大東社を組織して破壊活動を実行しながら、博愛主義の名のもとで、自らの活動の真の意味を隠すことは可能である。大東社に参入するメンバーはすべて、勧誘活動のために、そしてゴイムの間に無神論的唯物主義を広めるために利用されなければならない。全世界を統治する我々の主権者が王座に就く日が来れば、この同じ手が彼らの行く手を遮る可能性のあるすべてのものを払いのけることだろう。17.代理人は仰々しい言い回し、大衆受けのするスローガンを生み出せるよう訓練されなければならない。大衆には惜しみなく約束しなければならないからである。約束された事と反対の事は、のちになれば常におこなえる。「自由」と「解放」という言葉を使えば、ゴイムを煽って愛国心を駆りたて、神の掟、自然の掟に逆らってでも戦うという気にさせることができる。我々が支配権を得たら、神の名そのものが生きとし生ける者の辞書から消し去ることになる。18.恐怖支配は、手っ取り早く大衆を服従させるもっとも安上がりな方法だ。19.政治・経済・財政の助言者の仮面をかぶった我々の代理人が、国家的および国際的出来事の背後に潜む“秘密権力”の正体が暴かれるのではないかと心配することなく、我々の命令を実行できるよう、すべての戦争のあとには、秘密外交が主張されなければならない。秘密外交によって、我々の代理人が関わらないかぎり、諸国家は些細な個人的取り決めさえも結ぶことができないような支配権が確保されなければならない。20.最終目標である世界政府に到達するためには、大規模の独占、すなわちゴイムの中でも最も富ある者さえ我々に頼るほど、莫大な富の蓄積が必要とされるだろう。ここにお集まりの皆さんは、経済通でいらっしゃるから、こうして協力することの意味をあっさり計算されることと思います。21.ゴイムからその不動産、産業を奪うため、経済的な国家利益および投資に関する限り、重税と不当競争を組み合わせてゴイムの経済破綻を引き起こさなければならない。国際舞台においてゴイムが商売ができないように仕向けることは可能である。つまりは原材料の巧みな支配、短時間労働および高賃金を求める組織的煽動運動の普及、競争者の助成によってそれは実現できる。賃金の増加で労働者が潤うことが決してないよう状況を管理しなければならない。22.最終的には、我々の運動に尽くす少数の金持ち、および我々の利益を守る警察と兵士と、プロレタリアートの大衆が残ればいい。ゴイムに殺し合いをさせるため、大々規模の武装増強が開始されなければならない。23.世界単一政府のメンバーは独裁者によって任命され、科学者、経済学者、財政専門家、企業家、大金持ちの中から選出される。実質的には万事、数字(カネ?)で解決がつく。24.代理人はその誤りを我々が承知している理論、原則を教え込むことで、社会の若年層の精神を惑わせて腐敗させる目的で、あらゆる階級、あらゆるレベルの社会、政府に潜入しなければならない。25.国家法および国際法については、いずれも変えるべきではなく、歪曲して最初はその法を覆い隠し、やがては見えなくさせるような否定的解釈を行なうだけで、現状のまま利用しつつ、ゴイムの文明を破壊しなければならない。我々の究極の目的は法を調停で置き換えることである。我々に対してゴイムが武装蜂起するのではないかと、皆さんはお考えになるかもしれませんが、我々は西ヨーロッパにおいて、どのような強者さえ縮み上がるような恐怖の組織を持っています。危険に脅かされないうちに、こうした組織を諸国家の各都市に組織することにいたしましょう。
2010年08月28日
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彼等は新約聖書を冒涜するあなた方は、「そうです。ユダヤ人達は新約聖書を受け入れないのだから、前章でキリストが言われたような事を信じないし、知らないのです」とでも言うのだろうか。私はこれに答えよう。「願はくば、ユダヤ人達がそれらのうちの一つでも知るか、信じてくれる事を」と。我々キリスト教徒は彼等がイエスを冒涜し、呪っている時、彼等は公然とその父なる神を冒涜しているのだという事を知っている。もし神が我々に今、または審判の日に次のように言われたとしたら、私達は何と答えたら良いのか教えて欲しい。「お前達はキリスト教徒でありながら、ユダヤ人達が公然と私と私の息子とを冒涜している事を知っており、またお前達は彼等がそ うする事ができる余地を与えた。そしてまた彼等がお前達の国や町や家の中において、妨害も盧罰も受けることなくそうした事ができるように彼等を守り、庇護した!」と。 (原英訳書、訳者注--この後には、イエスの救世主としての御業に関する聖書の文章を引用した長い論述が続くが、それらは学術的、理論的性格の論述であるため、ここでは割愛する。) 徒って我々はかかる事態を冗談事としてすますわけにはいかないのだ。我々はこれに対抗する知恵を真剣に見つけだしてユダヤ人達から我々の魂を救出せねばならない。すなわち永遠の死より救出せねばならない。既に述ぺたようにこの知恵こそが、まず第一のものである。すなわち我々は彼等が会堂(シナゴーグ)を持つ権利を拒否する。ユダヤ人達がその内部において我らの創造主、そして父なる御 方をその御子息といっしょに長きに渡り冒涜し続けるような建物を我々が許しはしないという事を世間に知らしめるために…。そんな事を我々が知らずに黙認する事など断じてできないのだ。 第二に、彼等のすぺての書物、祈祷書、タルムードは没収されるぺきである。更にその一ぺージたりとも残されるぺきではない。それらは改宗するかもしれないのためにとっておかれてはならない。何故なら彼等はそれらすぺてを神の御子すなはち神御自身、御 父、天地創造主を冒涜する目的でのみ用いて、他のいかなる目的で用いる事もないのだから。 第三に、我々の領地においては彼等が神をたたえ、感謝する事、祈り説教する事は公然と禁止されるぺきである。そんな事は自分達自身の国においてか、我々キリスト教徒にそれが聞こえず、わからない所でさせようではないか。これに関する理由一彼等の神に対する讃美、感謝、祈祷、そして説教は彼等の心と口が父なる神をネーベル・ボリックと呼ぷ事に他ならないからである。そして神の御子、我らの主イエス・キリストをも彼等が同様に呼ぶからである。彼等が神の御子を呼ぴ、たたえるのと 同様に父なる神の名か呼ぱれ、たたえられるからである。彼等が沢山の美しい言葉を使い、神の御名を華々しく用いたとしても彼等が救われる事はないであらう。次のように記されているからである。「汝は主、すなはち神の御名をいたづらに唱へるぺきでばない」。丁度彼等の祖先がイスラエル王国時代に神の御名を用い、そしていまだにその御方をバールと呼ぷのが何の救いにもならないように。 第四に、我々の前では彼等が神の御名について話題にする事は禁止されるぺきである。我々は確固とした良心を持っており、そんな目にあう事には耐えられないからである。彼等の冒涜的な心と口が神の御子をネーペル・ボリックと呼ぷ 時、彼等は又、彼等の御父をも同じ名で呼んでいるのである。(我々キリスト教徒が他に解釈しようが無い、まさにその名前で。)我々は、神の御子が彼等にそう呼ぱれ、そうであると信じられている以上、その御父でさえそう呼ばれ、さう信じられているのだと考えるほかないのである。それゆえユダヤ人の口は、我々の耳の近くで神の御名をいう資格を持たないと考えるぺきである。そして、ユタヤ人がそれを唱へているのを聞いた者は誰でも為政者の方々に報告するぺきである。 この件において は誰も慈悲深かったり、親切であったりしてはならない。何故なら、それは神の栄誉と我々全て(ユダヤ人も含む)の救済にかかわる事だからである。 もし、ある人達がいて、ユダヤ人達はそんなに邪悪な事を意図しているわけではないと言い出し、ユダヤ人達は父なる神を冒涜し、呪っているという事も知らないのだ。(というのは、ユダヤ人達は主イエスや我々キリスト教徒の悪口を言っているにもかかわらず、神を最も高く、そして美しく誉めそやしているのだから)というとすれば、その時には以下のように答えるぺきであろう。もしユダヤ人達がその事を知りたがらず、またその事が良い事だとは思わないのであれば我々キリスト教徒がその事を知っておかなくてはならない。 神は彼等がこうした事を知らざるをえぬようにほぼ一五○○年に わたって伝道されるように取り計らって来たのであるからユダヤ人達は彼等が知らなかったのだと言い訳はできぬ筈である。神は又彼等にもそれを知る ように要求されたのである。 何故なら一五○○年にもわたって神の御言葉を聞きながら私はそれを知りたくないなどといっている者は誰でも当然の報いとして、その人間には卑しい言い訳、すなわち七倍の負債がもたらされるであろうから。 彼らの救世主は「にせもの」である。最後に私は自分自身に以下のごとく言い聞かせる。もし神が私に封しユダヤ人達が望み希望する救世主とは異なった救世主を与える事を望まないのであれば、私は人間でいるよりも雌豚になった方がずっと良いのだ!この事に関して私はあなたがたに幾つかの正当な理由を示す事にしよう。ユダヤ人達は彼等の救世主にコハブや世俗的な王になって欲しいと強く望んでいるだけなのである。その王とはキリスト教徒を虐殺し世界をユダヤ人のあいだで分割し、そうして彼等を金持ちの王侯とし、最後には他の王や彼の子供達と同様に死んでいくような世俗的な王にである。 もし、ユダヤ教の救世主が私という哀れな人間を私の精神的な損失にもかかわらず、救ってくれないのだとすれぱ、そして私の人生を雌豚のそれの十分の一も良くできないのだとすれぱ彼は私にとって良いものと言えるであろうか。私はいうであろう。わが主なる神よ、あなたの救世主を我が物とする者に与えたまえ、と。だが私は雌豚に変えて下さい。何故なら全く死んだ人間であるより生きた豚の方がましであるから。そう、キリストがおっしやったように「生まれなかったとしたら、それはその人の為にはましだったろうに」。 しかしながら、もし私が霊的に私を救済し給う救世主を得られるなら私は死を恐れる必要はないし常にそして永遠に人生に確信を持ち、悪魔や地獄をあざけり、神の怒りの前に身震いする必要もないであろう。その時には私の心は喜びで飛び跳ね、幸せに酔いしれる事であろう。そして私は神への愛の燈をともし、神に感謝し、神を賛美するのをやめないであろう。もしその時、神が私に金や銀や他の富を与えなかったとしても、全世界は私にとってバラダイスてあるだろう。たとえ私が牢獄に住まねぱならないとしてもである。その様な救世主を我らキリスト教徒は持っているのである。それゆえ 我々は圧倒的な心の喜ぴを以って父なる神に感謝しているのである。そのようなメシアをユダヤ人達は望まない。彼等にとって、そのようなメシアはどんな善い事も与えはしない。彼等は自分達の悪臭発する腹を満足させてくれ、また、牛や犬のように彼等と共に 死ぬような地上の楽園のメシアを所有しなければならないのだ。 彼等の神への冒涜と高利貸しを警戒せよ。私の考えでは以下のような結論にならざるをえない。もし我々がユダヤ人達の涜神から潔白で、彼等の共犯者になってはならぬとすれば、我々は彼等と分離して住まねばならないし、彼等は我々の国を離れねばならない。かくして彼等は、もはや我々が彼等を捕らえていると嘆く事もできないし、神に嘘をつく事もできない。我々も彼等が涜神と高利貸しによって我らを悩ますと嘆く事もなくなるであろう。これが両者に封して安全を保証する最も手っ取り早い最善の方策である。 (この後にはキリスト教の教義に反するユダヤ人達のキリスト教に封する非難に聖書からの長い引用による反論が績いている。--英訳注)
2010年06月18日
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キリスト教徒の死を熱望する一人のユダヤ人に会ったりその男の事を考える時にはいつでも、あなたがたは自分で自分に次のように言い聞かせるぺきである。見よ、自分が向こうに見る「口」は、毎週土曜日には、そのかけがえのない血によって私を救って下さったわが主イエス・キリストを呪い、忌み嫌い、そしてつばをかけ続けている。そしてまた神の御前で私や私の妻子達とすぺてのキリスト教徒が最も悲惨な形で刺し貫かれ、殺されるのを祈願し、呪っているのだ。彼等はもしそうできるものであれば我々の財産を所有しにやって来たいのだ。彼等は(自分達の習慣にしたがって)まさにこの今日といふ日において、イエスの名に封し地面につば吐き、多分、そのつばは彼の口やあご髭にかかっているのだが、まだ彼の顔のその辺りには、まだ十分につばが付く余裕があるのだ。かかる悪魔的な連中(口)と食ぺたり、飲んだり話したりするぺきなのであろうか?私はあのユダヤ人の中に住んでいるすべての悪魔達の仲間となり、キリストの貴重な血液につぱを吐きつつ、確実に多くの悪魔達の盧になってしまうのであそうか。神が私にそうさせないで下さる事を!と。 もし彼等が我々のようには神を信じないなら、我々はそうするように手助けする事はできないし、信仰を受け人れるように強いる事 もできない。しかしながら我々は彼等が故意に嘘や冒涜、呪い、そして恥をかかせんとする点において彼等を力付けてしまう事だけは避けなけれぱならない。そして彼等に庇護--肉や飲物、宿泊場所、そして近隣者としての親切--を与える事によって彼等の悪魔的な夢と大言壮語の共犯者になってはいけない。特に我々が彼等に対し友好的であったり、彼等に奉仕している所ではどこでも、彼等は神が彼等を主人にさせ、我々を召し使にさせたのだと得意になって、そして横柄に自慢するのであるから。 安息日にはキリスト教徒が彼等の火をつけ、彼等が望むものは何でも料理してやるのだが、この事に関して彼等はまるでなにか良い行いをしているかのように我々を呪い、つばを吐き、中傷するのである。しかし彼等は我々から盗んだ我々の財産をすっかり食ぺ蓋くしているのだ。ここ一四○○年の間、我々の疫病神にして害毒、そしてすぺての災難そのものであり続け、現在もそうであるユダヤ人達は、かかる絶望的、悪魔的であり、害悪を流す者どもなのである。 説教士の方達への忠告 とりわけあなたがた説教士の方達は、あなたがたの王侯や摂政の方々が神から課されたものとしての祈祷の義務を思い起こし、ユダヤ人達に労働を強制し、彼等が高利貸しを営むのを禁じ、彼等の神への冒涜と呪いを妨げるよう繰り返し主張しなければならない。それらの方々が、我々キリスト教徒の盗人やかっぱらい、殺人者、中傷する者ども、その他の悪魔的行行為を為すものを処罰しているのであるとすれば、何故にユダヤ人どもの中の悪魔の子達が我々に同じ様な悪行を働くのを放置しておくぺきなのだろうか? 我々はスペイン人達からよりもユダヤ人達からこそ多くの災いを被っているのではないか。こ れらの者どもは彼等の主人達から台所、酒倉、たんす、金ぷくろをかっぱらい、それに加えて主人の方々を呪い、死をもってこれらの方々を脅迫するのである。そして我々はかかる響応をユダヤ人達からも同様に受けているのである。かくして彼等は我々から盗み、強奪し、我々の首に寄り掛かり、怠惰で怠け者の腹をだし、食ぺたり飲んだりの大食漠ぶりを発揮し、我々の祖国の中で安逸な日々を送り、その代償として我々の主キリストや教会、王侯、そして我ら全てを呪い、休むことなく我々を脅し、我らの死と災難を願うのである。われらキリスト教徒がかかる怠け者ども、神を冒涜する者どもをいかに金 持ちにさせ、その代償としては彼等が我々に封して望むあらん限りの呪い、中傷、不幸のほかに何も得ることがない有りさまを良く考えて見て欲しい。この点ては我々はめくらの犬同様である。 丁度ユダヤ 人達が彼等の不信仰の中にいるように、私達はかかる無慈悲な悪漢からの圧政を被っている事がわからず、感じもせずに彼等を我々の王に、貪欲 な専制者にしているのである。我々はしかしながら彼等の捕虜であり臣下てある。そしてそれでも彼等は我々に捕虜として捕らえられていると嘆き、当然の如く我々を馬鹿にするのである!しかし、もし統治者の方々が、ユダヤ人達を自国から追い立て、言われているように彼等をエルサレムの彼等自身の国へと移動させ、そこで今我々の中で行っているように嘘や呪い、冒涜、つばかけ、殺人、盗み、高利貸し、などあらゆるたちの悪い忌むぺき行為を行うよう彼等に強制せず、彼等のわがままを抑へないならば...。 もちろん彼等はこうした事が彼等にはなんの助けにもならぬというふりをする事ができた。何故なら何人もそのような忌むぺき事を行う自由を容認する権利をもってはいないのであるから。すぺての自由はそうした事によって失われるのである。あなたがた説教士や牧師達が熱心に、そして殊勝にもこうした警告を発し続けても、どの君主や臣下の方々もこれについて何も実行しないならば、その時は(キリス トが言われたように)我々の靴から塵を払って次のように言おうではないか一私達はあなたがたの血に対して潔白である。 何故なら私はあなたがたの統治が厳格であるぺきにもかかわらず、いかに温情に満 ち、慈悲深いあぺこぺの世になっているかを知っており…経験して来たからである。その代わり、本来温情に満ち、慈悲深くあるぺき時にはやたらと厳格なのである。この世の王は十一代目のアバプ王(訳者注一列王記一六:二九) の加くにこの世を統治する。同様に彼等は、われらキリスト教徒と人間に封する血に飢えた敵であるユダヤ人達に寛容であり、それによって天国を手に入れたいと願うっているかもしれない。 しかしながらユダヤ人達は我々哀れなキリスト教徒を捕虜とし、苦しめ、拷問にかけ、既に記したごとく、あらゆる災いを与えるのてある。すなはち彼等がわれらから奪った金銭を貯えている所ではどこでも、我らは苦しめられ、そしてまた、まことにお人好なキリスト教徒と見なされるという次第なのである。一方我々哀れな説教士達は何を為すぺきなのであろうか。第一に我々は主イエスが、主のお言を受け入れず、主を十字架にかけたユダヤ人達に関して「お前達は毒蛇てあり悪魔の子である」。と述ぺられた時の主の お言が真実である事を我々は信じたいと思う。洗礼者ョハネもまた同様の事を言っているのだ!ユダヤ人達が良い状態になる事を望む支配者や慈悲深い聖者の方々は我々が主イエスキリストのお言を信じているのを許しておくような人達てはない。もちろんキリストはそんな慈非深い聖人達よりも良くすぺての核心を御存知なのである。 つまり、これらのユダヤ人達が毒蛇の子孫であり、悪魔の子供達以外の何 者でもないという事。そしてまた、彼等の父である悪魔と同じくらいに良き事を私達にもたらしてくれるであろうという事を。われらキリスト教徒は、あの者どもが我々に封してどんなに良い事をなしてくれたものかという事を聖書の記述の他にも自らこう むった経験に基づいてずっと以前から、良く理解しておくぺきであったのだ。このような毒蛇や若い悪魔ども、すなわち我々及び主キリストの最悪の敵どもを宿泊させ、世話をし名誉を与えたがり、自らがののしられ、略奪され、盗まれ、つぱをかけられ、呪はれ、すぺての災いに見舞われてもよいと考えているもの達にはユダヤ人達が推薦されるぺきであろう。 もしこれで十分でなければ、彼を又ジョッキの 中に押し込めるかその様な神殿を這いずりまわらせ、礼拝させよう。そしてその後で我々の主と、主がわれらにもたらして下さった尊い血とを汚すために悪魔と悪魔の子供達を彼が慈悲深くも力付けてやった事を彼に自慢させてやろうではないか。かくして、彼は慈悲の行為にあふれた完壁なキリスト者となるであろう!かかる行為に封してはキリストは審判の日には彼にユダヤ人と共に永遠の地獄の炎というお答えを出されることてあろう。 粗野な言い方を許してもらえば、それはユダヤ人達の野蛮な呪いとい い事に封して言われている。この点に関しては他の方達が多くを記しており、ユダヤ人達も彼等がそれによって故意に呪い、冒涜したいと願っているのであるから、それが呪いと呼ばれるぺきものであるという事は良く承知しているのである。この点につき、我々もまた明晰に、そしてキリスト教徒として霊的な表現て話す事としよう。我らの主、イエス・キリストは次の加く言われた。「私を受け入れるものは誰ても、私をお遣わしになった方を受けいれるのである。
2010年06月18日
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彼等はモーセを裏切る事さえするいつでもユダヤ人達は、モーゼが異邦人に封し高利貸しを営む事を彼等に許可したのだと公言する。(申命記二三:二○「異邦人には利息を取って貸しても良い。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない。これはあなたが入って取る地であなたの神、主がすぺてあなたのする事に祝福を与えられるためである」。)さもなければ彼らに有利な章句は何もないのだ。彼等には以下のごとき解答が与えられている。即ち二種類のユダヤ人又はイスラエル人が存在する。一つは神がモーゼに命じたごとく、モーセに導かれてエジプトを出てカナンの地に入った者達。彼等に封してモーゼは神の戒律を与え、彼等ば外国に出ることなく彼等の国土でひたすらメシアの到来までその戒律を守り続けていた…もう一つはモ-セのユダヤ人ではなく(ローマ)皇帝のユダヤ人である。彼等は統治者ピラトの時代のユダの地に起源を持つ。ピラトが法廷の場で「キリストと呼ばれるイエスについて余はどうすぺきなのか」とユダヤ人に尋ねた時、彼等は叫んだ。彼を十字架にかけよ!彼を十字架にかけよ!」ピラトは言った。「お前達 の王を十字架にかけるのか」と。仮等は叫ぷ。「皇帝以外に栽らは王を持た ぬ」と。このやうな皇帝への服従を神はユダヤ人達に命じだことはなかったのであるが、彼等は自発的にこれをなしたのである。その後すぐに皇帝が服従を命ずると彼等は反抗し、彼にはむかって今や臣下である事を望まなかった。そこで皇帝はユダヤ人達を工ルサレムから追放し、彼の完全な領土の中に分散させ、そこで彼等は従はざるをえなかったのである。現在ユダヤ人といふクズどもがいるのはこうした事情によるものである。彼等の事はモーゼは何も知らない。ユダヤ人達も彼について何も知ちない。 彼等はモーゼの一節も暗唱していないのだから。彼等はまずカナンの地に戻り、モーゼのユダヤ人となって彼の戒律を守り異教徒や異邦人達を平定せねばならない。そこで彼等は異邦人達が許容する限りにおいて高利貸しを営めば良いのだ。 だが彼等がローマ皇帝の領土である外国にいてモーゼの教へに従おうとしないのであれば彼等は皇帝の法を守り、モーゼの戒律に徒うようになるまでは、仮等より身分が上位の方達に逆らって高利貸しを営むぺきではない,とうふのは彼等が所有すぺき土地、あるいはイスラエルの国とはカナンの反対側の岸であるからてある。モーゼはエジプト人やバビロニア人あるいは他のどんな国民の下へ送られたのでもなく、自ら申命記の中てしばしば述ぺているごとく、エジプトを出てカナンの地に連れて来られただけなのである。彼等は彼等がョルダン河の反対側に所有するとした領土においてその様な戒律を守るぺきである。ほとんどモーゼによって作られた聖織者達、儀式、公国君主の権力に関する限り、それらはもはや一四○○年以前に崩壊してしまったのであるが、その時代以前に存在したモーゼの律法もまた崩壊し終わりをむかえた事は確実である。それ故皇帝の下でのユダヤ人達は皇帝の法によって扱われるぺきであり、一四○○年間一人も存在しなかったモーゼのユダヤ人のように扱われるぺきではないのである。彼等はモーゼによって自分達が高利貸しを許された自らの国土を持たず、ましてや外国の領土を持 たぬのであるから。最後に一若く頑強なユダヤ人達には(麦打ち用の)「からざを」や斧、踏みすき紡錘が与えられて、アダムの子達に課せられているのと同様に、自分達のパンを鼻頭に汗して稼がせるぺきである。創世紀三:一九「あなたは顔に汗してバンを食ペ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから、塵に掃る」彼等神聖なる民族がストーブの後ろにいて、怠けながら我らのバンをむさぼり喰らい、さらに自分達がキリスト教徒のご主人様であるなどとホラを吹きつつ、我ら呪われたゴイムをして額に汗して働かすぺきてあるなどと言う事を許しておくぺきではない。彼等の怠借は彼等の過去からもたらされるものなのである。しかしながら、彼等が我々に奉仕させられたり、働かされた時には、彼等は我々、我々の妻、子供達、召し使、家畜などを身体的に傷つける可能性がある。何故ならその様な労働になれていない世界の高貴な王侯達、つまり有毒な苦い姐虫どもは呪われたゴイム達の下で自分達を卑しめる事をするのには極めて不熟心であろうからである。我々はフランスやスペイン、ボヘミア及びその他の場所での諸国民のユダヤ人に対する、ごくあたりまえな知恵を採用しよう。これらの諸国民達はユダヤ人達が高利貸しによってむさぼり取った額を計算させそれを平等に分配したのである。その上で彼等はそれらの国から追放されたのである。既に話したように彼等に封する神の怒りは非常に大きいので、穏やかな慈悲によってでは彼等はより罪深くなるだけであり、ただ苛烈な仕打ちによってのみ少しはましになるのである。それ故彼等を追放しょうではないか!我らの富で慈善をなす。ユダヤ人達は多額の金を政府に与え、それによって政府の役に立っているといわれているとのことである。然り。しかしそれを彼等はどこから与えているのか。それらは彼等自身のものでなく、ユダヤ人達が高利貸しによって統治者の方達と臣下の方達の財産を奪いそれを与えているだけである!かくして統治者の方々はユダヤ人に取られたものを臣下の方達から取るのである。つまり、臣下の方達はユダヤ人達の為にお金を出さねばならず、お金を巻き上げられるという災難を被らねばならないのである。かうしてユダヤ人達は我が国のなかで自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みつつ居座っている事ができるというわけなのである。彼等があらゆる種類の悪徳をなすぺく、この国に滞在して居る事をみすみす許しておくぺきではないのではなかろうか? そしてまた我々が馬鹿にされ、仮等にお金を与えるために あちこち鼻面を引きずり回される様子をやけっばちのユダヤ人違が高笑いしている事を。それらすぺてに加えて彼等は我々の汗と血によって金持ちとなり、一方我々は貧しくなって行き、彼等によって干らびるまて吸い取られつつあるのではないのか?もしそうした事が正しいなら、召し使、客、あるいは捕虜は年毎忙彼の主人に一○フロを与え、その代わりに千フロを盗んでいる事になる。召し使と客はすぐに金持ちとなり、雇い主と主人は短期間に乞食となるであろう。ユダヤ人達が、 たとえその様な金額の金を万が一にも自分たちの財布から役所与える事ができたと仮定しても、(そんなことはできない話しではあるが)仮等はそれによって自分たちの会堂で我らの主キリストについて嘘をつき、中傷し、つばを吐き、呪う事がおおっびらに保護される構利を我々から手に入れようとするのである。 そしてまた、我々の上にあらゆる種類の不幸-すなわち我々すベてが傷つけられ、我らのハマン(訳注--ユダヤ人達を減ぼそうとしたが、計画が露見してしまい、自分が作った高い絞首台で虚刑されたペルシャの大臣(エステル書))や皇帝、君主、諸侯、妻そして子供たちとともに減亡するのを望むのであり、且つまた、主キリストや全キリスト教界、我々の統治者の方々、我々の妻達、子供たちが哀れなまでに安売りされる事になるといったあらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼等が望む事が保護されるのを手に入れようとするのである。裏切り者のユダヤ人達は我々よりもずっと聖人の価値があるかもしれない。そう、ただし、ユダヤ人達が年に一○萬フロを寄進してくれる事ができればのはなしてはあるが。 それでも我々は彼等が一人のキリスト教徒を冒涜し、呪い、つばをかける権限を持つ事を許したり、彼等に高利貸しを営む事を許してはいけない。そんなことをすれば我々は自分達をあまりに安値で売り渡す事になってしまうではないか。全キリスト教界と我々全員が自分達自身の金によって買収され、また高貴な方々や領主の方々全員の頂点にいるユダヤ人によって悪口をいわれ、呪われ、軽蔑の笑いにさらされるといった事を我らが許すなどというのであれぱ、それは何と我々の許容の範囲を越えた事であろうか!悪魔とその使者にとってそれは何と楽しい事であろうか。それらの事態はまるで子豚に歯をむき出す雌豚のように彼等が我々を馬鹿にして鼻先でせせら笑うといった事になるかもしれない。だがそうした事は神の御前ではまさに天罰に値する事なのだ。統治者の方々ヘの進言ユダヤ人達を配下にお持ちの王侯、領主諸侯:要するに、もし私の進言をお聞きにならぬとあれば、皆さんはより良い「解決方法」を見つけるぺきであろう。つまり、それによって我々全員がユダヤ人という耐え難い悪魔的くびきから解放され、また我らの主イエスキリスト、その御母、すぺてのキリスト教徒そしてすぺての統治者の方々と我ら自身に封して、荒れ狂うユダヤ人達が神の御前でなしているあらゆる嘘と悪口、つば吐き掛ける行為、呪いに封し共犯者にならないで済む「解決方法」を。すなわちあなたがたはユダヤ人達に封して保護や安全通行手形や組合員の地位を与えてはならない。ましてやあなたがた及び臣下の方々の所持金や財産を彼等の高利貸しの元手とするのを許してはならない。 我々はい まだに多くの自分自身の罪を背負っている。そして我々が神の恩籠と御働きに感謝する事を忘れたり、軽んじたりする事で日々その罪をさらに付け加えている。この上ユダヤ人などという卑しい外國人の悪徳をそれに付け加え、さらには我々の所持金や財産を彼等に与える必要など全くないのだ。 我々が日々トルコと戦闘状態にあり、それゆえ我々は自分達自身の罪から免れて魂の成長と向上を計る必要が多いにあるのだという事を思い起こそうではないか。この事に関して私は一連の事態を暴露し、それに警戒をうながした者として自らの良心が潔白であり、何等やましい所は無い事を望むものである。牧師であり伝道士である私の親愛なる方々、そして友人の皆さん、私は皆さんが、教区民達に封して永遠の破滅に陥る事のないよう警告を発するという自らの役目を誠実に思い起こされるよう願うものである。あなたがたはその為にどうしたらよいのかよく承知されている筈である。すなわち教区民はユダヤ人に対して警戒の構えをとり、彼等を避けなければならない。しかし決して彼等を呪ったり個人に封して傷害を与えたりすぺきではない!何故なら彼等が不幸な事に一四○○年の間そうし続けてきたようにナザレ人イエス、マリアの御子息を呪う事とは、実は自分達自身を呪い侮辱し続けてきた事になるのであるから。こうした点であなたがたは統治なさる方々に封し、私が申したごとくにユダヤ人達を取り扱うよう促す事が可能であろう。この点に関し統治なさる方々が何等かの処置をなそうと為すまいと、すぺての人々が自分自身の中にユダヤ人達に対するそのような決意と見通しを持つことによって自分自身と自分の良心を大切にするぺきなのだ!
2010年06月18日
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彼等は我々の富をつかって我等を奴隷とする。こうしたやり方で悪魔が我々キリスト教徒の間に自分の天国を持つ事ができた時には彼は笑い踊るのではないだろうか。そこでは彼の使徒であるユダヤ人を通して悪魔は我々の所有物をむさぼり食らい、我々に感謝して我々の口と鼻を満たし、神と人間を冒涜し呪うのである。彼等がダピデ王やソロモン王の下でのエルサレムで自分が所有していたものは、我々の下で日々盗み略奪しているほどではなく、これほどに良き日々を享受する事はできなかったのである。 それでも彼らは我々が彼らを捕囚していると文句をいうのだ。そう我等はユダヤ人達を所有し、捕囚している。丁度私が自分のリューマチや「肺病」や、他のすぺての病や不幸を持ち続けたいように。誰が自分の持つ金や財産やすぺての物を持参して迄貧しい召し使として待っていなければならないのか,私はそれらの災いがユダヤ人とともに、そしてまた彼等と一緒に居たい者は誰でもエルサレムへ行ってくれれぱと願う!我々が彼等を捕囚しているわけではない事は明らかなのだから、それ程偉大で高貴な聖人達が、どうして我々に封してそれほどまでに怒るに値するのであろうか?我々は彼等がイエスの母、マリアをさう呼ぶようには自分達の妻を売春婦とば呼ばないし、また我々は彼等が我等の主を呼ぶようには彼等の事を私生児などとは呼ばないのである。我々は彼等を呪わず、あらゆる種類の肉体的、精神的な幸せが彼等の上にあるよう祈り、我々と一緒に暮らす事を許している。我らは彼等の子供を誘拐せず、切り刻む事をしない。彼等の水に毒を入れる事をしない。彼等の血を渇望する事もない。何によっ て我々はかかる神聖なる神の子達の恐ろしい怒り、妬み、そして憎しみに値するのであろうか?神が正気とはおもえぬ無分別と荒れ狂う心を持って彼等を処罰したという事は我々がモーセから引用したとおりである。かくしてユダヤ人達がエルサレム崩壊後の三○○年間にわが主やキリスト教徒、そして(まだその目や肌に揮きがある)子供達に流させた汚れのない血に対して仕返しをしなかったということは、我々の失敗であった。我々が彼らを殺害せず、彼らの全ての殺人、呪い、冒涜と恥辱に対してとがめもせずに我らの間に住まうことを許し、彼らの学校、家、体、財産を守り、それによって彼らを怠惰にし、彼らが我々から金銭や財産を絞りとるのを信頼して保証し、手助けした。それに加へて我々をあざけり、つばを吐きかけ最終的には彼等が我々に勝利し、その様な大きな罪によって我々全員を殺害し、我々の財産のすぺてを持ち去る事を望み、日々祈っているのである。こうしたすぺての事は我々の失敗である。教えて欲しい。彼等には我々呪われたゴイムを僧み、呪って我々の最終的で完全な、そして永遠の没落を求める大きな動機がないのだろうか? 今や、我々はこれらの受け入れられない呪われたユダヤ人達をどう取り扱おうとしているのであろうか。我々の間に彼らが存在し、彼らの内部のうそや冒涜、そして呪いについて知った後では、我々は彼らの嘘や呪いや、冒涜の共犯者にならないようにそれに黙って悩んでいるべきではない。私たちは、消す事のできない神のしずめる事はできないし、またユダヤ人達を改宗することもできない。我々は祈りと敬虔さをもってその炎と激しい熱の中から数人でも救いだせるよう、大いなる慈悲を実践しなければならない。復讐は我々に許されていない。復讐は我々が彼らに抱くよりも千倍も増幅して彼らの首にまといつくであろう。私はあなたたちに私の本当の意見を述べる事にしよう。第一に我々は彼らの会堂と学校を避け、また人々にそれらに対して、反対するように警告する。こうした事は、神とキリスト教会の栄光のためになされるべきである。そしてまた、我々がキリスト教徒であり、神の御子とキリスト教徒に封するそのような嘘や呪いや冒涜を承知の上でそれに封して寛容なのではない事を神にわかっていただくようになされるぺきである。 何故なら、我々が無知で寛容である限り(私自身もその事を知らなかった)我々をお許しになるであろうから。しかしながら我々がそれを知った今は我々の目と鼻の先で、その中でユダヤ人達がキリストと我々を冒涜し、呪い、つぱを吐きかけ、恥辱をもたらす、そ そのようなユダヤ人達の建物にそうした事にもかかわらず我々が寛容であるなら、良く御存知の如く、それはあたかも我々自身かそれをなしたか、あるいはもっと悪い事をなしたのと同様に大変な事になるだけなのである。モーゼは申命記のなかいる。もしモーゼが今日生きているなら、彼はユダヤ人達の学校や建物に火をつける最初の人間になることであろう。(聖書からの証言に従えば)第二にあなた達は彼等が自分の家を栽々の中に建てるのを拒否せねばならない。何故なら、彼らは自分達の学校で行っているのと同様の事を自分達の家の中で行っているのだから。その代はりに、彼等が自ら誇っているようには我々の国の王侯などなのではなく、捕らえられて放浪の身の上なのだという事を思い知らすために彼等をジプシーのように軒先か馬小屋に置いても良いであろう。休みなく血なまぐさい殺人を吠えたて、神の御前で我々に不乎をこぼす彼等にふさはしく。第三に嘘と呪いそして冒涜が教えられる彼等の祈祷書及びタルムードの全著作を彼等から没収すぺきである。第四に彼等のラビが説教をする事を禁止せよ。彼等は貧しいユダヤ人達をモーゼの七、十一、十二の章句でとりこにし、その様な仕事への権利を剥奪したのである。モーセはそれらの章句において、そうしなければ身体と魂を失うとして彼等のラピ達に従うよう命じているのである。しかしながら、モーゼは明確に付け加へている。「主の律法に基づいて彼等があなたに教える事柄に閣しては...」と。この事を不心得者達は見過ごしているのだ。そして、主の律法に逆らって彼等の恣意に貧しい人達が服従するのを利用して彼等にその様な毒と冒涜を降り注いでいるのである。第五に街道でのユダヤ人の保護は廃止さるぺきである。何故なら彼等は貴族でも役人でもないし、我が国にいる権利はないのだから。彼等は家の中にとどまるぺきである。現在我国ではある金持ちのユダヤ人が十二頭だての馬車に乗っていると聞いている。そのユダヤ人はコハプ(Star Bar Kochab)、「星の息子」この偽メシアは紀元一三二~五ローマに封するユダヤ人の最後の反抗のリーダーであった。一になりたがっているわけである。彼は高利貸しを王侯や貴族達、地域住民、民衆に封し営んでいる。高官たちはこの件に関して黙認している。もしあなたがた、王侯及び諸侯の方々がこうした高利貸し達に対してこの地に住み、街道を往来する事を禁じないならば私はあなた達に封抗するために騎兵を集めたいと思う。何故なら、あなた方はこの書物を通してユダヤ人とは何者であるか、また彼等がいかに扱はれるぺきか、そして彼等の行動が保護さるぺきではないという事がよくわかったであろうから。 彼らの醜悪な行為のパートナーになりたくなければ、あなた方は彼らを保護すべきでないし、またそうすることはできない筈である。あなた方がたとえ彼等の事をよく配慮してやったとしても、その結果は良くてあなた方が減びるだけの話しなのである。第六にユダヤ人達にとって異国の土地において、自分の国の中の主人公でもない場所においては彼等の高利貸しは禁止されるぺきてある。それはモーゼによって禁ぜられていたのであり、すぺての貨幣、銀、そして金は没収し、保管のために持ち去られるぺきである。こうした理由から彼等はほかに収入はないのだから彼等が所有しているすぺでのものは高利賃しによって(上述のごとく)我々から盗み略奪したものなのである。その様な財宝は次の如く使用されるぺきである。即ち一人のユダヤ人が真に改宗した際にはいつでも、彼の人柄に応じて彼が自分の貧しい妻子や老人や弱者達を養うために一、二あるいは三○○フロ(金銭の単位)が与えられるであろう。 不正に獲得されたかかる財産は、それが神の祝福を受けられるような正当な使用がなされぬ限り呪われたものとなってしまうからである。
2010年06月18日
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異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード異教徒の哲学者や詩人達は神の統治や来世についてのみならず、現世の美徳についてはるかに、より立派に著述している。キケロや、彼に似たような人々によって示されたように、人間は生まれつき、他者に奉仕しなければならないし、 敵に対しても約束を守り、特に必要な時には、彼らに対して、誠実で役に立たねばならないと彼らは記述しているのである。 さて、私は三つのイソップ物語の中にはタルムード主義者やラピ達のすぺての著書の中によりも、そしてユダヤ人達の心の中にこれまでに育まれる事ができたすぺての物よりも、さらに多くの知恵が存在している事を主張したいと思う。人は私が少し言い過ぎていると思うかもしれない。しかし、私はいいすぎどころか、あまりにも少ししか言っていないのだ!と言うのは私は、彼等がいかに我々ゴイムを彼等の著書の中で呪い自分達の学校や礼拝の場において、我々に災いがふりかかる事をどれほど望んでいるか、良く理解しているからである。彼等は高利貸しによって、我らの金をかすめとり、可能な場所ではどこであっても我々をあらゆる種類の策略にかけるのである。何よりも悪い事は仮等はこの点においてそうする権利を持っていると確信しており、うまくやろうとしているという事である。っまり、彼等は自分達がそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、また彼等はそうした事がなされるぺきだと教えているのである。 悪魔自身、そして悪魔が取りついているもの--ちようどユダヤ人のように--以外に、いかなる異教徒もそんなことはした事はなく、また、これからも誰もそうすることはあり得ないであろう。減多に起こらぬ事なのだが、博識なラビで、神の恩寵によりキリスト教徒となったブルゲンシスは自分達の宗派において彼等がキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)といふ事実に心動かされ、この事から時分達は神の子ではないといふ結論に達した。何故なら、もし彼等が神の子であるなら、彼等は捕囚されたユダヤ人達がバビロンで振舞ったのと同様に振舞う事であろうから。即ちエレミヤはこの人達に開して次のように記している。「汝等を捕囚している都市の王の為に祈りなさい。彼等の平安は又汝等の平安なのだから」。しかしながら我が下劣でにせ者のユダヤ人達は彼等が可能な所ではどこても、そして彼等にできる事であればなんでも、何の理由もなしに我々を呪い、憎み、害悪を与えねばならないと考へているのである。だから彼等が神の子ではない事は確賞な事なのである。この点に開しては後に更に述ぺる事としよう。 彼等はィェスの御名を冒涜する(偽りの名でイエスに対する自分達の憎しみを隠し持っているユダヤ人のすれっからしなやり方に対する諸論述は、大変興味深いものがる。ここには次のように言われている。 )それ故に彼等はイエスの御名を扱ふ。」Jesusはへブライ語でば「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人は「Heirichi」またば「Hiprichi] という名称を用いた。それは我々が現在「Helprich」と呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしながらユダヤ人達は故意にねじまげて彼を「Jesu」と呼ぶ。それha ヘブラィ語ては名前でも言葉でもなく、単なる3つの文字か、数字か、暗号でしかない。そ普あたかも私がCLUとい書を数字と見なし、CLUを一五五であるとするようなものである。(CLU:ローマ字ではC-一○○、L-五○、Vー五 = 一五五。VとUは語源的には同じである。)かくしてかれらはイエスを三一六と呼ぶのである。その様な数字はNebel Borikを意味するもう一つの単語を引き出させるといわれている。この点について読者はァントン ニルガリタムの著書においてょり多くの事を学ぺるであろ う。 ユダヤ人達はそれらの教字や単語をつかって何という悪魔的な所業をなしている事であろうか。彼等は我々キリスト教徒を同様のやり方で扱うのである。我等が彼等を訪問し、彼等に迎え入れられた時、彼等は「神があなたを歓迎する」。(ドイツ語ではGot wilkommen)という言をねじ曲げて「Shed wil kom」これは即ち「悪魔よやってこい」又は「悪魔がやってくる」である。我々がヘプライ語を理解できないのを良い事に彼等はひそかに我等に封する呪いを実行しているのである。つまり、ユダヤ人達が我々を地獄とすべての吹こうの炎で呪っているのに、我々は彼らが友好的なのだと思っているわけである。 彼等は処女マリアを売春婦と呼ぶかくして彼等は彼(イエス)を売春婦の子と呼び、彼の母マリアを売春婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。まことに不本意な事であるが、私は悪魔と闘うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。彼らが単なる憎悪とわがままでこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者や軍純なユダヤ人達がイエスの教義(それを彼等は否定できない)を受け入れてしまわぬよう、我等の主に封する偏見を彼等に抱かせるためなのである。 サバスティアヌス ムエンスターもまた彼のBibliaの中で、聖母を「マリア」と呼ばず、「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいるといわれると指摘している。そしユダヤ人達が彼らの仲間内だけでなしている私達が知らない、もっと多くのことを誰も知る事はできないのである! (ルターは救世主やバーコハブについての入念で科学的な議論においてユダヤ人的性格、彼等の著書、願望に開する彼の博識の完全さを示し、最後に、いわゆるキリスト教徒の中ての、「捕囚」の問題に到達する) 彼らが我々の内部に捕囚された事を嘆くのはなんとすばらしくひどい嘘であるかを良く知っておいて欲しい。エルサレムは一四○○年以上前、破壊された。それ以来、我々キリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受け続けたのである。おょそ300年 近くにわたって(上記のごとく)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し殺害したと訴えるのは正富な事なのである。その上、今日にいたるまで我々はどんな悪魔が彼等を我々の国へ連れ来たったのか知らない。我々が彼等をエルサレムから連れてきたわけではないのだ! これらすぺてに加えて、誰も彼等を今日において拘束しているわけではない。土地も公道も彼等には開放されている。彼等がその気になればいつでも自分達の国へ移動できるのである。我々は彼等から自由になるために彼等に一つのプレセントを付け加えたい。彼等は我々の国にあって疾病やペストそして災難以外の何物でもない、我々にとっての重い荷物である。ある人間が自らの家の中である者に我慢できぬ時読者はそ奴を捕らえられていると呼ぶであろうか。彼等はなぜ我々キリスト教徒を我々の国の中で捕囚の身とする事ができるのだろうか。仮等は我々を鼻面に汗して働かせ、一方、自分達は暖かいストーブの後ろに座っていて金や商品を所有している のであろうか。なぜ彼等は怠け者の大食漢や大酒のみで、我々が働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、彼等の呪うぺき高利貧しによって我々及ぴ我々の財産を略奪するのであろうか。なぜ彼等は我々を嘲り、我々の上につばをはきかけるのてあろうか。何故なら我々は自分達の犠牲において働かねばならず、彼らが貴族であるのを許さねばならないのだから。かくして彼等は我々の王であり主人なのである。我々は自らの財産と汗と労働を以て彼等の召し使なのである! そして彼等は我々に感謝し、報いんが為に我らの主を呪っているというわけなのである!
2010年06月18日
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彼らの救世主、金と銀彼らの救世主は決してくる事はないだらう。といふのは、かれが「少しの間」おいでにならない筈のことが、大変に長い期間になってしまっているのであって、この事は決して何も起こらないという事なのである。なぜなら、預言は「少しの間」といっているのであって、「長い期間」とは言っていないのだから。 しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「少しの間」を否定できないので、「諸国民の欲望」ヘプライ語でヘムダートという表現をとってそれを抑えつけるのである。その言葉が「救世主」を意珠せず異教徒のすぺての金銀を示しているというのだ。何故なら文法書によれば、「ヘムダート」といふ言葉は異教徒の望むものとか愛するものというように、本当に「何物かへの欲望、愛」を意味するのだから。そして今や、この文章は次のように読む事ができるだらう。「ほんの少し後には、すぺての異邦人達の欲望が姿を表わすであろう」。一体これは何なのか。異邦人達は何を望むのか。金、銀そして宝石を。あなた達は、ユダヤ人達がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのかを聞きたくなるかもしれない。私は次のように言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢ゑて悪臭を放っている。太陽の下にいるいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人達ほど貪欲な者はかつていなかったし、現在も、そしていつの世でも存在しないだらうから。 彼らは又、次のような事に満足を見出している。「救世主がやってくる時、その方は世界中の全ての金と銀を所有し、それをユダヤ人の間に分配するであろう」。かくして彼らが飽く事を知らぬ貪欲へと聖書をねじ曲げる事ができる所ではどこでも、ユダヤ人達はよこしまな事にそうするのである。あなた方は神と神の預言は、ユダヤ人達の計り知れぬ貪欲がいかに異教徒達の金銀によって滞足されたかという事以外には何も預言しなかったのだと思うであらう。子供のころから、彼らは両親及びラピ達から、「ゴイム」(異教徒)に封するこのような有害な憎しみの言葉をむさぼるやうに吸収し、いまも休みなく吸収しており、詩編一○九篇によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄の中にまで浸透しつづけて来ており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、彼らが肉体と血液、骨と骨髄をほとんど変える事がてきないのと同様に、彼らは、このやうな高慢と妬みを変える事ができない。神が特別の奇跡を起 こさぬ限り、彼らはただそんな有り様のままでいて、破減して行くしかないのだ。 強い敵意を持つ有害な敵我が親愛なるキリスト教徒よ。それ故、心よりユダヤ人たらんとしているユダヤ人ほど敵意を持ち有害で強力な敵は、悪魔以外には誰もいないといふ事を知らなければならない。彼らの内には午やアヒルが信じる事を信じる者もいるかもしれない。しかし、彼ら全員が、彼等の血と割礼の信仰の中に包まれているのだ。それ故、歴史上彼等はトレントやワイセンシー等におけるが如く、しばしぱ井戸に毒を投げ込み、子供違を誘拐、殺害したとして有罪を宣告されているのてある。もちろん彼らはこれを否定する。しかしながらそれが事実であるにせよ無いにせよ、もし彼等が秘密であるにせよそうでないにせよ、そうした事を行動に移す事が可能な場合には、彼等には、それらの事をなすのに十分用意のできた意志があるという事を私はよく承知しているのである。こうした事をしっかりと知って欲しい。そして、それに従って行動して欲しいのだ!時折、彼等は何か善き事を為すかもしれない。しかしそれはあなた達への愛によるのでも、あなた達の福利の為になされるのでもないという事をよくよく承知しておかねばならない。我々のあいだで住んでいける余地を手に入れる為に彼等は当然何かをしなければなら ないだけなのだ。しかし彼等の本心は私が概に述ぺたごとくであり、また依然としてそうであり績けて いるのだ。あなたは私の言う事を信じたくないのか。それならリラ、プルゲン、そして、その他の高潔で信頼できる方達の書物を読んで見て欲しい。萬が一にも彼等がその事を書いていなかったと仮定しても、聖書は蛇と女性といふ二つの子孫が他の誰よりも、キリスト教徒と封立しており、神と悪魔の間にはいかなる妥協も存在しないという事を明らかにしている。こうした事は彼等の著書や祈祷書にもまた、粗野な形で描かれている事なのである。 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼等が他の誰よりもキリスト教徒に封してそれ程までに敵意を抱くのか不思議に思うであらう。私達は彼等に封し善行のみを施すのだから、彼等がそうなる何の理由もないのだ。彼等は我々の祖国で、私達の庇護の下に住んでおり、土地や公道を用い、市場や街を使用している。 王侯や政府は、みすみす傍観し、いびきをかき、口を空けたままでいるので、彼等の財布やたんすからユダヤ人達が思いのままにとったり盗んだり、奪いとるのを許しているつまり王侯や政府は自ら及ぴ臣下の者達がつけこまれ、スッカラカンになるまで吸い取られ、自分達自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。というのは、ユダヤ人達は外国人として、間違いなく何も持っている筈が無いのである。彼等が現在所有している物は確実に我々の物であるに違いないのだから。彼等は働かず、働いた報酬を我等から得たわけでもない。また我々が彼等にそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼等は我々の金銭や財宝を所有し、亡命先である我々の国で主人となっているのである。 もし盗人が一○グルテン盗めば、この者は絞首刑にならねばならない。もし彼が街道て略奪を行えば、彼の首ははねられてしまうのだ。ところがユダヤ人となると彼等が高利貸しによって一○トンの金を盗んだ時でも、神様よりも大切に扱われるのである。 密かにユダヤ人達は、我々クリスチャンを呪うそして顕著な特傲として、彼等は自分達の間で次のように言い合う事で彼等の信仰と我々への激しい憎悪を強めているのである。「いかに神が我等と共にあるか、そして流浪の身である我々を見捨てていないかを見守り続けよ。我々は働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは我等の為に働き続けねばならない。我々は彼等の金銭を手に入れる。それ故我等は彼等の主人であり、彼等は我々の召し使である。イスラエルの子供達よ、事態は更に善くなって行くであろう。もし我等がかくの如くし続け異教徒達の「ヘムダート」(ヘプライ語の欲望、財産)を高利貸しによって我々のものにして行くなら、我々の救世主がやって来られるであろう」と。これら全てが我々が彼等を保護している間に彼等から被っている事なのである。彼等は、かくの如く我々を呪っているのだ。 一歴史的な聖書注解の長い論述の後で、ルーテルがこの時代において既にタルムード及びシュルハン・アルクを知っていた事がわかる、大変輿味深い一節が続いている。この事が、ルーテルのユダヤ問題に対する変化を説明するのである。ー ユダヤ人達のタルムードやラビ達は次のように著述しなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺す事は罪ではない。しかし彼がイスラエルの兄弟を殺すならそれは罪である。もし彼が異教徒に封して彼の警約を守り続けなかったとしても罪ではない。それ故異教徒から盗んだり略奪したりする事は(彼等が高利貸しにおいて為すのと同様に)神聖なる仕事なのである。というのは彼等は自分達が高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であり、一方我々は呪われたゴイムであるが故に、我々キリスト教徒に封し罪深くあり過ぎるという事は決してあり得ないという風に考えているのである。そして彼等は世界の主人であり、我々は彼等の召し使、そう、彼等の家畜なのである。 要するにラビ達が彼等に教えたように、そしてまた福音書の著者達が我々に告げたようにユダヤ人達は、父母を祝福する事に関する第五の戒律を廃止したのである。(マタイ伝一五:六「あなた方は『父又は母を敬わなくてもよろしい』と、言っている。こうしてあなたがたは自分達の言い伝えによって、神の言葉を無にしている」。また、マタイ伝二三:一三(「偽善な律法学者、パリサイ入達よ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人々を入らせもしない」マタイ伝五:二八(「しかし私はあなた達に言う。誰でも情慾を抱いて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである」)も、言うに及ばぬ事である。彼等は何と十戎を狡滑に説教し解釈した事であろうか!そして彼等は神殿の中にお金の両替所や商人及びあらゆる種類の貪欲な商取引を持ち込んだ。それは主キリストが彼等は神の家を盗賊の巣となしたといった事である。神が御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ぱねばならぬとはなんと名誉な事であろうか。何とそのお住まいは 栄光に輝く事であらうか。今やあなた達自身で思い描いてみると良い。何故なら非常に多くの魂が貪欲で偽りの教義、即ち二重の偽善によって殺害されたのであるから。 こんにちまで、ユタヤ人達はこのような教義にしがみつき、彼等の先祖達と同様に振舞っている。可能な所ではどこでも、そして彼等の子供達に教え続けられる所ではどこでも神の言葉を曲解し、貪欲で、高利賃をし、盗み、殺人を犯している。
2010年06月18日
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彼らの宗派は、悪魔の巣窟であるそれゆえあなた方はユダヤ人達に封して警護を固め、次の事を知るぺきである。即ち、彼らが集いを持つ場所は悪魔の巣窟以外の何者でもなく、そこでは自分違を自ら讃美し、虚栄、うそ、冒涜、神と人間に恥辱をもたらすといったことが、悪魔がなすのと同様に、最も強烈にして、最も有害なやり方で実行されているのだと言う事をである。 ユダヤ人違が説教している所で聞くということは、それがどこでも、「一にらみで人々を傷つけ殺害した、危瞼なバシリスク(中世の傅説)」が話すのを間いているのと同じ事であると、あなた方は考えねぱならない。 神の怒りを通して彼らは自分達を自慢する事、虚栄、神に偽りを言う事、すぺての異邦人を呪う事、等のすぺてが正しく、そうした事が神への偉大な奉仕であり、この様な高貴な父親の血筋と割礼した聖人にふさわしい事なのだと信じるよう教えられてきた・(たとへ彼らが甚だしい悪徳の中にあって、他の鮎でどんなに自分達を卑しいと思ったとしても)彼らはこうした事によって神の加護が輿へられてきたと考えているのてある。彼らを監視せよ! 彼らは自分達がカナンの地、エルサレムの町、神による神殿を所有していた事を自慢する。神が、その様な高慢と虚栄とを何度も覆しになったにもかかわらずに。とりわけバビロンの王--彼はユダヤ人を遠くへ連れ去ったのだが--を通して、以前にアッシリア王が彼らを遠く連れさり、全イスラエル人を殺害したのと同様、ユタヤ人の殺害へと導いた。 そして、最後には彼らユダヤ人達はローマ人達によって根こそぎ移住を強制され、荒廃させられた。かうして一四○○年前、彼らは、いかに神が彼らの国家、町、神殿、聖職者、そして君主に配慮を示されなかったか、また今後も 重視しないことを理解した。ところがイザヤがかつてこう呼んだように(彼らの)頑な首は頭を下げる事もなく、鉄の額は恥じ入って赤くなる事もなかった。彼らは絶えず強情で、頑固で、盲目で、ものに動じることがないままである。そして神が再ぴ故郷へ連れ戻しになり、彼らに全てのものをお返しになる事を望んでいるのである。 悪魔にとりつかれた者ユダヤ人達は自分達が神の戒律を守るという目的の為に、神にすぺての物を与えられているのであって、それ故にこそ自分達が神の民、集会の民と呼ばれているのだという事を理解しようともしないし、聞こうともしない。彼らの血筋と高貴さに関しても、神は、神の戒律を彼らに守らせる為にこそ彼らを選んだにもかかわらず、彼らはその事をわかろうとせず考慮しようともしないで、ただ自らを自慢するだけなのである。彼らは割礼を自慢する。しかし、彼らが割礼を受ける目的--神の戒律を守るという 事--は彼らには何の意味もないのである。彼らは自分達の法律、会堂、宗教儀式、町、田舎、そして國家を自慢する。しかし、彼らは、自分達が戒律を守るという目的の為にこそ、それらを所有させてもらっているのだという事をすっかり忘れているのだ。悪魔はかかる民族にこそ彼の全ての天使達と共にとりつきつづけているのだ。彼らは目にみえるもの、自分達の才能、業績、行為等を常に自慢する。 そうした事は中身のない空っぽの「見せかけだけのもの」を神に棒げるのと同じなのである。神はそうしたものを神にささげる民族である彼らのために、彼らを神の民とし、すぺての異教徒に優先して彼らを賞賛し、祝福する。しかし彼らは神の戒律を守らねばならないし、自らの神として神を守らねばならない。ところが、その事を彼らは受け入れようとはしないのだ。モーゼの次の言があてはまる。 「彼らは 私を神と見なさず、それゆえ私は彼らを私の民とは見なさない」。これはホセア書1-九にも言はれている事てあるが、もしエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを、神が許さずに以前と同様に、彼らに土地を保持させていたとすれば、誰もユダヤ人達が神の選ぱれた民で はないと彼らを説得する事などできはしなかっただろう。何故なら彼らはその邪悪さ、不服従、強情さにもかかわらず、未だに会堂、町、田舎、を保持しているからである。 たとえ多くの預言者が叫ぴ、澤山のモーセ達が立って「汝は不服従であり、反抗的であるゆえに神の民ではない」というとしても。 離散せられ、一五○○年聞拒絶された後の、現在でさえ、彼らは自からが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような、高慢きわまりない考えをあきらめきれないでいるのである。彼らは依然として自分達の利益の為に、故郷の地に戻る事を望んでいる。しかし、彼らが自分達の勝手な想像によって、聖書の中に塗りたくっておいた言葉以外には、彼らがせめてもの慰めとして頼れる約束は何もないのだ。かくしてユダヤ人達はわがままを言い続け、また意識的に過ちを犯したがっており、彼らのラピ達を見限ろうともしない。それ故、我々もまた、彼らが有害な冒涜を犯し、嘘を付くのてあれば彼らをそのままに放置し無視しなけれぱならない。 聖書に関する偽り私はまた以下のような経験を持つ… 我々がウイッテンペルグで、ヘプライ語を読み始めた事を知って、三人の学識あるユダヤ人が、私を新しく来たユダヤ人ではないかと期待して私の所へやってきた。彼らはまた我々キリスト教徒が彼らの書 を読むので、事態はすぐに改善されるだろうなどと偽りを言っていた。 私が聖書のテキストに基づいて解釈するよう、彼らに 迫ると彼らはテキストを放り出し、ちようど我々が牧師や博士達の言葉を信じなければならないのと同様に、彼らはラビを信じなけれぽならないのだといった。それで私は彼らがかわいそうになり、彼らがキリストの為に、安心してたどって行く事がてきる案内書を推薦した。後になって私は、彼らがキリストを「トーラ」即ち、吊下げられた犯罪人と呼んでいるという事を知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人とも関わりを持つ気が全く無くなったのである。聖パウロは、彼らが天罰にさらされていると言っている。 あなた達が彼らを助けようとすれぱするほど、彼らはより邪悪で、頑固になって行くので ある。彼らを彼らだけにして放っておこう!この後聖書からの澤山の立証が続く。それらは細かい神学上の、科学的な、それ故一般には理解が困難な引用である。それらの文章は力強く、ルーテルのドイツを良く表わし、とびきり先駆的な形で核心を突いた発言をしていると言える。ここには、その分量の 多さ故に載録する事ができない。珠玉のやうで、感動的な聖書の章句の引用の中からここにはただ以下の文のみを引用する。ハガイ書二章六節、七節「萬軍の主はこう言われる、しぱらくして、いま一度、 私は天と、地と、海と、乾いた地とを震う。わたしはまた寓國民を震う。寓國民の財宝は入って来て、私は栄光をこの家に満たすと、萬軍の主は言われる」。(「萬囲民」は「異教従」に等しい。) ユダヤ人達はその寺院がまだ立っていた特代に救世主がやって来た事を否定し、その神殿崩壊後一五六八年も彼らが待ちつづけているように、救世主は依然としてこれからやってくるだろうと主張するのである。しかし、それはもはや、こんなに「長い期間」いまだにその時期がわからない以上、「少しの間 に」等とは呼ぺない事なのだ。
2010年06月18日
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彼らの自己を正当化する大言壮語彼らの、うわ言のような気違いじみた無意味さが完壁であるために、彼らは神を讃美し、次の事に感謝をささげる。第一に彼らが人間であって勤物ではないといふ事に。第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(獣)ではないといふ事を。三番目に彼らが女としてでなく男として創造されたことを。かかる馬鹿げた行為を彼らはイスラエルから学んだのではなく、ゴイムから学んだのである。というのは、仮にこのような冒涜と涜神の行為とが神の讃美と言われ得るとすれば、ギリシャのプラトンもまた毎日同様な、神に対する讃美と感謝とを捧げていたと歴史家達は記しているのであるから。プラトンは次の三点において神を賞美していた。即ち、彼が人間であって動物でない点、男であって女でない点、ギリシ ャ人であって野蛮な非ギリシャ人でない点である。こうしたものこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。 誰も彼らがイスラエルの血統及ぴ種族である事について大言壮語するのをやめさせられない。、旧約聖書によれば、そのため彼らは多くの戦闘で敗れてきた。(ユダヤ人達は誰もこの事を理解できない。)すぺての預言はその故に彼らを叱責している。なぜならそうした事は魂と信仰をぬきにした誇りと現世的な憶測にすぎないからである。 悪魔の子供達我々の主は、また彼らを「毒蛇ども」と呼ぴ給うた。ヨハネ傅八-三九「もしあなたたちがアプラバムの子孫であるなら、アブラハムの行ないをなすはずである」。八- 四四「あなたたちはあなたたちの父、悪魔に作られた者である」彼らが悪魔の子供達であるという事は、彼らが現在でも未だにそのような呼ばれ方に耐える事ができないように、かれらにはとても耐え難い事であった。というのは、もし彼らがこのよりどころ(アプラハムの子孫であるという)を示さねばならないとするなら、全て彼らが築いたものは崩壌し、違ったものになってしまうからである。 もし神がユダヤ人達に封して慈悲深くあるぺきだとすればユダヤ人達はまづ彼らの宗派から、彼らの心から、彼らの口から、すぺての涜神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわねばならない。かかる祈りこそがユダヤ人に封する神の怒りを絶えず増大させているのであるから。しかし彼らは決してそうすることはなく自らえへ目になることはないであろう。神が与え給う 筈の彼らへの悪るぺき絶減から特別にお救いになろうとするほんの数名の者を除いては。 自分達を高みに置くユダヤ人達が自分達を他の民族より高い位置におき、他の民族を軽蔑する際にその根櫨としているのは、彼らがアプラハム以降、割礼を行っているという事である。その故に、我等異教徒はその宗派、祈り讃美歌、そして教義においてどんなに災難を被らねばならないのだろう。我等が割礼を為さぬがゆえ になんと我等軽蔑さるぺき國民は、彼らの鼻の前で醜くも悪臭を発しているのであろうか。 その中では彼らユダヤ人達は、すぺての異教徒達の前で主人ぶった尊大な様子に描かれている。というのはユダヤ人達はいつでも邪悪な偶像崇拝や誤った教義を実行し、割礼を受けていない心を持つ、まさにその様な民族なのであるから。それゆえ、モーゼ自身及びすぺての預言者達はその事を嘆き悲しんだのである。しかし彼らは 同時に、神を喜ばせようと努力し、それゆえ預言者達を殺害したのである。 聖書が、いたるところで証明しているように、彼らは預言者達の説教や教えや叱責によって自分達の邪悪な心を善きものにしようなどとは金輪際考えない、罪深く高慢な国民なのである。それでも彼らは神の召し使いたらんとし、神の御前に立とうというのだ! 彼らは今日にいたるまで自らの高貴さと血筋を自画自賛する以外、何もできない。彼らは自らの宗派、祈祷、教義において自分達だけを讃美し、全世界を罪あるものと宣告する。しかし彼らは自分達が神に最も親しい子供達として神の御前に立っていると勝手に想像しているだけなのである。 嘘つきにしてしつこい犬彼らは本当の嘘つきにしてしつこい「いぬ」である。彼らは聖書の全ぺ-ジを始めから終っわりまで彼らの解釈で絶間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすぺてがいつの日か我々異教徒を、彼らがかつてエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱いたいという所に向けられているのてある。ああ彼らはなんとエステル書を偏愛している事てあろうか。その書は彼らの血に飢えた、執念深く残酷な欲望と希望とをまことにすばらしくも肯定しているのてある。自分達を神の民と妄想し、異教徒を殺し、押しつぶしてしまいたいと望み、またそうせねぱならぬと考へている彼らユダヤ人達ほど血に飢え、執念深い人達の上には、太陽が輝く事は決してなかったのである。彼らが期待する彼らの救世主の主要な約束は神が彼らの剣によって全世界の人々を殺害する事なのである。彼らがまづ我々キリスト教徒に封して示したように、もしできさえすれば、彼らは、しばしばそうしようと試みて、繰り返し自分達の鼻先をこっひどく叩かれてきたのである。 つまり彼ら自身の欠陥と高麗礼的なプライドとを暴露している。 (ルーテルはここで割礼に加えて、ユダヤ人達が自慢する多くの文献を列挙している。寄せ集め的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており不信心で邪悪である事を嘆く聖書の中の多敷の文章を引用し、その上で悪魔をユダヤ人と比ぺて語っている。) 異教徒より邪悪な者達もしユダヤ人達が神の戒律を持たず、またそれを知らなかったとしたら、どんなに彼らにとって、ましな事であっただろう。なぜなら、もし彼らがそれを持っていなけれぱ彼らは有罪を宣告される事はなかったからである。彼らは神の戒律を持っていながら、それを守らぬばかりか、絶間なくそれに反逆して行動するが故に呪われているのである。 (ただ知っているだけなのである) こんなことが成り立つなら、もし例えば、殺人者、売春婦、泥棒、ならず者達、そしてすぺての悪人どもは、もし彼らが神の言葉を持ち、神を恐れ、従ふぺきである事を知り、神を愛し、彼に仕え、神の御名を構ヘ、殺人や不倫を犯すぺきでばない事を知っている等々であるなら、(知っていると言うだけで)これらの者共が目分達は神の神聖にして選ばれた人々である等と公言しても良い、というのと同じ事になってしまうのだ。 しかしながら披らは現に罪を犯しており、呪われているのだから彼らがたえへもっとも神聖にして正しいところの神の言葉を新有しているとしても、これら悪漢どもがそれに反して罪を犯しているという事には変わりはないのである。それなら、ユダヤ人達と同様、これら悪党どもに、神は神の律法を通して彼らを神聖化し、彼らを神の特別な民として選抜なされたという事を、すぺての諸国民の前で彼らに自慢させようではないか。ユダヤ人達が自らの宗派を自慢し神が神の律法を通して彼らを浄化して神の選民と為し給うたことで、神を賞美し感謝を捧げている時、一方では彼らは自分達がそれらの戒律などまったく守っておらず高慢と妬み高利貸し、貪欲、そしてすぺての卑しさに満ちているという事をよく承知しているのである。そしてまた、彼らは何よりも祈祷において敬虔にして神聖にふるまう者達ではあるのだが、彼らユダヤ人達の栄光もまた前述の悪党共の栄光と同じ事になってしまうのである。彼らは高利賃しを行うのみならず、(私は今は彼らの他の悪徳についてば黙っていよう。)高利貸しを神がモ ーゼを通して彼らに命じ給うた権利として教えるほどに盲目であり、この点に関しても、彼らは他の場合と同様ひどいやり方で神について嘘を述べへているのであるが、これについて今は詳細に述ぺる余裕はない。 彼らは十戎を愚弄する。神を馬鹿にするもし十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を患か者の如くに扱う詐欺師かぺてん師以外の何者でもない。 それは、あたかも悪魔の統領が、祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、その様な方々のすぺての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。しかしながらその様な精神の面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵冒涜者が居り福音も十戎も、ともにふみにじり、呪いそして非難しているのである。神の御前てそれは何と素晴らしい聖人ではないか。あるいはもしこの世で、一人の美しい女性が慎み深いしとやかさと純潔さに満ちたマナー、公正さ、立居振舞をしなが処女である事を示す花飾りをつけてそぞろ歩いていたとしても、裏では十戎に背く淫らで恥づぺき売春婦であったとしたら、たとへ彼女が見える所では純潔の公正さや振舞いを守ったとしても彼女の素靖らしい従順さはいったい何の役に立つのだろうか。彼女はだらしのない公娼達の七倍も軽蔑されるという 結果になるだらう。 このように神は、彼らが外見は戒律と高潔さの様子を示しながら,あらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行いをしているので、神の預言を送ることにより、常にイスラエル人を卑しい売春婦と叱ったのである。特にホセアが二章四、五で嘆いたように。「私はその子らを哀れまない。彼らは淫行の子等だからである。彼らの母は淫行をなし、彼らをはらんだ披女は恥ずぺき事を行った。彼女は言う。『私は我が懸人達についていこう。彼らは私にパンと水、羊の毛と麻と油、そして飲み物を与える』と」乙女や女性が敬虔かつ清潔で見苦しくなく装い外見上、慎ましやかに振舞うを見るのは、実に素晴らしい事である。しかし彼女がもし、売春婦であるならその(すばらしい)衣装、装身具、花飾り、そしてアクセサリーは、ぬかるみの中の雌豚が身につけたほうが、より、まともにみえ る事てあろう。ソロモンが言うように「きれいで馬鹿な女は、雌豚の鼻の上につけられた黄金のモールのようである」。 親愛なるキリスト教徒よ、こうした事から盲目のユダヤ人どもが貴方たちを誤り導くのを黙認する時には、自分達が何をしようとしているのか、よく気を付けるぺきである。このような場合には一つの諺が確かに成り立つであろう。すなわち、「盲目の者が盲目の者を導くなら、両者とも、堀に落ちるであろう」という諺が。それ以上のことで彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らず、それでも異教徒達に封し高慢で居丈高になる。神の前に出るなら、異邦人のほうがまだましである。何故なら、彼らは神聖さに関してそんな高慢さを持っていないが、しかしおごり高ぶる聖人達や罪深い涜神の者や嘘つき者どもより、はるかに律法に適ったことを為すからである。
2010年06月18日
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私はもうこれ以上、ユダヤ人のことも、ユダヤ人に反封することも書かない決心をしていた。けれども、これらのあわれで邪悪な連中が我々キリスト教徒に打ち勝とうとすることを止めないので、ユダヤ人のかかる有害な企てに抵抗する人々の隊列に私も加わるペく、私はこの小冊子の出版を許し、彼らに封してキリスト教徒が自らの防備を固めるぺく警告を発した。私はキリスト教徒がユダヤ人に馬鹿にされ、ユダヤ人達と彼らの追放と悲惨さを分かちあうようになるとは考えてもみなかった。しかしながら悪魔がこの世では神である。そして神の言葉の無い場所においては、弱者の間だけでなく、強いもの達の間をも悪魔は容易に航海するのである。神が我々に御加護を輿えんことを。 アーメン マルチン・ルーテル 主にょる恩寵と平和のあらんことを 親愛なる閣下並びに友人諸氏 私はキリスト教徒と論争を続ける、一人のユダヤ人の論文を受け取った。この論文の中でそのユダヤ人は、聖書-我々はそれを主キリストその御母マリアヘの信仰のために用いるのであるが--の一節を曲解させ、ねじ曲げるというあっかまし示している。彼は我々の信仰の土台をひっくり返そうとたくらんでいるのだ。この事に関し、私はあなた方並ぴに、このユダヤ人に封して以下のごとく解答を与える。 私の目的とするところは、ユダヤ人達と論争したり、彼らが聖書をどのやうに解釈したり理解したりするかを披らから学ぶ事にあるわけではない。私は、既にそれらの事をすぺて知っているからである。ましてや私かユダヤ人を改宗させようなどと考へる事はない。そんなことは不可能なのだ。いたるところでユダヤ人達の間では良い事は何もなく、彼らは一般に悪い状態になっている。 彼らは天罰に関して非常に無関心になっているので、彼らが1400年以上、追放されつづけており、未だ彼らが仮定しているようなその終末とはっきりした救済の期日をわからないでいるという恐ろしいジレンマについて、熱烈 で絶えまない神への叫び声でごまかして意識しようとしないのである。もし、天罰が役に立たないとすれば、我々の話や解釈がなおのこと、役に立たないと思うのだ。論争することの無益さそれゆえキリスト教徒は現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしあなた方が彼らと話さざるをえなくなったり、話したくなったときには以下のこと以外にはいうべきではない「ユダヤ人よ、あなた方の会堂及び司祭たちとともに、あなたたちの王國は一四六○年間破壊されているという事を知らないのか。われわれキリスト教徒がキリスト生誕後一五四三年に記すやうにこの年は正確には一四六九年間であり、ヴェスバシアヌスとティトスがエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を追ひ払ってから一五○○年が過ぎているのだ」と。 この小さいクルミをユダヤ人に与えて彼ら同士の間で好きなだけそれに噛み付かせ、議論させるとよいのだ。 神のこのような悪るぺき怒りこそが彼らが確実に誤っており、悪をなしている充分な証拠なのである。子供でさえ、そんなことは理解てきるであろう。誰も自らの國民をそれほど無慈悲に処罰し、慰めの言葉も、また、その様な悲惨さが続く期間や期限も示すことなく沈黙を保っているような神等といふものを想像すらできない。誰がその様な神を信じ、希望を見出して信頼したいと思うであろうか。それゆえ、この怒りによって、ユダヤ人は、はっきりと神に拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また、神も彼らの神ではないという結論に達ぜざるをえないのである。ホセア書1ー九「ロアンミ、あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなた方の神ではない」。そう、彼らは恐ろしいジレンマに入っているのだ。彼らがこうした事に封してどんな解釈をしようと、我々は自の前に我々を欺く事ができない事態をみているのである。 神の怒りの犠牲そして、感覚と理性のひらめきのある者は、必ず次のように自ら考える事てあろう。「ああ神よ、事態は我々にとってよくない。我々の悲惨さは大きすぎる。迫放は長すぎ、過酷すぎる。神は我々を忘れ給うた」と。 もちろん私はユダヤ人ではない。しかし、私はこの国民に対する神の恐るべき怒りについて考えるのは恐ろしく嫌な事だ。 私は身震いするが、その考えはわたしのからだと生命の中にしみこんでくる。すぺての偽りのキリスト教徒と信仰なきものに封する地獄での神の永遠の怒りとはどのようなものなのであろうか。ユダヤ人達が主イエス・キリストを彼らが望むどのようなものとみなしても別にかまわない。我々はルカ傅二一:20-23の成就をみる。「エルサレムが軍隊によって囲まれるのを見たら、その滅亡は間近である。--なぜならそれは、書き記されているすぺてのことが成就する報復の時だからである」。 要するに前述の如く、我々の信仰に開してはユダヤ人とあまり論争すぺきではない。子供のころから彼らは我等の主に封して毒と憎しみを持って育てられてきているので、彼らが自らの悲惨さを通して柔軟になり、救世主が到来し、それが主キリストであるという事を告白せざるをえないような地点に到達するまでは何の希望もないのである。さもなければ彼らと議論するのは概して時期尚早であり、無駄な事なのである,我々の信仰を更に強めるために彼らの信仰と聖書解釈における幾つかの愚かさ加減を考えて見よう。なぜなら彼らは我々の信仰をその様な汚いやり口で非難するのだから。それが萬一、一人のユダヤを改心させたとしたら、彼は恥じ入ることであろう。恥じ入れば恥じ入る ほど良いのである。我々はユダヤ人達とはユダヤ人とその行為に関して以外話す事はない。そうした事については、我がドイツ国民はよく知っているのである。彼らは一つの原則を保持して、それを頼りにしている。即ち、彼らは地上でもっとも高貴な國民の生まれ、アプラハム、サラ、イサク、リペカ、ヤコプ等の子孫であるという事である。われわれ(異教徒=ゴイム)は、彼らの目から見ると人間ではなく、ほとんど虫けらにも値しない。我々はかの高貴な貴族の血統ではないからだと。 これが彼らの主張であり、私の考えでは主要にして最も強固な部分である。それゆえ神は彼らの宗派、祈り、歌、教義そして全生涯において彼らを苦しめなければならない。そこで彼らは神の御前に立ち、「彼」を苦しめる。(私は神について人になぞらへて話している。)神は異教徒から彼らを分離した事で、また聖なる父達の子孫たる事を彼らに許した事で、更にまた、神御自身の神聖な民として彼らを選んだ事等々で、彼らがいかに自らを高みにおき、神を誉めそやしているか、その声を聞かねぱならない。そして父祖達の血筋と子孫である事を自慢する事には際限がないのである
2010年06月18日
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序この書を読むことはこれまでに出版された本の中でも、もっともセンセーショナルで考えさせる言に触れることとなるであらう。プロテスタンティズムの開拓者であるルター師によって書かれたこの論文を出版する者たちは必ずしもこの書物と自分たちが同じ立場であるとして出版するわけではない。この出版の主な理由は公人にとって、論議するにはもっともデリケートで危険な問題の一つであるユダヤ人問題についてルーテルがいったことの正確な翻訳を読者に提供することにある。この翻訳は宗教的な仕事とか、党派的な論文といふことでなされるわけではない。我々が原語でこの本を見つけ出し、その翻訳の手配にかかったとき、我々は、広範な、様々な方面からの妨害に直面して、驚かされることとなった。2人の翻訳者が脅迫を受け、文章は簡潔であるにも関わらず、かなり劇的な経験を経て、初めて我々はその翻訳を完成し得たのである。この本の翻訳(作業を経る事)によって、我々は次第にこの書 物を隠されたままに しておこうとする巧妙に組織された陰謀が存在することを確信するに至った。 ルーテルにとって、ユタヤ人と関わったその経験は彼を失望させるに充分なものてあった。彼はユダヤ人たちを永年にわたり改宗させようと努力し続けた。聖パウロのように彼はユダヤ人たちに福音を伝えようとした。しかし読者もすぐ理解するように、後年彼は、自らのこの方面での努力は全て無駄であったとの結論を付けるのである。 本書は何よりも内容の正確さを尊重する立場から出版される。それゆえ、もしこの書の中に十六世紀ドイツの高度な専門的知識を持った研究者の手によって誤りが発見された場合、我々はそれを次の版で改定する用意がある。この小さい本に封する需要は非常に大きいので我々はそれが数限りなく版を重ねるのを期待している。我々は誠実なキリスト教徒のあいだにマルチン・ルーターほどの卓越した人物の著作が彼の数知れぬ崇拝者達の目から巧みに且つ、故意に遠ざけられたままであったという事実に封する深い怒りが起こっていることを発見している。 ルーテルの幾つかの言は、読者に衡撃を輿えずにはおかないであろう。しかし、この改革者の言葉に我々が同意するかしないかではなく、彼が書いたそのままのものを読者に提供すること、これこそが我々の仕事なのである。 この翻訳は一つの基本的な目的のためになされる。即ち、我々の世代がユダヤ問題に直面した初めての世代ではないということを知るために。それは、また、第二の目的のために出版される。即ちユダヤ問題に警戒心を持つという事が、そのままこの問題に警戒心を持つ人間が必ずしも堕落していたり、キリスト教精神に反しているわけではないのだという事をあらわすためにである。 (注)疑惑を持つ人々ヘー-この著作がマルチン・ルターのものであるかどうか疑いを抱く人も何人かいるであろう。本書の原文に関してはワシントンDCにある国会図書館や、幾つかの信頼されるぺきルーテル派の神学校にあるルーテルの著作集の中に見つけることができるてあろう。すぺての宗派の教恨りない聖職者達がこの著作の存在に気付いている。我々が確かめうる限りにおいて、彼らは又本書がアメリカで出版される最初の英語版てあるという事実にも気付いているのである。 (注)このルーテルの著書は彼の全著作の最後のものの中にある。ルーテルは六十三才までしか生きず、その人生の最盛期に亡くなったのだということを思い起こさねぱならない。 (注)この著作の読者はルーテルのユダヤ人に封する見解がプロテスタントの立場からの必然的なものであると結論づけないで欲しい。(実は、この問題に関して)多くのカトリックの教皇達もルーテル師が用いる言葉程、強くはないとしても、同程度の強さの言葉は使用していたのである。事実、教皇の回勅によってゲットーが創設され、ユダヤ人と、キリスト教徒社会を分離することがローマから発せられた回勅によって開始されたのである。この注の目的は読者に問題は単にプロテスタントとか、カトリックとか、また他のいかなる宗派にもあるのではないということに注意を喚起することにある。すぺての信仰するものが、ルーテルに同意するかしないかなのである。
2010年06月18日
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統一教会批判でも有名だったヘレン・トーマス氏2010年5月27日、ヘレンはラビライブ・ドットコムのインタビューで「ユダヤ人たちはパレスチナから出て行け」「あの人たち(パレスチナ人たち)は占領されている。あれは彼らの土地だ」「(イスラエルに在住する)ユダヤ人たちは、ポーランドでも、ドイツでも、アメリカでも、どこへでも帰ればいい」と発言し、物議を醸した。彼女は後に謝罪したが、アメリカのユダヤ人団体「名誉毀損防止同盟」(ADL)が「十分な謝罪になっていない」と反発したほか、ロバート・ギブズ大統領報道官は「攻撃的で非難されるべき」、ホワイトハウス特派員協会も「弁解の余地ない」発言と批判した。この責任を取って6月7日、ヘレン・トーマスはジャーナリストを引退した。6月8日(ブルームバーグ):米ホワイトハウスの名物記者、ヘレン・トーマス氏が7日引退した。AP通信が伝えた。トーマス氏はホワイトハウスの会見室で1960年代から10人の大統領に厳しい質問を浴びせてきたことで知られるが、イスラエル人は「パレスチナから出て行くべきだ」との発言が批判され、キャリアに終止符が打たれた。 トーマス氏(89)は1943年に米通信社UPIに入社。1960年からホワイトハウスを担当した。1974年に女性として初めてUPIのホワイトハウス支局長に就任。女性ジャーナリストの草分け的な存在だった。2000年にハーストに移籍した後も、会見室の最前列の席からのしつこい質問は健在だった。 トーマス氏の問題発言はインターネット上で広がり、同氏は謝罪したものの、ギブズ大統領報道官が「攻撃的で非難されるべき」発言だと批判したほか、ホワイトハウス特派員協会も「弁解の余地ない」発言として異例の警告を行っていた。http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=a1yULqS3xZFUhttp://video.jp.msn.com/watch/video/%EF%BD%81%EF%BD%90%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%99%82%E9%96%938%E6%97%A5-%E7%B1%B3%E6%99%82%E9%96%937%E6%97%A5/ffv0efn9?fg=rss報道のファーストレディ 怒りのインタビュ 57年間もホワイトハウスのレポートを勤めてきたヘレン・トーマス。彼女はいつしか報道のファーストレディと呼ばれるようになり、彼女はアドバスターズに今日におけるアメリカのジャーナリズムを我々に話してくれた。【Adbusters】ケネディ大統領の時代からホワイトハウスのプレスルーム最前列に座ってらっしゃったそうですが今は部屋の後ろになってしまいました・・・。【Helen】ブッシュ大統領の時だけね。彼はどうも私を呼びたくないみたい。【Adbusters】彼のマスコミに対する見解についてはどう思われますか?【Helen】それをはっきりさせるのは気が進まないのだけれど・・。マスコミが好きな大統領はいません。けど特にブッシュの場合は誰が質問するのかを前もって確認するのです。ブッシュは会見に招待するリポーターのリストを見てチェックしているのです、このようなことは今まで私も見た事もされたことありませんでした、そして彼は台本にやたらと固執してそれ以外の事を話そうとはしません。彼は私の質問に怯えているようです。一方ではこんな私が怖いのかとずいぶんと笑わせてくれるのですが、その一方ではとても悲しいです。アメリカの大統領たるものどのような質問にもしっかりと答えるべきです。もしそれができないというのであれば、何のために彼らは会見に来るのでしょうか?私がいつもたずねるのは"なぜ"ということ、"なぜそれをするのか""それはいったい何なのか"ということだけです。もし大統領の決定が人々の命を犠牲にするようなことがあるなら、彼はそれらの質問にしっかりと返答するべきなのです。【Adbusters】現時点においてアメリカの報道機関は権力の中心をモニタリングするのに十分な能力を備えていると思われますか?【Helen】いいえ。今の人たちは満足に仕事をこなせているとは思えません。しかし、少しずつ仕事に慣れてきています。竜巻とカール・ロブとその他いろいろなことがあって無意識的に自分たちが何をすべきかわかりつつあるようです。ですから彼らは本当の意味でのレポーターにこれから変わっていくと思います。私が思うに彼らは色々な機会を逃したきたことを理解しはじめているのだと思います。まあ、彼らの仕事ですし、自分に怒りを覚えて変わろうとチャレンジするのは良い事だと思います。レポーターは公の人間に対して質問できる最後のフロンティアなのです。私たちがやらなければ何も始まりません。【Adbusters】いままでの歴史の中で今よりもジャーナリズムがより英雄的であった頃はいつだったか思い出せますか?【Helen】今以外はいつもそうでした。それもすべては9/11の影響でしょう。皆が愛国主義になろうとしていて、また自分たちの報道が余計なパニックを起こすのではないかと恐れているようなのです。それからというものレポーター達は自分達のせいで派遣部隊を危うくしないかと心配で仕方のない戦争とずっと関わっているのです。そのせいで深刻な不透明感そこに生まれ、レポーターたちは状況がこれからどうなるかをしばらくの間ただ見ているだけになってしまいました。【Adbusters】ジャーナリズムが良くなるのを妨げている障害はいったいなんでしょうか? 【Helen】恐怖です。そして勇気が足りないことです。仕事を失いたくない。多分いくつかの企業のトップの人たちは仕事に執着しているみたいです。家族を養わなければいけないし子供を学校に通わせなければいけない。そこには金銭的な問題もありますし、様々な事情があると思います。そして何人かのレポーターは愛国心が必要となる今の状況では不快な質問をするべきではないと考えているようです。しかし、私たちの仕事は真実を見つけることです。それ以外の仕事は他に無いと言っても良いでしょう。【Adbusters】今の状況においてアメリカの外交政策に陰りが見えてきたと思いますが、これから一体どうなっていくと予想されますか?【Helen】そうですね。私が思うにまずイラクの部隊を撤退させるべきだと思います。人殺しを止めなければいけません。本当にあれは非常識。いや、もう非常識というかあれは悲劇です。人を殺して、殺して、また殺されたりして・・・それが一体何になるのでしょうか?ブッシュ政権は自分たちが勝てると信じてしばらく耐え忍ぶつもりだと思いますが、どちらかとえば勝てる見込みはあまりないと思います。そして何に対して勝つのでしょうか?神権政治に対してでしょうか?そんな事の為にアメリカ人兵士は死んでいったのでしょうか?それに加えて、テロリズムとは何か、そして何が原因となるのかを私たちは見つけ出さなければならないと思います。確かにビン・ラディンの後を追ってアフガニスタンに侵攻するのは間違いではないと思います。しかし全体のビジョンはどうなっているのでしょうか?これは宗教戦争なのでしょうか?そういう人たちを刺激するのがアメリカのポリシーなのでしょうか?一体何でしょうか?事をはっきりさせて、そして対応していかなければならないと思います。Adbusters #63 Media+cultureより
2010年06月18日
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オリバー・ストーン監督が謝罪 英紙への反ユダヤ発言で【ニューヨーク共同】映画「プラトーン」などで知られる米映画監督オリバー・ストーン氏(63)は27日、英紙に「ユダヤ人はメディアを支配している」などと発言したことについて「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)について間違った解釈をしていた。申し訳なく思う」と謝罪する声明を発表した。米メディアが伝えた。 ストーン氏は25日付の英紙サンデー・タイムズに「ホロコーストが注目されてきたのはユダヤのメディア支配の結果だ」「イスラエルは長年、米国の外交政策に悪影響を与えている」などと発言、米国のユダヤ系団体が「有害な紋切り型の発言だ」などと非難していた。 欧米では一般に有名人の反ユダヤ的な言動には厳しく、ホワイトハウス担当の名物記者だったヘレン・トーマスさんが「(イスラエルのユダヤ人は)パレスチナから出ていけ」と発言、6月に引退に追い込まれた。http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072801000197.html[シネマトゥデイ映画ニュース] オリヴァー・ストーン監督が、インタビュー中にアメリカのユダヤ人団体について語った言葉が「反ユダヤ発言」として非難をあび、謝罪する声明を発表した。 ストーン監督は、ベネズエラ大統領のウゴ・チャべスを取り上げたドキュメンタリー『サウス・オブ・ボーダー / SOUTH OF BORDER』(原題)についてサンデー・タイムズ紙のインタビューに答えた際、「アメリカのメディアはユダヤ教徒が支配している。最も顕著なのはワシントンの政治だ。イスラエルは長年、アメリカの外交をむちゃくちゃにしてきた」とコメント。さらに、ナチスドイツのヒトラーについて、「フランケンシュタインのような怪物だが、同時にものを生み出す実業家として、アメリカやイギリスの資本・産業主義に大きな功績があった。ユダヤ人よりもロシア人へのダメージの方が大きかった」などと語り、ユダヤ教団体などの反感を買ってしまった。また、イスラエルのザ・エルサレム・ポスト紙では、イスラエル側も「非常に不愉快」と不快感を示していると伝えている。 これを受け、ストーン監督はすぐに声明を発表。「歴史的見解を広げようとするなかで、ホロコーストについて誤った連想をさせるような発言をした。申し訳なく思い、後悔しています」と素直に謝罪。ハリウッドでは2006年にメル・ギブソンが飲酒運転で逮捕された際に反ユダヤ発言を発し、以後、メルと言えばこの話題が取り上げられているだけに、ストーン監督としては同じ運命をたどるのは避けたいようだ。[シネマトゥデイ映画ニュース] 元恋人オクサナ・グリゴリエヴァに対する暴力や暴言が伝えられているメル・ギブソン。映画業界では早くもメルのトラブルとはかかわりあいになりたくない、という雰囲気がただよっているが、そんななか、オリバー・ストーン監督はメルの将来について、ハリウッドで生き残っていけると考えているようだ。 新作映画『サウス・オブ・ザ・ボーダー』(原題)のロンドン・プレミアに出席したストーン監督は、テレグラフ紙のメルに関する質問に対し「彼については厳しい意見もあるだろうが、監督の多くはそんな風には考えない」とコメント。 数々の社会派作品を生み出し、華やかな業界のなか一匹狼的な存在感を放っているストーン監督は、メルに対する報道を冷静に分析し、メディアの報道は常に直接的すぎるがハリウッドでは物事はもっと大きなスケールで運ぶ、とコメント。「企画はゆっくり進むもので、数週間、数か月もすればさらに別の企画も出てくる。監督たちはメルに出演してほしいと思うだろうね」と今後もメルが映画俳優として主演をはっていく可能性は大いにあると語った。メルギブ、レオからも見捨てられる2010年8月1日 MovieWalkerレオナルド・ディカプリオが、長い間メル・ギブソンと共に温めていたバイキング映画の主演を断ることに決めた、とRadar Onlineが報じている。今年になって役者として完全復活すると宣言していたメルは、同時に、以前からレオと数回にわたって論議を交わしてきたバイキング映画のメガホンを取ることも明らかにしていた。しかし現在は、元恋人のオクサナ・グリゴリエバや娘に対する一連の暴言や暴力の容疑で裁判沙汰になっており、事態は泥沼化の様相を呈しているため、「レオは、もうメルと一緒に仕事をするつもりはありませんよ。彼にはたくさんの選択肢があるので、メルを選ぶ必要はないんです」と、関係者が語っている。確かにここ数年のレオは、スティーブン・スピルバーグ監督、リドリー・スコット監督、マーティン・スコセッシ監督、そして『インセプション』(公開中)のクリストファー・ノーラン監督に見初められただけでなく、クリント・イーストウッド監督、オリバー・ストーン監督作の主演も決まっており、巨匠たちからひっぱりだこ状態。ゴタゴタに関わらないのは賢明な選択だが、一方で頂点に上り詰めたレオと仕事をするチャンスを失ったメルの復活は、ますます遠い道のりになりそうだhttp://news.walkerplus.com/2010/0801/4/オリヴァー・ストーンについて腑に落ちない点がある。オリヴァー・ストーンの父はユダヤ系である。オリヴァー・ストーンの反ユダヤ姿勢はどこまで本気なのか?経歴ニューヨーク州ニューヨーク市出身。父はユダヤ系で、母はフランス系のカトリック教徒であった。折衷案として米国聖公会で育つ(しかし、のちに仏教徒となった)。イェール大学で1年間学ぶが、退学して南ベトナムに赴き英語を教えるなどして半年程過ごす。帰国後復学するが、再び辞めている。1967年から陸軍に従軍し、ベトナム戦争を経験。空挺部隊に所属し、LRRPと呼ばれる偵察隊に加わっていた。この任務は特殊部隊的な側面を持ち、死傷率がもっとも高かった部隊のひとつである。除隊後にニューヨーク大学でマーティン・スコセッシに師事し、映画制作を学んだ。
2010年06月18日
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ユダヤ教は悪魔教である。そのカルト教義の中核をなす教典は、タルムードである。 タルムードはおよそ宗教の教典として考えられる最悪の教典である。結果それを 実践するユダヤ教徒は最悪のカルト信者となる。聖書は、この様な悪魔的(偽)ユダヤ人の 出現を預言して以下の様に語る。 「黙示録3;9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たち。」 1.タルムードとは何か?ー>それは、ユダヤ人の言い伝え、伝承を記した書。また聖書に関する 解説書。 2. キリストはユダヤ人の言い伝え、タルムードを非難した。ー>以下の通りである。 マタイ15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。 2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」 3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。 4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。 5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、 6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。 7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。 8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」 3. タルムードは、聖書の教えをねじまげる;タルムードはいわば、へ理屈ラビ(ユダヤ教教師)の妄言集みたいなもの。 聖書のことばをねじ曲げ、人間的な教えに変え、 教師、ラビを「盲人を導く盲人」とし、信者を「自分に倍まさるゲエナの子」にするのに 用いられる。それは、聖書ではなく、聖書の忠実な注解書でもなく、逆に それは、人々が神のことばに難くせをつけ、へ理屈をいい、 ないがしろにするべく、冒涜の民とするのに用いられる。それは、端的にいえば、悪魔の書である。 以下のタルムードの記述を見よ。 ●レビ記十九章十一節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。こ の文句は、ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。 <モシェー・バル・マエモン> ●汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの 子等、異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン> 聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。 異邦人は、人でないので、いくら殺しても良いとのタルムードの教えは隣人パレスチナ人を虐殺する、彼らユダヤ人により実践されている。この様な異端教理に従うユダヤ人は、聖書の民と言うより、聖書を曲解する悪魔の民と呼ぶべきではないのか? 4. タルムードは聖書のことば、律法よりもラビ(教師)のことばの方が正しいとする驚くべき人間中心、傲慢の書である。 ラビ(法師)とタルムード ●吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるも のなり。(イスラエル文庫、一八六四年) ●律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要 である。 ●掟(律法)の言葉より法師の言葉を敬え。<アシ法師> ●汝知るべし、法師の言葉は預言者の言葉より美し、と。<アシ法師> ●教法師を畏るるは神を畏るるなり。<モシェー・バル・マエモン> ●教法師の言葉は、生ける神の言葉なり。<ベハイ法師> ●教法師の日常の言辞も、誡律同様に重んずべきなり。(ヴェネツィア版ミトラシュ、 一五一六年版) ●もし法師、汝の右の手を左の手と言ひ、左の手を右の手と言ふとも、彼の言葉に違 ふべからず。<アシ法師> ●タルムードの決定は、生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、 現世のラビに意見を聞き給う。(ラビ・メナヘン、第五書の注解) ●神は夜の間にタルムードを学び給う。<メナヘム・ベン・シラ法師> ●天上にも地上と同じき数の高等なる学園あり。神もそこにて熱心にタルムードの研 究に従事す。<ロイベン法師> ●天上に於て困難なる問題の生ずる時、主なる神この世の法師等にも諮問し給う。 <メナヘム・ベン・シラ法師> ●法師の言葉を嘲る者は、地獄の煮え立つ糞の中にて罰せらるべし。<アシェル法師> ●ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも、さらに悪い。(ミズナ、サン ヘドリン、十の三)。 ●ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである。(エルビン、二一のb) 5. 代々のカソリック法皇はタルムードをその冒涜のゆえに禁止し、またルターもその冒涜を非難している。 6. タルムードは卑俗、卑猥、低俗な道徳基準の書:論より証拠、以下のタルムードの記述を見よ。 ケトゥボット(離婚する妻に対する慰謝料) タルムード的性的おぞましさについて、2巻と728ページを費やしている (例;幼き少女は、成人男性のための汚れ亡き餌食である) ---------------- 次にユダヤ書から、公開されているタルムード的逸品をいくつか紹介しよう。 ABQDAH ZARAH;未成年の妻、非ユダヤ人の妻との不貞は許されるとしている。 145ページ 異邦人の女との不貞は認められる 146ページ 男の子供は自分の母とセックスしてもよい 147ページ 3歳の異邦人幼女とのセックスは認められる ------------------ a ニダー(生理中の女性) この宗教のセクションでは重要部門であり、509ページを、臭い、色、検査と、ラビが明白なる医 学的その他の目的なく月経に関し討論に専念するその姿は、まるで変質者そのものである。屋上から 排尿する描写からもわかるように、ゲマラの解説のついた清潔に関するセクションであるにもかかわ らず、この本の中でパリサイ人のみを、不潔で論争好きな"賢人"としている。その他11編は一巻 あたり589ページに成る。 ------------------------- 3. SEDER NA SHIM(女性)、 このセクションは、ラビ、JH.ヘルツによるソンシーノ版の紹介が13ページにわたり含まれてい る。これらの書物は、主に下水管の汚物のような汚さや淫猥さが特徴となる。 7. ユダヤ人は聖書を捨て去り、タルムードの民となった:ユダヤ人とは、「旧約聖書の民」ではなく、「タルムードの民」であり、聖書を捨て去り、 タルムードの教えを実践する民である。 彼らの教師達は、聖書の学びよりも、タルムードの教えを学ぶことに価値があると民に勧めている。 以下のタルムード自身の記述を見よ。 ●吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるも のなり。(イスラエル文庫、一八六四年) ●律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要 である。 彼らユダヤ人は聖書の教えも守らず、改ざんする、聖書のまっとうな光から見るなら、いわゆる異端の民である。 モルモン教、統一教会、ものみの塔は聖書の教えから逸脱したゆえに、「異端」といわれる。 その伝でいうなら、(旧約)聖書の教えから、とんでもなくかけ離れ、全く正反対のことがらを (クリスチャンの殺害、キリストへの呪い、姦淫の奨励)教えるユダヤタルムード教は、 モルモン、統一教会、ものみの塔の各種異端を凌駕する究極の異端教である。 この事実を隠したままで、クリスチャンにユダヤ教を良いものであるかの 様に伝えるのペンサコーラリバイバルのユダヤラビなどは全くの偽りものである。 また、この様な冒涜なタルムードの教えに対してクリスチャンに警告を与えることをしない、 それどころかむしろ、推薦するキリスト教雑誌、新聞、出版社、神学校、 和製シオニスト、教会などは、そろいもそろって全くの阿呆たれ、役立たずである!! 8. タルムードはキリストを冒涜し、クリスチャンの殺害を命ずる:タルムードはキリストを冒涜し、クリスチャンの殺害を命ずる悪魔的な書であり、 別のユダヤ人の書ゾハールは魔術、悪魔礼拝の書である。 聖書を捨て、これらの書を行うことによりユダヤ人は悪魔の民となってしまった。 以下はキリストを冒涜し、クリスチャン殺害を命じるタルムードの文章。 サンヒドリン106aイェスの母は売春婦だったという。〃彼女は大工と売春婦遊びをした総督の王女の 子である〃。 またシャパット104bの脚注#2には〃確認できない〃タルムードのテキストにはイエスの母マリ ヤは美容師で多くの男と交わったと書かれているとある。 サンヒドリン106にはイエスが若くして死んだことを満足げに書いている。 〃バラム(イエス)は何歳だったとお聞きか。彼は答えた、はっきりはいたしませぬが書き記された 所によれば、この血みどろの詐欺男は彼の従者たちの半分も生きなかった三三歳か三四歳だったそう じや。〃 サンヒドリン43aイエス(イエシュアまた脚注58にはナザレ人イエシュア)は魔術を行ったので 処刑されたと言われる。 ギソテン57aイェスは(脚注四)熱い大便の中でゆでられている。 サンヒドリン43aイェスは死刑を執行された。〃過ぎ越しの祭りの前夜、イェシュアは木に掛け られた。彼は自分を防衛することができたはずではないか。たぷらかす事が出 き来なかったのだろうか ロシュハシャナ17a タルムードを拒否するクリスチャンと他のものは地獄に行き、永劫に懲 らしめられる(ミニムについては脚注#11参照)。 サンヒドリン90a新約聖書を読むものは(脚注#九に正典ではない書物とある) 来るべき世において立場はない。 シャバット116a ユダヤ人はクリスチャンの本(新約聖書、脚注#6)を撲滅しなければならない。 (イスラェル・シャハクによれば一九八○年三月二三日パレスチナでシオニストたちが何百冊という 新約聖書を焼いた。「ユダヤの歴史と宗教」P21)。 ギッテン69a 肉体をいやすためにユダヤ人は家の外の便所の陰のごみを取り、蜂蜜に混ぜあわせて 食べなければならない(訳注*これは具邦人に対してではないかと思われるが、要するに自虐的 になっていると言う事なのかもしれない) 9. ユダヤ人の悪の根源、理論の根拠はタルムードにある:現在のユダヤ人は、世界中のあらゆる悪、災いの原因となっている。 彼らがこの様に悪を行う、その理由は、「悪を善」と言い換える、悪魔の書、 タルムードを彼らが実践しているからである。 原爆の発明、製造、投下は皆この民によるものであり、世界の死の商人、すなわち、 軍事産業は皆、ユダヤ系である。世界で一億人以上の人を殺した悪魔の教え、共産主義も ユダヤ人、マルクスの発明である。彼らは何故好んでこれらの悪を大いに実行しているのか? その理由は彼等が聖書ではなく、反聖書的な教典、タルムードを実践しているからである。
2010年06月18日
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律法と秘密 ●ゴイにわれらの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれら の教説を知ったならば、かれらは公然とわれらを殺すだろう。(リブル・デヴィッド の書、三七) ●律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯 罪である。(ジャクトゥ・ハダズ、一七一の二) ●ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら、ただただ嘘の説明 をするべきであり、ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはなら ない。この律法を破る者は生かしておいてはならない。(リブル・デイヴィド、三七) ●ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いた ら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてな いと言わなければならない。(ザーロット・ウザボット、ジュル・ダの書、一七) ●タルムードを学ぶゴイ、それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはなら ない。(サンヘドリン、五九、ア・アボダ・ゾラ、八の六。ザギガ、一三) 復讐と呪詛 ●神よ、あなたを信ずることなく、その御名を称えざる民どもの上に、あなたの怒り を注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ、あなたの怒 りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし、粉々に打ち砕き 給え。おお神よ、かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するもの すべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶、四散、殱滅し給え。 誅殺し給え! 今ただちに誅殺し給え!(プラナイティス、クリスマス・イン・タル ムード・ジュデオラム、『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁、『ミンハギン』二三 頁、『クラチ・シャイム』四八〇頁。過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの) ●(新年二日以前のもの)彼等非ユダヤ人の評議を狂氣をもって悩まし、その思想を 乱し給え。彼等の君侯を狂氣ならしめ、彼等が吾々になしし如く彼等になし給え。 (「ユダヤ祈祷集」より) ●イスラエル人を呪いたる者は、三十九の殴打刑に処せらるべし。教法師を罵りたる 者は、追放の罰を受くべし。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯) ●何者かが三度ユダヤ人を裏切るか、もしくは[ユダヤ人の]金をゴイどもに渡した ことが疑いない場合は、賢人会議はその男を放逐しなければならない。 ●裏切り者を放逐せんがために、何人も共同体に寄付をしなければならない。(前掲 書) ●教法師にして公然と侮辱を受けたる者は、恥辱に甘んずることなく、侮辱に対して 復讐をなさざるべからず。侮辱したる者が赦しを乞いまた彼にして赦さんと思うに至 る時までは、蛇の如くに怨恨を心の中に懐き居るべし。(シュルハン・アルフ、第二 巻智慧の教) ●涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり。<シメオ ン・ハダルサン法師> ●自由思想家及びトーラと預言者を否む者を殺すは掟なり。公然と刀剣を以て為し得 る時は然かなすべし。もし然か為し得ずば、策計をめぐらして死に至らしむべし。 (シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯) ●トーラーを持たざる者と予言する者とを、すべて殺さなければならない。かれらを 殺す力ある者は、剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ。 (シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、四二五の五〇)。 ●キリスト教徒の中最も善き者を絞殺すべし。<アシ法師> その他 ●神にかけし誓い、人にかけし誓い、物にかけし誓い、和解のその日よりかけし誓い のくさぐさを、われら果たすつもりでおりましたが、もはやその時は尽きたので、こ こにお願い申し上げます。くさぐさの誓いをいっさい取り消し、取るに足らざるもの となし給わんことを。われらの誓約はいっさい誓約に非ず、われらの宣誓はいっさい 宣誓に非らざらんことを。(シュルハン・アルーフ、編一の一三六)
2010年06月17日
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ゴイム・異邦人・偶像崇拝者●アクムと奴婢の死はこれを悼むことなかれ。彼等の葬式の列に加わる事なかれ。 (シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●無事平穏のためならば、非ユダヤ人死者を葬い、その遺族を慰問するも差支えなし。 非ユダヤ人の墓所は祭司を汚れしむる事なし。然れども彼処に赴かざる方更によし。 (シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●レビ記十九章十三節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。こ の文句はゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。 <モシェー・バル・マエモン> ●非ユダヤ人の証人たることろの証書はすべて無効なり。(シュルハン・アルフ、第 三巻正義の楯) ●成人せる非ユダヤ人奴隷は、牧者なき家畜の如し。(シュルハン・アルフ、第三巻 正義の楯) ●總べてゴイは月經時の子にして、根絶さるべきものなり。<ベハイ法師> ●キリスト教徒は異教徒なり。<アバルバネル法師> ●改宗してユダヤ人となれる者は、同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と 婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見做され得る故なり。(シュル ハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項、その地所を非ユダ ヤ人に売りたる者、第九項、非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人) に対し不当なる証言を為せる者、等。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変 節者(背教者)、キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪し ければ、同じく証言を為すを得ず。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯) ●他の宗教に改宗したる者は、盗賊になりたると等し。(シュルハン・アルフ、第三 巻正義の楯) ●神を拜せざる者の齒は三度毀たるべし。すなわち、一度はこの世において、次はメ シア來る時において、然して最後には來世において。然もイスラエル民族を喰う者の 歯は、二十二エレの長さに伸ぶべし。<アキバ法師> ●汝知るべし、イエスの教に從がいて迷えるキリスト教諸國民は、その信仰には種々 あれども、ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼等は偶像礼拝者相応に扱わるべし。こ れタルムードの説くところなり。<モシェー・バル・マエモン> ●汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの 子等、異教徒はイスラエル人に非ず。<モシェー・バル・マエモン> ●ゴイ、計算をなして過つ時は、イスラエル人は、我知らず、と言え。しかれどゴイ をして過ちをなさしめんとするはよからず。ゴイ、イスラエル人を試みんとて故意に 過ちをなすことあればなり。<モシェー・バル・マエモン> ●第五十の誡は、偶像礼拝者を憫む事を堅く禁ず。<モシェー・バル・マエモン> ●惡しき者(非ユダヤ人)を憫むことは、正しき者(ユダヤ人)に相應はしからぬ事 なり。<ゲルソン法師> ●決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼等を憫むべからず。その故は、申 命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか、 あるいは河に溺るるを見るとも、これを救助することは許されず。<モシェー・バル・ マエモン> ●神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず。<ベハイ法師> ●偽善はこの世においては許さる。すなわち、背神者に対し慇懃になし、彼等を敬い、 彼等に向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐 怖に驅られたる場合は然り。<ベハイ法師> ●聖書に「隣人」と記されたる個処はいずれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュ ルハン・アルフ」の註釋書より) ●總べてこれ等の條項(三十箇條のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故 にかかる者を憎むは吾等の義務にして、彼を賎しみ、出來得べくんばその亡ぼしまた 根絶するは當然の事なり。<アバルバネル法師> ●キリスト教徒は異教徒なり。彼等、神は血と肉なりと信ずる故なり。<アバルバネ ル法師> ●キリスト教徒は偶像禮拜者なり。彼等十字架の前に跪く故なり。<キムヒ法師> ●カトリック教司祭が手に持つ銀の十字架及び香を焚く香爐は偶像礼拝に属するもの なり。<アシェル法師> ●他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども、真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。 彼等は、ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く、劣等なる種類の人間なり。こ れに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間 にして、この故にまた単に人間とも呼ばるるなり。<シメオン・ハダルサン法師> ●平穩無事を希う為に涜神者を慇懃に遇する者も、彼に関し善き事を語るなかれ。ま た鄭重なる態度を示す際にも、注意して涜神者を真に尊敬するものなりと人々の信ず る事なきよう心せよ。一般に慇懃を示す際には、その者の真の功績の故にあらず、彼 の富すなわち彼の幸運の故にかく為すというが如くせよ。然しいずれにせよかかる事 は罪にして、涜神者に慇懃になす事は、涜神者勢力を得て我々を害しあるいは我々に 損害を与うる恐れある場合のみに許さるるなり。ただし人間(ユダヤ人)の問題にて 涜神者を襃め、彼に関し善き事を言うべからず。(フランクフルト・アム・マイン發 行文書、一八六七年) ●偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得 るに過ぎず。<ロイベン法師> ●イスラエル人は人間と呼ばる。然れども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれ ば、豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師> ●割礼を受けずまた安息日を守らざる者は人間に非ず。<ロイベン法師> ●偽善はこの世に於ては許さる。即ち、背神者に対し慇懃に為し、彼等を敬い、彼等 に向ひて「我汝を愛す」と言うもよし。すなわち、必要上止むを得ざる場合、恐怖に 駆られたる場合は然り。<ゲルソン法師> 財産と所有権 ●非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず。(シュルハン・アルフ、 第三巻正義の楯) ●ゴイの財産は主なき物品のごとし。(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパ ット、一一六の五)。 ●ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する。(ババ・バト ラ、一四のb)。 ●ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは 金を持つべきではなく、持てば神の名において不名誉となるだろう。(シュルハン・ アルーフ、コーゼン・ハミズパット、三四八) ●ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが、イスラエル人がゴ イに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあ るが、ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない。(ミズナ、サンヘドリン、五七)。 ●ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが、[ユダヤ人が]ゴイ に返すことは禁じられている。(シュルハン・アルーフ、コーゼン・ハミズパット、 二六六の一)。 ●ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。 而してかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば、かく為しても、罪 を犯したるには非ずして、戒律もまた遵守されたるなり。(シュルハン・アルフ、第 二巻智慧の教) ●タルムードの誡において神は命じて曰く、ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべ し、と。これ、彼等が借りたる金により利する事なからんため、かつまた、我等が金 錢にて彼等に助力を與うることなく、むしろ損害を與えんがためなり。<モシェー・ バル・マエモン> ●拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。コイの紛失せる物は、これを己が所有と なすも差支えなし。「汝の兄弟の物は総べてこれを返却せよ」とタルムードに記され たる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すな り。<モシェー・バル・マエモン> ●葡萄園にて草食う牛を発見せし人は、それを所有主に牽き行くべし。但しその葡萄 園が非ユダヤ人の所有なる時は、かく為すに及ばず。(シュルハン・アルフ、第三巻 正義の楯) ●非ユダヤ人が平常居住徘徊する場所において遺失物を発見せし時は、これを返却す るに及ばず。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯) ●非ユダヤ人の失いたる物は、拾得者これを己が許に留め置くべきのみならず、返却 することを禁ぜらる。その理由は、申命記の二十二章一節には「汝の兄弟の失いし物 は返却すべし」とあればなり。但ししばしば非ユダヤ人の物を返却し、あるいは盗難 より免れしむるを要する場合あるも、そは無事平穏を期する時のみなり。(シュルハ ン・アルフ、第三巻正義の楯) ●拾得物をゴイに返却せんと思うは罪なり。ゴイの紛失せる物は、これを己が所有と なすも差支えなし。『汝の兄弟の物は總べてこれを返却せよ』とタルムードに記され たる故なり。然るにゴイは兄弟に非ざる故に、拾得物を彼に返却する者は罪を犯すな り。かくなすによりこの世の神を拜せざる者の勢を再び増すが故なり。<モシェー・ バル・マエモン> ●拾得物を紛失者に返却すべしとの誡は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにし て、ゴイに対しては然らず。<ベハイ法師> ●獣は非ユダヤ人の所有にして、積荷はイスラエル人の所有なる時は、手を貸すべか らず。然れども、若し牛がイスラエル人の所有にして、積荷が非ユダヤ人の物なる時 は、これを助くべきなり。(シュルハン・アルフ、第三巻正義の楯) ●アクムに負債あるイスラエル人は、そのアクム死し、その事に就きて知れるアクム 無き時は、その嗣子に支払をなす義務なし。イスラエル人が非ユダヤ人に改宗せる時 も、彼はその親戚の相続者たり得べし。イスラエル人はまた背教者なる親戚の相続を もなし得。また夫は背教者なるその妻に代りて相続をなし得べし。(シュルハン・ア ルフ、第三巻正義の楯) ●非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし。(シュルハン・ア ルフ、第四巻救いの岩) ●アクムに対しては詐欺は成立せず。レビ記十九章の十一節に「己が兄弟(ユダヤ人) を欺くべからず)とあればなり。然れどもアクムにしてユダヤ人を欺ける時は、詐取 せる所のものを我等(ユダヤ人)の法律に従って返さざるべからず。アクムにしてユ ダヤ人よりまされる扱いを受くる本なからん為なり。(シュルハン・アルフ、第三巻 正義の楯) ●ユダヤ人にしてアクムより盗みをなしたる時、もし誓うことを強制さるるならば、 彼はその心の中にて、その誓の無効なることを宣言すべし。そは強いられたる誓なれ ばなり。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●ゴイに向って誓いを立てた者は、盗賊であれ税吏であれ、責任を取らなくてよい。 (トセフタ・スゼブノット、一一) ●結婚、誓約、約束を取り消すには、ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが、ラビ が不在の場合は、他のユダヤ人を三人呼び集め、かれらに残念ながら取り消すと言え ばよい。そうすると三人は なんじは許された と言う。(シュルハン・アルーフ、 二、一の二四七)
2010年06月17日
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ゴイム・ゴイ・アクムはいずれも非ユダヤ人のこと 神の選民 ●世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、 他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼等はことごとく空皮 に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師> ●神言い給う、我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあ らず。人間なるイスラエル人の爲に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート) ●人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ ゼバ法師> ●もしイスラエル人無かりせば、この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八 に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば、天の諸星も昇らざるべし。これエ レミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申 命記二八の一二に記されたる如し。<シメオン・ハダルサン法師> ●選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく、他の国人はロバに等し。<ア バルバネル法師> ●「汝は主なる汝の神が汝に与え給いしすべての民を喰い尽くさん」との文句(申命 記七ノ十六)は、今は亡き吾等の教法師達により次の如く解せられたり。すなわち、 すべての民を喰い尽くし、すべての民より掠奪することは、彼等すべてが吾等の權力 下に置かれる時に始まるべし、と。<ベハイ法師> ●神はユダヤ人にすべての方法を用い、詐欺、強力、高利貸、窃盗によってキリスト 教徒の財産を奪取することを命ずる。(オルディン一、トラクト一、ディスト四) ●メシヤ來る時代において各ユダヤ人は、エジプトより出で行きたるイスラエル人の 数に等しき数の子孫を持つべし。エジプトより出で行きし者六十万人なれは、各ユダ ヤ人はメシヤの時代の間に六十人の子を持つべし。<エリエゼル法師> ●レヴィ法師教えて曰く、神が世界の諸々の民を裁き給うは、彼等が罪の中に眠れる 夜の間においてなり。しかもイスラエルを裁くには、彼等が掟を学ぶ昼においてこれ をなし給う。(ヴェネツィア版ミトラシュ、一五一六年版) ラビ(法師)とタルムード ●吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるも のなり。(イスラエル文庫、一八六四年) ●律法(聖書)は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要 である。 ●掟の言葉より法師の言葉を敬え。<アシ法師> ●汝知るべし、法師の言葉は予言者の言葉より美し、と。<アシ法師> ●教法師を畏るるは神を畏るるなり。<モシェー・バル・マエモン> ●教法師の言葉は、生ける神の言葉なり。<ベハイ法師> ●教法師の日常の言辞も、誡律同様に重んずべきなり。(ヴェネツィア版ミトラシュ、 一五一六年版) ●もし法師、汝の右の手を左の手と言ひ、左の手を右の手と言ふとも、彼の言葉に違 ふべからず。<アシ法師> ●タルムードの決定は、生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、 現世のラビに意見を聞き給う。(ラビ・メナヘン、第五書の注解) ●神は夜の間にタルムードを学び給う。<メナヘム・ベン・シラ法師> ●天上にも地上と同じき数の高等なる学園あり。神もそこにて熱心にタルムードの研 究に従事す。<ロイベン法師> ●天上に於て困難なる問題の生ずる時、主なる神この世の法師等にも諮問し給う。 <メナヘム・ベン・シラ法師> ●法師の言葉を嘲る者は、地獄の煮え立つ糞の中にて罰せらるべし。<アシェル法師> ●ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも、さらに悪い。(ミズナ、サン ヘドリン、十の三)。 ●ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである。(エルビン、二一のb) ●トーラを学ぶゴイは死罪に当る者なり。<モシェー・バル・マエモン> ●神はユダヤ人の魂六十万を創り給えり。聖書の各節は六十万の解釈を有し、各々の 解釈は一の魂と関係あればなり。<アシェル法師> ゴイム・異邦人・偶像崇拝者 ●なんじらは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。(ババ・ メチア、一四六の六)。 ●汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出 でたればなり。<メナヘム・ベン・シラ法師> ●イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものな れば、豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師> ●イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるるこ となし。<アブラハム・ゼバ法師> ●悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり。<ナフタリ法師> ●犬は異邦人より勝れたるものなり。<アシ法師> ●聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュ ルハン・アルフ」の注釈書より) ●神を畏るる者は悪しき人(非ユダヤ人)を憎まざるべからず。<ゲルソン法師> ●レビ記十九章十一節には、汝は汝の隣人に不法を為すべからず、と記されたり。こ の文句は、ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。 <モシェー・バル・マエモン> ●ゴイが住んでいる家を見て、人はこう言った。神は傲慢の家を亡ぼすだろう。 そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。復讐の神が顕現されたのだ(バビ ロニアン・タルムード、ベラチョット、五八の六)。 ●汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ、ノアの 子等、異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン> ●神はイスラエル人を審くには立ちてなし、尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族 を審く時は坐して、嚴格に長々と取調べをなす。<ラバ・バル・ナハマニ法師> ●「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど、 人々はこれをなほよく熟考しまた味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時、 イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが、他の民は掟を受 入れざりしによりこれ等の美点を全く有せざるなり。<アブラハム・ゼバ法師> ●イスラエル人は、他のすべての民に対し優越する者なり、他の諸族の中には賢く利 き者唯一人も居らざるに、イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり。 <アブラハム・ゼバ法師> ●一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く、また神 によって悦ばるるところのものなり。<シェフテル・ホルヴィッツ法師> ●ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人が ゴイを殺すも責めは負わず。(前掲書、八の五) ●悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは、正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬな り。<ゲルソン法師> ●ユダヤ人も非ユダヤ人の判断に信を置く事を、非ユダヤ人をして知らしむべからず。 (シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。<モシェー・バル・マエモン> ●拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は、ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにし て、ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち、 「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして、ゴイの失える物 は然らず。その理由は、ゴイは神に属する者に非ずして、地の邪神に属する者なる故 なり。故にゴイの失える総べての物は、此の世にては再び見付けらるる事なき遺失物 にして、その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく、他の 民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが 如し」と。<ゲルソン法師> ●ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である。(トセフタ・ミ クワト、vの一) ●九歳と一日以上のゴイの少年と、三歳と一日以上の少女は、不潔とみなされる。 (パーフォコヴィッツ、タルムード、t・v、一一頁) ●他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの 遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。(シュルハンアルクのシ ョッツェン・ハミッバッド三百四十八) ●ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には、その責任を負うべきであるが、ユダ ヤ人がゴイを殺した場合には責任を負うべきものでない。(トセフタ、アブダ・ザラ 八の五) ●盗賊 という言葉の解釈。ゴイは、ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと、 盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だが彼(ユダヤ人)はゴイに禁じ られているこれらのすべてのことを為しても禁じられない。(トセフタ、アボダ・ザ ラ、八の五)。 ●安息日には非ユダヤ人の焼きたるパンを食すべからず。非ユダヤ人に公衆浴場を貸 すべからず。(シュルハン・アルフ、第一巻生存の道) ●すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を 屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教) ●ユダヤ女を求め得る場合には、異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳 は心眼を閉ざし、悪しき性格を形成するが故なり。(シュルハン・アルフ、第二巻智 慧の教) ●偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど 彼等が危険に面しまた死に瀕せりとて彼等を救うことは許されず。例えば彼等の一人 水に落ちたる時、報酬ある場合と雖も彼を救い上ぐべからず。また彼等を瀕死の病よ りも癒すべからず・・報酬ある場合と雖も。しかれども吾等と彼等の間に敵意の生ず るを防止する為ならば、報酬無き場合にも彼等を救出しまた癒すことを許さる。しか れども偶像を拝む者、罪を犯す者、掟と預言者を否む者は、これを殺すべし。而して 公然と殺すを得ば、その如くなせ。しかするを得ざる場合には、彼等の死を促進せよ。 例えば彼等の一人井戸に落ちたる時、その井戸に梯子あらば、これを取去り、直ちに 再び持来るべしとの遁辞を用い、かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道 を奪うべし。(シュルハン・アルフ、第二巻智慧の教)
2010年06月17日
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