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伝わるのは、言葉ではなく その言葉になる前の 感情・気持ちのようだ。 言葉を聞いても、伝わらないのは、思いがこもっていないからかも知れない。 もちろん 想い=言葉 であればいいけれども 言葉で想いをすべて 表すことはできない。 想いは わきあがる感情 例えば 恋をしているときの なんとなく 毎日が楽しい感覚 夢中になって 絵画を見ていたり、何かに没頭しているとき もしかしたら あえて 言葉にしないほうが 良いのかもしれない。 よくいう 成功哲学で、言葉を唱えるということがあるが 言葉ではなく、言葉の前の感情が大切だろう。 世界は 意識の鏡だとして 言葉は 見えず 写らないのだ。 もちろん 感情だって写らないが その波動というか 悲しい人や 苦しそうな人のそばにいると その感情は移る。 世界が想いの表象だとすれば いまの 気持ちを なんともいない 楽しさに 溢れさせることができたら、その反映が写りだすはずだ。 なんとなく 楽しい。 こういうことが 楽に生きられる ポイントのように ふと 思った。 スキップをする 子供のイメージ。 大人になるにつれ 忘れてきたもの、捨ててきたもの 誰もが持っていた いつでも どこでも できる スキップ。
2010.01.28
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津留さんのCDで、火事になった友人にどんな言葉をかけたらいいか という 質問があった。 一体 どんな 言葉をかけたらいいんだろうって 思いませんか? 僕など 真っ白になってしまいますが、 津留さんは、考えないでくださいという。 だいたい 好きな女の子とデートするとき 事前に何を話そうか考えてみても 実際は、そういうことは あったらわすれているわけで 嫌いなお客さんに行くときも、何をいおうか考えても ただ 嫌な思いだけで、こういってみようと思う言葉は、たいてい使うことは無い。 考える必要は無い、考えることが 悩みとなってしまう。 「今日、ここに来るとき こういう質問をしようと考えましたか」 いいえ 「いま 手を上げて、この内容を言おうと思っていましたか」 いいえ 「そうじゃないでしょう」 はい 「いまだって、はい といおうと思って はいと いっているわけではない のでしょう」 はい (笑い) 「言葉なんて 自然にでるんですよ、その場に行けば、いま 何を言おうか考えているのは、自我なんです」 あ~ まあ、こんな感じなんですが、まあ 津留さんはたいしたものですね。 結局、問題は問いにあることが多い。 問題を解決しようとするから、苦しい。 問題が 問題。 考えるのは 自我だから、問題を 作るのも 解決しようとするのも自我。 そして、考えるということは、いまここにはいないわけで、 まさに 自我の領分でもある。 多分 伝わるのは、言葉だけではなく、その後ろにある 想いであり 感情なんだ。 だから、彼女はその晩友人宅にいって、一緒に号泣したんだろうと 想像する。 それを こういって元気つけようなんて 言葉を考えていっても、伝わることは少ないのだろう。 それよりも、 いま 相談者が何を話そうかと、悩んでいることが、問題だ。 いま この 瞬間に、自分で悩みを創りだしていることに気がついていない。 そして、解決できない問題を ああでもない こうでもない、かわいそうだなあ、でも それも選択なんやろうけど、とてもそんなこといえないとか 云々いつまでも、彼女は悩んでいたことだろう。 我々が、彼女の相談から学べるのは いろいろある。 問題を解決しようとしない。 考えるのは 自我である。 悩みを作っているのは 自分自身であり、 その 悩みに意識を向けないとき 悩みはない。 問題は 問題にある。 もっと 捜せばいろいろありますね。 大切なのは、いま 何に意識を向けているか。 問題ですか、悩みですか、 それとも、 何に意識を向けているかを 意識しませんか?
2010.01.27
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問題は、どこかへ行こうとする試みは、結局の処、あなたはまだそこに到達していないと 示唆しているということです。 実際、どこかへ到達するためにあなたgするどんな行為も、 常にそこに完全に実現しているものをあなたが もっとも深いところで意識するのを邪魔しているのです。 いまこの瞬間 努力しなくても そこにあるものの存在に気づいてごらんなさい。 これは、もっともシンプルで そしてもっとも自明の真理です。 私は私の師に出会うまでに、 「どうしたら それが手に入るのか?どうしたらそれを 持ち続けられるのか?その方法を見つけなくては」と思っていました。 ババジに出会ったとき 彼は私にやめるようにいったのです。 私は、ババジが私にくれた招待状を、そのままあなたに送ります。 いま この瞬間 その場で止まって御覧なさい。 あなたが 充足を与えてくれると思うもの、真実を与えてくれると思うもの、 それらが なんであれ それを手に入れようとする努力をすべてやめてごらんなさい。 ほとんどの人は それをすることができません。 以上引用 僕たちは、中学生のころ、高校生になるために準備をし 高校生になったら大学生になる準備をし 大学にはいれば いい会社に 入れれば 幸せになれると思い、 結婚すれば いい家庭が持て、幸せになれると思い 子供ができれば 幸せになれると思い、 出世できれば 幸せになれると 思う。 幸せを いつも 先送りしている。 いまを 犠牲にして 頑張り努力すれば 報われると思う。 だけど、努力するというのは まいにち しなければならないことをすることの 繰り返しだったり したくないことを 我慢して 歯を食いしばることだったりする。 いま 幸せであること、いま すでに 満たされていることに 気づこうとしない。 引用の 文脈でいえば 止まりたくない。 自我は、過去と未来ですから(時間) いま にいられない。 いまにいると 時間はなくなる。 夢中なとき 時間を感じないでしょう、それは ないからなんですよ。 自我が考えないとき、それ は 誰にでもすでに ある。 だけど、ほとんどの人が それをすることができません。
2010.01.23
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ミニスカートの秘書って良いですね、 さっき、テレビをつけたら サラリーマン金太郎をやっていた。 「君の、その 生きる目的って いったいなんだね」と社長 「ないっすね、考えたこともない」 いや~、すばらしい。 これですよ、これ、みたいな。 目的のために いま を犠牲にしない。 大家が 昼寝をしている住人に語る 「もうちょっと、働いたらどうなんだね」 「働いたら、どうなんの」 「店の一つも もてるようになるかもしれない」 「店をもったら どうなんの」 「昼寝を できるくらい贅沢になれるよ」 「いま それを しているところ」 という話は、結構 おくが深い。 例えば お金持ちでも 大社長でも、そうなって、どうしたいですかということです。 家をいくつも もって、どうしたい? 例えば、心の平安であれば、いま ここで 持つこと=昼寝 ができる。 それを いま してしまえばいい。 それが 金太郎の言葉に 表れている。 「生きがいっすか、考えたこともないっす」 いまに いきるのに 目的はいらない。 目的を ちょっと 肩から おろしてみよう。 すると ちょっと 楽になる。 釣りばか日誌も、映画が終わりだそうですが、漫画の作者も 浜ちゃんみたいな性格らしい。 いま 浜ちゃん的いき方が、あこがれなんでしょうね。 好きなことを して生きられること、 好きなことをするのに ためらわない。 どんどん それを 自分に 許す(愛す) もっと われがままに (吾がままに) うんこ したいときに、トイレに行くように したいことを ため ないで する。 ~のため ということなしに する。 理由も無くしたいことを する。
2010.01.23
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将来、仕事が無くなったら どうしよう いまの彼と 将来結婚できるだろうか お金がなくなったら どうしよう。 意識が、将来にいくと 不安になります。 そして、意識しているものが、現実となるのですから、 つまり いま すでに 未来の恐れの状況を 味わっているのです。 (願望実現のテクニックの 上級偏) 未来の不安を いま 恐れている。 そして、いまの感情が いまの世界に反映されている。 未来ではなく いま 恐れが 現実として、創造してしまうわけです。 スキーをしていて 木を見ていると そちらに引き寄せられたり 隣に走ってくる ダンプに意識を向けると ぶつかりそうになり 前から 歩いている人を 見つめて避けようとしても、 ぶつかりそうになったり 意識を向けるものに 引き寄せられてしまう。 世界が 意識の鏡 という前提のもと、 いま 意識を恐れに向ける必要は無い。 恐れから避けるために と 恐れを見つめるのも同じ。 意識を恐れに向けるのではなく、 いま ある 世界に向け、 いま を 味わう。 いまに 恐れは ない。 意識を 未来や過去に向けるときに 恐れは生じる。
2010.01.17
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こういう言葉を 聞いたことがあるのではないでしょうか 「一生懸命汗水たらして 働かないと、お前は何者にもなれないよ。 一生懸命、人を競争していかないと 幸せにはなれないよ。 人より余計働かないと、幸せになれないよ、 苦痛なしでは 何も得られないよ」 こういう言葉が あなた方のなかに叩き込まれています。 生まれたときから、こういう言葉を聞いて育ってきました そして このような考え方を当然実生活のなか 実現してしまいます。 あなたがたは 夢を見ながら歩いているだけなのです 以上引用 想いが 現実であるから 想いどおりの いま を生きている。 しかし、こういう現実を望んでいないと思ったら、 努力して現実を変えるのではなく、 想いを 見つめなおすことも 可能です。 どうして 幸せじゃないんだろう どうして お金持ちじゃないんだろう どうして 私は ダメなのだろう と、思っているあなたがいるから、 その現実が生まれていることに 気づいてみる。 ??? 幸せは あなたの心が決めているでしょ 他の誰も あなたの幸せを決めることはできない。 じゃあ 幸せと決めてしまえばいい。 でも そう思えない あれも ないし これも ない みんなと比較しても 不幸せだ ないものを捜してみても ないわけで 人より劣るものを 捜せば 劣ること がでてくるだけ でしょ。 ぎゃくに あるものに 気づく。 これで OK これも ある これも ある ある ある 探検隊。 僕は、気づきとは あるものに 気づくことだと思っている。 目の前に ある 幸せに気づく。 それは 努力して得られるもんではない。 いま 現実に あるもの に感謝でき 幸せと思えるかどうか。 あなたの 幸せは いまの現実に対する あなたの 心が 決めている。
2010.01.15
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時間と空間において、どこに行くにもまず、すでにそこに到着していると知ることからはじめなさい~かもめのジョナサン イエスはこうさとしました 「あなたの 祈りに対する結果を見る前から、その答に感謝しなさい」 外界は原因ではなく結果です。」外界の状況というのは、私のなかで起こっていることのバロメーターなのです。 結果は嘘をつきません。具現化したものは、たまたまそうなったものではありません。 あるものや状況があなたの 視界 にあるならば、それはあなたが自分でひきつけたのです。 イエスは農夫に語りました 「お前たちは、収穫できるようになるまで まだ4ヶ月あるというが、私は 見よ、畑はいま実りで真っ白になっているという」 自らの祈りが、すでに叶えられたかのように思考し、行動し、生きるとき、あなたは自分にとってよいものを引き寄せる生きた磁石になるのです。 問題よりも 答のほうがより現実的であるようにしなさい 願う力で人生は変えられる~アランコーエン著より だいたい、空間的な鏡としての世界は ご理解いただけたと思っている。 マイミクの皆様の 本日 の日記を読ませていただくと いまは 好きなことしかしていない とか 本当に 運がいい とか 嫌いな人がかってに変わってくれた とか 書いてあって、本当に すばらしいと思います。 これは、いま瞬間の想いであって、いわば空間的な現象。 ところが 世界は面白く この いまの気持ちが 過去にも 未来にも 写る 時の鏡の性格をも持つ。 つまり、 好きなことをしている人は これからもそういう現象が生じ 運がいいと思う人は 本当に運がいい状況が生じ 嫌いなおばさんが変わってくれたと思う人は、 どんどん 嫌いな人がいなくなる。 鏡だから、しょうがない、写ってしまう。 鏡とは、空間的な鏡だけでなく、時間的にも鏡。 だから、先に感謝してしまえば、未来においても 感謝している自分がいる。 その 感謝の 主語になる部分が、なにかわからないけど やってくるというか、引き寄せるというか いずれにせよ、未来において 感謝する出来事が生じることになる。 いまの 笑顔は、いまの空間に 反映されるとともに 時間的にも その原因を起こす 結果となっている。 だから 笑う門に 福がきて、人をのろえば 穴二つ。 いま を 楽しむ、 いまを 豊かに 過ごす。 現実=想い 想いを映している鏡が 現実ですから、現実を変えようとするなら、心の持ち方を変えること。 それを、今ある現実でないものに 意識を向けるから、いまを 否定してしまうわけで、 いまある 現実を 変えるためには、その 現実に 心を合わせる。 これが、何も否定しない。~あるがまま。 100万円と何回も唱えても、100万円はやってこないでしょ、救急車がやってくるかもしれない。(無意識にすでにあると思って唱えれば効果はあると思うが) 欲しいお金を 今ある状態にもってくることで、何も否定することがない。 ないものを望むのではなく、あるものに感謝するといえば かっこのいい話と聴こえるかもしれないけれど 望んでいれば、その反映として未来においてもやっぱり望む現実を映し、感謝ができれば、鏡として その 感謝の反映が未来に投影されるわけです。 (
2010.01.13
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誰でも経験があると思うのですが、 夜眠れない、眠らないと明日の仕事に差し支える。 眠ろうとして いるが ・・・・ ずっと、眠れない。 そして、どうしても眠れないので、朝まで起きていても良いやと 眠ろうとしなくなる とき 眠っている。 幸せになろうなろう としているとき なれず お金持ちになろうなろうとして なれず 健康になりたいと 思っても、なれず このままでいいや、 どっちでもいい と それ に対する想いを手放すとき すでに、その状態になっている。 想いが現実、世界は鏡、あなたは私、私は世界、 言葉を覚える前、あなたは世界と一つだった。 逆に言えば、世界を認識できていない状態。 言葉を覚え、自我が成長し(記憶できるようになる)、 世界を文節するように、りんご という言葉を覚えることで、 りんご と 他のものを区別するようになる。 同様に、いいこと を最初に教わり、いいこと と 悪いことにわけで物事を判断するようになった。 二つに分けても、比較しないで どちらでもいいと思えれば 一つであるのと同じようなものですが、 二つに分けて 大きいほうを選ぶように、育っているから、 いいほうになろう、幸せになろう お金持ちになろうと 努力を始める。 努力とは、同じことの繰り返しのなかで より長く働く こと等を、選択するから、苦しく辛い。 その執着を取るのに、仏陀は 慾 をなくせといい、 津留さんは 良く をなくせといっている。 眠らなくたってかまわない、朝まで起きていると思って 眠ろうという想いを手放すとき、すでに寝ている。
2010.01.12
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我々が見ている世界が、我々なんですね。実際。 僕たちが、いまこの視点で世界を見つめていますよね。 60億人いれば、60億通りの画像があるということです。 まったく、同じ視点で世界を覗くことは不可能です。 ということは、 我々が、見ている世界は ひとりひとり 固有のものではないですか? 違いますか? でしたら、その観ている世界を我々と同じものと、認めることはできませんか? 他にも、脳で観ている世界=世界 とかいろいろいうことはできますが、たいてい そうは思っていない。 よく言われるのは、嫌いな人とは あなたの嫌いなところを見ている。 つまり、けちな人は、けちな人を 見るといらいらする。 自分がけちであることが、好きではない。 店長は私を嫌っていると感じても、 実は、あなたが店長を嫌っているだけとか、 あの人は、悪口ばかり たたいていると 悪口を言ったり あの人は えこひいきばかりしていると文句いいながら えこひいきしてもらいたかったり、したりする。 人のふり見て わがふりなおせということです。 ですから、こういうことは、自分の思いを変えるだけで 解決することも多い。 嫌いな店長を 好きになる~これは 浄化のテクニックが有効 次の日は、店長からあなたに 笑顔で挨拶してきます。 見ているのは、こころの中で起きている現象です。 毎日出会う他者こそが、あなたの心の中にいる住人。 あなた なんです。 だから、他者に親切をすれば 返って来るというか、他者に親切にすることと 自分に親切にすることに差が無い。 だから、それで 他者が喜べば、同時にうれしく感じるものです。 だって、その他者こそが あなたなんですから。 だから、他者を憎むと 辛いわけです。 自分自身を 憎むと同じというか、自分自身を憎んでいるから辛い。 だいたい、 世界が鏡でなかったら、 「他人のふり みて わがふりなおせ」なんて、ありえないでしょうが。 情けが人の ためならじ なんてこともない。 ましてや、 与えたものが 与えられることは おこるわけがない。 飼い犬が 飼い主に 顔が似るなんてことが、おこるわけが無く 負けた選手が、「自分に負けました」というはずも無い。 類が友を呼ぶわけも無く、呪わば穴二つということもない。 みんな、本当は知っているが、忘れてる。 見ている世界は、本来 自分の鏡なんだけど、 他人の鏡を見ているひともいて、そういう人は生きるのが辛い。 また、鏡が 自我で 曇っていたり、ゆがんでいるかたもいる。 そういうかたは、我が強いから、我を張っている。(頑張っている) 世界は鏡だと 今日も叫ぶ。
2010.01.11
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健康な人は、病気になって初めて健康のありがたさを知る。 つまり、健康な人は、健康であるとは意識しない。 すでに、健康であるとは、健康であることと そうでないことに分けて考えない。 それは、パチンコをしない人が、パチンコのCMや店が目に入らないことでもある。 パチンコを、まさに風景・鳥のさえずりとして、記憶に残さない。 健康な人にとっては、健康であることが当たり前すぎて いわば 健康に 関心が無い。 健康に関心があるのは、病気の人である。 では、幸せやお金持ちはどうであろうか? 僕は、常々 すでに 満たされていると気づくと 書いている。 それは、たいてい 幸せになりたい、お金持ちになりたいという 強い思いが誰にでもあるからである。 そして、世界が意識の鏡・反映だから そのように思うことで、そうでないいまを 創り出しているのも事実である。 しかし、それは 中和 でしかない。 幸せだ~ お金持ちだ~ と想えば、すでに そうであるから 100人が100人そうなるから Okなんですが、 健康な人が、健康について関心を持たないように 真に幸せな人は 幸せについて 関心を持たないだろう。 幸せ ふ~ん、どうでもいいや、関心ないね というように。 幸せと不幸に 世界を分ける言葉を消してしまえばいい。 不幸という考えなしに、幸せという考えは出てこない。 いまの自分にまで、幸せの線を持ってきても、幸せ不幸を分ける線はあるので比較していることに変わりはない。 幸せってなんだっけ、なんだっけ♪キッコウマンなのだ。 どちらでもいい、と選択・比較しないで世界を見て感じることが、あるがままの状態といえるのだ。 多分、これが 究極の楽の 状態だろうと思っている。
2010.01.11
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自我は、今を否定するから、 変わらないといけない、このままでは ダメだ、 お金持ちになりたい、幸せになりたい だれそれより ボーナスが多い 何で あいつが出世するんだ かわいくないのに・・・ と、比較して考える。 まあ、そういう風に考えているのは、自我なんです。 自我と それを観察する私の区別が たいてい できない。 思いつかないのでしょうね。 変わろうとするから、変れないいま を創造するから、 毎日、同じことを 繰り返す つまりね、努力しているといっても、同じことの繰り返しのなかで努力している。 毎日、朝何時には 掃除をして、営業に行って、食事をして マタ営業にいって、帰る。 そのなかで、毎日、毎週、毎年、同じことをしている。 それが、努力であり、その努力によって変われると なぜか 思ってしまう。 こんなに 努力しているのだから、変わるはずだと していることは、毎日同じなのに、何故か、自我は思い込む。 これが、かごの中のハツカネズミの運動なんだろう。 一生懸命努力しているのに、一歩も動かない。 毎日 同じことを繰り返し 繰り返ししているわけだから、 やっぱり、 その結果は、同じことの繰り返しなんだろうねぇ。 同じことの繰り返しは、なかなか わくわくしないだろう。 多分、それが つまらないから、それをすることに努力をしなければ 毎日 できないのだ。 変わろう~毎日 同じことを繰り返す~つまらなくなる~つまらなくても しなければならない~努力して 繰り返す~変わりたい~もっと努力しよう~ という円環のなかで、堂々巡りをする。 結局、変わろうという思いが、その円環を抜け出させない。 いまは 辛いけれど、いまの仕事を努力していればなんとかなると ~同じことを繰り返す~から、より 変わることができないばかりか もっと、辛くなる現実を創ってしまうんだろうね。
2010.01.10
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成功哲学では、願望実現について「それを すでに手にしているとおもってイメージしなさい」という。 想いが現実だから、想いをそのようにすれば、現実になるというものだ。 しかし、そもそも ないから願望するのであって、 自分の想いの中に 無いという 想いと すでに 持っているという 想いが、相反してあるわけです。 では、一体どちらの想いが、実現するのでしょうか。 だから、成功哲学では、 すでに持っていることを 強く念じよといいます。 二つの相反する想いがあるから、強く念じないと実現じないというわけです。 しかし、そうでしょうか。 想いが 現実であれば、いまの 現実も 想いなんです。 しかし、こんな現実を望んでいないわけです。 ですから、想いが現実なんて信じられない。 まず、想いは現実ではないという 世界 をあなたの想いが創りだしていると思ってください。 私の望みは お金持ちなのに、全然そうなっていないと 思う人は、 その通りの現実を創りだしていると思ってください。 人間関係つらいな と思っている人は、その通りの現実を創りだしていると思える。 まさに 想い=世界 なんですよ。 その想いは 常のいまの世界を創造している。 鏡ですから、そのままを映している。 そこで、想いを少し変えてみればいい。 私は お金持ちなんだ、 私は 幸せなんだ。 私は 運がいいんだ。 と、思うようにするのではなく、実際そうであるから そう思える。 これには、前回の良いと悪いがないということが腑に落ちる必要がある。 お金持ちっていったて、その基準があるわけじゃないし、単にあなたがかってに思っているだけですから、その基準を今のあなたの水準に置き換えればいい。 すでに、実際 そうであること~想いの反映が世界 それじゃ 何も変わらないんじゃないの?と思うかもしれない。 そういっているのは、誰ですかと、津留さんなら聞くでしょうが いまが、最高なら 変わろう と思うはずがない。 逆に 変わりたくないと思う。 いまの ままでいいんだ この ままでいいんだと 思えるとき、 他人の鏡が割れて、自分の鏡として 世界が写りだす。
2010.01.08
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成功哲学では、願望実現について「それを すでに手にしているとおもってイメージしなさい」という。 想いが現実だから、想いをそのようにすれば、現実になるというものだ。 しかし、そもそも ないから願望するのであって、 自分の想いの中に 無いという 想いと すでに 持っているという 想いが、相反してあるわけです。 では、一体どちらの想いが、実現するのでしょうか。 だから、成功哲学では、 すでに持っていることを 強く念じよといいます。 二つの相反する想いがあるから、強く念じないと実現じないというわけです。 しかし、そうでしょうか。 想いが 現実であれば、いまの 現実も 想いなんです。 しかし、こんな現実を望んでいないわけです。 ですから、想いが現実なんて信じられない。 まず、想いは現実ではないという 世界 をあなたの想いが創りだしていると思ってください。 私の望みは お金持ちなのに、全然そうなっていないと 思う人は、 その通りの現実を創りだしていると思ってください。 人間関係つらいな と思っている人は、その通りの現実を創りだしていると思える。 まさに 想い=世界 なんですよ。 その想いは 常のいまの世界を創造している。 鏡ですから、そのままを映している。 そこで、想いを少し変えてみればいい。 私は お金持ちなんだ、 私は 幸せなんだ。 私は 運がいいんだ。 と、思うようにするのではなく、実際そうであるから そう思える。 これには、前回の良いと悪いがないということが腑に落ちる必要がある。 お金持ちっていったて、その基準があるわけじゃないし、単にあなたがかってに思っているだけですから、その基準を今のあなたの水準に置き換えればいい。 すでに、実際 そうであること~想いの反映が世界 それじゃ 何も変わらないんじゃないの?と思うかもしれない。 そういっているのは、誰ですかと、津留さんなら聞くでしょうが いまが、最高なら 変わろう と思うはずがない。 逆に 変わりたくないと思う。 いまの ままでいいんだ この ままでいいんだと 思えるとき、 他人の鏡が割れて、自分の鏡として 世界が写りだす。
2010.01.08
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僕が、最初にガツンといったのは、なんどもなんども書いていますが、 電車で、前に老人が立ちました、あなたはどうしますか? という問いだった。 僕は、いいことだから 席を譲ると 回答。 しかし、答は 譲りたければ譲るし、譲りたくなければ 譲らなくたってかまわない。 えっ、どうして、いいことを しちゃいけないの? いいことだから、席を譲るというのはどうしていけないの? ?????? つまり、いいことを するということが、まず 前提にあって それで判断して、行動をしていた。 何かを考えるのに いいこととか 悪いことと判断して、いいことならしよう。 いいこと を するのが当然だ。 だから、この問いと答を聞いて、???となった。 何故 何故 何故いいことをしてはいけないのだろう? そんな ばかな・・・・・ その回答が正しいかどうかは、別にして いいこと を するということに、疑いを向けることがなかったので、わけがわからなくなった。 いいこと ってなんだろう? 結局、いいことと 悪いことというのは、表と裏みたいなもので 社員にとって給料が上がることはいいことで 社長にとっては、いやなこと、 タクシーの運賃が安いのがいいことなのは 御客さんで 運転手は、たくさん運賃をもらいたい。 アメリカの正義とイラクの正義 どちらがいいことなのか? ですから、片方からの見方を いいこととしている。 本来、いいこと も 悪いことも ない。 今日の新年会で、ある書店の話を聞いた。 その書店も 道路の拡張でビルを解体し、廃業した。 そのビルは、アスペクトがあって、解体したくても解体できなかったが、市のほうで全部もってくれ、多額の保証金をもらって 本屋をやめることができた。 そこで、話が終わるならいいが、そこから実話が始まる。 降って沸いたようなお金である、兄弟二人で仲良く商売をしていたが どのように分けるかで、毎日喧嘩となった。 ある日の喧嘩は、殴り合いの喧嘩となり、弟は階段から落ちてしまった。そして、一命は取り留めたが、一生車椅子となる。 保証金をもらってよかったと思っていたことが、 実は、兄弟の仲を引き裂く結果となり、兄は一生責任を負い 弟は一生歩くことができなくなった。 人生塞翁が馬である。なにが いいことか なんて、判断できない。 つまり、いいことと 悪いことに判断して 生きる必要がない。 だけど、それを知るまでは、いいことをすることが、前提であり いいことをするということに 疑うことはなかった。 これで、壁・ブロックが一つ壊れました。 いいこと と 悪いことがない。 ということは、今が 悪いわけではない。 変わる必要はない、いまが 最高と思って良いんだ。 そういう風に、思えるようになると心が楽になり その反映としての世界に投影される。 いいことと 悪いことがないのだったら、努力して いまを 変える必要もないのです。 いま に生きる、ここ に生きる、この 瞬間に生きる。 いま いま いま この瞬間の 想いが、世界に反映されている。 だから、辛いこと悲しいことに目を向けないで、いま 一番したいことを マイ瞬する。 泣きたかったら 泣けばいい、 怒りたければ 怒ればいい、 ダダをこねたければ 駄々をこねればいい、 子供の時は いつも そうしてきたのに、 いつのまにか 大人になって、他人の目を気にするようになり そういうことは してはいけないんだと思うようになり、 自分のしたいことを封印し、したくないことを努力するようになる。 それって、楽しいですか、自分を生きていますか? したいことをしているとき 努力していると思いますか? 僕は、したいことをしているときは、努力しているとは思わないから、努力はしなくてもかまわないと思う。 しなければ ならないことは なにもないは、津留さんの言葉ですが、これを 言い換えれば、 いま この瞬間に一番したいことをする。 あなたがしているのは いま したいことですか それとも 努力ですか? どうして したくないことを しているのですか? どうして どうして と 自分に問いかけてみましょう。
2010.01.07
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僕が、覚えたのは津留さんの浄化のテクニックで、それ以外はしらないが、 よく考えてみると、 浄化と浄化のテクニックとは別ではないか? つまり、津留さん流の胸から手を広げていくのはまさに 浄化の 一つのテクニックであって、浄化そのものとは違う。 浄化とは、水に流すこと、リセットすること、だろう。 つまり、いままでの過去への執着や感情のこだわり、記憶等々 現在もなお 思いだしては 歯がゆい思いをすることへの、 執着つまり感情の糸を断ち切ることだろうと理解している。 過去や未来への不安を、いま感じているので、それがいまの世界に投影されてしまっているから、 同じような嫌な現実を繰り返し、経験してしまっている。 そして、もっと強く思うようになるので、経験はもっと残酷になってくる。 想いが現実ですから、その想いを変えればいいだけということを知りながらも、想いを変えられないわけだ。 もちろん、津留さんの浄化のテクニックは有効だし、即効力があると思っている。 ただ、大切なのは それが儀式であるということ~だから 浄化なんだろうけど。 つまり、もともと無いものを、自らつくりだしてしまったわけで、他の誰もそれをなくすことはできないし、 過去にあったことを 過去に戻って取り消すこともできない。 とるのは 執着・想い。 だから、こうやって その感情が取れましたと 浄化の儀式(テクニック)をする。 だけれど、その浄化の作法にばかり目がいって、そもそもの執着が取れるかどうかに 関心が向かないと、意味が無くなるだろう。 声をだして まさに 「えーがんちょ、指切った」ということをするわけですから、 エーがんちょの、指きりの位置や順番はどうでもいいことだ。 まあ、儀式に作法が大切と言われれば、返答に困るので、 作法としては、しかたがないのかな。 ただ、それが この方法が正しいとかとなると、そもそもの 津留さんの「良いと悪いが無い」という趣旨に背くことになりかねない。 いまいいたいのは、そのことではなく 浄化とは、執着を取ることですから、その思い起こしていまの世界に影響を与えている感情を 出してしまえばいい。 それは、浄化のテクニックをしなくても、いままでの自分自身をすべて認めてあげることで、全部OKなのだ。 認める=愛する=光であって、自分のなかにあるもろもろの 記憶・執着・感情を 許してあげる。 そして、いままで 努力して頑張って、あなたに認められたくていた 自我に 感謝する。 自我が お金がほしいのも 出世したいと自我が思うのも みんな あなたに 認めて欲しいからなんです。 ですから、自我はいつも 変わりたいと思うし、お金がほしいと思う。 そういう自我を許してあげて、十分がんばってくれたね、ありがとう もう、いまのままでいいんだ、変らなくても 認めるよと 許可をしてあげる。 そうすると 自我が 成仏・消滅 するような気がします。 もちろん、いろいろなミニ自我があって、全部の自我が消滅すれば 差取りに 悟りに なるのでしょうが、それを 目指すのではなく いまの自分を 変わらないでいいと許すこと、僕は、これが 浄化の本質ではないかと 思います。
2010.01.07
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