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先日(10月24日)の「周りの人を幸せにする人とは?」に対して、さんたさんのファンさんから、コメントを頂きました。ありがとうございます。 ファンとは、うれしいハンドルネームですね。(^^)ありがとうございます。以下、引用したコメントとそれに対するレスです。> 自己完結した自分のしたいことをするには、自己像のイメージの書き替えが必要なのかなと思いました。 ヒカリズムでは、無条件の愛を説いています。無条件の愛では、あるがままにすべてを受け容れますから、自分を変える必要はありません。しかし、見方を変えると、あるがままの自分を受け容れるということ自体が、自己イメージの書き換えになっています。たとえば、『私は胸が小さくて魅力的でないからダメだ』 ↓『私の胸は小さい、ただそれだけ(私の魅力は別のところにある)』> 他者と自己を対比させたイメージから、> 他人の中にいる自分像への変換。他者とは誰ですか?一人ですか?複数いるなら、複数の自分像に自分を変えることは不可能ですよ。複数の人の中には、反対の自分像があるでしょう。机上の空論です。> 自分と他人を分けてイメージすると、自分のしたいことが他者につながらないため、なぜ他者に繋げる必要があるのですか?それは本来のあなたのしたいことではなく、他者からの期待を自分のしたいことのように思ってしまうという意味になりますよ。それでは、相手にあなたのコントロールを渡してしまうことになりますよ。> 結果、自分の枠を放置(枠が怖れの正体だとしたら、怖れを放置)することになってしまうと思います。まず、枠とは『こうあるべき』という制限ですから、怖れの原因であるといえますね。しかし、『こうあるべき』という観念はあなた自身のものですから、他者は本来無関係です。他者に繋げる必要があるのは、他者から植え付けられた『こうあるべき』に従おうとしているからです。> 枠は、他者の中に自分をみて、他者をゆるすことで広がっていくものだと思います。何を許すのですか?許す必要があるのは、あなたがあなたの持っている『こうあるべき』という正しさを他者に押し付けているからです。あなたが相手に押し付けている正しさからはみ出した相手を許すということは、それが心から許すという意味であれば、それは、あなたの中の『絶対にこうあるべき』という囚われた考えを手放すことを意味しています。> 自分のしたいことをしたときの喜びのもとは、他者とかかわること(ゆるしの実践)で自分が広がったことを実感したことなのだと思います。もちろん、他者とのかかわりの中で喜びを感じる手段をとることができます。しかし、ヒカリズムでいう幸せは、その前に自分に、あるがままの自分でいることを許そうということです。あるがままの自分でいることを自分に許せた人は、他者のあるがままを許せるようになります。他者からの期待(こうあるべきという正しさ)を生きるのではなく、自分のしたいことをして自分を生きることを許すということです。> 自己像が分離のイメージのままだと、自分のしたいことをすることは、心からの喜びにつながっていかないように思うので、イメージを変換することが大事なのかなと、最近考えています。他者を基準にしては、あるがままを受け容れることはできません。他者を基準にするということは、他者があなたに期待する正しさ(枠)『こうあるべき』に従うことだからです。お釈迦さまが、自灯明を説いたのは、そこにポイントがあるからです。そして、そのときの自分が恐れを基準にした自分ではなく、愛を基準にした自分であることがポイントなので、法(真理=愛)灯明を説いたのです。自灯明、法灯明はそういうことです。真理がなぜ愛なのか、わかりますか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 31, 2008
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周りの人を幸せにできる人しか幸せになれないのかそれとも自分が幸せな人が周りを幸せにできるのか あなたはどう思いますか?「自分の周りの人を幸せにすることが私の幸せなんだ」という考えは、世間の常識から言って素晴らしいことのように思えます。 じつは、世間の常識とは、今の社会機構の維持するという方針に適っているから、正しい考えということなんです。 ここにパラドックスがあります。実際は、逆なんです。もし、あなたが、『自分の周りの人を幸せにすることが私の幸せ』と考えていたら、 あなたの幸せは、周りの人の反応次第ということになりますよね。 たとえば、あなたがパーティーに出席したときにあなたは楽しいお話をしたほうが周りの人を喜ばせることができるでしょうか?それとも、周りの人が楽しくお話できるように聞き手に回ったほうが周りの人を喜ばせることができるでしょうか? 実は、当然ですが、相手次第なんですね。あなたの話を聞きたいと思う人と、自分の話を聞いてもらいたいという人が同時にいたら、あなたはその両方の気持ちを同時に満たすことはできません。 あなたは相手次第で、相手を喜ばせようとコロコロと自分を変えて演技をし始め、いつしか、自分を失ったカオナシになってしまいます。 そして、あなたは相手を喜ばせるために全精力を使うようになり、やる気を起こすこと、努力をすることに疲れ果ててしまいます。 ついには、当初の『自分の周りの人を幸せにすることが私の幸せ』という志を手放してしまうでしょう。 でも、手放すことができればまだましです。まじめな人は、その素晴らしいと信じている考えを手放せずにその考えの奴隷となり、その素晴らしい考えをやり遂げられない自分をダメだと思い込み、うつに陥ってしまうことになります。 実際は、まず自分がしたいことをして、自分が幸せになることが初めなのです。(注:周りの人を幸せにしようと思うなということではありません) ここに重要なポイントがあります。「自分がしたいことをする」という解釈を旧パラダイムの人は、間違って解釈してしまうのです。 旧パラダイムの人にとって「自分のしたいこと」は、相手の反応が自分の期待通りであることなのです。 つまり、周りの人に自分の期待通りの反応を強いることなのです。 旧パラダイムの人の思考パターンは、すべて周りの人の反応を自分の思い通りにすることが基本になっているのです。 ヒカリズムでいう「自分のしたいこと」は、自分がそれをしているだけで幸せに感じてしまうことです。自己完結します。和尚は、存在の詩でこんなふうに言っています。----- 引用開始ティロパは分かち合うなと言っているんじゃない彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだもしあなたに手持ちがありそれが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさいただし、それは分かち合いであるべきだ贈り物---これが贈り物(Gift)と与えること(Giving)との違いだ贈り物というのは取り引きじゃない何ひとつ期待されはしない絶対に何ひとつ---ただの認知さえもいらない感謝のうなずきすら---違う何ひとつ期待されてはいないもしあなたがそのことを取り上げなくてもその贈り物をくれた人物の中にはなんの動揺もない実際には、もしそのことに触れたりするとかえって彼は少しとまどうくらいだそんなことは決して期待していなかったのだから反対に彼のほうがあなたにその贈り物を受け取ってくれたことを感謝するだろう<中略>あなたはそれを拒否することだってできたのだからそれで充分だ(「存在の詩」P509P510)----- 引用終了 そのように自分を生きて、自分の幸せを生きている人は、余裕があります。懐が広くなります。周りの人を受け容れ、やさしい気持ちを持つことができます。 結果として『自分がしたいこと(幸せを感じること)をしたら、周りの人が幸せを感じてくれた』となるのです。 自分のしたいことをする、ワクワクを生きるということを説いているマイク・マクマナス「ソース」ヴォイス刊という本があります。もし、見つけられたら、ぜひ、読んでみてください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 24, 2008
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最近、世界の経済に大きな変化が起きていて、2008年10月8日には、円が1ドル100円を割り、8日の日経平均株価は9,203円32銭となり、5年3か月ぶりの安値となりました。 ここからは、経済の考えを無視してお話します。 1975年に雷に打たれて臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーは、光の存在から、このまま人類が心を改めなければ起きてくる未来の映像(予言)を見せられました。 記録をつけていたレイモンド・ムーディ博士によれば、その予言は、かなり当たっているそうです。チェルノブイリの原発事故も予言されていました。また、最近の原油高も予言されていたそうです。http://mshiko.blogspot.com/2008/09/blog-post_11.html そういう流れの中で、ダニオンは光の存在に(テレパシーで)こう言われたそうです。「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎より第五章 「知識の箱」より「もしあなたが、いままで教えられてきたとおり、そしてこれまでの二十五年間と同じように生き続ければ、これらすべての出来事(未来のビジョン、予言)は、実際にあなたの身に降りかかります。でもあなたが変われば、将来の戦争は避けられるのです」(P67)「この人々が感じている恐怖は、必要ないものなのです」と光の存在が言った。「ところが、その恐怖が心があまりにも強すぎて、人間は安全を得るために自由をすべて投げ出してしまうのです」(P68)「あなた方人間は、真の勇者です」と光の存在は言った。「地球に向かうのは皆、勇気ある者たちなのです。ほかの霊的存在には、とてもやる勇気のないことを、あなたたちはやってのけているのですから。あなたたちは、神とともに創造するために、地球へ向かっているのです」。(P68) いま見たものはすべて未来の出来事だが、必ずしもこうなると決まっているわけではない、と彼は語った(彼は言葉を発しなかった)。「人間の行動の流れは、変えることができます。でもその前に、人間は自分が何者なのかを知る必要があるのです」と彼は言った。そして再び、人間は偉大で、強くて、力のある霊的存在だ、という彼らの信念を伝えてきた。(P71)「私たちはここで、偉大なる冒険をしようと地球に向かうすべての人々に会っています」と彼は続けた。「あなた方は、地球に向かい、生命を発展させ、そして人類という名で知られる、神がお造りになった大いなる冒険に参加する勇気をもった方なのです」(P71) そこで彼は、地上における私の目的を告げた。「精神主義的資本主義をつくり上げるのです」と彼は言った。「人々の考え方を変え、その未来の思想を推し進めるのです。政府や宗教ではなく、自分の精神そのものに頼る方法を、教えてあげるのです。宗教は結構なことですが、なにからなにまで宗教に左右されるようではいけません。人間は、力のある霊的存在です。愛とは、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接することだということさえわかってくれればよいのです」(P71) アメリカ型資本主義の崩壊は、言い方は違っても、地球村の高木善之さんとラビ・バトラさんが予言しています。http://ada323.blog.ocn.ne.jp/blog/2008/07/post_ce83.html(これ以前に出した予言の本の内容もかなり当たっています) 高木善之さんも、、1981年 交通事故に遭い入院し、臨死体験をしたときに、光の存在に、地球環境についての使命を与えられ、その確証に3つの予言をもらいました。 それは、事故の10年後にソ連の崩壊、20年後にアメリカの崩壊、40年後に世界が崩壊というもの。 みなさんもご存知のように1991年にソ連が崩壊しました。2001年には、アメリカ資本主義の象徴が崩壊しました。(9.11事件) 予言は、「人々の意識が予言時点から変らないならばこうなる」ということですから、良いほうにずれている気もしますが、まだまだのようにも感じます。 私の考えですが、アメリカ型資本主義とは、『制度(ルール)内であれは、何をしても儲かればいい』という資本主義のことだと思っています。 たとえば、禿げ鷹ファンド(=業績悪化した日本企業を買い取る外資系ファンド)と呼ばれる資本が、業績悪化した銀行を買取、容赦ないリストラと不良債権処理をして儲けます。 具体的に言うと、日本長期信用銀行(長銀)に税金を九兆円も日本政府は注ぎ込んで、リップルウッド(禿げ鷹ファンド)に、瑕疵担保条項付株式公開という絶対に米国が損をしない条項付きで十億で売り飛ばし、しかも米国企業なのに新生銀行として上場させ三千億も儲けさせました。これは国民の税金を90万注ぎ込んで100円で売って、上場しただけで3万円儲けさせた事と同じです。(http://yuuki-ran.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-6a86.htmlより) どうやって儲けたのでしょう? 同じようなことがサブプライムローン問題でも行われていると私は思います。http://allabout.co.jp/finance/foreignstock/closeup/CU20080731C/クズ証券をまとめて不安を薄くする証券を投資家に分散し、個々の損を減らして、安全に見せる格付けを高くする元がはっきりしなくなってから、安心の格付けがあるクズ証券(損)を世界に分散させて、世界から少しずつ儲ける。これを意図的にやったように思うのです。 つまり、本来の資本主義の精神とは無関係に、資本主義を維持する制度を逆手に取って腹汚く儲けるのが、アメリカ資本主義ということになると思うのです。 このようなことを踏まえて、今回の経済は、そのような膿が出あげるまで、人々の意識が変化するまで続くような気がするのです。 精神主義的資本主義を広げていくためには、参加する個々の人の意識の向上が不可欠なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 9, 2008
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ヒカリズムの説明をただ表面的に読んでもおそらく正しく理解することができません。 なぜなら、普通の人は、普通の視点で考え、それをベースに世界を眺め、説明を読むからです。 たとえば、子供がケンカをしてそれを親が叱るとき、「どうしてA君をぶったの?」「だってA君がバカにすることを言ったんだもん」「それは腹が立つだろうけど、だからって暴力はダメよ」「でもー」「ひどいことを言われても無視すればいいのよ」 これはまあ、普通によくある会話だと思うのですが、親子共に広義の共依存であり、コントロールドラマに自分が乗っていることを知らずに、コントロールドラマに乗ってしまうことで見えてくる世界を普通の世界として前提にしています。 心理学でも、普通に戻すことが基本になっています。 しかし、「嗜癖する社会」のA.W.シェフは、嗜癖する社会「共依存は、それ自体とても興味深い病気です。それは私たちの文化によって支えられているだけではなく、文化の中で積極的な機能を果たしているのです。つまり、嗜癖システムに順応している限り、共依存的にならざるを得ず、共依存はシステムにとって、一つの規範としての機能を果たしているのです」と述べている。 簡単に言えば、社会の一員になるということは、軽い共依存になるということになり、それが常識などという形で、社会における正しさとなっているのです。 ヒカリズムでは、コントロールドラマに乗らない世界があることを知っていてその状況から見えてくることやその状態で自然にできることを説明しています。 この場合なら、A君が「バカにすることを言った」という事実をあるがままに認めます。コントロールドラマに乗りませんから、そのことで腹が立ったり哀しくなったりというように感情の乱れはありません。穏やかに愛の心で相手を見つめることができます。すると、そういう言葉で相手を攻撃しないではいられないA君の気持ちを思いやることができるのです。コントロールドラマに乗って、相手に言い返したり、暴力をあるったりするのは、「北風と太陽」の北風の対応。相手の気持ちを思いやるのは、太陽の対応。 ヒカリズムでは、普通と自然を明確に分けています。 腹が立って怒りに振り回されたり、哀しみに振り回されたりするのが当たり前だと思っています。 ヒカリズムでは、それは普通だけど自然ではない、と考えます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Oct 9, 2008
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