フランス革命(14)
明けて、10月6日の早暁のことです。宮殿の内外は、近衛兵と国民衛兵が警備していました。パリからやってきた女達や遅れて駆けつけた男達は、王宮の周辺に屯して夜を明かしました。明け方の6時ごろ、1部の民衆が警備の薄かった扉口から、王宮の内部に侵入すると、驚いた警備の近衛兵が奥へ行かせまいとして、発砲し、民衆側と撃ち合いになりました。王宮内での銃声にすっかり興奮した外の民衆も扉口に殺到します。民衆側にも死者が出ましたが、近衛兵にも数名の死者が出ました。殺気だった男女の民衆の1部が王妃や子ども達の寝室近くにまで出没します。侍女に起こされた王妃は寝着のまま避難するのやむなきに至ります。
軍人のラ・ファイエットはさすがに落ち着いていました。国民衛兵司令官として国王の近くに侍していた彼は、反面国王の逃亡をこの時点では防いでいた(彼の態度については、2年後の国王一家の逃亡の顛末記のところで、しっかり検証することにします)ことにもなります。この時期なおパリ市民に絶大な人気を持っていた彼は、宮殿中庭に面したバルコニーに出ると、興奮して死亡した近衛兵の首を槍先に吊るして騒いでいる民衆に向って、合図を送り、国王と王妃にもバルコニーに出ることを勧めます。そうすることが、事態を鎮める最良の方法である事を、彼は知っていたのです。
2人はラ・ファイエットと共にバルコニーに出ると、民衆に向って手を振ります。不人気だったとはいえ、王妃は王妃です。「国王万歳、王妃万歳」の歓呼の声が、2人に対する答えでした。しかし、民衆の中には国民議会の議員達や、その意を受けた人達も紛れ込んでいます。そうした策士の声が、素直に民衆の共感を呼び覚まします。アチコチから「国王パリへ、王妃もパリへ」の声が上がり、やがて中庭中に響き渡ります。国王は遂に意を決死、パリ帰還に同意します。
午後1時、まだ雨の降る道をパリに戻る行列が動き出します。銃剣の先にパンを突き刺した国民衛兵を先頭に、小麦を満載した馬車、軍隊、王家の馬車、議員達の馬車、最後に国民衛兵と男女の民衆が続きます。民衆は国王一家をパン屋のオヤジ、パン屋のカミサン、パン屋の小僧と呼んではしゃぎながらの行進でした。
いったん市庁舎に立ち寄った国王一家がチュイルリー宮殿に入ったのは、午後10時を回った頃でした。この宮殿はヴェルサイユを嫌ったルイ15世が居住した宮殿ですが、その後荒れるにまかせてあり、当時は陰気な宮殿だったのですが、ここに住まう事になったのです。
国王のパリ移転に伴い、19日に議会もパリに移ります。こうして王家と議会は、鋭い政治感覚を持つパリ市民達の監視の下に置かれたことに成りました。
また、国民議会の議長だったムーニエを始め、約200名の保守派議員が、議会を放棄して、地方や外国に亡命しました。子孫が米国で大化学会社デュポンを創設する、デュポン・ド・ヌムールもその1人でした。
続く
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