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▼時を越えた念写三田の念写はまさに自由自在であった。三枚重ねの乾板の一枚目と三枚目に、二枚合わせて一つの像になるように分割念写し、かつ中央の乾板にサンスクリット文字を出現させることもできた。また、以前念写したのと同じ像を再び写し出す反復念写もお手の物であった。1923年7月7日に青森市で行われた実験も、いつものように淡々と進められた。この実験に福来は参加しておらず、東奥日報社主催で同紙の記者や市の助役、病院長、警察署長らが立会人となり実施された。念写実験では、一般参加者からの希望で弘前公園にある津軽為信の像を写すことになった。その結果得られた念写像は、樹木の茂った公園の中に立つ武士の像であったが、津軽為信の像ではなく、だれだかわからない人物の像であった。その実験はそのままになっていたが、11年後の1934年5月19日、今度は山口県宇部市で宇部日報社の主催により三田の念写実験が行われた。一般来場者から念写対象物を募ったところ、幕末長州藩の有名な家老福原越後の像、吉田松陰の像、寺内正毅元帥の像、国吉亮之輔の像を念写することになった。現像した結果、福原と吉田の像を写し出すことには成功したが、寺内と国吉の像は現われなかった。面白いのはここからである。福来は青森と山口で実施された二つの実験に参加していなかったが、主催者側から実験の報告書と念写された原版を送ってもらっていた。福来がそれらを調べたところ、青森で念写された正体不明の人物像が11年後の山口で念写された福原越後の像と一致したのである。それは宇部市の神原公園に実在する福原の像で、背景の樹木も実物と同じであった。青森と山口で念写された福原像で唯一違うところは、像の向きが異なることだけであった。問題は、この実在する福原像が建立されたのが1928年であったことだ。青森で念写実験が行われた1923年には、この像は存在しなかった。もしそうなら、三田は未来に存在する像を念写していたことになるのだ。この時空を超えた念写に関しては、筆者にも思い当たる節がある。拙著『不思議な世界の歩き方』でも紹介したが、私は時々、未来の自分の想念が飛び込んできて現在の自分の想念と共鳴することがある。これはどういうときに起こるかと言うと、現在と未来でほぼ同じ条件・状況の中で同じようなことを考えたときに起こる。そのことから類推すると、おそらく三田は青森の実験で自分の知らない人物像の念写を一般参加者から依頼された際、同じような条件・状況下で人物像の念写を依頼された11年後の山口での実験における自分の想念と時間を超えて共鳴を起こし、未来の自分の念が入り込んできたのではないだろうか。まさに念は、時空を超越するのである。(続く)追加:昨日紹介した三田光一による「月の裏面像」を接写しました。現在公開されている「月の裏側の写真」とご比較ください。
2007.06.12
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神在月に出雲に行けば神様に会えるというので、京都から丹後半島経由で出雲に旅してきました。神在月は陰暦の10月のこと。通常神無月と言いますが、出雲と諏訪地方では神在月と言います。というのも、この月には、八百万の神々が出雲(あるいは諏訪)に集まって会議をするので、ほかの地域では神がいなくなってしまうという「言い伝え」があるからなんですね。出雲ではこの神在月にお祭りがありますが、それが今年は11月5日~12日だったわけです。詳しくは出雲大社のホームページをご覧ください。さて、出雲の神様に会う前に出会ったのは、こちらです。亀に載った浦島太郎さんですね。浦島太郎は俗称で、丹後の国の風土記に出てくる名前は浦嶋子さん。亀に連れられて竜宮城に行ったことになっていますが、実は亀が仙女に変身し、雨降り星(アルデバラン)と昴(プレアデス)に連れて行かれたという話がもとになっています。そしてこちらは、浦島太郎が玉手箱を開けてしわだらけのおじいさんになってしまったという場所。顔じゅうがシワ だらけになってしまった浦島太郎が、悲しみのあまりシワをちぎってエノキに投げつけたので、樹皮がシワで 凹凸になってしまったという伝承があるしわエノキが立っていました。(続く)
2011.11.13
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記紀が記す古代日本とシュメル人の類似性は、シュメル人が自分の国のことを何と呼んでいたか、に見出すことができます。実はシュメルという呼称はアッカド語で、シュメル人自身は自分の国を「キエンギ」と呼びました。「キ」は大地、「エン」は主人とか、主という意味で王の称号にもなっています。そして「ギ」は「葦」の絵文字から発達した楔形文字です。大まかな意味は「葦を主とする大地の国」でしょうか。シュメル人が住んだ土地は、その名が示すように湿地に葦が生い茂るメソポタミアの大地でした。葦は割いて筵(むしろ)状に編み込んだり、湿地帯の泥は粘土にして土器を制作したり、あるいは固めて乾かし煉瓦にして使ったりしたはずです。だからまさに葦原を主とする大地でありました。自分の国家をそのように呼ぶのも当然ですね。ここまで聞いたらだれでも、ほかにそのような呼び名で自分の国を呼んでいた人たちを思いつきますよね。そう、日向族のアマテラスたちです。彼らは日本のことを葦原中国と明確に呼んでいました。アマテラスはこう言いました。「葦原中国はわが子、オシホミミが統治すべき国である」と。で、葦原中国(葦原中ツ国とも書きます)はどういう意味かというと、「(稲の生育に適した)葦の生い茂る湿原の中央の国」です。まさに「キエンギ」を直訳したら「葦原中国」となります。すると、なぜアマテラスたちが「葦原中国」にこれほどまでにこだわったかも、なんとなくわかってきます。彼らはそこに「故郷の国」を夢見たのではないでしょうか。その遠い昔の国はどこであったかというと、正統竹内家の口伝が正しいとすると、「キエンギ」、すなわちシュメル人が支配した古代メソポタミアです。これらをすべて偶然として片づけることはできます。でも、古代日本人とシュメル人という2民族間におけるこれだけの類似性、相似性は、世界広しと言えどもなかなかないのではないかとも思えますよね。となると、ここで一つの世界古代史のシナリオが浮かび上がって来ます。(続く)
2015.04.28
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▼弾圧の中で当時、国際的な潮流となっていたスピリチュアリズムの息吹に触れることができた英国滞在は、福来の人生にとってもハイライトと呼べるのではないだろうか。しかし、その絶頂期も長続きはしなかった。日本に戻った福来を待ち受けていたのは、戦争へと突き進む、狂信的で不気味な軍靴の足音であった。第一次世界大戦後の戦後恐慌と関東大震災で壊滅的な打撃を受けた日本は、さらに全国的な銀行の取り付け騒ぎに発展した金融恐慌(1927年)、1929年の世界恐慌のあおりを受けた昭和恐慌(1930年)に見舞われた。社会的な不安が増大する中、日本政府が取った政策は、権益を拡大するため中国など海外への侵略政策を進めることであった。軍国主義が日本全国に浸透してゆき、自由主義や民主主義の研究は弾圧されるようになる。国家の意にそぐわない思想は異端であり、取締りの対象となった。超能力などの“怪しげな研究”や宗教も例外ではなかった。お筆先(自動書記)による霊界との交信で知られた大本教は1921年ごろから迫害された。1935年には邪教として活動を禁止され、教主の出口王仁三郎も治安維持法違反容疑などで逮捕、投獄された。霊能力者で知られた竹内巨麿が管長を務める天津教も1930年ごろから弾圧され、巨麿は1936年、不敬罪や詐欺罪で起訴された。同じころ、現在は高校野球で有名なPL学園を創設したパーフェクトリバティー教団(PL教団)として知られる「ひとのみち教団」も、反国民精神を鼓舞したなどとして幹部が逮捕され、解散を命じられている。こうした弾圧は、超心理学の研究にも多大な影響を与えた。たとえば、1939年には亀井三郎という霊能力者(物理霊媒=エクトプラズムを使って霊の物質化をする霊媒)が19世紀に英国で有名だった「ケティ・キングの霊」(ウィリアム・クルックス博士の実験で出現した、頭の先からつま先まで完全な形で物質化した霊)を出現させることに成功、それを写真に収めたが、その貴重な原板は当時の警察に押収されてしまった。戦争が激化するにつれ、物資は乏しくなり、若者は次々に戦争に駆り出されて行く。研究に使う材料の入手も、ままならなくなった。このような環境に加えて、年齢という壁が福来に迫っていた。1940年には14年間教授職を務めた高野山大学を退職した。既に70歳を超えていた福来にとっては、何もかもが困難な時代であった。(続く)
2007.06.25
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ロンドンの大英博物館には、私が「シュメール(スメル、シュメル)の卑弥呼」と呼ぶ展示があります。スメルの女王プアビです。今から4400年前、つまり紀元前2400年ごろのスメル文明の中心都市ウルの遺跡から発掘された出土品を基に、大英博物館が女王を「再現」したものです。私のイメージの中では日本の卑弥呼とピタリと一致します。胸元に光る首飾りのシンボルマークは菊花紋に似ていますね。ここに「スメラミコト」や祭祀王アマテラスの原型があるのではないでしょうか。竹内氏が口伝継承したという正統竹内文書によると、古代メソポタミアで栄えたシュメール文明を築いたのは、日本から旅立ったスメラ族の一団でした。政治・軍事王がスサの王であるスサノオ(のちの出雲族)で、祭祀王がスメラミコト、後のアマテラス率いる日向族(天孫族)になったと伝わっているそうです。その真偽はさておいて、直感的にはアマテラスに代表される祭祀王はメソポタミアのスメル文明と非常に近いように感じます。日本の神話のルーツがスメル文明から発していることからみても、日本の天皇家のルーツはメソポタミアのスメル文明であったのは間違いないのではないでしょうか。
2015.07.06
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太陽に住むという伝説の八咫烏(ヤタガラス)。その伝説のカラスを捉えた写真です。といっても、いつものお気に入りの場所で羽を休めているカラスを、夕陽を背景にして撮っただけですけどね。いいモデルになってもらっています。日本の八咫烏は太陽信仰の女神(アマテラス)の孫(アヂスキタカヒコネ、別名タケツノミ)ですから、やはり太陽とは切っても切り離せない関係にあります。カラスと太陽は深い因縁で結ばれているようです。写真は今年の2月24日に撮影しました。
2019.03.24
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昨日は七夕でしたね。第73世武内宿禰こと故竹内睦泰氏によると、牽牛(アルタイル、彦星)とは牛頭天王ことスサノオのことで、織女(ベガ)は天照大神のことであったといいます。夫のオシホミミを出雲族の王スサノオに殺された日向族の女王アマテラスは、やむなく和睦を結び、敵将スサノオと政略結婚しました。結構、複雑な心境だったと思いますが、やがて二人は仲睦まじい仲となったようです。そして、二人の間に宗像三女神のうち二人の女神が生まれます(三女はスサノオの連れ子の末子スセリビメと私は見ています)。しかし日向族の審神者長タカミムスビ(高木神)は、出雲族と日向族の和睦を快く思っていなかったらしく(あるいは政略結婚の結果、女の子しか生まれなかったからかもしれませんが)、アマテラスとスサノオの間を引き離そうとします。それで天の川の反対側に二人を離しておいたのでしょうね。すくなくともそのように仕向けたように思います。ちなみに天の川はこの場合、豊後水道とか関門海峡ということになるでしょうか。流れが早そうですね。出雲神族、天孫日向族の間の政略結婚はその後も続きます。宗像三女神のうち長女(タギリヒメ)と三女(タギツヒメ)は出雲の大国主ことオオナムジが娶り、長女は八咫烏(アヂスキタカヒコネ、別名タケツノミ)を、三女はタケミナカタ、タカテルヒメ、事代主を儲けます。で、三女神の次女はスサノオと袂を分かったスサノオの四男オオドシことニギハヤヒが娶ります。その子供が朱塗り矢ことオオヤマクイ(山末之大主神)。松尾大社のご祭神ですね。その朱塗り矢さんが神武の乳母であるタマヨリヒメを娶ってうまれたのが、鴨王こと賀茂別雷(アメヒカタクシヒカタ)。上賀茂神社のご祭神です。鴨王の後に生まれた五十鈴姫がサノ(カンヤマトイワレビコ)と政略結婚して、サノは神武天皇となったわけです。七夕には結構、深い意味があるのです。それはさておき、梅雨の晴れ間に撮影した薔薇です。すがすがしい風景です。
2021.07.08
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流れの速い川。流れの早い川の瀬に住むのが瀬織津姫。大祓詞(中臣祓詞)の中にしか出てこない謎の女神とされています。だけど、その祓詞の中にちゃんと本名が隠されています。簡単に説明すると、高山から流れ落ちタギツように激しくうねる激流の瀬にいらっしゃる瀬織津姫という神様と書かれています。隠された名前は、まずはタギツヒメです。タギツヒメといえば、宗像三女神の末子・多岐津姫にほかなりません。そして次に隠されている名前は、大祓詞の漢字に記されています。漢字では、「多支都速川能瀬坐須瀬織津比賣(たぎつはやかわのせにますせおりつひめ)」のように書きますが、この漢字の並びの中に須瀬織津比賣(すせおりつひめ)があり、須勢理毘賣(すせりびめ)という名前がそれとなく読み取れるようになっているのです。このことから、宗像三女神の末子タギツヒメは、実はスサノオの末子であるスセリビメであり、またの名を瀬織津姫と呼ぶことが秘中の秘として大祓詞に隠されたのではないかと私は判断したわけです。どうしてそうなったのかーー。詳しくは拙著『101人目の卑弥呼』、もとい『卑弥呼は二人いた』(河出書房新社)をお読みください。
2021.07.21
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