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皇帝ダリア。夕陽に照らされて、輝いておりました。
2025.12.03
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昨日に続いて秋の夕暮れ。もうほとんど冬の夕暮れという感じですね。
2025.12.02
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これが船山神社です。小さな祠のような神社ですが、なかなかの風格があります。「竹内文書」の研究家上原清二によると、オシホミミの神陵がここにあるそうです。ただし、『神代の万国史』を読むと、オシホミミの三番目の妻である日玉久久野姫が久久野山、すなわち船山に葬られたとも解釈できます。いずれにしても「竹内文書」では、天神第五代の霊が滞在した場所であると同時に、オシホミミともゆかりのある聖なる山とされています。また、「両面宿儺」の伝説にも、船山は登場します。「位山の主(注:両面宿儺のこと)は、神武天皇へ位を授けるべき神である。身体一つにして顔は二面、手足四つの両面四手の姿である。天の叢雲をかき分け、天津船に乗って山の頂に降臨した。神武天皇に位を授けたので位山と呼び、船の着いた山を船山という。」まあ、とにかく飛騨地方には、現在の天皇家の「大御先祖様」に位を授けるぐらいのすごい神様がいたわけです。古代飛騨・越ヒスイ王朝があったということですね。その末裔が、記紀神話で怪物扱いされている越王ヤマタノオロチで、その8番目の末娘、つまり末子相続による王位継承者がクシナダヒメであったというのが私の見解です。政略結婚によりスサノオの正妃となりました。櫛と玉(ヒスイ)の神器は、スサノオからその四男の大年ことニギハヤヒの手に渡ります。だからニギハヤヒの別名が『先代旧事本紀』に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と記されているのではないでしょうか。それはともかくとして、社殿に向かって右奥には、「イルカ石」と名付けられた、線刻を施された大きな石が鎮座しております。石の上部に波模様が刻まれているからイルカ石と呼ばれるのでしょうか。イルカに見立てるにはかなり想像力が必要ですね。「イルカ」にはほかの意味があるのかもしれません。社殿の周囲にも磐座らしき巨石遺構が点在しています。厚みのないピラミッドのような石が台座に載せられている巨石の組石も見受けられました。現在では雨乞いの神社として、地元の方々によって大切に保存されています。
2015.11.30
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ピラミッドである下田富士とジッグラトである寝姿山の写真を撮ったので、今回の旅の目的はほぼ終了しました。えっ、でもまだ37の秘密がわかってないではないか、ですって。そう、確かに37の謎が解けたとはいえません。でも帰りの電車まで時間があったので、下田市内をぶらぶらしているうちに次のヒントが現れました。そのヒントは何か。それは伊豆高原にある大室山です。以前から気になっていた山でもありました。というのも、私の家の寝室から朝最初に見る伊豆半島の風景が大室山がある伊豆高原だからです。ブログでも以前紹介しましたね。この一年間で私の部屋から大室山が見えたのは、冠雪のときと霧が大室山を浮き彫りにしたときの二回だけですが、三浦半島の対岸にある小さな山なのに遠くからでもはっきりと見える山だなと感心していたんですね。この綺麗な円錐形の山です。その大室山ですが、伊豆急下田駅前の観光案内所で何気にパンフレットを手に取ったとき、私は思わず心の中で「あっ」と叫んでいました。そこには大室山を空撮した写真が載っていたのですが、それが今年五月にイギリス・エイヴベリーで見たシルベリー・ヒルにそっくりだったんですね。そしてこちらがシルベリー・ヒルです。シルベリー・ヒルは高さ五〇メートルほどの小山ですが、先史時代におけるヨーロッパ最大の人工のマウンドであることが確認されています。ところが、日本では大室山は人工の山であるなどとは言われていません。単成火山(一回だけの噴火で形成された火山)であるとされています。でも、シルベリーヒルが人工のマウンドなら、大室山が人工であっても不思議ではないと思うわけです。奇しくもパンフレットには、「人工の山かと見誤るほどの美しさ」と書かれています。でも本当に人工の山だったとしたら・・・やはり下田富士と同様ピラミッドであると言えそうですね。ちなみに下田富士と大室山を結んだラインは、大室山を小型化したような小室山(伊東市)を通り、相模湾をかすめて遠く茨城県にそびえる霊峰・筑波山を指しています。これで、今回の伊豆ピラミッドをめぐる旅が終わりです。でも続きはまだまだありそうですね。37の謎は引き続き継続調査をしなければいけません。大室山や小室山にも登ることになるでしょう。そして秋山さんの前世リーディングを受けたときに示唆された富士山の北にある忍野のストーンサークル。これらをめぐる旅が私たちを待っているような気がします。そんなことを考えながら踊り子号に乗って帰る途中、かつてこの地球で暮らしていた巨人族の宇宙人ゲルたちの思いが入ってきます。「(この地球に)私たちの理想の世界を作ろうと思ったのに、ペルが来て計画通りに進まなくなった」これには説明が必要ですね。ゲルは大昔、この地球に降り立ち(不時着し)、暮らし始めます。やがてこの惑星では人間たちの進化が始まります。ゲルたちは彼らとも共存し、緑や水を守りながら自分たちの理想の世界を作ろうとしたんですね。ところがこれを見た爬虫類系宇宙人のペルが「ゲルが地球で勝手なことをやっている」と訴えます。地球はペルの大好きな金など鉱物の宝庫でした。鉱物にあまり価値を見出さないゲルが地球に居座っているのが気に食わなかったのですね。ペルは進化しつつある人間に、後に武器などの技術や知識を与え、物欲などの価値観を植え付けます。実は、それらは人間に恐怖を植え付ける意味もありました。ペルには恐怖を食べている種もいるのです。加えて遺伝子操作もしたようです。それにより人間は短命になりました。この物語は、後にギリシャ神話のパンドラの箱や、旧約聖書のアダムとイブをそそのかす蛇(爬虫類)の話として語り継がれることになります。ゲルに言わせれば、これらのペルの干渉は余計であり、やりすぎでした。なぜならゲルは、人間たちとは仲良くやっているつもりだったからです。やがてペルに操られた(そそのかされた)一部の人間たちのはゲルを襲うようになります。巨人狩りですね。それらはジャックと豆の木の話や、ヤマタノオロチや鬼退治のような物語として語り継がれています。もともと体の大きさに差があることを不利だと思っていたペルの一部は、巨大なゲルやゲルが持っていた(飼っていた?)ドラゴンに対抗して、機械のドラゴン(鋼鉄のドラゴン)を造ります。こうしてペルとゲルによる、人間を巻き込んだ代理戦争のような諍いが地球規模で起こるようになってしまったんですね。理想の世界を作るというゲルたちの夢は無残にも打ち砕かれます。もはや地球で暮らすことはできませんでした。ここまでせっかく造ったのに、という思いで、彼らは彼らの築いたピラミッド巨石文明の痕跡を世界各地に残し、去っていったんですね。これでペルの邪魔者は居なくなりました。しかし、もともとペルたちも、「ゲルたちが地球に勝手に干渉している」と訴えて地球に干渉し始めたこともあり、地球に対してあからさまな干渉はできませんね。そこで、ゲルがいなくなった後の地球を見守るという口実で、ペルたちは間接的に、あるいは密かに地球に干渉し続けます。われわれは地球の監視役だというわけです。ペルはそれほど地球の鉱物がほしくてしょうがなかったんですね。でもゲルや他の宇宙人たちば、ペルのやり口はお見通しでした。彼らもまた、ペルに対抗するために間接的に地球に介入し、ペルの思い通りにさせないようにしてきたのです。そしてそのペルとゲルが和解したのが、2008年の6月24日であったことは以前ブログでもご紹介しました。もちろんこの和解に異を唱える一部勢力もいるでしょうから、和解の本当の効果はこれから徐々に現実界に現れるのかもしれませんね。まあ、大体このような物語でしょうか。でもこの物語は私たちが帰りの電車の中で見た白日夢のようなものですから、心当たりのない方は読み飛ばしてくださいね。こうして私たちは、キンメとアジの開きをお土産にして、一泊二日の下田の旅を終えたのでした。(終わり)
2010.09.23
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昨日、北海道の縄文遺跡の取材から戻って来ました。その取材の詳細は、後日お知らせするとして、羽根ラインに話を戻しましょう。東経137度11分の南北の羽根ラインと北緯35度23分の東西の羽根ラインがあることを前回紹介しました。で、今回の新著でさらに明らかとなるのは、岐阜県河合村の羽根と富山県婦中町の羽根の秘密です。どちらも東経137度11分の羽根ラインから少し外れていますが、何らかの関連性があるのではないかということはずいぶん前からわかっていました。とくに位山や天柱石と関係がありそうだと考えられました。そこで「竹内文書」に出てくる「聖地」を地図上で正確に結んだところ、一つの事実が分かったんですね。その聖地とはどこかというと、アメノニニギノスメラミコトの神殿跡であるとされる富山県横江の尖山、武内宿禰の墓があるとされる富山県高岡市の二上山、モーゼの三つ子塚があるという石川県の宝達山、天神第5代天一天柱主大神を祀った富山県平村天柱石、それに上古の神々が降臨したという位山です。本当にそういう「聖地」であったのかはここでは議論しません。大事なのは、「竹内文書」にそれらの場所が大事な場所、すなわち「聖地」として「記録」されているということです。そして今回、古代測量技術集団が使った三角測量点が羽根という地名として残った可能性が強いということがわかりました。つまり、こういうことです。婦中町の羽根は、天柱石と富山市の羽根を結んだ直線と、尖山と宝達山を結んだ直線が交差する、まさにその点にあるんですね。一方、河合村の羽根は、宝達山と位山を結んだ直線と、二上山、富山市の羽根、尖山の三点を結んだ直線に対して尖山から引いた垂線との交点にあります。この時、尖山と河合村の羽根を結んだ直線は、天柱石と婦中町の羽根と富山の羽根を結んだ直線と平行線にもなります。さらに言えば、河合村の羽根は位山からも白山からも等距離にある地点に正確に置かれた点でもあります。このような点は偶然であるはずはなく、古代測量技術集団が意図的に置いた測量点である、ということができるわけです。また、このとき浮かび上がる幾何学図形や垂線の引き方が、イギリスのストーンヘンジ、エイヴベリーの両複合体遺跡とその地域の最高峰を結んだ時にできる幾何学図形の描き方に非常によく似ていることがわかります。29ページの図1-2と62ページの図2-2ですね。似ているからと言って、同じグループがやったとは言えません。だけど、どうやら我々の知らない古代において、同じような測量技術や知識を持つ古代人が世界中にいたのではないかと推論することができるんです。ただしいつの時代かはわかりません。ブリテン諸島でラインを引いた人たちが、今から約5000年前の時代の人たちであることはわかっています。でも、羽根ラインを作った人たちがいつの時代の人たちなのかはまったくわかりませんね。越王オロチが日本を統治していた時代より前だとは思いますが、確たる証拠はありません。そこで、ちょっと発想を変えてみました。もし、5000年前の古代において地球規模の文明が既に繁栄していたのだとすれば、日本の縄文時代の遺跡にもその測量技術の痕跡が見いだせるはずではないかと考えたわけです。それが第五章に書かれている「縄文遺跡群と神秘の測量」です。高度な測量土木技術を持つ「縄文文明」が古代の日本にはあったのではないか、と。その手がかりが北東北と北海道の縄文遺跡にあったんですね。(続く)
2015.08.07
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知人の語る皆神山の神様の話と、出口王仁三郎の話との間には、似たところがたくさんあります。その一つが、いわゆる外八洲内八洲史観です。つまり日本で起こることは世界でも起こる、日本にあることは世界にもある、という神が作った仕組みがあるというんですね。拙著『正統竹内文書の「秘儀・伝承」をついに大公開!』でも紹介しましたが、出口王仁三郎は「神歌」の中で次のように語っています。「みづ清き金龍海の島々は、日出る国の雛形と、祝ひ定めて築きたり。日出る国の日の本は、全く世界の雛形ぞ。神倭(かんやまと)磐余(いわれ)の君が大和なる、火々真(ほほま)の岡に登り坐、蜻蛉(あきつ)の臀甞(となめ)せる国と、詔(のら)せ給ふも理(ことわり)や。我九州は亜弗利加(あふりか)に、北海道は北米に。台湾島は南米に、四国の島は濠州に、我本州は広くして、欧亜大陸其儘(そのまま)の、地形を止むるも千早振(ちはやぶる)、神代の古き昔より、深き神誓(ちかい)の在すなり。」確かに四国はオーストラリアに、九州はアフリカに何となく似ています。能登半島は逆向きのスカンジナビア半島でしょうか。伊勢はイスラエル?でも、こんなことを書くと、頭がおかしいのではないかとバカにされるのがオチですね。私も最初はそう思っていました。そんなことがあるはずはない、と。だけど「偶然は神だ」というんですね。偶然は神の演出だ、と。また、その知人が祖父らから聞いた皆神山に伝わる話では、神々は人間を試行錯誤しながら造る一方で、日本を世界のひな型にするように創造したといいます。まあ、人間を創造できるぐらいなら、日本を世界のひな型にすることなどは多分、訳のないことでしょう。そこで私も、それが本当の話だと仮定して、この仕組みをわかりやすく説明するために、日本を「足の裏」に譬えてみました。足の裏には、体のそれぞれと対応する「つぼ」があります。たとえば、右足の親指を押すと、左の頭の痛みが緩和され、逆に左足の親指は右の頭と連動しているようなんですね。不思議です。自分で試しても、足裏には、体のそれぞれに連動する場所があることがわかります。足裏マッサージをしてもらったとき、ある部分を押したらすごく痛くなり、「お客さんはどこどこが弱っていますね」とマッサージ師に指摘された経験は誰もがもっているはずですね。こう考えると、外八洲内八洲史観も、もしかしたら本当にそうではないかと思えてきます。本当かどうかはわかりません。でも、少なくとも、日本をイメージすることで世界をイメージすることが容易になりますよね。実は、これが非常に大事なことのように私には思えるんです。(続く)
2015.09.12
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秋の夕暮れ。夕陽の影が伸びるように、水面に映る夕日の反射も長くなったように感じますね。静かな秋の夕日でした。
2025.12.01
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▼竹内巨麿について(その2)浅見宗平は若いころより神理を学び、いつしか八百万の神々からもメッセージを受け取ることのできる宗教家になったという。洪水の予言、神の使者からの知らせなど彼が経験したという奇跡の数々は彼の著書『ふしぎな記録』シリーズ(一神会出版部)に譲る。浅見自身、巨麿とはまったく面識がなかった。ところが1964年7月、浅見が神様に朝の挨拶をしたところ、北の方で神様が呼んでいるような気がしたという。北の方とは、巨麿が管長を務める茨城県磯原の皇祖皇太神宮であった。そこで弟子二入を連れて、車で磯原に向かった。磯原に着いたのが夕方近くであったため、翌日神社に参拝することにして、旅館「磯原館」に投宿した。その旅館の主人は吉田正吉という市会議員で、たまたま巨麿と知り合いであった(正吉の養父は県会議員で天津教弾圧事件の詳細を書いた『神宝事件の回顧』の著者、吉田兼吉である)。そこで浅見が神宮参拝の旨を伝えると、吉田は「竹内巨麿先生は、今は誰とも会いません」と言う。どうやら竹内家の宝物をめぐって参拝者や文献学者にだまされ続けてきたせいで、人間不信になったようであった。それでも浅見は「明日私がお伺いすると(巨麿に)お伝え願いたい」とひるまない。あまりにも熱心に浅見が巨麿との面会を頼むので、吉田が巨麿に頼みに行くことになった。すると巨麿は「待っていたよ、待っていたよ」と言いながら拍手をパチパチと打ち始めたという。さらに巨麿は嬉々として吉田に告げた。「時機が来た。若き神様が来てくれる」吉田にとっては驚きであった。巨麿がこのように人に会うのを喜ぶ様子をついぞ見たことがなかったからである。翌日、浅見が神宮を訪ねると、年老いた巨麿(当時すでに90歳ぐらいであった)が拍手を打ちながら浅見を待っていた。巨麿は浅見を見ると、「来た、来た。若き神様が来てくれた」と笑顔で浅見を迎えた。建物の中に案内された浅見は神殿を参拝した後、巨麿に告げた。「本当に長い間、ご苦労様でございました。それにしてもこれほど立派な宝物や文献があるのに、どうしてこんなにさびれてしまったのですか」それを聞いた巨麿は「そんなことを言ってくれた人は一人もいなかったよ」と言う。巨麿の隣に座っていた妻のいつ(明萬)も口を挟んだ。「この人に宝物を見せるのですか?」巨麿は答えた。「この人は何も見なくても知っているよ」吉田や浅見の弟子たちにとっては、あっけにとられるような会話のやりとりであった。浅見と巨麿は初対面にもかかわらず、まるで旧知の仲であるかのようにお互いの素性を知り尽くしているようであったからだ。(続く)
2006.06.03
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これまで見てきたように、日向族系の神武と出雲族系のイスズヒメの政略結婚によって成立した統一王朝の王統には、他の多くの王統が集められたかのように記紀では意図的に記述されています。現実もそれに近かったのだと思いますが、かなり端折っているのは既に説明した通りです。神武の正妃イスズヒメの父親が「三輪の大物主」(ニギハヤヒ、コモリ)であるとしてみたり、事代主(クシヒコ、ツミハ)としてみたりしたのがいい例ですね。「大物主」「事代主」のどちらが正解というわけではなく、ニギハヤヒ、オオナムヂ、ナガスネヒコの系図を2、3世代以上省略しているからこのような表現で誤魔化したと解釈できます。つまり、細かい系図では違っていても、大まかに見ると「どちらも正解」と言い訳できるように書いているわけです。しかし中には、わざと誤解させるような表現を使った例もあります。オオクメの娘で神武の側室となったイスキユリヒメが正妃イスズヒメであるかのように描かれているケースですね。ここにも何か深い理由がありそうです。考えられるシナリオは二つあります。一つは正妃イスズヒメになかなか子供が生まれなかったので、臣下のオオクメが自分の娘であるイスキユリヒメを側室として差出し、あわよくばそこで生まれた子を王位継承者に仕立てようとしたのではないか、という疑いです。このプロットだと、なぜ『古事記』ではイスズヒメがイスキユリヒメにすり替わるのかが説明つくんですね。例えば、イスキユリヒメと神武の間に生まれた子をイスズヒメの養子にして、イスズヒメの子であるとしてしまった可能性はあります。既に指摘したように、養子縁組は結構多かったんです。もう一つの可能性としては、イスキユリヒメがその後どうなったのかという点と深くかかわってきます。というのも、『ホツマツタヱ』や『古事記』を読むと、父・神武の側室イスキユリヒメにタギシミミが横恋慕。神武の死後、タギシミミがイスキユリヒメを妻にしたことから「タギシミミの反逆」が起きたかのような記述になっているからです。正統竹内家の口伝でも、タギシミミは殺されておらず、逃げ延びたことになっているといいます。それから推測すると、タギシミミは父の側室であったイスキユリヒメといずこかへと駆け落ちしたのではないか、という恋物語が生まれそうですね。そうであったならば、「反逆者」と駆け落ちしたイスキユリヒメを消すために、イスズヒメと同じ人物に描いたのではないかとも推測することができます。こうした記紀編纂者の「ごまかし」の中で、かなり割愛されたナガスネヒコ一族の系図についても触れておきましょう。そのことに関連して実は、ナガスネヒコは兄弟であったという正統竹内家の口伝もあるそうです。戦闘で亡くなったのはナガスネヒコの弟で、兄は東北地方に逃げたことになっているといいます。これがのちの蝦夷につながるわけですね。偽書扱いされている古史古伝『東日流外三郡史(つがるそとさんぐんし)』では、ナガスネヒコは兄弟で東北に逃れたことになっています。いずれにしても、ナガスネヒコの残党は東北に逃げたので、タギシミミがイセツヒコ(キリスト)に東北征伐を命じたという話も現実味があるわけです。巧みに隠されていますが、兄弟で明暗が分かれた王統もあります。記紀で紹介されているエシキ(兄磯城)とオトシキ(弟磯城)です。罠を仕掛けて神武を殺そうとした兄のエシキに対し、弟のオトシキはそれを神武側に密告。それにより、エシキは自ら自分の罠にはまって死んだことになっています。オトシキはその功績を認められ、磯城(シキ)の国造となり、黒速と名乗り、その娘は綏靖天皇の正妃・カワマタヒメで、安寧天皇の母となったとの伝承もあるようです。確かに『古事記』では、磯城の県主(アガタヌシ)の祖先であるカハマタビメと綏靖の子が安寧であるとしています。当時磯城を支配していたのは軍功を立てたオトシキでしょうから、かなり可能性が高いように思われます。ちなみに『日本書紀』では安寧天王の母親はコトシロヌシ(ツミハ)の次女イスズヨリヒメということになっています。系図をどうしても隠せなくなったときには、イスキユリヒメとかイスズヨリヒメが「隠し玉」として登場することになっていたのかもしれませんね。ここまで来ると、もうなんでもありです。だから、この時代の系図には大事な人物が養子になったことにして多く隠されています。たとえば記紀では反逆者とされたタギシミミの息子キスミミ。『古事記』ではタギシミミの同母弟ということになっていますが、正統竹内文書の口伝では、反逆者の汚名を着せられたタギシミミの子としては不憫なので、神武の子ということにしたのだそうです。『古事記』では神武の長男とされているヒコヤイも、実は同書で神武の二男とされるカムヤイミミの子であるとの説もあります。天火明のときもそうでしたが、三人の王子が出て来たときは、要注意です。特にその後、三人目の活躍が記されていない時は、記紀編纂者が系図を改ざんするために仕組んだ罠であることが多いからです。こうして「神々(神話)の時代」がようやく終わり、神武以降の「伝説の時代」が始まるわけです。(後編に続く)
2015.04.12
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この日は当初の予定では、アスケイグ港からフェリーに乗って、コロンジー島経由でオーバンに行くはずだったのですが、前日メールでそのフェリーは急に船体の点検をしなければならなくなったので欠航となったと知らせがありました。その代わり、アスケイグ港からではなくアイラ島の南にあるエレン港からキンタイア半島のケナクレイグに渡り、車でオーバンまで行ってくれとと書いてあります。直前になっての大変更です。メールを読める環境になければ、当日港で変更を知らされて、慌てるところでした。メールでは12時15分までにチェックインを済ましてくれとかかれたありましたから、時間的な余裕はありました。そこで地図を見て、バリナビーという場所に立石があることを知って、そこを見てからエレン港に行くことにしました。バリナビーに到着。しかし、どこを見ても立石は見当たりません。もうちょっと詳しい地図を持っていればわかったかもしれませんが、フェリーの時間もあり、探すのは断念します。その代わり見つかったのは、こちら。雉君でした。バリナビーから一気に南下して、港のあるエレンに到着。非常にきれいな街でした。フェリーの変更がなければ、多分来ることはありませんでしたから、ちょっと得した感がありました。こちらで1時間半ほどのどかに散策。こちらはエレン港。のんびりとフェリーが来るのを待ちました。(続く)
2025.06.23
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新宮大社をお参りした後は、その日の宿屋に向かったのですが、途中に面白い巨石があるというので立ち寄ることにしました。三重県南部の熊野市にある「花の窟(いわや)」です。すごい巨岩がそそり立っております。そこにあるのが、花窟神社。花窟は、神々の母であるイザナミが火の神カグツチを産むときに、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵であると書かれています。2004年7月に紀伊山地の霊場と参詣道の一部として世界遺産に踏力されました。花窟神社は、日本書紀にも記されている日本の最古の神社と言われているそうです。古来から聖地だったわけですね。同神社に祭られている丸石神。いかにもパワースポットという感じの場所でした。(続く)
2025.10.06
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今日はラクウショウとメタセコイヤの紅葉です。まずはメタセコイヤ。スーッとまっすぐに伸びていますね。ラクウショウとよく似ているので、時々間違えます。簡単に違いを説明すると、メタセコイヤの樹勢が円錐形で尖っている感じなのに対して、ラクウショウはやや丸みがあります。また枝に付いた小葉が左右対称形なのがメタセコイヤで、非対称で小葉が交互に出ているのがラクウショウという見分け方もあるようです。一番簡単なのは、根元の周りに生えている気根を探すことです。気根があるのがラクウショウです。で、そのラクウショウがこちら。ちょっと丸みがありますね。そして水辺のそばにあって、根元にはいくつも気根が出ています。色はほとんど同じ。場所によるのかもしれませんが、比較的ラクウショウのほうが早く紅葉し、メタセコイヤのほうが遅くまで紅葉している感じがします。
2025.11.28
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