勝海舟本人が語るままに、「海舟伝」を書いてきましたが、昨日の本人の112年目の命日を持って終了しました。
ここで
勝海舟物部義邦と、スサノオの尊(軍事、警備の神) 私、市川善彦との接点 を整理してみます。
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勝海舟の祖先である
須佐之男尊(以下、スサノオと略記)は、
日本列島に初めて国らしき国を建国した始祖王だったのです。
しかし、古事記・日本書紀は、スサノオの偉業や史実を抹殺し、
神話で誤魔化して暴れ神にしてしまったのです。
記紀が編纂されたのは八世紀。
その200年前、
六世紀にはすでに仏教が百済を通じて日本に布教し始め、弥生の古代から飛鳥時代まで、
スサノオの末裔・物部(もののべ)氏が奉じていた古神道が、
蘇我(そが)氏との熾烈な宗教戦争で敗退していたのです。
その後、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした、中大兄皇子の娘・持統女帝(?野讃良)と
権力者・藤原不比等のもとで記紀は編纂されたのです。
記紀の編者等は、物部氏を歴史から抹殺せんとして
スサノオ(物部氏の祖)の日向妻だった向津姫(大日霊女貴尊)=アマテラス
を皇祖神に差し替えたわけです。
そして、建国の始祖王・スサノオや皇祖天照魂神として祀られていたスサノオの御子で大和国建国の覇王・饒速日尊(ニギハヤヒ:大歳を改名)の史実を抹殺してしまったのです。
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人間スサノオは、BC188年頃に出雲沼田の郷士・布都の子として生まれました。
19歳頃、出雲木次の豪族・オロチを倒し、手込めにされていた櫛稲田姫(くしいなだひめ)を助けて娶(めと)り、須賀の地に館を構え、稲作や製銅・製鉄等の技術を住民に指導し、生活の向上技術を普及させたのです。
その技量と人柄を見込まれ、29歳頃には出雲国王に推されたのです。
スサノオは毎年、出雲・隠岐の族長を集めて技術指導を軸に統治し、合議制で出雲国を統治・運営しました。
出雲風土記は、「須佐之男は仁慈(じんじ)の名君だった」と称えています。
田畑を荒らす鳥獣を防ぐために初めて弓を創作し、
火をおこす鑽火器(きりびき)も考案しました。
資源や最新技術を確保すべく、次男・五十猛(いたける)尊を連れて朝鮮半島にも渡り、
優れた稲籾(いねもみ)をはじめ各種の木種、造船等の技術を手に入れて普及させ、農耕・漁業を振興し、出雲
の住民生活は大きく向上・安定したのです。
資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけたこともあります。
越前・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、
北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し和国(わこく)を創建したのです。
和国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略としたのです。
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オロチを退治した、宝剣「フツノミタマの剣」はその後、
神武天皇東征の折国土平定に偉功をたて、
霊剣(平国之剣、フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、
また饒速日命降臨に際し天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種とその起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、
この二神を物部連の遠祖宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめたのです。
その後、崇神天皇七年に物部色香色雄が勅を奉じて、石上布留の高庭に遷し祀り。
さらに、物部首市川臣が勅を奉じて、
素戔鳴命(スサノオ)が八岐大蛇退治に使用した天羽羽斬剣(十握剣)と、
その威霊である布都斯御魂大神を併祀し現在に至っているのです。
石上神宮は、武門の棟梁たる物部氏の氏神として古代史上重要なる地歩を占め,
また鎮魂の社として
朝野の人々から並々ならぬ信仰を集め,伊勢の神宮と並ぶ日本最古の神宮です。
『記紀』に石上神宮.石上振神宮と記され、『延喜式』では、石上上坐布部御魂神社として、
また通称石上社、布留社とも呼ばれ、貞観九年(867)に神階正一位に昇叙されています。
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☆ 石上神宮の初代宮司であり、大和朝廷の武官の長であった
物部氏 市川臣(現在、石上神宮の祭神の一柱)が、私の家の直系先祖であり、
勝海舟の遠祖でもあるのです。
勝海舟は、物部氏の祖である、
武門の神、スサノオの尊の子孫であることを誇りにして、常に物部守屋の像を
持ち歩き、祭神スサノオの尊である、赤坂氷川神社の近所に住み続け、毎朝の参拝を欠かした事が、なかったのです。
勝海舟は、武士階級の宗派の一つであった日蓮宗で葬られましたが、
家系が、神道であったので、神道還りを希望していたのです。
私は、無宗教ですので、
娘が、亡くなった時には家内の家の宗派である神道で、娘を送りました。
53歳で亡くなった、私の母の実家は、日蓮宗でした。
計らずも、日蓮宗⇒神道への宗旨替えとなったのも偶然を
装った必然であったのです。
海舟は、女癖が悪く、本妻以外に12名の愛人を作って本妻を泣かせましたが、
私の父も、同じ数の女性を作って母を泣かせました。
私は、父のような人間にはなるまい。
大人になっても家族を大切にしようと心に誓ったのです。
海舟の仕事が、幕府の軍艦奉行、陸軍奉行、明治政府の海軍卿と軍事警備関係であったのも、軍事の神スサノオの指導であったのです。
私が、自衛官⇒警備会社経営という職業である事も必然であったのです。
海舟は、幕末きっての雄弁家でありましたが、私も年間130回の講演を、させて頂く講演家でもあります。
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自己顕示欲が強く、俺が俺がで、他人の功績を横取りした。
女癖が悪く家庭をないがしろにした!! これが、死後、海舟の宿題として残りました。
ーーー以下、歴史上判明している勝海舟の実像です。ーーー
海舟の家系は、スサノオの尊の系譜である物部氏。
普段は、堅苦しいのが苦手で、
冗談連発の明るい性格だが、
江戸無血開城の時などここ一番では、驚くべき胆力を発揮した。
多弁で、大言壮語の癖があり、氷川の大ボラ吹きなどという渾名もある。
女好きである。(特に美女に目が無い)
自己顕示欲が強い。
文系人間で、古今東西の歴史と地理に詳しかった。数学は苦手だったが、実戦的経済には強かった。
彼が、好んで使った気運遺蹟とは、まさに私の理論である半分の法則の事。
幕府の軍艦奉行 陸軍奉行 明治政府の海軍卿など、一環して軍事警備畑を歩む。
船酔いをする。
東洋は団結して西洋に対抗すべしと唱えた。
名誉 地位 権力 財力に屈しない。 弱者(庶民)を愛していた。
誠心誠意(正心誠意)が、人の道である。というのが信条だった。
☆ 現世に生きる私と海舟は、上記の先天的要因や性格が、100%一致しますが、さらに下記の後天的要因も一致します。
海舟の誕生日1月30日(私は戸籍上は1月29日生まれですが、実際は30日の1時生まれ)
海舟の先祖の姓は、米山(家内の旧姓と同じ)
私の家の開祖である市川臣尊は、物部氏の祖といわれています。
私は、人生の節目でイニシャルkkさんに何度も助けられています。
海舟の子供たちは、ピアノ、カメラが趣味。私の子供たちも同じです。息子は、海舟の三女が、嫁いだ家が、創設者である、東京芸術大学を卒業しています。
海舟の人生で特に縁のある土地は、江戸と長崎と神戸と静岡です。 私は長崎出身、東京で就職、自衛官時代は静岡で勤務しました。神戸にも縁が、あります。
海舟の父、小吉と私の父の八方破れぶりは全く同じです。
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人の苦難や障害は、「先天的業」の修正と、
生まれてから身に付けた「後天的業」の修正のためにあります。
「運」が悪いなあ。。と嘆く前に、試練に「ありがとう!!」と感謝して、
その試練の意味する深いところを読み取って、以後の生活態度に活かすことです。
これこそが、自らを向上させ、ものすごいパワーを生み出す源なのです。
☆ 出逢いも、試練も、職業も性格も全ては、偶然を装った必然である事を知って下さい。
そうすれば、必ず開運の鍵が、見つかります。
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