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こどもの頃(1950年代)にあそんだ「いろはカルタ」、その札で気付くのが「ん」の札が無いことだ。これは、日本語で「ん」から始まる言葉が無いことに起因し、だから「しりとりあそび」が成立する。その「ん」の代わりの札が「京」だ。仮名札の中で「京」だけが漢字なのだ。 こどもの頃は、単に「ん」の代わりくらいに思っていたが。実は、「ん」の代わりに「京」が使われるのには、理由があるようなのだ。「ん」は「いろは」の一番最後の仮名だ。まさに、この一番最後に、「京」が使われる理由があるようなのだ。 カルタと同じくお正月のあそびに、「すごろく」があるが、その一つ「道中双六」と呼ばれるものは、その「京」が「上り」、すなわち最終ゴールなのだ。だから、「道中双六」の最終ゴールの「京」が、「いろは」の最終文字「ん」の代わりとなったのだ。 その「道中双六」の、元になった「バックギャモン」を源流とする「盤双六」も、奈良時代に伝わっていたとしても、当時の首都である「京」で熟成され、発展していった遊びであることを考えると、「京」とあそびの関係は深い。 もっとも、京の都に住む貴族を中心に流行った遊びが、地方へ広がったものは多い。これは、町や村に住む庶民と比べて、京の貴族たちには遊ぶための時間が豊富にあったからで、当然のことだ。 後の江戸時代になって、商人文化が大きく栄える大阪からも、当時の江戸を含めた地方へ、多くの遊びが広がったとされる。その大阪にも商人文化が栄える前の一時期、「京」があった。さらに、兵庫県や滋賀県にも京があった。 こう考えると、日本の多くの遊びは「京」があった関西から広がったと言える。もちろん、現代の京である東京都発信の遊びも、少なくない。それも含めて、「京」発信の遊び抜きにして、日本の遊びは語れないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.31
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「かわいい かわいい 魚屋さんままごと遊びの 魚屋さん」、可愛い魚屋さんどころか、本物の魚屋さんが一軒も無い町は珍しくないご時世、こどもたちの「ままごと遊び」に登場するのは、ケーキ屋さんかハンバーグショップくらいになってしまった。 かつて、ルアーフィッシングがこどもたちの間で流行った時期もあったが、今や、魚釣りや魚捕りを、普段のあそびとして楽しむことも少なくなった。都市部ではもちろんのこと、自宅の傍に、清流がある地域でも、その頻度は減っている。 そんな「魚」だが、こんなあそびが、かつて勤めていた学童(学童保育所)であった。それは、「魚鳥木(ぎょちょうもく)」だ。リーダーの「魚(ぎょ)」などのリクエストに、いち早く答えるあそびだ。 学童では、それを少しだけ変形して、「好きな学科」など、リクエストを変更して、チーム対戦型にしてあそんだ。普通の民家を使用していた施設の、雨の日の楽しみだった。 昔の中学生くらいが、学校の休み時間などに、黒板を使ってあそんでいたあそびに、「何とか偏」の付く漢字を書いていくあそびがあった。なかでも、「魚偏」の漢字には盛り上がった。 なぜなら、「魚偏」の漢字には、メイドインジャパンが多く。ある意味で「判じ物」であり「なぞなぞ」なのだ。だから「魚偏」の漢字そのものが、遊びであるのだ。 寿司屋、高級な所でなくとも回転寿司屋でもいい、そこへ行けば、湯呑みにはたいてい「魚偏」の漢字が書いてある。「なるほどなあ」と、日本の昔のおとなたちの、遊び心に感心しながら、時にはこどもたちに、そのわけを話してあげるのもいいだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.30
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昔は、大阪市のような都市部でも、乳牛から牛乳を搾っていた会社があったが、今ではおそらく無くなっているのかも知れない。また、乳牛や肉牛を飼う施設も国内から急速に消えつつある。そんな「牛」だからではないが、「牛」にまつわるあそびは多くは無い。 ただ、その独特で比較的に真似のし易い、牛の鳴き声は、こどもたちの鳴き真似の常連となっている。また、その鳴き声を模した玩具があった。小さ目の缶詰のような円筒状の玩具をひっくり返すと、牛の鳴き声が聞こえるのだ。昔は、日本製のものもたくさん売られていたが、ほとんど見かけなくなった。 これまた、都市部では、まったくと言っていいほど見かけなくなったのは、漢字で「渦」に似た「蝸」の「牛」と書く「かたつむり(蝸牛)」だ。同じ陸生の貝である「なめくじ」は、結構見かけるのだが、蝸牛は見かけない。 今、はるか沖縄の辺野古の海では、「海」の「牛」と書いて「(かいぎゅう)」とよぶ生物、ジュゴンが危機にさらされている。水族館で見るより、自然のままに、こどもたちに見ることができる素晴らしさを無くしてはならないだろう。 そう言えば、本土の海でも、まだもう一つの「海牛」である「ウミウシ」は健在だ。そして、それは「カタツムリ」と同じ貝仲間なのだ。「でんでんむしむし、かたつむり」「おまえの仲間は海にいる」 海から蝸牛の仲間が消え去らないうちに、蝸牛も陸に戻ってこい。都会に戻ってこい。そんな、こどもたちの声が聞こえなくもない、今日この頃だ。こどもたちの日々の生活やあそびにも、生物の多様性は必須なのだが、それが理解できるおとなであってほしい。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.29
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アーチェリーは知っていても、弓を知らないこどもたち、「弓」と言う字は読めても弓であそんだことの無いこどもたち、そんなこどもたちが多くなったと思われる「弓」。私がこどもの頃(1950年代)には、こどもがあそぶ玩具としても販売されていた。 と言っても、こどもたちが日々のあそびに使う玩具を買う駄菓子屋さんではなく、正月や縁日などの露店で売っていた。小型のものから大型のものまであり、大型はかなりの値段がした。 売っている弓とセットになった矢は、先にゴムの吸盤が付いているものだ。当然ながら、安全を考えてのことだ。だから、吸盤が良く着く専用の的も売られていた。だから、それらをまとめて買うには、日々のお小遣いでは無理だった。 だから、多くのこどもたちは、自分で弓を自作したりもした。竹に凧糸を張って作った。もちろん、矢の先に付ける吸盤が無いので、弓矢であそぶ時は、こどもなりにも安全を考えてあそんだ。けっして人や動物などを的にはしなかった。それが、出来ていたのも昔のこどもたちのいいところだ。 弓を扱っていれば、気が付くことだが、弓は竹やカーボンなどで出来た本体部分の弾力と弦(つる)部分の張力の二つにより、矢が飛ぶことが理解できる。また、「張る」や「張力」に使う「張」の字義も理解しやすくなる。 自作は無理でも、アーチェリーなどでもいいので、「弓」と言うものを、こどもの頃に、一度は体験させたいものだ。なお、弓の弦が、ゴムでできていると誤解しているこどもたちが増えたのは、弓を手に取ることが減ったからだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.28
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「帰り道は遠かった 来た時よりも遠かった」、こんな歌い出しで始まる歌があったが、こどもの頃、トンボ捕りに出かけた帰り道を思い出す。行きは早くトンボを捕りたいと言う気持ちが距離を忘れさせる。帰りは、意外と遠くまで来ていたことを実感させる。もう50年以上も昔の思い出だ。 「通りゃんせ」の歌詞「行きはよいよい 帰りはこわい」も、同じ意味合いを持つのかも知れない。ともかく、帰りは遠くも怖くも無いけれど、思い切り楽しくあそべた時は、名残りが惜しいものだ。そんな「帰り」だが、あそびには必ず出発点に帰らなければならないあそびもある。 例えば、「ケンパ」や「石けり」がある。特に、「石けりケンパ」では、「行き」と「帰り」の状況の変化が、あそびをより面白いものにしている。「行き」は石をマスに投げ入れて、そのマスを跳び越し、「帰り」は、その石を拾って帰る。これは、どちらかと言えば、「行き」が怖くて「帰り」が楽となっている。 行って帰るあそびには、「どこ行き」や「買い物あそび」など、石を投げ入れた指定に従って、指定の目的地や、指定の品物を持って、出発点に早く帰ってくるあそびがあった。とんでもない遠くの場所や、ヘビが一匹などの難題も出されたりもした。 日が暮れるまで思い切りあそんだ後に、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・・・お手々つないでみな帰ろ」、こんな光景、今ではなかなかお目にかからない。その一方で、夕方になってから塾へ行く小学生もいる。こんな場合こそ「帰りは怖い」のだが、それが堂々とまかり通る.。変な世の中になったものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.27
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まずは、私が学童保育所の保育師(指導員)を始めた、30年以上前の記憶から話をすすめる。この学童(学童保育所)では、私が保育師になったのをきっかけに、夏休みのキャンプが初めて取り組まれるようになった。その時の話がそれだ。 キャンプには、補助指導員として、ある子のお父さんに付き添ってもらった。夜のこどもたちのお楽しみ、「キャンプファイヤー」の時、あるゲームを、そのお父さんから教えていただいた。 そのゲームは、「八百屋さん」「やおやのお店」というものだった。このゲームは様々なバージョンがあるが、その中で、次々と八百屋さんのお店に並んでいる品物(野菜)を、次から次へと加えながら、記憶していくバージョンだった。その時が初めてのゲームにも拘わらず、大いに盛り上がったゲームとなった。 このように、品物あるいはその数を含めて、どんどん記憶する量を増やしていくあそびは、「注文ゲーム」「出前ゲーム」など、いろんなあそび方がある。算数の「九九」の暗記に苦労している子も、このゲームでは楽しく記憶する。 この言葉の記憶とは違った記憶のしかたをするあそびも多い。最もシンプルなあそびは、トランプの神経衰弱だ。また、百人一首によるカルタ取りも、記憶のゲームだ。もちろん、普通のカルタ取りも、記憶がものを言う。 あそびには、記録を意識するあそびも数多い。だんだんと跳び越える高さを上げていくゴム段跳び、見方を変えれば早口言葉も、早く言う「記録」に挑戦する。もちろん、こうしたあそびでは、実際に記録をとることは稀で、自分の記録を記憶に留め、記録の更新に励むのだ。 今、高齢化社会を迎え、認知症予防やリハビリに、こどもの頃の記憶を呼び起こす様々な取り組みが行われているが、こどもの頃のあそびほど、直ぐに呼び起こせる記憶はないだろう。 楽しい記憶は長く残り、悲しい記憶は早く消え去るものだ。この点で考えても、こどもの頃に十分に楽しくあそぶことは、人間にとって大事なことだ。そして、より大事なことは、そんな効果はもちろんのこと、学習効果や運動能力効果など、何の効果も意識しないで、無心に楽しくあそぶことが、逆説的にそうした効果をより大きくするのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.26
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あそびと言うのは、そこに使われるいろんな言葉が、どういう意味を持っているかに関係なくあそばれるが、ふと何気なく使っている言葉に、気を留めることもある。そんな言葉の一つに「どう馬」の「煙突」があった。 「どう馬」とは、馬跳びあそび一つで、壁にもたれて立っている先頭の子の股ぐらに頭を突っ込み、その股ぐらに頭を突っ込むことを繰り返し、長い馬の列を作り、その馬に相手チームの子が乗っかると言うあそびだ。その先頭の子のことを「煙突」と言うのだ。 こどものころ、この「煙突」なぜそう言うのかがピンとこなかった。真っ直ぐ立っているから「煙突」と言う程度に考えていた。それから、何十年も経って、これが「汽車」の煙突を意味していることに思い至った。おそらく、正解だろう。 長く連なった馬は「馬」ではなく、汽車が引っ張る客車などの列車なのだ。だからその先頭にあるのは「汽車」の煙突なのだ。やっと長年の疑問が解けた感がある。おそらく、団塊の世代の私より一世代前のこどもたちなら、直ぐに思い付いたかも知れない。 それほど、団塊の世代がこどもの頃(1950年代)では、電車が主流で、奈良などでは汽車が現役で走ってはいたが、乗ることはそんなには多くは無かったし、実際にも当時の汽車の煙突は、長い形式のものではなかった。だから、「煙突」と言えば、工場の煙突くらいしか思いつかなかったのだ。 そんな汽車だとは言っても、やはりこどもたちにとってはあこがれの車両だ。だから、両手を汽車のクランクのように前後させて、汽車ごっこなどもよくしてあそんだ。また、汽車の走る音を真似るあそびもあった。 少し以前に、トヨタPASSOのコマーシャルで、仲里依紗さんと川口春奈さんが口ずさんでいる「あそび歌」の「でんでらりゅうば」にのせて、行っていた「手遊び」と全く同じものを「汽車」と呼んでいたあそびもそうだ。 今や、本物の汽車に乗る機会は、極めて少なくなった。そんな今の時代、このあそびで、「汽車」を連想するこどもたちはいないかもしれない。もちろん、そのあそびを机などの上で行わないと、汽車の音は聞こえてはこないのだか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.25
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いまだ根強い人気のある顔文字、これも遊びと考えていい。顔が文字として成り立つのも、人間の表情の豊かさにある。その中でも、最も人間の心を和ます表情は笑いだ。変顔のように、故意に変な顔を作ってあそぶこともある。 その変顔を、目や口などの顔の一部分のパーツを使って楽しむあそびが「福笑い」だ。最近、この「福笑い」と言う言葉を知らないこどもたちも増えてきている。このあそび、一人であそんでもつまらない。相手がいて、その相手が変な顔をつくるから、面白いのだ。一人あそびを余儀なくされている今のこどもたちには不向きなのかも知れない。 実際に、変な顔を作るあそびも昔からあった。「上がり目下がり目」の「ニャンコの目」がその代表格だ。これは、自分の顔でやるのだが、乳児や幼児など、相手の顔を使って行うあそびもある、広い意味での「あやし遊び」の一種だ。 顔を造るあそびは、いろいろあって、紙を10ページ程度のノート状にして、その各ページを4段程度に切り込みを入れ、その一つずつに、様々な額、目、鼻、口などを分けて書き込み、それをモンタージュ写真のようにしてあそぶあそびがあった。 駄菓子屋さんでも売っていたが、私などは自作して楽しんだ。もちろんのこと、一人で楽しむより仲間と楽しむのが一番で、クジの様にして相手にパーツを選ばせて、出来上がった顔を楽しんだりもした。 これらのあそびは、その全てに本物の笑顔が生まれる。もっとも、これらのあそびに限らず、あそびはこどもたちの笑顔で満たされる。「知育遊び」なるものを強制されて、しかめっ面をしている子は、本当はあそんではいないのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.24
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漢字にちなむあそびを綴っていて困ることも多い。それは、その漢字に適当なあそびが見つからない時だ。その一つがこの「岩」と言う字だ。もちろん、岩場に登ってあそぶとか、岩魚(いわな)を釣るとかがあるが、それでは面白くない。 さて、そんな「岩」だが、今のこどもたちは、こんなお菓子を食べても喜ばないだろうと思えるお菓子があった。大阪名物のお菓子だが、ご当地大阪のこどもたちでも、今はほとんど知らないお菓子となっている。 そのお菓子の名は「岩おこし」だ。大阪は掘の多かった町で、その堀を掘る時に大きな岩がゴロゴロ出てきたそうだ。その岩を起こすことから、「岩おこし」と言う名が付いたそうだ。「岩」と言う名の通り、極めて固い菓子だ。堅い食べ物に慣れていた昔の子ですら、固くて敬遠したくらいだから、柔らかい食べ物に慣れた今のこどもたちには、好まれないだろう。 次に、紹介する「岩」にまつわるあそびだが、あそびと言うより、私がかつて学童保育でこどもたちに試した「言葉あそび」だ。極めてつまらないものではあるが、こどもたちには受けたので紹介しておく。 こどもたちは、怖がりなくせに怖い話が好きだ。そんなこどもたちを相手に「お岩さん」が登場する「四谷怪談」を聞かせてあげると声かけした後、次のような話をはじめたた。 「昔ある所に、お岩さんと言う女の人が住んでいました。お岩さんが歩いていると、前に階段があった。そこでお岩さんは、階段の段を数えながら登ったそうな。(恐ろしげに話す。)『ひとーつ、ふたーつ、みーっつ』」(少し間をおいて)『よっつやかいだん』チャンチャン!」 こう言う単純なあそびが成立するには、それなりの理由があった。当時勤めていた学童保育所は、普通の民家を借りていたので、雨の日などは、部屋で暴れると近所迷惑ともなるので、なるべく静かにあそぶようにしていた。 そんな取り組みとして、本物の怖い話を何度も、こどもたちにしてあげていたのだ。だから、話始めはいつもと同じような話し方で始めるので、前記の他愛も無い「言葉あそび」が成立するのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.23
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ボール、ビー玉、おはじきなど「丸」にまつわる玩具は数多い。「丸」は、こどもたちが生まれて初めて描く、形のはっきりした図形で、好きな図形でもある。まずは、そんな「丸」とは、少し違った視点から、あそびと「丸」を見ていく。 紙などに描いた3×3の9マスであそぶ三目並べ「○×(まるばつ/マルペケ)」、それで使われる図形の一方が「丸」なのは、このあそびの元になった「五目並べ」を模したものと考えていい。 それなら、「白丸/○」には「黒丸/●」が相場だが、実際には「×」なのだ。おそらく、●では丸の中を塗り潰すのに手間取るからだろう。 さて、その「まるばつ」の元になった「五目並べ」の石、そのまた元を正せば囲碁の石は、なぜ丸形なのだろうか。そのなぞは、「石」にある。囲碁が石ころを並べるあそびから始まったと考えれば、自然の石ころは角が取れて、比較的に丸に近い形になるからだ。 それに、この「丸」と言う図形、四角形と違って方向性が無いのだ。四角形だと、並べる際にその角の向きが気になる。おそらく、並べるにも角の向きを揃えないと、キチンと並ばない。「丸」はその心配が無いのだ。 さて、石の角が取れて丸くなることは、飴玉が丸いこととも関連性がある。ようするに、丸い形をつくるには、転がせばいいのだ。河原の石が流れで転がって丸くなるように、飴も冷えないうちに転がせば自然と丸くなる。同様に、ビー玉も概ねそうした方法で作られる。 この「丸」の方向性の無いことは、ビー玉などの製法だけでなく、おはじきが丸形であることも、関係している。もし、おはじきが、四角形などの多角形では、おはじき同士が当たった時、跳ね返る方向の、規則性が見つけ難いことともさることながら、やはり角が有ればあたると壊れやすい欠点となる。 角は、その部分に弱い個所を持つことで、それ故に河原の石は丸くなる。反対に、丸い形状はその弱点がない。ぶつかりに強いのだ。だから、弾いてぶつけるようなあそび方のある、ビー玉やおはじきは、丸形が長持ちするのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.22
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あそび時間、あそび空間(あそび場)、あそび仲間の、「あそびの三間(さんま)」については、このブログで度々取り上げてきているので、このシリーズでは、あそびにおける「間(ま)」について、綴っていく。 落語や漫才における「間」、剣道などにおける「間合い」と、日本では、この「間」を重視する。時間的な「間」、空間的な「間」、そして精神的な「間」、人間関係の「間」など、対象とする「間」には、いろいろある。そして、それらの「間」は、人間が社会生活を円滑に送っていく上で、大切な「間」となっている。 今、こどもたちをとりまく社会では、過保護や過干渉、いじめ、不登校、引きこもり、虐待、自死など、様々な問題が起きている。それらには、それぞれ固有の原因もあるが、「間」と言う観点で眺めてみると、共通して、この「間」のとり方の問題となっている。 この「間」のとり方で大事なのは、その「間」が何秒・何分・何時間、何メートルなどの数値では表わせないのだ。もちろん、個々の特定のケースで、その間隔は納秒くらいが最適だとか、何センチメートルくらいが望ましいとかは、ある程度想定できる。 しかし、ほとんどの「間」は、その対象とする相手、どのような「間」か、個々それぞれのケースで、違うのだ。同じこどもが対象であっても、相手が母親と父親とでは、人間関係の「間」のとり方が違うし、こどもの精神的な状況によっても、適切な「間」は変化する。 では、このように多種多様な「間」を適切にとるにはどうすればいいのだろうか、それはまさに、経験・体験を摘むことだ。言い換えれば、生活体験をどれだけ豊かにするかが、極めて大切になってくるのだ。 そして、こどもたちにとって、この「間」を実践的に学んでいく場が、あそびなのだ。こういう性格の相手と、こういうあそびをするには、相手との精神的な「間合い」は、このあたりなのだと言うことを、あそびで実践経験を積むことで学ぶのだ。 さらに、小学生以上のこどもたちにとっては、学校での勉強という時間が、日々の時間で大きな比重を占めてくるので、あそびそのものが、こどもたちを解放したり充電したりする、重要な「間」ともなるのだ。この「間」の無い忙しすぎるこどもは、どう考えても好ましいことでないのは明らかだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.21
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「活字離れ」が急速に進んでいると言うが、確かに紙に印刷された文字媒体を読む機会は、おとなもこどもも少なくなっているのは確実だ。その一方で、ネット閲覧、電子メール、LINE、Twitterなど、電子媒体による文字を読む機会は格段に増えている。文字を読む総量では、一概に減少しているとは断定できない。 特に、こどもたちのあそびにおいては、文字を読むことはともかく、文字を書く、と言っても「打つ」や「入力する」機会、言い換えれば、文字を使って何らかの文章を作る機会は、紙と鉛筆時代と比較して、断然増えているかも知れない。 しかし、ここで問題なのは、「話し言葉」と「書き言葉」との垣根が無くなると言うことだ。それは、それぞれの表現方法が、混同されると言った問題だけの、単純なレベルではないのだ。 話し言葉である音声言語は、基本的にはその場限りの言葉となるが、メールやTwitterなどを通じて、「話される」話し言葉は、文字として、意図的あるいは不可抗力による削除なしには、ほぼ永久に消え去らない。 こどもたち否、おとなも含めて、あそびに熱中してくると、時には相手を揶揄したり卑下したり、時に傷付ける言葉かけは、普通に見られることだが、音声による話し言葉は、直ぐに消え去ってしまう。それは、そのことを忘却させやすくもしている。 しかし、メールやツイートは、なかなか消え去らない。もちろん、メールは削除することも可能で、ツイートも少なくともブロックして、見えないようにすることもできるが、相手のブログやタイムライン上では、残ってしまう。 しかも、一旦「拡散」という段階に進むと、何十人、時にはそのレベルを遥かに超す、悪辣な言葉が氾濫することとなる。通常の会話では、何百人から同時に悪罵を受けることは極めて稀なのだが、電子媒体では、それがいとも簡単に成立し、しかも目に見えるのだ。 その意味では、こどもたちがあそびとして、電子媒体を通じて言葉をやり取りすると、大きなリスクも覚悟しなければならないだろう。もちろん、電子媒体は、賢く活用すれば、大きな成果も生み出す。 人間が活字という素晴らしいものを発明したことにより、万人が情報を共有できることを容易くした。本などの書き言葉は、ほぼ永久に消えないからこそ、細心の注意をはらって文章が綴られる。それは、漫画本もそうだ。 紙に印刷したものを読むことは、そうした練るに練られた文章に接することになる。その意味では、活字離れは、大きな社会的損失と言ってもいい。こどもたちこそ、良い活字媒体をあそびの中でも、出会い触れ合う機会を増やすことが望まれるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.20
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遊びは楽しいもの、楽しむために遊びがある。そんな「遊び」は、「楽」とは切っても切れない関係にある。そんな「楽」の付く、あそび関連の言葉を探すと、「独楽」が見つかる。玩具の回すコマだ。 確かに、コマは独りで回しても楽しい。しかし、特にこどもたちにとっては、、やはり仲間と一緒に楽しむのがいいし、実際にも、多くの場合、何人かでコマを回して楽しむ。長く回すことや、相手のコマを倒したり、盤から弾き出して楽しむ。たとえ「独楽」であっても、集まって集団となれば、それは集団あそびと変化する。 「楽」の付く遊び関連の言葉には、「楽器」がある。学校で習い始めた頃、ハーモニカや縦笛を吹きながら下校するこどもたちによく出会う。もちろん、復習しているわけではない、楽器を楽しんでいる。それは、あそびなのだ。 草笛、指笛、紙笛など、簡単に楽しめるあそびも、昔からある。しかし、それらは、こどもたちのあそびには、ほとんど見かけなくなった。そんなあそび方があることも知らない子も少なくない。 次から次へと、「知育玩具」が考案・発売され、様々な「知育遊び」と称する遊びがはびこるご時世だが、それほどの効果も無く、その多くは一過性のものとなっている。 あそびに、勉強を上乗せすることは、あそびから楽しみを奪うことでもある。楽しみを奪われたあそびが、長続きするわけがない。もし、楽しくないあそびを長続きさせている子がいたなら、それもまた、こどもたちにとっては不幸なことだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.19
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こどものあそびで、今ではほとんど見かけなくなったが、最近はゲームソフトの「妖怪ウォッチ」の派生製品が大きなブームを呼び、脚光を浴びるようになった「メンコ」だが、そのメンコを含め、メンコの主流は、丸型の「丸メンコ」となっている。 しかし、少なくとも私のこどもの頃(1950年代)の大阪市北部では、角型のメンコ、一般的には「角メンコ」と言うが、それが主流だった。丸メンコは、むしろ珍しいメンコであって、ほとんどあそぶことは無かった。 さて、メンコの直近のルーツは、泥で固めた「泥面子(どろめんこ)」だが、泥面子は、その名の通り、様々な顔の形をしたものだった。後に昔の貨幣の「銭」の形をしたものが生まれるなどして、概ね丸形の泥面子が普及するようになる。今の丸メンコは、この流れを引き継いでいるのだろう。 その後、紙製の丸メンコの普及に伴い、あそび方も増え、さらに丸メンコは裁断により、余って放棄される部分が出るので、それよりも四角いメンコなら、捨てる部分が全く出ないように裁断できることにより、角メンコの普及が進んだと考えていいだろう。 もちろん、角メンコの誕生には、それまであったカルタや花札などの、メンコあそびへの転用が考えられるが、少なくとも戦時中あるいは戦後直ぐの時代、資源不足の頃に角メンコが、大きく普及したことは、大いに考えられる。 さて、角メンコと同じ、四角い紙製品として、日本の伝統的なものに、「折り紙」がある。これは、正方形と言う、極めて特殊な四角形となっている。この形は、四角形の中で最も対称軸が多い図形となり、それ故に対称の要素の多い、造形が可能だ。 特に、正方形の角を真半分にして折ると、ピッタリと重なる三角形になる特徴は、折り紙作品の造形の美しさだけでなく、その美しさの多様性まで可能にしていると考えていい。 折り紙の角と角とピッタリと重ねることで、角の二等分線や、線分の二等分線を簡単に作れる。また、この性質は、角メンコの製造における裁断による無駄を少なくし、なおかつ、どのメンコも全く同じサイズのメンコの作成を可能にしている。 当たり前のことではあるが、正方形や長方形が持つ、この素晴らしい特長、なぜか、神秘的な思いさえ抱かせる。そんな「角(かく)」と「角(かど)」に、思いを馳せるのも、私の楽しい遊びとなっている。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.18
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外あそび一般につては、このブログでも様々な機会に取り上げてきたので、ここでは、あそびにおける「外」について、見ていくこととする。「外」が、あそびの展開の中で大きな意味を持つものに、ドッジボールがある。 ドッジボールのルールにはいろいろあるが、多くの場合、最終的に内野と言う、コートの枠内に、残っている人数が多い方が勝ちとなる。言い換えれば、敵にボールを当てられると、アウトになって外野へ出る。アウト(out)だから「外」なのだ。いや、その反対かも知れない。 このように、あそびにおいて「外」が、アウトや敗者を意味する事は多い。相撲やベーゴマはもちろんのこと、石けりケンパでも線から外は、それが石でも足でもアウトとなる。冬のあそびの一つ「押しくらまんじゅう」にも、相手を円の外に出すあそび方もある。 もちろん、反対に、「かごめかごめ」のように、輪の内がアウト的な位置づけのあそびもあるが、それは例外と考えていいくらいに、あそびにおいては、「外」は、あまり良い意味を持たされてはいない。 しかし、そんな「外」だが、ドッジボールのルールには、外野から相手を当てれば復活して内野に入ると言うルールもある。敗者復活のルールのあるものも、あそびにおいては意外と多いのだ。 それに限らず、チーム対戦型のあそびは、「宝踏み」のように内外野交代などの攻守交代が頻繁に起こり、なおかつチームそのものも適時、チーム分けが何度も行われる。 このように、あそびには「内」と「外」が絶えず入れ替わり、こどもたちは、そのことにより、様々な立場を、身を持ってあそびの中で経験する子となる。 そのことに、チームの組み換えが加わり、いろんな個性を持ったこどもたちと、共通の目的を持って協力することも覚える。だから、そんなあそび方が続いている限り、余程のことがないと、特定の子を仲間外れにはしないものなのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.17
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手が自由に使いこなせるようになって、急速に絵を描くことが好きになり、やがて急速に絵が大嫌いになっていく。そして、おとなになると、ほとんど絵を描かなくなるのが、ごく一般的な人たちの特徴だ。そして、この一連の流れに、日本における「絵」や芸術に対する、ある意味でおかしな風潮を見ることができるのだ。 絵を描くことをはじめとした芸術活動は、本来はもっとも自由な活動であるべきなのだ。それは、生活維持のための情報伝達手段としての絵は別にして、楽しむための絵、すねわち芸術としての絵は、広義の遊びとして生まれたのだ。遊びは、やるやらないを含めて自由な活動なのだ。 だから、自由な意志で始まった、こどもたちの絵は、後に学校の教科としての絵、すなわち課業・課題としての絵、言い換えれば、描かせられる絵が、始まり、成績や評価の対象となり、時には「下手な絵」との評価も起きる。これがあそびなら、絵を描くのを止めれば良いが、教科の絵は、それを許さない。 ましてや、美術科という教科になれば、描くこととは無関係な、作家や絵の題名さえ、覚えることを余儀なくさせられる。もちろん、素晴らし画家の絵を知ることは大切だが、それはその絵を鑑賞することが大切で、画家や作品の名はどうでもいいのだ。 もし、教育として、こどもたちの絵画の才能を伸ばすには、教科として教えるよりも、自由に、これは描く描かないを含めての自由だが、その自由が確保された絵画活動、すなわち「広義の遊び」としての絵を、徹底して行えばいい。 もちろん、絵にこだわることも無い、彫刻でも彫塑でもいいし、音楽でもいいのだ。あらゆる芸術分野の活動を、純粋に楽しむ活動を行えばいいのだ。絵が苦手でも、歌が得意な子、書は嫌いでも絵が好きな子、いろんな子が有っていいのだ。 芸術としての絵が、遊びの絵として生まれ発展してきたことを考えれば、こども期にあそびとしての絵を、十分に満喫できるだけの、時間をこどもたちに確保すれば、その他のあそびで素晴らしい体験をした子なら、きっと素晴らしい絵を描くだろう。もちろん、それを歌で、あるいは文章で表現する子もあっていい。さらにさらに、お絵描き歌を歌いながら絵を描くなんて最高ではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.16
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四方を海に囲まれた日本は、本来は海にまつわるあそびは多い。しかし、残念ながら、大都市の大阪に生まれ育った私は、団塊の世代にあっても、海のあそびの思い出は少ない。こどもの頃に住んでいた町は、大阪湾に流れ込む新淀川の河口にも近かったが、大都市部の河口は護岸が邪魔をして、こどもがあそぶ場ではなかった。 団塊の世代がこの状況だから、自然海岸がすでに50%台に減少した現代では、自然の海岸であそぶ機会はぐっと減っているのではないだろうか。都会の子なら、それでも仕方が無いかも知れないが、せっかく自然の海岸がある地域のこどもたちは、海であそんでほしい。 さて、その海にまつわるあそびで、「海ほおずき」を使って笛にするあそびがあった。と言いながらも、私はその本物の「海ほおずき」や、本家である植物の「ほおずき」を使った「ほおずき笛」の経験は、ほんのわずかだ。 その当時(1950年代)は、すでにゴム製の「ほおずき笛」が駄菓子屋さんで売られていたので、専らそれであそんだものだ。この「ほおずき」も「海ほおずき」も、そしてゴム製「ほおずき」も、今や、そんなものであそぶ子は、ほんのわずかだろう。 こんな状況の海に囲まれた島国日本の状況だが、生まれも育ちも都会の子であった私が、海で最も感動したエピソードを一つ記しておく。都会っ子であった私も夏休みには海に行くこともあった。母の実家の近くにも海があった。母の実家は、先の震災で大きな被害を受けた神戸市の長田区にあり、すでに都市ではあったが、まだ歩いて行けるところに海が有り、浜辺がまだ残っていた。 ある日、珍しく夜の海に連れて行ってくれたのだ。それは、おそらく母が私に見せたかったのだろうと、今は思える光景が待っていたのだ。浜に波が打ち寄せる度に、海面が光るのだ。そう、「海ほたる」だ。 もちろん、今でも、見ることもでき、私も各地の海で見ることもあるが、あの時の感激は、大きくなってからの感激を遥かに超えるものだった。そして、その浜辺も、今はコンクリートの護岸と変貌した。二度と見られなくなった光景となってしまった。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.15
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「渦巻きジャンケン」や「へびジャンケン」など、端と端から走り出し、出会ったところでジャンケンをして、勝てば進めると言うあそびがある。同じあそびを、公園などの上が平たくなって平均台のようになったコンクリートの柵の上でやることもある。 こうしたあそびに限らず、多くのあそびは、あそび相手と会うことで実現する。こんな当たり前のことが、昔に比べて格段に難しくなっているのだ。もちろん、あそび相手と会ってあそぶことが、まったく無くなったわけでもなく、こどもたちはそうした仲間とのあそびが大好きなのだ。 それでも、先日の大雪で帰省先から自宅へ戻る交通機関がストップし、「明日、塾に行けない」と、インタビューに答える子が、何人もいたように、塾や習い事は、同じ地域内でも、日々の生活パターンが違ったこどもたちを大勢つくりだした。 小学生なら、日々の放課後の自由な時間が、こどもたちそれぞれに違うのだ。同じ自由な時間帯を共有できる仲間が、見つかり難くなったのだ。当然、あそび仲間と会うことができなければ、あそべない。結局、誰とも会わずにあそべるゲーム機を相手にする。 昔は、竹馬やコマ回し、そしてビー玉やメンコなど、あそびの技術やあそび方を会得しなければあそべないあそびが多かった。もちろん、ゲーム機もそれなりのあそび方や技術が必要だ。しかし、それはあそび仲間と会わなくても得られる。 昔のあそびの多くは、実際にあそび仲間と会してあそばなければ、あそび方は覚えられないし、あそびの技術も上級者の技を見て盗み取れないのだ。だから、こうした会うことが必須なあそびは、会うことが難しくなっては、伝承されないのだ。かくて、多くのあそびは、「会う」が原因で「昔」あそびと化してしまったのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.14
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こどもたちは、回っているものが大好きだ。この世に慣性という性質がなければ、こんなにも回るものに惹きつけられないだろう。しかし、自然界には、意外と回っているものは少ない。だから、偶然見かけた「回る」を再現しようと工夫し始める。 たとえば、木の枝から落ちたドングリが、偶然に地上でクルクル回っていたのを見て感動した、太古の昔の人間は、それを再現してみた。最初のコマ回しは、こうして始まったのだろう。 それ以後、よく回るように、長く回るように、工夫改良を加えてきた。その結果、現在ある多くのコマが生まれた。ヒモを巻きつけて回す。指でひねってまわす。まわした後、ムチなどでしばいて回す。様々な、回し方をするコマが生まれたのだ。 ここまでは、こどもたちがそれなりにコツをつかみ、練習もして回す技術を身に付けることで、コマを楽しむことができた。しかし、ついに人間は、工夫も練習も必要としないコマを発明した。名前は、昔の「ベイゴマ」をもじったものだ。 このコマ、一時的なブームを巻き起こしたが、やがて急速に下火となっていく。誰でも回せるベイゴマ、それは魅力でもあるが、弱点ともなる。誰でも回せることは、こどもたちのあそびとしては、けっして魅力的ではないのだ。 昔のコマは、誰よりもうまく回せるには、練習も工夫もいる。だから、うまく回せるようになった達成感、他の子より長く回せた優越感、多くのあそびが持っている、他者との競争、しかもそれは、自分の努力で勝ちとれる。これこそ、コマ回しの大きな魅力の根源なのだ。 手に持てるものは、大概は回すことができる。かつて勤めていた学童保育所のこどもたちは、近所の酒屋さんで、酒瓶のフタをもらってきて、回していた。もちろん、回す競争もあった。そこには、あそびのもつ素晴らしさが満ちあふれていた。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.13
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画鋲と言うより、押しピンと言った方が、わかりやすい時代となったが、その画鋲が留める「画」は、同義語の「絵」とは少しニュアンスが違うように思う。絵を描くとは言っても、画を描くとはあまり言わない。もちろん、漫画は描くと言う。 その漫画、今のこどもたちも読んではいるが、団塊の世代の私がこどもの頃(1950年代)と違って、その頻度と量は少なくなっている。当然ながら、少子化も相まって、こども向けの漫画本は、発行の点数も総部数も、確実に減って来ている。 その一方で、漫画映画の視聴は、格段に増えているので、漫画そのものの総体としての量は、大きく減ってはいないかも知れない。しかし、この本と動画(テレビだけでなく、ビデオや映画も含む。)とでは、漫画に対する対し方が違うのだ。 本は、読む意志と、読むと言う行動を維持する集中力が必要なのだ。言い換えれば能動的・積極的・自律的な活動と言っていい。反対に、動画は、見ようと言う意志はあっても、やはり受身的になる傾向がある。文字と言う、やっかいな介在媒体が無いのは、楽ではあるが、その分、考えることも少なくなる。 そうした動画だが、今ではテレビやビデオがその中心だが、漫画本が全盛だった時期、劇場上映の映画も全盛だった。週替わりの三本立て上映が当たり前で、こどもたちも週三本も、動画である映画を見ていた。 この映画も、動画であることには変わらないが、テレビやビデオが比較的に少人数あるいは一人で見ることも多いのに対して、劇場映画は、ほとんどのケースで集団視聴が原則となる。 同じ面白い漫画映画やアニメを見たとしても、一人で笑うのと、映画館にいる大勢の人と一緒に笑うことは、大違いなのだ。大げさに言えば、同じ時代に生きる人たちと、同じ楽しい時間を共有していると言う実感、けっして孤独ではないと言う時間も味わえる。 このように、昔も今もこどもたちは「画」を、あそびの欠かせないジャンルとして楽しんではいるが、その実態は大きく変化していることがわかる。そして、その変化は、こどもたちにとっても、社会全体にとっても、喜べる変化ではないことも間違いがないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.12
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「歌」と言えば、「童歌(わらべうた)」がある。「童歌」の表記では、もう一つしっくり感が無いので、「わらべ歌」として駄文を綴っていく。この「わらべ歌」と似た言葉に、「童謡」「唱歌」がある。それぞれ、微妙な違いがあるが、重なる部分もある。 それぞれの言葉の厳格な定義はさておいて、こどもたちのあそびにおける歌を考えた場合、「わらべ歌」があそびと最も馴染む。そして何よりも、日本のこどもたちには、「わらべ歌」が断然いい。「わらべ歌」のほとんどが、日本語の持つ特徴を、最も私たちに、快く懐かしいリズムと旋律にのせて、心の奥底に拡げてくれるのだ。 そうした「わらべ歌」の素晴らしさに、あらためて感心させられた経験が、私がかつて勤めていた学童保育であった。それは、学童保育所の直ぐ傍の道で、低学年のこどもたちと「かごめかごめ」であそんでいた時のことだった。 遅くに学校から帰って来た、6年生の男の子が、何と、そのあそびの輪に加わったのだ。まさか、こんな幼稚なあそびに、高学年で、しかも男の子が入らないだろうと思っていたが、試しに声をかけてみたら、その予想に反して、入って来たのだ。 もちろん、それまでのこの男の子と、「かごめかごめ」をしていた低学年のこどもたちとの、親密な関係が、すでにできていたこともあるが、やはり、この「わらべ歌」が奏でる雰囲気が、その後押しをしたことは間違いがないだろう。 それは、こうした日本の伝統的な「わらべ歌」によるあそびが、昔とは比較の対象とならないくらいに激減してしまっても、極めて稀なことではあるが、地域のこどもたちが、声をそろえて「はないちもんめ」を歌ってあそんでいる光景に出合うこともある。そして、その歌声は私の心にジィーンと、響き渡ってくるのだ。 風土は言語を育てるとも言う。日本の風土には、日本語がピッタリなのだ。その日本語にピッタリの「わらべ歌」、当然この日本の風土にピッタリだ。そして、おそらく「わらべ歌」は、日本語と言う国語力を育むのに、大きな意味を持つだろう。 日本語力は、他の言語の理解や能力獲得にも、必須の力となる。その意味では、早期教育よりも、「わらべ歌」に満ちあふれたこども期を過ごすことの方が、英語力が身に付くのではないだろうか。 もちろん、このことは日本語に限らず、それぞれの風土が育んだ言語、母なる言葉である「母語」全てに言えることで、第二言語の獲得には、それを必要とする自覚と、その自覚にささえられた継続的な学習が必要なのは言うまでもない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.11
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) このブログで、今のこどもたちは、屋外であそぶことが少なくなったと指摘してきたが、基本的にはその通りなのだが、意外とこどもたちは、自分の家から出てあそんでいるようなのだ。もちろん、その自分の家の外でのあそび方がかわっているのだが、それは後で考えることにして、まず意外と多い自分の家の外でのあそびについて見ていく。 今のこどもたちが、意外と自分の家から外へ出てあそんでいるには、わけがある。それは、自分の家であそびにくくなったことだ。親や教師など周りのおとなが、屋外でのあそびを奨めることもあるが、それよりも、家庭の事情そのものが家の中に友達を入れてあそぶことを許さないからだ。 こどもたちがあそぶ時間帯に、親やおとながいない家庭が多くなったばかりではなく。他人に、たとえそれがこどもであっても、自宅の中の様子を見られたくなかったり、見られても良いほど親しくない、家庭が増えているからだ。だから、自分の家で一人あるいは兄弟姉妹であそぶことはできるが、友達と一緒に家であそぶことが難しくなったのだ。 それでも、ゲーム機やテレビなどを利用して、あそべば良いのだが。それも面白くないのだ。こどもと言うのは、よほどのことでない限り、家でたった一人であそぶことは耐えられないのだ。だから、外へ、と言っても自宅外へ、友達を求めて出かけるのが自然なのだ。 しかも、昔と違って、ゲームは携帯ゲーム機・携帯電話機・スマフォの普及、あるいは携帯できるカードゲームやトレカなど、好きなあそびを自宅外でもできるようになれば、ますます自分の家から外へ出るようになる。 今のこどもたちでも、意外と自分の家から外へ出てあそんでいることが多いのは以上の通りだが、だからと言って、自分の家の外でのあそびが、昔のようなあそびになっているかと言えばそうではないのだ。 このブログで、度々指摘しているように、公園のベンチで、友達と並んでゲーム機、区民センターの談話室のテーブルでカードゲーム、コンビニの前に座り込んでトレカなど、きわめておかしな状況が増えてきているのだ。 もちろん、家から外へ出れば、友達と会える機会も増えるので、土日や夏休みの日などは、何人か集まって野球あそびやサッカーあそび、ときにはドッチボールや、ペットボトルを使った「缶けり」なども見られる。 しかし、残念ながらそれは、昔のように、同じメンバーで毎日あるわけでも、絶対的なあそびの回数が減り時間も短くなっている。これは、嘆かわしい状況ではあるが、こどもたちは、そうした仲間と大勢で屋外であそぶことが好きだと言うことがわかる。 そして、そのために大切なのは、ズタズタコマ切れでない継続的なあそび時間が必要で、そんなあそび時間が、地域内のこどもたちに共通して確保されることなのだと言うことも、今のこどもたちの、家の外でのあそびが、教えてくれているのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.10
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 冬のこの時期に、夏にまつわるあそびを語るのは、季節外れではあるが、お付き合い願いたい。こどもたちにとって、クリスマスやお正月のある冬休み同様、大きな楽しみとなっているのが、夏休みだろう。期間が長いので、あそびの楽しい思い出も、数えきれないくらいにあるだろう。 夏のあそびと言えば、真っ先に思いつくのが、水を使ったあそびか、自然、人工を問わず、水辺でのあそびだ。これについては、今もほとんど同じあそびがあるので、違った視点から、夏のあそびを見ていくこととする。 このブログでは、熟や習い事、学校5日制、授業増加などで、今のこどもたちのあそび時間が、ズタズタコマ切れ短時間化しており、あそびの様相が大きく変化してきていると指摘してきた。 それでも、夏休みの間は、そうした心配も無く、継続したあそび時間が、ほぼ毎日確保される条件が確保されるはずだが、こどもたちのあそびは、やはり昔のような様相を示してはいないのだ。 夏休みになっても、集団であそぶ子は、少しは多くなっているかも知れないが、それでもまだまだ少ない。あいも変わらず、公園でゲーム機、クーラーの効いた部屋でカードゲームが続いている。それどころか、暑さのせいで、家から出る頻度も格段に下がる。 何故、こんな夏になってしまったのだろう。もちろん、夏休みと言えども、熟や習い事は、普段通りあるいは、他の子と差をつけるチャンスとして、増えるこどももいる。しかし、それでも、夏休みは、あそぶ時間はあるはずだ。 あそび時間があっても、少なくとも昔のこどもたちのようなあそびは、断然少ない。それは、地域にあそびを継続させる土壌が痩せこけているからだ。あそび時間があっても、みんなとどんなあそびをしていいのかわからない。 屋外で、多人数で、しかも暑さに負けないで楽しくあそべるあそびを知らない。ビー玉あそびなら、小さな木陰でもあそべるあそびもある。「石けりケンパ」なら日陰で休みながらもあそべる。その他にも数多くある、夏でも屋外であそべるあそびが、地域では途絶えてしまったのだ。 さらに、初夏から夏の終わりまで、こどもたちを魅了する、トンボ、バッタ、蝶、トカゲ、メダカ、カエル、ザリガニなど、多くの昆虫や小動物が、こどもたちの生活圏から消えてしまったことも、暑さに負けずに外へ出てみようとする機会を奪っているのだ。 そんな小動物が消え去っても、安全にあそべる水辺があれば、まだいいのだが、それも遠出をしないとダメでは、空調の効いた快適な部屋から、こどもたちを引っ張り出すのは難しい。 それでも、家で何もすることが無ければ、外へ出るかも知れないが、何と家には、一人でも「面白く」あそべるゲーム機やインターネットが完備しているのだ。ゲーム相手なら、もめごとも起きない。ある意味、快適な「遊び」環境だ。 こんな快適な「夏」を「満」喫できるこどもたちと、汗を流しながらもトンボを追いかけたり、草野球の合間に、水道の蛇口から直接水を飲んでほっとする、昔のこどもたちと、どちらが夏を思い出に刻みつけるかは、誰もが理解できるのだが・・・・・「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.09
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 国語科、算数科、社会科と、ここまではいいが、理科は理科科とよべばいいのだろうかとの疑問を持った、こどもたちも多いだろう。また、社会科は、社会を習う、それなら理科は、理を習うのだろうか。日本語は面白い。 こどもの頃、こんなあそびがあった。友達からいきなり、「おまえ、理科、ちゃんと勉強したか?」と尋ねられた。もちろん、私は「うん!」と答えた。すると、友達は、「へえ!おまえ、リカちゃんと勉強したの!!」と、私をからかったのだ。 リカちゃん人形が流行り、名前に「子」の付かない女の子が増え始めた頃の話だ。当然、やられているばかりではなく、私も別の友達に試してみたのは言うまでもない。 そんな「理科」だが、こどもたちの「理科離れ」が言われて久しくなるが、その一方で「理科女」と言う言葉が生まれたように、女の子の「理科好き」が話題となっている。そんなことが、頷ける例が身近にあった。 近くの公園などで、捕虫網を持ってセミを捕る子の、半分以上が女の子なのだ。昔も、虫を捕る女の子もいなかったわけではないが、今ほどの多さではなかった。 さて、「科」だけを取り出すと、もっと日本語は複雑になる。「前科」の「科」は特別なものとしても、「科学」で考えると、冒頭の国語科・算数科・社会科だけでなく、その他の学問も「科学」の範疇に入ってしまう。その意味では、科学は「科」の学問なのだ。 そして、その時の字義は、「物事を系統的に分類すること」となり、まさに、この世の森羅万象を系統的に解き明かすことにつながるのだ。そして、その「科」を、こどもたちが楽しい思いをしながら学ぶのが「あそび」であるとするのが、このブログの主題だ。 今、こどもたちのあそび時間は、ズタズタコマ切れ短時間化し、このあそびが、極めて歪んだ状態になっていると言われるが、「理科離れ」だけでなく、「科」を推し進める力である考える力さえ、弱まっている現状は、そのあそびの憂うべき現状に大きな一因があることを物語っているのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.08
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 「3の公倍数は何ですか?」と言う質問は、大嫌いな子でも、「食べると安心するケーキって何?」と訊かれると、楽しそうに考える。それが、こどもであり、あそびなのだ。では、あそびだから、「何」を考えたり知ったりすることが楽しいのだろうか。 そんなことはないのだ。新しいことを、知ったり覚えたりすることは、誰しもが楽しかった経験を持っている。もちろん、あそびだけではない。新しい言葉を覚えた時の満足感、何を描いているかわからないけれど何故か楽しかったこと、成長と発達とともに経験した、知る喜びや覚える楽しさは、数えきれない。 そうなのだ、おそらく脳を持つすべての生物は、知るや覚えるは、食べ物を食べるくらいに楽しい活動だ。知る・覚えることは、生命活動において欠かせないから、楽しく感じるように出来ているのだ。 さらに、人間など、脳の機能を大きく発展させた動物にとって、知るや覚えることだけでなく、考えることも楽しいはずなのだ。だから、「こどもたちの考える力が落ちている。」と聞くと、複雑な思いになる。 おそらく、そうしたこどもたちは、この考えることを楽しむ経験が、貧弱になっているのだろう。あそびは、考えるそのものの「なぞなぞ」だけでなく、ほぼ全てのあそびにおいて、この「考える」を楽しく経験できるのだ。 あそびそのものが楽しいだけでなく、あそびの最中や、あそびが一段落した時、あそびが終わった時、明日のあそびに思いを馳せる時、「何か」を考えて楽しむのだ。 何をすれば、あのメンコは裏返せるのか、次の攻撃の時はどういう作戦で行くのか、今日はコマの「手のせ」が出来なかったが明日はこうやってみよう、とこどもたちは考える。もちろん、誰の指図も命令も無しに、それを自分自身で積極的に行う。 もし、今のこどもたちで、「考える力」が劣っていると思われる子がいたなら、それは、こどもたちの成長や発達において、極めて大切な「何か」が足りないのだ。その「何か」かを充足させるには、本来はおとなの手助けはいらない。こどもたちの生活の時間に、ゆとりさえ有れば、それだけでいいのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.07
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 遠くへ行きたいと思うのはおとなで、幼いこどもたちは、実際に遠くへ行くだけでなく、遠くへ行くことを思うだけでも、不安になることは多い。それでも、だんだん家から離れて遠くへ行けるようになるのは、あそびがあるからだ。このように、あそびは家から遠くへ離れる、言い換えれば親からの自立を促す。 そんな「遠く」だが、こどもたちのあそびの中では、「遠く」を競い合うあそびも少なくない。最も簡単なところでは、誰よりも遠くへ何かを投げたり飛ばしたりするあそびだ。自然の石はもちろんのこと、メンコやビー玉、ボールや紙飛行機などで、「遠く」を競い合う。 「遠く」は、競い合う対象となるだけではない。興味や驚きの対象となる。生まれて初めて望遠鏡を覗いた時の感激は、誰しもが覚えているはずだ。そんなに遠くが見えない、おもちゃの望遠鏡ですら、こどもたちは覗いて喜ぶのだ。 さらに、「遠」は待ち遠しい楽しみとなる。「遠足」がそれだ。今では、家族揃ってテーマパークや観光に出かけることも多くなって、その楽しみは小さくなってしまったかも知れないが、それでも大きな楽しみの一つだろう。 と、ここまで書いて、冒頭の幼いこどもの「遠く」に対する不安、今でもそうなのかと、ふと疑問が心を過った。今や、遠く離れた所へ、夜遅くまで一人で塾に通う子もいる時代だ。危険な町になったと、こどもたちに防犯ブザーやGPSを持たせる一方で、夜に一人で通わせる。 携帯電話もこどもたちに持たせて、何時でもコミュニケーションがとれて安心だと思っていても、ひょっとして、昔より、こどもたちとの距離は「遠く」なってしまっているかも知れない。そんな時代だからこそ、犯罪者が付け入る心のスキがあるのだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.06
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 「園」、「その」と呼べば、「花園」のように、どこかしら安らぎを感じるが、「えん」と読むと、堅く響いて聞こえる。それでも、「保育園」と「保育所」で対比すると、「園(えん)」も優しく感じられる。 この同じ保育をする場でありながら、「園」と「所」の使い分けは、一般的にはほぼ定着している感がある。公立の施設や、公が大きく関わっている施設には「所」が使われ、民間の施設には「園」が使われる傾向がある。そこには、「お上」の意図を感じる。 その一方で、「幼稚園」は公立も私立も「園」なのだ。もちろん、これを「幼稚所」と呼べば、何だかその施設の意味さえ不明確になってしまうかも知れない。なお、最近では、「保育園」と「幼稚園」を合わせた「こども園」なるものが生まれているが、これも「こども所」は有り得ないだろう。 さて、こどもたちのあそび場として、「公園」は、最近では欠かせないものとなっている。それだけ、公園以外のあそび場が激減しているからだ。「園」とは、もともとある限られた一角に適応される言葉で、その「園」が付いた公園は、路地・空き地・原っぱ・水辺などとは、性質を異にするあそび場なのだ。 それでも、「公」が付いている意味で、基本的に全ての人に開放されている。だから、公のあそび場としての「公園」の意味があるのだ。しかし、この「公園」にも例外がある。何と有料の「公」園があるのだ。しかも、私が住む大阪市にある。 天王寺公園がそれだ。かつて、天王寺公園も、他の公園と同じく「無料」の公園だった。しかし、お上は天王寺博覧会を切っ掛けに、有料化してしまった。有料かは当然、その「公」園を柵や塀で閉ざしてしまう。そのため、これまで横切れた公園を、遠回りしての通行を余儀無くさせられた。しかも、その道は迷路のように入り組んでいる。 これまで、公園内にあった花壇や木々にやって来る昆虫を、追いかけていたこどもたちは、あそび難くなった。もちろん、市内在住者に限定して無料だが、それでもゲートを通るには、躊躇するだろうし、捕虫網などを持っても入り難い。 こどもたちだけではない、たとえ入園料がわずか(おとなが150円)でも、以前より確実に、来園する人たちを減少させている。まさに、天王寺公園は、公を完全に放棄してしまった、日本でも数少ない、大阪の恥ずかしい公園になってしまった。 こんな恥ずかしい公園を放置し、市内にある公園内に次々と有料施設をつくる大阪市当局には、こどもたちのあそびだけでなく、その成長・発達を論じる、その資格はともかくとして、その心は無いと言える。 あそび声がうるさいと怒鳴られない公園、思い切り走り回ったり球技ができる公園、もちろん誰でも無料であそぶことのできる公園、そんな公園をつくるのに、大阪市を「都」にする必要も無いことは言うまでもない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.05
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) 「雲」であれこれ考えていると、美空ひばりさんの花笠道中の歌詞「ぽっかり浮かんだ 白い雲」が、心に浮かんでくるのが、団塊の世代の私だ。そんな青空に浮かんだ雲を見て、その形をいろんなものに見立てることはよくある。こどもほど、その連想の広さは大きい。 空の雲を見て連想するのも、一つのあそびだが、その雲にまつわるあそびはなかなか見つからない。それでも何とか記憶を絞り出してみると、「曇りダン」と言う言葉にたどり着いた。 おそらく「曇り玉」と書くのだろうが、こどもの頃は、そんなことには関係なく、ビー玉を「ビーダン」と呼んでいて、曇ったビーダンだから「曇りダン」なのだ。 今では、フッ化水素などを使って曇らせた、「フロスト」と呼ぶビー玉が市販されているが、昔は自分で作ったのだ。作ると言っても、普通のビー玉を道路や石などに擦り付けて、その表面を曇らせるのだ。このビー玉、表面がざらついているので、指でつまんだ時に滑らないのだ。 この曇らせたガラス玉からの連想で、冬の時期などに、水蒸気で曇ったガラス窓を、画用紙代わりにして、絵や字を書いたりしてあそびが思い付く。曇っていなければ、「はあ、はあ」と息を吹きかけて、曇らせて書くこともある。 状況によっては、直ぐに曇りが無くなって、字や絵が見えなくなるが、これを利用して、また息を吹きかけると、再び元の字や絵が浮び上るのを楽しんだりもした。 曇りの日はあそべるが、雨になると難しい。特に、お楽しみのあそびや行事が待っていると雨は困る。そんな時に、下駄を振り飛ばして、「明日天気になあれ!」と、下駄占いなどもした。 そんな下駄占い、下駄が横向いて立つと「曇り」とも呼んだりもした。下駄が裏返れば雨、下駄がまともな向きになれば晴、横向きはその中間だから「曇り」と言うところだ。 こんなあそび、下駄だからこそ成り立つあそびでもある。靴などは、横か裏返しか微妙な時が多い。また、靴は下駄のように、簡単には脱げない物も多い。あらかじめ、半分くらい脱いだままで、やる必要がある。 こどもたちの現在と未来が、いつも平和であるように思っているが、平和な世界には、青空がお似合いだ。こどもたちの明日に思いを馳せて、「明日、天気になあれ!」と、心の中で、あの頃の下駄を、また飛ばした。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.04
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。(再掲) お正月と言えば、童謡「お正月」に、「お正月には、まりついて、おいばねついて、遊びましょう」とある。この歌詞にある「おいばね」だが、「追羽根」と書き、一般的に二人以上での「羽根突き」を指すそうだ。 さて、「羽根突き」だが、「まり突き」の連想から、羽根を下に突かないのに、何故「羽根突き」と言うのかと、ふと考えてしまう方も多いかも知れない。 実は、そもそもの「まり突き」の昔の様子が違っていたのだ。大昔の「まり突き」は、まさに「羽根突き」のように、上に突き上げていたのだ。後に良く跳ねる「まり」が生まれてから、地面などに向けて突くようになったのだ。 だから、「羽根突き」は上に揚げるので、当然ながら、羽子板も下から上へと動かし、けっして上から下へと振り下ろすのではないのだ。さらに、おもしろいのは、「追い羽根突き」は、相手の失敗を求めるようなあそび方だけではなかったのだ。 どちらかと言えば、参加したみんなで協力し合いながら、どれだけ長く突き続けられるかを楽しむあそび方が多かった。ましてや、負ければ顔に罰として墨を塗るのは、どちらかと言えば邪道の羽根突きかも知れない。 羽のある生き物で、こどもたちがあそびの中で、よく親しんでいるものに、トンボ・蝶・セミなどの昆虫がある。親しむと言っても、多くの場合、昆虫たちを追いまくって捕まえる[虫捕り]となる。 この虫捕り、いつも虫かごを持参している場合ばかりではない。虫かごを用意していない時は、例えばトンボなら、羽を閉じて指の間に挟んで持って、別のトンボを追いかけることもあった。片手の指の間を総動員して、10匹以上も挟み持つ強者もいた。このようにして持ったのは、トンボは、胴体部分を持つと、直ぐに弱ってしまうからだ。 トンボは肉食だ。だから捕まえたトンボの中で、オニヤンマなどのお気に入りのトンボは、長生きさせるために、別のトンボをエサにもした。残酷なあそびではあるが、不幸にも死んでしまったトンボなどは、羽をむしり取って、その羽の根元に付いた身を、お気に入りのトンボのエサにしたのだ。 そんなトンボだが、肉食故に、病気を伝染する蚊を食べてくれる、有益な昆虫でもある。だから、そのトンボに似た、「羽根突き」の羽根は、無病息災のお守りとして、活用されるようになったとも言われている。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.03
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このブログで以前に、小学校で習う教育漢字を題材として「あそび」について、まず1年生の漢字を手始めに、あれこれと駄文を綴ってきたが、今日からは2年生の漢字で、綴っていくこととする。 「引く」で、まず思い付くのが、駄菓子屋さんでよく見かける「糸引き飴」だ。今でも販売されているものは、フルーツの形をした飴で、イチゴが外れで、ミカンやブドウが当たりとなっている。本物の果物の値段とは違って、その大きさで当たりと外れが決められている。もちろん、味はみんな同じようなものだ。 「石けり」や「ケンパ」などであそぶ時は、地面に線を描くが、これは「線を引く」と言うこともある。線は引いて描くものだと言うことがわかる。線を紙などに何本も引いて、その縦線のところどころに、隣の線と横線で結んだものを「あみだクジ」と言うが、このクジも「引く」が使われる。同じく、駄菓子屋さんの「当て物」などで、紙の「三角クジ」をめくっても「クジを引く」と言う。ようするに、クジは引くものなのだ。 意外なところでは、紐を巻きつけて、その紐を投げ解いて回すコマ、一般的に「投げゴマ」と言うが、これは投げることもさることながら、タイミング良く上手に、紐を引くことが、コマを勢いよく回すコツになっている。 同様に、「引く」と言う動作に意外性を感じるのは、凧揚げの時だ。風が弱くなって凧が地面に落ちそうになった時、凧糸を手前に素早く引けば。凧は上昇する。成長した後に考えれば、当たり前のことだが、幼い時は、この引いて上がるが、新鮮な感覚だった。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.02
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旧年中は、どうもありがとうございました。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト遊邑舎あそび館FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2015.01.01
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