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11:30PM 全国でもまれな不眠症の患者の施設がある。治療はもちろん精神的なケアをする目的で作られた。瀬戸内海の小島にその施設はある。小豆島に近い。風光も明媚である。不眠症の人は寝られないのでいつも起きている。昼間は軽い運動。ゲーム。散歩などしてある程度体を疲れさせるのだが、夜はほとんどベットで起きている。でも皆起きているのでなんかうれしいのか、「どうせなら、眠りたくても寝られない人に代わりにならないか・」と考えた。けこの島を出るわけにはいかない。11:30のこの時間みなぴかっと目を開いている。「そうだ。目の見えない人に本を朗読してやろう」この時間カセットデッキを前にして、本をゆっくり朗読し録音する。なんだかすごく心優しくなる風景だ。
2007年10月31日
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11:25分イリーナさんは拍手を止めた。そしてその周りの人がホットした表情と哀れむ表情で拍手を止め、全体が波を打つように拍手がやんだ。「はあはあ」という吐息を押し殺している。集会の壇上には次の人が上がった。秘密警察の耳元でなにやら話している人がいた。にやっと笑ったその秘密警察は「今晩お迎えだ」 イリーナさんは妻の遺体を身ながら、もう一杯になりかけてるトラックに乗った。 11:28分 イリーナさんはウラジオストク郊外のソビエト第357号収容所にいた。もうあの集会の日から5年になる。あの集会のあと。地区の共産党支部に連れて行かれ。2時間の尋問を受けた。「どうして拍手を止めた」この質問を何十回もされた。「もういいかと思いました」「何!同士スターリン閣下の名誉を傷つけたんだぞ」「そんなつもりはありません」2時間後「イリーナ・ペドロフ45歳を懲役5年とする。罪状は反逆罪」モスクワの郊外の収容所を1号とし、そこから離れるごとに数字は大きくなる。400あると言われる収容所。番号が大きくなるほど過酷な状況になる。逮捕されたのは1950年。この5年間のうちに357に入ってきた人は500人を越える。しかし3年以上生き延びたのは、彼を含めて100人はいないと生き延びた喜びをようやく語れた1960年代。「地獄をこの世で味わうとは思わなかった」とイリーナさんはウォッカを飲みながら語る。
2007年10月30日
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「この前、風邪もひいていないのに、共産党の集会に行かなかったらしい」憶測や噂だけで秘密警察が深夜11時過ぎに逮捕に来る。カッカッカッカと行進しながら来るのである。ソビエト各地で毎晩行われる儀式である。その行進が急に止まる。自分の家の前でないことを願う。トントンとドアをたたく音。すぐにでる出なければ戸を壊すのはわかっている。「イリーナ・ペドロフさんのお宅ですね」震えながら「はい」と息子が答える。「いますかイリーナさんは」2階でガタガタする音。すぐさま、二階に昇る秘密警察。「あなた逃げて」という母の声と銃声。窓から逃げようとした父は足を撃たれる。父は11:00からの地区の集会に行った。共産党員の父は集会をさぼったことはない。その日。集会中にスターリンの政策をたたえる演説をしてしまった地区の共産党支部長がいた。「うそだろ」という表情でその集会に出た人がお互いに顔を見合わせた。支部長も途中で気がついたのか額に汗がにじんできた。奥に控えて机の上に磨きあげたブーツを無造作に乗せたいた秘密警察の一人が「おい、行くぞ」と身構え集会場に現れた。演説が終わった瞬間に一斉に拍手が始まった「死の拍手である」人々は立ち上がり「スターリン」の名を叫んだ。拍手は鳴り響いた。5分10分20分誰も止めようとしない。最初に止めた人が逮捕され二度と帰ってこないことを知っている。イリーナさんもその場にいた。青年共産党員年は15歳16歳の子どものいた。拍手が止まりそうになった。もう立っていることもできない老人もいる。それでも前にいる秘密警察の視線を気にしながら拍手をする。手は赤くなり、しびれてくる。イリーナさんの前の老父が咳き込みだした。今にも拍手が止まりそう。
2007年10月29日
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「この前、風邪もひいていないのに、共産党の集会に行かなかったらしい」憶測や噂だけで秘密警察が深夜11時過ぎに逮捕に来る。カッカッカッカと行進しながら来るのである。ソビエト各地で毎晩行われる儀式である。その行進が急に止まる。自分の家の前でないことを願う。トントンとドアをたたく音。すぐにでる出なければ戸を壊すのはわかっている。「イリーナ・ペドロフさんのお宅ですね」震えながら「はい」と息子が答える。「いますかイリーナさんは」2階でガタガタする音。すぐさま、二階に昇る秘密警察。「あなた逃げて」という母の声と銃声。窓から逃げようとした父は足を撃たれる。父は11:00からの地区の集会に行った。共産党員の父は集会をさぼったことはない。その日。集会中にスターリンの政策をたたえる演説をしてしまった地区の共産党支部長がいた。「うそだろ」という表情でその集会に出た人がお互いに顔を見合わせた。支部長も途中で気がついたのか額に汗がにじんできた。奥に控えて机の上に磨きあげたブーツを無造作に乗せたいた秘密警察の一人が「おい、行くぞ」と身構え集会場に現れた。演説が終わった瞬間に一斉に拍手が始まった「死の拍手である」人々は立ち上がり「スターリン」の名を叫んだ。拍手は鳴り響いた。5分10分20分誰も止めようとしない。最初に止めた人が逮捕され二度と帰ってこないことを知っている。イリーナさんもその場にいた。青年共産党員年は15歳16歳の子どものいた。拍手が止まりそうになった。もう立っていることもできない老人もいる。それでも前にいる秘密警察の視線を気にしながら拍手をする。手は赤くなり、しびれてくる。イリーナさんの前の老父が咳き込みだした。今にも拍手が止まりそう。
2007年10月25日
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11:25分 今からさかのぼること何年だろうか。ソビエト建国。共産党がロマノフ王朝を根絶やしにし、革命を成功させた。そして第二次世界大戦。大国ソビエトはスターリンという独裁者のもとナチスドイツと真正面に戦う。ヒトラーが唯一恐れたソビエト。独ソ不可侵条約を結び、東に閉じこめたまま。西側を食い尽くそうとするドイツ。そのドイツが何を血迷ったか、条約を一方的に破棄して、広いロシア平原に最強のドイツ陸軍を投入する。まるでかつての蒙古軍の侵略のごとく「来た、焼いた、奪った、去った」の勢いで無数の村々を廃人の村にする。そのすさまじい非人間的な破壊は世界中の批判を浴びたゲルニカ以上であった。そしてスターリングラードの攻防戦1年以上の戦い。ソビエトが牙城としたこの戦いがいかに絶望的で、破滅的だあったか映画「スターリングラード」で垣間見ることができる。第二次世界大戦で一番の死者を出したのは圧倒的にソビエトである。終戦後スターリンは徹底的に自分の意見、自分の考えに反対もしくは賛成しない者を粛正した。グルジア出身のスターリンの粛正は徹底していた。まず、第二次世界大戦中に海外にいた共産党員はほぼ100%殺された。スパイ容疑である。また自分より古株の共産党員も旧体制に通じているなどとでっちあげて処刑した。彼は秘密警察を使い、さまざま情報を得る。一番市民が怖がっていたのが「つげぐち=密告」である。「あそこの家の主人はスターリン閣下のことをバカと言っていた」「あそこの家ではアメリカのラジオ放送を聞いている」
2007年10月23日
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11:23分 フィリピンミンダナオ島のバナナ園のラインという長屋に帰るバナナ園労働者。皆皮膚が、かさかさである。失明している人も多い。やけに老けている20代の青年。「もうどうでもいいさ、体はガタガタさ。」とわらのひいた床に横になる。目だけが大きい子どもが奥の方で縮こまっている。母親はまだ仕事である。バナナの選別を工場で行っている。父親は農薬でやられた。広いバナナ園に農薬をまくのに手っ取り早いのが空中散布である。もちろん下に人がいるときにはやらないが、連絡がうまくいかなかったのか、バナナの収穫中に農薬がまかれた毒性のある農薬だ。約500人がもろに浴びてしまった。ひどい物である。抗議もできない。抗議すれば一家は路頭に迷うのである。12:00近くになって母親は帰ってくる。疲れ果てているせいか言葉もでない。すぐに横になる。こういう生活をもう3年もしている。
2007年10月21日
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オーストラリア パース ここにもうひとつの夢がある。2020年 夜11:15分 「今日も楽しかったねパーティ」「英語もずいぶん使いこなせるようになったしのよね」「私は10年前から何度もここへ来ては物件を見て回った。1ヶ月ぐらいゲストハウスに住んで、英語も勉強した。このヒルグランド地区の人たちともそのころから仲良くなったんだよ」「そうだったなあ」「あなたがリタイアして、日本の家を息子に譲り、こっちへ来てまだ2か月、私の方が先輩よ」 今海外に移住している人が増えていると聞く。東南アジア中心に世界各地に自分の居所を求めている。海外に住むというのは経済的なことはもちろん、精神的にも肉体的にもしっかりしていなければできない・・とおもう。「単に興味本位でなく、自分の毎日に「はり」をつけたいという思いは賛成ですが、なんとかなるっていうのは30代までかな。40代越えたら一応は英語も少しはできなきゃ、人とのつきあいもあるんです。」とパースの不動産斡旋業者の榎本さんは言う。 11:20PM 富士吉田にある葭池温泉、安政年間の開湯ということで150年の歴史を持つ。こじんまりした作り、昔ながらの風情が人気を呼んでいる。その温泉にはいり皮膚病が治った人がたくさんいる。胃腸を治した人もいる。科学的に実証されているかどうかは確かではないが「効く」ということで関東近辺から人が来る。世の中にはそういう温泉がたくさんある。秋田県の玉川温泉。酸性度が高く普通に入っていても目にしぶきが入ると痛くてたまらない。その温泉に癌で医者から見放された人が来る。最後の最後の頼みである。そこへ来る人は皆同じ癌の患者である。だから自然とうち解ける。一緒に同じ悩みを持つということはすごいパワーを生むのである。地表にもうもうと吹き上げてくる蒸気に身をさらすのである。この時間誰もいない、その中でひとり蒸気に身をさらしている人がいる。「絶対に治る」と言うことを信じて今日も漆黒の中に身をさらす。
2007年10月19日
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偶然が重なり、1週間休みが取れた、思い切って自分の行きたかった山へ登る。そうたいして高い山ではないけれど、いつか行ってみたかった自分の家から遠くにかすかに見える山。下から眺めるのと上から見下ろすのでは大違い、登ってみると以外と大変だった。そこに一軒の小屋があり、宿泊することができるようだ。こじんまりした山小屋で10人も泊まれば一杯になる。部屋は3室。あと居間と台所である。「空いてますか」初老の物腰の低い男の人が薪を割りながら「いつもね」「1週間ほどいいですか?」「いつまでも」のんびりした小屋であった。その日の午後から近くの尾根を歩いたり、沢を登ったりして毎2~3日を過ごす。4日目の朝「すまないが、ちょっと留守番頼む。麓に買い物に行きたいんじゃ」「はいいいですよ」と気軽に受けた、その日宿の主人はもどらなかった。次の日も・・。 あれから1ヶ月になる。山小屋にまだ居る自分。あれは留守を頼まれてから10日目のこと。麓から宿の主人の息子がやってきた。「おやじは死にました。突然でした。最後に山小屋のこと頼んだぞと言われましたが私はまだ学生、どうしようもありません。どうでしょうか。3年ばかりここにいてくれませんか。」自分の仕事のこと、自分の家族のことを話をした。「仕事は辞めて、ここで暮らして下さい」「家族は・・・」「そうなんだ仕事はもういいころかなと思っていたので見切りがつくが、子供達がなあ・・」「じゃあこうしましょう。子供達は私の実家で見ます。実家には姉夫婦もいますから。」3時間後会社にやめることを電話した。妻は3日後にやってきた。「まったく」の一言。夜11:00満点の星の下、妻が言う「なんだか以外と早く夢が叶ったと言う感じがするね。」「偶然だよ」「山小屋やりたいって言っていたしね」「ああ」「ここで残りの人生を送るって言うのはどうだい」「いいわねえでも、秋から冬は寒くて・・そうそうもう一つの夢かなえましょうね」
2007年10月17日
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5人は涙を流し始めた。「3年かかった、この工場の総工費、さらにこの瓶の中の水を作るための特別な施設・・」瓶を通して見えている岩山の中にある特別の部屋をさして言う。「全てで300億を使った」「よかったですね」・・「ああ、でもこの水を厚生省で分析してもらいクスリにするには10年はかかる。」「そんなに待てない、私はこの子だけでなく多くの人を助けたいのだ」・・社長や会長はため息をつく。そばで近くに来た野鳥を見ていた穂高くんをヒョイとひざの上に持ち上げ「この子の命はこの水のおかげで長らえることはできる・・君の管理しているこの部屋の奥には以外と広い部屋がある。その後ろにある大きな岩が大切なのだ、この岩調べてみたら地下200メートルまで食い込み、幅はほらあの山の麓まで広がっている。この岩は地球誕生に事から存在する様々な鉱物を含んでいる。その中で奇跡的な化学変化が起こり半永久的ににバナジウムが作られている。それにこの沢の水が流れ込み・・もともとこの水もかなりの濃度のバナジウムを含んでいる・・岩にしみこみ。一滴一滴瓶に入る。その瓶の中をコンピュータでを使って自動的に分解しの水の中から微量名バナジウムを取り出し濃縮するのである。いままでは様々な鉱物が入っている為分解はほとんど不可能だった・・」喜びも多いが、重苦しい雰囲気が流れたので「これでもどうぞ・・・と」フキの佃煮をだす。つかさず箸を出す穂高君「おいしいこれなに」「ほらあそこの岩ノ下に生えているフキだよ。ほとんど栄養がないんだけど、日本原産の数少ない山草だよ。畑で作られているのはこんなに大きいけど、ここのはみずみずしいだろ、本によると97%が水分だって」「バナジウム含んでいる植物だから、食べるといいかも」ははははと笑う二人「なに、97%水分」「バナジウム」・・それだそれから2年後、バナジウム2で水耕栽培された野菜、果物が完成する。クスリではない作物なので厚生省も何も言えない。こういう方法があったんだ。バナジウム野菜の生産工場長になった弥さん。家族と一緒に住むこともでき、さらに自らが実験材料になっているのか。体の調子は万全である。
2007年10月15日
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5人は涙を流し始めた。「3年かかった、この工場の総工費、さらにこの瓶の中の水を作るための特別な施設・・」瓶を通して見えている岩山の中にある特別の部屋をさして言う。「全てで300億を使った」「よかったですね」・・「ああ、でもこの水を厚生省で分析してもらいクスリにするには10年はかかる。」「そんなに待てない、私はこの子だけでなく多くの人を助けたいのだ」・・社長や会長はため息をつく。そばで近くに来た野鳥を見ていた穂高くんをヒョイとひざの上に持ち上げ「この子の命はこの水のおかげで長らえることはできる・・君の管理しているこの部屋の奥には以外と広い部屋がある。その後ろにある大きな岩が大切なのだ、この岩調べてみたら地下200メートルまで食い込み、幅はほらあの山の麓まで広がっている。この岩は地球誕生に事から存在する様々な鉱物を含んでいる。その中で奇跡的な化学変化が起こり半永久的ににバナジウムが作られている。それにこの沢の水が流れ込み・・もともとこの水もかなりの濃度のバナジウムを含んでいる・・岩にしみこみ。一滴一滴瓶に入る。その瓶の中をコンピュータでを使って自動的に分解しの水の中から微量名バナジウムを取り出し濃縮するのである。いままでは様々な鉱物が入っている為分解はほとんど不可能だった・・」喜びも多いが、重苦しい雰囲気が流れたので「これでもどうぞ・・・と」フキの佃煮をだす。つかさず箸を出す穂高君「おいしいこれなに」「ほらあそこの岩ノ下に生えているフキだよ。ほとんど栄養がないんだけど、日本原産の数少ない山草だよ。畑で作られているのはこんなに大きいけど、ここのはみずみずしいだろ、本によると97%が水分だって」「バナジウム含んでいる植物だから、食べるといいかも」ははははと笑う二人「なに、97%水分」「バナジウム」・・それだそれから2年後、バナジウム2で水耕栽培された野菜、果物が完成する。クスリではない作物なので厚生省も何も言えない。こういう方法があったんだ。バナジウム野菜の生産工場長になった弥さん。家族と一緒に住むこともでき、さらに自らが実験材料になっているのか。体の調子は万全である。
2007年10月15日
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保管庫に入ったあと。弥さんはおそるおそる岩山から下りる。中から言葉が漏れてくる「社長だ」・・「今日は妻が亡くなって1年になる、わが家系は明治維新以来海外の技術を積極的に導入する政府に雇われ、欧米に留学し、最先端の知識を日本にもたらせた。その時アメリカのロックシュンガー財団はなんと現在のパソコン時代を想定し、その当時では考えられない高性能のチップを開発していた。しかし、軍事産業がそのことを秘密裏に闇の葬る・・・まだまだ早い・・今は高い製品を、すぐに壊れる製品を売らなくては商売にならない・・が理由であった。その一家に居候していた先代がそのチップ作りのノウハウを日本に持ち込んだことが平成時代になって分かった。そのチップを取り入れたコンピューターで自然界にある未知の物質を見つけ、さらに分離させ純粋な・・」「だれだ」話を聞こうとして思いあまって戸を開いてしまった弥さんが驚いた様子で入り口から入ってきた。怒られることを覚悟で顔をそっと上げると「おお君か」怒られると思ったらそうでもなく満面の笑みを浮かべてそばに寄ってきた「ありがとう、君のおかげで、この子の命が長らえた・・」 手製のテーブルに紅茶カップが4つ並ぶ。社員と思った2人は大学の研究者で「バナジウム2」の開発を手がけている。バナジウム・・・糖尿患者の救いの主。でも含有量が多いとされている富士山麓の水でも、微量にしか入っていない。穂高君は先天的な糖尿患者で、あらゆる方法で治療を続けてきたが全て無駄に終わる。一時は立てなくなり、食事も管から体に入れる生活を送っていた。その時、長野工場の水の中にバナジウムを多く含むことが偶然発見される。会長は話を続ける「あのチップは改良に改良を重ね、自然界のある未知に物質を発見することのできるソフトを作れることが分かった。その開発を進めていたのがこの工場なんだ。そしてついに完成した。君をはじめ50人の従業員には悪いが実はその秘密が明らかになることを怒れて工場を閉鎖したのだ」「業績不振とみせかけてね」紅茶を一口のみさらに話を進めた。このソフト完成があと1年早かったら妻の血友病も治すことができたと今でも悔やんでいることを。「社長!」若い研究者が1本の瓶を大事そうに抱えてきた。「できました、完璧です」もうひとりの研究者が「分析の結果バナジウムの含有量が10%の水ができました、でも普通のバナジウムではありません。体にはいるとインシュリンに瞬時に変化し、血管に吸収されます。これで坊ちゃんの命も・・」
2007年10月14日
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ある土曜日、金曜日に長老と飲み過ぎて「今週はちょっと帰れない」とメール「どうせ二日酔いでしょ」とすぐに返事が来た。大岩まで行き、湧き水を飲み。ごろごろしていると。何らや車の来る気配。岩の上からもよく見える。トヨタのランドクルーザーが止まる。中から4~5人の人が下りてくる。「あれ会長と社長じゃないかな」目をこらしてみると「もうひとりは社長の一人息子かな」・・一度だけ行ったことのある本社の社長室での机の上にあった写真に昨年なくなった奥さんと写っていた。この富士見電子は規模を縮小したとはいえそれは国内での話で海外では業績をぐんぐん上げている。会長の一人息子の社長とその一人息子の穂高くん。2人は社員と思われるが白衣を着ている。研究者のような出で立ちだ。皆こちらに向かって歩いてくる。「土曜日日曜日は甲府に帰ること」と厳命されていたので。岩の陰に隠れる。しかし気になる。息を潜めて成り行きを見守る。 会長がおもむろにアタッシュケースから鍵を取り出し「保管庫」を開ける。弥さんも保管庫にははいるが、制御板を点検するだけでその奥の部屋・・・部屋というか。。その保管庫はこの岩の根本の岩に食い込むように建てられている。・・・だからその先の部屋の大きさも分からない。
2007年10月12日
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廃棄された工場から椅子やら机を手に入れてある、陽の下で朝食をとる。土日に買いだしてくる物でまかなうが所詮、男の料理、朝は納豆、みそ汁、卵焼き、それに・・・そう・・・ここで採れる山菜が食卓に乗る。5時起き、岩を上りその向こうにある林は今「たらの芽」がすごい。現役の頃、本社に出張し赤坂の料亭でたらの芽の天ぷらを食べた。旨かった。そして値段も良かった「3本で1200円」それも栽培したタラの芽。その林の中でタラの芽をとる。さらにワラビが群生しているところを見つけた。そのそばにはふきもものすごい量ある。林の中の日の当たらないところには、薄日の中山椒が芽吹き、足下には香りの言い三つ葉が増え広がっている。ウドもいくらでもとれる。さらに、最近では新しい山菜をということで「こしあぶら」「行者にんにく」を探している。日本酒を一本もって、里の長老のところへ行き「品定め」をしてもらう。「これはこしあぶらじゃねえ・・うるしだ・・かぶれるぞ」「おおこれは珍しい行者にんにくじゃ・・あれ良くあの場所を・・」酒を飲むとすぐいいろいろ話してしまう気さくなおじいちゃんのおかげでずいぶんレパートリーも増えた。「自然の物食べてさえいれば健康になる」「動く分だけ食べればいい」「水にも旬がある」「歩く時深呼吸をしてみろ」 この4つがあまりのも簡単で、おかしかったでの。次の日から実行してみる。そんな生活を続けていた頃、妻からメールが入る。「お父さんの友だちの足立さん昨日なくなったわよ・・」「ええ」「心筋梗塞だって」「あの元気者の」足立さんはリストラされた後その能力を買われ外資系の企業にスカウトされる。しかし、自分のペースで仕事することはできず、朝の英会話教室。夜の接待。日曜のゴルフ。テニスで鍛えた体も酒とストレスには勝てずその上人に弱みを見せたくないということもあり、ついに倒れた。
2007年10月11日
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芝桜さんはこの仕事ついて生活は一変した。朝、5時には起きる。高校時代山岳部だったせいもあり、本来山歩きは大好き。起きたその足で近くの小さな山に登る。なだらかな坂である。稜線を下ってくる風が気持ちいい。人気もなく、人が一人通れる道を歩く。しばらく行くと大きな岩を見つけることができる。その岩によじ登ると360度が見渡せる。宿舎はそれほど山の頂上に近い。すぐ目の前に八ヶ岳がそびえ、奥秩父を前にして遠くに富士山の山頂が見える目を転じると、新潟県の方向に三国山系が見え、長野県の方を見ると幾重にも連なった山々を抱くように木曽の御岳、北アルプスの主峰が鎮座する。絶景である、足下から下を見ると廃棄された工場が見え、すでに9割がた解体されている。長野のこの地域は6月になっても梅雨の影響を受けない、とてもさわやかな所で、じめじめした幹事は受けない。冬の寒さはこたえるがそれを越えたときの春の暖かさを抜群である。弥さん。岩をヒョイッと飛び降り。なにやらうれしそうに森の中に入る。季節は4月半ば。山桜も2分咲きである。足下には山菜がにょきにゅき出てきている。以前はただの工場の裏山だと思っていたが、その先の高原、素晴らしい雑木林、至る所のわき出す清らかでつめたい水。この水の一筋が沢になって自分が管理する通称「保管庫」に流れて入っていることに弥さんは気づいていない。部屋には水道もあるが、そこの1つの沢に入って水を汲む。洗濯や洗い物は水道の水だが、飲み水と調理にはこの水を使っている。とてもうまい水である。・・・この水こそが社長が今一番大切にしたあると言うことを弥さんは知るよしもない。6時半頃戻り、朝食に仕度をする。
2007年10月10日
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痛みはないが点滴からの栄養補給、体も動かしてもいいがほとんどベットの上。お見舞いにいろいろな人が来る。いつもお見舞いをする方だったので何か不思議な感じだった「便が黒いままでは退院できません」「つばも飲み込まないように」忙しい新学期の準備の中2日間は爆睡した。3日間から動きたくて仕方がない。先生の検診もまじめに受け、点滴も嫌がらず、教え子の看護婦の子に素直に従った。楽しみは昼間は本を読むとか雑誌を読む。見舞客と話をする。でも夜は楽しみはテレビしかない。消灯後もイヤホンをしてテレビを見る。新聞を朝になると2階の売店の前で待つくらいの楽しみで買ってきは、その日どんなテレビ番組があるかを楽しみにする。ラインマーカーで印をつける。私もテレビなんてあまり見なかった方なので「テレビなんて暇つぶし」ぐらいしか思っていなかった。でも病気になり入院し、自分のするべき事がぴたりとなくなる。時間が早く過ぎてほしいと思うがなかな過ぎてくれない10分おきに時計を見てため息をつく。いつもは見ない番組でもむさぼりつくように見た。9時から始まる「旅番組」にこころときめかせ、2時間スペシャルなんて言うとベットの上で小躍りした。何も食べていないのだから、食べ物の番組では、何でもうまそうに見えた。キャスターが食べるときに一緒に食べるまねをした。そうやって「不安」を少しでも解消したかった。「このまま入院だったらどうしよう」「他の所にも傷があるのでは」・・・しばし考えた。その前兆は5年前くらいからあった。時々腹が痛む、太田胃酸の錠剤をを1日5回も飲む。痛風の発作も2ヶ月おき。朝、歯を磨くと嘔吐しそうになる。ご飯がうまくない。階段を下りるのに手すりを使う。足が重い。でも大丈夫と自分で勝手に重い。胃薬をつまみにビールを飲むくらいクスリに頼る。1冊のノートに自分のいろいろな思いを入院中書いた。今までのことそしてこれからのこと。1週間後検査し退院した。それ以後胃薬は全く飲んでいない。日本酒をやめ、ビールと焼酎にする。大好きな「もつ」はあの時以来食べない。コーヒーもひかえている。本来たばこは吸わないからよかったとあらためて思った。
2007年10月05日
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ストレスもあったため飲むときは倒れそうになるまで飲む。2時3時は平気だった。42歳の時から時々腹の下がチクチク問いたくなることがあった。空腹になると痛みが増してくるので「胃酸過多」などと都合のいいことを言ってごまかしていた。「あれは5年前の今頃だな」「そうねびっくりしたわ」42歳の春のこと、1月の新年会から、いろいろな行事で飲みが続く。3月になると送別会やお別れ会が続く。そうした痛飲したある日のことである。「あの晩急に痛がって冷や汗かいて横になっていたわね、背中をさすっても痛さはとれず、太田胃腸薬を2日で一瓶飲んでいた覚えがあるわよ」「ああひどかった」次の日、仲間とうどんをい食べに行く、大好きなうどんに箸が進まない、自分でもおかしいと思い、家に戻りトイレに行く、真っ黒な血のかたまりが流れる。トイレで貧血になり座り込む。ようやく娘を呼び妻に連絡をとる。市立病院の救急ですぐに胃カメラを飲む。「十二指腸潰瘍ですね、出血しています、すぐに入院して下さい」その日から入院生活が始まる。手術ではなく絶食とクスリで治すことになり、1週間天井を見ながら不安に陥る。
2007年10月04日
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しかし、ただその工場の一角が残された。社長自らが「ここだけは残すこと」と言ってって誰にも手を着けさせなかった。その内容も明かさなかった。従業員の間に「あそこに何かあるんじゃない」「朝と夕方点検するだけ」さらに「あんなの仕事じゃない・・・バカにしやがって」という一種の怒りに変わっていった。そう息巻いた同僚はリストラの恐ろしさをまともに受け、職業安定所にもう1年以上通っているが成果は芳しくない。芝桜家には車のローンがまだ10年残っており、2人の子どもの教育費、娘は念願かなって私立の高校に推薦入学を果たし、息子は中学3年生。妻は長年やっていた仕事をこの春にやめ、自分なりの新しい生活を作り上げている。こんな時に収入をたたれたら大変だ。何回か折衝する中で「甲府の社宅に家族をすませて頂けるなら」と言う条件をもらい。誰もがさげすむ、誰もが不思議がる仕事に就くことになる。土曜日、日曜日は甲府に帰えることができる。週末は社長の親・・・つまり、今は隠居した会長が軽井沢にある保養所からここへわざわざ来ると言うことを知ったのはだいぶ後のことであった。 「仕事どう」「うん、朝と晩の見回りだけ、それにパソコンでその日の様子を書くだけ」「そう」「あなたには悪いけど、それで20万近く頂いているし、社宅清潔で安いし、娘も元気に高校へ通っているし、息子は水泳でがんばっている・・そして」「どうした?」一週間ぶりの妻の手料理を肴にビールを飲んでいる手を止めた「あなたやせたんじゃない」「そうか」体重計もないところだし、見てくれる人もいない。自分には自覚がない。「前はだいぶ太っていて、中性脂肪がたいいとか、糖尿の予備軍とか言われていたじゃない、そうそう痛風の発作どうなった」「ああここしばらくクスリも飲んでいないな」「ビールは相変わらずでしょ」「ああうまいよ」「一人だと飲み過ぎちゃうから気をつけなさいよ」語尾が大きくなったので、その話題をそらそうとすると、妻の方から「ビール腹じゃなくなっているわ」と腹をさすられた。冷や汗をかきながら「そうだろ」。どうしたの何か運動始めたの・・・。話は盛り上がり夜中まで続いた。実は4月にこの不思議な仕事に就いた時には弥さんの体重は90キロを超えていた。中性脂肪、高血圧、尿酸値は高く。体を動かすのも億劫になっていた。腹の肉を見てはため息をつきながら大好きなビールを飲んでいた。工場の製品管理のリーダーだってのでほとんど動くことなく1日を過ごした。娘から誕生日の時にプレゼントされた万歩計は1日1000を越えることはまれであった。ほとんどがデスクワークだcったので仕方がないが、一歩外へ出れば大自然が広がるところなのに「残念だなあ」と本人も言っていた。さらに1日が終わり。甲府へもどってもつきあいが多い。やれ貯金会、やれ同級会、やれ久しぶりといいながら週に2回は外で飲んでいた。酒のつまみはもっぱら焼き鳥、唐揚げ、エビや蟹、もつ煮、・・それにビールを流しこむ。飲みかも1次会では終わらない、二次会へ勇んで行き焼酎を飲む。行きつけの居酒屋なので好きなものをどんどん食べる。カラオケなどにも行き、年甲斐もなく、夜中まで歌う。さらにラーメンを食べに必ず行く。人間関係や仕事がうまくいかないといったストレスもあったため飲むときは倒れそうになるまで飲む。2時3時は平気だった。
2007年10月03日
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「毎年の定期的な健康診断が気になりだしたのは42歳を超えた頃ですね。」と話すのは今年47歳になるごく普通のサラリーマンの芝桜弥さん。パソコンの部品の生産を親会社からまわしてもらい仕事をしている。地域の自治体の支援や要望もあって、東京から3時間かかって辿り着く長野県の川上村近くに工場が建てられたのが今から5年前。携帯電話の普及、パソコンの需要増加に伴い増産をつつけたが、業界への海外からの参入もあり。生産は縮小化されながら数年は続けたがあえなく工場の閉鎖に追い込まれることになる。弥さんもリストラをせまられるが「警備をかねて工場近くの社宅に住む条件で10年は就業を保障する」という文書に考えぬたあげく判を押す。甲府のきちんとした社宅に家族と住んで、1時間あまりの通勤で毎日を過ごしていたが。今度はあるいて10分で仕事場に着くと言う説明に・・・いいじゃない・・・と言う妻。「警備は俺一人、社宅と言ってももと倉庫の一角・・近くの小学校まで車で山を越えていけば20分だが。雪が深くなるとその道は閉鎖。孤立した工場なのでスーパーもないし、コンビニもない。それに」顔が青ざめかけた妻にさらに追い打ちをかけるように「実は従業員はオレ一人なんだ」富士見電子長野川上工場は事実上倒産した。工場はそのままの状態で放置され。ほとんどの従業員は台湾や韓国などの東南アジアの支社へ行くか。あえなくやめさせられた。
2007年10月02日
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